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<動画内容の訂正>天文21年を1556年と表記してますが1552年の誤りです。単純なミスであり、萱津の戦いが1556年という説は一切ありません。動画を見てくれてありがとうございます♪よかったら動画作りの参考のために、コミュニティでやっているアンケートにご協力をお願いします。今回の動画に名前を出しているマイナーっぽい感じの戦国武将達の知名度調査になります。
あまり知ることのなかった、割とマイナーな武将の活躍が見れて、ワクワクしながら動画を見てます。すごく分かりやすい動画で、当時の時代背景が理解しやすいです。
マイナー武将はどれくらい説明入れれば良いのかマジで悩みます。コミュニティでマイナー武将の知名度調査的なアンケートやってますので良かったら協力お願いします。
続けてくれて嬉しく思います
支援してくれるメンバーや応援コメントをくれる皆さま、いつも見てくれてグッドボタンを押してくれる視聴者の為にガンバリます
後編の解説編も楽しみです!
またの支援感謝感激です♪前回はモチベが落ちまくってる時だったので非常に感謝しておりまする。いろいろありますがめげずにガンバリます。
尾張統一戦の頃の寡兵で戦術を駆使して勝利する信長の話も好き
信長は大規模戦も上手いし寡兵での戦いも強かったしで、天下人になったのも納得。普通に強い!
この動画でよくわかりますが信長は寡兵というより精鋭で戦うことを好んでるので動員できる兵は多いけど動員しないんです、実際に松葉深田方面の部隊を入れると清須方よりも普通に多いです。
見やすくてグットだぜ
短い動画の方がやっぱ良い感じなのかなー
この時期の河川を想定するのは大変そうだ。既に江戸期に新田開発などで、大幅に改修されてるし。なにせ自分ちの割と近所での出来事だっただけに興味深い。
尾張は江戸時代にボコボコに開拓してるのでマジで地形調査がツライですw当時の河川流路や当時の街道経路を調べないと合戦の実態は解明できないと思ってるので、これからも頑張って調査していくぞー!(ツライw
待ってました!
いつも待たせてごめんねー
配信お疲れさまでした。萱津古戦場跡が開戦地ではなく追撃をうけて掃討戦なった場所なのは驚きでした。後、尾張は平地が多いからなのか籠城戦には不向きな城が多そうですね。
萱津古戦場跡ではなく開戦の地を大分西にした解説を動画にする予定ですのでまた見て貰えると嬉しいです。いつも支援いただき本当に感謝です。グーグル様の評価にも繋がるので本当にありがたいです。
こんばんは😊とても分かりやすいく、戦の流れ(動き)まで良く分かる動画でした👍動画の作りが最高でしたよ✨
余計な解説を泣く泣くw省いて簡潔にすることを心がけてみましたw
テーマを絞っていただいたおかげで、視聴しながら頭の中で内容の整理がしやすくなって分かりやすくなりました!動画時間も丁度よく、時間を作りやすくなって見やすくなりました!もしも余力があればですが、個人的によしふじさんの地図付きの動画が一番分かりやすいので、通説の動画も作ってくださると比較しやすいので凄く助かります。尾張兵は弱兵という話を昔は聞いていたのですが、よしふじさんの動画を見てると弱兵どころか精強な兵ばかりにしか思えなくなる。信長が強いだけなのか、信長の流した虚報だったのか。
信長の親衛隊はこの時代では最強クラスですね。2倍程度の兵力差でももろともしません。弱兵といわれてるのは、尾張が敵国と接しなくなり豊かになったため、「兵士にならなくても生活出来る」ようになったからだと思われます。(だいたい"強兵"と謳われてる地域は、土地柄複雑で戦争することが多い場所だったり、内政がヤバくて戦争でしか他国との活路を見いだせなかった場所なのが多かったりします)
合戦の結論→詳しい解説→当時の情勢と結果という感じで動画を作って行って、あとでまとめる感じでガンバリマス。短い動画なら視聴者少なくてもダメージ少ないしね(苦笑)萱津の戦いの通説だと昔に作ったゆっくり解説が近い感じかなー、開戦地があそこになった解説の所で通説も入れられば入れて見ます。
信長親衛隊約800前後はマジで戦国最強レベルですね。尾張弱兵というか三河強兵を考察するというかネタ動画の構想は昔から持ってるのですが、なかなか作る機会がありません。いつか作りたいなー
同僚を切り殺して出奔→帰参を願って合戦参加ってのはのちに何度も帰参を許されない前田利家の専売特許だと思っていましたが、池田恒興もやらかしていたとはあと下方定清も隠れた強者ですね。一騎打ちに加勢は無粋なれど、来た味方が見物する余裕が出るなんて、最初から一方的だったのかな
織田家で流行ってるのかと言いたい>同僚切り殺して出奔w池田恒興は一発で許されてるけど前田利家は帰参に手こずりましたね。アンケートやってくれる人が増えてきましたが、下方貞清の知名度ヤバソウw
地図をフルに使っての解説、めっちゃイイですね~!現在の様子に当時の流路や拠点とかが重なってるの、とても分かりやすいです✨マイナー武将たくさん出てきて小部隊の機動がカギになる戦い、大好物ですw
狭い地域を行ったり来たりなんでウニウニと地図を動かしてみましたド平坦なんで起伏も無くて作り難いんですよねー
天下統一に向けた戦もいいけれど、若き信長の尾張統一戦のほうが好きだな
家康もそうだけど信長もかなりヤバイ感じで強くて速いw
すげぇ地元で楽しかった
よかったら関係史跡を散歩がてら見に行ってみてください
開いたとたん広告がディズニーSYOGUNなのワロタなんか信長が深く敵地に入り込んだ割には、川を挟んで有利な地で後詰相手に戦端を開いてる不思議な構図。ググってみると新暦で9月4日、まさに収穫期でこの時期から信長らしい戦いだねえ。
ちゃんとニーズに沿った広告が出るんですねw開戦地があの場所になった解説もするのでよかったらまた見てね
@@Yoshifuji-Sengoku 楽しみにしてる(`・ω・´)
流石に知らない武将が多いんでためになります。織田の精鋭は強い··!
今回の動画に登場したマイナー武将のアンケートやってますが、ヤバい結果になりそう・・・
昔の河川とかよく調べ上げられてて凄い松葉城のあった場所は城跡とかが何一つ残っておらず、「城前田」等の地名が残っているのみで、少し悲しさを感じる
松葉城・深田城の位置や城主の考察は解説編でしっかりやっていきたいと思います
待ってました。いつも通り感心するくらいよく調べてある。DVDか何かで売って欲しい位だよ。この動画に限らず、当時の街道や今とは違う河川や消滅した入江や池、湿地帯を調べてあるMAPだけでも凄いし有難い。今後にも期待したいです。過去の動画を見ても美濃、尾張、三河、遠江等の東海地方に重きをなしてる様なので、題材として織田vs伊勢長島の一向一揆なんてのはどうでしょう?自分もザックリとは知ってますが詳細は知らないので機会があればやって貰えると嬉しいです。また次回を楽しみにしてますね。
ぶっちゃけると伊勢長島の戦いの中州を現在のマップでリアルに完全再現することは不可能に近いです。砂州とか中州って地形情報が残らないんですよね。絵図や残された痕跡から再現を試みるつもりですが、労力に見合う需要があるかどうか・・・正直、チャンネル運営に余裕ができたら将来的にはとしか言えないかもです
@@Yoshifuji-Sengoku 木曽三川あたりは洪水・治水・洪水・治水・・・、でだいぶ流路変わってますし、特に明治以降の治水・流路変更・区画整理で寺社・集落でさえだいぶ変わっているという。
面白かった。ありがとうございます😊
12分の中に情報モリモリ、流石よしふじさん。しかし牛一君、この時期は既に直臣になってるはずなのに敵味方ごちゃごちゃ過ぎ。よしふじさんの動画のつねで何度も聞き返すと合戦の詳細が理解できるので一度見終わっても時間おいて再度視聴するのおすすめです。ちょっとした見どころでいうと、織田弾正の中家の親族多すぎ。爺ちゃん信定、父信秀が作りまくってる。他の大名と比較してこれはマジで凄い。この沢山のオジサンと兄弟にぷらす織田家弾正の中家一門がほぼすべて信長に従ってるのがこの動画一本で理解できます。同輩殺害で出奔といえば前田の狂犬ですが池田もかよ。信長の母衣衆の10十代のころの血の気の多さにドン引き。
萱津の戦いの時期には太田牛一さん信長の敵方の清須方の武衛家臣だった。太田牛一さん御免なさい。誤解から間違ったことを言ってしまいました。太田牛一さんが織田家(柴田勝家の家臣でのデビュー戦は1554年27歳の時の安食の戦いです。ちなみに先走りますが斯波家の家臣から柴田勝家の家臣(織田家陪臣)に転職した太田牛一さんが安食の戦い後に信長の直臣に栄転してます、これは結構重要なポイントでこの時期の信長の絶対的な権力が見て取れます。通説の信長と織田信勝(信行)との話はかなり眉唾です。
ありがとうございます!
引き続きの支援に感謝です♪非常に厳しいチャンネル運営が続いてますが皆様の応援の声でなんとか続けられております
資料探すのだけでも大変だ
いつも勉強させていただいています。当時の街道だけでも地図上で表すのは大変だと思うのですが当時の川筋などは、どのように調べていらっしゃるのですか?
RUclipsはマネするのが当然の文化があるので、今は企業秘密ということにさせて下さい
5:34 下方とか本能寺がなければ、ちゃんと次代のエリートとして名を残したんだろなぁと思ってみてしまった…
長男が織田信忠と討死、次男が信長と討死ですからねぇ・・・せめてどちらかだけでも生き残れば万石以上の大名は確実だったかと思われます
@@Yoshifuji-Sengoku 本能寺で本流の織田直系グループがごっそり名を消して傍流の秀吉グループが台頭するのが歴史の儚さを感じますね
本能寺の変で家長だけでなく、嫡男どころか元服済み男子討ち死にしている織田家側近多すぎ問題。豊臣・江戸幕府体制でも旗本、もしかすると外様大名にはなれただろうに、織豊系大名や尾張藩の家臣になっている家が多い。
アップされてたの分かりませんでしたごめんなさい💦当時の地図を現在の地図に合わせるのて大変難しいと思います。さすが、よしふじさん。ちなみに「信長公記で追う桶狭間への道」とか参考にされました?😇
やはり織田本隊がみな男ぶりが良く士気が高いと感じます。この軍団を作っていた時点で戦場での強さの本質を獲得していた信長は、敵の力量や配置を見て何処に自分達をぶつけるか、どうやったらもっと有効で強力な手を打てるかを常日頃考える様になっていたのかもと思いました。権益と土地を資産としてそのために生きる者たちから見たら理解不能だったのかも知れないし、彼らより数段早く地に足をつけながら戦略や社会構造までを考えるようになったのかも。8月に刈田狼藉というのは、コメ泥棒ではなく戦略爆撃ということでしょうか。
1556でなく1552年かも
うわぁ・・・マジだ・・・天文21年は1552年です。萱津の戦いが1556年なんてゆー説もありません。どうしてもミスは無くなりませんが今回のはマジ酷いな・・・(涙
投稿ありがとうございます。まだ弾正忠家の内輪もめが無かった(表面化してなかった)だけ有って、柴田勝家も将として活躍しているし、後見人として織田信光勢の活躍も多い。乳兄弟なのに出奔・帰参した池田恒興が母(信長乳母で後に信秀側室)の支援有っても兜が用意できなかったということには疑問がある。立ち位置からすると戦装備はそれなりに持っていると考えられるので、帰参がそれこそ合戦直前というほど急だったのか?河尻与一は、通説だと河尻秀隆の同族程度に濁しているのに直系という説明ってことは、河尻秀隆の父が合戦後に信長方へ寝返り、人質として置いたのか、それとも父もしくは秀隆が嫡男でなく当初から信長についていたのか? 「秀」の字が信秀からの一字拝領なら当初から弾正忠家の家臣だったのだろうけど。
弾正忠家の状況や池田恒興の出奔なんかは解説編でやりまする河尻秀隆は与四郎の仮名から庶流だと思われ、信長の命によって敵方とはいえ奮戦した河尻宗家の名跡を継いだと思われます(見にくいけど点線表記です)
尾張平定と桶狭間とそれ以降では戦い方が全然違う信長。判断力に優れた人らしく地勢や相手の実力を知ってる場合は速く大胆に。不確定要素が大きな時は慎重にと正しい戦術で合戦に臨んでますよね。どれくらい信用出来るかは置いておきますが若い信長は馬に乗って絶えず尾張を見て回っていたらしいので勝手知ったる場所が多かったのではと考えます。
下方貞清は小笠原氏なんだねめちゃくちゃ優秀じゃないかとはいえ現場小隊指揮官向きなのかな
織田も松平も一族が多すぎ
カードの切り替えのせいでメンバーから外れてた。月謝をお納め下さい。
この布陣なら信長負けそうにないわ
信長公記だとそっけないけど関係史料を漁ると豪華メンバーになるのよね
こんにちは(^-^*)/😮
もっと早く今川義元が侵攻していたら、日本は景気が良かっただろう。
<動画内容の訂正>
天文21年を1556年と表記してますが1552年の誤りです。単純なミスであり、萱津の戦いが1556年という説は一切ありません。
動画を見てくれてありがとうございます♪よかったら動画作りの参考のために、コミュニティでやっているアンケートにご協力をお願いします。今回の動画に名前を出しているマイナーっぽい感じの戦国武将達の知名度調査になります。
あまり知ることのなかった、割とマイナーな武将の活躍が見れて、ワクワクしながら動画を見てます。すごく分かりやすい動画で、当時の時代背景が理解しやすいです。
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後編の解説編も楽しみです!
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尾張統一戦の頃の寡兵で戦術を駆使して勝利する信長の話も好き
信長は大規模戦も上手いし寡兵での戦いも強かったしで、天下人になったのも納得。普通に強い!
この動画でよくわかりますが信長は寡兵というより精鋭で戦うことを好んでるので動員できる兵は多いけど動員しないんです、実際に松葉深田方面の部隊を入れると清須方よりも普通に多いです。
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この時期の河川を想定するのは大変そうだ。既に江戸期に新田開発などで、大幅に改修されてるし。なにせ自分ちの割と近所での出来事だっただけに興味深い。
尾張は江戸時代にボコボコに開拓してるのでマジで地形調査がツライですw当時の河川流路や当時の街道経路を調べないと合戦の実態は解明できないと思ってるので、これからも頑張って調査していくぞー!(ツライw
待ってました!
いつも待たせてごめんねー
配信お疲れさまでした。萱津古戦場跡が開戦地ではなく追撃をうけて掃討戦なった場所なのは驚きでした。後、尾張は平地が多いからなのか籠城戦には不向きな城が多そうですね。
萱津古戦場跡ではなく開戦の地を大分西にした解説を動画にする予定ですのでまた見て貰えると嬉しいです。いつも支援いただき本当に感謝です。グーグル様の評価にも繋がるので本当にありがたいです。
こんばんは😊
とても分かりやすいく、戦の流れ(動き)まで良く分かる動画でした👍
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テーマを絞っていただいたおかげで、視聴しながら頭の中で内容の整理がしやすくなって分かりやすくなりました!
動画時間も丁度よく、時間を作りやすくなって見やすくなりました!
もしも余力があればですが、個人的によしふじさんの地図付きの動画が一番分かりやすいので、通説の動画も作ってくださると比較しやすいので凄く助かります。
尾張兵は弱兵という話を昔は聞いていたのですが、よしふじさんの動画を見てると弱兵どころか精強な兵ばかりにしか思えなくなる。
信長が強いだけなのか、信長の流した虚報だったのか。
信長の親衛隊はこの時代では最強クラスですね。2倍程度の兵力差でももろともしません。
弱兵といわれてるのは、尾張が敵国と接しなくなり豊かになったため、「兵士にならなくても生活出来る」ようになったからだと思われます。
(だいたい"強兵"と謳われてる地域は、土地柄複雑で戦争することが多い場所だったり、内政がヤバくて戦争でしか他国との活路を見いだせなかった場所なのが多かったりします)
合戦の結論→詳しい解説→当時の情勢と結果という感じで動画を作って行って、あとでまとめる感じでガンバリマス。短い動画なら視聴者少なくてもダメージ少ないしね(苦笑)萱津の戦いの通説だと昔に作ったゆっくり解説が近い感じかなー、開戦地があそこになった解説の所で通説も入れられば入れて見ます。
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尾張弱兵というか三河強兵を考察するというかネタ動画の構想は昔から持ってるのですが、なかなか作る機会がありません。いつか作りたいなー
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池田恒興は一発で許されてるけど前田利家は帰参に手こずりましたね。
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家康もそうだけど信長もかなりヤバイ感じで強くて速いw
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@@Yoshifuji-Sengoku 楽しみにしてる(`・ω・´)
流石に知らない武将が多いんでためになります。
織田の精鋭は強い··!
今回の動画に登場したマイナー武将のアンケートやってますが、ヤバい結果になりそう・・・
昔の河川とかよく調べ上げられてて凄い
松葉城のあった場所は城跡とかが何一つ残っておらず、「城前田」等の地名が残っているのみで、少し悲しさを感じる
松葉城・深田城の位置や城主の考察は解説編でしっかりやっていきたいと思います
待ってました。
いつも通り感心するくらいよく調べてある。
DVDか何かで売って欲しい位だよ。
この動画に限らず、当時の街道や今とは違う河川や消滅した入江や池、湿地帯を調べてあるMAPだけでも凄いし有難い。
今後にも期待したいです。
過去の動画を見ても美濃、尾張、三河、遠江等の東海地方に重きをなしてる様なので、題材として織田vs伊勢長島の一向一揆なんてのはどうでしょう?
自分もザックリとは知ってますが詳細は知らないので機会があればやって貰えると嬉しいです。
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ぶっちゃけると伊勢長島の戦いの中州を現在のマップでリアルに完全再現することは不可能に近いです。砂州とか中州って地形情報が残らないんですよね。絵図や残された痕跡から再現を試みるつもりですが、労力に見合う需要があるかどうか・・・正直、チャンネル運営に余裕ができたら将来的にはとしか言えないかもです
@@Yoshifuji-Sengoku 木曽三川あたりは洪水・治水・洪水・治水・・・、でだいぶ流路変わってますし、特に明治以降の治水・流路変更・区画整理で寺社・集落でさえだいぶ変わっているという。
面白かった。ありがとうございます😊
12分の中に情報モリモリ、流石よしふじさん。しかし牛一君、この時期は既に直臣になってるはずなのに敵味方ごちゃごちゃ過ぎ。よしふじさんの動画のつねで何度も聞き返すと合戦の詳細が理解できるので一度見終わっても時間おいて再度視聴するのおすすめです。
ちょっとした見どころでいうと、織田弾正の中家の親族多すぎ。爺ちゃん信定、父信秀が作りまくってる。他の大名と比較してこれはマジで凄い。この沢山のオジサンと兄弟にぷらす織田家弾正の中家一門がほぼすべて信長に従ってるのがこの動画一本で理解できます。
同輩殺害で出奔といえば前田の狂犬ですが池田もかよ。信長の母衣衆の10十代のころの血の気の多さにドン引き。
萱津の戦いの時期には太田牛一さん信長の敵方の清須方の武衛家臣だった。太田牛一さん御免なさい。誤解から間違ったことを言ってしまいました。太田牛一さんが織田家(柴田勝家の家臣でのデビュー戦は1554年27歳の時の安食の戦いです。
ちなみに先走りますが斯波家の家臣から柴田勝家の家臣(織田家陪臣)に転職した太田牛一さんが安食の戦い後に信長の直臣に栄転してます、これは結構重要なポイントでこの時期の信長の絶対的な権力が見て取れます。通説の信長と織田信勝(信行)との話はかなり眉唾です。
ありがとうございます!
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いつも勉強させていただいています。
当時の街道だけでも地図上で表すのは大変だと思うのですが
当時の川筋などは、どのように調べていらっしゃるのですか?
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長男が織田信忠と討死、次男が信長と討死ですからねぇ・・・せめてどちらかだけでも生き残れば万石以上の大名は確実だったかと思われます
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本能寺の変で家長だけでなく、嫡男どころか元服済み男子討ち死にしている織田家側近多すぎ問題。
豊臣・江戸幕府体制でも旗本、もしかすると外様大名にはなれただろうに、織豊系大名や尾張藩の家臣になっている家が多い。
アップされてたの分かりませんでしたごめんなさい💦当時の地図を現在の地図に合わせるのて大変難しいと思います。さすが、よしふじさん。ちなみに「信長公記で追う桶狭間への道」とか参考にされました?😇
やはり織田本隊がみな男ぶりが良く士気が高いと感じます。
この軍団を作っていた時点で戦場での強さの本質を獲得していた信長は、敵の力量や配置を見て何処に自分達をぶつけるか、どうやったらもっと有効で強力な手を打てるかを常日頃考える様になっていたのかもと思いました。
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1556でなく1552年かも
うわぁ・・・マジだ・・・天文21年は1552年です。萱津の戦いが1556年なんてゆー説もありません。どうしてもミスは無くなりませんが今回のはマジ酷いな・・・(涙
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まだ弾正忠家の内輪もめが無かった(表面化してなかった)だけ有って、柴田勝家も将として活躍しているし、後見人として織田信光勢の活躍も多い。
乳兄弟なのに出奔・帰参した池田恒興が母(信長乳母で後に信秀側室)の支援有っても兜が用意できなかったということには疑問がある。立ち位置からすると戦装備はそれなりに持っていると考えられるので、帰参がそれこそ合戦直前というほど急だったのか?
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弾正忠家の状況や池田恒興の出奔なんかは解説編でやりまする
河尻秀隆は与四郎の仮名から庶流だと思われ、信長の命によって
敵方とはいえ奮戦した河尻宗家の名跡を継いだと思われます
(見にくいけど点線表記です)
尾張平定と桶狭間とそれ以降では
戦い方が全然違う信長。判断力に優れた人らしく地勢や相手の実力を知ってる場合は速く大胆に。不確定要素が大きな時は慎重にと正しい戦術で合戦に臨んでますよね。どれくらい信用出来るかは置いておきますが若い信長は馬に乗って絶えず尾張を
見て回っていたらしいので勝手知ったる場所が多かったのではと考えます。
下方貞清は小笠原氏なんだね
めちゃくちゃ優秀じゃないか
とはいえ現場小隊指揮官向きなのかな
織田も松平も一族が多すぎ
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信長公記だとそっけないけど関係史料を漁ると豪華メンバーになるのよね
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