石岡ふれあいまつり 柿岡城まつり 2024 祇園囃子
HTML-код
- Опубликовано: 2 дек 2024
- 柿岡城まつりとは言ったものの柿岡を一度振り返って様々な繋がりを再発見しては如何でしょうか。柿岡城主の墓所は柿岡善慶寺に平成23年に改修された。一度訪れては如何でしょうか。城跡は現柿岡小学校の土地に築城されていた。勿論、柿岡城跡地の碑もあるが校内には許可を得て入らなければならないが、一訪の価値はある。
建久3年(1192年)柿岡時知(時家とも)によって築かれた。 常陸国守護八田知家の十男小田時知がこの地に住んで、柿岡氏を名乗ったことに始まる。
戦国時代末期には柿岡氏は衰退し武蔵国岩槻城主太田資正の次男梶原政景の居城となったが、 永禄12(1569年)に佐竹氏は小田氏治の小田城を攻め落とし、政景が小田城へ移った為、真壁房幹が城主となった。永禄9年(1566年)現在の石岡市根小屋の片野城主「(いまも片野城跡は残る)太田資正(すけまさ)が戦国時代、武運を祈るために、片野に八幡神社を建立。その際に諸々の禍(わざわい)を排して繁栄を願う意味から「排禍ばやし」を
奉納したと伝えられている。(太田資正の墓所は石岡市根小屋浄瑠璃光寺に残る=
70歳没)参考:片野城は当時20000石 柿岡城は5000石と言われている
戦国末期には、梶原政景の居城となったが、天正元年(1573)小田氏治が太田三楽斉父子に小田城を攻められて敗退するや、 政景は小田城に還り、 柿岡城には真壁房幹が入った。その後、文禄4年(1595)の秋から長倉義興(よしおき)が6年間居住したが、慶長5年(1600)に急死した。その後、国分盛重に代ったが、徳川になってから後、柳川立花氏の領地となり、 稲葉正勝の領地を経て、天領として代官の支配となり明治維新まで続いた。柿岡城主の墓所が國豊山善慶寺の残る。柿岡城主墓所石塔、(立派な石塔が建立されました。)開眼法要が11月23日に執り行われた。是非柿岡城主の墓所にお参りし、古きを訊ね新しきを知っては如何でしょうか。
#まつり#石岡ふれあいまつり#秋の柿岡城まつり#片野排禍ばやし#柿岡城#片野城#城