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確かに白狼山の戦いくらいしか知らないから見てみたかった内容です。中華 x 異民族の目線での異民族解説は面白いです。
五胡十六国時代にも繋がりますし、これからもどしどし触れていこうかなと!
【なんとなく烏桓の小ネタ】①『時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。』(先主伝)↑何気に公孫瓚は劉備に幽州烏丸雑胡騎を与えている。此処から見ると公孫瓚に従った烏桓(烏丸)も居た事が判る。②公孫瓚は遼東属国長史になってます。遼東属国とは遼東郡とは別物です。属国は異民族が多く住んでおり、属国の統治には太守は置かれずに属国都尉が配置されます。(属国は軍政だと思えば理解が早いと思う)その属国都尉のNo2が属国長史になります。郡 →太守国 →相属国→属国都尉③張純の乱のちょっと前の話。北軍中候鄒靖上言「烏桓眾弱,宜開募鮮卑」。事下四府,大將軍掾韓卓議,以為「烏桓兵寡,而與鮮卑世為仇敵,若烏桓被發,則鮮卑必襲其家。烏桓聞之,當復棄軍還救。非唯無益於實,乃更沮三軍之情。鄒靖居近邊塞,究其態詐。若令靖募鮮卑輕騎五千,必有破敵之效」。 ↑鄒靖が『烏桓は弱いから鮮卑を連れて行こう』と進言してます。韓卓が『烏桓の入れたら仇敵の鮮卑が空巣に来るから、烏桓は勝手に帰還する。あとは熟知した鄒靖に任せよう』と言ってます。(ざっくりした訳で申し訳無いw)これは烏桓と鮮卑が仇敵同士であると判る話です。
いつもいつも、本当にありがとうございます。毎回スクショさせていただいてます(笑)
実際、鮮卑人と烏桓人はずっと敵であり友でもあった。光武帝時代は烏桓人を懐柔し、““令招来種人,給其衣食,遂為漢偵候,助撃匈奴、鮮卑”、彼らを利用して鮮卑と南匈奴を攻撃していた(その中で匈奴勢力は烏桓の反復服従、反逆の下ですでにほとんど完全に漠南を脱退していた)後漢中後期になると、鮮卑と烏桓は相互利用の関係であり、双方は漢王朝に対して「或降或叛」の策略をとり、時には互いに攻撃し、時には協力して漢王朝の国境を略奪した。
夜勤前にスパスパ書いたせいか誤字が酷くて申し訳無い(笑)
大学生になって、知識ゼロの状態から三国史の世界に足を踏み入れようとしている者です。このような解説動画非常に助かります。ありがとうございます……!
これはこれは、ようこそ三国志へ!(笑)どんなことでもいいので質問していただければ、自分を含め、有識者視聴者様から嬉々として濁流のように回答コメントが飛んでくると思うので、ぜひぜひお気軽に楽しんでいってくださいませ🐎
歴史書ではなく小説ですが、秘本三國志の蹋頓もなかなか興味深い人物として描かれてました。
いつも勉強になってます!
一応、張超というのが398年に烏丸王を名乗って独立してます。(『魏書』太祖紀)『晋書』『魏書(北魏の方)』にはチョコチョコ出てくるので、民族としては細々と続いたようです。マニアックな話はともかく、三国時代に烏桓が烏丸になるのは曹丕の字が子桓だったから(たぶん)
あー、その名前の件もどうしようか悩んで結局省いたんですけど、そっか、曹丕の字名のことがあったからというのもあるのか('ω')!
ついでに。前も言ったかもしれませんが最近は「騎馬民族」という言葉はあまり使われません。(要は中原でも騎馬は使うよね?って話)「遊牧民族」はまだOKかな? ただし定住ではなくちゃんと「遊牧」してることが条件だけど。なお烏丸の場合は農耕もしていたことが明らかなんですよね。(烏桓伝注にある『魏書』に「畑を耕し種をまく」と書いてある。)
なんか半農半牧だったと教わった記憶がある
袁紹は優柔不断ってのが世間での評価ですが、今回の解説のように公孫瓚の滅亡(つまり幽州の制圧とそれに伴う華北統一)が西暦199年で”官渡の戦い”と表現される河南への侵攻が翌200年兵站、兵糧の事を考えれば対公孫瓚で消耗した物資、兵糧の回復を1年(特に兵糧はおそらく年一回の収穫)でやり遂げた(というかおそらく公孫瓚から奪った物資を即次戦にぶっこんだと思われる)わけで😗
比較対象の曹操が果断過ぎるから、まともなはずの袁紹が優柔不断っぽく見えがち説(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA なんなら割と曹操はうじうじしてる時もある
@@KOUMEI_NO_WANADA 曹操も荊州侵攻で思わぬ(※曹操の劉表暗殺、蔡家との内通を指摘する説もあり)無条件降伏で得た莫大な物資と水軍に気を大きくして「よし!このまま連戦行くか😃」で赤壁で大敗してますので『易京に10年籠れる』と謳われた公孫瓚の埋蔵金を得て気を大きくした袁紹と同列っちゃあ同列ですね笑ちなみに数年後、同様にほぼほぼ無傷で敵軍物資を奪取し、気を大きくして「この物資使ってこのまま連戦で益州侵攻しちゃいましょう😆」との若手参謀の進言を「若いのう~😗
この激烈に悪い環境を越えて平定した曹操はやはり桁外れそして軍師郭嘉 張遼 徐晃 于禁らも素晴らしい活躍しかし代償は風土病による郭嘉の早逝と色々感慨深い遠征
烏桓族は結局中華北部で漢人に吸収された感じがするけどな、各時代に必ずといっていいほど北部出身の騎馬戦法が得意な武将や集団が漢人として登場するのはそういう事じゃないかな
烏桓族に対する劉虞と公孫瓚の戦略は第二次世界大戦前の大英帝国政府で第三帝国との宥和を選んだチェンバレンと強硬派のチャーチルの対立に通ずるものがあるんで烏桓族に与した袁紹はソ連のスターリンで異民族に二択を迫った曹操は合衆国ってな感じか
今では外モンゴル、ロシア、中国国内でも烏桓人の墓を見つけるのは難しいが、烏桓人にひどく破壊された匈奴貴族の墓をよく見つけることができる(これは漢書に記載されている烏桓人の匈奴への報復行為と一致している)。最も典型的なのはモンゴルの高勒毛都2号墓地だ。烏桓人に関する最も重要な墓と遺跡は実際には中国国内、内蒙古自治区和林格爾県にある31基の漢代墓であり、その中の1つは烏桓校尉の墓である。墓の主人の身分は烏桓校尉で、彼の墓室にある壁画も烏桓人を研究するための参考材料になった。
羌族を楽しみにしてます
BGMがスーファミ世代の自分に刺さるほのぼのシュミレーションゲームしてるみたいです
コーエー三国志で地味に面倒くさい存在
烏桓族は最強の騎馬民族と言われました。其の力を欲した曹操が10万の大軍を従え、蹋頓らは張遼の部下となったと言います。
勉学なります
嫁にしたい娘を攫って結婚するってのも今のキルギス辺りに風習として残ってるし一日の移動距離が滅茶苦茶広い遊牧民だと混血も多くて民族の区別なんてほぼ成り立たないんだよね
烏丸の婚姻について補足しときます。なんかスゲー野蛮な風習みたいになってたけど、実際はお試し期間を設けましょうということでしょう。(現代だとフランスがそうですね。)婚姻というのは家と家の婚姻なので、すぐ破綻すると周りにも迷惑です。一定期間一緒に暮らして相性を確認した後、妻の実家でじっくり査定をうけ、合格の暁には正式な婚姻と認めましょう、という流れです。最初が略奪扱いなのは、親はまだ認めてないぞということですね。
烏桓(烏丸)族は騎馬民族であり北方の異民族の中でも騎馬で強いイメージがありますが、漢民族内の争いにも巻き込まれて静かに消えてしまいましたね。
ですねぇ。光武帝時代にも、あっちこっちの将軍から烏桓突騎はレンタルされてますし('ω')(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 強力なトップが現れなかったのか、漢民族と同一化を選んだのかはわかりませんが異民族内でも対応が異なりますね。
一番乗り。匈奴の冒頓単于と劉淵、鮮卑の拓跋等中国に国歌をなした民族には大いなるリーダーがいた。烏桓にこのようなリーダーがいたら、一国家まで行かなくとも、公孫一族程度の政権を成し得ただろうか。
ただもうめちゃくちゃ分割と移住を繰り返されてるから、カリスマが現れようと民族が結集できないんで、白狼山の敗戦以降は再起が難しかったんじゃないかなぁ、なんて。
PS2 の三国志Ⅳで烏丸って覚えてしまってた。。。異民族にはお金やら兵糧やら、ギフトしまくり。いつの時代も二大勢力の狭間に位置すると、相当に外交上手にならないとちょっと大変(具体例は時勢的にややこしい…)。食糧や資源などは乏しくなるほど絶対数に近くなるから、“奪い合い”が起こる充分な要因ですよね。持ちつ持たれつやればいい、とは思うが。。。
大河ドラマでも、築山殿がそんな理想論(持ちつ持たれつ)を語ってましたね。勝頼に「女のままごと」扱いされてましたが🐎偏りが生まれるのは、仕方のない話なんですかね…
烏の王だ!()蹋頓のイメージが強いなぁ
蒼天航路では見事にモンスターと化した人(笑)
曹操への敗戦後、民族としての烏丸は存在感を大きく低下させましたが、敗戦後、烏丸の一部の集団は鮮卑の拓跋部の下に段階的に降ったようです。その後、三国時代から五胡十六国時代までの間ずっと、拓跋部内では烏丸系と鮮卑系の間で主導権争いが続きましたが、拓跋部が北魏を建国し、華北を統一したのとほぼ同時期に烏丸系の部族柔然は北魏から独立し、他部族を飲み込んでモンゴル高原に巨大な遊牧国家を築きました。(この柔然を純粋な烏丸族と呼んでいいかは分かりませんが)柔然は150年ほどで別の民族に負け滅びるのですが、その際西に逃れた集団が建国したのが当時の東欧の遊牧系国家、アヴァールだという説もあるらしいです。(烏丸の当時の中国語での発音はavarだと推定されている)まあ、どこかで聞いた話なんで詳しいことは分かりません
魏晋時代に漢人化が進み、「雑胡(雑人)」扱いされてたようですが、一応、アイデンティティは残ってたようです。後燕の将軍に烏桓出身の名前が見えます。その中の1人、張驤は、397年に戦いに敗れて北魏に降伏します。398年、張驤の息子、張超は、烏桓・漢人3千世帯を率いて南皮を占領し、「烏桓王」を名乗りましたが、ほどなくして北魏に討伐されてます。これが最後の記述です。
非常に参考になる…ありがとうございます!(*'ω'*)
蹋頓の読みは「トウトン」なのか「トウトツ」なのか?一応どちらでも変換できます。
合肥「がっぴ、ごうひ」夏侯惇「かこうとん、かこうじゅん」と同じで、たぶんどっちでもOKなんだと思います🤔
「頓」の古音は「du」だが、現代の発音は「dun」,中古擬音は「tuot」。これはたまに漢語の音訳で出てくる匈奴、烏桓、鮮卑の名前に出てくる漢字です。「頓」とい遊牧民族の漢字人名、後のモンゴル・突厥語の「baytur」(英雄、勇士)と関係があるという説がある。しかし何の証拠もない。
公孫サンの栄光と末路は三国志鬱エピソードのひとつといえる異民族はカヒノウとかゴツトツコツとかオフラとかトウトンとか名前がすごいなぁ
兀突骨 ←この字面よ(笑)
らら^_^、わ、を、。!ん☺️😊
三國時代ではないけど穢獏・高車・羯靺あたりも解説見たいですね
いつも楽しく拝見しています^ ^烏丸族は、蒼天航路での登場シーンが印象的だっただけに、その後があまりパッとしないのが、ちょっと悲しかったです(´;ω;`)
もう人間じゃなかったですしね(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADAどちらかというと、水木しげる御大の守備範囲でしたよね笑笑
活躍?したほうだと思うけどなあ。曹軍最強武将と最強軍師の前に善戦?するも敗北。曹操直々敵認定されて処刑。配下達は、騎兵として曹軍に編入。恐らくは張遼配下とかで孫権を圧倒したんじゃないかな。
「貴様、歪ながらも天下を語ったな」は今でも印象に残ってる
ウガンダとは無関係
なぜ烏垣や鮮卑族の事を話すのでしょうか?所詮三国志の話でしょう。
?
確かに白狼山の戦いくらいしか知らないから見てみたかった内容です。
中華 x 異民族の目線での異民族解説は面白いです。
五胡十六国時代にも繋がりますし、これからもどしどし触れていこうかなと!
【なんとなく烏桓の小ネタ】
①『時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。』(先主伝)
↑何気に公孫瓚は劉備に幽州烏丸雑胡騎を与えている。此処から見ると公孫瓚に従った烏桓(烏丸)も居た事が判る。
②公孫瓚は遼東属国長史になってます。遼東属国とは遼東郡とは別物です。属国は異民族が多く住んでおり、属国の統治には太守は置かれずに属国都尉が配置されます。(属国は軍政だと思えば理解が早いと思う)
その属国都尉のNo2が属国長史になります。
郡 →太守
国 →相
属国→属国都尉
③張純の乱のちょっと前の話。
北軍中候鄒靖上言「烏桓眾弱,宜開募鮮卑」。事下四府,大將軍掾韓卓議,以為「烏桓兵寡,而與鮮卑世為仇敵,若烏桓被發,則鮮卑必襲其家。烏桓聞之,當復棄軍還救。非唯無益於實,乃更沮三軍之情。鄒靖居近邊塞,究其態詐。若令靖募鮮卑輕騎五千,必有破敵之效」。
↑鄒靖が『烏桓は弱いから鮮卑を連れて行こう』と進言してます。
韓卓が『烏桓の入れたら仇敵の鮮卑が空巣に来るから、烏桓は勝手に帰還する。あとは熟知した鄒靖に任せよう』と言ってます。(ざっくりした訳で申し訳無いw)
これは烏桓と鮮卑が仇敵同士であると判る話です。
いつもいつも、本当にありがとうございます。毎回スクショさせていただいてます(笑)
実際、鮮卑人と烏桓人はずっと敵であり友でもあった。
光武帝時代は烏桓人を懐柔し、““令招来種人,給其衣食,遂為漢偵候,助撃匈奴、鮮卑”、彼らを利用して鮮卑と南匈奴を攻撃していた(その中で匈奴勢力は烏桓の反復服従、反逆の下ですでにほとんど完全に漠南を脱退していた)
後漢中後期になると、鮮卑と烏桓は相互利用の関係であり、双方は漢王朝に対して「或降或叛」の策略をとり、時には互いに攻撃し、時には協力して漢王朝の国境を略奪した。
夜勤前にスパスパ書いたせいか誤字が酷くて申し訳無い(笑)
大学生になって、知識ゼロの状態から三国史の世界に足を踏み入れようとしている者です。このような解説動画非常に助かります。ありがとうございます……!
これはこれは、ようこそ三国志へ!(笑)
どんなことでもいいので質問していただければ、自分を含め、有識者視聴者様から嬉々として濁流のように回答コメントが飛んでくると思うので、ぜひぜひお気軽に楽しんでいってくださいませ🐎
歴史書ではなく小説ですが、秘本三國志の蹋頓もなかなか興味深い人物として描かれてました。
いつも勉強になってます!
一応、張超というのが398年に烏丸王を名乗って独立してます。(『魏書』太祖紀)
『晋書』『魏書(北魏の方)』にはチョコチョコ出てくるので、民族としては細々と続いたようです。
マニアックな話はともかく、三国時代に烏桓が烏丸になるのは曹丕の字が子桓だったから(たぶん)
あー、その名前の件もどうしようか悩んで結局省いたんですけど、そっか、曹丕の字名のことがあったからというのもあるのか('ω')!
ついでに。前も言ったかもしれませんが最近は「騎馬民族」という言葉はあまり使われません。
(要は中原でも騎馬は使うよね?って話)
「遊牧民族」はまだOKかな? ただし定住ではなくちゃんと「遊牧」してることが条件だけど。
なお烏丸の場合は農耕もしていたことが明らかなんですよね。
(烏桓伝注にある『魏書』に「畑を耕し種をまく」と書いてある。)
なんか半農半牧だったと教わった記憶がある
袁紹は優柔不断ってのが世間での評価ですが、今回の解説のように公孫瓚の滅亡(つまり幽州の制圧とそれに伴う華北統一)が西暦199年で”官渡の戦い”と表現される河南への侵攻が翌200年
兵站、兵糧の事を考えれば対公孫瓚で消耗した物資、兵糧の回復を1年(特に兵糧はおそらく年一回の収穫)でやり遂げた(というかおそらく公孫瓚から奪った物資を即次戦にぶっこんだと思われる)わけで😗
比較対象の曹操が果断過ぎるから、まともなはずの袁紹が優柔不断っぽく見えがち説(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA なんなら割と曹操はうじうじしてる時もある
@@KOUMEI_NO_WANADA 曹操も荊州侵攻で思わぬ(※曹操の劉表暗殺、蔡家との内通を指摘する説もあり)無条件降伏で得た莫大な物資と水軍に気を大きくして「よし!このまま連戦行くか😃」で赤壁で大敗してますので
『易京に10年籠れる』と謳われた公孫瓚の埋蔵金を得て気を大きくした袁紹と同列っちゃあ同列ですね笑
ちなみに数年後、同様にほぼほぼ無傷で敵軍物資を奪取し、気を大きくして「この物資使ってこのまま連戦で益州侵攻しちゃいましょう😆」との若手参謀の進言を「若いのう~😗
この激烈に悪い環境を越えて平定した曹操はやはり桁外れ
そして軍師郭嘉 張遼 徐晃 于禁らも素晴らしい活躍
しかし代償は風土病による郭嘉の早逝と色々感慨深い遠征
烏桓族は結局中華北部で漢人に吸収された感じがするけどな、各時代に必ずといっていいほど北部出身の騎馬戦法が得意な武将や集団が漢人として登場するのはそういう事じゃないかな
烏桓族に対する劉虞と公孫瓚の戦略は
第二次世界大戦前の大英帝国政府で
第三帝国との宥和を選んだチェンバレンと
強硬派のチャーチルの対立に通ずるものがある
んで烏桓族に与した袁紹はソ連のスターリンで
異民族に二択を迫った曹操は合衆国ってな感じか
今では外モンゴル、ロシア、中国国内でも烏桓人の墓を見つけるのは難しいが、烏桓人にひどく破壊された匈奴貴族の墓をよく見つけることができる(これは漢書に記載されている烏桓人の匈奴への報復行為と一致している)。最も典型的なのはモンゴルの高勒毛都2号墓地だ。
烏桓人に関する最も重要な墓と遺跡は実際には中国国内、内蒙古自治区和林格爾県にある31基の漢代墓であり、その中の1つは烏桓校尉の墓である。墓の主人の身分は烏桓校尉で、彼の墓室にある壁画も烏桓人を研究するための参考材料になった。
羌族を楽しみにしてます
BGMがスーファミ世代の自分に刺さる
ほのぼのシュミレーションゲームしてるみたいです
コーエー三国志で地味に面倒くさい存在
烏桓族は最強の騎馬民族と言われました。其の力を欲した曹操が10万の大軍を従え、蹋頓らは張遼の部下となったと言います。
勉学なります
嫁にしたい娘を攫って結婚するってのも今のキルギス辺りに風習として残ってるし
一日の移動距離が滅茶苦茶広い遊牧民だと混血も多くて民族の区別なんてほぼ成り立たないんだよね
烏丸の婚姻について補足しときます。
なんかスゲー野蛮な風習みたいになってたけど、実際はお試し期間を設けましょうということでしょう。
(現代だとフランスがそうですね。)
婚姻というのは家と家の婚姻なので、すぐ破綻すると周りにも迷惑です。
一定期間一緒に暮らして相性を確認した後、妻の実家でじっくり査定をうけ、合格の暁には正式な婚姻と認めましょう、という流れです。
最初が略奪扱いなのは、親はまだ認めてないぞということですね。
烏桓(烏丸)族は騎馬民族であり北方の異民族の中でも騎馬で強いイメージがありますが、漢民族内の争いにも巻き込まれて静かに消えてしまいましたね。
ですねぇ。光武帝時代にも、あっちこっちの将軍から烏桓突騎はレンタルされてますし('ω')(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 強力なトップが現れなかったのか、漢民族と同一化を選んだのかはわかりませんが異民族内でも対応が異なりますね。
一番乗り。匈奴の冒頓単于と劉淵、鮮卑の拓跋等中国に国歌をなした民族には大いなるリーダーがいた。烏桓にこのようなリーダーがいたら、一国家まで行かなくとも、公孫一族程度の政権を成し得ただろうか。
ただもうめちゃくちゃ分割と移住を繰り返されてるから、カリスマが現れようと民族が結集できないんで、白狼山の敗戦以降は再起が難しかったんじゃないかなぁ、なんて。
PS2 の三国志Ⅳで烏丸って覚えてしまってた。。。異民族にはお金やら兵糧やら、ギフトしまくり。
いつの時代も二大勢力の狭間に位置すると、相当に外交上手にならないとちょっと大変(具体例は時勢的にややこしい…)。
食糧や資源などは乏しくなるほど絶対数に近くなるから、“奪い合い”が起こる充分な要因ですよね。
持ちつ持たれつやればいい、とは思うが。。。
大河ドラマでも、築山殿がそんな理想論(持ちつ持たれつ)を語ってましたね。勝頼に「女のままごと」扱いされてましたが🐎
偏りが生まれるのは、仕方のない話なんですかね…
烏の王だ!()
蹋頓のイメージが強いなぁ
蒼天航路では見事にモンスターと化した人(笑)
曹操への敗戦後、民族としての烏丸は存在感を大きく低下させましたが、敗戦後、烏丸の一部の集団は鮮卑の拓跋部の下に段階的に降ったようです。その後、三国時代から五胡十六国時代までの間ずっと、拓跋部内では烏丸系と鮮卑系の間で主導権争いが続きましたが、拓跋部が北魏を建国し、華北を統一したのとほぼ同時期に烏丸系の部族柔然は北魏から独立し、他部族を飲み込んでモンゴル高原に巨大な遊牧国家を築きました。(この柔然を純粋な烏丸族と呼んでいいかは分かりませんが)
柔然は150年ほどで別の民族に負け滅びるのですが、その際西に逃れた集団が建国したのが当時の東欧の遊牧系国家、アヴァールだという説もあるらしいです。(烏丸の当時の中国語での発音はavarだと推定されている)
まあ、どこかで聞いた話なんで詳しいことは分かりません
魏晋時代に漢人化が進み、「雑胡(雑人)」扱いされてたようですが、一応、アイデンティティは残ってたようです。
後燕の将軍に烏桓出身の名前が見えます。その中の1人、張驤は、397年に戦いに敗れて北魏に降伏します。398年、張驤の息子、張超は、烏桓・漢人3千世帯を率いて南皮を占領し、「烏桓王」を名乗りましたが、ほどなくして北魏に討伐されてます。これが最後の記述です。
非常に参考になる…
ありがとうございます!(*'ω'*)
蹋頓の読みは「トウトン」なのか「トウトツ」なのか?一応どちらでも変換できます。
合肥「がっぴ、ごうひ」
夏侯惇「かこうとん、かこうじゅん」
と同じで、たぶんどっちでもOKなんだと思います🤔
「頓」の古音は「du」だが、現代の発音は「dun」,中古擬音は「tuot」。これはたまに漢語の音訳で出てくる匈奴、烏桓、鮮卑の名前に出てくる漢字です。「頓」とい遊牧民族の漢字人名、後のモンゴル・突厥語の「baytur」(英雄、勇士)と関係があるという説がある。しかし何の証拠もない。
公孫サンの栄光と末路は三国志鬱エピソードのひとつといえる
異民族はカヒノウとかゴツトツコツとかオフラとかトウトンとか名前がすごいなぁ
兀突骨 ←この字面よ(笑)
らら^_^、わ、を、。!ん
☺️😊
三國時代ではないけど穢獏・高車・羯靺あたりも解説見たいですね
いつも楽しく拝見しています^ ^
烏丸族は、蒼天航路での登場シーンが印象的だっただけに、その後があまりパッとしないのが、ちょっと悲しかったです(´;ω;`)
もう人間じゃなかったですしね(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA
どちらかというと、水木しげる御大の守備範囲でしたよね笑笑
活躍?したほうだと思うけどなあ。
曹軍最強武将と最強軍師の前に善戦?するも敗北。曹操直々敵認定されて処刑。
配下達は、騎兵として曹軍に編入。
恐らくは張遼配下とかで孫権を圧倒したんじゃないかな。
「貴様、歪ながらも天下を語ったな」は今でも印象に残ってる
ウガンダとは無関係
なぜ烏垣や鮮卑族の事を話すのでしょうか?所詮三国志の話でしょう。
?