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秋山好古、たいすきになりました。最高の軍人であるからこそ、軍事教練を教育に混ぜたり、植民地の文化を侮る傾向を廃そうとした考えは素晴らしいです。昭和の亡国の軍人たちにその思いが伝わって欲しかったです。今の日本人にも
私の祖父が北高出身で秋山好古先生が校長先生だったそうです。祖父が生前「学生でワラワラおったら背後から光るような威圧感を感じて振り返ったら馬に乗った校長だった。あの人は背後から来ても皆振り返った。物凄い人じゃなぁとみんなでよぉ言うたわい」と。お会いしてみたかったです。
元帥への「推挙」を断るとは「誠の侍」と言わざるを得ませんね。凄すぎる。秋山大将は従二位に叙せられていますからある意味元帥格以上です。それが、一介の田舎中学の校長とは当時大騒ぎだったでしょうね。感動します。
江戸末期から明治初期の動乱の中を生きた若者は現代人より哲学がしっかり身に付いていたと思う。
秋山好古がフランス留学中に日本人だと思われなかった話が有るが、若い時の写真を見て納得。
NHKのドラマで坂の上の雲を放送して秋山好古役を阿部寛が演じて居たが、阿部寛が映画のテルマエ・ロマエで主人公で古代ローマ人役を演じて、イタリアで公開されてイタリア人から阿部寛がイタリア人と違和感が無いと言われたので、阿部寛が秋山好古役はベストだったと思う。
典型的な元祖日本人である縄文顔
年配になっても外人と見間違われたらしい。
陸軍大将という高官まで登り詰めても借家住まいで質素な生活を続け決して偉ぶる事もなかったそうです。本当に立派な人格者ですね。
陸の好古 海の真之の大活躍で日露戦争に勝てたと思います。
秋山好古は、弟の真之に負けない位日露戦争で活躍した軍人だと思います。お酒大好きな豪快な人だと聞いてました。海外赴任しているときは現地の人に人気がありみんなから、慕われいたそうです
ご紹介、ありがとうございます。秋山好古さんは、素晴らしい人だったと、あらためて確信しました。明治の人は偉かった。
秋山将軍は世界史を変えた天才。しかも人間味溢れる、魅力的な人。
坂の上の雲で阿部寛さんが演じていた方ですね、この後半生の話は知りませんでした、ありがとうございます。にしても、なんと素晴らしい話、幕末~明治の方々ってホント凄いですよね。志の高さが現代とは雲泥の差です。
秋山好古は、学校に行きたかったので、無料で行ける師範学校に行き、さらに無料で、かつ給料が出る士官学校に行った人です。これで、校長になった理由がわかります。日本の騎兵はコサック騎兵より弱いということを認識し、機関銃を取り入れたり、陣地にこもって戦った人です。たぶん、本人はコサック騎兵を破ったという認識でなく、負けなかったと思っていたでしょう。
本当は、コサック騎兵と馬上先頭をしてみたかったようですけど、それをやったら、日本の騎兵隊は全滅してしまうと思っていました。
秋山さんの家は「お徒」つまり江戸時代では騎上の士にはなれない身分だったことが、騎馬の兵である騎兵にあこがれ騎兵となった理由の一つだそうです。
軍人としても教育者としても本当に素晴らしい方です。弟の真之さんが有名ですが、真之さんに進学の道を与えたのは好古さんです。糖尿病は大好きなお酒が原因でしょうか。弟の真之さんを進学させたのは、好古さん。厳しいお兄さんでもあったようですが、互井に家庭を持って子供の事では真之さんにライバル心を燃やしたは良いけど、結局は真之さんに軍配が上がって拗ねたとか、お風呂が大嫌いで、軍服の下に真っ白なシャツを着るこだわりがあったけど垢で汚れて奥方が苦労したとか、色々とエピソードを知るととても魅力的な方なのだと思いました。
数年前、子孫の方が陸自の戦車隊指揮官になられた話を聞いた時は胸アツでした。
でも、その方は·······😅
坂の上の雲を読んだだけの知識ですが、不遇な状況下でも腐らずに常に活路を見出して前に進むところが好きです。食うための教員から転科学校への転科、藩主に義理立てて反主流のフランス留学、日露戦争での人員物資不足対策で降馬し機関銃で防御など…。いつか道後温泉の近くのお墓にお酒をお供えに行きたいとずっと思ってます。
優れた人格をもっているな
教育者時代の知らなかった沢山のエピソード知れてよかった
秋山好古が若い頃に大阪師範学校を卒業してから小学校教師をしていたが、その学校は現在の愛知教育大学付属小学校で、2000年初頭に漫画家の江川達也が日露戦争物語を書いて居るが江川達也は愛知教育大学の教育学部出身
NHKドラマで阿部寛さんが演じてた秋山好古が「自分の意見を持たぬ者が他人の意見を聞く必要はない」と言って弟の真之(演:本木雅弘さん)が熱心に読んでいた新聞を取り上げた場面があった。あの時代の新聞が「事実の報道」よりも「政府批判のための言論機関」だったということを考えさせられる。
師範学校から軍人になり、少年達の為に教育に情熱。この話は知ってましたが偉くならず驕らず人生を過ごしたのは他に乃木希典と井上成美しか知りません。
秋山将軍は本当は軍人より、若い時から、教育者になりたかったんだろうね。東洋の島国に生まれた、秋山将軍が、世界最強のコサック騎兵を満洲の地で撃破するとか、『事実は小説より奇なり』だよね。
今晩は、私は大河ドラマの坂の上の雲とても大好きでした。秋山好古は学校の校長先生になってからは、決して自分の経歴を子供達の前でも話す事をしなかった為、好古が騎兵隊の人間だと子供達は知らなかったそうです。そして好古も説明通り子供達が軍人の道を取るよりも日本の未来に役にたつ人になって欲しいと思っていたそうです
感動で、涙が止まらない。
実際に日露戦争に参加された方の話を聞いたことがありますが、日本は騎兵なのに対しロシアは槍騎兵、つまりリーチが長い。日本は敵いませんでした。馬の扱いもロシア兵の方が上手で部隊で誰も手懐けない暴れ馬を乗りこなしたそうです。ちなみに騎兵は馬具一才が自分もちのため裕福な家庭でないとなれず、他の兵科から妬まれ、太平洋戦争の際に騎兵の流れを汲む戦車部隊の育成を阻害したのは有名な話です。
子孫が陸上自衛隊にいて、戦車部隊の指揮官やっているみたいです。3佐(少佐)みたいです。同じ道を歩んでいますね。
幹部候補ですね。今後に期待。
酒ばっか飲んでないかな?
もぉ‥何から何まで‥‥。今も8ターン目の”坂の上”読みながら中央線で通勤しております。
手塩にかけて育てた騎兵を、敢えて馬から降ろし塹壕戦に使う。この柔軟な発想が勝利を導いた。騎兵の突進力を有刺鉄線で止め、塹壕から機関銃による射撃。機械化が進む戦場で、騎兵の限界を好古は見抜いていたのかも知れない。しかし欧米がこの事に気付くのは、第一次世界大戦での大量人命損耗を経験してから。残念ながらこの教訓は共有されなかった。
秋山将軍の用兵術は機関銃の弾力的活用ですね。もちろん馬からおりて、防御陣地からの機関銃防御もありますが、機関銃に車輪をつけて馬で引き、騎兵隊に随伴させるという今風の言葉でいうとアクティブディフェンス戦術を生み出しています。素早い機動で優位地点に先に入り防御陣を構築する。これを繰り返すことで優位に立てられるというものでした。
京成大久保駅から、日本大学生産工学部の方に行く途中に、薬師寺という寺がある。そこに秋山好古の記念碑がある。
情報ありがとうございます。家からも近いので訪ねてみます。
秋山好古、まさに古武士と言うにふさわしい人ですね。
日本騎兵の故郷は千葉県習志野。 千葉つながりで「坂の上の雲」を読みました。 「坂の上の雲」は人生のバイブルのような気がします。 たった8千人の軍勢で10万の大軍に対峙した。 「勝った」というより「負けなかった」でしょう。 ここを凌げたことが勝敗の分かれ目のように思います。
あそこで秋山騎兵団が突破されたら戦争は負けたでしょうね。
京成大久保駅前の商店街の中に好古の記念碑があるな。
好古さんが兵学校の先生をしていた時に、騎兵の弱点を例える時にガラスの窓に拳で殴り突き破って「これが騎兵の弱点だ」と……「坂の上の雲」は3回読んでやっと内容を熟読出来た学生の思い出です。
(海軍)兵学校ではなく陸軍士官学校では・・・?
@@常州の真珠星 兵学校が何なのかすら知らない人が多いよね。
ガラスノ窓を破ったのは騎兵の弱点を説いたものではなく、腕は血だらけになったがガラスの窓を破るという当初の目的は果たした、つまり騎兵の本質はスピードを重んじ、肉を斬らせて骨を断つ、という事を言いたかったんだと思う。後のヒットラーの行った電撃戦のような戦い方を論じたものだと思う。
もともと兵学校に入る前に、大阪の寝屋川で小学校の先生をしてた時期がありましたよ。
学問のすすめをバイブルとしていた人でしたから、家が裕福であれば更に立派な教育者になっていたでしょうね。
歴史の皮肉とでも言うのでしょうか、秋山真之没後日本海軍はおかしな方向へ舵を曲げ、秋山好古没後満州事変が勃発、大日本帝国は消滅への道をひた走りました。
軍人ではあったけど、根っこの部分は教育者だったんやろな
好古校長の下で学びたかった。兄弟揃って日本を救った偉人、ありがとうございました
陸軍大将が校長だったら先生たちもサボれんやろな
15年ぶりに坂の上の雲放送されてるので視聴回数爆上がりしそうですねこれ
秋山大将は元帥にはならなかったが陸軍三職の教育総監を経験したのちに軍事参事官を経て待命になってます。軍政でもなく軍令でもなく教育総監なのがこの人物らしく思えるのは私だけではないと思います。
好古が、太平洋戦争時代の陸軍将校ならまた違った歴史になったかな
この世代の人がいなくなって、軍の暴走が始まったんですね。日露戦争の主力だった方の太平洋戦争後の感想を聞きたい
終戦時に首相だった鈴木貫太郎さんは日露戦争時に駆逐隊司令を務めて「鬼貫太郎」の異名で呼ばれた人ですので鈴木貫太郎さんの自伝あたりに書かれていそうですね。
明治の軍人は江戸時代の教育を受けていたが、これ以後の軍人は明治以後に教育を受けた。これ以降の軍人に優れた人はほとんどいない。明治時代の教育は間違ってた証拠
コサック騎兵を破ったのは、馬上の戦闘を避け、歩兵の様に馬から降りて、射撃したり、機関銃を使用したりしたことでした。とても、馬上戦ではコサック騎兵に勝てないことは秋山自身が知っていました。また、陸大での講義の時、素手でガラス窓を破り、汚した拳を見せ、「騎兵とはこれだ!」と言ったのは有名。彼は陸軍大将だったので、その当時の県知事よりも階級が上でした。だから、中学校の校長という地位は、どんなに低い地位だったか知れるでしょう。
ルーデンドルフ閣下😊御自愛下さい
校長を辞めた1930年時点で「老人虐待」という概念があったのびっくりした
クロパトキン大将や乃木将軍(学習院校長)も教育者になったよネ。なんか不思議な縁を感じます。
乃木将軍も軍人から教育者。ただ、乃木将軍は現役ではあったが。乃木将軍も元帥に推挙されたけど固辞しました。
カッコよすぎやろ
戦前の軍人にしては、柔軟な考えお持ち、基本教練は、最低限に止め、個性を否定しない現代的な軍人だと思う。
好古大将は、陸軍3長官の1つである教育総監を経験されていますね。
この方、若い時分は、秋山家特有の鼻が通った大変な美形でした。チフスに罹患して意地をはって医者に行かなかったので、顔が変わりました。嫁さんも泣いたろうな。
秋山好古、秋山真之兄弟が存在しなかったら日露戦争は勝利出来なかったと改めて思う。己の実力と敵の実力を客観的に分析したうえで、乾坤一擲の戦いに臨む秋山兄弟の姿勢を、何故、昭和の陸海軍は学ばなかったんだろう。
乃木さんも、教育者になりましたね。明治天皇の依頼で学習院の院長になりましたね。また、昭和天皇もみっちり鍛えられたとか。
乃木大将は日露戦争でご子息を2人とも亡くされたので、明治天皇がたくさんの子どもを与えるということで学習院院長に推挙されたんですよね。明治天皇も豪傑山岡鉄舟が侍従としてついてかなり鍛えられたそうですが、昭和天皇も乃木大将から良い影響を受けられたと思いますよ。
昭和天皇は「院長閣下」と呼んで大変に慕っていたそうです。
@@j88pm 近代以降の天皇・明治大正昭和上皇陛下今上陛下、総じて人格者だけど、明治天皇は西郷隆盛だとか山岡鉄舟みたいな人格者に影響を受けて、昭和天皇は父君大正天皇の御人柄だったり人格者乃木大将の教育に影響を受けている。
松山西高校では誰よりも早く行き校門で全生徒全教諭を毎日出迎えたという。元帥となり真之も海軍の中枢となれば、陸軍と海軍の融和も図れていたのではとも思ったりもしますね。育てた部下を信頼して戦場では武器を持たず刃のない指揮刀だけで指揮をしたという。
秋山真三郎好古は一言で言うならば酒豪で豪放磊落!!日露戦争中は風呂に入らないから物凄く臭かったらしい。第三軍・乃木希典大将の所に作戦会議行く事になった時、乃木軍司令官が部下に秋山が来るから風呂の用意をさせた話しは有名・・・福澤諭吉を尊敬していた為、御子息を慶應大学に進学をさせた話しも有名・・・秋山好古は軍人よりも教育者との考えが強かったと私は思う。
子供を軍事教育しないという点を買われて司馬に好かれたのかな。
日露戦争で日本の勝利に向けて多大な功績をあげるも、ご本人は前線での終わりのないような戦闘の連続の中で、人を失う戦争よりも人を創るような仕事をしたかったのでしょうね。教育現場に職を与えられたことは、秋山支隊という日本軍の先鋒部隊での指揮よりも天職だと受け止めたのではないでしょうか。
明治期の軍人が昭和初期にもしっかり生き残ってたら…無理なのは承知してるが、こういう人物こそ傑物だと思います。
軍人から教職者へ・・・って、陸士に入る前って教員だったか代用教員じゃなかったっけ?
3:38
現松山北高校の校長になられて、体育館を作るのに奔走されたとかラジオ番組で言われていましたね。インターハイのバトミントンの県の試合がありましたね。
日本人の鏡。平和教育の父。
秋山兄弟は朝敵逆賊伊予松山藩出身なので薩摩長州派閥明治軍では出世が厳しく制限されていました。
秋山と士官学校同期の内山小次郎(後・大将・砲兵科)は戦後に男爵になっていますが秋山にはその沙汰はありませんでした。戦功は同等ですが、秋山か松山藩のような朝敵出身であったのに対し内山は鳥取藩という官軍の出だったことも影響していると思います。ただ、秋山と内山は仲が良かったらしく、日露開戦時は第二軍の騎兵団長と砲兵団長の関係でよく協力していたようです。秋山が奥保鞏第二軍司令官に「諸兵科連合の支隊を組織したい」と申し出た時、内山は賛成して「俺の部下の砲兵一隊をお前にくれてやるから好きなように使え」と心良く言ってくれたという話もあります。内山という人も古武士の風格がある清廉の士であったらしく、秋山とも気があったのでしょう。
秋山先生の授業ってどんなんだろ? 受けてみたいなぁ😊
華々しかった騎兵の時代を終わらせ騎兵を看取った人物ともいえる。
0:15それを言うなら、教職者から軍人へ…がそもそもだと思う。
コサック騎兵部隊に、フィンランドの英雄マンネルヘイムがいた。このニアミスがなんとも言えない気持ちになる。
秋山が教育総監の頃、帝国議会の野党議員から「秋山が終身現役の元帥になって陸軍大臣や参謀総長になればよい」と言われていたらしい。理由は「秋山はバカだから」これは文字通りのバカという意味ではなく、政治的な野心がないという意味らしい。当時、秋山と士官学校同期の上原勇作(工兵科)が大臣・総長であまりにも政治的に権謀術数を弄するために野党は手を焼いていたらしく、秋山ならそういうことはあるまいと考えていたらしい。
当時、天皇の叙任を断るって今の国民栄誉賞を断る以上じゃない?!
国民栄誉賞とは比べ物にならないですね、爵位をもらってもおかしくないレベルです。
@@user-ponkotsukakumei 日清日露戦争の英雄でのちに大将になるくらいの人物なのに爵位貰ってない軍人も珍しいよね。やっぱり断っていたのだろう。
@@subuya428 陸軍三長官まで上り詰めても普通に借家住まいを続けたり退役して北予中学の校長になった時も貧しかった頃の生家で暮らしてたり贅沢や栄華にはとことん興味がなかったそうですね。
秋山好古が名将であった事は疑う余地はないですけど、黒溝台を好古が守りきったと言いのはどうかと思います。第八師団の立見尚文中将の活躍の方が思います。
立見尚文将軍も好古がどう戦ったの不思議に思ったそうです。 立見よりはるか最前線で長期間、何倍ものロシア軍、小規模のアキヤマ旅団の兵力ので戦い勝ち抜いたのですから。好古は宣伝はきらいで立見は有名になりましたが、好古は最近評価されました。立見は初戦に意図的に退却しロシア軍に陣地をあけ渡し、結局それを取り返さねばならぬというヘマをしています。 好古は激戦中に陣地放棄の話を聞いてどう思ったのでしょうか。 立見は、好古と同じ賊軍上がりの将軍だから華々しい戦果がほしい、失敗はできない。。好古は、後に明治の大演習のとき、乃木将軍の参謀役を立派に努めています。 お互いに古い武士として自覚していたのでしょう。(校長は彼の願望した職だと思います。 上原元帥の話では、好古は元帥のはなしは断ったそうです。本人がイランという以上仕方ない。上原元帥は好古は最後の武士であり、彼のような種は今後、にほんにはでない。)
そもそも黒溝台会戦は満州軍総司令部の油断が原因。秋山支隊から「ロシア軍に不審な動きあり」と再三の報告がありながら「厳冬期にロシア軍は動かない」との先入観から後手を踏んでしまった。秋山支隊の悪戦苦闘をみて、絶対やっては行けない「兵力の逐次投入」と言う悪手わやってしまい、その際ババを踏んだのが立見中将の第8師団。立見中将は元・桑名藩士で稀代の戦上手で知られ、戊辰戦争の際は山縣有朋の首を取る寸前まで追い詰めて「東洋一の用兵家」と言われた名将。残った師団をかき集め、臨時立見軍を編成して兵力を集中使用して何とかロシア軍を押し返した。秋山支隊が苦闘の末、時間をかせぎ、立見軍が臨機応変に対応したのが勝因でどちらがどうこうの話ではないと思う。
うぽつです。秋山好古は、軍人になる前は小学校の教員をしていたので原点回帰したともいえますね。
好古が、赴任する前の学校って教員の遅刻・欠勤って荒れてたの?
ロシア帝国軍最精鋭は近衛騎兵でありコサック民兵ではなかったのだが機関銃の時代に主力決戦に騎兵の出番はなく後方撹乱で活躍したコサック民兵のほうが名を残した
軍人の鑑ですね。同郷の白川義則も上海での爆弾事件で大けがを負わなければ。
坂の上の雲を読むと判りますが、勉強が好きだったが、貧乏で上の学校に行くお金がなかった。ただで行ける学校ということで、師範学校に行った。さらに、勉強したくて、ただで行ける学校の士官学校に行った。裕福な家庭に生まれていれば、旧制中学校、旧制高等学校、国立大学へ行ったのではないか。真之は、兄にお金を出してもらい、旧制中学校、旧制一高に行ったが、経済が苦しく、海軍兵学校に行った。昔の貧乏人の優秀な人は、師範学校、士官学校、陸軍大学だあったのでは、韓国の朴正熙大統領は、師範学校、満洲国陸軍軍官学校卒です。
松山出身だから、国力とは教育だと、解ってたのかな? 長州生まれだと、また違う人生を歩んでいたかも?
日本がまともだったのは日露戦争までだな。その後狂ってしまった。
秋山好古は、進撃の巨人の「ピクシス司令」のモデルとなったことは知る人ぞ知る事実
秋山兄弟の最大の功績は いずれも子を軍人にしなかったこと偉大過ぎて ならなかったのかもしれないが それは子にも見識があったということです
進撃の巨人のピクシス司令は秋山好古をモデルにしたと聞いた事がある。
好古さんの晩年を知る事が出来感謝します。一つ残念な個所が有ります、日本は、韓国へ36年間に、鉄道を3千㎞、学校を5千校、発電所、病院等インフラを整備しました。大赤字です、これを植民地と言うのですか?。
ピクシスに似てない?
実際に作者がモデルにしたようですよ。韓国が戦犯をモデルに使っていると抗議したとか…
@@rekishock やっぱそうなんや!教えてくれてありがとう☺️
お酒好き、という設定まで一緒でしたな。
あ~ぁ、植民地という間違った言葉が無ければ評価もできただろうに・・・、
わたくし奴の母の実家の寺に秋山好古将軍の大きな碑がある。一色義十郎顕彰碑。今は石手川沿いの不便で、寂れた寺でありまする。😂
前線に出たら帰還するまで軍服を代えない‼️(悪臭で虱だらけ)携行水筒には酒で、予備水筒も酒だった❗
ノボさんこと正岡子規は、あんなに早死にしてしまったのは、もしかして、紀貫之の祟りかしらん?😢💦古今集の貫之をボロクソに叩いていたから・・・😅
何気に満州事変後の日本について誤ったニュアンスを擦込むのはいかんよ。
実学を重視し、生徒の個性を見出して行く → 日本の教育のスタンダードになっている。???我が国の義務教育課程では画一的な教育方針が顕著で、個性の尊重とかは二次的なものに成り下がっているんぢゃね?
教師として赴任した土地は愛知県ではなく、大阪府寝屋川市である。以下余談
戦国の昔から日本の騎馬隊は、強かったんだけと…司馬は大袈裟に書きすぎ!🤔
これは間違い戦国時代の騎馬隊は純粋な騎兵ではなく、1騎の騎馬武者も周りに数人の徒士が従い、それらが集団となって戦闘をおこなったもので騎馬兵のみの集団戦ではなく比較対象にならない。そもそも戦国時代〜明治時代の日本在来馬は肩高が140cm程度のポニーに近い小型馬ばかりで、欧米の肩高160〜170cmあるアラブ種などとは馬格が違う。日露戦争時は馬種改良途上で、世界最強のコサック騎兵を相手にするなんて画が得られん時代。
考えられん時代😅
@@橘高志朗 頑張れ✋💦
それだけではなく、古来日本では馬に蹄鉄を装着する習慣はなかったが、明治以降になって近代騎兵を設立する頃にようやく蹄鉄職人の養成を始めたが、日露戦争時は職人の数も少なく、騎兵運用に支障が多かった。洋式の鞍の作製や修理も同様。
明治時代の日本軍が強かったのは、何も不思議ではない。当時の日本人には武士道精神の血がまだ色濃く残っていたと思われる。世界一勇猛果敢な血が流れているのだから日本軍が強いのは当たり前の事。武士道こそ日本が世界に誇れる精神哲学、と私は信ずる。
坂の上の雲の モデルになる方は、違いますね。
秋山好古、たいすきになりました。
最高の軍人であるからこそ、軍事教練を教育に混ぜたり、植民地の文化を侮る傾向を廃そうとした考えは素晴らしいです。
昭和の亡国の軍人たちにその思いが伝わって欲しかったです。
今の日本人にも
私の祖父が北高出身で秋山好古先生が校長先生だったそうです。
祖父が生前「学生でワラワラおったら背後から光るような威圧感を感じて振り返ったら馬に乗った校長だった。あの人は背後から来ても皆振り返った。物凄い人じゃなぁとみんなでよぉ言うたわい」と。
お会いしてみたかったです。
元帥への「推挙」を断るとは「誠の侍」と言わざるを得ませんね。凄すぎる。
秋山大将は従二位に叙せられていますからある意味元帥格以上です。
それが、一介の田舎中学の校長とは当時大騒ぎだったでしょうね。感動します。
江戸末期から明治初期の動乱の中を生きた若者は現代人より哲学がしっかり身に付いていたと思う。
秋山好古がフランス留学中に日本人だと思われなかった話が有るが、若い時の写真を見て納得。
NHKのドラマで坂の上の雲を放送して秋山好古役を阿部寛が演じて居たが、阿部寛が映画のテルマエ・ロマエで主人公で古代ローマ人役を演じて、イタリアで公開されてイタリア人から阿部寛がイタリア人と違和感が無いと言われたので、阿部寛が秋山好古役はベストだったと思う。
典型的な元祖日本人である縄文顔
年配になっても外人と見間違われたらしい。
陸軍大将という高官まで登り詰めても
借家住まいで質素な生活を続け
決して偉ぶる事もなかったそうです。
本当に立派な人格者ですね。
陸の好古 海の真之の大活躍で日露戦争に勝てたと思います。
秋山好古は、弟の真之に負けない位日露戦争で活躍した軍人だと思います。お酒大好きな豪快な人だと聞いてました。海外赴任しているときは
現地の人に人気がありみんなから、
慕われいたそうです
ご紹介、ありがとうございます。
秋山好古さんは、素晴らしい人だったと、あらためて確信しました。
明治の人は偉かった。
秋山将軍は世界史を変えた天才。
しかも人間味溢れる、魅力的な人。
坂の上の雲で阿部寛さんが演じていた方ですね、この後半生の話は知りませんでした、ありがとうございます。にしても、なんと素晴らしい話、幕末~明治の方々ってホント凄いですよね。志の高さが現代とは雲泥の差です。
秋山好古は、学校に行きたかったので、無料で行ける師範学校に行き、さらに無料で、かつ給料が出る士官学校に行った人です。
これで、校長になった理由がわかります。
日本の騎兵はコサック騎兵より弱いということを認識し、機関銃を取り入れたり、陣地にこもって戦った人です。
たぶん、本人はコサック騎兵を破ったという認識でなく、負けなかったと思っていたでしょう。
本当は、コサック騎兵と馬上先頭をしてみたかったようですけど、それをやったら、日本の騎兵隊は全滅してしまうと思っていました。
秋山さんの家は「お徒」つまり江戸時代では騎上の士にはなれない身分だったことが、騎馬の兵である騎兵にあこがれ騎兵となった理由の一つだそうです。
軍人としても教育者としても本当に素晴らしい方です。弟の真之さんが有名ですが、真之さんに進学の道を与えたのは好古さんです。
糖尿病は大好きなお酒が原因でしょうか。
弟の真之さんを進学させたのは、好古さん。厳しいお兄さんでもあったようですが、互井に家庭を持って子供の事では真之さんにライバル心を燃やしたは良いけど、結局は真之さんに軍配が上がって拗ねたとか、お風呂が大嫌いで、軍服の下に真っ白なシャツを着るこだわりがあったけど垢で汚れて奥方が苦労したとか、色々とエピソードを知るととても魅力的な方なのだと思いました。
数年前、子孫の方が陸自の戦車隊指揮官になられた話を聞いた時は胸アツでした。
でも、その方は·······😅
坂の上の雲を読んだだけの知識ですが、不遇な状況下でも腐らずに常に活路を見出して前に進むところが好きです。
食うための教員から転科学校への転科、藩主に義理立てて反主流のフランス留学、日露戦争での人員物資不足対策で降馬し機関銃で防御など…。
いつか道後温泉の近くのお墓にお酒をお供えに行きたいとずっと思ってます。
優れた人格をもっているな
教育者時代の知らなかった沢山のエピソード知れてよかった
秋山好古が若い頃に大阪師範学校を卒業してから小学校教師をしていたが、その学校は現在の愛知教育大学付属小学校で、2000年初頭に漫画家の江川達也が日露戦争物語を書いて居るが江川達也は愛知教育大学の教育学部出身
NHKドラマで阿部寛さんが演じてた秋山好古が「自分の意見を持たぬ者が他人の意見を聞く必要はない」と言って弟の真之(演:本木雅弘さん)が熱心に読んでいた新聞を取り上げた場面があった。あの時代の新聞が「事実の報道」よりも「政府批判のための言論機関」だったということを考えさせられる。
師範学校から軍人になり、少年達の為に教育に情熱。この話は知ってましたが偉くならず驕らず人生を過ごしたのは他に乃木希典と井上成美しか知りません。
秋山将軍は本当は軍人より、若い時から、教育者になりたかったんだろうね。
東洋の島国に生まれた、秋山将軍が、世界最強のコサック騎兵を満洲の地で撃破するとか、『事実は小説より奇なり』だよね。
今晩は、私は大河ドラマの坂の上の雲とても大好きでした。秋山好古は学校の校長先生になってからは、決して自分の経歴を子供達の前でも話す事をしなかった為、好古が騎兵隊の人間だと子供達は知らなかったそうです。そして好古も説明通り子供達が軍人の道を取るよりも日本の未来に役にたつ人になって欲しいと思っていたそうです
感動で、涙が止まらない。
実際に日露戦争に参加された方の話を聞いたことがありますが、日本は騎兵なのに対しロシアは槍騎兵、つまりリーチが長い。日本は敵いませんでした。馬の扱いもロシア兵の方が上手で部隊で誰も手懐けない暴れ馬を乗りこなしたそうです。ちなみに騎兵は馬具一才が自分もちのため裕福な家庭でないとなれず、他の兵科から妬まれ、太平洋戦争の際に騎兵の流れを汲む戦車部隊の育成を阻害したのは有名な話です。
子孫が陸上自衛隊にいて、戦車部隊の指揮官やっているみたいです。3佐(少佐)みたいです。同じ道を歩んでいますね。
幹部候補ですね。今後に期待。
酒ばっか飲んでないかな?
もぉ‥何から何まで‥‥。今も8ターン目の”坂の上”読みながら中央線で通勤しております。
手塩にかけて育てた騎兵を、敢えて馬から降ろし塹壕戦に使う。この柔軟な発想が勝利を導いた。騎兵の突進力を有刺鉄線で止め、塹壕から機関銃による射撃。機械化が進む戦場で、騎兵の限界を好古は見抜いていたのかも知れない。しかし欧米がこの事に気付くのは、第一次世界大戦での大量人命損耗を経験してから。残念ながらこの教訓は共有されなかった。
秋山将軍の用兵術は機関銃の弾力的活用ですね。もちろん馬からおりて、防御陣地からの機関銃防御もありますが、機関銃に車輪をつけて馬で引き、騎兵隊に随伴させるという
今風の言葉でいうとアクティブディフェンス戦術を生み出しています。素早い機動で優位地点に先に入り防御陣を構築する。これを繰り返すことで優位に立てられるというものでした。
京成大久保駅から、日本大学生産工学部の方に行く途中に、薬師寺という寺がある。そこに秋山好古の記念碑がある。
情報ありがとうございます。家からも近いので訪ねてみます。
秋山好古、まさに古武士と言うにふさわしい人ですね。
日本騎兵の故郷は千葉県習志野。 千葉つながりで「坂の上の雲」を読みました。 「坂の上の雲」は人生のバイブルのような気がします。
たった8千人の軍勢で10万の大軍に対峙した。 「勝った」というより「負けなかった」でしょう。 ここを凌げたことが勝敗の分かれ目のように思います。
あそこで秋山騎兵団が突破されたら戦争は負けたでしょうね。
京成大久保駅前の商店街の中に好古の記念碑があるな。
好古さんが兵学校の先生をしていた時に、騎兵の弱点を例える時にガラスの窓に拳で殴り突き破って「これが騎兵の弱点だ」と……
「坂の上の雲」は3回読んでやっと内容を熟読出来た学生の思い出です。
(海軍)兵学校ではなく陸軍士官学校では・・・?
@@常州の真珠星 兵学校が何なのかすら知らない人が多いよね。
ガラスノ窓を破ったのは騎兵の弱点を説いたものではなく、腕は血だらけになったがガラスの窓を破るという当初の目的は果たした、
つまり騎兵の本質はスピードを重んじ、肉を斬らせて骨を断つ、という事を言いたかったんだと思う。
後のヒットラーの行った電撃戦のような戦い方を論じたものだと思う。
もともと兵学校に入る前に、大阪の寝屋川で小学校の先生をしてた時期がありましたよ。
学問のすすめをバイブルとしていた人でしたから、家が裕福であれば更に立派な教育者になっていたでしょうね。
歴史の皮肉とでも言うのでしょうか、秋山真之没後日本海軍はおかしな方向へ舵を曲げ、秋山好古没後満州事変が勃発、大日本帝国は消滅への道をひた走りました。
軍人ではあったけど、根っこの部分は教育者だったんやろな
好古校長の下で学びたかった。兄弟揃って日本を救った偉人、ありがとうございました
陸軍大将が校長だったら先生たちもサボれんやろな
15年ぶりに坂の上の雲放送されてるので視聴回数爆上がりしそうですねこれ
秋山大将は元帥にはならなかったが陸軍三職の教育総監を経験したのちに軍事参事官を経て待命になってます。軍政でもなく軍令でもなく教育総監なのがこの人物らしく思えるのは私だけではないと思います。
好古が、太平洋戦争時代の陸軍将校ならまた違った歴史になったかな
この世代の人がいなくなって、軍の暴走が始まったんですね。日露戦争の主力だった方の太平洋戦争後の感想を聞きたい
終戦時に首相だった鈴木貫太郎さんは
日露戦争時に駆逐隊司令を務めて
「鬼貫太郎」の異名で呼ばれた人ですので
鈴木貫太郎さんの自伝あたりに書かれていそうですね。
明治の軍人は江戸時代の教育を受けていたが、これ以後の軍人は明治以後に教育を受けた。
これ以降の軍人に優れた人はほとんどいない。
明治時代の教育は間違ってた証拠
コサック騎兵を破ったのは、馬上の戦闘を避け、歩兵の様に馬から降りて、射撃したり、機関銃を使用したりしたことでした。とても、馬上戦ではコサック騎兵に勝てないことは秋山自身が知っていました。また、陸大での講義の時、素手でガラス窓を破り、汚した拳を見せ、「騎兵とはこれだ!」と言ったのは有名。彼は陸軍大将だったので、その当時の県知事よりも階級が上でした。だから、中学校の校長という地位は、どんなに低い地位だったか知れるでしょう。
ルーデンドルフ閣下😊御自愛下さい
校長を辞めた1930年時点で「老人虐待」という概念があったのびっくりした
クロパトキン大将や乃木将軍(学習院校長)も教育者になったよネ。なんか不思議な縁を感じます。
乃木将軍も軍人から教育者。ただ、乃木将軍は現役ではあったが。乃木将軍も元帥に推挙されたけど固辞しました。
カッコよすぎやろ
戦前の軍人にしては、柔軟な考えお持ち、基本教練は、最低限に止め、個性を否定しない現代的な軍人だと思う。
好古大将は、陸軍3長官の1つである教育総監を経験されていますね。
この方、若い時分は、秋山家特有の鼻が通った大変な美形でした。チフスに罹患して意地をはって医者に行かなかったので、顔が変わりました。嫁さんも泣いたろうな。
秋山好古、秋山真之兄弟が存在しなかったら日露戦争は勝利出来なかったと改めて思う。己の実力と敵の実力を客観的に分析したうえで、乾坤一擲の戦いに臨む秋山兄弟の姿勢を、何故、昭和の陸海軍は学ばなかったんだろう。
乃木さんも、教育者になりましたね。明治天皇の依頼で学習院の院長になりましたね。また、昭和天皇もみっちり鍛えられたとか。
乃木大将は日露戦争でご子息を2人とも亡くされたので、明治天皇がたくさんの子どもを与えるということで学習院院長に推挙されたんですよね。
明治天皇も豪傑山岡鉄舟が侍従としてついてかなり鍛えられたそうですが、昭和天皇も乃木大将から良い影響を受けられたと思いますよ。
昭和天皇は「院長閣下」と呼んで
大変に慕っていたそうです。
@@j88pm 近代以降の天皇・明治大正昭和上皇陛下今上陛下、総じて人格者だけど、明治天皇は西郷隆盛だとか山岡鉄舟みたいな人格者に影響を受けて、昭和天皇は父君大正天皇の御人柄だったり人格者乃木大将の教育に影響を受けている。
松山西高校では誰よりも早く行き校門で全生徒全教諭を毎日出迎えたという。元帥となり真之も海軍の中枢となれば、陸軍と海軍の融和も図れていたのではとも思ったりもしますね。育てた部下を信頼して戦場では武器を持たず刃のない指揮刀だけで指揮をしたという。
秋山真三郎好古は一言で言うならば酒豪で豪放磊落!!
日露戦争中は風呂に入らないから物凄く臭かったらしい。
第三軍・乃木希典大将の所に作戦会議行く事になった時、乃木軍司令官が部下に秋山が来るから風呂の用意をさせた話しは有名・・・
福澤諭吉を尊敬していた為、御子息を慶應大学に進学をさせた話しも有名・・・
秋山好古は軍人よりも教育者との考えが強かったと私は思う。
子供を軍事教育しないという点を買われて司馬に好かれたのかな。
日露戦争で日本の勝利に向けて多大な功績をあげるも、ご本人は前線での終わりのないような戦闘の連続の中で、人を失う戦争よりも人を創るような仕事をしたかったのでしょうね。
教育現場に職を与えられたことは、秋山支隊という日本軍の先鋒部隊での指揮よりも天職だと受け止めたのではないでしょうか。
明治期の軍人が昭和初期にもしっかり生き残ってたら…無理なのは承知してるが、こういう人物こそ傑物だと思います。
軍人から教職者へ・・・って、陸士に入る前って教員だったか代用教員じゃなかったっけ?
3:38
現松山北高校の校長になられて、体育館を作るのに奔走されたとかラジオ番組で言われていましたね。インターハイのバトミントンの県の試合がありましたね。
日本人の鏡。平和教育の父。
秋山兄弟は朝敵逆賊伊予松山藩出身なので薩摩長州派閥明治軍では出世が厳しく制限されていました。
秋山と士官学校同期の内山小次郎(後・大将・砲兵科)は戦後に男爵になっていますが秋山にはその沙汰はありませんでした。
戦功は同等ですが、秋山か松山藩のような朝敵出身であったのに対し内山は鳥取藩という官軍の出だったことも影響していると思います。
ただ、秋山と内山は仲が良かったらしく、日露開戦時は第二軍の騎兵団長と砲兵団長の関係でよく協力していたようです。
秋山が奥保鞏第二軍司令官に「諸兵科連合の支隊を組織したい」と申し出た時、内山は賛成して「俺の部下の砲兵一隊をお前にくれてやるから好きなように使え」と心良く言ってくれたという話もあります。
内山という人も古武士の風格がある清廉の士であったらしく、秋山とも気があったのでしょう。
秋山先生の授業ってどんなんだろ? 受けてみたいなぁ😊
華々しかった騎兵の時代を終わらせ騎兵を看取った人物ともいえる。
0:15
それを言うなら、
教職者から軍人へ…
がそもそもだと思う。
コサック騎兵部隊に、フィンランドの英雄マンネルヘイムがいた。このニアミスがなんとも言えない気持ちになる。
秋山が教育総監の頃、帝国議会の野党議員から「秋山が終身現役の元帥になって陸軍大臣や参謀総長になればよい」と言われていたらしい。
理由は「秋山はバカだから」
これは文字通りのバカという意味ではなく、政治的な野心がないという意味らしい。
当時、秋山と士官学校同期の上原勇作(工兵科)が大臣・総長であまりにも政治的に権謀術数を弄するために野党は手を焼いていたらしく、秋山ならそういうことはあるまいと考えていたらしい。
当時、天皇の叙任を断るって
今の国民栄誉賞を断る以上じゃない?!
国民栄誉賞とは比べ物にならないですね、爵位をもらってもおかしくない
レベルです。
@@user-ponkotsukakumei 日清日露戦争の英雄でのちに大将になるくらいの人物なのに爵位貰ってない軍人も珍しいよね。やっぱり断っていたのだろう。
@@subuya428
陸軍三長官まで上り詰めても普通に借家住まいを続けたり
退役して北予中学の校長になった時も
貧しかった頃の生家で暮らしてたり
贅沢や栄華にはとことん興味がなかったそうですね。
秋山好古が名将であった事は疑う余地はないですけど、黒溝台を好古が守りきったと言いのはどうかと思います。第八師団の立見尚文中将の活躍の方が思います。
立見尚文将軍も好古がどう戦ったの不思議に思ったそうです。 立見よりはるか最前線で長期間、何倍ものロシア軍、小規模のアキヤマ旅団の兵力ので戦い勝ち抜いたのですから。
好古は宣伝はきらいで立見は有名になりましたが、好古は最近評価されました。立見は初戦に意図的に退却しロシア軍に陣地をあけ渡し、結局それを取り返さねばならぬというヘマをしています。
好古は激戦中に陣地放棄の話を聞いてどう思ったのでしょうか。 立見は、好古と同じ賊軍上がりの将軍だから華々しい戦果がほしい、失敗はできない。。
好古は、後に明治の大演習のとき、乃木将軍の参謀役を立派に努めています。 お互いに古い武士として自覚していたのでしょう。
(校長は彼の願望した職だと思います。 上原元帥の話では、好古は元帥のはなしは断ったそうです。本人がイランという以上仕方ない。上原元帥は好古は最後の武士であり、彼のような種は今後、にほんにはでない。)
そもそも黒溝台会戦は満州軍総司令部の油断が原因。秋山支隊から「ロシア軍に不審な動きあり」と再三の報告がありながら「厳冬期にロシア軍は動かない」との先入観から後手を踏んでしまった。
秋山支隊の悪戦苦闘をみて、絶対やっては行けない「兵力の逐次投入」と言う悪手わやってしまい、その際ババを踏んだのが立見中将の第8師団。
立見中将は元・桑名藩士で稀代の戦上手で知られ、戊辰戦争の際は山縣有朋の首を取る寸前まで追い詰めて「東洋一の用兵家」と言われた名将。
残った師団をかき集め、臨時立見軍を編成して兵力を集中使用して何とかロシア軍を押し返した。
秋山支隊が苦闘の末、時間をかせぎ、立見軍が臨機応変に対応したのが勝因でどちらがどうこうの話ではないと思う。
うぽつです。秋山好古は、軍人になる前は小学校の教員をしていたので原点回帰したともいえますね。
好古が、赴任する前の学校って教員の遅刻・欠勤って荒れてたの?
ロシア帝国軍最精鋭は近衛騎兵でありコサック民兵ではなかったのだが機関銃の時代に主力決戦に騎兵の出番はなく後方撹乱で活躍したコサック民兵のほうが名を残した
軍人の鑑ですね。同郷の白川義則も上海での爆弾事件で大けがを負わなければ。
坂の上の雲を読むと判りますが、勉強が好きだったが、貧乏で上の学校に行くお金がなかった。ただで行ける学校ということで、師範学校に行った。
さらに、勉強したくて、ただで行ける学校の士官学校に行った。
裕福な家庭に生まれていれば、旧制中学校、旧制高等学校、国立大学へ行ったのではないか。
真之は、兄にお金を出してもらい、旧制中学校、旧制一高に行ったが、経済が苦しく、海軍兵学校に行った。
昔の貧乏人の優秀な人は、師範学校、士官学校、陸軍大学だあったのでは、韓国の朴正熙大統領は、師範学校、満洲国陸軍軍官学校卒です。
松山出身だから、国力とは教育だと、解ってたのかな?
長州生まれだと、また違う人生を歩んでいたかも?
日本がまともだったのは日露戦争までだな。
その後狂ってしまった。
秋山好古は、進撃の巨人の「ピクシス司令」のモデルとなったことは知る人ぞ知る事実
秋山兄弟の最大の功績は いずれも子を軍人にしなかったこと
偉大過ぎて ならなかったのかもしれないが それは子にも見識があったということです
進撃の巨人のピクシス司令は秋山好古をモデルにしたと聞いた事がある。
好古さんの晩年を知る事が出来感謝します。
一つ残念な個所が有ります、
日本は、韓国へ36年間に、鉄道を3千㎞、学校を5千校、発電所、
病院等インフラを整備しました。
大赤字です、これを植民地と言うのですか?。
ピクシスに似てない?
実際に作者がモデルにしたようですよ。
韓国が戦犯をモデルに使っていると抗議したとか…
@@rekishock やっぱそうなんや!教えてくれてありがとう☺️
お酒好き、という設定まで一緒でしたな。
あ~ぁ、植民地という間違った言葉が無ければ評価もできただろうに・・・、
わたくし奴の母の実家の寺に秋山好古将軍の大きな碑がある。一色義十郎顕彰碑。今は石手川沿いの不便で、寂れた寺でありまする。😂
前線に出たら帰還するまで軍服を代えない‼️
(悪臭で虱だらけ)
携行水筒には酒で、予備水筒も酒だった❗
ノボさんこと正岡子規は、あんなに早死にしてしまったのは、
もしかして、紀貫之の祟りかしらん?😢💦
古今集の貫之をボロクソに叩いていたから・・・😅
何気に満州事変後の日本について誤ったニュアンスを擦込むのはいかんよ。
実学を重視し、生徒の個性を見出して行く → 日本の教育のスタンダードになっている。
???
我が国の義務教育課程では画一的な教育方針が顕著で、個性の尊重とかは二次的なものに成り下がっているんぢゃね?
教師として赴任した土地は愛知県ではなく、大阪府寝屋川市である。以下余談
戦国の昔から日本の騎馬隊は、強かったんだけと…司馬は大袈裟に書きすぎ!🤔
これは間違い
戦国時代の騎馬隊は純粋な騎兵ではなく、1騎の騎馬武者も周りに数人の徒士が従い、それらが集団となって戦闘をおこなったもので騎馬兵のみの集団戦ではなく比較対象にならない。
そもそも戦国時代〜明治時代の日本在来馬は肩高が140cm程度のポニーに近い小型馬ばかりで、欧米の肩高160〜170cmあるアラブ種などとは馬格が違う。
日露戦争時は馬種改良途上で、世界最強のコサック騎兵を相手にするなんて画が得られん時代。
考えられん時代😅
@@橘高志朗 頑張れ✋💦
それだけではなく、古来日本では馬に蹄鉄を装着する習慣はなかったが、明治以降になって近代騎兵を設立する頃にようやく蹄鉄職人の養成を始めたが、日露戦争時は職人の数も少なく、騎兵運用に支障が多かった。
洋式の鞍の作製や修理も同様。
明治時代の日本軍が強かったのは、何も不思議ではない。当時の日本人には武士道精神の血がまだ色濃く残っていたと思われる。世界一勇猛果敢な血が流れているのだから日本軍が強いのは当たり前の事。武士道こそ日本が世界に誇れる精神哲学、と私は信ずる。
坂の上の雲の モデルになる方は、違いますね。