失われた歴史?欠史八代とは|小名木善行

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  • Опубликовано: 16 окт 2024
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    #欠史八代#古代天皇#日本書紀

Комментарии • 112

  • @のしくんのしくん
    @のしくんのしくん 2 года назад +6

    時間の考え方についての解説、今までの疑問が氷解する内容でした、大変面白かったです。

  • @浮立大地-p9r
    @浮立大地-p9r 3 года назад +9

    僕らが超えなければならない限界とは、個人や社会にはびこる思い込みや、いわゆる常識と言われている偏見なんでしょうね。新しい技術を開発するのに、常識に囚われて生まれる筈が無い。それでは隣国と同じ思考です。まずは受け止めてそこからどうするかを考える。ここに誇りを感じる民族でなければならない。小名木先生の授業を受けて日本人で良かったと再認識いたしました。ありがとうございます。

  • @tokujimaekita1697
    @tokujimaekita1697 3 года назад +4

    学ぶ心 御学心 言わんとしている事を質問しながらでも訊きとめる 好奇心の多さに敬服

  • @Izumi-fe1x
    @Izumi-fe1x 3 года назад +25

    古代ギリシャにも「クロノス時間」と「カイロス時間」の二つの時間概念がありました。
    世界観や哲学は古代の人たちの方が進んでいた可能性が高いです。
    (一番わかりやすく顕著に表れているのが天体観測の精度です。)

  • @ohgt4
    @ohgt4 3 года назад +8

    時間軸は確かに変わりますね。小学生の時、米国の品種改良者の伝記本で、豆の
    サイズと甘みを出すのに何年もかけるのを読み、これじゃ学校を卒業しちゃう
    じゃないかと、気の遠くなる思いがしました。
    3,11の時ガンの手術で入院してましたが、気が付けばもう10年です。

  • @自転車男徒然日記
    @自転車男徒然日記 3 года назад +16

    おっしゃる通りです!ヒトは自分のモノサシと洗脳された脳みそでしか考えられないからですね。
    いろんな考え方が有ると言うことに気付かせて頂き感謝です!

  • @nanatanaka1189
    @nanatanaka1189 2 года назад +1

    大昔のことは、並木良和さんや矢作直樹に訊くと明快に答えてくれます。やっぱり能力者に頼るのが一番な気がします。

  • @弾超七-j5o
    @弾超七-j5o 2 года назад +6

    この回は特にカッコよ😃

  • @にこりんりん照子
    @にこりんりん照子 2 года назад +6

    古代の日本の歴史は不思議世界で溢れています。神武天皇の初代のお姿を描いてる画像を見たところ、身長が3メートルぐらいあって、頭には角が生えていました。これはまるで竜神さんじゃないかと驚きで一杯でした。そして、奈良の法隆寺だったかは不明ですが今でも仏像の中に「頭部がトカゲで裃姿の像」が祭られてあるのを見ました。これらは全て妄想、虚像であるとは思えないのです。神武天皇以前の地球環境は暖かく、食べ物も豊富で人類、生き物すべてが大きくても自由に生きられた世界だったと言われているのが事実だったとしたら神代の時代は確実にあったのだと信じても疑いはありません。全てを否定しだしたのは時間の決まり(時計)を制定したことから歴史が書き換えられたのではないかと推測します。古代の歴史を読み説くには宇宙の成り立ちから精査しなければ始まらないと思っています。小名木先生には今後も深く読み説いていただけることを期待しています。ありがとうございました。

  • @ラピス-n1g
    @ラピス-n1g 3 года назад +7

    決史八代、わざわざ書かれたのだから存在していたと私は思っております。時間の観念について、面白く拝聴いたしました。

  • @信康永原-n5w
    @信康永原-n5w 2 года назад +1

    とても面白いです。納得できる内容です。確かに、古代人は我々よりも優れてた学問を持っていたんじゃないかなぁと思ってます。現代の我々のように、地球を滅亡寸前まで追い込まないでいられた?のはどうしてかなぁと。

  • @than457
    @than457 2 года назад +2

    確かに古文書の成立時代を考えると時間の経過を考えるのはナンセンスですね。
    「神話」とは心のよりどころであると思います。
    われわれ日本人はこんなにも素敵な神話を残してくれた祖先に感謝しなくてはいけませんね。

  • @subingtian4904
    @subingtian4904 2 года назад +5

    めっちゃ面白い!!

  • @嬬恋次郎-c6m
    @嬬恋次郎-c6m 3 года назад +9

    小名木先生、
    此の動画は9月9日に拝見しました、、
    今回は難解な難しい物理と言うか、、時間の問題、、
    面白くお勉強させて頂きました!

  • @fujisan2530
    @fujisan2530 3 года назад +13

    納得の解説ありがとうございます。国が命じて作らせた歴史書が丸々嘘の訳がないですよね。そこに比喩や誇張はあるかもしれませんが、歴史的事実が書いてある、もしくは仄かしてあるのは間違いないと思います。そこをどう読み解くかが歴史の醍醐味。古代史にとても興味が湧きました。新書も読ませて頂きます。

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 3 года назад +38

    8代天皇の息子の大彦の名を記した鉄剣が発掘されてるし、欠史8代の後裔氏族が実在しているのに、欠史8代はいなかったとなるとじゃあその子孫たちはなんなんだということになる。

    • @0723HIGASHI
      @0723HIGASHI 3 года назад +2

      今でこそ直系嫡男が第一継承者となっていますが、過去、各天皇に兄弟がいた「かも」と考えれば養子に迎える事があったの「かも」しれません。戦国時代のように。
      一応、血族ですし。
      子供を授からなかった場合は、血筋の末端や血のつながらない子を高額の謝礼金で養子に迎えたらしいという記憶があります。
      日本書紀や古事記も所々、時代に合わせて都合よく書き換えられていたらしいですし。

  • @アトレティ
    @アトレティ 3 года назад +28

    こんなとこで言うのもあれですが、
    私の自慢は歴代の天皇(南朝、北朝含む)を全員言えること

    • @liberst1
      @liberst1 3 года назад +5

      すご

    • @ミッドナイトシンヤ
      @ミッドナイトシンヤ 3 года назад +3

      全スメラギいえる方沢山いらっしゃいます😄

    • @信濃香々彦
      @信濃香々彦 3 года назад +2

      お経を読むように、神武、綏靖、安寧…と続けて読み歌うのですよね😃
      俺も今は曖昧になりましたが、昔は言えました❗️

  • @oniwani-ff7rq
    @oniwani-ff7rq 2 года назад

    科学に謙虚になると、詭弁、詭弁、詭弁。だけれどもロマンがある。ロマンの背景には愛がある。それでいいじゃないか。

  • @kalno3778
    @kalno3778 3 года назад +7

    179万~という中途半端な数字がどうして出てきたのかと思いましたが、指数関数とは😳
    やはり昔の人は高度な数学を理解していたのですね

  • @まあちん-x8z
    @まあちん-x8z Год назад +2

    中国の史書に一年を二年計算していたと書かれてますよね、日本は

  • @松田匠平
    @松田匠平 3 дня назад

    光の速度は相対性理論で一定のスピードで決まっているので、上限なしで早くなることは絶対ないですよ。

  • @capaugustus9083
    @capaugustus9083 3 года назад +4

    素晴らしい。

  • @憂國のゆうき
    @憂國のゆうき 3 года назад +4

    いつも楽しみに拝見させて頂いております。有難う御座います。落合莞爾氏と会話させて頂くと分かりやすいですよ。一度、共演して頂きたい。中森氏ではなく😊🇯🇵

  • @okina820
    @okina820 3 года назад +35

    まさかこの流れで相対性理論が出てくるとは!実に興味深く楽しく拝見しました!!

  • @hiderow77
    @hiderow77 3 года назад +12

    欠史8代の各々天皇の名前の由来などもひも解いていただけると面白いと思います。
    初代神武と十代崇神には、諡号になぜ神がつけられたのかとか、五代から八代まで
    の天皇に孝の字が諡号に用いられたのに九代で開化という開かれたとい諡号が用い
    られたのかなど、ウィキペディアには解説もありますが、小名木先生の解説が加わ
    ることでもっと面白くなるのかなと。 ご検討いただけたら幸いです。

  • @7beaver476
    @7beaver476 3 года назад +8

    天皇陵や古墳で漢字や文字が見つかった例ってあるんでしょうか?
    文字が使われていても不思議ではないと思うのですが。

  • @liberst1
    @liberst1 3 года назад +5

    最後の方のくだりは我々の営業の接客現場の応対技術に通ずるものがあるなぁ

  • @Kappa-Lub
    @Kappa-Lub 2 года назад +2

    竹田さんのチャンネルで綏靖帝の息子の名前が書かれた刀剣が
    どこかの遺跡で見つかったと言う話がありました。

    • @ああ-q8c7i
      @ああ-q8c7i 11 месяцев назад +1

      孝元天皇の息子だったと思います

    • @Kappa-Lub
      @Kappa-Lub 11 месяцев назад

      サンキュー
      @@ああ-q8c7i

  • @落合浩司
    @落合浩司 3 года назад +3

    実在したかどうかということが
    問題になるわけではない 思っていてもタイムマシーンがあったら確認したいよね

  • @csny0627
    @csny0627 2 года назад +3

    「シュレディンガーの猫」のエピソードは量子論が究極のところで神話と繋がっていることを示唆するのかもしれないし、真理に近づくかもしれません。また、無理数は神の領域に存在する数かもしれませんね。πとか自然対数の底eとか。

  • @khg-zs2vd
    @khg-zs2vd Год назад +2

    少なくとも第7代孝霊天皇は存在していた思います。
    理由は、昔話で有名なあの桃太郎こと、吉備津彦命はその孝霊天皇の皇子であるからです。
    岡山には吉備津彦命の物語の場所とされる鬼ヶ島(山の砦)も、鯉となって逃げた鬼(温羅)を捕まえた場所である鯉食い神社も、
    吉備津彦命のお墓である古墳も全て、今現在に残っています。
    また孝霊天皇の皇女として倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)もおり、
    奈良県桜井市にお墓が古墳として残っていますので、間違いなく実在されていたであろうと思われます。
    この2人が実在していたのにその父である孝霊天皇がいない訳がないと考えています。
    最後に二つほど余談ですが、孝霊天皇には稚武彦命(わかたけひこのみこと)という吉備津彦命と兄弟にあたる皇子も実在されていたことと、
    皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は日巫女(ヒミコ)ではないかと言う説もあります。

  • @isaotatewaki1492
    @isaotatewaki1492 2 года назад +6

    時間に関するお話がとても興味深かったです。頭から日本書紀や古事記を否定する現在の歴史学会の方が頭が硬いと思わざるを得ません。歴史学会でも若い研究者はそうでもないのかもしれませんが、トップを牛耳っている人たちは腐っていると思います。もっと柔軟に考えられないのでしょうか?と思いました。

  • @toaizenzen8074
    @toaizenzen8074 3 года назад +3

    現代の海面の高さより古代は120メートル近く低い濃密な大気の生活空間なら古代人が長寿でも不思議ではないと思うがどうでしょう。
    まさか何千年先に起きる事を見越して書物を残す人なんていないでしょう。

  • @黒胡麻担担麺
    @黒胡麻担担麺 2 года назад +1

    ホツマだと、真榊が半寸伸びるのを1穂=1年と数えていたらしいですよね。1年で半寸伸びるのではなく、半寸伸びるのが1年。一説には、群生榊の1個体の寿命は200年は越えないみたいなので、さくっと概算すると、1穂=1.22日=1年になり、179万年は10年弱になるのでしょうか笑

  • @副店長代理
    @副店長代理 3 года назад +7

    2代天皇から9代天皇までは実在したと思います。
    もしも嘘の記述をするのであれば、40歳から50歳ぐらいまで生きましたという天皇を数十人列挙すれば神武天皇から崇神天皇までの間を埋め合わせることができる。
    それをせずに、100何十歳まで生きましたと記述しているのは実在したから事実を記述したまでのこと。
    それから、当時は春に1歳、秋に1歳年齢を数える習慣があったとも言われています。
    なので、138歳は現代の数え方では69歳。非現実的な年齢ではありません。

  • @鐵瓶弐拾ハ號
    @鐵瓶弐拾ハ號 3 года назад +5

    1792470年謎が謎呼びますね♪
    誰かに読ませる訳でその辺の脳無しクレーマーでも突っ込める様な出鱈目は書かない訳で、何か大きな意味があるのででしょう。
    我々凡人では無理でしょうがアレコレ考えさせてくれる謎解きを残してくれたものです。

  • @miredmire
    @miredmire 3 года назад +6

    【暦年と皇紀の事業年度】
     取り敢えず日本の「暦」の開始は、日本書紀巻19によると飛鳥時代の推古12年(604年)とされています。でも、それ以前に暦が無かったかの様なこの表現には違和感を禁じえません。7世紀以前の日本に暦は無かったのでしょうかね(笑)。現在識られている和暦の規格時代は、この大陸の暦が基に成っているのでしょうが、百済に「暦法や天文地理」に通じた人材を召し出す様な意思表示をしている時点で、「暦法や天文地理」についての理解が大和朝廷に於いても既に存在したと言うことです。最高神「天照大神」そして「月読命」を実際の地上の営みを行なう「須佐之男命」と共に描いているのが「記紀」なのです。天照と月読は、大和朝廷の考える皇統の初めより存在する根幹と成る知恵なのです。月読は月齢のことであり、これは潮の干満との相関から漁労と密接に結び付いており、月齢から漁労の最適化を図れた群れは繁栄し、そうしなかった群れは衰退し消えたのが、列島の海人族の生業の歴史でした。「月読」は大切な知恵ですが、既に列島内のどの部族にも知れ渡っており触れる必要が無いものだったと思われます。何故なら、残っている部族は、季節毎で異なる海の自然の恵みを通年に渡り授かり続けて来たから存在している隣人だったからです。それが無いのは土地とのつながりの無い新参の渡来人のみです。そんな渡来人から大陸の暦の情報を聴き、興味を持って百済に求めたのでしょう。「二十四節気」や「雑節」等の概念の導入は、推古12年(604年)とみても良いのでしょうが、暦の規格上の問題であり、「天照」つまり「天の照らす先の影」を基にした暦年の概念自体は存在し、「労働集約型水耕稲作」による「神武建国」が実現したものと考えます。須佐之男命は、農業土木や金属器等、人が導き体得する技術の営みの系譜であり、それは「10月会合の地」出雲の大国主命につながって行きます。国譲り神話の大社も暦を識る「天照」必要からだったものと想います。
     さて、欠史八代の頃の1年は、基本、事業年度と考えれば良いものと想います。「2期作≒事業年度」とも言えますが、当時ゼロの概念は存在しませんし、1事業年度とする事態が発生すれば、それが一年だったのではないでしょうかね。目出度いことが在った時の振舞い、各地の大災害への給付支援事業、吉凶の占いによる改暦と、今の企業会計年度同様に太陽の公転周期に束縛されない「年度運用」はこの八代の中で何も無い方が可怪しいのではないでしょうか? 記紀の編纂とその用途は、白村江の戦いで衰退した海人族系部族への大和朝廷運営の「御屋庫共済」加入勧誘の定款の様な存在です。それを強調するならば欠史八代が盛られた可能性も否定はしませんが、その必要は無かったでしょう。大和朝廷に籍を置いた部族はほんの一部です。しかし、そのつながりは海人族ネットワークにより、少なくとも西日本全体に間接的に及んでいた筈です。欠史八代の名を連ねることが、筑紫の日向での禊に始まる人の歴史からのそれらの海人族のつながりを見出すインデックスの価値くらいは在ったのではないでしょうか? 史実として本当かどうかは別にして、天孫降臨の宮崎日向(ひょうが)系列の海人族と筑紫の日向(ひなた)系列の海人族の意識の中に、大和朝廷運営の「御屋庫共済」加入動機を植え付ける為に、必要な記載だったのかと想います。
     何処ぞの企業のホームページでも良いので開いて頂ければ、そこには会社の沿革として「公式の歴史」が記載されています。まあ、概ね史実です。でも、所謂「黒歴史」は記載されません。塗り替えられてしまいます。消された経営者が存在したりもします。それが人間界の営みです。皇統がそうだとは言いませんが、少なくとも概ね史実を記載しないと事業は信用されません。今後の考古学的発見により、暦年は年単位の気候変化の記録に史料が符合されて行くことでしょう。その中で欠史八代や暦年の整合性もハッキリして来るかと想います。今、何を言っても当てっ子ゲームにしか成りません。それよりは記紀の編纂という史実が、歴史に与えた影響を紐解く方が重要なことの様に想います。大和朝廷の中央集権化で、日本は大規模な武力衝突で、大規模な人的リセットを経験することなく石器時代からの文明に大和朝廷運営の「御屋庫共済」加入勧誘に応じたことで「労働集約型水耕稲作」文明を基盤した経済的安定を列島の西では実現して行きました。
     東へは事実上の武力侵攻でしたが(笑)。しかし、鉄器技術の独占と朝廷内部の権力を基に「荘園制」が派生、貴族と寺社のみが持つ「田畑の永代所有」を守らされた地域の有力農民が、同様の自らの開墾した田畑の世襲所有に固執し「一所懸命」となり祭り上げたものが「武士の頭領」でした。源氏による鎌倉幕府は血筋が途絶えますが制度は残ります。実体は地方の武士団に在ったからかと想います。この時点で、日本では欧米史観の「市民革命」は終了していたのです。貴族や寺社と言う有力者と同じ土地の所有権を武装農民は獲得し秩序だった社会を営んだのです。それが、戦国期のガラポンと江戸期の巨大消費市場を産み、今の日本につながったのです。大和朝廷の存在と皇統の果たした役割は、是々非々は抜きにしても、大きなものが在ります。皇統は皇統の文化を今日迄つないで来ましたが、同時に、それは名も無い百姓にも、その機会が広く拓かれた歴史を拓く役割を果たしたことは、誰も否定できない史実かと想います。
     自分は「記紀」に書いてあることを信じろとの路線は執りません。根拠無しに権威の存在を古代人が産まれなからに持っていたとはとても想えませんし、今の自分もそうです。しかし、歴史を調べ史実を突き詰めて行けば、自らの片田舎の百姓の家系の歴史と繋いできた文化、そしてその融合で存在している日本文明の継続発展の切っ掛けに大和朝廷と皇統が大きな役割を果たしたことだけは、確かなことだと想います。その意味で自分は皇統に対して敬意を持っています。イデオロギーとは一切離れた意思でもそうなっています。否定も盲信も自分はしません。歴史に嘘は通じません。

    • @erimochu
      @erimochu Год назад +1

      全部読んで貰えると思って書いてますか?

  • @宇宙伝書鳩
    @宇宙伝書鳩 3 года назад +1

    日本・日本人とは、何者か?
    中川八洋 著
    『超先進国日本』
    渡部昇一 著
    『かくて歴史は始まる』
    ボブ・フィックス 著
    『時を超える聖伝説』
    千賀一生 著
    『ガイアの法則』シリーズ

  • @kyamamoto5510
    @kyamamoto5510 2 года назад

    縄文時代の大湯環状列石は、4000年昔と言われるが、時間という不思議なものを発見した、時計であったようです。
    大湯環状列石は大小と二基並んでおり、時間の精度まで解っていたと考えられます。
    縄文土器のなかに数字を表現した物もあり、現代人が考える以上の、知的な文化人で、日食月食などについても知っていたかもしれません。
    179万・・が縄文暦ということだと面白いですね。
    環状列石は、蔵のような遺構で囲まれており、都の原型で、季節と収穫の関係も解っていたものと思われます。
    暦の管理が、八代続いていたということではないでしょうか?

  • @山越陽子-y9v
    @山越陽子-y9v 3 года назад +2

    あたまの悪い私でも感覚でなつとくできました。

  • @鹿野裕昭
    @鹿野裕昭 3 года назад +4

    小名木先生古代の歴史と現代感覚を一緒にするなと言う事ですね❗其の通りです今の日本は現代感覚イコール白人至上主義に侵された考え方をしています多分明治以降特に大東亜戦争の戦後現代は顕著です⁉️先生歴史を取り戻す貴い御仕事を何時も応援しております、、、🐒小名木善行草薙の剣で白人至上主義を叩き潰す😁です🎵

  • @TomoChikoChikaNyan
    @TomoChikoChikaNyan 2 года назад

    雄略天皇(457-479)は日本書紀だと62歳、古事記だと124歳に没したことになっているので、日本の古い暦では1年を2年に数えていたというのは間違いないと思います。仁徳天皇以前の天皇が突然長生きということで暦法が変わったと計算すると崇神天皇は244年から260年が在位だと推定されます。ちょうど漢が倒れて三国時代でその後を含めて300年ぐらい大陸は戦乱の時代となり、多くの有力者が大陸から日本列島に亡命し帰化したことでしょう。そしてその時に天然痘ももたらされたのでしょう。欠失していないと計算すると神武天皇は89-120年で大阪湾の地質調査から神武天皇の東進の記録と一致します。なので欠失といわれる天皇は実在したと考えています。

  • @baseballmessenngers
    @baseballmessenngers 3 года назад +3

    神武から開化までは元号であったという説はあるのでしょうか。
    歳=世
    という解釈です。(ルパン三世みたいな)
    神武天皇が128歳で崩御されたのではなく、神武と言われる時代が128代続いたという説です。
    無学な徒の思いつきです。散々議論されてるよということでしたら流して下さい。
    いつも楽しみに拝見しています。

  • @shimacoordinate
    @shimacoordinate 2 года назад +1

    昔は大きな数をそんなに厳密に数えなかったですよね。今でも1,2,3,たくさんってそれ以上の数をカウントする言語がなかった地域があるとかないとか?八百万の神などのヤオロズもその類いですよね。もし179万年としても光の速度で進める宇宙の範囲は僅かですし、この当時にそんな大きな数を著していること自体が凄いことだということで納得しました。

  • @spiritinspringtree
    @spiritinspringtree 2 года назад

    その頃に時間や量の観念で100万ということを言葉通りに理解して良いのかが疑問ですね。普段の行動に関しては、現代人も夜、昼ということは多分同じに近いでしょう。量に関してはキャリバレーションが必要ですね。

  • @やまとのヒメなでしこ
    @やまとのヒメなでしこ 2 года назад +1

    現代の時間のとらえ方ではダメ元ですね。

  • @kiyoshinomizu8529
    @kiyoshinomizu8529 3 года назад +1

    時間は地球が丸いという事を知った後に出来たんだね!一回り回って24時間。昼と夜が入れ替わる。360度を地球の赤道の経線の360÷24=15度が1時間にしたんだね。

  • @グンマーゆきのもと
    @グンマーゆきのもと 2 года назад +1

    単純に天皇(スメラミコト)と名乗る人物がいなかっただけで、初代から10代までの個々の間に代理の人はいたんじゃないかな?って思っています。
    10代以降に何かしらの決まりが出来て間をあけないようになったと思います。

  • @岡本明良-m2s
    @岡本明良-m2s 2 года назад +2

    物理的な時間は、速度が速くなるほど進まなくなると、アインシュタインの相対性理論が証明しています。例えば、光速で動けば、いつまで経っても時間はゼロになります。このために、物凄い速度で動く人工衛星では、搭載している時計は、ゆっくりとしか進まないので、地上と同期させるために、少し速く進むように設定されていると、聞いています。浦島太郎が竜宮で数日過ごして帰国し、玉手箱を空けると老人になっていたとの寓話は、相対性理論で解釈できます。即ち、竜宮は物凄い速度で動いているので、竜宮の数日は、地上の数十年に相当すると解釈できます。

  • @Kappa-Lub
    @Kappa-Lub 2 года назад

    春秋暦だと一年に歳年を取る

  • @ほのぼの倫
    @ほのぼの倫 3 года назад +5

    年貢 ですからね❤ 二倍。
    日本人の慣習やマナー、教えの浸透具合は良くも悪くも「ずば抜けて特異💦」。
    これを考える時、日本はずば抜けた世界最長の国家で有るのではないかと考えてしまいます(笑)
    179万年に違和感が無くなるくらい津々浦々まで浸透している💦
    これを「教養❤」と呼ぶのだと思います。
    洒落言葉じゃないけど、教養は長い期間を経なければ身に付き難い性質のもの。
    納得の
    Viva 百七十九万年❤
    半分にしたとしても…
    ずば抜けた世界最長国家🎶
    日本の常識は、やがて世界中がお手本にする経典のような存在になるのだろうと。
    スターウォーズを思い出しています❤
    (*^ω^*)(笑)

    • @友光一郎
      @友光一郎 2 года назад

      賛成だが極端を云うなよなー

  • @biblemathyu505
    @biblemathyu505 2 года назад +1

    聖書だって厳密に言えば歴史的(年代あるいは時間的)にあわないところがある。だからと言ってそんなのあてにならないと言う人もいれば信じられると言う人もいてる。現代人に理解不可能だからと言ってすべて間違いだと言うのはおかしい。新聞に書かれていることが嘘が多いからと言って全部を否定する人が居るだろうか。いい加減な記事でも定期講読者がいるのだから。

  • @taiyonoboru1192
    @taiyonoboru1192 2 года назад +1

    壬申の乱の前の何か証拠になるもの残ってれば、まだな~

  • @ウマダイスキ
    @ウマダイスキ 2 года назад +1

    欠史八代の天皇たちの生存年数が当時としては異常に長いのがおかしいとされていますね。古事記については偽書説もあります。二期作説にかなり惹かれました。神武天皇と崇神天皇の尊の漢字表記が異なりたまたま読み方が同じと書物で読んだことがありますが。ただ八代の天皇についてどなたも国の頂点に立つ御方、記載が軽んじていることにどうも納得いかなくて、偽書扱いされる古史古伝の中に真実があるのではと考えています。謎だけで済ませたくない還暦越えした爺の考察です。

  • @佐藤裕太-b1o
    @佐藤裕太-b1o 8 месяцев назад

    いわゆる欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。
    これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。
    1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。
    2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。
    以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。

  • @TomoChikoChikaNyan
    @TomoChikoChikaNyan 2 года назад

    本当に面白いというのを書くのを忘れました。ついでですが、ちょうど崇神天皇の娘が倭姫で時代から考えると魏志倭人伝が書かれた時代です。倭姫は伊勢神宮を建立し、斎宮で最初の斎王になったと伝えられていますが、斎王とは日の神である天照大神を祀る伊勢神宮に仕えることで、つまり、巫女さんです。日巫女です。卑彌呼です。ということは卑彌呼は普通名詞ではありますが、時代的にはちょうど出雲と大和が争っていた時代で、王といっても日本の王は女性です。甥っ子は日本武尊、そのころに出雲が諏訪の地で大和に屈服し、そして、仲哀天皇が九州の平定に向かうけれど亡くなり、出雲の国のバックにあった新羅に出雲の国の支援をしないように神功皇后が新羅を攻めたと考えると納得がいき、やっと大和王朝が統一したので応神天皇の時代になったのではと考えています。神の諡がつく天皇はなんらかの始めだと考えています。神武天皇は建国した天皇。崇神天皇は天然痘で半数の国民が亡くなり国が乱れ、それを建て直そうとした天皇。そして、国が統一され前方後円墳(田んぼを広げるためのため池)を全国に広め、田んぼを全国に広め、カマドで米をたく時代にしたはじめということではと考えています。

  • @ミッドナイトシンヤ
    @ミッドナイトシンヤ 3 года назад +2

    1年=2年

  • @佐藤裕太-b1o
    @佐藤裕太-b1o 9 месяцев назад

    いわゆる欠史八代について、系譜伝承と后妃およびその出身豪族と皇子を祖とする氏族名そして各代の宮城(皇居)と陵墓という『帝紀』的記事しか無いため架空だけではなく研究の参考にする価値もないという考えが日本古代史学界と在野研究で常識となっている。
    しかしながら、裏を返せばその『帝紀』的記事も「残っている」、それらも「記されている」という考えも出てくるべきである。

  • @KFC-jw5dd
    @KFC-jw5dd 2 года назад +1

    昔、欠史八代の研究をすると、ほされる噂がありましたね、

  • @かずぷり
    @かずぷり 2 года назад

    旧約聖書創世記6章3節🫢

  • @外道太郎-f4e
    @外道太郎-f4e 2 года назад

    面白いけど、指数やルートの概念があったというのは矛盾かなと思いました。日本書紀前半は神話なのであまり違和感ないですよ。中国史もそうですし^_^

  • @二木英木
    @二木英木 2 года назад +2

    大和の初代神武天皇の即位が紀元前200年頃に比定出来れば十代崇神天皇は紀元0年頃に比定出来て欠史八代に約200年が当て嵌まり皇紀にも大きな矛盾は無くなります。応神天皇を含めて諡の神の字の入る天皇は前代で直系が絶えた為に夫々が初代だったとも考えられます。其れでも万世一系を主張するには全ての先祖が秦の始皇帝に男系男子の系譜で繋がるしか方法は有りません。天皇家に厳然と繋がるユダヤの記憶を遡れば秦の建国から始皇帝を経て数系統を大和に集約するしか無いのでは?紀元前722年に滅亡(消滅?)した北イスラエル王国の人達が古い記憶(予言?)に導かれて東を目指しアララット山を経由して弓月に至り主力は支那大陸の西域に下り?(天孫降臨?)周の与国として秦を建国(皇紀スタート?)したものと考えてみました。周がギリシャ系民族?で有れば何等かの連絡が事前に交わされていた可能性すら考えられます。何しろいきなりか?西方の防備を周から託されたのですから。雌伏約500年間勢力を増し周の公室から始皇帝が帝位?を(三種の神器)禅譲されてから亡くなる迄に全土征服は勿論子孫を四辺に派遣したり万里の長城を造らせたり兵馬俑を作ったり八面六臂の活躍をしました。多分多くの妃后や王子の妃から産まれた子孫を日本列島や周辺に何組も届け様としたのでは有りませんか?其の為に同族の数や富が秦帝国内では減少して始皇帝の死で呆気なく滅亡したと考えて見ました。

  • @rigariga
    @rigariga 2 года назад

    名前継いだんだろうな…

  • @心の親父
    @心の親父 Год назад

    指数関数的時間関係と精神感覚的時間とを退避させるのは無理です。春秋年は理解出来ますが、何代天皇までが春秋年か述べないと屁理屈になります。
    2~9代天皇の存命期間と指数関数的年齢とはどのように関連付けられるのでしょうか。卑弥呼から神武東征までと史的に消えた150年との関連はどうなるのでしょう。
    この150年と2~9代を結ぶと時間的に合うのですが。神武即位とズレますが。その当たりのつなぎ合わせが記紀かもしれません。
    歴史書は書かれた時代の都合に合わされて書かれます。従って記紀も現実とのずれを読まなくてはなりません。
    ご意見を。

  • @かかしやまだの
    @かかしやまだの 8 месяцев назад

    大国主命の時代が欠史八代の時代と同じだからでは?

  • @大森カモシカ
    @大森カモシカ 3 года назад +1

    そんな昔に漢字だ有ったの、なんだかそのへんがわからない、

  • @jinbei0118
    @jinbei0118 3 года назад

    うーん、赤と緑色の板書が薄くて見にくい。。。。

  • @stknloveksyk
    @stknloveksyk 3 года назад

    つくよみどこ行った。。。

  • @user-oc9sg1ty4s
    @user-oc9sg1ty4s 3 года назад

    おじいちゃんじゃなくて ひいおじいちゃんでわ?

  • @大木戸章平
    @大木戸章平 3 года назад +2

    う~~む。正直、ニニギノ尊からの179万2470歳についての説明は無理矢理感が強過ぎ!!神武天皇からが人間なんだからそれ以前の神様に関してはどうでもいいような気がする。初期天皇の年齢については2倍歴(春秋歴)で充分な気もするけど何故混在したままなのかが不明。天武期の編纂時に統一しなかったのもあるから、やはり伝承をそのまま持ってきただけなんだろうと感じる。それでいいと思うけど。

  • @kantoku-tb2iq
    @kantoku-tb2iq 2 года назад +1

    歴史を美化しすぎてひく。
    日本には長い歴史があり、誇らしいと素直に思う。
    欠史八代も179万年も謎のままでいい。神話らしくてロマンがある。十分カッコいい。
    時間軸が違うのもわかる。
    でもルートを持ち出されても・・・更に月で割る意味が不明。小名木ワールド。
    逆にカッコわるいよ。

  • @ヒデ-d3s
    @ヒデ-d3s Год назад

    神話を、現代人の乏しい知識ではかろうとすることが傲慢であり過ちですね。

  • @urakusp
    @urakusp 2 года назад +1

    記紀は神代と人代を区別しており、神武からが人代。記紀は天武の時代に当時残存した言い伝えや書籍の集大成を目指したもの。その意味で当時の解明可能な事実を忠実にまとめたもの。書紀には確定できない事実に関しては異説も併記しており、それを否定するには確たる証拠が必要だ。欠史8代説は記紀の記述を記紀の記述を勝手に妄想しそれにより否定するものであり、証拠によるものではない。それだけで津田左右吉の戯言であるが、問題は現代の腐敗考古学者がこれ幸いとその戯言を通説とみなしていることである。記紀編纂に当たってモデルとした史書は史記である。史記は神話から始まる。歴史学者は史記が神話から始まるからと言って全体が神話だとする歴史学者は皆無だ。ところが日本の記紀に関しては、神武以降が人代としているのに、神武以降も神話として欠史8代のみならず日本書紀で一巻を占め詳述される神功皇后すら全否定するのが当たり前となっている。そしてそれは戦後占領体制の思想的バックボーンを提供した。つま,日本の古代史学者は、占領史観の走狗ということだ。
    小木氏はニニギのミコトからの年代を問題とするが、これは神代のこと。神に人間の時間を適用する考えが間違い。それは史記の神話年代をだれも問題としないことと同じ。
    それより!記紀の目的の一つは、当時の大和朝廷を支えた諸豪族の出自を明確にすることがもう一つの目的。その意味では開化天皇の兄弟、崇神の叔父のオオビコが、稲荷山鉄剣に記銘されている事実があり、これは欠史8代とされる開化天皇の実在を証明するものだ。いずれにしても、記紀の記述を確たる証拠もなく、空想のみで否定する古代史学者の戦後イデオロギーの産物に過ぎない欠史8代説をまともに論ずる事自体がお粗末だ。

  • @神山博光-u8x
    @神山博光-u8x 2 года назад

    欠史八代というけれど、ある説では14代まで天皇は実在しなかったという考えがあるよね。そうなると、景行天皇の皇子であるヤマトタケルは実在しなかったことになるんだよね。本当のことがわからないから歴史はおもしろいねぇ。

  • @森岩光
    @森岩光 2 года назад

    ちゃんとした伝承が存在します。
    まず、系図の神武と、また即位年代や物語の神武東征神話は全く別モノ。
    その上で、
    系図の神武は
    徐福の御孫、海(アマ)王朝の祖の
    海 村雲大王。
    (父は五十猛。改め、海カゴヤマ命。母親は徐福がニギハヤヒと自称して九州に帰化した際に宗像の市杵島媛命と政略結婚して生まれた娘の【ホヤ媛命】。
    要するに異母兄妹の結婚だった)
    系図はこの、村雲大王の子孫一族。
    但し、孝霊天皇は
    物語の神武東征=九州の物部王家軍の侵攻の煽りから(物部に播磨侵攻を唆され騙された【但馬勢】共々、踊らされて)
    大和王国を喪失して
    女系本宗で親戚の出雲王国から(無防備の)播磨と吉備を分どって吉備王国を建国。
    更に
    (大和を喪失したかわいそうな親戚と安心していた無防備な)
    出雲王国にいきなり侵攻して蹂躙した(第一次出雲戦争/孝霊は大山の麓の小山に出雲侵攻で営んだ本陣で死亡
    (最後は戦況が膠着化する中、自暴自棄となり
    土地の美人と酒池肉林する等して死亡)。この小山は【孝霊山】となった。←から【ウワナリ神事】が生まれた)。
    因みに、孝霊天皇/フトニ大王の父は孝安天皇。海 押人大王(後漢書の【倭王帥升】は彼!)
    系図(尾張氏、海部氏、ほか)では
    兄弟同じ名前で、兄の娘の押媛命(姪)を娶って孝霊天皇が生まれた事になっていますが
    出雲の伝承は押人に兄弟はなく只一人!と断言しますから
    そうすると、
    孝安天皇/押人大王は実の娘を犯して孕ませ生まれたのがフトニ大王/孝霊天皇。
    と言う、古代でも一番アカン不義密通をヤラカシタ事に成ります。
    (孝霊天皇の思考や行動に違和感(変です(近親相姦の影響か?)))
    ↑。絶対書けませんから削除対象です。
    また、孝安が自ら後漢の都に赴いて属国となるから倭の王として承認を求めたことも
    古事記の自主独立国の絵空事に反するため、
    削除対象です
    また、同じく、孝霊朝の大彦(太子や大兄に同じ)は
    無類の物部嫌いで、
    大和から退去すると東近江の野州を都にして(三上山を大和の三輪山の形代とした)クナト王国(魏史倭人伝の狗奴国)を建て
    東近江~伊賀に盤拠して
    物部軍と対峙するも、
    物量に勝る物部の猛攻にクナト王国は崩壊。
    大彦は北陸等の日本海側に、
    御子のヌナカワワケは東海等の太平洋側の2手に分かれて退去転進。
    物部はそれらを執拗に延々と追撃をした。
    結局、大彦は北陸で死亡したモノの
    二手に分かれていた大彦の子孫勢力は東北地方で再会合流すると体制を建て直して強力な国家、
    【日本国】を建国して南の大和王国と鎌倉時代まで対峙、併存した。
    【日本国】は交易を良くして栄えました。
    首都は津軽。王家は大彦の子孫(徐福と出雲の媛さんとの子孫)
    安倍家。
    後の安東氏。
    (先日暗殺された元首相の安倍氏はその末裔。(東北~北海道、樺太、千島列島を元来支配した王家王族の末裔))
    【大彦】さまが、大和の長(中)曽大根に邸宅を構えていた事から
    物語のナガスネヒコにされてしまいました。
    (切られてもいないし死んでいない)

  • @福太郎-u8v
    @福太郎-u8v 2 года назад

    神道のおかげで日本の歴史が有る、しかし古事記・日本書紀が全て真実とは限らない、起源を古くする為に、あるいは不都合な出来事を隠す為に、一部の創作が有ったとしても、当然の事だと思う。

  • @kimiakiooyama6149
    @kimiakiooyama6149 2 года назад

    小名木先生の解説は、古事記を嘘だと主張する左翼の歴史学者、文部省役人、日教組の先生
    らにとって痛い指摘になるでしょう。戦前の津田左右吉なんか、ひっくり返りますよ。
    興味深く拝聴しました。

  • @大森カモシカ
    @大森カモシカ 3 года назад +1

    日本全国輪中だったんですね

  • @氷見修一
    @氷見修一 2 года назад +1

    正史では欠失8代は徐福の長男の血筋 出雲徐福系 古事記も日本書紀もデタラメ 倭国大乱と卑弥呼の時代

  • @shoteocha6557
    @shoteocha6557 3 года назад +3

    誰も唱えていないようですが、もっと現実的な解釈が可能であると思います。
    卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命に比定する説があることはご存知と思いますが、これを土台にして現実的に解釈するんです。魏志倭人伝によれば卑弥呼の時代はまだ統一王朝がないことが読み取れます。そう考えると、倭迹迹日百襲姫命の時代にはまだ全国統一ができていないことになります。これを基点に考えると初めて全国統一に成功したのは崇神天皇なのではないでしょうか?すると欠史八代の天皇はまだ全国統一前にいたことになります。全国統一前の天皇なんておかしいですよね?しかし、中国の例を見てもわかるように、各王朝の初代皇帝が自分の父祖に後から皇帝の諡号を献ずる例があります。それと同じと考えると欠史八代の天皇は崇神天皇が全国統一後に先祖に諡したのではないでしょうか?これなら現実的に考えてもおかしくありません。業績などの記事がないのも当たり前です。だって全国統一してないんだから天皇としての業績なんかあるわけがありません。しかし、天皇家の当主であったことは間違いないのではないでしょうか?つまり実在したけど天皇ではなく、単なる当主だった。
    じゃあ、天照大神から崇神天皇まではどういう歴史だったのか?これは朝鮮南部にあった鉄器文化を持った王家が分家を日本に送った歴史ではないか?鉄器文化は古代世界史において単一起源であることが通説になっており、日本には朝鮮南部から伝わったと考えられる。倭人はどうしても鉄器文化が欲しいために国を一つ提供するぐらいの破格の好条件で分家を迎えたのではないでしょうか?結果的に朝鮮南部の本家は滅亡して日本に渡った分家は十代かけて日本全国統一に成功した。たぶん、日本に渡った分家の初代がニニギノミコトなんでしょう。
    これなら現実的に考えてもおかしくないストーリーになります。

    • @khg-zs2vd
      @khg-zs2vd Год назад

      神武天皇以前の大国主命が少名毘古那神(スクナビコナ)と一緒に日本各地に足跡を残されていますので、
      もうその頃から出雲が日本の大半を平和かつ豊かな国にされていたようです。
      お話の内容は倭国大乱であると思いますが、争いがあるからと言ってそれ以前、日本が全く統治されていなかったと考えるのは意味不明です。
      また鉄器ですが、日本の鉄器文化は非常に古くからあるようで、お話に出された魏志倭人伝を書いた国である魏に、鉄の剣を作って貿易していたのが古代日本になります。
      それまでは大陸に鉄の武器も道具も存在せず、日本が貿易で魏に鉄を伝えたからこそ、魏の曹操軍は強かったのです。

    • @khg-zs2vd
      @khg-zs2vd Год назад

      追記です
      大国主命の後の世に、大和の辺りに大物主命がいたとされ、
      大物主の別名をニギハヤヒまたは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と言われ、
      こちらの方も日本全国を平定する偉業を成し遂げたのではないかと言われています。

  • @n_o_i_s_e_m_a_n_jp
    @n_o_i_s_e_m_a_n_jp 2 года назад

    祟神天皇が実在したなら,その祖先が存在するのは疑いようがなく9代ほど前の祖先が九州から本州の各地王権と誼を結びながら畿内にやってきたとするならその方に初代天皇としておくり名をおくるのは当然のことでそれが神武だっただけ。なにも矛盾するようなことはない。そして得られた資料が家系図のようなものならば「そこに記載されている内容のみ書く」のが当然で,想像力で内容を膨らますべきであるはずがない。

  • @tourisugari6797
    @tourisugari6797 3 года назад +1

    2代から9代まではヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)とトヨの時代 神武は民衆が従わなかった。

  • @yukizokin
    @yukizokin 3 года назад +1

    なんか雑。推測することも放棄してるのに長々と。

    • @ナイトメア-l2d
      @ナイトメア-l2d 3 года назад

      まぁ、昔過ぎて考えるだけ無駄だからなぁ

  • @アイキング-y5h
    @アイキング-y5h 2 года назад

    時間の話しになったら何を言ってるのかわからないです。

  • @わたしはわたし123
    @わたしはわたし123 2 года назад

    実在したかどうかは問題ない?戦時中には天皇を現人神と信じて天皇陛下万歳と死んでいった国民が大勢いたかと思うのですが、その天皇家の初期天皇達が実在したかどうかも解らないというのは大問題ではないでしょうか。

  • @氷見修一
    @氷見修一 2 года назад +1

    小名木ゴマカシてるな

  • @宇宙一郎
    @宇宙一郎 2 года назад

    あなたは日本DSユーチューバー認定😂

  • @iwaitoshiji8147
    @iwaitoshiji8147 2 года назад

    小名木山の理論は我田引水が見苦し過ぎませんか?
    他人には固定観念は駄目と云いながら自分には随分甘いと思いますけど?
    又、日本人は膳で外来人帰化人は悪との固定観念が強すぎると思いますよ。力まないでもっとニュウトラルな思想が必要だと思いますけど如何ですか?

  • @mdqmie
    @mdqmie 2 года назад

    胡散臭いことゆうてらw
    普段と違ってこの回の話は参考にならんな
    特に後半

  • @お礼のプーさん
    @お礼のプーさん 2 года назад

    神武を紀元前600から700年に作ったために年代が間延びして、実在大王達の年齢を倍にしてるだけ。それでも無理があるのに春秋暦で年齢半分なんて話がめちゃくちゃで矛盾だらけ。もっと空白期間が生まれるよ。出雲を神話に閉じ込めた無理が出すぎ。出雲王朝について語って下さい。

  • @わたしはわたし123
    @わたしはわたし123 2 года назад

    公文書を黒塗したり改竄している政府が正しいとお墨付きを与えている歴史書の記述が絶対に正しいと言い切れますか?五摂家が今の政治家とも繋がっていること位知っていますよね?書物を編纂した一族が今の天皇家とも血縁関係にある訳ですがそこら辺はどう考えておられるのですか?古事記や日本書紀が書かれたのは国民の為にとおっしゃられていますが私には国民の為というよりも天皇家の正統性を高めようとしている書物の様に思いますが?

  • @nanatanaka1189
    @nanatanaka1189 2 года назад

    大昔のことは、並木良和さんや矢作直樹に訊くと明快に答えてくれます。やっぱり能力者に頼るのが一番な気がします。