ここが古代関東の最大都市!古来藤原氏が厚く崇敬し楠木正成の義兄が再興した氏神・多武峰神社〜埼玉県ときがわ町〜

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  • Опубликовано: 9 фев 2025
  • 【建武中興と楠木正成の真実】
    建武中興と楠木正成の真実 amzn.asia/d/dR...
    埼玉県ときがわ町にも多武峰という地名があり、なぜ奈良の地名がこんなところに?と不思議に思い惹かれて行ってみたところ、けもの道のような細く険しい林道を奥に分け入った所に多武峰神社というお宮が。
    御祭神は天智天皇と共に乙巳の変(大化の改新)を成し遂げた藤原鎌足。
    その遺髪をこの地に埋葬し墓所として、武蔵国の藤原氏の氏神とし、慶雲3(706)年、多武峰神社が創建されました。
    多武峰神社の社殿裏の鎌足墓の周囲からは埼玉県内で奈良時代の瓦が最多出土した多武峯瓦塔遺跡で知られます。
    ときがわ町の地名の由来はこの地を流れる川が「斎(と)き川」、つまり多武峰神社に参拝する際にお浄めをする川であった事から多武峰神社の神宮寺だった慈光寺の山号として「都幾山(ときがわ)」に充てられ、現在のときがわ町の町名が付けられました。
    多武峰神社参道入り口駐車スペースから高台に見えるのが観音堂(現・多武峯神社)を管理していた武藤家の屋敷で、武藤家のあるこの地域を多武峯といいます。
    多武峰とは本来、中大兄皇子(後に即位して天智天皇)と中臣鎌足(後に藤原鎌足)とが初めて出会い、皇室をおびやかしていた蘇我入鹿の暗殺計画を日夜企てた奈良県桜井市の談山神社の神体山・談山(かたらい山)のある多武峰を指しますが、なぜ奈良から遠く離れたこの地に多武峰と名付けられた神社があるかというと、慶雲3年(706)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現があったから。
    その後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。
    また、観音堂領として慶安2年(1649)徳川家光より5石の朱印状が下されています。
    この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場となりました。
    慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達であった入間郡越生郷の山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。
    更に元禄6年(1693)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の内50箇村の年行事職を認められました。
     現存する武藤家の母屋は17世紀に建設されたもので、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存しています。
     明治2年(1869)の布告により修験は廃止されます。
    神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼坊は姓を武藤に改め神職となりました。
     このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの貴重な文化財を所蔵しています。
    また、多武峯には天狗や竜宮の穴などの伝説も伝わっています。
    往古からこの地を武州多武峯と称されてきました。
    多武峯神社の御祭神は藤原鎌足公で、今から1200年以上前、即ち慶雲三丙午年(706)の3月、大和の国多武峯談山から公の慰霊を当山に還し武藤家の守護神として祀られたのが創祀。
    以来文人武人の信仰殊に篤く、南北朝に降って神社山麓に火災起りその類焼を蒙り全山灰塵に帰してしまったが、当山第三十八世一峯法印別当の世、時の中納言だった藤原藤房卿が大願主となって当地竜ケ谷の工匠・森川金八に命じ、三間四面朱塗りの殿堂を再建させました。
    時正に正慶2(1333)年8月15日の事です。
     明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観音と相殿で、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状を賜わり当地は観音堂領となっていました。
    世の人当山を「観音山」と言い鬱蒼とした原生林に覆われた神域は「天狗の山」とも言われてきました。
     明治40年1月19日の夜、再び火災に見舞われ社殿は焼失し山容は見る影もない形相となってしまいましたが、大正15年2月、当山第六十四世が現在の神社を再建しました。
     神秘の山・多武峯は断崖の絶壁、龍宮の穴等人跡未路の聖地もあり独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものがあります。
    尚、当山山頂に閼を廻らし文亀2年建立(463年前)の五輪搭があるがこれは祭神鎌足公の墓でありこの塚から奈良朝末期作の瓦塔の破片古壺等の出土品多数あり昭和34年3月、多武峯瓦塔遺跡として埼玉県指定史蹟に指定されました。
    奇しくも、来年は中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が誅伐された乙巳の変(大化の改新)があった年と同じ歳周りの乙巳。
    「乙」は十干の2番目で、植物の生長サイクルに例えると、草木の幼芽が屈曲して伸び始める状態を指します。
    「巳」は十二支の6番目で草木の成長が最盛期を迎えた状態を表しており、動物は蛇(ヘビ)を当てます。
    古来、蛇は「神の使い」として信仰の対象とされ、脱皮を繰り返し成長するさまは「生命力」「復活・再生」の象徴とされます。
    総じて「乙巳」は、紆余曲折を経た努力が実を結び、将来にわたる成果となって現れる年と位置付けられます。
    また「巳」は蛇のイメージから「再生と変化」を意味します。
    脱皮し強く成長する蛇は、その生命力から「不老長寿」を象徴する動物、または神の使いとして信仰されてきました。
    この2つの組み合わせである乙巳には、「努力を重ね、物事を安定させていく」といった縁起の良さを表しています。
    そんな年を迎えるにあたり、多武峰神社に導かれた事はなんと有難き引き寄せのご縁かと、心より感謝するものです。
    多武峯御詠歌
     はるばると 登りて聞けば 百鳥の
          声もみのりも かたらびの峯
    #神社 #楠木正成 #歴史

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