【ゆっくり歴史解説】趙正書『史記とは違った始皇帝と秦の最後』

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  • Опубликовано: 10 сен 2024
  • 趙正書は、漢の武帝の時代から漢の宣帝の時代に書かれた書物だとされています。
    始皇帝、李斯、胡亥などのやり取りの記述があり、始皇帝や秦の最後が司馬遷が書いた史記と違っています。
    どちらが正しいのかは分かりませんが、場合によっては史記よりも早くに書かれたと言われていて、貴重な資料ともされています。
    趙正書を今回はゆっくり解説で動画にしています。
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Комментарии • 52

  • @harukasuzuki3939
    @harukasuzuki3939 4 года назад +6

    趙正書、初めて聞きました!
    かなり興味深い内容で、面白かったです。

  • @tfujisaki72jp
    @tfujisaki72jp 4 года назад +14

    新たな史料が発見でされて、今までの定説が覆る可能性もありますね。

  • @taknar4020
    @taknar4020 4 года назад +15

    胡亥と趙高の関係性が史記の記述だと劉禅と黄皓、趙正書だと孫晧と岑昏といった感じに受け取れる。
    どっちも国を滅ぼした主君と側近だけど暗君&奸臣と暴君&佞臣という組み合わせの違いに当てはめられてるような。

  • @jodasow
    @jodasow 4 года назад +8

    「関中を陥とした者を関中王にする」の公約通り、章邯らが関中を陥としたから彼らが関中の王になったと。
    こっちの方が話がすっきりしていますね。

  • @yasoo0811
    @yasoo0811 4 года назад +11

    「趙正書」の訂正済み書き起こしは中国版ウィキソースにまとめられています。
    李斯のエピソードのように言われていますが、平気で登場人物の諱を呼び捨てにして敬意を払っておらず、著者の立ち位置が判然としません。
    李斯の次に子嬰が目立っていて、ほぼ当時としては満点な進言を繰り返しているように描かれているので、
    もしかすると、劉邦による咸陽陥落後から項羽に子嬰が処刑されるまでの期間に「子嬰を弁護するために秦人に同情を寄せた楚人(范増の周辺あたりか?)」が項羽らに向けて書いたのではないかなと想像します。

  • @kuromid
    @kuromid 4 года назад +9

    うぽつです
    野生の世界史自信ニキほんと詳しいですからね💦

  • @yokosewairo
    @yokosewairo 4 года назад +6

    プロイセンがドイツを統一したときに、プロイセン王がドイツ皇帝になったけれども、プロイセン王の肩書きも残りました。
    同様に、秦王が始皇帝になってからも、秦王の肩書きのほうも残っていた可能性もありますね。

    • @マスター刑事
      @マスター刑事 4 года назад

      もしくは漢王朝ができてしばらくは秦の始皇帝や胡亥を皇帝として扱わない風潮があったとか?

  • @nack1069
    @nack1069 4 года назад +26

    まあ歴史書は書いた人や組織の思惑がどうしてもはいるからなあ
    日本の戦国時代でも隣の国同士の歴史書の記述が真逆な例が数多くある
    どっちも読むとホントに混乱してしまう

    • @user-bg4qp6hi4b
      @user-bg4qp6hi4b 3 года назад

      あの国は物凄く大昔から、歴史書を書くという行為の目的を事実の保存ではなくプロパガンダだと思っていたフシが有りますね。

  • @ozone7554
    @ozone7554 4 года назад +5

    趙正書、はじめて聞きましたが、そんな書物があったんですね。
    言葉の意味や解釈は国や今とその時代で異なっている事も多いので、現代の感覚での解釈だとそう取れると思う解釈も全然違う場合もありますから、難しいですよね。
    自分は単純に皇帝という単語を用いていないのは、当時の皇帝劉氏に対しての避諱のようなものではないかと思いました。

  • @hirosat5269
    @hirosat5269 4 года назад +13

    これ李斯が主役やろ・・・。李斯の死後記述が少ないって、孔明死後の三国志やんけ・・・。

  • @kappanouen
    @kappanouen 4 года назад +10

    私「趙正書?趙の歴史書かなんかかな?」
    魔理沙(1:44~)「趙正書なんだけど、名前から言うと『戦国時代の趙の歴史書なのかな?』と思った人もいるんじゃないかな。」
    私「・・・・・・ッ!(ドッギャーーーン!)」

  • @nubo520
    @nubo520 4 года назад +4

    どの資料が正しいとは何とも言えない。いくつかの資料で同じ事が書かれていた時にそれが正しい歴史になるんだろうなあ。

  • @shou-sho
    @shou-sho 4 года назад +3

    現時点での評価としては、著者不明の趙正書より正式な史官が書いた方が信憑性は高いと見ますが、史記には遺言の書き換えみたいな「誰が見てたのよ、それ」というところもありますからね。
    史記のようにドラマチックではなく、趙正書のように説話くさくない史料が見つかれば、それが定説になりそう。

  • @石本一清
    @石本一清 Год назад

    当時は本人すら知らなかった事。⁉️

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge 4 года назад +4

    秦の末期はそのまま漢の初期に繋がってますからね。漢王朝は、劉邦が旧秦人の支持を得た事と、秦の制度を多く引き継いで、その土台の上に成立したので、漢王朝の歴史家(司馬遷も含む)は秦王朝そのものは悪く書けず、秦滅亡の原因や失敗を少数の為政者に押し付けているような気がします。秦の統一とは、結局のところ侵略の完遂にすぎずそれは帝道でも王道でもなく覇道の行き止まりであり(商殃が危惧していた通り)、滅亡の根本的な原因はそこにあると思います。

  • @user-nm7or9rf6z
    @user-nm7or9rf6z 4 года назад +8

    お久しぶりです
    歴史書というのは、今のように起こった事を忠実に書くのが当たり前という考えは最近の考え方で、大抵は作った側の都合で内容が改変されたり、都合が悪いことは書かないなどされているので、内容イコール史実ではないんですよね
    といっても明らかな改変はすぐにバレて歴史書自体の価値を失くしてしまうから、ある程度は史実に沿ってはいるんですよね
    趙正書は読んだことはないのですが、この動画で興味を持ったので読んでみます
    確か翻訳したサイトがあったはずなので
    因みに秦の王族が趙の王族と同じ一族だというのは、史記でも書いてますね
    元々は周の前の殷王朝最後の王、紂王に仕えた贏来が先祖で、この贏来は剛力で知られ、通称は「悪来」と言われてました
    そうです、三国志で曹操に仕えた猛将典韋の仇名「悪来」はこの贏来の仇名から取られたものです
    この贏来は剛力もさることながら讒言が巧みで、多くの人が彼の讒言で紂王から遠ざけられてしまいました
    そのため周が殷を滅ぼし紂王を討った際に贏来も殺されたのですが、父の蜚廉(ヒレン)は許され、贏来の弟、季勝に跡を継がせます。
    この季勝の子孫が趙王家の祖となります
    一方贏来の家系は「革」という人物を介して秦王家の祖となるのですが、この「革」という人物は贏来とどういう関係なのかについては3つの説があり
    1
    革は贏来の子
    2
    革は贏来にとって季勝と同じ兄弟にあたる
    3
    革は「悪来革」といって贏来当人
    の3つです
    この革という人物の玄孫である大駱の子の非子が周の孝王(8代)に仕え馬の増殖に功をあげたので秦邑の地を与えられたのが秦の始まりとされています
    この頃、非子の一族は趙姓を名乗っていたそうです
    季勝の曽孫にあたる造父が当時の周王に寵愛を受け、趙城の領地を拝領して姓を趙にした時、革の子孫も趙姓にしたそうですが、非子が秦邑を与えれらた際に子孫が名乗っていた贏の姓を再び使う事を許され、以後秦邑の一族は贏姓を名乗ったそうです
    これが秦と趙の始まりだそうです
    始皇帝を趙姓で呼ぶ事もありますが、古代中国の氏や姓の使い方で言うと一つの血族集団を姓、その中で更に分派した小集団を氏と言いますから、元々は贏姓だったのですから贏姓で読んだ方がいいんじゃないかと思いますね
    まあ2000年以上も前の話ですから確定するのは永遠に不可能でしょうね
    タイムマシンでもあれば別ですが...

  • @user-gp3fx9jv2p
    @user-gp3fx9jv2p 4 года назад +1

    歴史は国の者によって書かれる歴史書より、民が謡った中身の方が信憑性はありそう。

  • @user-qf2ce4jc2x
    @user-qf2ce4jc2x 4 года назад +8

    こんな書物があったなんて初めて知りました。
    まあ、さすがに皇帝って初めて名乗ったは始皇帝だとは思いますが…
    もし劉邦が最初ならそんな無礼な間違いを漢の時代の人々がし続けていたことになりますしね
    始皇七刻石も書き換えてまであえて秦王政に始皇帝を名乗らせる意味もないですし

  • @user-juju_hirawa
    @user-juju_hirawa 4 года назад +9

    始皇帝「嬴とかキレそう。なんだよこの字、読めねーわ。

    • @Pink_Liquid
      @Pink_Liquid 4 года назад +4

      『易経』の原文、その中で一番古いといわれている彖辞(占いの言葉)に「嬴」という字がみえるから
      始皇帝は読めたんじゃない?まぁその「嬴」の一般的語釈は「豚」だけど・・・(他の生き物の説アリ)

    • @yokosewairo
      @yokosewairo 4 года назад +1

      現代中国語で「勝つ」という意味の「赢」にも似ている字ですよね。

  • @yuichikishimoto5427
    @yuichikishimoto5427 4 года назад +16

    拝見しました。 事実かどうかはともかく。
    未だに見つかっていない竹簡や木簡があるとワクワクしますね!
    あと、字が違うのは、当時の方が筆写の途中に書き間違えたと思います。
    また、急に文が薄いのはどういう理由で消失したのでしょうね(例えば信西入道の『本朝世紀』のような事があったかもしれません)。
    そう思うと、今の時代にまで苦労して残した先人には頭が下がります。
    いったい、いくつの歴史が滅んだのでしょうね。

  • @user-rn7zc3xy3r
    @user-rn7zc3xy3r 4 года назад +12

    趙正書は、2009年に北京大学に寄贈された竹簡の中にあったとの事。竹簡の書体から、前漢の武帝時代〜宣帝時代の間に記された物との分析結果があります。史料的価値は、非常に高い代物です。
    むしろ、史記の方が記述に手を加えられた可能性が高く、西晋以降に事実が曲げて伝えられていると考えられます。
    趙正書の記述で判るのは『胡亥が傀儡の主君でなかった事、趙高が実権のある宦官ではなかった事』胡亥の擁立を勧めたのは、李斯と馮去疾という人物だという事。
    ちなみに、馮去疾という人物は、韓の上党郡の郡守から趙で華陽君となった馮亭の子孫で、御史大夫として宰相李斯と終始行動を共にしています。実質、李斯と一緒に始末されました。
    史記では生殖能力のない宦官であるはずの趙高には、子供がいたという記述もあるのです。しかも、趙正書には、隷臣(奴隷となる)刑罰に処せられていた趙高が、胡亥によって許され、重用されているのです。
    趙高は李斯を虐げる立場になく、李斯は上書して胡亥の怒りを買い、処断されたのが事実。
    「章邯(張邯)が咸陽に入って子嬰を擁立し、項梁討伐に向かった」うぷ主さんの事実を照合した上での推察は、的を射ていると思います。
    史記の方に曲筆があるという論拠は、司馬遷を宦官中書に仕立て、宦官を必要悪とし、己の立場(勅書を代筆する中書機能)を正当化しようとした西晋の張華(中書監劉放の娘婿)・荀勗(中書監に就任)・侍中の馮紞(馮去疾の末裔)にあります。
    西晋の事情から考察すると、秦の太子であった扶蘇を支持した名将蒙恬の男蒙毅を死に追いやったのが、御史大夫の馮去疾では都合が悪い。
    加えて「白(柏)という土地の病を発した趙正(嬴政)」の話に出てくる『柏』とは、仲達の妾である柏夫人の息子の趙王司馬倫(僭帝)の出生地と解釈出来るのです。
    実際、官吏であるにも関わらず、理不尽にも宦官として記されている事は多々あります。趙高もそうですが、前漢の宣帝時代の弘恭・石顕(尚書令・尚書僕射に就任しているのに、中書令・中書僕射と記されている)・孫呉の岑昏(三国志演義の話)など。
    政敵によって宮刑に処せられたにも関わらず、望んで宦官となった様に記された後漢の蔡倫・曹騰などの例もあります。司馬遷の場合は「胡(えびす)と戦わない者は男にあらず」と武帝劉徹に嫌われて処断されている故、宦官中書などにはなっていません。
    『史記を始めとして史書には、権臣らの都合で記述に手を加えられている事が高いのです。昨今発見された竹簡の方が、伝えられている事実
    を明確に示しています。昔は孫子と言えば、孫武ではなく孫臏だった様に』

    • @antiJJ
      @antiJJ 4 года назад +1

      >「章邯(張邯)が咸陽に入って子嬰を擁立し、項梁討伐に向かった」うぷ主さんの事実を照合した上での推察は、的を射ていると思います。
      これに関しては俺は的を射ているとは考え難いな。
      章邯が項羽に降伏した時の状況をみれば分かる。
      章邯が項羽に降伏した時は秦の兵士は20万以上いたはずだし、項羽と勢力的には互角だった。
      それにも関わらず余力がある状態で降伏したのは余程、切羽詰まった状況でなければありえない。
      子嬰を擁立している位なら背後の基盤は盤石だったろうから、章邯の降伏を決断する状況であったとも思えない。
      項羽陣営から王にするという調略の可能性もあるが、そもそも秦末期に自分から将軍という不慣れでリスクの高い地位に志願した事を考えても、章邯は自分の欲で物事を決める人物でもなかったはず。
      結論を言うと、俺は子嬰は章邯によって擁立されていないと思うね。

    • @kodotake9062
      @kodotake9062 4 года назад

      @@antiJJ  推察するに章邯が項羽に降伏したのは後方支援が
      無かったからでは?と。いくら兵が多くても食糧・武器・後詰兵が
      無くては戦争継続は不可能。よって高祖劉邦は蕭何を第一の功労者に
      挙げた。ましてや内乱まがいの事をすれば兵の士気は下がる。
      それと胡亥が趙正書の云う政治意欲があるなら親征の話が出ても
      おかしくないと。史記が史書官による冷静な目で見た資料で
      「趙正書」が始皇帝を否定し王とするなら史記・漢書には高祖を
      始皇帝扱いするのでは?と。統一した秦を正当化させない思惑が
      なきにしもあらず・・・。

  • @williamyao4304
    @williamyao4304 Год назад

  • @石本一清
    @石本一清 Год назад

    というか。⁉️
    国外の偉人様方々の方が良く理解しているみたいです。⁉️
    😓  以上です。

  • @user-wz8ce3ez2q
    @user-wz8ce3ez2q 4 года назад +1

    なかなか鋭いところに視察し思考入れた動画だと思われます。
    そもそも、
    秦の始皇帝が幼少時分は人質だった。
    その人質だった時代、
    『贏政』という名ではなかった。
    その理由:
    『贏』という漢字は勝負事に『贏える(勝ち得る)』という意味合い。
    又、
    『政』は正しい行い→政治を定めるという意味でもある。
    よって、人質時代の正式な名は『趙正』が正しいとも言われている。
    しかし、人質時代の趙正(贏政)はその趙正という名さえも正式に名乗る事も出来なかった。
    ※(『贏政』という名は、もしかしたら秦の王(秦王即位)に成ってからではなく、後々の秦が中華統一し、始皇帝即位後に成ってからではないかとも言われている。)
    因みに、
    人質時代の名は1文字漢字だと言われているし、色々な名前になっていたようです。
    その理由として、
    白起が大量の趙兵を虐殺した事により、趙国内では秦王一族とは名乗れなかったようで、毎日のように他の地域に彷徨いながらの過酷な生活環境だったようです。
    これは有名な話で、それ故に、人質時代に培われた用心深さから秦王→始皇帝→始皇帝暗殺未遂まで生き残る事が出来たとも言われている。
    (だけど、あまりにも用心深さ故に人を疑い過ぎて人間嫌いみたいな性格だったようです。)

  • @user-cm1ed8tm6z
    @user-cm1ed8tm6z 4 года назад +3

    5:05~ バグってて草

  • @you1six
    @you1six 4 года назад +5

    史記の始皇本紀の幾つかの記述は考古学的事実と一致してるわけで、週刊誌のゴシップネタの様な散逸書を持ち出して来てどっちが正しいのか?なんて事は論ずるに値しないと思うんだがねえ。

  • @glassbuddha
    @glassbuddha 4 года назад +8

    れーしさんは 収益大丈夫ですか?剥奪されないことを祈ります

  • @邦明鈴木
    @邦明鈴木 3 года назад

    趙正書自体の記述は、少なくとも二世皇帝については的を得ている可能性はある。
    過去にNHKのBSで秦の始まりから滅亡までを取り上げた番組がされていた。
    その中で、史記だと思われるが二世皇帝の、始皇帝の後宮で子のないものは処分するという詔があり、兵馬俑近くで女性の遺骸が複数発掘されたことが放映されていた。
    このことは趙正書の、その宗族をうんぬんという記述も同時に裏打ちされたと考えて良いと思われる。
    ただ、著者不明というのは困ったもので、投稿主の推定したとおり、武帝期に書かれたものであったとしたら、史記の秦始皇本紀に採用されなかったのが趙正書ではないのか、という考えも可能である。
    中国における王朝交代は前の王朝が天命を失ったからなされると、儒教では考えられていた。
    夏、殷、周の部分を見たら、それは分かっていただけるものと思う。
    その意味で二世皇帝が天命を失ったという流れの趙正書の記述は史記に採用されていたかもしれないと考えるのである。

  • @KOUMORIish
    @KOUMORIish 4 года назад

    書かれたのが法家を多数採用した宣帝(漢を安定させた賢君なのだけど)の時代というのが重要でしょう。宣帝から見て秦王政はどのようにみていたのだろうか?全くの事実がないとは言いきれないが。

  • @fuckgooglefuckusa
    @fuckgooglefuckusa 3 года назад +1

    実際、嬴政でも趙政でも始皇帝を呼ばわりしたことはない
    秦王政つまり秦政になったんた。
    なぜなら当時の国々は、斉国以外の王族たちが国名を姓で使うことは一般的だった。
    趙政という母系の姓氏を使うのはありえない、でなければその趙政の父は夏異人になり、笑うわ。
    趙国人からの嫌がらせだと思われる。

  • @user-op4vu7ks3h
    @user-op4vu7ks3h 4 года назад

    大変面白い動画有り難う御座います。虫獄古代歴史小説家宮城谷昌光氏のエッセイを読むに、虫獄の歴史を解読する際には、地域より時間が問題で、次に居る場所が問題となると言われています。また当時の漢字自身が千文字も無かったようで、記録としての文字は、仮文字が多く、白が伯、柏の仮文字は、当然有るものと考えるべきでしょう。また趙正書の発見は竹帛でしょうか?そうなると、散逸分と、竹帛の並びが問題となります。かくて全文をそのもの、文字の癖まで読み解かないと、本文の意味が疑われます。日本書紀も4〜5巻は、漢語の下手な奴の改竄が或ると発見されました。今後、画像を含めたAIによる解読が待たれます。

  • @morikibayasi
    @morikibayasi Год назад

    何とはなしに儒家臭い。漢代の作だと仕方ないか。

  • @yokosewairo
    @yokosewairo 4 года назад

    個人的には趙正書のほうが歴史の真実に近いのだろうと思います。
    史記はなんというかスキャンダラスな内容にしようとして脚色し過ぎているように感じます。

  • @takashi-aoki
    @takashi-aoki 4 года назад

    度量衡の統一は二世皇帝のときにできた。

  • @user-jk5fk6yl2q
    @user-jk5fk6yl2q 4 года назад +6


    趙正書

    テドロス
    果たして?
    テドロスとは?
    彼は
    神か?
    悪魔か?
    今でも
    全然わからんのに
    千年後の
    アメリカ人や
    日本人に
    ワカルわけ無いやろ
    \(^_^)/
    そもそも
    WHOって何なのさ?
    (T^T)

  • @tevalleyluckman8746
    @tevalleyluckman8746 4 года назад +5

    説明に出てきた”性”って”姓”ではないの???

  • @MrFPS-uv4yu
    @MrFPS-uv4yu 4 года назад +1

    えぇ。
    蒙恬って処刑されちゃうんか!

  • @suwakaji1
    @suwakaji1 4 года назад +1

    秦王政 (贏政・始皇帝) = (趙正) . が立派な人として描かれている。
    すると、燕國の暗殺者たちの悲壮感が消える。(楚出身の李斯からしたら素敵な秦王贏政・趙正)。
    李斯が、(母親が卑しい)趙高に恨まれて獄中死するシーン(項羽と劉邦の時代)のどろどろさ(省略)。
    「趙正書」 は、サッパリしてますね。
    司馬遷 「史記」 は、彼の父との合作とも言われてますから、「趙正書」 と同時期になると思います。
    「史記」 より昔に記載されていた 「孫臏 (兵法)」 が発掘され翻訳された際、「擒龐涓」 (龐涓を捕まえた逸話) も、「史記」 と比較すると、(どろどろした人間関係の話が無くて) あっさり…。
    逸話 (エピソード) ですから、聴き手によって、枝葉がつくでしょうから、好きな逸話を中心に、多く知っておくと良いかと思います。
    「良い動画をありがとう。」

  • @user-ju6nf3hr4f
    @user-ju6nf3hr4f 4 года назад

    なんか虚しいですな

  • @user-jp1ll2od8r
    @user-jp1ll2od8r 4 года назад +2

    いちこめぇ(゚∀゚ 三 ゚∀゚)