北条泰時の生涯 身内 御家人に反発され、決して安泰ではなかった得宗家の苦難の歴史【鎌倉殿の13人】
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- Опубликовано: 6 сен 2024
- 御成敗式目を制定し、江戸時代まで続く武家政権の基礎を作り上げた北条泰時(金剛)。
北条泰時の跡をつぎ、反発する身内を抑え、北条氏による執権政治を確立しました。
子孫は、得宗家として代々執権を務めますが、その激務から若死することも多く、決して支配者として悠々自適の生活を送っていたわけではありませんでした。
そんな北条泰時の生涯、執権として政治の安定に尽くした子孫のその後について紹介します。
NHKの公式ネタバレ本? 8月までのドラマのあらすじが細かいセリフまでしっかり書いてあります。
『鎌倉殿の13人 後編 NHK大河ドラマ・ガイド』
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#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ
泰時は頼朝、頼家、実朝からの信頼が厚かったからな
泰時は頼朝からも大いに期待されていた逸材だった。庶長子だったけど、朝時がやらかしたから嫡男になった。泰時が嫡流になったのは収まる所に収まったと言える。
子供に先立たれて自身がお迎え来る時にまだ若い孫のことが心残りだったろうな。泰時以降の世代は得宗庶流問わず短命の人が多かったイメージかな。
タイトルの北条泰時のみならず、その後の北条氏の歴史まで解説まで見れたのでとても面白かったです!
鎌倉時代の名君といえばこの人
こっちの13人体制が今年の大河ドラマの締めになるのかもですね
泰時は知れば知るほど大政治家だな。家康に匹敵する
東出昌大氏は鎌倉殿の13人に出るべき
息子の時氏(20代で病死)や時実(15歳で暗殺)に先立たれ、孫の経時も4代執権になったものの、若くして病没。さぞや、嘆き悲しんだろう。
北条得宗はその弟の時頼の代になってようやく安定、時宗の代に最盛期となる。
そしてその時宗以降元寇での恩賞の不満から幕府が崩壊し始める。
さらに北条得宗家の独裁体制と内管領平頼綱、同じく長崎高綱・高資父子ら得宗家家臣たち(御内人:みうちびと)の台頭もこれに拍車を掛けることになります。
14代高時は無能の極みでしたね
泰時の弟達への過分とも言える領地分配は名越氏(名越流北条家)の台頭と得宗家への度重なる謀叛(疑いも含む)の遠因となったな
正直名前が出すぎて最後はもうわけわかんないっす・・・
北条氏がどのように幕府の実権を握り、続いたのか、よくまとまっていました。
貞永(御成敗)式目は律令制における式の目録という意味で、
律令制を補完する法律の意味合いが多分に存在する。
良質で、美しく、ためになる、動画 ありがとうございます✨
小中学生ぐらいで薄く歴史を学んだ時には、得宗家なんて私欲にまみれた権力者の家って印象だったけど
実際は長生きして好き放題できた生涯を送った人なんていなかったようですな
統治者となる正統性が薄いほど立派な統治者となることを目指す傾向があるのかな。
豊臣秀吉に関してはその限りではないと思います。
実は徳川家康に野心が全くなく、なるべくして天下人になってしまった説があるからそれも一理あるかも
@@user-su2qf9jm5t 豊臣秀吉ってちゃんとした法律(検地,刀狩,そうぶじれいとかの単発命令ではなく自分や豊臣家もそれに服する諸法度とか憲法に近い恒久的なもの)を制定してましたっけ?
将に光格天皇が、そうやね。
ソレが裏目に出ることもある
後鳥羽上皇が神器が揃った正統な即位だったら余計な事せずに幕府と協調路線を続けたかもしれない
後醍醐天皇が次男の次男て出自でなければ余計な事せずに鎌倉幕府の滅亡も南北朝も無かったかもしれない
母の出自がわからないのに低いと決めつけての解説ですか?もしも伊東祐親の娘ならば、父である義時の方が出自が低いのではありませんか?
この事は30年前から思ってました。北条より伊東の方が格上です。
北条の出自は平氏というならば同等か、それか少し上でしょう
@@user-lm3ji7mp2u
そもそも正妻ではないので出自の高い人が「大っぴらに」なることはできません。よって自然に考えると出自が低いと考えられますし、そうでなくとも何か後ろめたい事情がある(八重説はこれを採用)わけです。後者であっても後ろめたい者の子となれば泰時の肩身は狭いと考えられます。
というか正妻腹じゃないだけでも出自が低いと言って差し支えないでしょう。
北条義時の話をしていたと思っていたら「もう時頼?もう時宗?」と思った
執権北条氏の滅亡までの歴史を見ていくと、鎌倉幕府滅亡も「御家人最大勢力の北条氏VSその他の御家人(足利や新田等々)」という御家人同士の争いでしかなかったとも言えるのではないかと思った。その他の御家人に朝廷が介入したってだけで
確かに、朝廷の介入により反北条に御家人が大挙して流れただけで、北条氏と御家人の対立という点では変わらないですね!
単純な図式には当てはまらないのは承知ですが、その考え方は思いつかなかったです!
後醍醐天皇の倒幕理由でも、北条高時を野蛮人の頭領という下りとして皮肉られたように貶めらたのも、大元には北条義時から継承の疑問符が投げかけられていたのかなと思う次第です。
北条自体も伊豆国の小豪族に過ぎないという出自の低さや(結果論ながら)文官向きの人材しか出せなかった事もあり、他の有力御家人を排除してのし上がるも政権は不安定だし末期には戦に長けた人材を出せなかった事も滅亡の遠因になりましたね
京都の情勢に詳しかったり、中央政界での立ち回りの良さから、北条氏は京都に繋がりの深い下級貴族だったのでは?と思う。伊豆国の人口の少なさや、伊豆に定着したのも日が浅かったので、北条氏は地方武士団としては小規模勢力でしかなかったけど、だからといって、世間を知らない田舎武士ではなかった。
源義経、足利尊氏、新田義貞。確かに源氏は軍に強い武将を多く輩出したイメージがある。結果論ではあるが、北条は名より実をとるしかなかったとはいえ、源氏将軍を残しておくべきだったのだ。幕末、得宗高時の時代、幕政を牛耳るのが長崎円喜なんてどこぞの馬の骨では、足利も新田も心置きなく滅ぼすことができたろう。将軍は名ばかりの親王将軍。これが頼朝からの河内源氏の正統将軍であったら、尊氏も義貞も宗家に弓引くような躊躇いがあったかもしれない。
とはいえ、4代頼経の時でさえ、九条家や名越の陰謀に利用され、幕府は転覆させられそうになったし、自分で将軍をやれない家柄のもどかしさをずっと抱えていたんだろうとな北条の苦悩は拝察される
@@user-ry3du7we4k様 徳川家康が源氏の出自で無いにも関わらず清和源氏義家流の系図を朝廷に便宜を図ってまで僭称してますね。
他方秀吉は農民出故に武家社会の頂に立つことは叶わず、藤原家の養子になってまで公家の地位を手に入れて関白にまで成り上がりましたが、結局は二代で滅びましたし、やはり力こそ全ての武士であっても出自は大事のようですね
北条泰時 足利義満 徳川家光 日本三大三代目統治者
中学時代の参考書には、この3人のほかに、日本三大八代目(ターニングポイント)支配者として
北条時宗 足利義政 徳川吉宗
を、日本三大十五・十六代目(ラスト)支配者として
北条守時 足利義昭 徳川慶喜
を、それぞれ上げていました。
@@AtsushiMizobe Nalfodo☆彡8代目は特に意味深いメンバーですね👍 好い参考書つかってますね✨
泰時八重生母説は鎌倉殿の13人の時代考証の坂井孝一さんが考えるフィクションでしょう。鎌倉殿の13人には足利氏、新田氏は出てきません。北条高時の代での御家人筆頭は足利氏ですが頼朝の頃の足利氏がどうだったのかが気になります。これもフィクションですがドラマの鶴丸子孫が後年の長崎氏になるのかな。
八重生母説の可能性を100%完全に否定することはできないというだけですよね。
そこからあれだけのドラマを生み出せるのはすごいです。
母親の身分が低いはずがない。低いなら頼朝の頼の字を偏諱されないだろう。逆に息子の頼家と同じ扱いだ。母親は頼朝と関係があった女性である考えないと説明がつがない。
確かに…
もし泰時の母が八重さんなら頼朝がかつて愛した女性が産んだ息子の為に自らの字(それも清和源氏の通字の一つ)である“頼“の字を与えたのかも
泰時の母が八重姫って説を唱えているのは、大河ドラマ時代考証の坂井先生くらいらしい。決定的な証拠が無いため、八重姫母説は主流とは言えない。しかし決定的な否定材料も無い。
三谷幸喜さんは、最新の学説を含めた色んな説を並べて、ドラマ的に面白いものを採用しているそうです。
まぁー「草燃える」世代はアレが正しいと思いがちですが、例えば当時は牧の方の出自が分からなかった。その後の研究で、何と平頼盛のいとこらしいと判明した。そういう貴族の娘を娶る事ができる北条時政は決して伊豆の下っ端武士じゃないだろう、となってきた。
ありがとうございます!
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これからも満足いただけるような動画をお届けできるようがんばります!
徳川家康の政治の基本である、泰時政治‼️😎
泰時は、承久の乱の時、わずか18騎で出陣したといわれていますが、もしかすると、この中に ドラマの 鶴丸 がいて、泰時を命懸けでボディガードする!
はい 妄想です。
鶴丸はさながら頼朝と安達盛長のように2人して先陣切って出陣するはずです!
なるほど❗泰時と鶴丸の関係は、頼朝と安達盛長か、その考え浮かびませんでした。
もしかしたら、鶴丸は名を 平盛綱 に変えて側近となるのかな?とも思いましたが、しっくりこない。やはり先生の考え一番いいですね✨
政治家の亀鑑とされ、敵にまで尊敬された人物。
恩師の「あるべきようは」を胸に刻んでいた。
「聖人を師と仰ぐ者は王者となる。」を地で行ってる。
1:51文献が残ってないからわからないだけで、当時は母の身分はわかってたんじゃあないの?
文献が残らないほどに母の身分が低かった、もしくは残したくないような出自の人物だった
いずれにせよ、泰時にとってプラスになるような人物でなかったのではと考えています。
自民党総裁は学ぶべし
特に、岸田よ‼️😎
生母の母方の身分が、産んだ子供の一生を左右する………時代は、平安時代全般共通のテーマですね。
宇多天皇・醍醐天皇が臣籍降下や臣籍の身分から、天皇になった聖帝として有名(菅原道真を始めとする、身分が低くても有能なら重用した、など)。
源 融(みなもとのとおる)は、『源氏物語』の光源氏の実在モデルの有力候補。身分、立身出世で最終的に左大臣へ。富豪を伺わせる逸話が多い。
グッと下がって、平清盛。白河法皇ご落胤や祇園女御に纏わる逸話、清和源氏お馴染みの内輪もめがなく、建礼門院(平 徳子)と安徳天皇を必死で守る一族郎党、強固な主従関係を擁するようになったのは、本来の温厚さで一致団結させていたから。
宰相と言うべき、北条泰時。平清盛と同じく、三代目。はっきりしない生母の母方の力を頼ることができない。伯母の尼将軍も同じ、しかし、祖父・時政や父・義時の謀略(舶来品出土で比較的、裕福だけど、北条氏自体は他と違い、主従関係の武力がない)による粛清の酷さ、承久の乱で院政にとどめを刺した。この時、傍若無人ぶりを働き、京の都を震撼させ、御成敗式目を制定。
やはり、ここも残念ながら承久の乱なのてすね。
北条泰時を頼朝が可愛がる地点で、頼朝父親説が採用されたんだろうけど、実際八重の子ならば
伊東家の血筋は濃いので、北条を継ぐ意味では問題はあっただろうけど・・
まあ、義時は正妻も比企の娘だし、血筋的に良いサラブレット作り出す運はあまりなさそうだけどねw
八重生母説は大河ドラマのフィクションだと思う。
岡崎久彦によると、日本と朝鮮半島とを GDPなどの国力で比べた場合、北条執権政治時代に 日本が朝鮮を追い越している、という。
朝鮮?なんでここで朝鮮の話が出てくる?しかも朝鮮なんてどうでもいいよ。比較する意味など全くない。
善政を敷いた泰時でも、最後は平清盛のそれと重ねられる様になってしまったのですね。うーん。
朝廷を敵に回すことの恐ろしさです…
改めて承久の乱での義時の凄さも分かります
承久の乱での義時、泰時父子は正直果断さ決断力はイマイチだと思いますよ、徹底抗戦、先制攻撃を主張した大江が居なかったらどうなってたのか
逃げ若は?
北条泰時、時頼辺りは幕府盛期になり、鎌倉武家文化も現出されるなどある意味で御家人や民衆を含めた安定期にはなりましたが、30歳代半ばで他界した時頼、時宗に象徴されるようにやはり執権職務は短命化を招かざるえない位の激務だったのだろうか(~_~メ)鎌倉時代もあり食料や医療もまだ不十分なのも否定出来ぬし、しかしこの激務ながらも世のため人のためにある意味尽くした泰時、時頼辺りの取り組み姿勢は見習いたいデス(ー_ー゛)
かつて“頼時“を名乗っていた泰時の孫が“時頼“って凄い縁ですね✨
こんばんは。
時頼以降は、大河ドラマでは、
『北条時宗』(01年)
『太平記』(91年)
で触れられていますので鎌倉中期の北条氏がよくわかりますよ。
いつか時政から高時までの北条全記をやってほしい