その他のクレーガーに対する反論は、*Stephen Baugh, "The Apostle Among the Amazons" (a review of Richard and Catherine Kroeger, I Suffer not a Woman (Baker, 1992), reprinted from Westminster Theological Journal 56 (1994):153-171)*Albert Wolters, Calvin Theological Journal 28 (1993), pp. 208-213).*Robert W. Yarbrough, "I Suffer Not a Woman: A Review Essay," in Presbyterion 18/1 (1992), pp. 25-33)
福音書のイエスの、人の応答のピントの合わなさに対する忍耐強さや、女性に恥をかかせなかった姿からするとしっくり来ない箇所だったので、祈って答えを求めていました。この説を知れて、この動画に出会えて良かったです。ありがとうございます!
『女が教えてはいけないのか』の解説、ありがとうございました。
誤訳の可能性には驚きました。
私は、女性牧師が毎日投稿しているディボーション動画を
毎日見ています。
それで、女性牧師が現実に存在している現状で
私が思っていることは、
女性牧師にも男性牧師にも、
立派な牧師がいるし、そうでない牧師もいる
ということです。
次回お話しされるお二人の女性教師問題に関してのご意見、興味深く拝聴します。
この議論はずっと気になっていたので、このシリーズを続いてください!すごく面白いし新しいことをたくさん学んでいます!ありがとうございます、時間をかけていっぱい勉強してくれて。次の動画を楽しみにしています。
解説ありがとうございます。
やっぱり、女性の先生はいないと困りますよー。女性にしか分かってもらえないような悩みもありますので。
聖書が一番だというのは譲れないけれど、と同時に聖霊を受けた多くの人が「難解だ」と感じる聖書箇所についてはその感覚かなり大事にしていいと思ってる。
女性教師論が、パウロのグノーシス派への反論だったという解説は初めて聞きました。
目から鱗で勉強になりました。うちの牧師さん、その事知ってるかなあ⁉️😅
非常に面白いです。ありがとうございます。
他にも聖書の誤訳箇所と思われるところっていくつかありますよね。
ペテロ第二1-20あたりの、聖書の預言は自分勝手に解釈すべきではない。のところも、ギリシャ語言語だと、聖書の預言は預言者自身が自分の解釈で話した言葉ではない。となるとか。
全く意味が変わりますし、後者だと前後の文脈と違和感なくつながります。
ペテロ第二の解釈、おもしろいですね!
感謝です!!
とてもわかりやすく、腑に落ちました。
ありがとうございました。
ありがとうございます♪よくわかり感謝です❤
よく調べてくれてありがとうございました。
その他のクレーガーに対する反論は、*Stephen Baugh, "The Apostle Among the Amazons" (a review of Richard and Catherine Kroeger, I Suffer not a Woman (Baker, 1992), reprinted from Westminster Theological Journal 56 (1994):153-171)*Albert Wolters, Calvin Theological Journal 28 (1993), pp. 208-213).*Robert W. Yarbrough, "I Suffer Not a Woman: A Review Essay," in Presbyterion 18/1 (1992), pp. 25-33)
最高です! ご紹介ありがとうございます!!!
私の所有する
日本聖書協会(1974)発行
文語訳聖書では
われ女の教ふることと男の上に権を執ることとをゆるさず、ただ静かに為べし(テモテ前書 第二章十二節)
と書かれています。御参考迄に。
女性の教師は、私は賛成しています。
もしも聖書が女性教師を容認していないなら、女預言者も、女性の士師も存在していないでしょう。一つの聖句に囚われて女性教師を否定する組織があることは知っていますが、大枠で見れば女性教師、牧師、他も男性と対等であるべきです。
それぞれに与えられている賜物がありますが、器は神様が作っているのです。
その教えが正しいかどうかは、その実を見ればわかります。正しい教えを女性しかしてはいけないとは、聖書は教えていません。
また、大宣教命令も、男性だけではありません。女性も含まれてます。
パウロの背景を考えると、ユダヤの律法が影響しているように思い手紙シリーズを読んでいました。ですが、女性は感情の生き物、男性は感情に流されない良くも悪くも素直で単純な生き物、そうなるとやはり女性は男性の助け手、影でしっかり男性を助ける助ける頼もしいフィクサーが1番の適職なのかなと
数々のみことばは
牧師ご夫妻だけではなく、世の中のご夫妻すべてに神様は語られているように思います。
誤訳誤解も重なり無数の解釈教義が生まれた結果が現在の様相。キリスト教に限らない…。人が幸福になる方法は普遍的でそれ故ものすごくシンプルであるはず。信仰は命のようなもの、で宗教の教義はまた別のもの、言葉のジャングルだ、て気がする!⁉
「アフセンティン」の前にある単語、ウーデ(また~(でも)ない)を無視した翻訳となっていますが、いかがでしょうか?
コメントありがとうございます。クレーガーは「ウーデという語が、二つの関連した概念をつないでいると理解する」と説明し、「自分自身を男性の創設者であると教えたり、断言したりすることを許しません」と訳せると説明しています(p.156-157)。また、クレーガーは「ウーデ」は別の意味かもしれないが、それによって意味は大きく変わらないとしています。
他の方も指摘されましたが、2:8以降は男と女のそれぞれの在り方という文脈で、ここをグノーシス派への反論とするのは無理があると思います。もしグノーシス派へ反論する意向があるなら、1:3以降で既に触れているでしょう。ちなみに私自身は女性牧師のもとで教えられ、感謝している者で、女性牧師に反対はしていません。
ありがとうございます! 大事な違和感だと思います。
個人的には、聖書に書かれている男女観を示すことによって反論したと考えればムリはないかなぁと思いました(たくま)
私は女性の牧師から救われました。当時 私が住んでいる地区には教会は1つしかなく、この女性牧師がいなかったら私は救われていませんでした。 このことからも、あきらかに女性が教えても良いのです。
それと、「 ユダヤ人と彼らの嘘」の件、 調べてもらっていますか?
教えてもいいけど牧師っていうより伝道者とかかな?
アメリカのアマゾンに反論あるよ。1テモテだけじゃ心もとない、やはり聖書全体からでないと。 Women in the Church: An Interpretation and Application of 1 Timothy 2:9-15 (Third Edition)
おおっ!!! ご紹介ありがとうございます!!! チェックしてみます!
そもそもグノーシス派って、1世紀にはまだ存在していなかったと理解していました(詳しく調べたわけではありませんが)。その元となる思想は教会にも入り込み始めていた時期かもしれませんが、体系だったグノーシス派って1世紀中頃にあったんですかね?
コメントありがとうございます。クレーガーは、「グノーシス派のものに似た作り話は、早くも紀元前二ないし一世紀にはアレクサンドリアで広まっていただろう」としています(p.92)。また、クレーガーはエペソもこの思想の影響を免れず、少なくとも一世紀には既に広まっていたという認識を示しています。
小林は個人的には聖書にもグノーシス派への言及がある為、一世紀には既に広まっていた考えであろうと思っています。確かにグノーシス派として隆盛したのは二世紀のようですが、その下地となる考えは既に強くあったということです。
コリント11章3節からの「かぶりもの」に関する記述と14章34章の「教会で女性は黙っていなければならない」の関連性はありますよね。
さらに突っ込めば、三位一体の地位の有無、役割から男女の地位の有無、役割を考察したいと思います。
それにしても、グノーシス派の反論解釈はシックリきちゃいました~~
コメントありがとうございます。もっと語る余地がありますよね〜!
いいですね、これはなかなか説得力が高い!
このトピックで思い出すのは、Mike Wingerさんの動画です。
Iコリント14章にも触れているけど、動画が超絶長い(笑)。
ありがとうございます。紹介いただいた動画、尺が11時間……!!! 何かの拷問ですか???
8節-10節で男と女の生き方を説いてる流れで11節以降が100%グノーシス派の反証であるというのは違和感あるけどな
コメントありがとうございます! 「(旧約)聖書が教えている男女の生き方を説明することを通して、当時流行っていたグノーシスの言説に反論する」という理解をすればムリはないのかなと私(たくま)個人は感じました。ただ、他の方がご紹介いただいたようにクレーガーの意見に反論もあるようなのでチェックしてみます〜!
牧師、神父はダメ
伝道師、宣教師はアリ
何故なのか
性的マイノリティでも牧師になっていいかしら❤
翻訳の難しさ、言語の難しさ、古典の難しさ、色んな難しさを同時に味わいました
真実は我が聖霊にあり(^。^)
私は女性です。
この議論については祈り求めてきた者です。
受け取った答えは、議論の余地がないということです。
パウロ氏がコリント人やテモテへの手紙で語っていることはグノーシス派に留まらず、現代でも通じる男女平等の観念が間違っていることも教えていると思います。男性が上位で女性が下にいるということは変えられない真理です。ですので変えられるのは、女性その人自身であり世の中の価値観なのです。それを拒むか受け入れるか…それが議論になるのだと思います。
一方で、箴言31章のしっかりした妻は
"知恵をもって口を開き、その舌には恵みのおしえがある。"
箴言 31章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
自分の肉なる子や霊的な幼子に"恵みのおしえ"を語ることができます。
神から召されている女性預言者は現代でもいますから、それが女性牧師であることは往々にしてあると思います。本当にその人が預言者かどうか、あいまいならコリント人たちと同じく黙っていなければならないと思いますが、語ることを召されているなら預言者としての語ることを神は許されるでしょうし、秩序も守られるはずです。