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ナレーションにつけた字幕で、中央ユーラシア研究者の林俊雄先生の字が間違っていました…ごめんなさいごめんなさい。正→林俊雄誤→林俊夫お詫び申し上げます。
「烏桓」を大昔の中国語で再建発音すると「アヴァウル」と読むと聞いてから、本当に世界の歴史は繋がっているんだなと感動しましたね。
アヴァール人とのつながりでしょうか?興味深いですね
安禄山 = アレキサンダーと言う説を聞いたこともありますが、確かに彼はソグド人でした。
@@草莽-b6dその時代の発音を遡らせて成る程と納得した話と義経がジンギスカンバリのオカルトトンデモ論を一緒にしちゃだめだろ…
@@十詩音頼最寄りの書店にてそれに関連した"つくる会"元会長の田中某氏の著作が細川重男先生の著書の横に置いてあって戦慄しましたねえ余談ですが土偶を読むの横に土偶を読むを読むが置いてあったのには笑ってしまいましたが
@@草莽-b6dアレキサンダーはソグド人ではありません。むしろソグド人の敵でソグド人を殺しまくった人です。
現代のハンガリー人達は、子供の頃に蒙古斑が出ると聞いたことがあります。なのでアジア系が混じっているのもたしかなんでしょうね。
ハンガリーのハンは(フィンランドのフィンも)、フン族のフンが由来らしい。両国ともアジア系(ぽいところがある)。
@@ミックスミッキー-z2g フィンランド人の方々も、ほとんどが遺伝子を検査すると、モンゴル系が混じってるなんて話を聞いた事ありますね。
フンガリアだもんなあ
周囲がゲルマンとスラブ系だけなのに何故かハンガリーだけ違う。
@@sinji1341scarlet オルバン首相が「平和の使者」と称してモスクワや北京を訪れ、他のEU諸国を困惑させてるのにつながりますね
ハンガリーのバイク屋の店員の名前がアッティラだった。
この動画は、参考文献が載せられているところに誠意を感じます。動画の内容も、興味深くて面白いです。
当事者の文字記録がない民族の変遷は、後の世から調べるのは難しいですよね(文字記録を残している国家や民族の資料がすべて当てになるわけでもないですが)
高校生のころ世界史の授業でフン=匈奴説を教わってそのダイナミックさに感動したものです。今でも鮮明に覚えてるあの感動😂
少なくともフンの墓から発掘された人骨のDNA鑑定では、モンゴル系ではないかとのこと。
緻密な調査と秀逸なご推察に脱帽です。本日も良質な動画をアップしていただきましてありがとうございます。
フン族や匈奴に限らず遊牧民族の民族系統は基本的に謎としか言いようがありませんが、バイカル湖南西あたりからアナトリア半島まで移動していったテュルク系遊牧民という割りとハッキリしている実例もあるわけで、匈奴が東ヨーロッパまで移動しても不思議ではないですよね。
こういう歴史のパズルってやってるとかなり面白いんですよね。私は五胡十六国の北涼をちょっと興味が湧いて調べてたんですが、京兆出身の漢人段業が匈奴の沮渠蒙遜に煽られて後涼から独立し、でもその蒙遜によって簒奪され、その孫の代に北魏に滅ぼされ、別の孫がウィグルまで逃げてそこで改めて北涼を再興。でもそこの遊牧民族の柔然に滅ぼされて高昌国として闞伯周により再興、新たな遊牧民族高車によって滅ぼされ別の国主によって再興、でも北魏に朝貢して別の一族に簒奪される。そうやって続々国主の苗字が代わっていくのですが、最終的に麴文泰という名前が出てくる。「あれ?聞いたことあるぞ??」って気付いてウィキペディアで調べてみると玄奘三藏を支援した高昌国の国主の名前だったりします。「ここに繋がるのか!」と愕然。この高昌国が唐の李世民によって滅ぼされるのは歴史の常識ではあるのですが、北涼がこういう過程に繋がっていたとは。推理小説の面白さに通じるものがあると思えますね。
初めて動画を拝見しましたが、涙がチョチョ切れる世代で、嬉しさを覚えました❤
参考資料を明示してあることに好感を覚えた。
メアリーがいつも「フンフン」って相槌打ってたのは、今回の伏線だった?
匈奴の解説は本当に有難いです
パズルの様って、まさに!!確かに、分からないからこそ色々な想像もあって、楽しいですねー。今回もありがとうございました。
かなり後の時代ですが、イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記を読むとまさに動画のアラン推定地域あたりの民族・国家が出て来ます。ブルガール王国です。ブルガール王はイスラム教に改宗してイスラム勢力の庇護下に入り、この地域では主流だったキリスト教信仰部族を征服したい。その庇護を求めた話なのですが、その習俗、シャーマニズムはいまだ中国北方遊族民に近いものでした。東方見聞録にも、ウノ・ハルヴァのシャーマニズムにも書かれているようなシャーマニズムです。ブルガール族は、だけど見た目にはモンゴロイドではなく白人だったという面白さがあります。ブルガール王国、そしてその敵対勢力はイスラムやキリスト教圏の国家概念とはまた違う国家概念を持っていました。我々の感覚で言えば野盗集団。農耕民から蛮族と呼ばれた国家がどういったものか?の一端を知ることが出来ます。当然彼らには彼らの倫理があり、正義があり法もある。それは農耕民とは別種の物であり、農耕民の倫理で推し量っては理解できないものも多い。信頼関係の考え方の違いとも言えます。信頼や民族の正義感の違いによって、当然農耕民とは法も変わってくる。穀物を得るために貿易や略奪などをしないと生きていけない、農耕民たよりの生活の側面もある。と、いろいろ考えさせられます。昔の紀行記も面白いですよ。
現在ブルガール族の最も近縁の子孫とされる #チュバシ人 (チュバシ共和国の主要民族)が話し手の " チュバシ語 " は、かつてフン族が話していた『オグール諸語』の唯一の残存言語ですが、現在チュバシ共和国においても「ロシア語しか話せないチュバシ人」が増えているとのことで、フン族以来のオグール系テュルク語の存続が危殆に瀕しつつあります…。
現代で史学といえば古代ローマから連なる西洋史,古代中華帝国による東洋史,だけど歴史の主役は中央アジアの遊牧民族の興亡にある気がする。中央アジアの遊牧民族の興亡に引き摺られて西洋史も東洋史も動いていた気がしてならない。惜しむらくは歴史の主役だった遊牧民族には歴史を記録する意志がなかった事。だが、今でもモンゴル人は口伝で自分の血脈を何十代何百代に亘って語れる人が居るそうだから、文書だけではなく口伝も歴史研究の重要な要素だと思うけどね。
柔然=アヴァール説も好き
「キャセイ(Cathay,Kathay)」も契丹に由来する言葉です
ウクライナをはじめ、旧ソ連の各国家の周辺の発掘調査が進めば、中央アジアの遊牧民族の歴史ももっとはっきりしてくるんだろうなあ
匈奴=フンというか、部外の人間の大雑把な見方であのあたりの騎馬民族の諸部族を全部まとめてフンとか匈奴とか言ってるだけのような気がしますね。中東では今でも国単位ではなく部族単位で動いていますが似たようなもんかもしれないですね。彼らに文字の文化がなく全くわからないですが内部ではダイナミックに動いてそう。
トルコ人も自分たちは東方から移動してきたという歴史を残しているからね。
いずれにせよモンゴル高原が遊牧民の本拠地。
匈奴とフン(ふんぬ)の発音の類似性。現代のモンゴル語でも人(ひと)のことをフンと言う。
フン≠ヒューマン≠ひと????(ユーラシア系言語における 連合関係のなごり!?)>『 #言語連合』(" 語族間関係 " よりもさらに諸言語の 類縁関係を有効に推察できる概念)
ステップにいる騎馬民族が世界史にときどき影響を与えるパターンが見受けられることは歴史の面白いところの一つです。
スキタイは遊牧の創始民族だし、金細工に優れていた。新羅の金冠なんてスキタイの影響そのもの!!!
交易路を支配したという意味では実は常に影響を与え続けているよ。中国目線だと相手をけなすような書き方で大したことないように見えるけど。ペルシャ側の資料だとまた違った視点があったりする。突厥とペルシャの衝突とか。
ときどき?
@@shintenhou229 さまサカ≠屠各??(屠各[tuku]→原テュルク語で「旗を振る者」)……
女海賊コンビがフン族の解説をするというのもなかなかシュールでいいですね。(笑)
あの時期に移動したのはゲルマンだけではないことが知られている。ローマの後継者を言う西欧諸国が自国の先の正統国家であるローマに一番影響を与えた存在としてのゲルマンを(大移動)と記録しただけである。
相変わらずの強引な冒頭茶番、好きw
草原の道を支配する騎馬民族という意味では同じでも遺跡から見つかった人骨からモンゴロイド系かコーカソイド系かは判別しないんだろうか?
もっと昔の海の民もわからんですね
2:39 絵に関してはフン族だからこうだろうみたいな欧州の説に則った想像図になりそうだから信頼は置けないだろうな。私はソグド人などに近しいものたちがソグドから聴いた内容を元にフンは匈奴という認識をもってそれが広まったんじゃないかと思う。200年の開きがあるから似て非なるものだろうな。
····おそらくソレは、『匈奴連合体の内に在った "諸部族間のヒエラルキー差" に 基づくもの』だったと推察しております。。。。>【似て非なるモノ】同じ "匈奴末裔"とされながら、【北単于直系】を称する『#悦般』の" 当代ユーラシア遊牧民とは 信じ難いほどの清潔な暮らしぶり "と欧州に現れた『黒フン族』の" 『野蛮』を体現した如く不潔で 文化人離れした生活様式 " との限りない落差は、匈奴≠フン族を『単一のエトノス』と捉える限りは決して理解できぬジレンマでありましょう……。
7:20 「黄河の北」というのは河套(上流域の北の方に窪んでいるところ)のさらに北ということです
柔然アヴァール人説とかの解説も聞きたい
ローマ帝国側の記録では、フン族は平面的な顔で目は糸のように細かった、とのこと。裸馬を手足のように使いこなすことからも、モンゴル系の騎馬民族だった可能性は極めて高い。匈奴かもともとモンゴル高原西側に住んでいた民族かはともかく。
そもそも匈奴がどんな民族だったかも、あまりよく分かってないですよね?匈奴がモンゴル系だったのかどうかも、確たる証拠はないですよ。匈奴はトルコ系だったのかもしれません。
印欧語だらけの中に遺されたフンガリー語やフンランド語(とエストニア語)話者が現在まで残っているのを見ると東からの侵入者が決して少数ではなく相当な数だったと想像出来ますよね
まあ史書も割と当てにならないからなぁ、特に距離が離れてると…
中央アジアの歴史と民族分布の複雑さを教えていただき、ありがとうございました。ロシアと中国の分割を主張する者ですが、分割独立も難しいことと思っています。
ローマの記録によるとフン族は「頭が大きく目が小さく肌が浅黒い」と黄色人の風貌をしていたようだが、現代のハンガリー人はヨーロッパ人と長年混じり合ったためか周辺のヨーロッパ諸国と見た目が変わりませんね
>#Gの遺伝子少女ファネット
実際のところ分からないから嘘はついてない😃
日本も江戸期まで中国のことを"唐の国"とよく呼称していましたからね
フン族の活動域を考えると、アレキサンダー大王並みの大帝国なのに、記録が殆どないのは残念ですね。いずれどこかでみつかるといいな。
世界史地図において、アッチラ大王の「最大版図」に" アングル・サクソン・ジュート族 "の住地が「含まれない」ことが多いのは、("敢えて除外"されている❓️)【WASP様への"忖度"】でせうか??
大体、「アングロサクソンの ブリタニア進出」が本格化する最初の一件が、『ローマ世紀末覇者』たる"恐怖の"アッチラ大王がガリアを目指して進軍を開始した時期とものの見事に合致するのですよねぇ…
自分も絵を描けたらファンアート描いて送るんだけどそんな能力ないので高評価👍ボタン押す事しかできない…
邪馬台国問題とかでもそうですが、発音問題はそれだけで動画何本もできちゃうようなテーマですね
国という形式を持たない「ユーラシア平原の遊牧民集団」を古代中国では匈奴、欧州ではフンと呼んで恐れただけの話だと思ってたからむしろなんで別民族だと考えられてきたのかの方に興味あった。馬の群れと一緒に移動する集団だから地続きならどこまでも移動するだろうし、その侵入を防ぐために国境警備が必要になったのも自然な話だと思う。
漫画龍狼伝の匈奴編面白かったなあ。と思い出をかみしめてみる。
個人の直感としては同じだったように思える😊
ΙΣΤΟΡΙΧΑの方をいつも楽しませていただいていますが、この件はそれこそ中学の頃に初めて聞いてから興味はあったものの詳しく調べてみる機会もなく半世紀以上経ってしまっていたので、とても面白かったです。騎馬民の移動速度ってどのくらいだったんだろう?と、ふと思ってしまいました。もしかしたら、定住民の感覚よりも中央アジア内陸部は中国西域から黒海のあたりまでが「ご近所さん」だったのかもしれない、という気もしました。製鉄技術と航続距離には大きな関係があるのでしょうけれど、私たちが想像するより第一千年紀前半の騎馬民族には機動力があったのかも?とも。全て素人の無責任な憶測ですが。
AD151年頃北匈奴が完全に消息を絶つ以前に、AD91年に行方知れずとなった北単于に代わり北匈奴部衆を率いて60年にもわたって漢・鮮卑連合軍と戦ったNO.2の指導者 "呼衍王" の行動範囲が、東はジュンガル盆地から西は黒海北岸にまで及んだといいますから、@やき-t2pさまのお言葉は正鵠を射ていたのではないかと思います。(なお行方不明となった北単于と その部衆は、逃亡のすえに イリ河流域に「#悦般国」を 建国し、自らの高貴な出自と 高文化の暮らしぶりとを 鼻にかけた挙げ句、新興の柔然国を『狗国』などと見下すような夜郎自大の道を歩むこととなります)
395年にローマ帝国が「東西ローマ帝国に分裂」てのもどうなのかなあと最近思う。だって東西に正帝副帝がそれぞれいて2分割(4分割)する流れはすでに100年も前からあったのだもの。395年の何度目かの分割後に急速に西側が失われただけで全体のトップであった東の正帝はその後も健在なわけで
まぁ、395年東西分裂説はエドワード•ギボンが言い出した旧説に過ぎないし、だいいち西ローマ帝政崩壊の際に帝冠と帝衣が東ローマ皇帝ゼノンに贈られてるんで、形式上はここで東西ローマ再統一してんのよねオドアケルは勿論テオドリックはじめ所謂東ゴート王国の面々もあくまで(形式上は統一を果たした東方正帝である)ローマ皇帝に臣従するローマ帝国の一員だという認識だったし(オドアケルは西ローマ宰相、テオドリックは西ローマ副帝のポジションに収まってた筈)これが最終的に覆るのがユスティニアヌス大帝の再征服だと言えるもし強いて西ローマ「帝国」の「滅亡」を決めるとしたら(正直この概念自体実体に即しているとは言えないが)、東ゴート王国が滅亡した553年まで拡大解釈してもいいんじゃないかと個人的には思う
約50年前の高校時代,世界史の授業でも匈奴フン族は同族の可能性が高いと習った.興味のある奴は,大学で西洋史東洋史を専攻しろと言われた.
フン族の刑の処し方(罪人の上を馬で往復)とかアッティラの容姿もモンゴル系なのかな?と思わせる一助になってますね。フン族=匈奴、フン族≠匈奴が定まったとしても、その後に新資料が出てあっさり覆されそう…。やはり歴史好き素人の特権、真実は君の心の中にある!(逃げ)が最強ですな。
フィンランドに何度も行く事があり、その歴史を問うた所、ラウル山脈近くに住んでいた部族がフン族によって民族ごと軍の先鋒とされ、ヨーロッパの北の北のフィンランドの地まで進み、そこでフン族の力が弱まって定住するようになったのではと聞かされました。同様なことはハンガリーでも想像できます。フィンランド=ふんランド、ハンガリ=ふんガリーだそうで、両国の言葉には類似性が有るそうですが、英語国民にとってはとても難解な言葉になっているそうです。ちなみに日本人には比較的になじみやすい言語と言われています。人柄からしても友人、知人はアングロサクソンに比べると非常に謙虚で穏やかです。日本人の特質と似ていますね。フィンランド人はよく仕事をしてくれましたが、隣のスエーデンは殆どアメリカ人でした。
大変興味深い動画でした。この時代は専門ではないのですが、非常に興味をそそられます。個人的には、中国の北方領域にいた匈奴が西遷し、フン族になったという説は非常にロマンを感じます。しかし、ふたつの点から「これはないな」とも感じています。まず、2世紀は寒冷化の時代で、ユーラシア北部の多くの遊牧系民族が中国、印度、イラン、中東、欧州などに侵入していますが、この説の匈奴(=フン)以外に寒冷化によって荒廃したであろうユーラシアステップを横断し移動した民族は皆無であるという事。原住地の気候が変わって住みにくくなったのであれば、近場に避難しようとするものです。わざわざ現在のモンゴル北部からウクライナまで移動し、更に欧州に移動する動機が見つかりません。中国北部やイランの方がよっぽど近いです。後のモンゴルがユーラシアステップを横断し、イラン・中東・欧州を攻めたのは、ユーラシアステップの気候が悪化し移動したからではなく、温暖化で草原が豊かになり、人馬が増えた(軍事力が増した)からです。ふたつ目は、中国北方の遊牧民(ユーラシアステップ東部の遊牧民)が黒海北岸やイラン北部の遊牧民(ユーラシアステップ西部)の遊牧民に対して優位に立つのは実は10世紀から11世紀以後です。両地域の遊牧民とも騎馬技術も戦術もほぼ互角ですが、近隣農耕民から入手する鉄のインゴット(精製済みの鉄塊)を武器の材料としていたので、唐末から宋代に中国で製鉄技術が飛躍的に向上し、そこから鉄資源を輸入するまで東方の遊牧民は西方の遊牧民に武力で勝てませんでした。もし、匈奴=フンが正しいのであれば、宋代以前には中国の製鉄技術はイランや中東、イスラム圏に及ばなかったという定説を覆さなくてはならなくなります。
「中国の製鉄技術はイスラムやヨーロッパに及ばなかった」このような「定説」を聞いたことは私にはありませんが?「東方遊牧民が優位に立つのは11世紀以後」なら、アヴァールや突厥帝国はどう解釈すれば良いでしょうか?
@@ingdjr5573 中国では、韓汝先生や華覚明先生の説がほぼほぼ定説となっています。つまり、「中国は青銅器時代からの鋳造の伝統を引き継いでいて、農機具などの生活必需品の大量生産のための生産効率が優先されたので、鋳鉄技術は発展したが、優れた武器等に使用される鍛造技術の発展はなかなか進まなかった。それを克服するのは可鍛鋳鉄の技術が発展してからで、そのためには石炭(後にはコークス)の利用の普及(宋代)まで待たねばならなかった」というものです。華覚明『中国治鋳史論集』は日本語には翻訳されていないようですが、中国語は大丈夫でしょうか?日本語しかできないようでしたら、韓汝『中国古代冶金』は日本語にも翻訳されていますよ。日本ではこの分野はどのような見解が定説(有力説)となっていますか?アヴァ―ルは民族系統や起源自体が不明ですよね。突厥はエニセイ川上流起源説が有力ですが、柔然傘下で彼ら自身が鉄匠集団であったという説が有力ですよね。西方の鍛鉄技術を持っていると考えるのが自然なのではないでしょうか。そうであれば、宋代以前は西方の製鉄技術が中国の製鉄技術より優れていたという話に矛盾は起きませんね。
中央アジアにはヒオン、キダライト、エフタライト(エフタル=白フン)、アルコンといった匈奴=フン族系の民族がいた。
『悦般』と『エフタル』は、おそらく同一存在基盤ではありますまぃ。。。。さらにっ「エフタル」連合体を代表とする"白フン系諸族"と、欧州に進出した"黒フン系諸族"とは、おそらく【民族的基盤】が著しく異なる存在であったかと……。(※『悦般』の凄まじく清潔な 暮らしぶりと『黒フン族』の 野蛮きわまる立ち振舞いとは、 どぅ見ても同じ民族的基盤の 所産ではありますまぃ。。。、)なぉ『黒フン系諸族』における"例外"は、【アカトジル→ハザール系譜】でありましょう。(ハザール=グルジャラ)
紀元5世紀、東ヨーロッパの地に消えたフン族を匈奴の子孫とする考えから、現在の中国語ではハンガリーを匈牙利と表記しますしかしハンガリー人(マジャール人)は、今でいうロシア東部から移動してきた人達ですから、ロシア東部の言語であるウラル語を話します。マジャール人以前にハンガリーに定住したアヴァール人は、アルタイ語系の人達です
何でゴート族が追い出されて西に行ってるのにそいつらは生きてたんだ?
@@komaichan99 さん大移動の経路blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/b8/8fae7f0a7f9518b44817e3f76b4f1603.jpg
フン族側の史料は少なくて、どうしてもローマ帝国とか中国とかのものになっちゃうんですねえ。残ってない(あっても史料として使えない?)理由も気になりますね。
それはそもそも匈奴やフン族は文字を持ってなかったからです。
@@towbbb9160 なるほど!それは盲点でした!とてもスッキリしました。ありがとうございます。
立ち絵がかわいい
鮮卑拓跋部は後に隋と唐を建国したわけで、中国全体を表す言葉になったのも当然といえる。
そのっ拓跋部に深く関わったのが、匈奴攣鞮氏の系譜を継ぐとおぼしき独孤氏はじめ匈奴系氏族たちであります。(独孤=屠各)
地球て丸いから北の方は地図で見るより案外、近いんだよね
匈”奴”自体が中華からの蔑称だろうから名を捨ててもおかしくないよね
匈奴とモンゴル遊牧民族は近いですか?
遊牧民の歴史は、本当に面白いよね。世界史に多大な影響を与えているのに、良くわかってない。ハザール王国もね。
ハザール=グルジャラ……
戦国時代の日本も明を『唐(から)』、朝鮮を『高麗(こうらい)』と呼んでいた記録が残っていますね
耳くさってるの?で吹いたヤツ🤣
匈奴→ヒュンヌ→ヒュン(ヌ)→フン
まあ確かに?ガチの研究者でも当時の事は判るワケがないわな😅資料から想像するだけで
アラル海って「アランの海」か?
ヒラタイカオ族について今度はお願いします
····はたして匈奴の最高位部族集団『#屠各種』などは、本当に " ヒラタイカオ族 " だったのでせうか!?!? (❓️ω❓️)····あちきしは彼等が、「サカ=スキタイ系民族の流れを 汲むもの」であると推測して おるます。(サカ→屠各)
確かに日本人がみんな阿部寛みたいな顔してたらローマ人との同根説でてたかもしれんな うける
実際昔はアイヌ民族はコーカサス系って説が受け入れられてた。
西遷した北匈奴の末裔とされる2つの集団で、その習俗においてあまりにも対照的な描写が当代の記録者により記されているのが、『悦般』(白匈奴)と『欧州フン族』(黒フン族)であります。両者の、同じ北匈奴連合体に属していたとは思えぬ程に対照的な暮らしぶりは、おそらく匈奴連合体内部における各部族の経済的・文化的ヒエラルキー差に依るものかと……。
テュルク系なのかモンゴル系なのか謎。
ここにエフタルが絡んでくるのでややこしい。イランのサーサーン朝や北インド政権は、アラル海から南東にアム川を下った地域に5世紀初頭に勃興したこの騎馬勢力を「白いフン」とも呼んだ。こちらは漢籍でも西の史料でも習俗等が匈奴あるいはフンとは異なると書かれているようだ。そうなると、康居へ遁走した北匈奴とはいえ当該域ではそれなりの盛名を得て、ブランド名として周辺の遊牧集団に積極活用されただけ説も捨てきれないかなぁ。
冒頭のダジャレ導入からの「耳腐ってる?」は、好い伏線だと思うゾ!まぁダジャレが好いとは言わないけどwハッキリと解る時が来るとは思えないけど、世界の繋がりをよく知る為にも解明される事を祈るしかない。
ゴート族=クラリス(カリオストロの城の先祖だな
結構詳しく書いてある倭国の記述さえ不正確だからしょうがないと言えばね。フン族の陵墓があって、骨からDNAを回収できればワンチャンあるかな。
関西弁ローマ詩人で草
始めは「聞いたことない国だな〜」ぐらいの印象だったアランが中国側の史書でも出てきた時はパズルのピースが埋まった感じがしましたねこいつらが存在してなかったら、あるいはローマと中国どちらかにも知られていなかったら匈奴=フン族説はなかったと考えると面白い
歴史は縦糸と横糸ってのがよくわかります。匈奴の末がマジャール人ってのがロマンあるから、そういうことにしとこうモンゴル系とトルコ系の差ってのはなんなんだろう?今でこそトルコ系はコーカソイドっぽいけど、昔はモンゴルと見分けはつかないだろうし、言語も同じ語族だろうし、定義とかあるのかな?
ぜんぜん南にも蛮にも関係ない民族を南蛮人と呼ぶんだから、フンヌとフン族がぜんぜん違う可能性も高そうだなぁ。と言うか、俺は個人的には匈奴はフンヌって読むんだけど、キョウドって読むのは一般的なのか?
フン族はハンガリーと聞いてた
私は北匈奴がフン族になったと思いたいなぁ。そうしたら、バスク語の謎にも一抹の光が当たるし、何よりロマンを感じるもの。
そういえば、マジャールはフンというよりモンゴルのなまりっぼいよなぁ。フンの前にスキタイが会ったり、中央アジアはモンゴル系とトルコ系、満州系とか結構いろいろあるよね。
匈奴屠各種はサカ=スキタイ系の系譜を継ぐ者かと。。。。
歴史の先生が言ってましたね。ハンガリー、フィンランドとか日本人と似てるとか。
似っていること外国違いないでしょう
むしろ中国史を学ぶほど、北方騎馬民族をモブと思うことは無くなる気がする。
謎のまま残したいとは思いません
アッチラに率いられてハンガリーに定着しちゃった!
成吉思汗に追い立てられてカスピ海沿岸から、今のブルガリアに住み着いた!突厥は今のトルコだよ!
そもそも「匈奴」って自ら名乗った名前ではないはずですよね。蔑称的というか文字の意味も卑しいし、自分達を奴(ぬ)と呼ぶわけないし。中華系の文献しか参照しようがないから、しょうがないけど。そもそも自分達を指す言葉があったのかもわからないか。
その反面、司馬遷は「夏侯氏の末裔」とまで言うほど、史記匈奴列伝でべた褒めしています。
おっしゃる通り、匈奴内の漢字の心得のある人物が中国側に送った文書の中で「匈奴」という表記を使ったという可能性は低いですね。考えられるのは、①「匈奴」は本来の呼称の音を写したもの。②「匈」が本来の集団名の漢字表記で、で、「奴」は中国側が付記したもの。の2案がが考えられます。
卑弥呼も怪しい卑を自分で付けるとは思えん
@@榊原聖人面白いことに、魏の次の晋王朝では、「俾弥呼」と表記したようです。「俾」には従うという意味があるので、双方にとって、不愉快な文字ではありません。古代史家の古田武彦氏は、①「卑」を嫌った倭国側が渡来人の学者(元祖、お雇い外国人)に相談②学者は「俾」を提案して、国書の署名を「俾弥呼」とする。③晋王朝側もこれを採用と推測していました。
遊牧民が形成した国家や集団は今日でいう民族自決的に纏まったものではなく、優れた指導者の下に利害が一致した人々が集いその集団が大きくなり、その力を頼ったり、その力によって服従させられた人々が集っていた。モンゴル高原を席巻した遊牧民は様々な民族による勢力が勃興したが、習俗自体は大差ないものだった。遊牧民集団は盛衰が指導者の力量次第であり、裁判や分配が不公平であれば離反造反は当たり前。遊牧民は伝統的に末子相続が多かったが、農耕民族のように長幼の序で後継者は決められておらず、大きな勢力になれば代替わり=血で血を洗う抗争であり、兄弟に親族臣下も巻き込んだ抗争に発展する事が多かった。後継者争いの中でより優れた指導者が台頭する場合もあったが、抗争を契機に衰退する事も多かった。
フンも匈奴も記録残してないからなあ
えっ、匈奴?は草
アヴァール人は?
アッティラ単于
······おそらくアッティラ大王ほど『単于』号を称した" 白匈奴 " 君主たちの【虚飾】からほど遠い存在はまたと在りますまぃ。
黄河以北とかって、中原のことなのか、オルドス地方のことなのか…?
そもそも、何で匈奴がヨーロッパに行くんだ?必要ないやろ!
寒冷期で飼っている羊達がバタバタ死んだからです。
パトラおばあちゃん...
匈奴の発音だよね。当時の。遠すぎね?ハンガリーとかフィンランドとかフンの名残?91年と151年なら60年で干支が同じか!
オットー・メンヒェン=ヘルフェンはド・ギーニュに反論してたな。髭の有無だったか
フィンランドのフィン、ハンガリーのハン、どちらもフン族のフンから生じた呼び名で、フン族の末裔だと信じられてきた。実際の血縁は違うみたいだが、言語などがちょっとアジアぽい。
右の子の頼りない胸元が好きです
フン=匈奴は可能性は無いわけではないのがわかった。これってその後の話もあるけど今のウクライナ紛争の地域だなーとか思う。
フン族は今日のトルコ人とハンガリー人の共通の祖先です。
ナレーションにつけた字幕で、中央ユーラシア研究者の林俊雄先生の字が間違っていました…ごめんなさいごめんなさい。
正→林俊雄
誤→林俊夫
お詫び申し上げます。
「烏桓」を大昔の中国語で再建発音すると「アヴァウル」と読むと聞いてから、本当に世界の歴史は繋がっているんだなと感動しましたね。
アヴァール人とのつながりでしょうか?興味深いですね
安禄山 = アレキサンダー
と言う説を聞いたこともありますが、確かに彼はソグド人でした。
@@草莽-b6d
その時代の発音を遡らせて成る程と納得した話と義経がジンギスカンバリのオカルトトンデモ論を一緒にしちゃだめだろ…
@@十詩音頼最寄りの書店にてそれに関連した"つくる会"元会長の田中某氏の著作が細川重男先生の著書の横に置いてあって戦慄しましたねえ
余談ですが土偶を読むの横に土偶を読むを読むが置いてあったのには笑ってしまいましたが
@@草莽-b6d
アレキサンダーはソグド人ではありません。むしろソグド人の敵でソグド人を殺しまくった人です。
現代のハンガリー人達は、子供の頃に蒙古斑が出ると聞いたことがあります。
なのでアジア系が混じっているのもたしかなんでしょうね。
ハンガリーのハンは(フィンランドのフィンも)、フン族のフンが由来らしい。両国ともアジア系(ぽいところがある)。
@@ミックスミッキー-z2g
フィンランド人の方々も、ほとんどが遺伝子を検査すると、モンゴル系が混じってるなんて話を聞いた事ありますね。
フンガリアだもんなあ
周囲がゲルマンとスラブ系だけなのに何故かハンガリーだけ違う。
@@sinji1341scarlet オルバン首相が「平和の使者」と称してモスクワや北京を訪れ、他のEU諸国を困惑させてるのにつながりますね
ハンガリーのバイク屋の店員の名前がアッティラだった。
この動画は、参考文献が載せられているところに誠意を感じます。
動画の内容も、興味深くて面白いです。
当事者の文字記録がない民族の変遷は、後の世から調べるのは難しいですよね
(文字記録を残している国家や民族の資料がすべて当てになるわけでもないですが)
高校生のころ世界史の授業でフン=匈奴説を教わってそのダイナミックさに感動したものです。今でも鮮明に覚えてるあの感動😂
少なくともフンの墓から発掘された人骨のDNA鑑定では、モンゴル系ではないかとのこと。
緻密な調査と秀逸なご推察に脱帽です。
本日も良質な動画をアップしていただきましてありがとうございます。
フン族や匈奴に限らず遊牧民族の民族系統は基本的に謎としか言いようがありませんが、バイカル湖南西あたりからアナトリア半島まで移動していったテュルク系遊牧民という割りとハッキリしている実例もあるわけで、匈奴が東ヨーロッパまで移動しても不思議ではないですよね。
こういう歴史のパズルってやってるとかなり面白いんですよね。
私は五胡十六国の北涼をちょっと興味が湧いて調べてたんですが、
京兆出身の漢人段業が匈奴の沮渠蒙遜に煽られて後涼から独立し、でもその蒙遜によって簒奪され、その孫の代に北魏に滅ぼされ、別の孫がウィグルまで逃げてそこで改めて北涼を再興。
でもそこの遊牧民族の柔然に滅ぼされて高昌国として闞伯周により再興、新たな遊牧民族高車によって滅ぼされ別の国主によって再興、でも北魏に朝貢して別の一族に簒奪される。
そうやって続々国主の苗字が代わっていくのですが、最終的に麴文泰という名前が出てくる。
「あれ?聞いたことあるぞ??」って気付いてウィキペディアで調べてみると玄奘三藏を支援した高昌国の国主の名前だったりします。
「ここに繋がるのか!」と愕然。
この高昌国が唐の李世民によって滅ぼされるのは歴史の常識ではあるのですが、北涼がこういう過程に繋がっていたとは。
推理小説の面白さに通じるものがあると思えますね。
初めて動画を拝見しましたが、涙がチョチョ切れる世代で、嬉しさを覚えました❤
参考資料を明示してあることに好感を覚えた。
メアリーがいつも「フンフン」って相槌打ってたのは、今回の伏線だった?
匈奴の解説は本当に有難いです
パズルの様って、まさに!!
確かに、分からないからこそ色々な想像もあって、楽しいですねー。
今回もありがとうございました。
かなり後の時代ですが、イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記を読むとまさに動画のアラン推定地域あたりの民族・国家が出て来ます。
ブルガール王国です。
ブルガール王はイスラム教に改宗してイスラム勢力の庇護下に入り、この地域では主流だったキリスト教信仰部族を征服したい。その庇護を求めた話なのですが、その習俗、シャーマニズムはいまだ中国北方遊族民に近いものでした。東方見聞録にも、ウノ・ハルヴァのシャーマニズムにも書かれているようなシャーマニズムです。ブルガール族は、だけど見た目にはモンゴロイドではなく白人だったという面白さがあります。
ブルガール王国、そしてその敵対勢力はイスラムやキリスト教圏の国家概念とはまた違う国家概念を持っていました。
我々の感覚で言えば野盗集団。
農耕民から蛮族と呼ばれた国家がどういったものか?の一端を知ることが出来ます。当然彼らには彼らの倫理があり、正義があり法もある。それは農耕民とは別種の物であり、農耕民の倫理で推し量っては理解できないものも多い。信頼関係の考え方の違いとも言えます。信頼や民族の正義感の違いによって、当然農耕民とは法も変わってくる。穀物を得るために貿易や略奪などをしないと生きていけない、農耕民たよりの生活の側面もある。と、いろいろ考えさせられます。
昔の紀行記も面白いですよ。
現在ブルガール族の最も近縁の
子孫とされる #チュバシ人
(チュバシ共和国の主要民族)が
話し手の " チュバシ語 " は、
かつてフン族が話していた
『オグール諸語』の唯一の
残存言語ですが、現在
チュバシ共和国においても
「ロシア語しか話せないチュバシ人」
が増えているとのことで、
フン族以来のオグール系テュルク語の
存続が危殆に瀕しつつあります…。
現代で史学といえば古代ローマから連なる西洋史,古代中華帝国による東洋史,だけど歴史の主役は中央アジアの遊牧民族の興亡にある気がする。中央アジアの遊牧民族の興亡に引き摺られて西洋史も東洋史も動いていた気がしてならない。惜しむらくは歴史の主役だった遊牧民族には歴史を記録する意志がなかった事。
だが、今でもモンゴル人は口伝で自分の血脈を何十代何百代に亘って語れる人が居るそうだから、文書だけではなく口伝も歴史研究の重要な要素だと思うけどね。
柔然=アヴァール説も好き
「キャセイ(Cathay,Kathay)」も契丹に由来する言葉です
ウクライナをはじめ、旧ソ連の各国家の周辺の発掘調査が進めば、中央アジアの遊牧民族の歴史ももっとはっきりしてくるんだろうなあ
匈奴=フンというか、部外の人間の大雑把な見方であのあたりの騎馬民族の諸部族を全部まとめてフンとか匈奴とか言ってるだけのような気がしますね。
中東では今でも国単位ではなく部族単位で動いていますが似たようなもんかもしれないですね。
彼らに文字の文化がなく全くわからないですが内部ではダイナミックに動いてそう。
トルコ人も自分たちは東方から移動してきたという歴史を残しているからね。
いずれにせよモンゴル高原が遊牧民の本拠地。
匈奴とフン(ふんぬ)の発音の類似性。現代のモンゴル語でも人(ひと)のことをフンと言う。
フン≠ヒューマン≠ひと????
(ユーラシア系言語における
連合関係のなごり!?)
>『 #言語連合』
(" 語族間関係 " よりもさらに諸言語の
類縁関係を有効に推察できる概念)
ステップにいる騎馬民族が世界史にときどき影響を与えるパターンが見受けられることは歴史の面白いところの一つです。
スキタイは遊牧の創始民族だし、金細工に優れていた。新羅の金冠なんてスキタイの影響そのもの!!!
交易路を支配したという意味では実は常に影響を与え続けているよ。中国目線だと相手をけなすような書き方で大したことないように見えるけど。ペルシャ側の資料だとまた違った視点があったりする。突厥とペルシャの衝突とか。
ときどき?
@@shintenhou229 さま
サカ≠屠各??
(屠各[tuku]→原テュルク語で
「旗を振る者」)……
女海賊コンビがフン族の解説をするというのもなかなかシュールでいいですね。(笑)
あの時期に移動したのはゲルマンだけではないことが知られている。ローマの後継者を言う西欧諸国が自国の先の正統国家であるローマに一番影響を与えた存在としてのゲルマンを(大移動)と記録しただけである。
相変わらずの強引な冒頭茶番、好きw
草原の道を支配する騎馬民族という意味では同じでも遺跡から見つかった人骨から
モンゴロイド系かコーカソイド系かは判別しないんだろうか?
もっと昔の海の民もわからんですね
2:39 絵に関してはフン族だからこうだろうみたいな欧州の説に則った想像図になりそうだから信頼は置けないだろうな。
私はソグド人などに近しいものたちがソグドから聴いた内容を元にフンは匈奴という認識をもってそれが広まったんじゃないかと思う。
200年の開きがあるから似て非なるものだろうな。
····おそらくソレは、
『匈奴連合体の内に在った
"諸部族間のヒエラルキー差" に
基づくもの』だったと
推察しております。。。。
>【似て非なるモノ】
同じ "匈奴末裔"とされながら、
【北単于直系】を称する『#悦般』の
" 当代ユーラシア遊牧民とは
信じ難いほどの清潔な暮らしぶり "と
欧州に現れた『黒フン族』の
" 『野蛮』を体現した如く不潔で
文化人離れした生活様式 " との
限りない落差は、
匈奴≠フン族を『単一のエトノス』と
捉える限りは決して理解できぬ
ジレンマでありましょう……。
7:20 「黄河の北」というのは河套(上流域の北の方に窪んでいるところ)のさらに北ということです
柔然アヴァール人説とかの解説も聞きたい
ローマ帝国側の記録では、フン族は平面的な顔で目は糸のように細かった、とのこと。裸馬を手足のように使いこなすことからも、モンゴル系の騎馬民族だった可能性は極めて高い。匈奴かもともとモンゴル高原西側に住んでいた民族かはともかく。
そもそも匈奴がどんな民族だったかも、あまりよく分かってないですよね?
匈奴がモンゴル系だったのかどうかも、確たる証拠はないですよ。匈奴はトルコ系だったのかもしれません。
そもそも匈奴がどんな民族だったかも、あまりよく分かってないですよね?
匈奴がモンゴル系だったのかどうかも、確たる証拠はないですよ。匈奴はトルコ系だったのかもしれません。
印欧語だらけの中に遺されたフンガリー語やフンランド語(とエストニア語)話者が現在まで残っているのを見ると東からの侵入者が決して少数ではなく相当な数だったと想像出来ますよね
まあ史書も割と当てにならないからなぁ、特に距離が離れてると…
中央アジアの歴史と民族分布の複雑さを教えていただき、ありがとうございました。ロシアと中国の分割を主張する者ですが、分割独立も難しいことと思っています。
ローマの記録によるとフン族は「頭が大きく目が小さく肌が浅黒い」と黄色人の風貌をしていたようだが、
現代のハンガリー人はヨーロッパ人と長年混じり合ったためか周辺のヨーロッパ諸国と見た目が変わりませんね
>#Gの遺伝子少女ファネット
実際のところ分からないから嘘はついてない😃
日本も江戸期まで中国のことを"唐の国"とよく呼称していましたからね
フン族の活動域を考えると、アレキサンダー大王並みの大帝国なのに、記録が殆どないのは残念ですね。いずれどこかでみつかるといいな。
世界史地図において、アッチラ大王の
「最大版図」に
" アングル・サクソン・ジュート族 "
の住地が「含まれない」ことが
多いのは、("敢えて除外"されている❓️)
【WASP様への"忖度"】でせうか??
大体、
「アングロサクソンの
ブリタニア進出」が本格化する
最初の一件が、
『ローマ世紀末覇者』たる
"恐怖の"アッチラ大王がガリアを
目指して進軍を開始した時期と
ものの見事に合致するのですよねぇ…
自分も絵を描けたらファンアート描いて送るんだけどそんな能力ないので高評価👍ボタン押す事しかできない…
邪馬台国問題とかでもそうですが、発音問題はそれだけで動画何本もできちゃうようなテーマですね
国という形式を持たない「ユーラシア平原の遊牧民集団」を古代中国では匈奴、欧州ではフンと呼んで恐れただけの話だと思ってたからむしろなんで別民族だと考えられてきたのかの方に興味あった。馬の群れと一緒に移動する集団だから地続きならどこまでも移動するだろうし、その侵入を防ぐために国境警備が必要になったのも自然な話だと思う。
漫画龍狼伝の匈奴編面白かったなあ。と思い出をかみしめてみる。
個人の直感としては
同じだったように思える😊
ΙΣΤΟΡΙΧΑの方をいつも楽しませていただいていますが、この件はそれこそ中学の頃に初めて聞いてから興味はあったものの詳しく調べてみる機会もなく半世紀以上経ってしまっていたので、とても面白かったです。
騎馬民の移動速度ってどのくらいだったんだろう?と、ふと思ってしまいました。
もしかしたら、定住民の感覚よりも中央アジア内陸部は中国西域から黒海のあたりまでが「ご近所さん」だったのかもしれない、という気もしました。製鉄技術と航続距離には大きな関係があるのでしょうけれど、私たちが想像するより第一千年紀前半の騎馬民族には機動力があったのかも?とも。
全て素人の無責任な憶測ですが。
AD151年頃
北匈奴が完全に消息を絶つ以前に、
AD91年に行方知れずとなった
北単于に代わり北匈奴部衆を率いて
60年にもわたって漢・鮮卑連合軍
と戦った
NO.2の指導者 "呼衍王" の行動範囲が、
東はジュンガル盆地から西は
黒海北岸にまで及んだと
いいますから、@やき-t2pさまの
お言葉は正鵠を射ていたのでは
ないかと思います。
(なお行方不明となった北単于と
その部衆は、逃亡のすえに
イリ河流域に「#悦般国」を
建国し、自らの高貴な出自と
高文化の暮らしぶりとを
鼻にかけた挙げ句、新興の柔然国を
『狗国』などと見下すような
夜郎自大の道を歩むこととなります)
395年にローマ帝国が「東西ローマ帝国に分裂」てのもどうなのかなあと最近思う。
だって東西に正帝副帝がそれぞれいて2分割(4分割)する流れはすでに100年も前からあったのだもの。
395年の何度目かの分割後に急速に西側が失われただけで全体のトップであった東の正帝はその後も健在なわけで
まぁ、395年東西分裂説はエドワード•ギボンが言い出した旧説に過ぎないし、だいいち西ローマ帝政崩壊の際に帝冠と帝衣が東ローマ皇帝ゼノンに贈られてるんで、形式上はここで東西ローマ再統一してんのよね
オドアケルは勿論テオドリックはじめ所謂東ゴート王国の面々もあくまで(形式上は統一を果たした東方正帝である)ローマ皇帝に臣従するローマ帝国の一員だという認識だったし
(オドアケルは西ローマ宰相、テオドリックは西ローマ副帝のポジションに収まってた筈)
これが最終的に覆るのがユスティニアヌス大帝の再征服だと言える
もし強いて西ローマ「帝国」の「滅亡」を決めるとしたら(正直この概念自体実体に即しているとは言えないが)、東ゴート王国が滅亡した553年まで拡大解釈してもいいんじゃないかと個人的には思う
約50年前の高校時代,世界史の授業でも匈奴フン族は同族の可能性が高いと習った.
興味のある奴は,大学で西洋史東洋史を専攻しろと言われた.
フン族の刑の処し方(罪人の上を馬で往復)とかアッティラの容姿もモンゴル系なのかな?と思わせる一助になってますね。
フン族=匈奴、フン族≠匈奴が定まったとしても、その後に新資料が出てあっさり覆されそう…。
やはり歴史好き素人の特権、真実は君の心の中にある!(逃げ)が最強ですな。
フィンランドに何度も行く事があり、その歴史を問うた所、ラウル山脈近くに住んでいた部族がフン族によって民族ごと軍の先鋒とされ、ヨーロッパの北の北のフィンランドの地まで進み、そこでフン族の力が弱まって定住するようになったのではと聞かされました。同様なことはハンガリーでも想像できます。フィンランド=ふんランド、ハンガリ=ふんガリーだそうで、両国の言葉には類似性が有るそうですが、英語国民にとってはとても難解な言葉になっているそうです。ちなみに日本人には比較的になじみやすい言語と言われています。人柄からしても友人、知人はアングロサクソンに比べると非常に謙虚で穏やかです。日本人の特質と似ていますね。フィンランド人はよく仕事をしてくれましたが、隣のスエーデンは殆どアメリカ人でした。
大変興味深い動画でした。この時代は専門ではないのですが、非常に興味をそそられます。
個人的には、中国の北方領域にいた匈奴が西遷し、フン族になったという説は非常にロマンを感じます。しかし、ふたつの点から「これはないな」とも感じています。
まず、2世紀は寒冷化の時代で、ユーラシア北部の多くの遊牧系民族が中国、印度、イラン、中東、欧州などに侵入していますが、この説の匈奴(=フン)以外に寒冷化によって荒廃したであろうユーラシアステップを横断し移動した民族は皆無であるという事。原住地の気候が変わって住みにくくなったのであれば、近場に避難しようとするものです。わざわざ現在のモンゴル北部からウクライナまで移動し、更に欧州に移動する動機が見つかりません。中国北部やイランの方がよっぽど近いです。後のモンゴルがユーラシアステップを横断し、イラン・中東・欧州を攻めたのは、ユーラシアステップの気候が悪化し移動したからではなく、温暖化で草原が豊かになり、人馬が増えた(軍事力が増した)からです。
ふたつ目は、中国北方の遊牧民(ユーラシアステップ東部の遊牧民)が黒海北岸やイラン北部の遊牧民(ユーラシアステップ西部)の遊牧民に対して優位に立つのは実は10世紀から11世紀以後です。両地域の遊牧民とも騎馬技術も戦術もほぼ互角ですが、近隣農耕民から入手する鉄のインゴット(精製済みの鉄塊)を武器の材料としていたので、唐末から宋代に中国で製鉄技術が飛躍的に向上し、そこから鉄資源を輸入するまで東方の遊牧民は西方の遊牧民に武力で勝てませんでした。もし、匈奴=フンが正しいのであれば、宋代以前には中国の製鉄技術はイランや中東、イスラム圏に及ばなかったという定説を覆さなくてはならなくなります。
「中国の製鉄技術はイスラムやヨーロッパに及ばなかった」このような「定説」を聞いたことは私にはありませんが?
「東方遊牧民が優位に立つのは11世紀以後」なら、アヴァールや突厥帝国はどう解釈すれば良いでしょうか?
@@ingdjr5573 中国では、韓汝先生や華覚明先生の説がほぼほぼ定説となっています。つまり、「中国は青銅器時代からの鋳造の伝統を引き継いでいて、農機具などの生活必需品の大量生産のための生産効率が優先されたので、鋳鉄技術は発展したが、優れた武器等に使用される鍛造技術の発展はなかなか進まなかった。それを克服するのは可鍛鋳鉄の技術が発展してからで、そのためには石炭(後にはコークス)の利用の普及(宋代)まで待たねばならなかった」というものです。華覚明『中国治鋳史論集』は日本語には翻訳されていないようですが、中国語は大丈夫でしょうか?日本語しかできないようでしたら、韓汝『中国古代冶金』は日本語にも翻訳されていますよ。日本ではこの分野はどのような見解が定説(有力説)となっていますか?
アヴァ―ルは民族系統や起源自体が不明ですよね。突厥はエニセイ川上流起源説が有力ですが、柔然傘下で彼ら自身が鉄匠集団であったという説が有力ですよね。西方の鍛鉄技術を持っていると考えるのが自然なのではないでしょうか。そうであれば、宋代以前は西方の製鉄技術が中国の製鉄技術より優れていたという話に矛盾は起きませんね。
中央アジアにはヒオン、キダライト、エフタライト(エフタル=白フン)、アルコンといった匈奴=フン族系の民族がいた。
『悦般』と『エフタル』は、
おそらく同一存在基盤では
ありますまぃ。。。。
さらにっ「エフタル」連合体を
代表とする"白フン系諸族"と、
欧州に進出した"黒フン系諸族"とは、
おそらく【民族的基盤】が
著しく異なる存在であったかと……。
(※『悦般』の凄まじく清潔な
暮らしぶりと『黒フン族』の
野蛮きわまる立ち振舞いとは、
どぅ見ても同じ民族的基盤の
所産ではありますまぃ。。。、)
なぉ『黒フン系諸族』における
"例外"は、
【アカトジル→ハザール系譜】
でありましょう。
(ハザール=グルジャラ)
紀元5世紀、東ヨーロッパの地に消えたフン族を匈奴の子孫とする考えから、現在の中国語ではハンガリーを匈牙利と表記します
しかし
ハンガリー人(マジャール人)は、今でいうロシア東部から移動してきた人達ですから、ロシア東部の言語であるウラル語を話します。
マジャール人以前にハンガリーに定住したアヴァール人は、アルタイ語系の人達です
何でゴート族が追い出されて西に行ってるのにそいつらは生きてたんだ?
@@komaichan99 さん
大移動の経路blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/b8/8fae7f0a7f9518b44817e3f76b4f1603.jpg
フン族側の史料は少なくて、
どうしてもローマ帝国とか中国とかのものになっちゃうんですねえ。
残ってない(あっても史料として使えない?)理由も気になりますね。
それはそもそも匈奴やフン族は文字を持ってなかったからです。
@@towbbb9160
なるほど!それは盲点でした!
とてもスッキリしました。ありがとうございます。
立ち絵がかわいい
鮮卑拓跋部は後に隋と唐を建国したわけで、中国全体を表す言葉になったのも当然といえる。
そのっ拓跋部に深く関わったのが、
匈奴攣鞮氏の系譜を継ぐとおぼしき
独孤氏はじめ匈奴系氏族たちで
あります。
(独孤=屠各)
地球て丸いから北の方は地図で見るより案外、近いんだよね
匈”奴”自体が中華からの蔑称だろうから名を捨ててもおかしくないよね
匈奴とモンゴル遊牧民族は近いですか?
遊牧民の歴史は、本当に面白いよね。
世界史に多大な影響を与えているのに、良くわかってない。
ハザール王国もね。
ハザール=グルジャラ……
戦国時代の日本も明を『唐(から)』、朝鮮を『高麗(こうらい)』と呼んでいた記録が残っていますね
耳くさってるの?で
吹いたヤツ🤣
匈奴→ヒュンヌ→ヒュン(ヌ)→フン
まあ
確かに?
ガチの研究者でも当時の事は判るワケがないわな😅
資料から想像するだけで
アラル海って「アランの海」か?
ヒラタイカオ族について今度はお願いします
····はたして匈奴の最高位部族集団
『#屠各種』などは、
本当に " ヒラタイカオ族 " だったので
せうか!?!? (❓️ω❓️)
····あちきしは彼等が、
「サカ=スキタイ系民族の流れを
汲むもの」であると推測して
おるます。(サカ→屠各)
確かに日本人がみんな阿部寛みたいな顔してたらローマ人との同根説でてたかもしれんな うける
実際昔はアイヌ民族はコーカサス系って説が受け入れられてた。
西遷した北匈奴の末裔とされる
2つの集団で、
その習俗においてあまりにも
対照的な描写が当代の記録者により
記されているのが、
『悦般』(白匈奴)と
『欧州フン族』(黒フン族)
であります。
両者の、同じ北匈奴連合体に
属していたとは思えぬ程に
対照的な暮らしぶりは、おそらく
匈奴連合体内部における各部族の
経済的・文化的ヒエラルキー差に
依るものかと……。
テュルク系なのかモンゴル系なのか謎。
ここにエフタルが絡んでくるのでややこしい。
イランのサーサーン朝や北インド政権は、アラル海から南東にアム川を下った地域に5世紀初頭に勃興したこの騎馬勢力を「白いフン」とも呼んだ。
こちらは漢籍でも西の史料でも習俗等が匈奴あるいはフンとは異なると書かれているようだ。
そうなると、康居へ遁走した北匈奴とはいえ当該域ではそれなりの盛名を得て、ブランド名として周辺の遊牧集団に積極活用されただけ説も捨てきれないかなぁ。
冒頭のダジャレ導入からの「耳腐ってる?」は、好い伏線だと思うゾ!
まぁダジャレが好いとは言わないけどw
ハッキリと解る時が来るとは思えないけど、世界の繋がりをよく知る為にも解明される事を祈るしかない。
ゴート族=クラリス(カリオストロの城の先祖だな
結構詳しく書いてある倭国の記述さえ不正確だからしょうがないと言えばね。フン族の陵墓があって、骨からDNAを回収できればワンチャンあるかな。
関西弁ローマ詩人で草
始めは「聞いたことない国だな〜」ぐらいの印象だったアランが中国側の史書でも出てきた時はパズルのピースが埋まった感じがしましたね
こいつらが存在してなかったら、あるいはローマと中国どちらかにも知られていなかったら匈奴=フン族説はなかったと考えると面白い
歴史は縦糸と横糸ってのがよくわかります。
匈奴の末がマジャール人ってのがロマンあるから、そういうことにしとこう
モンゴル系とトルコ系の差ってのはなんなんだろう?
今でこそトルコ系はコーカソイドっぽいけど、昔はモンゴルと見分けはつかないだろうし、
言語も同じ語族だろうし、定義とかあるのかな?
ぜんぜん南にも蛮にも関係ない民族を南蛮人と呼ぶんだから、フンヌとフン族がぜんぜん違う可能性も高そうだなぁ。
と言うか、俺は個人的には匈奴はフンヌって読むんだけど、キョウドって読むのは一般的なのか?
フン族はハンガリーと聞いてた
私は北匈奴がフン族になったと思いたいなぁ。
そうしたら、バスク語の謎にも一抹の光が当たるし、何よりロマンを感じるもの。
そういえば、マジャールはフンというよりモンゴルのなまりっぼいよなぁ。
フンの前にスキタイが会ったり、中央アジアはモンゴル系とトルコ系、満州系とか結構いろいろあるよね。
匈奴屠各種はサカ=スキタイ系の
系譜を継ぐ者かと。。。。
歴史の先生が言ってましたね。
ハンガリー、フィンランドとか日本人と似てるとか。
似っていること外国違いないでしょう
むしろ中国史を学ぶほど、北方騎馬民族をモブと思うことは無くなる気がする。
謎のまま残したいとは思いません
アッチラに率いられてハンガリーに定着しちゃった!
成吉思汗に追い立てられてカスピ海沿岸から、今のブルガリアに住み着いた!突厥は今のトルコだよ!
そもそも「匈奴」って自ら名乗った名前ではないはずですよね。蔑称的というか文字の意味も卑しいし、自分達を奴(ぬ)と呼ぶわけないし。
中華系の文献しか参照しようがないから、しょうがないけど。そもそも自分達を指す言葉があったのかもわからないか。
その反面、司馬遷は「夏侯氏の末裔」とまで言うほど、史記匈奴列伝でべた褒めしています。
おっしゃる通り、匈奴内の漢字の心得のある人物が中国側に送った文書の中で「匈奴」という表記を使ったという可能性は低いですね。考えられるのは、
①「匈奴」は本来の呼称の音を写したもの。
②「匈」が本来の集団名の漢字表記で、で、「奴」は中国側が付記したもの。
の2案がが考えられます。
卑弥呼も怪しい
卑を自分で付けるとは思えん
@@榊原聖人
面白いことに、魏の次の晋王朝では、「俾弥呼」と表記したようです。「俾」には従うという意味があるので、双方にとって、不愉快な文字ではありません。古代史家の古田武彦氏は、
①「卑」を嫌った倭国側が渡来人の学者(元祖、お雇い外国人)に相談
②学者は「俾」を提案して、国書の署名を「俾弥呼」とする。
③晋王朝側もこれを採用
と推測していました。
遊牧民が形成した国家や集団は今日でいう民族自決的に纏まったものではなく、
優れた指導者の下に利害が一致した人々が集いその集団が大きくなり、
その力を頼ったり、その力によって服従させられた人々が集っていた。
モンゴル高原を席巻した遊牧民は様々な民族による勢力が勃興したが、習俗自体は大差ないものだった。
遊牧民集団は盛衰が指導者の力量次第であり、裁判や分配が不公平であれば離反造反は当たり前。
遊牧民は伝統的に末子相続が多かったが、
農耕民族のように長幼の序で後継者は決められておらず、
大きな勢力になれば代替わり=血で血を洗う抗争であり、
兄弟に親族臣下も巻き込んだ抗争に発展する事が多かった。
後継者争いの中でより優れた指導者が台頭する場合もあったが、抗争を契機に衰退する事も多かった。
フンも匈奴も記録残してないからなあ
えっ、匈奴?は草
アヴァール人は?
アッティラ単于
······おそらくアッティラ大王ほど
『単于』号を称した
" 白匈奴 " 君主たちの【虚飾】から
ほど遠い存在はまたと在りますまぃ。
黄河以北とかって、中原のことなのか、オルドス地方のことなのか…?
そもそも、何で匈奴がヨーロッパに行くんだ?
必要ないやろ!
寒冷期で飼っている羊達がバタバタ死んだからです。
パトラおばあちゃん...
匈奴の発音だよね。当時の。遠すぎね?
ハンガリーとかフィンランドとかフンの名残?
91年と151年なら60年で干支が同じか!
オットー・メンヒェン=ヘルフェンはド・ギーニュに反論してたな。髭の有無だったか
フィンランドのフィン、ハンガリーのハン、どちらもフン族のフンから生じた呼び名で、フン族の末裔だと信じられてきた。実際の血縁は違うみたいだが、言語などがちょっとアジアぽい。
右の子の頼りない胸元が好きです
フン=匈奴は可能性は無いわけではないのがわかった。
これってその後の話もあるけど今のウクライナ紛争の地域だなーとか思う。
フン族は今日のトルコ人とハンガリー人の共通の祖先です。