赤城山を御神体とする赤城神社に秘められた謎〜今ここに真実が明かされる〜

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  • Опубликовано: 9 фев 2025
  • 赤城神社は、「赤城」を社名とする神社で群馬県に聳える赤城山を祀る神社である。
    赤城山は、関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置する山で、太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた島弧型火山としてカルデラ湖を伴うカルデラ台地となっている。
    日光市・男体山の北西麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめた、という伝説がある。
    赤城山の北にある老神温泉の地名は、このとき落ち延びた神が追われてやってきたことに由来。
    「アカギ」という山名も神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたという説もある。
    戦場ヶ原で負けた赤城山の神は老神温泉で傷を癒した後に男体山の神を追い返したという。
    また、開湯伝説では、赤城山の神が大蛇、男体山の神が大ムカデとなっており、大蛇が勝利したという説になっている。
    全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神社があるといわれ、その中でも特に山腹の三夜沢赤城神社または山頂の大洞赤城神社が総本宮とされる。
    赤城神社は、豊城入彦命が上毛野国を支配することになった際には既に山と沼の霊を奉斎したと伝えられ、允恭天皇・用明天皇の時代に社殿を創設、その後806年(大同元年)、神庫山(後の地蔵岳)中腹より大沼の南の畔に遷座した。
    この遷座の故事に因み、神社周辺を大洞、又は大堂と呼ばれており、赤城山山頂に元宮が鎮座しており、山の赤城大明神、沼神の赤沼大神として古代から祀られていた。
    山名自体も『万葉集』には「久路保の嶺ろ」と記されており、8世紀頃までは「くろほのねろ」と称されてきた。
    赤城南麓を流れる粕川の水源としての信仰(水源地・小沼への信仰)と、最高峰の黒檜山などへの雷神信仰、および赤城山そのものへの山岳信仰が集まって成立した。
    また、当地の豪族・上毛野氏が創始したとする説もあり、各社で社伝として上毛野氏との関係性が伝えられている。
    「赤城」の由来の一説として、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先と発生地を「紀(き = 紀伊)」地方に求め、祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山を「あかき(赤城山)」とした、との説もある。
    現在は安産の神として信仰されるが、神体として社殿の裏手に赤城山火砕流の巨岩がある点や、南面する旧参道から見ると赤城山を望む点は、原始的な赤城への信仰形態である。
    律令体制が崩壊して武家政権が成立すると、朝廷・国司の権力によって支援されていた里宮は衰退し、村落部の信仰の中心は、参詣路の集まる場所に設けられた中社(中之宮)へと移った。
    一方、仏教の伝来は神仏を習合させ、修験者は全国の山深く修行の場を求めて入山した。
    彼らによって山頂の山宮への信仰が集まり、山宮への信仰が盛んになった。
    赤城神社もこの傾向に反さず、『神道集』には「赤城大明神縁起」として赤城山山頂部の神社が紹介されている。
    また仏教の影響で、沼や山岳自体を神とみる見解は廃れ、沼などに本地仏を当てるようになった。
    赤城大明神は「二大明神」として赤城山火口湖の小沼と大沼が神格化され、小沼神に虚空蔵菩薩、大沼神に千手観音があてられた。
    後に中央火口丘の地蔵岳の信仰も加わり、地蔵岳は地蔵菩薩があてられ、「三所明神」と称するようになった。
    なお大沼の千手観音像は大洞赤城神社に安置された。
    沼の神格化に関しては『宮城村誌』において、元慶4年条に「赤城沼神」(『三代実録』寛文13年刊本)とあるため、この頃に赤城神が小沼の神(のち大沼を加え2神)であったと推測されている(ただし「赤城石神」と記す写本もある)。
    山宮・里宮の位置に関しては、赤城山大沼の大洞赤城神社(前橋市富士見町赤城山)が山宮、二宮赤城神社(前橋市二之宮町)が里宮にあたるとされ、中社は三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)である。
    また地蔵信仰が追加された14世紀ごろに、三夜沢赤城神社の東宮が、地蔵を祀るものとして現在地に成立した。
    その後、元三夜沢にあった西宮が東宮の場所に移転し、三夜沢赤城神社は東西2宮で構成されることになった。
    三夜沢の西宮は二之宮町の神社と同系列とみられるが、起源は不明である。
    戦国時代に入ると、二宮赤城神社が後北条氏により破却され衰亡した。再興は江戸時代に入ってからで、三夜沢赤城神社(西宮)の影響下での復興だった。一方で大洞・三夜沢の赤城神社は長尾氏・上杉氏などの信仰を集めるなど隆盛している。
    江戸時代には、大洞赤城神社は厩橋城(前橋城)の鬼門を鎮めるものとして、前橋藩主の信仰が厚くなった。1601年(慶長2年)酒井重忠により社殿改築。このとき「正一位 赤城大明神・赤城神社」とされており、律令時代の神階を引き継いだ表現となっている。1642年(寛永19年)には藩主酒井忠清により、前年に火災で焼失した社殿が造営された。
    歴代前橋藩主は大洞赤城神社の例大祭に参列もしている。
    寛政年間には、大洞赤城神社と三夜沢赤城神社東西両宮が「本宮」「総社」「正一位」などの名称使用を巡って訴訟沙汰となった。
    まず1798年(寛政10年)、三夜沢に正一位を与えた吉田家に、大洞側が「正一位」と記載された献額を求めた。
    この要求に対し吉田家は三夜沢側に問い合わせ、三夜沢側はこれを不可と返答した。
    しかし翌年、吉田家と対立していた神祇伯白川伯王家が、「上野国総社大洞赤城神社」の額面・「本社」「本宮」と記載された添状を大洞赤城神社へ奉納した。
    そしてこの額面が千住観音とともに開帳されることになった。
    長元以来の正一位を自称する大洞側が、正一位となった三夜沢に対抗したものであった。
    「本社」を自称する三夜沢側は強く反発し、1800年(寛政12年)、大洞赤城神社別当・寿延寺および白川伯王家を相手に開帳差し止めを含んだ訴訟を起こした。
    吉田家が背後に控える三夜沢赤城神社と、大洞赤城神社(寿延寺)および白川家という対立であった。
    領主の川越藩主松平氏が仲裁に入り、当該額面の封印の上で開帳自体は予定通り行われた。
    しかし論争は終わらず、1802年(享和2年)には三夜沢側が幕府の寺社奉行へ訴え、国許で解決すべしと下げ渡されている。
    結局、額は内陣へ納め、文言使用を合議で決めるという和議が両者間で成ったのは1816年(文化13年)であった。
    明治時代に入ると、赤城神社も体制の変動があった。
    三夜沢赤城神社では廃仏毀釈により、神宮寺取り壊しが行われ仏教色は完全に排除された。
    また東西2宮を統合し、東宮側が中心となって新たに1宮体制をとっている。
    一方、大洞赤城神社は別当・寿延寺が祭祀を司っていたため、廃仏毀釈の結果、寿延寺を分離して新たに神官を地元から任じることになった。
    近代社格制度では三夜沢が県社、大洞・二之宮は郷社となった。
    そして1936年(昭和11年)、国幣社への昇格運動が三夜沢赤城神社で起こった。
    この運動は赤城神社の調査研究などを含んでおり、豊城入彦命が主祭神では赤城神社の歴史と異なるとの指摘を受けるなどしている。
    この結果、1944年(昭和19年)内務省神祇院は三夜沢の赤城神社に対して、「赤城大神」として赤城山の神を合わせ祀り他の赤城神社と歴史の共有性をもたせ、三夜沢・大洞(元宮)・二之宮(旧里宮)の神社をあわせて国幣中社とするとした。
    しかし、終戦により実現はしなかった。
    戦後の1970年(昭和45年)、大洞の赤城神社は、明治期に企図されながら財政難で実現しなかった社殿の改築移転を実行した。
    山頂の厳しい自然環境により、寛永19年(1642年)造営以来の社殿が老朽化したためである。
    大沼にある小鳥ヶ島に再建され、現在に至っている。
    赤城山といえば、上州の侠客・国定忠治で有名であり、明治、大正、昭和初期に講談や新国劇の題材として大人気だった。国定忠治の一節「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ) たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」の台詞で、この山の名前が全国に広がった。
    その昔、第17代天皇履中天皇の時代、高野辺大将家成という公家がいた。ある時、無実の罪で、上野國勢多郡深栖(現前橋市粕川町深津ともいわれる)という山里に流され、そこで、若君一人、姫君三人に恵まれた。
    成人した息子は、都へ上り仕官したが、三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていた。
    淵名姫・赤城姫・伊香保姫がそれぞれ十一歳、九歳、七歳の春に、母親が38歳で亡くなってしまい、父家成は、その年の秋に世間の習慣に従って後妻を迎える。
    その後、罪を許された家成は、上野国司に任命され任地へ向かうが、三人の娘たちは、それぞれの乳母の元で成長する。継母は、美しく成長した三人の娘を疎ましく思うようになり、弟の更科次郎兼光をそそのかして殺害を計画する。
    兼光は、まず姉姫である淵名姫を、利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺してしまう。次女の赤城姫も追われ、赤城山に逃げ込んだところ、赤城の沼の龍神が現れ姫を助けてくれた。姫はその後、龍神を継いで赤城大明神となる。 末の伊香保姫は、伊香保太夫の居城に護られなんとか生きながらえることができた。
    事件を知った家成は、慌てて戻るが、時すでに遅く、淵名姫の亡くなった淵で神となった淵名姫と再会し、悲しみのあまりこの淵に入水してしまう。
    都で出世していた息子は、この知らせを聞き軍勢を率いて戻り、兼光を殺し、継母らを捕らえるが、仮のも一時は母であったという理由で、殺さずに、継母の出身地・信濃へ追放した。信濃へ戻った継母は、甥を頼るが、甥に捨てられ死んでしまう。この、甥が叔母を捨てた山が、姥捨山と言われている。
    事件を収拾させた息子は、淵名姫の死んだ淵に淵名明神の社を立てる。その後、大沼(赤城大沼)の畔で、神となって一羽の鴨の羽に乗った妹、淵名姫・赤城姫と再会する。この鴨が大沼に留まり、島となったのが、現在赤城神社のある小鳥ヶ島である。その後、大沼と小沼の畔に、神社を建て(赤城神社・小沼宮)、神々をお祀りしたと伝わる。
    事件後兄は都に戻り、伊香保大夫が国司の後見(代理職)を務めた。現在も赤城山大沼、小鳥ヶ島に建つ赤城神社は「女性の願いがかなう」とされ、たくさんの女性参拝者が訪れている
    #歴史 #神社 #パワースポット

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