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目から鱗💧まさに季語を考えずの単色わびさび一匹と思い込んでいました😵そうか~春🌸か~なるほど奥が深すぎます💦
正人さん大好きです。優しくて柔らかくて。夏井先生とのやり取りも、楽しいです。
昔、黒柳徹子さんがおっしゃっていたのですが、「窓際のトットちゃん」の英訳本が出ることになった時、翻訳家の方から一番確認のための問い合わせが多かったのが「この犬は一匹ですか?数匹ですか?」「この子供は、一人ですか?何人ですか?」といった単数形で訳すか複数形で訳すかべきかの質問だったと言う事でした。日本語の名詞の表現には特別な時以外は単複の概念がないですからね。
久しぶりにがっつりとした俳句のお勉強といった感じで、体力確かに使いましたが(^^ 勉強になりました!そもそも「蛙」を夏(梅雨時)とかの季語として認識している方が寧ろ多数派ではないかと思いますし、「俳句とは侘び寂びだ」という教え方から一歩踏み込んだ令和的な授業において、この動画を全国の小学校の国語の授業で紹介するだけでも知的好奇心が湧くと思います。素晴らしい動画でした!
蛙が春の季語だと知っていしたが、まさかここまで賑やかな俳句だとは、知らずにいました。ありがとうございました😊
いつも素晴らしい動画ありがとうございます名句の迷宮にようこそ、といった感じですね〜とても面白かったです改めて考えてみると、私は無季だと思いました個人的にはずっと夏の俳句だと思ってました夏に詠んだ無季?静寂を破る蛙が飛び込むはっとするような音に既に蛙の姿はない水紋が消えゆく中を静かな余韻が、涼しさを発しながらまだ少し熱気の残る辺りに広がってゆく水の中に消えた蛙が感じているであろう涼と共にどうしても重心が 古池や が強く置かれてて蛙は二の次のような位置でさらに最後の余韻は水の音とその涼しさ、水中の涼、蛙は季語と言うよりも、というような扱いでもこの動画を見る前までは、もう侘び寂びの極地の句で、水墨画がこの句で沢山描かれたんではと思うような、そんなイメージそれくらい季節感を超越した侘び寂びを古池や〜ので出しだけでガッツリ読む人を侘び寂びの世界に引きづり込む力が
なるほどー。私も「古池」に引っ張られて読んでいました。でも春の蛙の句と思って読むと、華やかで賑やかですね。私の脳内映像では、そのカットで飛び込んだ蛙は一匹だけど、蛙自体は複数いる、というイメージ。
先日、幼保小連絡会で卒園生の小学校の授業参観に行って来ました。1年生のクラスの隣で、3年生が俳句の勉強をしていたので、こっそり覗かせて頂きました。まさに「古池や蛙とびこむ水の音」の鑑賞をされていて、1匹の蛙がポチャンとたてる静かな音に気づいて、松尾芭蕉は感動したのだ。と言われてました。RUclipsで検索したら、昨今の状況を反映してリモート授業(小3国語・俳句)がたくさんupされていましたが、蛙の複数説はありませんでした。中には灰色の古池の画像付きの句も…🤭私は緑滴る樹々に覆われた古池(濁っている)に、1匹の蛙がぽちゃっと小さな音を残す。波紋が消えた後はまた静かな池に戻った静寂の世界というイメージを持っていたので、春の生命感溢れる池に複数の蛙が跳ねている、という説はまさに衝撃です!俳句って凄いですね。今日も興味深いお話しをありがとうございました😌
こんばんは!『蛙』が春の季語というのは知っていましたが、夏が近いこともあってか私も最初は深緑色の蛙1匹が水に飛び込んでいったその音が聞こえてきた句だと思いました。しかし、今回話を聞いて、蛙が複数かもしれない、どんな色をしているのか等、疑問に思うと深い俳句になっているんだと感じました。
森の中の古池の周りを夏も冬も犬を連れて散歩しています。蛙が池に飛び込む音が聞こえるのはやはり春、初夏になります。一匹飛び込むと次から次へと飛び込みだし、犬もついでに飛び込むので、私も蛙複数説の賑やか派です。楽しく拝聴しております
とても面白い回でした。目からウロコ!兜太翁の話も出てきてワクワク!池の音がボッチャンボッチャン跳ねると愉快ですね。ワビサビドコヘイキマシター?最高!
遥か昔、まさしく「古池に蛙が一匹、ぽちゃんと飛び込んだわび・さびを詠んだ俳句」と小学校で教わりました。蛙が春の季語とわかった今でもまず浮かぶのは、物寂しげな枯れ葉多めの茶色っぽい光景です。三つ子の魂百までとはこんなことを言うのかと思う次第です。松虫姫の村人
、
古池や蛙飛びこむ( )カッコに適当な言葉を入れなさい。という問題を父にやらせたところ、何度やってもちゃんと正解なんです。父は痴呆が進んできて、ここ数年間ずっと80歳のままなんですが、そんな父でも知っている俳句って、やっぱり芭蕉すげーって思います。
勉強に為りました 又、やって下さい🙇
組長、正人さん、こんばんは!季語によって、句のイメージが変わることがよくわかりました✨古池の中から新しい命が萌え出るという新旧の対比がすごいと思います。鑑賞するときは、解釈が大事ということをわすれずに、季語をしっかり学んでいきたいです!!
なんて賑やかでウキウキな解釈…!口角上がって腰抜けました。ありがとうございます🙏
わびさびイメージだったので……職場に池があり、春先は卵を産みに来たカエルが賑やかだったのですがその光景がこの句に結びつくとは思いもしませんでした。
蛙、季語大変ありがとうございました!友人との話題が増えました!
「古池や・・・」の句を百通りの英訳で、という本ありますね。『One Hundred Frogs: From Matsuo Basho to Allen Ginsberg』Hiroaki Sato (著)どのようにこの句の景をとらえるか、英訳すると日本語よりも明確になるようです。
別冊NHK俳句で片山由美子先生が序文に「そうした作品が名句として記憶されるには、何度も読まれ、共感を得る必要がありあす。多く人が共感し、高く評価した作品がめくとして後世にまで残ることになるのです。」と書いています。300年も前の句が社会や価値観が変わる中で消えず、時代に磨かれて今の私たちの俳句と言えばこの句の代表格である芭蕉の句は名句なんでしょうね。
おもしろいですね!私は、東北の、小高いところ、そこへ坂なり段々なりで登り、そこにあるお寺の人工的な小さな池、夏の暑さの中に一瞬、カエルのポチャン!で、音のない永遠のような世界が広がる、というイメージでした。蝉の声といっしょのシーンになっているのかも! 聴覚くくりで。季語、わかっとらんかった!蓮生
面白いなぁ〜俺も1匹だった…沢山かなるほどなぁ〜じゃんけんで負けて蛍に生まれたのて句は蛍は飛んでるんかな?蛍同士の会話なんかな?人に言ってるんかな?この蛍生きとるんかな?どうなんだろ?渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石この句について考えたんですが渡り鳥が来るなら少し嬉しい感じも交ざる感じがします。出て行く鳥なら最後の視点が凄いさよなら感が強く感じます。どちら何でしょう💦
私も蛙は一匹だと思っていました。この句を初めて英訳で読んだときに、蛙が複数形になっていてビックリした記憶があります。(小泉八雲さんの訳だったか?)蛙が単数の英訳もあります。
わたしの投稿した俳句が「凡句」として採用されました。 何でもいいや。採用してくださってありがとうございました。追伸:長谷川櫂さんの本、6000円以上していました。
小泉八雲は Old pond - frogs jumped in - sound of water. と蛙が複数匹説ドナルド・キーンは The ancient pond A frog leaps in The sound of the water. と蛙が一匹説 で英訳している様ですねー。
英訳は意外とsimple ですね!
蛙🐸🐸🐸季語の力の凄さを感じる回でした!!正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を伺いたいです~
すごくお勉強になりました!そしてとってもおもしろかったです。私も完全に“一匹ポチャン”だと思ってました(笑)こんなお勉強、是非またお願いします!
このシリーズもっとやって下さい!蛇笏さんの芋の露が聞きたいです
句が詠めぬ窓に哀しき朧月
「痩せ蛙負けるな一茶これに在り」、の句を見ると、「メスを取り合って沢山の雄蛙」が、争っている事が解りますね。
私も寂しい古池のイメージでしたが,お話を聞いて,季語の持つ力,そして学ぶことがいかに大切かということに気付きました。ところで,今日は夏季休暇だったので,子規博物館へ行ってきました。子規と食べ物という動画の最初に出てきたのが 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 この句も教科書に載っている定番の句ですが,これも名句? 博物館でいつどこで読んだ句なのかを学んだ後だったので,なるほどという思いはあります。でも,組長や正人さんの考えを伺いたいです。
こんにちは、いつき組のシュリです。「蛙が複数」衝撃でした。で、お風呂でつらつら考えた結果、ウン十年の謎に、私なりの答えを見つけました。それは、なぜ池にわざわざ「古」をつけたのか?です。自然にある池に、新しいとか古いとかあるのか?ここからは、私の妄想です。『芭蕉さんは、旅の途中、古い宿に泊まる事にしました。お風呂に入って、夕飯を食べつつ、お酒を飲んでいます。部屋から見える庭には、宿同様、古い池があります。蛙がゲコと鳴きました。(夏ではないので、大合唱ではありません。虫の声もあまりしていません。)月は出ていませんが、星はたくさん出ています。そして、ポチャン、ポチャンと夜行性の蛙たちが餌を探しています。』なんだか、とても楽しい。長谷川櫂先生の本、読んでみようと思います。ありがとうございました。
NHKかなんかでこの句を取り上げて細かく考察した番組ありましたよね。年齢に引きづられて、記憶が曖昧ですが。くだんの長谷川櫂さんも出演なさって語っていました。(100分de名著「おくのほそ道」Eテレでした)(じゃなくて、英雄たちの選択「松尾芭蕉5・7・5革命」だったかも)一番の衝撃が、蛙は水音がするような飛び込み方はしないということでした。すっと水に入るみたいで、飛び込んだり、音を立てたりはしないそうです。考えてみりゃそうですよね。捕食者である蛙が、ぽちゃんとやったり、ばちゃばちゃ泳いだりはしない。この句が虚構の世界なんだと思うと、逆に一匹もありだし、みんなで飛び込んでるというのも愉しい。季題「蛙」として鑑賞する。すごく真っ当なことなのに、全然頭にありませんでした。春の光景なのかあ〜
まさに。すごい勘違いしてました。季語ってすごい。
私は墨絵のイメージをもっていました。
中学生の英語の問題で単数だと紹介されているものがありました。その時は生徒にわびさびの句だと教えてしまってました💦これからは両方の解釈を教えようと思います!😆
有難うございました。古い池で一匹だと思っていました。色は寒色系と思っていました。中村草田男の 降る雪や明治は遠くなりにけり やとけりは、一句の中で同時に使ってはならないというのは定説ですが、この句は、なぜ名句なのか?金子兜太さんは、駄作と言って論争になったそうですが、教えて下さい。
30年程前ですが、ジャパンタイムズかデイリーヨミウリに英訳がありましたが、単数でしたね。侘び寂びの世界との解説付きで。
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 高浜虚子これもお願いしたいです~リズムの取り方とか、有季定型でないこの俳句の在り方とか…
五月雨を集めて早し最上川自然描写とともに自然の脅威を警告しているような句だと思います。他にもそういう句ってありますか?
この区につきましては、ドイツ語学者関口存男による、蛙が飛び込む前後に着目した、正反合の弁証法的な解説が素晴らしいものだったのを覚えています
追伸,子規博物館の後,上人坂を上り,伊月庵,ヒミツじゃない基地の前を通り,(組長の句碑を写真に撮りながら)宝厳寺で一遍上人像を拝み,円満寺にも立ち寄りました。最後は,飛鳥の湯に行き,2階個室で「夏井いつきの『今日から一句』」でお勉強。よい夏休みになりました。
紹介された長谷川櫂さんの本、早速購入してみます。私は件の句に何故か「灰白色」を覚えるのです。そして、以前からこの句を読むたびに様々な事を感じるのです。それはもはや「疑問」であり「妄想」であり「幻想・幻覚」であり「思い込み」であり・・・。シーンは朝?昼?夜?真夜中?静寂の中に飛び込む音を聞いたのか?様々な音の中から蛙が飛び込む音を聞き分けたのだろうか?古池を実際に目の前にして詠んだのだろうか?隔たり見えていない古池を詠んだのだろうか?いや池自体が本当に存在しているのだろうか?要するに作者の心の中だけに存在する「古池」なのでは?蛙を実際に飛び込む所を見た(見ていた)のだろうか?音だけを聞いて「多分に蛙だろう」と思ったのだろうか?だとしたら池に飛び込んだのは何?もはや作者の心の中だけに響く音なのでは?実際に見ていない(見えていない)蛙となれば「多分に蛙であろう」という論拠は何?例えば「 蛙の鳴き声が途絶えて直ぐに飛び込む音がした・・・また、以前にその古池(であろう)の周辺で 蛙を見ていて・・・」とか。多分に様々な文献や論証により答えはあるのでしょう。しかし、だとしても私的にはこの17文字で有難きかな様々な状況を想像・創作できるのです。まさに17音から千万の文字に置き換え心像として紡いでゆく作業を楽しめる佳句だと感じる次第です。そして、「季語である蛙」と「古池」と「音」が絶妙な物理的および心理的距離感で成り立っていると思うのです。因みに、個人的には蛙の数は「二匹」だと感じるのです。追伸・取り上げて頂きたい句として「バスに座す農婦に冬のひろびろと」( 飯田龍太先生)をリクエスト致します。
なんかけど、蛙が複数だと、あれじゃね?100歳くらいの曽祖父の家に子・孫・ひ孫がわんさか押しかけて爺さんを囲んでワイワイ騒いでるような、どちらかといえばジジイの枯れ方をネタにして子・孫・ひ孫の生のにぎやかさを感動の中心にしてうたってるような感じになる。蛙が複数という生の豊富さに古池のジジイの枯れ方が圧倒されるような句になってしまう気がするが笑。一方、蛙が単数だと、そんなとるにたらない生の片鱗であるところの小動物1匹が水に飛び込む音ですら耳につくくらい鄙びた池であることだよ、となって、池のほとんど死にかけた枯れ具合が対比的に浮かび上がってくる。当初「山吹や蛙飛び込む水の音」だった句の上五を、芭蕉が「古池や」に直してそれがいいとしたとき、(当初は複数だったかもしれない蛙でも、直したときは)芭蕉のあたまの中では、蛙は単数だった気がする。「や」という切れ字が付いてる以上、あくまでも感動の中心は「古池」なんであって、蛙は古池の引き立て役でなければならんだろうと思う。古池の邪魔をする蛙であってはならないはずだが笑。
カエルがぽちゃぽちゃ賑やかに飛び込んで行く説だと「古池」という選択肢は正解なんでしょうかね?複数派説の方はどのように評価しているのかも気になりました!
それを説明している動画でしたよ。古いというだけで寂しい光景に決まっているという思い込みがあると。
僕もどこか古ぼけた単数形をイメージしていました。というのも幼いころそのような挿絵が記憶にあったからです。まさにぶん殴られたような感覚です。
俳句で文字が足りなかったらどうしたら良いですか?
私も、侘び寂び、蛙一匹をずっと信じて疑わなかったです。何故だろう?と考えたところ、多分そうやって学校で教わったからでした。いまだに議論されるような、こんな深い内容の俳句を、ほとんどが初めて俳句に触れる小学生の教科書に載せるのは、何か意味があるのでしょうか。もっとわかりやすい名句もたくさんあるのに。陽光
free care to was become is note 昔中学の英語の先生が言葉遊びとして教えてくれたのを思い出しました。
蛙、単数説です。古池。寂しい池です。まわりに何もありません。あたりに、誰もいません。蛙が一匹、その池の水に飛び込みました。そんな小さな音さえ、はっきりと聞こえます。あたりは、それほど静寂に包まれております。ああ、なんと古池であることよ。― 解説していただきたいのは、 山路来て何やらゆかしすみれ草 松尾 芭蕉 大先生 です。 初恋の人が、小学校の文集で、この句を松尾芭蕉の一番好きな句だと書いていたのですが、彼女はどこに惹かれたのでしょうか? ―小松谷 童鐘 拝
主旨とは違うと思いますが、ずっと気になっている句があります。大石悦子氏の、亀鳴くや昔耶蘇名を欲りもして、の「欲りもして」が解釈出来ません。何かの時に取り上げて頂ければ幸いです。
古池から苔の色。つまり濃い緑を思い、水の音なんだから水色を連想。思ったのは冬眠から覚めた蛙が、久しぶりに池に飛び込んだ。これが俺の理解。示し合わせて冬眠から覚醒はしないだろうから、数は一匹。自慢じゃないが蛙が季語だなんて全く知らなかった程度の俺の理解。
(このような表現は俳句のチャンネルに対して不躾なかも知れませんがあえて…)ヤバい。
『古池や~』を描くなら、カエルと苔むした岩と背景のために「緑」、水面と岩や地面を描くために「灰色」、あとは持ってせいぜい枯れ枝の「茶色」かなぁ
おたまじゃくし ではなく蛙 に生体に、 なる季節を想像 出来ないかなぁ?…古い 池 に ポチャンと ちっちゃな 音が聞こえる 場所に …居た想像力 大丈夫か?
何か… 電話とか無線とかが 無い時代の 人のほうが 感受性敏感なのかな?
目から鱗💧
まさに季語を考えずの単色わびさび一匹と思い込んでいました😵そうか~春🌸か~なるほど奥が深すぎます💦
正人さん大好きです。
優しくて柔らかくて。
夏井先生とのやり取りも、
楽しいです。
昔、黒柳徹子さんがおっしゃっていたのですが、「窓際のトットちゃん」の英訳本が出ることになった時、翻訳家の方から一番確認のための問い合わせが多かったのが
「この犬は一匹ですか?数匹ですか?」「この子供は、一人ですか?何人ですか?」といった単数形で訳すか複数形で訳すかべきかの質問だったと言う事でした。
日本語の名詞の表現には特別な時以外は単複の概念がないですからね。
久しぶりにがっつりとした俳句のお勉強といった感じで、体力確かに使いましたが(^^ 勉強になりました!
そもそも「蛙」を夏(梅雨時)とかの季語として認識している方が寧ろ多数派ではないかと思いますし、
「俳句とは侘び寂びだ」という教え方から一歩踏み込んだ令和的な授業において、この動画を全国の小学校の
国語の授業で紹介するだけでも知的好奇心が湧くと思います。素晴らしい動画でした!
蛙が春の季語だと知っていしたが、
まさかここまで賑やかな俳句だとは、
知らずにいました。
ありがとうございました😊
いつも素晴らしい動画ありがとうございます
名句の迷宮にようこそ、といった感じですね〜
とても面白かったです
改めて考えてみると、私は無季だと思いました
個人的にはずっと夏の俳句だと思ってました
夏に詠んだ無季?
静寂を破る蛙が飛び込むはっとするような音に既に蛙の姿はない水紋が消えゆく中を静かな余韻が、涼しさを発しながらまだ少し熱気の残る辺りに広がってゆく
水の中に消えた蛙が感じているであろう涼と共に
どうしても重心が 古池や が強く置かれてて
蛙は二の次のような位置で
さらに最後の余韻は水の音
とその涼しさ、水中の涼、蛙は季語と言うよりも、というような扱い
でもこの動画を見る前までは、もう侘び寂びの極地の句で、水墨画がこの句で沢山描かれたんではと思うような、そんなイメージ
それくらい季節感を超越した侘び寂びを
古池や〜ので出しだけでガッツリ読む人を侘び寂びの世界に引きづり込む力が
なるほどー。私も「古池」に引っ張られて読んでいました。
でも春の蛙の句と思って読むと、華やかで賑やかですね。
私の脳内映像では、そのカットで飛び込んだ蛙は一匹だけど、蛙自体は複数いる、というイメージ。
先日、幼保小連絡会で卒園生の小学校の授業参観に行って来ました。
1年生のクラスの隣で、3年生が俳句の勉強をしていたので、こっそり覗かせて頂きました。
まさに「古池や蛙とびこむ水の音」の鑑賞をされていて、1匹の蛙がポチャンとたてる静かな音に気づいて、松尾芭蕉は感動したのだ。と言われてました。
RUclipsで検索したら、昨今の状況を反映してリモート授業(小3国語・俳句)がたくさんupされていましたが、蛙の複数説はありませんでした。中には灰色の古池の画像付きの句も…🤭
私は緑滴る樹々に覆われた古池(濁っている)に、1匹の蛙がぽちゃっと小さな音を残す。波紋が消えた後はまた静かな池に戻った静寂の世界
というイメージを持っていたので、春の生命感溢れる池に複数の蛙が跳ねている、という説はまさに衝撃です!
俳句って凄いですね。
今日も興味深いお話しをありがとうございました😌
こんばんは!
『蛙』が春の季語というのは知っていましたが、夏が近いこともあってか
私も最初は深緑色の蛙1匹が水に飛び込んでいったその音が聞こえてきた句だと思いました。
しかし、今回話を聞いて、蛙が複数かもしれない、どんな色をしているのか等、
疑問に思うと深い俳句になっているんだと感じました。
森の中の古池の周りを夏も冬も犬を連れて散歩しています。蛙が池に飛び込む音が聞こえるのはやはり春、初夏になります。一匹飛び込むと次から次へと飛び込みだし、犬もついでに飛び込むので、私も蛙複数説の賑やか派です。楽しく拝聴しております
とても面白い回でした。
目からウロコ!
兜太翁の話も出てきてワクワク!
池の音がボッチャンボッチャン跳ねると愉快ですね。
ワビサビドコヘイキマシター?
最高!
遥か昔、まさしく「古池に蛙が一匹、ぽちゃんと飛び込んだわび・さびを詠んだ俳句」と小学校で教わりました。
蛙が春の季語とわかった今でもまず浮かぶのは、物寂しげな枯れ葉多めの茶色っぽい光景です。
三つ子の魂百までとはこんなことを言うのかと思う次第です。
松虫姫の村人
、
古池や蛙飛びこむ( )
カッコに適当な言葉を入れなさい。という問題を父にやらせたところ、
何度やってもちゃんと正解なんです。
父は痴呆が進んできて、ここ数年間ずっと80歳のままなんですが、
そんな父でも知っている俳句って、やっぱり芭蕉すげーって思います。
勉強に為りました 又、やって下さい🙇
組長、正人さん、こんばんは!
季語によって、句のイメージが変わることがよくわかりました✨
古池の中から新しい命が萌え出るという新旧の対比がすごいと思います。
鑑賞するときは、解釈が大事ということをわすれずに、季語をしっかり学んでいきたいです!!
なんて賑やかでウキウキな解釈…!
口角上がって腰抜けました。
ありがとうございます🙏
わびさびイメージだったので……職場に池があり、春先は卵を産みに来たカエルが賑やかだったのですがその光景がこの句に結びつくとは思いもしませんでした。
蛙、季語大変ありがとうございました!友人との話題が増えました!
「古池や・・・」の句を百通りの英訳で、という本ありますね。
『One Hundred Frogs: From Matsuo Basho to Allen Ginsberg』Hiroaki Sato (著)
どのようにこの句の景をとらえるか、英訳すると日本語よりも明確になるようです。
別冊NHK俳句で片山由美子先生が序文に「そうした作品が名句として記憶されるには、何度も読まれ、共感を得る必要がありあす。多く人が共感し、高く評価した作品がめくとして後世にまで残ることになるのです。」と書いています。300年も前の句が社会や価値観が変わる中で消えず、時代に磨かれて今の私たちの俳句と言えばこの句の代表格である芭蕉の句は名句なんでしょうね。
おもしろいですね!
私は、東北の、小高いところ、そこへ坂なり段々なりで登り、そこにあるお寺の人工的な小さな池、
夏の暑さの中に一瞬、カエルのポチャン!で、音のない永遠のような世界が広がる、というイメージでした。
蝉の声といっしょのシーンになっているのかも! 聴覚くくりで。
季語、わかっとらんかった!
蓮生
面白いなぁ〜
俺も1匹だった…沢山かなるほどなぁ〜
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
て句は蛍は飛んでるんかな?蛍同士の会話なんかな?人に言ってるんかな?この蛍生きとるんかな?どうなんだろ?
渡り鳥みるみるわれの小さくなり
上田五千石
この句について考えたんですが渡り鳥が来るなら少し嬉しい感じも交ざる感じがします。出て行く鳥なら最後の視点が凄いさよなら感が強く感じます。
どちら何でしょう💦
私も蛙は一匹だと思っていました。この句を初めて英訳で読んだときに、蛙が複数形になっていてビックリした記憶があります。(小泉八雲さんの訳だったか?)蛙が単数の英訳もあります。
わたしの投稿した俳句が「凡句」として採用されました。
何でもいいや。
採用してくださってありがとうございました。
追伸:長谷川櫂さんの本、6000円以上していました。
小泉八雲は Old pond - frogs jumped in - sound of water. と蛙が複数匹説
ドナルド・キーンは The ancient pond A frog leaps in The sound of the water. と蛙が一匹説 で英訳している様ですねー。
英訳は意外とsimple ですね!
蛙🐸🐸🐸
季語の力の凄さを感じる回でした!!
正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を伺いたいです~
すごくお勉強になりました!そしてとってもおもしろかったです。
私も完全に“一匹ポチャン”だと思ってました(笑)こんなお勉強、是非またお願いします!
このシリーズもっとやって下さい!蛇笏さんの芋の露が聞きたいです
句が詠めぬ窓に哀しき朧月
「痩せ蛙負けるな一茶これに在り」、の句を見ると、「メスを取り合って沢山の雄蛙」が、争っている事が解りますね。
私も寂しい古池のイメージでしたが,お話を聞いて,季語の持つ力,そして学ぶことがいかに大切かということに気付きました。
ところで,今日は夏季休暇だったので,子規博物館へ行ってきました。子規と食べ物という動画の最初に出てきたのが 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
この句も教科書に載っている定番の句ですが,これも名句? 博物館でいつどこで読んだ句なのかを学んだ後だったので,なるほどという思いはあります。
でも,組長や正人さんの考えを伺いたいです。
こんにちは、いつき組のシュリです。「蛙が複数」衝撃でした。で、お風呂でつらつら考えた結果、ウン十年の謎に、私なりの答えを見つけました。それは、なぜ池にわざわざ「古」をつけたのか?です。自然にある池に、新しいとか古いとかあるのか?
ここからは、私の妄想です。
『芭蕉さんは、旅の途中、古い宿に泊まる事にしました。お風呂に入って、夕飯を食べつつ、お酒を飲んでいます。部屋から見える庭には、宿同様、古い池があります。蛙がゲコと鳴きました。(夏ではないので、大合唱ではありません。虫の声もあまりしていません。)月は出ていませんが、星はたくさん出ています。そして、ポチャン、ポチャンと夜行性の蛙たちが餌を探しています。』
なんだか、とても楽しい。
長谷川櫂先生の本、読んでみようと思います。ありがとうございました。
NHKかなんかでこの句を取り上げて細かく考察した番組ありましたよね。年齢に引きづられて、記憶が曖昧ですが。くだんの長谷川櫂さんも出演なさって語っていました。(100分de名著「おくのほそ道」Eテレでした)(じゃなくて、英雄たちの選択「松尾芭蕉5・7・5革命」だったかも)
一番の衝撃が、蛙は水音がするような飛び込み方はしないということでした。すっと水に入るみたいで、飛び込んだり、音を立てたりはしないそうです。考えてみりゃそうですよね。捕食者である蛙が、ぽちゃんとやったり、ばちゃばちゃ泳いだりはしない。この句が虚構の世界なんだと思うと、逆に一匹もありだし、みんなで飛び込んでるというのも愉しい。
季題「蛙」として鑑賞する。すごく真っ当なことなのに、全然頭にありませんでした。春の光景なのかあ〜
まさに。すごい勘違いしてました。
季語ってすごい。
私は墨絵のイメージをもっていました。
中学生の英語の問題で単数だと紹介されているものがありました。
その時は生徒にわびさびの句だと教えてしまってました💦
これからは両方の解釈を教えようと思います!😆
有難うございました。古い池で一匹だと思っていました。色は寒色系と思っていました。中村草田男の 降る雪や明治は遠くなりにけり やとけりは、一句の中で同時に使ってはならないというのは定説ですが、この句は、なぜ名句なのか?金子兜太さんは、駄作と言って論争になったそうですが、教えて下さい。
30年程前ですが、ジャパンタイムズかデイリーヨミウリに英訳がありましたが、単数でしたね。
侘び寂びの世界との解説付きで。
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 高浜虚子
これもお願いしたいです~
リズムの取り方とか、有季定型でないこの俳句の在り方とか…
五月雨を集めて早し最上川
自然描写とともに自然の脅威を警告しているような句だと思います。
他にもそういう句ってありますか?
この区につきましては、ドイツ語学者関口存男による、蛙が飛び込む前後に着目した、正反合の弁証法的な解説が素晴らしいものだったのを覚えています
追伸,子規博物館の後,上人坂を上り,伊月庵,ヒミツじゃない基地の前を通り,(組長の句碑を写真に撮りながら)宝厳寺で一遍上人像を拝み,円満寺にも立ち寄りました。最後は,飛鳥の湯に行き,2階個室で「夏井いつきの『今日から一句』」でお勉強。よい夏休みになりました。
紹介された長谷川櫂さんの本、早速購入してみます。
私は件の句に何故か「灰白色」を覚えるのです。そして、以前からこの句を読むたびに様々な事を感じるのです。それはもはや「疑問」であり「妄想」であり「幻想・幻覚」であり「思い込み」であり・・・。
シーンは朝?昼?夜?真夜中?静寂の中に飛び込む音を聞いたのか?様々な音の中から蛙が飛び込む音を聞き分けたのだろうか?
古池を実際に目の前にして詠んだのだろうか?隔たり見えていない古池を詠んだのだろうか?いや池自体が本当に存在しているのだろうか?要するに作者の心の中だけに存在する「古池」なのでは?
蛙を実際に飛び込む所を見た(見ていた)のだろうか?音だけを聞いて「多分に蛙だろう」と思ったのだろうか?だとしたら池に飛び込んだのは何?もはや作者の心の中だけに響く音なのでは?
実際に見ていない(見えていない)蛙となれば「多分に蛙であろう」という論拠は何?例えば「 蛙の鳴き声が途絶えて直ぐに飛び込む音がした・・・また、以前にその古池(であろう)の周辺で 蛙を見ていて・・・」とか。
多分に様々な文献や論証により答えはあるのでしょう。しかし、だとしても私的にはこの17文字で有難きかな様々な状況を想像・創作できるのです。まさに17音から千万の文字に置き換え心像として紡いでゆく作業を楽しめる佳句だと感じる次第です。そして、「季語である蛙」と「古池」と「音」が絶妙な物理的および心理的距離感で成り立っていると思うのです。
因みに、個人的には蛙の数は「二匹」だと感じるのです。
追伸・取り上げて頂きたい句として「バスに座す農婦に冬のひろびろと」( 飯田龍太先生)をリクエスト致します。
なんかけど、蛙が複数だと、あれじゃね?
100歳くらいの曽祖父の家に子・孫・ひ孫がわんさか押しかけて爺さんを囲んでワイワイ騒いでるような、
どちらかといえばジジイの枯れ方をネタにして子・孫・ひ孫の生のにぎやかさを感動の中心にしてうたってるような感じになる。
蛙が複数という生の豊富さに古池のジジイの枯れ方が圧倒されるような句になってしまう気がするが笑。
一方、蛙が単数だと、
そんなとるにたらない生の片鱗であるところの小動物1匹が水に飛び込む音ですら耳につくくらい鄙びた池であることだよ、となって、
池のほとんど死にかけた枯れ具合が対比的に浮かび上がってくる。
当初「山吹や蛙飛び込む水の音」だった句の上五を、芭蕉が「古池や」に直してそれがいいとしたとき、
(当初は複数だったかもしれない蛙でも、直したときは)芭蕉のあたまの中では、蛙は単数だった気がする。
「や」という切れ字が付いてる以上、あくまでも感動の中心は「古池」なんであって、
蛙は古池の引き立て役でなければならんだろうと思う。古池の邪魔をする蛙であってはならないはずだが笑。
カエルがぽちゃぽちゃ賑やかに飛び込んで行く説だと「古池」という選択肢は正解なんでしょうかね?
複数派説の方はどのように評価しているのかも気になりました!
それを説明している動画でしたよ。古いというだけで寂しい光景に決まっているという思い込みがあると。
僕もどこか古ぼけた単数形をイメージしていました。
というのも幼いころそのような挿絵が記憶にあったからです。
まさにぶん殴られたような感覚です。
俳句で文字が足りなかったらどうしたら良いですか?
私も、侘び寂び、蛙一匹をずっと信じて疑わなかったです。何故だろう?と考えたところ、多分そうやって学校で教わったからでした。
いまだに議論されるような、こんな深い内容の俳句を、ほとんどが初めて俳句に触れる小学生の教科書に載せるのは、何か意味があるのでしょうか。
もっとわかりやすい名句もたくさんあるのに。陽光
free care to was become is note 昔中学の英語の先生が言葉遊びとして教えてくれたのを思い出しました。
蛙、単数説です。
古池。
寂しい池です。
まわりに何もありません。
あたりに、誰もいません。
蛙が一匹、その池の水に飛び込みました。
そんな小さな音さえ、はっきりと聞こえます。
あたりは、それほど静寂に包まれております。
ああ、なんと古池であることよ。
― 解説していただきたいのは、
山路来て何やらゆかしすみれ草
松尾 芭蕉 大先生
です。
初恋の人が、小学校の文集で、この句を松尾芭蕉の一番好きな句だと書いていたのですが、彼女はどこに惹かれたのでしょうか? ―
小松谷 童鐘 拝
主旨とは違うと思いますが、ずっと気になっている句があります。大石悦子氏の、亀鳴くや昔耶蘇名を欲りもして、の「欲りもして」が解釈出来ません。何かの時に取り上げて頂ければ幸いです。
古池から苔の色。つまり濃い緑を思い、水の音なんだから水色を連想。
思ったのは冬眠から覚めた蛙が、久しぶりに池に飛び込んだ。これが俺の理解。示し合わせて冬眠から覚醒はしないだろうから、数は一匹。
自慢じゃないが蛙が季語だなんて全く知らなかった程度の俺の理解。
(このような表現は俳句のチャンネルに対して不躾なかも知れませんがあえて…)
ヤバい。
『古池や~』を描くなら、カエルと苔むした岩と背景のために「緑」、水面と岩や地面を描くために「灰色」、あとは持ってせいぜい枯れ枝の「茶色」かなぁ
おたまじゃくし
ではなく
蛙
に生体
に、
なる季節を
想像
出来ないかなぁ?
…古い 池
に
ポチャン
と
ちっちゃな
音が
聞こえる
場所に
…居た
想像力
大丈夫か?
何か…
電話とか
無線とかが
無い時代の
人のほうが
感受性
敏感なのかな?