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本当に先生の話し方は分かりやすいし、ずっと聞き入っちゃいますよね✨
よく分かりました。非常に可能性の高い論説だと思います。貴重なご意見ありがとうございます。
何時もいい話ありがとうございます。色々な考えがあっていいと。
興味深い説です。紀州藩には関口新心流という柔術・剣術・居合術を組み合わせた総合武術が藩御流儀になっていたそうです。狭い室内でも対応できそうな流儀ですよね。
ヤマハ創始者山葉寅楠も紀州藩でしたよね?慶応当時寅楠は剣の修行で全国走り回ってましたが確か小野派一刀流皆伝で、二刀流にも造詣してたとか。
歴史に、正しいものはありません。ただ、そこに残る証拠とその当時の背景を推理するしかありませんね??ねず先生のお話は、正しいものでは無いかもしれないと言う。元に、背景とそこの眠る歴史の真実を推理してくれる所が、大好きです。私達には、昔の人からいろいろ学び、今の我々が生きる時代に生かせる努力とは??私の意見です。「昔の出来事に、今の出来事を重ねれば、不幸な事は最低でも避けられる」そして、そこに未来の子供たちに託したいって思いました。 日本をかっこよく😊😊😊😊😊😊
いつも勉強になります。ありがとうございます。
まず、近江屋は旅館ではなく醤油屋なのですが、そこは置いといて・・・近江屋に行かれたことはありますか?(建物はもうないですが)二階の四間続きの一番奥の間の床の間の前に龍馬はいましたが、龍馬が鞘ごと受けたのは三の太刀で、龍馬の額を割ったのは一の太刀で横殴りに払っていることが傷口と掛け軸の血痕から判明しています。二の太刀は背中を袈裟懸けに斬っています。また、明治になって犯行を名乗り出たのは新選組元隊士ではなく、見回り組の今井信郎ですが、自分は見張り役だったと主張しています。調書も残っていますが、他のメンバーが渡辺篤と桂早之助、佐々木只三郎(いずれも鳥羽伏見で戦死)以外不明なので主張が正しいかどうか判りません。桂早之助の子孫によって霊山歴史館に寄贈された刀は、小太刀、もしくは脇差です。ま、黒幕は今もって判明していません。黒幕がいたのかどうかも含めて。
龍馬の頭は十文字に斬られています。天井が低かったのなら立った状態からは振りかぶるのは無理ですし、剣道のような中段から打つ面では斬ることはできません。誰でも逃げられます。土佐居合と言われる無双直伝英信流に正座の状態から十文字に斬る型があります。もし同じ土佐者だったとしたら龍馬も油断して会うかもしれませんね・・
秀明まったく様。土佐藩士説に賛同致します。あの用心深い龍馬が、階段を登るドタバタの足音に、なんら警戒していないのは、知ってる人物だからです!完全に油断しています!それと、一緒に居た中岡慎太郎は、とどめをさされずにその後2〜3日生きていたそうです!近江屋の道向いは、土佐藩邸。そこから、田中光顕と言う土佐藩士が即座にニ階へ駆け上って中岡と話をしています!?田中が核心を知っている可能性が濃厚です!
私も、はちまきなぎに前頭部を切られたと読んだことがあります。受けた刀が流れたのではないでしょうか。鞘を割っているのは、横なぎです。
中岡の聞いた「こげんなくそ」とも符合する
@ザビミネバ ^_^ん羅さ、は😢
恐らく竜馬暗殺の犯人は無名の一般人だと思うよ!マグレで暗殺に成功した雑魚が10回暗殺を試みれば1回は成功するみたいな?
いつか来ると思ってました!今日はいい日だー!大切に見させていただきます。
先生のこのお話を聞いて、自然と確信を得ました!竜馬に興味があって色々な暗殺説を読みましたが、とても先生の説にガテンがいきます。竜馬が暗殺を恐れ逃げ回っていた事が、多くの説を生んでしまった様です。
@ザビミネバ 様返信有り難う御座います。とても先生の説、興味深いと思いました。そこからまた、あなたの言われるように、さらにまた疑問はうまれますね。グラバーとの繋がりも単に商取引だけだったのか?そんな疑問もわきます。
紀州潘は木村と言ってましたね、確かに昔家の二階は天井狭い、一階からの階段5メ-ターの幅有りましたね、後は、階段はキシム音が凄い、音で分かりますね、大変参考になります、有り難うございます
ねずさんの洞察力、論理性には毎回脱帽します。説得力がハンパない。
納得するか?しないか??と言うと私達は、ねず先生の説に、「うんうん」てうなずくところに大好きだと思うのですね??それだけ納得させられる推理が大好きでしょう??
説得力って情緒的 めでたい日本
@@red20201 説得力がある、ねず先生の熱意が嬉しいのです。
ちなみに、土佐藩は上士と下士の身分差が特に著しかったといわれ、大政奉還の功が後藤ではなく下士の竜馬である事実を隠滅したかった、というのも納得でした。しかも、後に竜馬の残した海援隊の遺産を土佐藩から総て貰い受け三菱財閥を築いた岩崎の日記が、竜馬暗殺の前後のみ、何故か公開されないそうです、、実際はどうなのでしょうか?
お疲れ様です。小名木先生の動画はできるだけ見ているつもりですが、歴史の真実は遭遇した人以外想像しかないと思いますが、犯人は左利きで左から一閃で頭蓋骨を皿のように切ったと記憶してましたが、頭(頭蓋骨)を切り裂いたという部分は共通しておりますが、横と縦なら推量が全く違う方向になります。さて犯行後の検視の情況が知りたいと切に望みます。
私も、屏風の血痕からして水平方向の切り傷であると解釈しておりました。ただ、紀州藩というのは面白いです。
交通事故等でもやはり頭が蓋のようにスッパリ割れることがあるそうです。頭骨の構造上正面からより簡単に刃も入るでしょうし、刺客はそれを充分知っていたと思います。竜馬は向き合った敵からとっさに前をかばい一度はかわしたのでしょうが、すかさず横から払われたのでは。狭い屋内でも横から水平になら思い切り力も入り勢いもつくと思いますね。
すごい興味深い話でした!
紀州藩説は、初めて知りました。面白いですね。
コメントを含め大荒れで面白いのですが。誰が犯人もいいのですが何のための暗殺かを考えた方がいいのでは?怨恨からの暗殺なのか、時代を先に進めるための暗殺なのか。この時の竜馬はどんな歴史の鍵を握ってる人物だったのか。そして竜馬亡き後はどのように細かく歴史が進んでいったのか。誰にメリットがあったのか。そう深掘りしても面白いのでは??けど竜馬の場合は色々な人から邪魔者でもあり色々な人の怨恨もありますからかなり深く掘らないとダメでしょうけど。結論は歴史は面白いってことですね。
歴史いろいろありますね。謎が多いことでした。紀州藩とは?初めてしりました。奥が深いですね。ありがとう御座いました。
紀州藩脱藩の陸奥陽之助が天満屋事件をリードしていったというところが大好きです。
先生。お言葉ではございますが、龍馬は初太刀で額を割られています。一撃を受けてなお竜馬は背後にある刀を取ろうとし、後ろから袈裟切りで背中をやられています。向き直って両手で刀を構えた時は息も絶え絶えだったのではないでしょうか。とすれば、示現流のような剣術でなくとも打ち込めたのでは?さらに私が幼い頃、龍馬が宿泊した部屋の鴨居に刀傷があったと言われていましたのを思い出します。暗殺者は刀を振りかぶって一撃を龍馬に加えたけれど鴨居に威力を半減させられたのでは。しかし二の太刀の袈裟切りで体力を奪われ、三の太刀を受け止めようとした甲斐もなく今度こそ渾身の力で頭蓋骨を割られたのでは?ご存知、龍馬は剣豪です。暗殺者が紀州藩なら決して油断はしなかったと思います。暗殺者は龍馬と顔見知りの親しい人ではないでしょうか。私は岩崎弥太郎の配下の者ではなかったかと推理しています。
酒を飲んで酔えば2人掛かりで不意打ちを喰らえば手立ての龍馬でも反撃出来ませんよ。西郷隆盛が乱れ奢る伊藤達と反目するようになった事に興味がある。征韓論は後付けの話だね。
@@tames_one 様。竜馬が二人の暗殺者をほぼ同時に相手にしたと言うことですね。十分に納得できますね。正しいかどうかは分かりませんが歴史好きにはたまりません。
その時代の最強剣豪が気になりますね!
その時代は仏生寺弥助がブッちぎりでNo.1ですよ!
小名木先生の動画で間違い箇所が数点有ります。1ーいろは丸は龍馬の持船ではないです。大洲藩から借りた船です。2−いろは丸事件は簡単な直談判で処理していません。第三国のオブザーバーをおいて、長崎奉行所に申し出て、国際法に基づいて正式に競技された我が国初の海難審判であります。
私も、16歳の時に竜魔が行くを読んでその中にある竜馬像に憧れて尊敬してきました。今も変わりません…
高知を旅した時、竜馬の検死記録や死体の始末の記録があったかどうかは不明。地元では長州人に殺されたと言っていた。明治から大正の長州勢の活躍は海外にまで拡がり日本の基礎となったが、グラバーが知り過ぎた竜馬を暗殺させたと思う。
NHK が、見回り組と言ってましたが、NHKだから、嘘と言うことが今、わかりました。
明治期なって坂本龍馬殺害を自白したのは、京都見回組の『今井信郎』です。
(確かに、NHKが言うなら嘘の可能性あると思っちゃいますよね。💦事実はどうであれ。)例えばゴルゴ13的なヒットマンを、雇える財力がある、またはその大金をつぎ込むだけの動機があるなら紀州だろうというご解釈なのですかね。TV等のマスメディアで伝えられることが真実とは限らないのが悩ましいです。やれやれ。😓
NHK=歴史捏造
なんか恥ずかしいコメントですね。もっと大切なことを小名木さんはおっしゃってると思いますよ
いつも拝見して勉強になります。ありがとうございます。今回の「事実に事実らしいと思われることを検討してつなげて妥当性の高い推量をおしすすすめていく」という思考法なのですが、アガサ・クリスティー女史の探偵ポアロ氏も同じようなことを言ってました。なるほど!と感嘆次第です。
名探偵ポワロの口癖、秩序と方法ですかね。
なるほど先生の説、素晴らしいです。
歴史作家RUclipsr加治将一さんは中岡慎太郎説です。事件の真実を探る歴史ミステリー諸説あって興味深いです。
紀州藩説、興味あります。ただどうしても理解できないのが、警戒しているはずの坂本竜馬と中岡慎太郎が2階に上がってくる2人から逃げなかったこと。仲間と認識していた人間に殺されたとしか思えないのです。
Chiaki Furuya様。知人説に同感です‼聞き覚えの在る足音です!完全に安心しきっています。銃を抜く隙も無かった様です!
藤吉と思ったからです。
当時の紀州藩の家老の1人が、私の同族でもあったので紀州藩遺恨説を私も考えたことがありました。上意討ちではなかったのか、ただし、闇から闇へ決して表には出る事はなかった…。
知らない事があって勉強になります可能性大ですね
今回の講義とても面白かったです。小さな事を拾ってそれが大きなことに繋がる見解が毎回素晴らしいと思います。坂本龍馬は個人的には司馬遼太郎氏の小説も読みましたが、周りの信者の方のようにはすごい人とは感じません。いろは丸の事件は龍馬は世界のルールを持ってきてわざといちゃもんつけてお金を分取ったように感じてます。龍馬を殺したい人は多くて彼を討ち取ってたら名誉となるのにそれを表立って言えない立場の人が犯人ではないかと思います。
西先生の推察も、いいよ、非常に、いい。
坂本龍馬暗殺は、会津藩の手代木直右衛門が実弟の見廻組隊長の佐々木只三郎にやらせたことを死の間際に言い残したことが手代木家私家版「手代木直右衛門伝」に記述がありますよね。手代木の上司は松平容保ですから彼がやらせたのではと思います。これは当然のことで、龍馬はその数年前に寺田屋で捕縛に訪れた伏見奉行所の捕り手を射殺して逃亡したお尋ね者ですからね。一度目は捕縛して裁きにかけるつもりだったのを、二度目は失敗する訳にいかない当時の警察権力としては、役人殺しの凶悪犯が武装して潜伏していれば次は強行突入で殲滅して当然です。現代でもアメリカなんかではやるでしょう。ただ、そのような大義名分があっても政情不安定な当時にあっては報復を恐れて公表しなかった。幕府が倒れてから明治政府の取り調べに対し見回り組元隊員の今井信郎が実行部隊にいたことを証言していますよね。龍馬暗殺は旧政府下における公務だったことで今井は処罰されずに済んでいます。また、同実行部隊の桂早之助は小太刀使いの剣豪で彼が狭い近江屋の部屋で実際に龍馬を切ったと言われ、その刃こぼれした脇刺しは京都霊山歴史館に残っています。実行日の夜遅くに、お酒を飲めない早之助が珍しくかなり酔って帰宅したと家族が証言しているそうです。
小名木教授の竜馬暗殺の講義、「日本史をおもしろく!」でした。中段から、よけた鞘ごと断ち割りですか。そういえば、剣豪と呼ばれる人たちは、日頃から、バットの形をした太い棍棒を上げ下げしながら筋力を鍛えていたとか。紀州藩黒幕説。説得力ありますね。
先生楽しそうですね。いい年まで私は歴史に全く興味がなく新撰組と忠臣蔵の区別もつきませんでした。学生時代、登場人物の多い維新に四苦八苦して丸暗記したのを覚えています。今なら、( )埋めテストで、下から選択するタイプなら なんとか答えられるかもしれない。と思ってしまう。そこで気づきました。大人は、小名木先生のように、とうとうと語れなくても、( )埋めなら出来る。だからそういうテスト作るんだたあ。って。改めた方がいいと思いました。
三好徹氏の誰が竜馬を殺したか?を、以前読みました。土佐の岩崎弥太郎を使って後藤象二郎が犯人、という説、どうお考えになりますでしょうか?私としては、大変納得出来る説と思っています。
高知からですが、グラバーが秘密結社フリーメイソンのメンバーで龍馬は、グラバーの駒として働いてフリーメイソンメンバーになって、龍馬暗殺の話を聞いたグラバーが影武者をたてて龍馬をイギリスに逃がした説があります。1.グラバー邸にフリーメイソンのシンボルマークが石碑に刻まれています2.グラバーの為に働いたフリーメイソンメンバーになった龍馬をイギリスに逃がす案を出して、影武者に写真館で写真を撮らせそれを犯人に入手しやすいようにしてる3.イギリスに行った証拠は、明治維新後に長州5人衆が、イギリスに渡っていますそれは、実は、龍馬に会いに行ったと考えられます。4.なにより龍馬が暗殺された証言をしているのは、中岡慎太郎ですが、明治初期の医療技術で全身切られた人間が三日間も話が出来たのが、不思議です。
私も数年前までは維新が好きで読み漁りましたし、維新巡りなどに土佐や、長崎の海援隊、グラバー園京都の寺田屋、墓参りには土佐焼酎龍馬を取り寄せお供えしたり、山口では松陰先生の辞世の句などに涙を流す程でしたしかし、心の奥底に何か釈然としない気持ちがありました維新に何か矛盾を感じ、調べ直すとやはりグラバーなど、グローバルによって日本人に革命を起こさせたと考えるのが自然であるとの結論に至りましたそうゆう観点で日本を見てみるとやはりこの国はあの時には既に侵略されたのだと感じますであるとしたら、新政府や天皇に至るまで疑問が湧いてきます尊皇攘夷と志士達は命を賭けて行動した結果が真逆の結果になってしまったのではないかと思うと、やるせない気持ちになります
酔えば剣の使い手でもおぼつかないよね抵抗したが斬られた。中岡慎太郎は不覚の責任逃れと思うね。明治初期には英国の銀行設置。日本のイギリスべったりとイギリス工業の協力は異常だから驚くよ。
坂本竜馬ー15※竜馬は山鹿流を習い、また佐久間象山にも師事している。「嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある[8]。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。思うに・・・坂本竜馬メーソン説は・・・加治将一、副島隆彦、船井幸雄、他、あたりの嫉妬にもよるのであろう。男としての矜持というより、文筆の徒、文弱の輩の筆はどうしても感情的に捻じ曲がるのではなかろうか。文弱の徒であるから口喧嘩もうまい、筆致においても過激である。加治は猪木の評論もしてるが、ビジネスだの金儲けだのに堪能なせいかどうも肉体的優越性に嫉妬があるやに思える。3名ともお世辞にも美男子とは言えないし、権力や影響力によってくる女性は多かったものの、多くの人々に愛されたとは言い難い。怪しげなフルベッキ写真なるインチキ写真の影響も手伝っているだろうが。足尾銅山で国民を犠牲にしてまで、対外政策に執着した陸奥の憤りと闇雲の紀州藩家老の襲撃、愛人お竜の書き残した西郷の悲憤慷慨ぶり。お竜とは無学でそそっかっしい、サザエさんのような女性だったらしいので、あまり周到なウソをつけるとも思えない。おそらく後世の男たちに嫉妬羨望の的になっているのだろう。在原業平、名古屋山三郎、市川團十郎、坂田藤十郎、いずれもイケメンでモテたらしいが、権力とも権威とも無縁である。竜馬は権柄づくでモテたわけではなく、人柄と性格で生前からモテモテだった上に、才知でもって引きずり回し、政治を動かし、大仕事をやった上に、暗殺で若くして倒れているのだから人気がでないわけがない。主眼として人を殺さない、無闇な暴力を振るわない、という点で、高杉、西郷、とは大いに異なる。西郷は、江戸と大阪を火の海にしたかったらしいが、それでも悲憤慷慨して惜しんでいるのは、国家の損失に憤慨したのか、あるいは坂本を愛した故か?という気もする。金も名誉も女にもモテたユリウス・カエサルを書いた、トインビー、モムゼン、ブレヒト、等々に「他の男性研究者の筆致には、羨望と嫉妬が仄見える」と日本人女性研究者が指摘している。坂本竜馬の評伝も、あるいは女でなければ書けないのであろう。当人の女史はベタ惚れしたあげくに、大長編小説のようなすさまじい量のページ数に及ぶ・・・極めて慎重な讃辞と礼賛、虚像というより、ある種の欠陥まで最大限の賛辞に変えて書いているから世話はないが。しかし、惚れっぽく、また他の表記者にも、そういう調子で書いているのでいいのだろうが。この場合、長短ではなく立体的に見ているからともいえようが。正直な小林秀夫は、文筆、政治、軍事までやったカエサルには惹かれると書いてはいたが「モテてうらやましい」とまでは書けなかった。当たり前だが。比較的、客観的なのは高岡英夫で、江戸人の身体意識と現代人のそれを比較して、坂本竜馬という人物は、対人関係におけるベストとリバースがものすごく発達した人であったと述べているが、達人名人であったということでもある。また、現代の偏差値教育の頭でっかちな政治家の批判とも捉えられるが、しかしまあ、これだけモテればハニトラに引っかかることもなく、金に執着せずにポンポンやってしまえば、マネトラに引っかかることもなかろう。陸奥の言う・・・「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」・「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」」・後藤の「「(龍馬が生きていれば総理大臣になっていたかの問いに)彼奴は政治家ぢゃない。商売人だよ。三菱だな…」というのは、何とはなしに、現代の国民の心情でもあろうかという気がする。現状で、先に記述したとおり、実際は身体と心情が江戸人より衰えているのである。知情意とも体や姿勢、所作動作と相乗効果で発達させてきたのが、江戸期の文化であった。この辺りを小名木氏には御講義頂きたい。老婆が米俵6つ担いでる写真や、驚異的な人力車夫、等々の写真など使うとよろしいと思う。
龍馬の名前が司馬遼太郎氏の作品を通して、広まった・・・ということがカギだと思う。言い換えると幕末当時、龍馬暗殺の一件は関心を持たれなかったということで、いろいろ後付けで事実が加えられたんだろうな。
昭和3年に桂浜、11年に京都円山公園に銅像が作られており大河ドラマ以前から京都に置いては英雄の遭難として語り継がれています。司馬作品の中にも脚色されてはいるが事実はあると思う
幕末から明治まで暗殺事件の捜査を継続したのは坂本、中岡両氏の暗殺のみとの記録があります。司馬先生の小説以前に高知の龍馬像も数名の青年の尽力により募金を募り建立されたものです。そして何より幕末当時の著名人達からの龍馬の評価は相当高く、正四位の勲等が授与されており、これは土佐人の中で最上となります。また坂本龍馬は剣豪ではなかった説も浮上しているようですが、免許皆伝書の存在も確認され、桶町千葉道場の塾頭であることも踏まえると相当の腕であることも想像するに難くないです。坂本龍馬は十分過ぎる程偉人であったと思われます。
逆やろ。作者日本人ですらない。半日の人やぞ
諸説はありますがやはり1番は現場指揮者は佐々木只三郎で実行者は桂早之助という話が有力です。
佐幕派だった土佐藩が倒幕になったのは何故なのか。いつかお話しをしていただけたらと思います。
見廻組説は出てきませんでしたね。確か漫画家の黒鉄ヒロシも同じ説をとっていたような気がします。
自分は怨念深い長州藩だと思っております。でも歴史は捻じ曲げられるのが常です。
夢にあらわれた龍馬今年(平成28)の7月……、私は、京都での講演を終えたあと、ふと河原町の「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」の石碑を訪れました。史跡に立つ石碑というと、ふつうは人通りもまばらなところにある……というイメージがありますが、ご存じのとおり、その石碑は、きわめてにぎやかな通りにあります。その時も、あまりの通行人の多さ(とくに若い人々の多さ)に驚くばかりでしたが、残念ながら、その石碑を気にかけて通る人は、ほとんどいませんでした。しかし、それらのこともふくめて、私にはそれが、なにやら「龍馬らしい風景」のような気もしました。かつて私は、西郷隆盛や吉田松陰の本も書きました。西郷は戦死……松陰は刑死で、いずれも悲劇的な最期です。しかし、それでも二人には、死の前に心の準備をするくらいの時間はありました。龍馬はちがいます。その場所で、いきなり命を奪われたわけです。ほとんど即死に近かったでしょう。その瞬間……龍馬は、何を思ったのでしょうか?人は、死の瞬間、人生のすべてを一瞬でふりかえる……という話を聞いたことがあります。たとえば、遠くかすかな記憶ですが、私の高校時代の先生が授業中、こういうことをおっしゃっていました。その先生は大東亜戦争中、飛行機を操縦していて、墜落しそうになった経験があり、その時、本気で「死ぬ……」と思い、その時、一瞬で人生のすべてを回想されたそうです。龍馬も、また一瞬で、人生のすべてを回想したのでしょうか……。しかし、かねて覚悟の死ではあっても、あまりにも突然のことで、さぞや龍馬も無念だったでしょう。そのせいかどうか……、龍馬が「夢」にあらわれたという話は、有名なものだけでも2つあります。1つは、妻のおりょうの夢です。龍馬が暗殺されたのは11月15日ですが、そのころ妻のおりょうは、下関で妹と暮らしていました。16日の夜に龍馬の夢を見たそうです。それは、「全身、紅に染み、血刀をさげて、しょむぼり」した姿でした。翌17日、龍馬の死を報せる使者がやってきたものの、その人は気の毒でならず、おりょうには何もいえないまま8日がすぎ、そのあと、ようやく三吉慎蔵が、おりょうに龍馬の死を、はっきりと伝えたそうです(『反魂香』)。もう一つあります。没後37年たった明治37年2月のことです。夢を見られたのは、そのころの皇后陛下(昭憲皇太后)で、日露戦争の開戦の直前のことでした。死の直後は「しょむぼり」していた龍馬も、この時の夢になると、ずいぶん元気になっています。最後に、そのころ『時事新報』に掲載された記事をかかげておきましょう。皇后陛下(昭憲皇太后)の夢皇后陛下(昭憲皇太后)が、葉山御用邸に御滞在された去る二月初旬のことだそうです。いうのもおそれおおいことですが、ある夜の夢に、白無垢を着た一人の男が、御座所の入り口にひれ伏して、こう申しあげました。「私は、維新の前、お国のために、働いておりました坂本龍馬と申すものでございます。海軍のことは、そのころから熱心に心がけておりました。このたびロシアとの戦いが、いよいよはじまろうとしております。いざ……そうなった時、私は、もうこの世のものではないものの、私の魂は、わが国の海軍に宿り、忠義の心があって勇敢な、正義の心があって節操がある、そのような日本の軍人たちを守る覚悟でおります」男がそう申しあげた……と思ったら、その姿は、かき消すようになくなりました。(千頭清臣『坂本龍馬』)そのあと、昭憲皇太后が、龍馬の写真を取り寄せて見ると、それは、まさにその夢にあらわれた男であった……といいます。この夢について、後世の人々は、いろいろと興ざめなことをいったり書いたりしていますが、私は、そのようなゲスの勘ぐりのようなことをいう気にはなりません。なぜなら吉田松陰が、こういうことを書いているからです。「すでに私は、楠公たちと同じ理を、自分の心にしています。そうであるのに、どうして、私の気が体にしたがい、やがては腐りはて、崩れはてることで、すべてが終わりになるでしょうか」(「七生説」)たとえ身は滅びても、魂を留めて日本を守る……、つまり「留魂」ということを、松陰は、本気で信じていました。そして、たぶん幕末の志士たちの多くも、同様の思いで生き、そして死んでいったにちがいありません。ですから私は、龍馬ほどの人物であれば、その「留魂」は、それ以後も日本を守りつづけていても不思議ではない……と思っています。明治の日本に〝海の向こうからの危機〞が迫った時、皇后陛下の夢にあらわれた龍馬は、「日本の軍人たちを守る覚悟です」といいました。そして日本は、「皇国の興廃」をかけて全力で戦い、勝利しました。それは、ただ日本が勝った……ということで終わる話ではありません。小さな東洋の有色人種の国が、巨大な白人の軍事大国に勝利したことによって、「大航海時代」以来、数百年にわたる白人の世界侵略が、東洋の一角で阻止されたことを意味するのです。そのあと、世界各地で有色人種の独立運動が本格化していくわけで、それは、まさに数百年に一度の、世界史的な大事件であったといえます。そして今……、またもや日本には、海の向こうからの危機が迫りつつあります。たぶん龍馬の「留魂」は今、最前線の陸や海や空で、黙々と日本の守りについている人々を、また、それらの人々の指揮にあたっている人々を、力強く守ってくれているのではないでしょうか。
なぜアメリカに負けたのでしょうか?
紀州藩だから凄腕の人がいた・・・というところだけ説得力が小さかったですかね。大藩だからそういう人がいた、又は雇えた。大藩だから凄腕がいるとは限らないし、小藩でもいたりする。人殺し術は道場剣道が優れていれば良いとは限らない。実戦でどれだけ経験するか⁉︎
と思います、最高です非常い面白いです!
なぜ、部屋の中に入れたのでしょうか❔足音で知っている人か知らない人か区別できたと思うのですが…。🤔
※『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編時代小説(フィクション)。幕末維新を先導した坂本竜馬を主人公とする。「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。1974年に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行、単行・文庫本ともに改版されている。司馬の代表作であり、世間一般でイメージされる坂本龍馬像は、この歴史小説の影響が大きいとされている。これまでに、大河ドラマの他に、民放各局でも何度かテレビドラマ化されている。とりわけ萬屋錦之介は中村錦之助時代から、この作品の「竜馬像」に惚れ込み、中村玉緒や弟の中村嘉葎雄等とも、初版刊行まもない時期に舞台公演をしており、司馬自身の「楽屋訪問」や「打ち上げ」での写真もある。別の別のエッセイによれば、土佐系の宴会、岩倉具視がかつての仲間を招待した宴会で、坂本竜馬が口の端にのぼることがあったという記述があった。逸話本作品は司馬の代表作の一つで同時に維新の英傑として、今日に至る竜馬像を確立した作品である。『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(5)』(中公文庫、2011年)に作品随想を収録している。『竜馬がゆく』の執筆のきっかけは産経新聞時代の後輩にあたる高知県出身の渡辺司郎(元産経新聞社常務大阪代表、元大阪市教育委員会委員長)が遊びに来て 「これは仕事で言ってるのではなくて、自分の国の土佐には坂本竜馬という男がいる。竜馬を書いてくれ」と依頼されたことがきっかけになっている[2]。依頼された当初は、司馬自身その気がなかったが、後日他の小説の資料あつめをしていると不思議と坂本竜馬が出てきて親しみを覚え、本格的に坂本竜馬を調べてみようと思うようになったと述べている。当時坂本龍馬の誕生日には諸説あったが、この作品で11月15日を使用したため11月15日に龍馬の誕生日が確立したという逸話がある。俳優で海援隊のボーカルでもある歌手の武田鉄矢は、高校生の頃にこの『竜馬がゆく』を読んで、熱烈な龍馬のファンになった。サザンオールスターズの原由子も産休中に『竜馬がゆく』を読んだことがきっかけで、龍馬ファンになっている[3]。司馬は本作品の執筆にあたり、神田神保町の神田古書店街の複数店に依頼し、ワゴン車1台分の当時1400万円相当の古書・古文書を集め購入したという。ちょうりんぼう事件1983年9月、京都新聞の広告に「ちょうりんぼう」という差別語が使われ、部落解放同盟がこれに抗議した。京都新聞社は『竜馬がゆく』に使われていた言葉を借用したと釈明したため、解放同盟は司馬を糾弾。同年12月に京都部落解放センターの差別確認会の席へ司馬を出席させた。この席で司馬は「"長吏"と人間の尊厳について」という釈明文を朗読した。ヤジなどで騒然としていた会場は司馬の部落差別に対する批判と明晰な文章によってすぐに静まりかえり、その後糾弾がエスカレートすることはなくなったという。なお司馬は執筆当時、「ちょうりんぼう」が差別語である事は知らず、古い土佐弁で「馬鹿」を意味する罵倒語の一種であるとしか認識してなかったと語っており、差別語の指摘を受け出版社へすぐに該当箇所の削除を申し出ている。
在庫リアンの作者半日の人リスンチンという、捏造英雄作った人。
切り込んだのが二人いたらどうですか? 一人が切りかかる⇒龍馬防ぐ⇒両手がふさがっているところから二人目が切りつける。
会津藩伝継小野派一刀流剣術だと思うのですが鞘でよけても鞘に刀の刃があたった瞬間によけている腕が下げられてしまい切られてしまう不思議な力があると聞きました。
紀州藩出身のヤマハ創始者山葉寅楠も小野派一刀流ですので紀州藩も大和一刀流派が多いと思います。
龍馬を殺害したのは、土佐藩の関係者だとの説もあるね。龍馬ほどの剣豪が脳天をやられるなんてよっぽど油断していた状況でないと考えられない。しかも同じ剣豪の中岡慎太郎も共にいての話。だから、龍馬は斬られる寸前まで相手が刺客だと認識してなかったということになる。一方で土佐藩には坂垣とか龍馬を快く思わない連中もいた。それに、龍馬の周りにいた者たちが近くにあった土佐藩の詰所に駆け込まなかった点も土佐藩首謀説の一つの根拠にもなっている。
私も黒幕は土佐藩説龍馬の最後の手紙に「土佐藩邸に居れば安全だがまわりの人間が許してくれないと後藤象二郎が言っている」と書かれていてますね龍馬が剣豪というのは作り話
武田鉄矢さんの説では、坂本龍馬には、親戚の才谷屋をはじめとした近江をルーツにした土佐の商人グループがスポンサーとして付いていて、金銭的にも、情報的にも支えていたとのことですね。
龍馬暗殺の種は尽きないですよね。新撰組隊士の鞘が落ちていたとか、諸説紛々でおもしろいです。龍馬が中岡に「脳髄がでているからもうダメだ。」と話すくだりがありましたが、これだけは深く印象に残っています。 偉人はしぶといですね。
若い頃は大好きだったなー龍馬さん、百出する異論に触れ自身でも歴史資料に当たるうち年ごとに威信は薄れて行ったな、夜開いた夢も朝方には萎んでしまったわ
岩崎後藤説がすきです!
となると、当時の紀州藩にそのような剣豪はいたのでしょうか?それも事実かと。
竜馬がゆく、お~い!竜馬、どちらも全巻持っております。
北辰一刀流の長刀(なぎなた)は免許皆伝ではなく中目録になります。免許皆伝は土佐の小栗流になります。そこは間違いの無い様に伝えて下さい。坂本龍馬は北辰一刀流に関して塾頭にはなっているが免許皆伝ではありません。小名木先生らしからぬ間違いをなさらない様にお願いします。
司馬遼太郎先生の歴史風小説の影響で坂本龍馬という英雄像が創られた創作の賜物です
逆やろ。てか、そこはリスンチンやろ?あっちでは小説なのに実在した英雄にまでなってるし日本に勝ったことになってる
竜馬は刀を後ろの床の間に置いてたんで間に合わなかったのかなと思ってたわ。だから中腰だったんじゃないかなと。
なるほど!
すばらしい、、 当時の捜査当局もわかっていたんでしょうね、、、、 わかっても幕府筋が調べる、、 京都守護も松平容保、、 こりゃ無理ですね。 余談ですが、 義父が弥之助の玄孫だけど、むしろ弥太郎にそっくりなことに気づきました、、、、
飛んだ血飛沫から犯人は、左利きで水平斬りだったと言う説が有力だと思うんですけどね?先ず最初から切り掛かる様な状況なら、坂本、中岡両名に察知され反撃にあうのは必至です。よって暗殺者は、坂本と対峙して座った状態であったと言う事と、敵意が無いと言う作法として、刀は右側におくのが通例である事。これは、当時侍は全て刀は左側に差して、右手で抜くのが常識なので、右側に置いた刀を左利きの暗殺者が座った状態から水平斬りで切った方が自然だし、説得力がある様に思います。致命傷ではあったが、即死では無かった事は、息のあった中岡の証言からも分かっていた筈なので、一撃を食らった後、何とか反撃しようと刀を取ったが、鞘から抜く間も無く、次の一撃が来てかろうじて防御したのだと思います。
刀を右に置くのは敵意が無いことを示す儀礼ですけど、サウスポーだったというのは、浅田彰の「壬生義士伝」という小説にしか出てこない説です。しかし、斎藤一下手人説はあくまで小説の設定で、浅田氏がそれを主張しているわけではない。大刀を右に置き、座ったままの位置から脇差で抜きざまに払えば、左から右に飛んでいる血痕の高さなどとも辻褄は合います。
@@矢野-n5m 誰が犯人かは兎も角、脇差だと大きく前へ踏み込まなければ致命傷を与えるのは難しいのでは無いでしょうか?言われている様に血飛沫の方向が逆だとすれば、可能性としては、帯刀している刀を腰から外して座る瞬間に切った方が確実ではと思います。
@@魂大和の それなら、霊山歴史館に子孫により寄贈され、所蔵されている京都見廻組隊士・桂早之助の佩刀、刀長42.1cmの脇差が偽物という証明をしなければなりません。なんなら踏み込めばいいじゃないですか。機会があれば脇差か小太刀を差して、座したまま抜いてみてください。行燈の灯りしかない八畳間に対面して座る火鉢に手を置いた相手の額を割ることは可能だと思います。
@@矢野-n5m そう言う事を言っているのではありません。実際、どれが正解なのかは立証する術は無いのですから、あくまで可能性の話をしているんです。アナタの見解も、一つの可能性に過ぎません。私が言っているのは、脇差で確実に致命傷を負わせるのは、アナタが言っている状況ではかなり難しいと言っているんです。それに加えて、二の太刀、三の太刀を浴びせる事も難しくなって来ます。だとすれば、状況は兎も角、最初から刀を抜いたとする方が整合性は取れると言う事ですよ。
@@魂大和の ボクも可能性の話をしていますよ?実際の現場にいたわけじゃないですから、判っていることの積み上げの先は推論です。しかし、判っていること=事実と思われることを否定するためには、根拠や論拠が必要です。
僕は薩長黒幕説ですね😁何故なら龍馬が訴えていた大政奉還論は、幕府側にとっては都合が良い話でした🎵あの時の幕府は第2次長州征伐の失敗で権威が失墜しており、倒幕論が世の中で渦巻いていました。それこそどっち付かずにいた薩摩もあれ以来、倒幕論に傾き、幕府を長州と一緒に完全に武力排除しようとしていました‼️😃しかしそんな倒幕論が渦巻いている時に大政奉還が起きました‼️これにより幕府は一時的に武力回避が出来て、面子も保つ事が出来ました😃またそれと同時に大政奉還論に尽力した土佐藩の権威が上がり、薩長の権威が下がったのです‼️これは薩長側からしたら面白く無いですよね⁉️故に薩長側は何としても世の中を再び倒幕論に持っていき、自分達の権威を上げる必要がありました‼️😃そのために薩長は大政奉還を無かった事にする必要があり、また土佐藩に重しを掛ける必要がありました‼️😃土佐藩に重しを掛けるために何が必要だったかと言うと、重要人物の暗殺という事になります‼️しかしだからといって土佐藩の殿様を殺す事は出来ないし、殿様の側近であった後藤象二郎も殺す事は出来ない‼️となると誰が的確か⁉️😃それこそが脱藩浪士であった坂本龍馬であります‼️そもそも大政奉還に拍車を掛けたのは坂本龍馬だったし、土佐藩に重しを掛けるための影響力も十分ある‼️そして脱藩浪士の坂本龍馬の暗殺ならば、正面から土佐藩との喧嘩にはならない‼️😃という事で坂本龍馬は薩長の陰謀で暗殺された事になります‼️😁これにより土佐藩に重しを掛ける事が出来て、大政奉還勢力の勢いを落とす事が出来ました🎵そうして起こったのば戊辰戦争。その後の歴史は知っての通りですね😁 僕の見解はこのような感じですね☺️実際は分かりませんが。確かに紀州藩説もありえそうですね😁このように考察していくのも、歴史の楽しさでありますね😁
面白い! 歴史というものの考え方が分かりました!
見廻組という説もありますね。
なるほどね
十津川郷士と名刺渡されたと言ってましたから、紀州藩に奇襲されたのですね。知りませんでした。何か記録が残ってませんかね。
龍馬暗殺の時一人が「こなくそ」と叫んだと当時生きていた中岡慎太郎が言っていたと記録に残っています。「こなくそ」は松山弁で松山出身者原田左之助って人が新撰組にいましたので新撰組説が出て来たんです。
十津川は紀州と隣接してはいますが、紀州藩ではありません。十津川は古くから天領(朝廷直轄)で勤王一色、紀州は御存じ御三家。まったく立場も思想も違います。差し出した手札(名刺)は偽証であることは間違いない。
でもねずサン、竜馬の額の傷は横一文字ですよね、(縦ではなく)そして犯人と竜馬は向かい合って座っていたともいわれており、その時、刀は右におかれていたはず。左に置くというのは殺害の気があるといって一般に無礼とされうけいれられていなかった為。そうなると犯人は左利き。元新選組3番組隊長、斎藤一は沖田総司と肩を並べるほどの剣の達人。そして左利き。しかし斎藤には強い動機がない。しかし彼は後に御凌衛士という西郷隆盛に抱えられていた隊の一人となっており、西郷隆盛が黒幕となって、竜馬殺害を後押ししていたのでは?かつて手を組んでいた西郷と竜馬は大政奉還後竜馬が平和主義を唱え出し諸外国の敵に向けて日本をまとめようとした半面、西郷はあくまで武力で幕府を倒したかった。それが二人のたもとを分かつ原因となったと言われ。西郷の手先となった斎藤が暗殺の実行犯となった。これはあくまで私が支える一説にすぎません。まさにミステリーですね。
でも西郷隆盛を知れば知るほどそんな事をする人物には思えないんだよね
龍馬を斬った実行犯は佐々木唯三郎(小太刀の日本一と言われる名手)です(今井信郎の証言)。しかし、見廻り組に居場所を漏らしたのは大久保利通ではないかと、私は勘繰っています。西郷南洲公に刺客(捕まって拷問を受け、泥を吐いた)を差し向けたのも、大久保利通だし。西洋気触(かぶ)れした大久保利通が、明治維新の運命を微妙に狂わせた。
小唄教室で、薩摩藩と京都見廻組は同席しています。
@@豊岳正彦それって、西の説?西郷南洲公が下野したのは、「明治維新を成し遂げたのは、こんな新政府にする為ではなかった」という思いだったからです。野に下って若者達を教育し、日本の為に立派な薩摩隼人を育てようとしていたところに、大久保利通が刺客を差し向けた。刺客が捕まって拷問を受け、泥を吐いた。「新政府に物申す事有り」薩摩士族が武器庫を襲った。「しまった」「おいどんの体、おはんらに差し上げ申そう。」これが西南の役の顛末です。西郷南洲公は、一切指揮を執らなかった事だろう。大久保利通という人間は、信用出来ない。西洋気触(かぶ)れする人間は目の前しか見えない、未来が見えない、物事の表面しか見えない。信長も然り、西鋭夫も然り。そして現代は西洋気触れした若者バカリ。
竜馬暗殺は勝海舟だと・・また、竜馬に敵対する相手を切ってしまったため着物や持ち物をそっくりその者と入れ替わり行方をくらましたのち、アメリカに渡ったとも・・
犯人は、グラバーのエージェントによる殺害でしょう。ディープステートの手口です。
紀州藩がそこまで用意周到なら負け犬の竜馬を殺害するのではなく岩崎弥太郎を殺害するだろう。
某NHKの大河ドラマとは全く印象が違いますね。龍馬と一緒に襲われた中岡氏はある程度回復したそうですが、それでも相手が伝えられていないのは、相手が忍という可能性もありますね。
屋内とはいえ夜間の暗殺者の正体がわかる方が…
@@matukawatositane なるほど。暗殺目的なら相手が誰であろうと、薄暗い中で真っ当に対峙する間も無かった、とも考えられますね。中岡氏が判別できなかったとて無理も無いということですかね。
霊山歴史館に竜馬を斬った京都見廻組隊士・桂早之助の刀が展示されてます
誰がやったかは分かりませんが、その後、一番権力を得た人物は岩崎弥太郎だと思います。
犯人特定による常套手段ですね。だれが一番得するか。坂本龍馬の事業と紀州明光丸事件による賠償金を経て一番得したのは岩崎弥太郎です。冗談はさておき、海援隊は結果的に土佐商会に吸収され、破綻同然だった土佐商会を後藤象二郎が岩崎弥太郎に負債と紀州の賠償金毎丸投げし、最終的に三菱財閥へ発展していくわけですから岩崎弥太郎ではないでしょうね。どっちかというと直接的に得をした人間は大政奉還案を我が物にしようとした後藤象二郎ではないでしょうか。
賠償が決まった数日後に暗殺されたから紀州藩、というのは短絡的すぎませんかね。しかも、紀州藩としてではなく、藩士の中の憤った者ということであれば尚更です。龍馬は、暗殺などを警戒して居場所を秘密にしていた。しかも、事件の直前に風邪をひいて、ずっと近江屋にこもっていた。つまり、意趣返しに燃える紀州藩士如きがその居場所を知ろうとしても、天文学的に不可能なんです。顔も知らない、居場所も分からない相手を、僅か数日で襲撃できるのは、あの時代では物語の中だけでしょう。居場所を知っていたのはスポンサーだった薩摩藩でしょうが、直接手を下すはずがない。となれば、その情報をどこかに漏らしてやらせた、というのがより現実的だと思いますが。
その薩摩、一枚岩ではなかったとか
坂本龍馬のバックには、🇬🇧金融資本家がいたんじゃなったっけ?
フリーメイソンを裏切った代償として見せしめの意味もあり・・・あの殺され方をしたのではないですか?
なるほど!ガッテン!
壬生義士伝の左利きの斉藤一説に興味があります。
コメント欄含めて、みんな面白おかしく語っている。しかしこの事件にかかわった子孫にとってはどうだろうか。旗本今井信朗の孫は共同通信部長を勤めた人だが、この事件について今井家の立場から本を書いている。今井信郎の明治時代の偉業を称えた地元民による石碑建立式には坂本家の代表も参加した。二十年ほど前のことなので、遠い昔の話をしているのではない。
ねずさんの歴史をあたかも目の前で起こったかのようにお伝えいただけるお話に、いつも楽しませております。今回のお話も大変興味深く拝聴いたしました。ただ、黒幕と実行者は別に考えられるのではないかと感じました。私は黒幕が薩摩、実行者は中岡と、今のところ考えている者です。今回の中段の面打ち、それを龍馬に実行できたというのは、武芸の達人というよりは、油断している相手、と同時に加勢された援軍(薩摩?紀州?)という計画的暗殺のように感じました。
なぜ紀州藩が浪人集団のような龍馬たちに賠償金を支払ったのか、疑問でした。岩崎と土佐藩が関わっていたのですね。暗殺者が二人だけというのも知りませんでした。真実は闇の中ですが、大変興味深く拝聴しました。
坂本竜馬ー12・黒川秀波「土藩坂本龍馬と申者、兼ねて有名家之由、闇殺に逢候由」(『黒川秀波筆記』)・新谷道太郎「書物はあまり読まぬ方であるが、知恵は非常に鋭い人物である」[119]・結城礼一郎「志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本が居た」・中井庄五郎「僕は坂本氏の為めなら何時でも一命を捨てる」・殿井力(寺田屋お登勢長女)「べつだん人目をはばかるふうもなく現れた坂本さんを見て、険しい顔のお武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。(中略)坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平。時には大胆に玉虫色の袴などをお履きになって、一見おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落が台無し。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか。武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふり何度も不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たちが坂本さんになついてしまいました。(中略)坂本さんは昼と夜ととりちがえたようなお暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますとどこかへ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然何ヶ月もお留守。毎日毎日、判で押したように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たちは坂本さんのお帰りを心待ちにするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようでございました。母は坂本さんに対して、ずっと年上の姉か母親の様な態度で接しておりました。でも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです」「『瑞夢』という新体詩が発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われていらっしゃいます。生前のずぼらでのんき坊主の坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さんを想像しにくうはございますが、もしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にはわからないくらいお偉い方だったのかもしれないと、弟妹たちと語り合ったものでございます」「坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うととてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちをひきつれて私は坂本さんのお部屋におしかけましたものですが、坂本さんは『よく来た、いいものを見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲をとりだして『これは西洋のピストルというんだ。捕手が来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちをずらりと前に並べて、みぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。(中略)ただでさえ恐い顔をいっそう恐くして両手を前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気で『キャッキャッ』と叫びます。そうするときまって母が階段をかけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべんも言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか、知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽しい光景でございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません」・岩井徳「坂本さんは本当に男らしい方でした。好きだったかどうか、オホホホ、いつも詩を吟じながらお帰りになりました」・岡本常之助妻女「いつも無言のままでぶらりと入ってきて、用談が終わると無言で帰って行く。一言の会釈もないし、時には憎らしく見えた」安田たまき「龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント(美少年)の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位で、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。(中略)銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」(昭和三年五月二十七日、朝日新聞記者・藤本尚則のインタビューに答えて)・(近江屋養女)すみ「慶応三年十一月十五日でした。もう三日もあれば、殿様が大坂から京都へお着きになる。殿様がお着きになれば、拝謁が叶うて再び帰参ができ、土佐の藩邸にお引き取られになるわけで、長々厄介になった。マア喜んでくれ、わしも屋敷へ帰れるがと、私どもにもお話がございましたが、ちょうどその日に殺されたので、いかにもお気の毒でたまりません。品行はいたって正しい方で、中岡慎太郎さんなぞが来られて、おい才谷、今夜は祇園へ飲みに行こうじゃないかと誘いましても、イヤ少し調べ物があるからよそうと、二階へ閉じこもってばかりいました」千葉佐那「土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月にふたたび私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長の許可を得たとかで、引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例のないことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門したときからずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めていい縁談をも断り、ただひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
実働部隊は京都見廻組で、京都所司代の松平容保の命を受けて手代木直右衛門が計画したと死ぬ前に告白したNHKの番組で解決したと思ってました。😲
紀州家の犯行と予想していたが、一番の利益者は土佐の山内家。土佐なら竜馬の居場所は知っているから一番怪しい。
草
中岡慎太郎も忘れちゃだめだよ
私も紀州藩が怪しいと思っているのですが、実行犯は渡辺篤の証言から大方の見解は京都見廻組なんですよね。新撰組も薩摩藩も否定しています。桂早之助と言う西岡是心流、小太刀の達人だそうです。彼らは京都所司代同心から腕を見込まれて京都見廻組に推挙された人ですから、京都の人で会津藩、備中浅尾藩、旗本の関係者ですから、紀州藩とは直接は関係ないんですよね。隠蔽工作する理由と真犯人が必要ですね。
バックに外国勢力(グラバー?)がいて、闇の内部を知りすぎたから、殺されたとかいう人もいて、色んな説がありますね。
※『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)は、坂本龍馬を主人公にした坂崎紫瀾の伝記小説。1883年(明治16年)に当初は新聞小説として連載され、完結後に単行本として複数の出版社から刊行された。連載当時のタイトルは『天下無双人傑海南第一伝奇 汗血千里の駒』で、筆名は「鳴々道人」である[1]。紫瀾にとって「土佐勤王党三部作」と呼ばれる作品の2作目にあたり[2]、「三部作」の中では唯一(紫瀾自身の手で)完結した作品でもある[1][注釈 1]。単行本化に際しては、編集担当者によって新聞連載時のエピソードが大きく割愛整理され、内容は同一ではない[2]。新聞連載版1883年1月24日から高知の自由民権派の新聞『土陽新聞』9月27日まで64回のエピソードに分ける形で連載された[1][注釈 2]。紫瀾は『土陽新聞』の前身に当たる『高知新聞』(第2次、1880年7月5日創刊)で編集長を務め[5]、同年9月19日から翌年9月2日まで、自身初の小説とされる『南の海血しほ(お)の曙』を、72回にわたって「南國野史」の筆名で連載した[6]。土佐勤王党のメンバーを主役に幕末史を綴る内容だったが[7]、私淑していた板垣退助の東北遊説に付き添うことになり、未刊のまま中絶した[6]。この作品では坂本龍馬は連載途中の1エピソードに登場するのみで、この回の文中に「(龍馬を)後編の好材料となさんとす。因て此に其端緒を叙し暗に他日の伏線たらしむ」と紫瀾は記し、別途大きく取り上げる意図があることを示していた[8]。紫瀾は1881年12月に高知に戻ったのち、1882年1月に「民権講釈師」の活動を開始したが、その2日目の講釈で枕に話した内容を不敬罪に問われた[9]。本作連載開始当時は公判中で、大審院での上告棄却により3月に刑が「重禁錮3か月と罰金20円、監視6か月」と確定し、3月31日から6月29日までを獄中で過ごした[9]。これに伴い、掲載は3月30日の第53回から7月10日の54回まで中断している[4]。物語は井口村刃傷事件から始まり(龍馬の登場は第4回から)、その後に改めて龍馬の生い立ちからその活動を追う[10]。近江屋事件で龍馬が暗殺された後、徳川慶喜による大政奉還と長岡謙吉による讃岐国平定を描き、最終回(の最後)は長岡の死と関係者のその後、そして龍馬の縁者である坂本南海男が立志社で自由民権運動の遊説にあたる姿を「叔父龍馬其人の典型を遺伝したるあるを徴すべく、或は之を路易(るいす)第三世奈波侖(なぽれおん)に比すと云ふ」と描いて締めくくっている[10][11]。新聞連載時の本作では、龍馬が登場しない回が掲載68回中26回もある[12]。特に後半(四境戦争以後)は、長岡謙吉や中岡慎太郎を取り上げて描く回が複数ある[12][10]。また「龍馬なし」の回での言及は少ないものの近藤長次郎も複数の回で登場している[12][10]。このほか、龍馬の没後も明治維新に関わり、連載当時は自由党の幹部だった板垣退助や後藤象二郎も登場する[13]。これは本作が『南の海血しほの曙』に続いて「土佐勤王党の群像劇」を描く構想の一環であったことに由来する[12]。加えて、紫瀾は『南の海血しほの曙』の段階から、土佐勤王党の活動を「下士(郷士)による封建制度への抵抗」とみなし、藩閥政府に対抗する自由民権運動をその再現とする視点を明言していた[14]。本作での板垣・後藤の登場は、彼らが土佐勤王党の継承者であることをアピールする狙いがあった[15]。知野文哉は、連載当時板垣・後藤が伊藤博文や井上馨の差し金で欧州視察に出かけたことで自由党内が紛糾・分裂状態に陥ったことがさらにその背景にあると推測した[15]。知野は、紫瀾が窮地に立った板垣・後藤に運動指導者としての「正嫡性」を与えて「批判から救済」することを意図していたと論じている[15]。紫瀾が執筆に際して利用した情報源に関しては、木戸孝允から龍馬に宛てた書簡を坂本南海男から見せられたという内容が文中にあり[16]、坂本南海男は情報源の一つと考えられている(ただし、坂本南海男の生い立ちから、その多くが伝聞であったと推測されている)[11]。また薩長盟約に関する記述には、1872年に刊行された椒山野史の『近世史略』に言及した箇所があり、参照していたとみられる[17]。単行本版本作の単行本化は、連載中の1883年5月に早くも最初の15回分が駸々堂本店から刊行された[1]。さらに6月には第27回まで「古村善吉」という人物の名義で出版されている[1]。本格的な単行本は、雑賀柳香(彩霞園柳香[18])の補綴と編集により、7月から前・後・続の3分冊で摂陽堂から刊行され(続編の刊行は10月)、1885年に春陽堂から1冊にまとめた形で再刊された[1]。この雑賀による単行本化ではタイトルが『汗血千里駒』となったほか[19]、雑賀は龍馬以外の人物に関するエピソードの多くをカットし、龍馬個人の伝記に絞る形に再編した[20]。この改変について、本作の企画展「『汗血千里の駒の世界』展」(高知市立自由民権記念館、2010年)の図録では「物語の本筋を外れた部分は削除され、文章もかなり書き換えられている。全体に整理され、読みやすくなっていることは間違いない」と肯定的な評価を下しているが[20]、紫瀾が意図した板垣・後藤が武市半平太や龍馬の遺志を継承したという部分は失われることになったと知野文哉は述べている[20]。作中の龍馬像本作は「無名だった龍馬を再発見し、現代に至る龍馬像の原型を形作った」とされる[21]。しかし、のちの龍馬の伝記に見られる「殺すために訪問した勝海舟の弟子になった」「薩長盟約交渉の際に、盟約を渋る西郷隆盛を龍馬が一喝して合意が実現した」「大政奉還の建言書として船中八策を構想した」といったエピソードは見られない[22]。これは執筆当時それらのエピソードが世に出ていなかったためだとされている[22]。薩長盟約に関しては、高杉晋作の功山寺挙兵を知った龍馬が薩摩藩を説得して(薩摩の拘束した)長州藩捕虜を送還させる話[注釈 3]と、長州に赴いて高杉を説得した話が龍馬の活動とされる[23]。大政奉還の建白は後藤象二郎の立案であるとして龍馬の関与は描かず、一方で慶応3年10月の二条城会議に龍馬が出席して慶喜に大政奉還を進言・説得するという(史実にない)記載がなされている[24]。また、寺田屋遭難事件後に龍馬が妻のお龍と薩摩国で旅行する話を「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と表現したことが知られ、「龍馬が日本で最初の新婚旅行をおこなった」とする説の最初とされる[25]。自と彼の西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん- 「汗血千里の駒」第三十六回、『政治小説集 1』岩波書店〈新日本古典文学大系 明治編 16〉、2003年[26]この旅行での霧島山(高千穂峰)登山を本作では「お龍と書生だけで上った」と記しており、山頂の逆鉾を抜くのもお龍である(下山後に龍馬に叱られる下りがある)[25]。これらの背景には、紫瀾が女権拡張論者であった点が指摘されており、自由婚姻論者であった紫瀾(実際にそうした論説を執筆している)が、その主張に沿って、自由恋愛で結婚して[注釈 4]西欧流の新婚旅行をし、迷信にとらわれずに振る舞うというお龍の描写につながったとされる[25]。
犯人の推察は納得するけど、中段からの面打ちでは骨は切れないのでは。受けた鞘を削るように頭に食らってるらしいので、垂直でなく斜めに振り下ろす或いは脇差しを振りかぶって打ってるかも、若しくは鎌とか
暗殺者は左利きで刀を左側ではなく右側にに置いていたので、竜馬も中岡も油断してしまったのでは?って言うのを何かの本で読んだ
竜馬が有名になったのは司馬遼太郎の作品からだというのはおかしいですよ。私は戦前生まれですが昔から有名でしたよ。維新の人物の中ではヒーローとしての要素が多いからですよ。
中岡慎太郎説と思うと納得できます
龍馬さんは土佐藩の郷士から武器商人へと転職した人ですよね。アメリカの南北戦争後に余った最新式の銃火器。そこに目をつけたグラバーさんが龍馬さんを通じて維新政府へ販売。それが倒幕のきっかけになった、そんな感じですかね。商人のグラバーさんとしては余った所から安く買って、必要な所に高く売りたい訳ですし…実際、長州征伐で幕府に大敗した長州藩を利用して銃火器のデモンストレーション。結果、後の征伐では最新式の銃器によって長州藩が見事に勝利するんですよね。そして、江戸幕府のお金を見越して、維新政府が大量の銃火器を後払いで購入し、江戸幕府の倒幕に成功。しかし、見込んでいた江戸幕府にはお金がまったく無かった。支払いに困った明治政府は、グラバーさんの窓口の龍馬さんを暗殺して支払い期日を煙に巻こうとした、実態はそんな感じでしょうか…そもそも、末期とはいえ江戸幕府がたかだか長州・薩摩の二藩連合に敗れるとは考えにくいですからね。海外勢による最新式の銃器販売戦略の一環に幕府も新政府も龍馬さんも巻き込まれた結果だと思いますよ。その後が物語っていますが、明治政府は廃藩置県・戸籍制度・廃仏毀釈などの徹底した拝金主義政策にはしり、岩倉具視らは欧米列強と不平等な関係を次々と結んでいく訳ですから…倒幕時の債務不履行が原因と考えるのが妥当なんでしょうかね。
坂本龍馬ー11・井上良馨「その風貌と云えば、自分は坂本が伏見で避難の時は、遭難の場所より京都の薩摩藩邸まで坂本を護送したる一人であった。自分が高知へ行きたる時は、坂本と同船であったゆえによく覚えて居るが、丈高く、黙々多く語らず、しかもなんとなく人に敬慕されるようなところがあって、まあちょっと島村速雄に似た男であったよ」・大浦兼武「坂本氏の如き誠忠の士、常に我が邦を冥護するにあらざるを知らんや(京都東山の贈正四位、坂本龍馬君忠魂碑)・吉井幸蔵「ピストルは、その時代のもとしてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方は釣りとは比較にならない位うまかった」(新婚旅行時)[111]横井小楠「坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがある。ご注意あれ」・由利公正「(龍馬の歌声は)其の声調が頗る妙であった」・関義臣「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」(関義臣回顧談『海援隊の回顧』)「龍馬の風采は躯幹五尺八寸に達し、デップリと肥って筋肉逞しく、顔色鉄の如く、額広く、始終衣服の裾をダラリと開けて胸を露して居た。一説に、母親が解任中、黒猫を愛していた所から、それにあやかったのであろう。背中にうじゃうじゃ毛が生えて居たので、どんな暑い日でも、肌を脱いだことが無い。人と共に入浴もしない。一切人に背は見せなかったというが、わしもそこまでは知らぬ。何しろ顔に黒子が多く、眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった。平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下を御すること頗る厳正で、同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが暴行を働いた時など、彼は直ちに斬って捨てた。その威信はあたかも大諸侯の如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川、花月などへ登楼し、平生の無口に似合わず、盛んに流行歌など唄う。(中略)龍馬は顔に似合わぬ、朗々、玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ、紅葉の座敷…』と、例のヨイショ節を能く唄った。よさこい節はその本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略)龍馬は小事に齷齪せず、一切辺幅を飾らず、人との交際は頗る温厚、厭味と云うもの一点もなく、婦人も馴れ、童子と親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず、散々人に饒舌らして置いて、後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し、縷々数百千言、時々滑稽を交え、自ら呵々として大笑する。誠に天真の愛嬌であった。国を出づる時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み、上に『守』の一字を書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子の如く愛すべき所があった」(『実録維新十傑』第九巻)・下山尚 氏、状貌雄偉、眉間に黒子ある。風采閑雅、音調晴朗、一見凡夫に非るを知る」(『下山尚述記西南紀行』「龍馬越前藩士下山尚ニ大政返上策ヲ説ク」)・香川敬三「剣客、航海学の志あり」・住谷寅之介「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)「頗る可愛人物也」・東久世通禧「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前。『東久世伯爵公用雑記』)・尾崎三良「其頃坂本等の評判が高くなり、其頃散じ紙の新聞様のものを時々発行することがある。それを見ると、今度坂本竜馬が海援隊を壮士三百人を連れて上つたと書いてある。実際我々瘠士が僅か五、六人であると大いに笑ひたり」[112]「あの人は経済の方に眼を着けておった人」・大隈重信「伊藤(博文)に負けた事など問題ではないが、阪本は偉かった。維新の志士等のうちで偉いと思う者は大していなかったが阪本だけには頭が下がった」[113]・陸奥宗光「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」[114]・徳富一敬「坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった」(『蘆花全集』第三巻所収「青山白雲」)・吉田健蔵「撃剣家坂本氏」・富田鉄之助「先生(勝海舟)に度々あって話したものは坂本だけだった。薩長連合案などは先生の説だったろうな」・時田少輔「龍馬は東西奔走にて、薩の意を長に、長の意を薩に告く、遂に御取結に相成」(薩長同盟について。慶応二年二月二日『吉川経幹周旋紀』)「龍馬こと先生のお世話に相成り候義もこれある由申し居り候」(薩長同盟について。時田少輔の・木戸寛治宛書簡)・間市太郎「終に薩長合体の基本を開く人なり」[115]・長井長義「僕は土州脱走人有名有志之輩、人を不殺無罪之者を御引返しに相成、かつ他藩たりとも脱藩人を養い申すべくつもりにて、諸方の脱藩人を餌付け、我者になし候策、相見え申しそ候。山師、おそろべし、おそろべし」「(いろは丸の)船将は坂本龍馬という脱藩人なれども、かねて高名なる議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国のためと唱え、周旋おり申し候の為めなら何時でも一命を捨てる」[116]・高柳楠之助「彼の才谷梅太郎は討幕論主唱の魁なる坂本龍馬にして、応答言論は存外正直穏当の如くなれども、中々大胆不適の人物」(『南紀徳川史』)・日原素平「坂本先生は真に気柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった」・広瀬丹吉「坂本先生はまことに天衣無縫で無頓着の人でありました。ボーと大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」・高木三郎「坂本は大きな男で背中にアザがあって毛が生えてね。はあ、いっしょに湯などにも這入りましたから、ヨク知ってます。坂本は柔術を知らないものですから、先生(勝海舟)が小さくて胸の所へ、こう小さくくっついた工合は、まあ鶴がタカにちょっと止まったようで、それは見物で未だに忘れられません。坂本は文字がありません」・三宅謙四郎「健海翁の妻曰く、坂本龍馬さんはサイサイ使いなどに行きてよく見覚えたり。姿勢あしく肩を斜に傾けタホウ(撓むこと)で、行く様に見えたり」[117]・岡上太吉「いろんなところからまとまった金が届いてくると、そりゃ使え、とばかり、皆の前にサッと、ぜんぶ出すもんじゃから、皆が龍馬を好いてのう」(長崎にいたころ)[118]・山川須磨「龍馬って、嫌な男でしたよ」・信田歌之助「勝の手紙には坂本は剣術は中々つかえる、組打も上手だと書いてありましたが、さて道場に通して見ると坂本は大きな男でした。私は五尺二寸、彼の男は五尺九寸で胴も太い。立ち上がると私の口が龍馬の乳房の辺に当たるのです。双方とも若い血気の盛です。しっかりやりましょうと取組んで見ると組打は中々上手だ。(中略)実に偉い元気の男でありました」
大変勉強になりました。
千葉周作説はないですか?
本当に先生の話し方は分かりやすいし、ずっと聞き入っちゃいますよね✨
よく分かりました。非常に可能性の高い論説だと思います。貴重なご意見ありがとうございます。
何時もいい話ありがとうございます。色々な考えがあっていいと。
興味深い説です。紀州藩には関口新心流という柔術・剣術・居合術を組み合わせた総合武術が藩御流儀になっていたそうです。
狭い室内でも対応できそうな流儀ですよね。
ヤマハ創始者山葉寅楠も紀州藩でしたよね?
慶応当時寅楠は剣の修行で全国走り回ってましたが
確か小野派一刀流皆伝で、二刀流にも造詣してたとか。
歴史に、正しいものはありません。
ただ、そこに残る証拠とその当時の背景を推理するしかありませんね??
ねず先生のお話は、正しいものでは無いかもしれないと言う。
元に、背景とそこの眠る歴史の真実を推理してくれる所が、大好きです。
私達には、昔の人からいろいろ学び、今の我々が生きる時代に生かせる努力とは??
私の意見です。
「昔の出来事に、今の出来事を重ねれば、不幸な事は最低でも避けられる」
そして、そこに未来の子供たちに託したいって思いました。
日本をかっこよく😊😊😊😊😊😊
いつも勉強になります。
ありがとうございます。
まず、近江屋は旅館ではなく醤油屋なのですが、そこは置いといて・・・
近江屋に行かれたことはありますか?(建物はもうないですが)
二階の四間続きの一番奥の間の床の間の前に龍馬はいましたが、龍馬が鞘ごと受けたのは三の太刀で、龍馬の額を割ったのは一の太刀で横殴りに払っていることが傷口と掛け軸の血痕から判明しています。
二の太刀は背中を袈裟懸けに斬っています。
また、明治になって犯行を名乗り出たのは新選組元隊士ではなく、見回り組の今井信郎ですが、自分は見張り役だったと主張しています。
調書も残っていますが、他のメンバーが渡辺篤と桂早之助、佐々木只三郎(いずれも鳥羽伏見で戦死)以外不明なので主張が正しいかどうか判りません。
桂早之助の子孫によって霊山歴史館に寄贈された刀は、小太刀、もしくは脇差です。
ま、黒幕は今もって判明していません。
黒幕がいたのかどうかも含めて。
龍馬の頭は十文字に斬られています。天井が低かったのなら立った状態からは振りかぶるのは無理ですし、剣道のような中段から打つ面では斬ることはできません。誰でも逃げられます。土佐居合と言われる無双直伝英信流に正座の状態から十文字に斬る型があります。もし同じ土佐者だったとしたら龍馬も油断して会うかもしれませんね・・
秀明まったく様。土佐藩士説に賛同致します。あの用心深い龍馬が、階段を登るドタバタの足音に、なんら警戒していないのは、知ってる人物だからです!完全に油断しています!それと、一緒に居た中岡慎太郎は、とどめをさされずにその後2〜3日生きていたそうです!近江屋の道向いは、土佐藩邸。そこから、田中光顕と言う土佐藩士が即座にニ階へ駆け上って中岡と話をしています!?田中が核心を知っている可能性が濃厚です!
私も、はちまきなぎに前頭部を切られたと読んだことがあります。受けた刀が流れたのではないでしょうか。鞘を割っているのは、横なぎです。
中岡の聞いた「こげんなくそ」とも符合する
@ザビミネバ ^_^ん羅さ、は😢
恐らく竜馬暗殺の犯人は無名の一般人だと思うよ!マグレで暗殺に成功した
雑魚が10回暗殺を試みれば1回は成功するみたいな?
いつか来ると思ってました!今日はいい日だー!
大切に見させていただきます。
先生のこのお話を聞いて、自然と確信を得ました!
竜馬に興味があって色々な暗殺説を読みましたが、とても先生の説にガテンがいきます。
竜馬が暗殺を恐れ逃げ回っていた事が、多くの説を生んでしまった様です。
@ザビミネバ 様
返信有り難う御座います。とても先生の説、興味深いと思いました。
そこからまた、あなたの言われるように、さらにまた疑問はうまれますね。
グラバーとの繋がりも単に商取引だけだったのか?そんな疑問もわきます。
紀州潘は木村と言ってましたね、確かに昔家の二階は天井狭い、一階からの階段5メ-ターの幅有りましたね、後は、階段はキシム音が凄い、音で分かりますね、大変参考になります、有り難うございます
ねずさんの洞察力、論理性には毎回脱帽します。説得力がハンパない。
納得するか?しないか??と言うと私達は、ねず先生の説に、「うんうん」てうなずくところに大好きだと思うのですね??
それだけ納得させられる推理が大好きでしょう??
説得力って情緒的 めでたい日本
@@red20201 説得力がある、ねず先生の熱意が嬉しいのです。
ちなみに、土佐藩は上士と下士の身分差が特に著しかったといわれ、大政奉還の功が後藤ではなく下士の竜馬である事実を隠滅したかった、というのも納得でした。しかも、後に竜馬の残した海援隊の遺産を土佐藩から総て貰い受け三菱財閥を築いた岩崎の日記が、竜馬暗殺の前後のみ、何故か公開されないそうです、、実際はどうなのでしょうか?
お疲れ様です。小名木先生の動画はできるだけ見ているつもりですが、歴史の真実は遭遇した人以外想像しかないと思いますが、犯人は左利きで左から一閃で頭蓋骨を皿のように切ったと記憶してましたが、頭(頭蓋骨)を切り裂いたという部分は共通しておりますが、横と縦なら推量が全く違う方向になります。さて犯行後の検視の情況が知りたいと切に望みます。
私も、屏風の血痕からして水平方向の切り傷であると解釈しておりました。
ただ、紀州藩というのは面白いです。
交通事故等でもやはり頭が蓋のようにスッパリ割れることがあるそうです。
頭骨の構造上正面からより簡単に刃も入るでしょうし、刺客はそれを充分知っていたと思います。
竜馬は向き合った敵からとっさに前をかばい一度はかわしたのでしょうが、すかさず横から払われたのでは。
狭い屋内でも横から水平になら思い切り力も入り勢いもつくと思いますね。
すごい興味深い話でした!
紀州藩説は、初めて知りました。面白いですね。
コメントを含め大荒れで面白いのですが。
誰が犯人もいいのですが何のための暗殺かを考えた方がいいのでは?
怨恨からの暗殺なのか、時代を先に進めるための暗殺なのか。
この時の竜馬はどんな歴史の鍵を握ってる人物だったのか。そして竜馬亡き後はどのように細かく歴史が進んでいったのか。誰にメリットがあったのか。
そう深掘りしても面白いのでは??
けど竜馬の場合は色々な人から邪魔者でもあり色々な人の怨恨もありますからかなり深く掘らないとダメでしょうけど。
結論は歴史は面白いってことですね。
歴史いろいろありますね。謎が多いことでした。紀州藩とは?初めてしりました。奥が深いですね。ありがとう御座いました。
紀州藩脱藩の陸奥陽之助が天満屋事件をリードしていったというところが大好きです。
先生。お言葉ではございますが、龍馬は初太刀で額を割られています。一撃を受けてなお竜馬は背後にある刀を取ろうとし、後ろから袈裟切りで背中をやられています。向き直って両手で刀を構えた時は息も絶え絶えだったのではないでしょうか。とすれば、示現流のような剣術でなくとも打ち込めたのでは?さらに私が幼い頃、龍馬が宿泊した部屋の鴨居に刀傷があったと言われていましたのを思い出します。暗殺者は刀を振りかぶって一撃を龍馬に加えたけれど鴨居に威力を半減させられたのでは。しかし二の太刀の袈裟切りで体力を奪われ、三の太刀を受け止めようとした甲斐もなく今度こそ渾身の力で頭蓋骨を割られたのでは?
ご存知、龍馬は剣豪です。暗殺者が紀州藩なら決して油断はしなかったと思います。暗殺者は龍馬と顔見知りの親しい人ではないでしょうか。私は岩崎弥太郎の配下の者ではなかったかと推理しています。
酒を飲んで酔えば2人掛かりで不意打ちを喰らえば手立ての龍馬でも反撃出来ませんよ。
西郷隆盛が乱れ奢る伊藤達と反目するようになった事に興味がある。征韓論は後付けの話だね。
@@tames_one 様。竜馬が二人の暗殺者をほぼ同時に相手にしたと言うことですね。十分に納得できますね。正しいかどうかは分かりませんが歴史好きにはたまりません。
その時代の最強剣豪が気になりますね!
その時代は仏生寺弥助がブッちぎりでNo.1ですよ!
小名木先生の動画で間違い箇所が数点有ります。1ーいろは丸は龍馬の持船ではないです。大洲藩から借りた船です。2−いろは丸事件は簡単な直談判で処理していません。第三国のオブザーバーをおいて、長崎奉行所に申し出て、国際法に基づいて正式に競技された我が国初の海難審判であります。
私も、16歳の時に竜魔が行くを読んでその中にある竜馬像に憧れて尊敬してきました。今も変わりません…
高知を旅した時、竜馬の検死記録や死体の始末の記録があったかどうかは不明。地元では長州人に殺されたと言っていた。
明治から大正の長州勢の活躍は海外にまで拡がり日本の基礎となったが、グラバーが知り過ぎた竜馬を暗殺させたと思う。
NHK が、見回り組と言ってましたが、NHKだから、嘘と言うことが今、わかりました。
明治期なって坂本龍馬殺害を自白したのは、京都見回組の『今井信郎』です。
(確かに、NHKが言うなら嘘の可能性あると思っちゃいますよね。💦事実はどうであれ。)
例えばゴルゴ13的なヒットマンを、雇える財力がある、またはその大金をつぎ込むだけの動機があるなら紀州だろうというご解釈なのですかね。TV等のマスメディアで伝えられることが真実とは限らないのが悩ましいです。やれやれ。😓
NHK=歴史捏造
なんか恥ずかしいコメントですね。もっと大切なことを小名木さんはおっしゃってると思いますよ
いつも拝見して勉強になります。ありがとうございます。今回の「事実に事実らしいと思われることを検討してつなげて妥当性の高い推量をおしすすすめていく」という思考法なのですが、アガサ・クリスティー女史の探偵ポアロ氏も同じようなことを言ってました。なるほど!と感嘆次第です。
名探偵ポワロの口癖、秩序と方法ですかね。
なるほど先生の説、素晴らしいです。
歴史作家RUclipsr
加治将一さんは
中岡慎太郎説です。
事件の真実を探る
歴史ミステリー
諸説あって興味深いです。
紀州藩説、興味あります。
ただどうしても理解できないのが、警戒しているはずの坂本竜馬と中岡慎太郎が2階に上がってくる2人から逃げなかったこと。
仲間と認識していた人間に殺されたとしか思えないのです。
Chiaki Furuya様。知人説に同感です‼聞き覚えの在る足音です!完全に安心しきっています。銃を抜く隙も無かった様です!
藤吉と思ったからです。
当時の紀州藩の家老の1人が、私の同族でもあったので紀州藩遺恨説を私も考えたことがありました。上意討ちではなかったのか、ただし、闇から闇へ決して表には出る事はなかった…。
知らない事があって勉強になります可能性大ですね
今回の講義とても面白かったです。
小さな事を拾ってそれが大きなことに繋がる見解が毎回素晴らしいと思います。
坂本龍馬は個人的には司馬遼太郎氏の小説も読みましたが、
周りの信者の方のようにはすごい人とは感じません。
いろは丸の事件は龍馬は世界のルールを持ってきて
わざといちゃもんつけてお金を分取ったように感じてます。
龍馬を殺したい人は多くて彼を討ち取ってたら名誉となるのに
それを表立って言えない立場の人が犯人ではないかと思います。
西先生の推察も、いいよ、非常に、いい。
坂本龍馬暗殺は、会津藩の手代木直右衛門が実弟の見廻組隊長の佐々木只三郎にやらせたことを死の間際に言い残したことが手代木家私家版「手代木直右衛門伝」に記述がありますよね。手代木の上司は松平容保ですから彼がやらせたのではと思います。これは当然のことで、龍馬はその数年前に寺田屋で捕縛に訪れた伏見奉行所の捕り手を射殺して逃亡したお尋ね者ですからね。一度目は捕縛して裁きにかけるつもりだったのを、二度目は失敗する訳にいかない当時の警察権力としては、役人殺しの凶悪犯が武装して潜伏していれば次は強行突入で殲滅して当然です。現代でもアメリカなんかではやるでしょう。ただ、そのような大義名分があっても政情不安定な当時にあっては報復を恐れて公表しなかった。幕府が倒れてから明治政府の取り調べに対し見回り組元隊員の今井信郎が実行部隊にいたことを証言していますよね。龍馬暗殺は旧政府下における公務だったことで今井は処罰されずに済んでいます。また、同実行部隊の桂早之助は小太刀使いの剣豪で彼が狭い近江屋の部屋で実際に龍馬を切ったと言われ、その刃こぼれした脇刺しは京都霊山歴史館に残っています。実行日の夜遅くに、お酒を飲めない早之助が珍しくかなり酔って帰宅したと家族が証言しているそうです。
小名木教授の竜馬暗殺の講義、「日本史をおもしろく!」でした。中段から、よけた鞘ごと断ち割りですか。そういえば、剣豪と呼ばれる人たちは、日頃から、バットの形をした太い棍棒を上げ下げしながら筋力を鍛えていたとか。紀州藩黒幕説。説得力ありますね。
先生楽しそうですね。
いい年まで私は歴史に全く興味がなく新撰組と忠臣蔵の区別もつきませんでした。学生時代、登場人物の多い維新に四苦八苦して丸暗記したのを覚えています。今なら、( )埋めテストで、下から選択するタイプなら なんとか答えられるかもしれない。と思ってしまう。そこで気づきました。大人は、小名木先生のように、とうとうと語れなくても、( )埋めなら出来る。だからそういうテスト作るんだたあ。って。改めた方がいいと思いました。
三好徹氏の誰が竜馬を殺したか?を、以前読みました。土佐の岩崎弥太郎を使って後藤象二郎が犯人、という説、どうお考えになりますでしょうか?私としては、大変納得出来る説と思っています。
高知からですが、グラバーが秘密結社フリーメイソンのメンバーで龍馬は、グラバーの駒として働いてフリーメイソンメンバーになって、龍馬暗殺の話を聞いたグラバーが影武者をたてて龍馬をイギリスに逃がした説があります。
1.グラバー邸にフリーメイソンのシンボルマークが石碑に刻まれています
2.グラバーの為に働いたフリーメイソンメンバーになった龍馬をイギリスに逃がす案を出して、影武者に写真館で写真を撮らせ
それを犯人に入手しやすいようにしてる
3.イギリスに行った証拠は、明治維新後に長州5人衆が、イギリスに渡っています
それは、実は、龍馬に会いに行ったと考えられます。
4.なにより龍馬が暗殺された証言をしているのは、中岡慎太郎ですが、明治初期の
医療技術で全身切られた人間が三日間も話が出来たのが、不思議です。
私も数年前までは維新が好きで読み漁りましたし、維新巡りなどに
土佐や、長崎の海援隊、グラバー園京都の寺田屋、墓参りには土佐焼酎龍馬を取り寄せお供えしたり、
山口では松陰先生の辞世の句などに涙を流す程でした
しかし、心の奥底に何か釈然としない気持ちがありました
維新に何か矛盾を感じ、調べ直すとやはりグラバーなど、
グローバルによって日本人に革命を起こさせたと考えるのが自然であるとの結論に至りました
そうゆう観点で日本を見てみると
やはりこの国はあの時には既に侵略されたのだと感じます
であるとしたら、新政府や天皇に至るまで疑問が湧いてきます
尊皇攘夷と志士達は命を賭けて行動した結果が真逆の結果になってしまったのではないかと思うと、やるせない気持ちになります
酔えば剣の使い手でもおぼつかないよね抵抗したが斬られた。中岡慎太郎は不覚の責任逃れと思うね。
明治初期には英国の銀行設置。日本のイギリスべったりとイギリス工業の協力は異常だから驚くよ。
坂本竜馬ー15
※竜馬は山鹿流を習い、また佐久間象山にも師事している。
「嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある[8]。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている 。
思うに・・・坂本竜馬メーソン説は・・・
加治将一、副島隆彦、船井幸雄、他、あたりの嫉妬にもよるのであろう。男としての矜持というより、文筆の徒、文弱の輩の筆はどうしても感情的に捻じ曲がるのではなかろうか。文弱の徒であるから口喧嘩もうまい、筆致においても過激である。加治は猪木の評論もしてるが、ビジネスだの金儲けだのに堪能なせいかどうも肉体的優越性に嫉妬があるやに思える。3名ともお世辞にも美男子とは言えないし、権力や影響力によってくる女性は多かったものの、多くの人々に愛されたとは言い難い。
怪しげなフルベッキ写真なるインチキ写真の影響も手伝っているだろうが。
足尾銅山で国民を犠牲にしてまで、対外政策に執着した陸奥の憤りと闇雲の紀州藩家老の襲撃、愛人お竜の書き残した西郷の悲憤慷慨ぶり。お竜とは無学でそそっかっしい、サザエさんのような女性だったらしいので、あまり周到なウソをつけるとも思えない。
おそらく後世の男たちに嫉妬羨望の的になっているのだろう。在原業平、名古屋山三郎、市川團十郎、坂田藤十郎、いずれもイケメンでモテたらしいが、権力とも権威とも無縁である。
竜馬は権柄づくでモテたわけではなく、人柄と性格で生前からモテモテだった上に、才知でもって引きずり回し、政治を動かし、大仕事をやった上に、暗殺で若くして倒れているのだから人気がでないわけがない。主眼として人を殺さない、無闇な暴力を振るわない、という点で、高杉、西郷、とは大いに異なる。西郷は、江戸と大阪を火の海にしたかったらしいが、それでも悲憤慷慨して惜しんでいるのは、国家の損失に憤慨したのか、あるいは坂本を愛した故か?という気もする。
金も名誉も女にもモテたユリウス・カエサルを書いた、トインビー、モムゼン、ブレヒト、等々に「他の男性研究者の筆致には、羨望と嫉妬が仄見える」と日本人女性研究者が指摘している。坂本竜馬の評伝も、あるいは女でなければ書けないのであろう。当人の女史はベタ惚れしたあげくに、大長編小説のようなすさまじい量のページ数に及ぶ・・・極めて慎重な讃辞と礼賛、虚像というより、ある種の欠陥まで最大限の賛辞に変えて書いているから世話はないが。しかし、惚れっぽく、また他の表記者にも、そういう調子で書いているのでいいのだろうが。この場合、長短ではなく立体的に見ているからともいえようが。正直な小林秀夫は、文筆、政治、軍事までやったカエサルには惹かれると書いてはいたが「モテてうらやましい」とまでは書けなかった。当たり前だが。
比較的、客観的なのは高岡英夫で、江戸人の身体意識と現代人のそれを比較して、坂本竜馬という人物は、対人関係におけるベストとリバースがものすごく発達した人であったと述べているが、達人名人であったということでもある。また、現代の偏差値教育の頭でっかちな政治家の批判とも捉えられるが、
しかしまあ、これだけモテればハニトラに引っかかることもなく、金に執着せずにポンポンやってしまえば、マネトラに引っかかることもなかろう。
陸奥の言う・・・
「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
・「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」」
・後藤の「「(龍馬が生きていれば総理大臣になっていたかの問いに)彼奴は政治家ぢゃない。商売人だよ。三菱だな…」
というのは、何とはなしに、現代の国民の心情でもあろうかという気がする。現状で、先に記述したとおり、実際は身体と心情が江戸人より衰えているのである。知情意とも体や姿勢、所作動作と相乗効果で発達させてきたのが、江戸期の文化であった。この辺りを小名木氏には御講義頂きたい。老婆が米俵6つ担いでる写真や、驚異的な人力車夫、等々の写真など使うとよろしいと思う。
龍馬の名前が司馬遼太郎氏の作品を通して、広まった・・・ということがカギだと思う。
言い換えると幕末当時、龍馬暗殺の一件は関心を持たれなかったということで、いろいろ
後付けで事実が加えられたんだろうな。
昭和3年に桂浜、11年に京都円山公園に銅像が作られており大河ドラマ以前から京都に置いては
英雄の遭難として語り継がれています。司馬作品の中にも脚色されてはいるが事実はあると思う
幕末から明治まで暗殺事件の捜査を継続したのは坂本、中岡両氏の暗殺のみとの記録があります。
司馬先生の小説以前に高知の龍馬像も数名の青年の尽力により募金を募り建立されたものです。
そして何より幕末当時の著名人達からの龍馬の評価は相当高く、正四位の勲等が授与されており、これは土佐人の中で最上となります。
また坂本龍馬は剣豪ではなかった説も浮上しているようですが、免許皆伝書の存在も確認され、桶町千葉道場の塾頭であることも踏まえると相当の腕であることも想像するに難くないです。
坂本龍馬は十分過ぎる程偉人であったと思われます。
逆やろ。
作者日本人ですらない。
半日の人やぞ
諸説はありますがやはり1番は現場指揮者は佐々木只三郎で実行者は桂早之助という話が有力です。
佐幕派だった土佐藩が倒幕になったのは何故なのか。
いつかお話しをしていただけたらと思います。
見廻組説は出てきませんでしたね。確か漫画家の黒鉄ヒロシも同じ説をとっていたような気がします。
自分は怨念深い長州藩だと思っております。でも歴史は捻じ曲げられるのが常です。
夢にあらわれた龍馬
今年(平成28)の7月……、私は、京都での講演を終えたあと、ふと河原町の「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」の石碑を訪れました。史跡に立つ石碑というと、ふつうは人通りもまばらなところにある……というイメージがありますが、ご存じのとおり、その石碑は、きわめてにぎやかな通りにあります。
その時も、あまりの通行人の多さ(とくに若い人々の多さ)に驚くばかりでしたが、残念ながら、その石碑を気にかけて通る人は、ほとんどいませんでした。しかし、それらのこともふくめて、私にはそれが、なにやら「龍馬らしい風景」のような気もしました。
かつて私は、西郷隆盛や吉田松陰の本も書きました。西郷は戦死……松陰は刑死で、いずれも悲劇的な最期です。しかし、それでも二人には、死の前に心の準備をするくらいの時間はありました。龍馬はちがいます。その場所で、いきなり命を奪われたわけです。ほとんど即死に近かったでしょう。
その瞬間……龍馬は、何を思ったのでしょうか?
人は、死の瞬間、人生のすべてを一瞬でふりかえる……という話を聞いたことがあります。たとえば、遠くかすかな記憶ですが、私の高校時代の先生が授業中、こういうことをおっしゃっていました。その先生は大東亜戦争中、飛行機を操縦していて、墜落しそうになった経験があり、その時、本気で「死ぬ……」と思い、その時、一瞬で人生のすべてを回想されたそうです。
龍馬も、また一瞬で、人生のすべてを回想したのでしょうか……。しかし、かねて覚悟の死ではあっても、あまりにも突然のことで、さぞや龍馬も無念だったでしょう。
そのせいかどうか……、龍馬が「夢」にあらわれたという話は、有名なものだけでも2つあります。1つは、妻のおりょうの夢です。
龍馬が暗殺されたのは11月15日ですが、そのころ妻のおりょうは、下関で妹と暮らしていました。16日の夜に龍馬の夢を見たそうです。それは、「全身、紅に染み、血刀をさげて、しょむぼり」した姿でした。翌17日、龍馬の死を報せる使者がやってきたものの、その人は気の毒でならず、おりょうには何もいえないまま8日がすぎ、そのあと、ようやく三吉慎蔵が、おりょうに龍馬の死を、はっきりと伝えたそうです(『反魂香』)。
もう一つあります。没後37年たった明治37年2月のことです。夢を見られたのは、そのころの皇后陛下(昭憲皇太后)で、日露戦争の開戦の直前のことでした。死の直後は「しょむぼり」していた龍馬も、この時の夢になると、ずいぶん元気になっています。
最後に、そのころ『時事新報』に掲載された記事をかかげておきましょう。
皇后陛下(昭憲皇太后)の夢
皇后陛下(昭憲皇太后)が、葉山御用邸に御滞在された去る二月初旬のことだそうです。いうのもおそれおおいことですが、ある夜の夢に、白無垢を着た一人の男が、御座所の入り口にひれ伏して、こう申しあげました。「私は、維新の前、お国のために、働いておりました坂本龍馬と申すものでございます。海軍のことは、そのころから熱心に心がけておりました。このたびロシアとの戦いが、いよいよはじまろうとしております。いざ……そうなった時、私は、もうこの世のものではないものの、私の魂は、わが国の海軍に宿り、忠義の心があって勇敢な、正義の心があって節操がある、そのような日本の軍人たちを守る覚悟でおります」
男がそう申しあげた……と思ったら、その姿は、かき消すようになくなりました。
(千頭清臣『坂本龍馬』)
そのあと、昭憲皇太后が、龍馬の写真を取り寄せて見ると、それは、まさにその夢にあらわれた男であった……といいます。
この夢について、後世の人々は、いろいろと興ざめなことをいったり書いたりしていますが、私は、そのようなゲスの勘ぐりのようなことをいう気にはなりません。なぜなら吉田松陰が、こういうことを書いているからです。
「すでに私は、楠公たちと同じ理を、自分の心にしています。そうであるのに、どうして、私の気が体にしたがい、やがては腐りはて、崩れはてることで、すべてが終わりになるでしょうか」(「七生説」)
たとえ身は滅びても、魂を留めて日本を守る……、つまり「留魂」ということを、松陰は、本気で信じていました。そして、たぶん幕末の志士たちの多くも、同様の思いで生き、そして死んでいったにちがいありません。
ですから私は、龍馬ほどの人物であれば、その「留魂」は、それ以後も日本を守りつづけていても不思議ではない……と思っています。明治の日本に〝海の向こうからの危機〞が迫った時、皇后陛下の夢にあらわれた龍馬は、「日本の軍人たちを守る覚悟です」といいました。そして日本は、「皇国の興廃」をかけて全力で戦い、勝利しました。それは、ただ日本が勝った……ということで終わる話ではありません。
小さな東洋の有色人種の国が、巨大な白人の軍事大国に勝利したことによって、「大航海時代」以来、数百年にわたる白人の世界侵略が、東洋の一角で阻止されたことを意味するのです。そのあと、世界各地で有色人種の独立運動が本格化していくわけで、それは、まさに数百年に一度の、世界史的な大事件であったといえます。
そして今……、またもや日本には、海の向こうからの危機が迫りつつあります。たぶん龍馬の「留魂」は今、最前線の陸や海や空で、黙々と日本の守りについている人々を、また、それらの人々の指揮にあたっている人々を、力強く守ってくれているのではないでしょうか。
なぜアメリカに負けたのでしょうか?
紀州藩だから凄腕の人がいた・・・というところだけ説得力が小さかったですかね。
大藩だからそういう人がいた、又は雇えた。
大藩だから凄腕がいるとは限らないし、小藩でもいたりする。
人殺し術は道場剣道が優れていれば良いとは限らない。
実戦でどれだけ経験するか⁉︎
と思います、最高です非常い面白いです!
なぜ、
部屋の中に入れたのでしょうか❔
足音で知っている人か知らない人か
区別できたと思うのですが…。🤔
※『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編時代小説(フィクション)。幕末維新を先導した坂本竜馬を主人公とする。「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。1974年に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行、単行・文庫本ともに改版されている。司馬の代表作であり、世間一般でイメージされる坂本龍馬像は、この歴史小説の影響が大きいとされている。これまでに、大河ドラマの他に、民放各局でも何度かテレビドラマ化されている。とりわけ萬屋錦之介は中村錦之助時代から、この作品の「竜馬像」に惚れ込み、中村玉緒や弟の中村嘉葎雄等とも、初版刊行まもない時期に舞台公演をしており、司馬自身の「楽屋訪問」や「打ち上げ」での写真もある。
別の別のエッセイによれば、土佐系の宴会、岩倉具視がかつての仲間を招待した宴会で、坂本竜馬が口の端にのぼることがあったという記述があった。
逸話
本作品は司馬の代表作の一つで同時に維新の英傑として、今日に至る竜馬像を確立した作品である。『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(5)』(中公文庫、2011年)に作品随想を収録している。
『竜馬がゆく』の執筆のきっかけは産経新聞時代の後輩にあたる高知県出身の渡辺司郎(元産経新聞社常務大阪代表、元大阪市教育委員会委員長)が遊びに来て 「これは仕事で言ってるのではなくて、自分の国の土佐には坂本竜馬という男がいる。竜馬を書いてくれ」と依頼されたことがきっかけになっている[2]。依頼された当初は、司馬自身その気がなかったが、後日他の小説の資料あつめをしていると不思議と坂本竜馬が出てきて親しみを覚え、本格的に坂本竜馬を調べてみようと思うようになったと述べている。
当時坂本龍馬の誕生日には諸説あったが、この作品で11月15日を使用したため11月15日に龍馬の誕生日が確立したという逸話がある。
俳優で海援隊のボーカルでもある歌手の武田鉄矢は、高校生の頃にこの『竜馬がゆく』を読んで、熱烈な龍馬のファンになった。
サザンオールスターズの原由子も産休中に『竜馬がゆく』を読んだことがきっかけで、龍馬ファンになっている[3]。
司馬は本作品の執筆にあたり、神田神保町の神田古書店街の複数店に依頼し、ワゴン車1台分の当時1400万円相当の古書・古文書を集め購入したという。
ちょうりんぼう事件
1983年9月、京都新聞の広告に「ちょうりんぼう」という差別語が使われ、部落解放同盟がこれに抗議した。京都新聞社は『竜馬がゆく』に使われていた言葉を借用したと釈明したため、解放同盟は司馬を糾弾。同年12月に京都部落解放センターの差別確認会の席へ司馬を出席させた。この席で司馬は「"長吏"と人間の尊厳について」という釈明文を朗読した。ヤジなどで騒然としていた会場は司馬の部落差別に対する批判と明晰な文章によってすぐに静まりかえり、その後糾弾がエスカレートすることはなくなったという。なお司馬は執筆当時、「ちょうりんぼう」が差別語である事は知らず、古い土佐弁で「馬鹿」を意味する罵倒語の一種であるとしか認識してなかったと語っており、差別語の指摘を受け出版社へすぐに該当箇所の削除を申し出ている。
在庫リアンの作者
半日の人
リスンチンという、捏造英雄作った人。
切り込んだのが二人いたらどうですか? 一人が切りかかる⇒龍馬防ぐ⇒両手がふさがっているところから二人目が切りつける。
会津藩伝継小野派一刀流剣術だと思うのですが鞘でよけても鞘に刀の刃があたった瞬間によけている腕が下げられてしまい切られてしまう不思議な力があると聞きました。
紀州藩出身のヤマハ創始者
山葉寅楠も小野派一刀流ですので
紀州藩も大和一刀流派が多いと思います。
龍馬を殺害したのは、土佐藩の関係者だとの説もあるね。龍馬ほどの剣豪が脳天をやられるなんてよっぽど油断していた状況でないと考えられない。しかも同じ剣豪の中岡慎太郎も共にいての話。だから、龍馬は斬られる寸前まで相手が刺客だと認識してなかったということになる。
一方で土佐藩には坂垣とか龍馬を快く思わない連中もいた。それに、龍馬の周りにいた者たちが近くにあった土佐藩の詰所に駆け込まなかった点も土佐藩首謀説の一つの根拠にもなっている。
私も黒幕は土佐藩説
龍馬の最後の手紙に「土佐藩邸に居れば安全だがまわりの人間が許してくれないと後藤象二郎が言っている」と書かれていてますね
龍馬が剣豪というのは作り話
武田鉄矢さんの説では、坂本龍馬には、親戚の才谷屋をはじめとした近江をルーツにした土佐の商人グループがスポンサーとして付いていて、金銭的にも、情報的にも支えていたとのことですね。
龍馬暗殺の種は尽きないですよね。新撰組隊士の鞘が落ちていたとか、諸説紛々でおもしろいです。龍馬が中岡に「脳髄がでているからもうダメだ。」と話すくだりがありましたが、これだけは深く印象に残っています。 偉人はしぶといですね。
若い頃は大好きだったなー龍馬さん、百出する異論に触れ自身でも歴史資料に当たるうち年ごとに威信は薄れて行ったな、夜開いた夢も朝方には萎んでしまったわ
岩崎後藤説がすきです!
となると、当時の紀州藩にそのような剣豪はいたのでしょうか?それも事実かと。
竜馬がゆく、お~い!竜馬、どちらも全巻持っております。
北辰一刀流の長刀(なぎなた)は免許皆伝ではなく中目録になります。免許皆伝は土佐の小栗流になります。そこは間違いの無い様に伝えて下さい。坂本龍馬は北辰一刀流に関して塾頭にはなっているが免許皆伝ではありません。小名木先生らしからぬ間違いをなさらない様にお願いします。
司馬遼太郎先生の
歴史風小説の影響で坂本龍馬という
英雄像が創られた
創作の賜物です
逆やろ。
てか、そこはリスンチンやろ?
あっちでは小説なのに実在した英雄にまでなってるし
日本に勝ったことになってる
竜馬は刀を後ろの床の間に置いてたんで間に合わなかったのかなと思ってたわ。だから中腰だったんじゃないかなと。
なるほど!
すばらしい、、 当時の捜査当局もわかっていたんでしょうね、、、、 わかっても幕府筋が調べる、、 京都守護も松平容保、、 こりゃ無理ですね。 余談ですが、 義父が弥之助の玄孫だけど、むしろ弥太郎にそっくりなことに気づきました、、、、
飛んだ血飛沫から犯人は、左利きで水平斬りだったと言う説が有力だと思うんですけどね?
先ず最初から切り掛かる様な状況なら、坂本、中岡両名に察知され反撃にあうのは必至です。
よって暗殺者は、坂本と対峙して座った状態であったと言う事と、敵意が無いと言う作法として、刀は右側におくのが通例である事。これは、当時侍は全て刀は左側に差して、右手で抜くのが常識なので、右側に置いた刀を左利きの暗殺者が座った状態から水平斬りで切った方が自然だし、説得力がある様に思います。
致命傷ではあったが、即死では無かった事は、息のあった中岡の証言からも分かっていた筈なので、一撃を食らった後、何とか反撃しようと刀を取ったが、鞘から抜く間も無く、次の一撃が来てかろうじて防御したのだと思います。
刀を右に置くのは敵意が無いことを示す儀礼ですけど、サウスポーだったというのは、浅田彰の「壬生義士伝」という小説にしか出てこない説です。
しかし、斎藤一下手人説はあくまで小説の設定で、浅田氏がそれを主張しているわけではない。
大刀を右に置き、座ったままの位置から脇差で抜きざまに払えば、左から右に飛んでいる血痕の高さなどとも辻褄は合います。
@@矢野-n5m
誰が犯人かは兎も角、脇差だと大きく前へ踏み込まなければ致命傷を与えるのは難しいのでは無いでしょうか?
言われている様に血飛沫の方向が逆だとすれば、可能性としては、帯刀している刀を腰から外して座る瞬間に切った方が確実ではと思います。
@@魂大和の それなら、霊山歴史館に子孫により寄贈され、所蔵されている京都見廻組隊士・桂早之助の佩刀、刀長42.1cmの脇差が偽物という証明をしなければなりません。
なんなら踏み込めばいいじゃないですか。
機会があれば脇差か小太刀を差して、座したまま抜いてみてください。
行燈の灯りしかない八畳間に対面して座る火鉢に手を置いた相手の額を割ることは可能だと思います。
@@矢野-n5m
そう言う事を言っているのではありません。実際、どれが正解なのかは立証する術は無いのですから、あくまで可能性の話をしているんです。
アナタの見解も、一つの可能性に過ぎません。私が言っているのは、脇差で確実に致命傷を負わせるのは、アナタが言っている状況ではかなり難しいと言っているんです。それに加えて、二の太刀、三の太刀を浴びせる事も難しくなって来ます。だとすれば、状況は兎も角、最初から刀を抜いたとする方が整合性は取れると言う事ですよ。
@@魂大和の ボクも可能性の話をしていますよ?
実際の現場にいたわけじゃないですから、判っていることの積み上げの先は推論です。
しかし、判っていること=事実と思われることを否定するためには、根拠や論拠が必要です。
僕は薩長黒幕説ですね😁何故なら龍馬が訴えていた大政奉還論は、幕府側にとっては都合が良い話でした🎵
あの時の幕府は第2次長州征伐の失敗で権威が失墜しており、倒幕論が世の中で渦巻いていました。
それこそどっち付かずにいた薩摩もあれ以来、倒幕論に傾き、幕府を長州と一緒に完全に武力排除しようとしていました‼️😃
しかしそんな倒幕論が渦巻いている時に大政奉還が起きました‼️
これにより幕府は一時的に武力回避が出来て、面子も保つ事が出来ました😃
またそれと同時に大政奉還論に尽力した土佐藩の権威が上がり、薩長の権威が下がったのです‼️
これは薩長側からしたら面白く無いですよね⁉️
故に薩長側は何としても世の中を再び倒幕論に持っていき、自分達の権威を上げる必要がありました‼️😃
そのために薩長は大政奉還を無かった事にする必要があり、また土佐藩に重しを掛ける必要がありました‼️😃
土佐藩に重しを掛けるために何が必要だったかと言うと、重要人物の暗殺という事になります‼️
しかしだからといって土佐藩の殿様を殺す事は出来ないし、殿様の側近であった後藤象二郎も殺す事は出来ない‼️
となると誰が的確か⁉️😃
それこそが脱藩浪士であった坂本龍馬であります‼️
そもそも大政奉還に拍車を掛けたのは坂本龍馬だったし、土佐藩に重しを掛けるための影響力も十分ある‼️
そして脱藩浪士の坂本龍馬の暗殺ならば、正面から土佐藩との喧嘩にはならない‼️😃
という事で坂本龍馬は薩長の陰謀で暗殺された事になります‼️😁
これにより土佐藩に重しを掛ける事が出来て、大政奉還勢力の勢いを落とす事が出来ました🎵
そうして起こったのば戊辰戦争。
その後の歴史は知っての通りですね😁
僕の見解はこのような感じですね☺️
実際は分かりませんが。
確かに紀州藩説もありえそうですね😁
このように考察していくのも、歴史の楽しさでありますね😁
面白い! 歴史というものの考え方が分かりました!
見廻組という説もありますね。
なるほどね
十津川郷士と名刺渡されたと言ってましたから、紀州藩に奇襲されたのですね。知りませんでした。何か記録が残ってませんかね。
龍馬暗殺の時一人が「こなくそ」と叫んだと
当時生きていた中岡慎太郎が言っていたと記録に残っています。
「こなくそ」は松山弁で松山出身者原田左之助って人が新撰組にいましたので
新撰組説が出て来たんです。
十津川は紀州と隣接してはいますが、紀州藩ではありません。
十津川は古くから天領(朝廷直轄)で勤王一色、紀州は御存じ御三家。
まったく立場も思想も違います。
差し出した手札(名刺)は偽証であることは間違いない。
でもねずサン、竜馬の額の傷は横一文字ですよね、(縦ではなく)そして犯人と竜馬は向かい合って座っていたともいわれており、その時、刀は右におかれていたはず。左に置くというのは殺害の気があるといって一般に無礼とされうけいれられていなかった為。そうなると犯人は左利き。元新選組3番組隊長、斎藤一は沖田総司と肩を並べるほどの剣の達人。そして左利き。しかし斎藤には強い動機がない。しかし彼は後に御凌衛士という西郷隆盛に抱えられていた隊の一人となっており、西郷隆盛が黒幕となって、竜馬殺害を後押ししていたのでは?かつて手を組んでいた西郷と竜馬は大政奉還後竜馬が平和主義を唱え出し諸外国の敵に向けて日本をまとめようとした半面、西郷はあくまで武力で幕府を倒したかった。それが二人のたもとを分かつ原因となったと言われ。西郷の手先となった斎藤が暗殺の実行犯となった。これはあくまで私が支える一説にすぎません。まさにミステリーですね。
でも西郷隆盛を知れば知るほどそんな事をする人物には思えないんだよね
龍馬を斬った実行犯は佐々木唯三郎(小太刀の日本一と言われる名手)です(今井信郎の証言)。
しかし、見廻り組に居場所を漏らしたのは大久保利通ではないかと、私は勘繰っています。西郷南洲公に刺客(捕まって拷問を受け、泥を吐いた)を差し向けたのも、大久保利通だし。
西洋気触(かぶ)れした大久保利通が、明治維新の運命を微妙に狂わせた。
小唄教室で、薩摩藩と京都見廻組は同席しています。
@@豊岳正彦
それって、西の説?
西郷南洲公が下野したのは、「明治維新を成し遂げたのは、こんな新政府にする為ではなかった」という思いだったからです。野に下って若者達を教育し、日本の為に立派な薩摩隼人を育てようとしていたところに、大久保利通が刺客を差し向けた。刺客が捕まって拷問を受け、泥を吐いた。「新政府に物申す事有り」薩摩士族が武器庫を襲った。「しまった」「おいどんの体、おはんらに差し上げ申そう。」これが西南の役の顛末です。西郷南洲公は、一切指揮を執らなかった事だろう。
大久保利通という人間は、信用出来ない。西洋気触(かぶ)れする人間は目の前しか見えない、未来が見えない、物事の表面しか見えない。
信長も然り、西鋭夫も然り。そして現代は西洋気触れした若者バカリ。
竜馬暗殺は勝海舟だと・・
また、竜馬に敵対する相手を切ってしまったため
着物や持ち物をそっくりその者と入れ替わり
行方をくらましたのち、アメリカに渡ったとも・・
犯人は、グラバーのエージェントによる殺害でしょう。ディープステートの手口です。
紀州藩がそこまで用意周到なら負け犬の竜馬を殺害するのではなく岩崎弥太郎を殺害するだろう。
某NHKの大河ドラマとは全く印象が違いますね。
龍馬と一緒に襲われた中岡氏はある程度回復したそうですが、それでも相手が伝えられていないのは、相手が忍という可能性もありますね。
屋内とはいえ夜間の暗殺者の正体がわかる方が…
@@matukawatositane
なるほど。暗殺目的なら相手が誰であろうと、薄暗い中で真っ当に対峙する間も無かった、とも考えられますね。
中岡氏が判別できなかったとて無理も無いということですかね。
霊山歴史館に竜馬を斬った京都見廻組隊士・桂早之助の刀が展示されてます
誰がやったかは分かりませんが、その後、一番権力を得た人物は岩崎弥太郎だと思います。
犯人特定による常套手段ですね。だれが一番得するか。
坂本龍馬の事業と紀州明光丸事件による賠償金を経て一番得したのは岩崎弥太郎です。
冗談はさておき、海援隊は結果的に土佐商会に吸収され、破綻同然だった土佐商会を後藤象二郎が岩崎弥太郎に負債と紀州の賠償金毎丸投げし、最終的に三菱財閥へ発展していくわけですから岩崎弥太郎ではないでしょうね。
どっちかというと直接的に得をした人間は大政奉還案を我が物にしようとした後藤象二郎ではないでしょうか。
賠償が決まった数日後に暗殺されたから紀州藩、というのは短絡的すぎませんかね。しかも、紀州藩としてではなく、藩士の中の憤った者ということであれば尚更です。
龍馬は、暗殺などを警戒して居場所を秘密にしていた。しかも、事件の直前に風邪をひいて、ずっと近江屋にこもっていた。つまり、意趣返しに燃える紀州藩士如きがその居場所を知ろうとしても、天文学的に不可能なんです。顔も知らない、居場所も分からない相手を、僅か数日で襲撃できるのは、あの時代では物語の中だけでしょう。
居場所を知っていたのはスポンサーだった薩摩藩でしょうが、直接手を下すはずがない。となれば、その情報をどこかに漏らしてやらせた、というのがより現実的だと思いますが。
その薩摩、一枚岩ではなかったとか
坂本龍馬のバックには、🇬🇧金融資本家がいたんじゃなったっけ?
フリーメイソンを裏切った代償として見せしめの意味もあり・・・あの殺され方をしたのではないですか?
なるほど!ガッテン!
壬生義士伝の左利きの斉藤一説に興味があります。
コメント欄含めて、みんな面白おかしく語っている。しかしこの事件にかかわった子孫にとってはどうだろうか。
旗本今井信朗の孫は共同通信部長を勤めた人だが、この事件について今井家の立場から本を書いている。
今井信郎の明治時代の偉業を称えた地元民による石碑建立式には坂本家の代表も参加した。
二十年ほど前のことなので、遠い昔の話をしているのではない。
ねずさんの歴史をあたかも目の前で起こったかのようにお伝えいただけるお話に、いつも楽しませております。
今回のお話も大変興味深く拝聴いたしました。
ただ、黒幕と実行者は別に考えられるのではないかと感じました。
私は黒幕が薩摩、実行者は中岡と、今のところ考えている者です。今回の中段の面打ち、それを龍馬に実行できたというのは、武芸の達人というよりは、油断している相手、と同時に加勢された援軍(薩摩?紀州?)という計画的暗殺のように感じました。
なぜ紀州藩が浪人集団のような龍馬たちに賠償金を支払ったのか、疑問でした。岩崎と土佐藩が関わっていたのですね。
暗殺者が二人だけというのも知りませんでした。
真実は闇の中ですが、大変興味深く拝聴しました。
坂本竜馬ー12
・黒川秀波「土藩坂本龍馬と申者、兼ねて有名家之由、闇殺に逢候由」(『黒川秀波筆記』)
・新谷道太郎「書物はあまり読まぬ方であるが、知恵は非常に鋭い人物である」[119]
・結城礼一郎「志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本が居た」
・中井庄五郎「僕は坂本氏の為めなら何時でも一命を捨てる」
・殿井力(寺田屋お登勢長女)
「べつだん人目をはばかるふうもなく現れた坂本さんを見て、険しい顔のお武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。(中略)坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平。時には大胆に玉虫色の袴などをお履きになって、一見おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落が台無し。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか。武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふり何度も不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たちが坂本さんになついてしまいました。(中略)坂本さんは昼と夜ととりちがえたようなお暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますとどこかへ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然何ヶ月もお留守。毎日毎日、判で押したように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たちは坂本さんのお帰りを心待ちにするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようでございました。母は坂本さんに対して、ずっと年上の姉か母親の様な態度で接しておりました。でも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです」
「『瑞夢』という新体詩が発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われていらっしゃいます。生前のずぼらでのんき坊主の坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さんを想像しにくうはございますが、もしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にはわからないくらいお偉い方だったのかもしれないと、弟妹たちと語り合ったものでございます」
「坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うととてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちをひきつれて私は坂本さんのお部屋におしかけましたものですが、坂本さんは『よく来た、いいものを見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲をとりだして『これは西洋のピストルというんだ。捕手が来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちをずらりと前に並べて、みぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。(中略)ただでさえ恐い顔をいっそう恐くして両手を前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気で『キャッキャッ』と叫びます。そうするときまって母が階段をかけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべんも言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか、知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽しい光景でございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません」
・岩井徳「坂本さんは本当に男らしい方でした。好きだったかどうか、オホホホ、いつも詩を吟じながらお帰りになりました」
・岡本常之助妻女「いつも無言のままでぶらりと入ってきて、用談が終わると無言で帰って行く。一言の会釈もないし、時には憎らしく見えた」
安田たまき「龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント(美少年)の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位で、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。(中略)銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」(昭和三年五月二十七日、朝日新聞記者・藤本尚則のインタビューに答えて)
・(近江屋養女)すみ「慶応三年十一月十五日でした。もう三日もあれば、殿様が大坂から京都へお着きになる。殿様がお着きになれば、拝謁が叶うて再び帰参ができ、土佐の藩邸にお引き取られになるわけで、長々厄介になった。マア喜んでくれ、わしも屋敷へ帰れるがと、私どもにもお話がございましたが、ちょうどその日に殺されたので、いかにもお気の毒でたまりません。品行はいたって正しい方で、中岡慎太郎さんなぞが来られて、おい才谷、今夜は祇園へ飲みに行こうじゃないかと誘いましても、イヤ少し調べ物があるからよそうと、二階へ閉じこもってばかりいました」
千葉佐那「土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月にふたたび私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長の許可を得たとかで、引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例のないことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門したときからずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めていい縁談をも断り、ただひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
実働部隊は京都見廻組で、京都所司代の松平容保の命を受けて手代木直右衛門が計画したと死ぬ前に告白したNHKの番組で解決したと思ってました。😲
紀州家の犯行と予想していたが、一番の利益者は土佐の山内家。土佐なら竜馬の居場所は知っているから一番怪しい。
草
中岡慎太郎も忘れちゃだめだよ
私も紀州藩が怪しいと思っているのですが、実行犯は渡辺篤の証言から大方の見解は京都見廻組なんですよね。新撰組も薩摩藩も否定しています。
桂早之助と言う西岡是心流、小太刀の達人だそうです。彼らは京都所司代同心から腕を見込まれて京都見廻組に推挙された人ですから、京都の人で
会津藩、備中浅尾藩、旗本の関係者ですから、紀州藩とは直接は関係ないんですよね。隠蔽工作する理由と真犯人が必要ですね。
バックに外国勢力(グラバー?)がいて、闇の内部を知りすぎたから、殺されたとかいう人もいて、色んな説がありますね。
※『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)は、坂本龍馬を主人公にした坂崎紫瀾の伝記小説。1883年(明治16年)に当初は新聞小説として連載され、完結後に単行本として複数の出版社から刊行された。連載当時のタイトルは『天下無双人傑海南第一伝奇 汗血千里の駒』で、筆名は「鳴々道人」である[1]。紫瀾にとって「土佐勤王党三部作」と呼ばれる作品の2作目にあたり[2]、「三部作」の中では唯一(紫瀾自身の手で)完結した作品でもある[1][注釈 1]。単行本化に際しては、編集担当者によって新聞連載時のエピソードが大きく割愛整理され、内容は同一ではない[2]。
新聞連載版
1883年1月24日から高知の自由民権派の新聞『土陽新聞』9月27日まで64回のエピソードに分ける形で連載された[1][注釈 2]。
紫瀾は『土陽新聞』の前身に当たる『高知新聞』(第2次、1880年7月5日創刊)で編集長を務め[5]、同年9月19日から翌年9月2日まで、自身初の小説とされる『南の海血しほ(お)の曙』を、72回にわたって「南國野史」の筆名で連載した[6]。土佐勤王党のメンバーを主役に幕末史を綴る内容だったが[7]、私淑していた板垣退助の東北遊説に付き添うことになり、未刊のまま中絶した[6]。この作品では坂本龍馬は連載途中の1エピソードに登場するのみで、この回の文中に「(龍馬を)後編の好材料となさんとす。因て此に其端緒を叙し暗に他日の伏線たらしむ」と紫瀾は記し、別途大きく取り上げる意図があることを示していた[8]。
紫瀾は1881年12月に高知に戻ったのち、1882年1月に「民権講釈師」の活動を開始したが、その2日目の講釈で枕に話した内容を不敬罪に問われた[9]。本作連載開始当時は公判中で、大審院での上告棄却により3月に刑が「重禁錮3か月と罰金20円、監視6か月」と確定し、3月31日から6月29日までを獄中で過ごした[9]。これに伴い、掲載は3月30日の第53回から7月10日の54回まで中断している[4]。
物語は井口村刃傷事件から始まり(龍馬の登場は第4回から)、その後に改めて龍馬の生い立ちからその活動を追う[10]。近江屋事件で龍馬が暗殺された後、徳川慶喜による大政奉還と長岡謙吉による讃岐国平定を描き、最終回(の最後)は長岡の死と関係者のその後、そして龍馬の縁者である坂本南海男が立志社で自由民権運動の遊説にあたる姿を「叔父龍馬其人の典型を遺伝したるあるを徴すべく、或は之を路易(るいす)第三世奈波侖(なぽれおん)に比すと云ふ」と描いて締めくくっている[10][11]。
新聞連載時の本作では、龍馬が登場しない回が掲載68回中26回もある[12]。特に後半(四境戦争以後)は、長岡謙吉や中岡慎太郎を取り上げて描く回が複数ある[12][10]。また「龍馬なし」の回での言及は少ないものの近藤長次郎も複数の回で登場している[12][10]。このほか、龍馬の没後も明治維新に関わり、連載当時は自由党の幹部だった板垣退助や後藤象二郎も登場する[13]。これは本作が『南の海血しほの曙』に続いて「土佐勤王党の群像劇」を描く構想の一環であったことに由来する[12]。加えて、紫瀾は『南の海血しほの曙』の段階から、土佐勤王党の活動を「下士(郷士)による封建制度への抵抗」とみなし、藩閥政府に対抗する自由民権運動をその再現とする視点を明言していた[14]。本作での板垣・後藤の登場は、彼らが土佐勤王党の継承者であることをアピールする狙いがあった[15]。知野文哉は、連載当時板垣・後藤が伊藤博文や井上馨の差し金で欧州視察に出かけたことで自由党内が紛糾・分裂状態に陥ったことがさらにその背景にあると推測した[15]。知野は、紫瀾が窮地に立った板垣・後藤に運動指導者としての「正嫡性」を与えて「批判から救済」することを意図していたと論じている[15]。
紫瀾が執筆に際して利用した情報源に関しては、木戸孝允から龍馬に宛てた書簡を坂本南海男から見せられたという内容が文中にあり[16]、坂本南海男は情報源の一つと考えられている(ただし、坂本南海男の生い立ちから、その多くが伝聞であったと推測されている)[11]。また薩長盟約に関する記述には、1872年に刊行された椒山野史の『近世史略』に言及した箇所があり、参照していたとみられる[17]。
単行本版
本作の単行本化は、連載中の1883年5月に早くも最初の15回分が駸々堂本店から刊行された[1]。さらに6月には第27回まで「古村善吉」という人物の名義で出版されている[1]。
本格的な単行本は、雑賀柳香(彩霞園柳香[18])の補綴と編集により、7月から前・後・続の3分冊で摂陽堂から刊行され(続編の刊行は10月)、1885年に春陽堂から1冊にまとめた形で再刊された[1]。この雑賀による単行本化ではタイトルが『汗血千里駒』となったほか[19]、雑賀は龍馬以外の人物に関するエピソードの多くをカットし、龍馬個人の伝記に絞る形に再編した[20]。この改変について、本作の企画展「『汗血千里の駒の世界』展」(高知市立自由民権記念館、2010年)の図録では「物語の本筋を外れた部分は削除され、文章もかなり書き換えられている。全体に整理され、読みやすくなっていることは間違いない」と肯定的な評価を下しているが[20]、紫瀾が意図した板垣・後藤が武市半平太や龍馬の遺志を継承したという部分は失われることになったと知野文哉は述べている[20]。
作中の龍馬像
本作は「無名だった龍馬を再発見し、現代に至る龍馬像の原型を形作った」とされる[21]。しかし、のちの龍馬の伝記に見られる「殺すために訪問した勝海舟の弟子になった」「薩長盟約交渉の際に、盟約を渋る西郷隆盛を龍馬が一喝して合意が実現した」「大政奉還の建言書として船中八策を構想した」といったエピソードは見られない[22]。これは執筆当時それらのエピソードが世に出ていなかったためだとされている[22]。薩長盟約に関しては、高杉晋作の功山寺挙兵を知った龍馬が薩摩藩を説得して(薩摩の拘束した)長州藩捕虜を送還させる話[注釈 3]と、長州に赴いて高杉を説得した話が龍馬の活動とされる[23]。大政奉還の建白は後藤象二郎の立案であるとして龍馬の関与は描かず、一方で慶応3年10月の二条城会議に龍馬が出席して慶喜に大政奉還を進言・説得するという(史実にない)記載がなされている[24]。
また、寺田屋遭難事件後に龍馬が妻のお龍と薩摩国で旅行する話を「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と表現したことが知られ、「龍馬が日本で最初の新婚旅行をおこなった」とする説の最初とされる[25]。
自と彼の西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん
- 「汗血千里の駒」第三十六回、『政治小説集 1』岩波書店〈新日本古典文学大系 明治編 16〉、2003年[26]
この旅行での霧島山(高千穂峰)登山を本作では「お龍と書生だけで上った」と記しており、山頂の逆鉾を抜くのもお龍である(下山後に龍馬に叱られる下りがある)[25]。これらの背景には、紫瀾が女権拡張論者であった点が指摘されており、自由婚姻論者であった紫瀾(実際にそうした論説を執筆している)が、その主張に沿って、自由恋愛で結婚して[注釈 4]西欧流の新婚旅行をし、迷信にとらわれずに振る舞うというお龍の描写につながったとされる[25]。
犯人の推察は納得するけど、中段からの面打ちでは骨は切れないのでは。
受けた鞘を削るように頭に食らってるらしいので、垂直でなく斜めに振り下ろす或いは脇差しを振りかぶって打ってるかも、若しくは鎌とか
暗殺者は左利きで刀を左側ではなく右側にに置いていたので、竜馬も中岡も油断してしまったのでは?って言うのを何かの本で読んだ
竜馬が有名になったのは司馬遼太郎の作品からだというのはおかしいですよ。私は戦前生まれですが昔から有名でしたよ。維新の人物の中ではヒーローとしての要素が多いからですよ。
中岡慎太郎説と思うと納得できます
龍馬さんは土佐藩の郷士から武器商人へと転職した人ですよね。
アメリカの南北戦争後に余った最新式の銃火器。
そこに目をつけたグラバーさんが龍馬さんを通じて維新政府へ販売。
それが倒幕のきっかけになった、そんな感じですかね。
商人のグラバーさんとしては余った所から安く買って、必要な所に高く売りたい訳ですし…
実際、長州征伐で幕府に大敗した長州藩を利用して銃火器のデモンストレーション。
結果、後の征伐では最新式の銃器によって長州藩が見事に勝利するんですよね。
そして、江戸幕府のお金を見越して、維新政府が大量の銃火器を後払いで購入し、江戸幕府の倒幕に成功。
しかし、見込んでいた江戸幕府にはお金がまったく無かった。
支払いに困った明治政府は、グラバーさんの窓口の龍馬さんを暗殺して支払い期日を煙に巻こうとした、実態はそんな感じでしょうか…
そもそも、末期とはいえ江戸幕府がたかだか長州・薩摩の二藩連合に敗れるとは考えにくいですからね。
海外勢による最新式の銃器販売戦略の一環に幕府も新政府も龍馬さんも巻き込まれた結果だと思いますよ。
その後が物語っていますが、明治政府は廃藩置県・戸籍制度・廃仏毀釈などの徹底した拝金主義政策にはしり、岩倉具視らは欧米列強と不平等な関係を次々と結んでいく訳ですから…
倒幕時の債務不履行が原因と考えるのが妥当なんでしょうかね。
坂本龍馬ー11
・井上良馨「その風貌と云えば、自分は坂本が伏見で避難の時は、遭難の場所より京都の薩摩藩邸まで坂本を護送したる一人であった。自分が高知へ行きたる時は、坂本と同船であったゆえによく覚えて居るが、丈高く、黙々多く語らず、しかもなんとなく人に敬慕されるようなところがあって、まあちょっと島村速雄に似た男であったよ」
・大浦兼武「坂本氏の如き誠忠の士、常に我が邦を冥護するにあらざるを知らんや(京都東山の贈正四位、坂本龍馬君忠魂碑)
・吉井幸蔵「ピストルは、その時代のもとしてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方は釣りとは比較にならない位うまかった」(新婚旅行時)[111]
横井小楠「坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがある。ご注意あれ」
・由利公正「(龍馬の歌声は)其の声調が頗る妙であった」
・関義臣
「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」(関義臣回顧談『海援隊の回顧』)
「龍馬の風采は躯幹五尺八寸に達し、デップリと肥って筋肉逞しく、顔色鉄の如く、額広く、始終衣服の裾をダラリと開けて胸を露して居た。一説に、母親が解任中、黒猫を愛していた所から、それにあやかったのであろう。背中にうじゃうじゃ毛が生えて居たので、どんな暑い日でも、肌を脱いだことが無い。人と共に入浴もしない。一切人に背は見せなかったというが、わしもそこまでは知らぬ。何しろ顔に黒子が多く、眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった。平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下を御すること頗る厳正で、同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが暴行を働いた時など、彼は直ちに斬って捨てた。その威信はあたかも大諸侯の如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川、花月などへ登楼し、平生の無口に似合わず、盛んに流行歌など唄う。(中略)龍馬は顔に似合わぬ、朗々、玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ、紅葉の座敷…』と、例のヨイショ節を能く唄った。よさこい節はその本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略)龍馬は小事に齷齪せず、一切辺幅を飾らず、人との交際は頗る温厚、厭味と云うもの一点もなく、婦人も馴れ、童子と親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず、散々人に饒舌らして置いて、後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し、縷々数百千言、時々滑稽を交え、自ら呵々として大笑する。誠に天真の愛嬌であった。国を出づる時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み、上に『守』の一字を書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子の如く愛すべき所があった」(『実録維新十傑』第九巻)
・下山尚 氏、状貌雄偉、眉間に黒子ある。風采閑雅、音調晴朗、一見凡夫に非るを知る」(『下山尚述記西南紀行』「龍馬越前藩士下山尚ニ大政返上策ヲ説ク」)
・香川敬三「剣客、航海学の志あり」
・住谷寅之介
「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
「頗る可愛人物也」
・東久世通禧「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前。『東久世伯爵公用雑記』)
・尾崎三良
「其頃坂本等の評判が高くなり、其頃散じ紙の新聞様のものを時々発行することがある。それを見ると、今度坂本竜馬が海援隊を壮士三百人を連れて上つたと書いてある。実際我々瘠士が僅か五、六人であると大いに笑ひたり」[112]
「あの人は経済の方に眼を着けておった人」
・大隈重信「伊藤(博文)に負けた事など問題ではないが、阪本は偉かった。維新の志士等のうちで偉いと思う者は大していなかったが阪本だけには頭が下がった」[113]
・陸奥宗光
「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」[114]
・徳富一敬「坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった」(『蘆花全集』第三巻所収「青山白雲」)
・吉田健蔵「撃剣家坂本氏」
・富田鉄之助「先生(勝海舟)に度々あって話したものは坂本だけだった。薩長連合案などは先生の説だったろうな」
・時田少輔
「龍馬は東西奔走にて、薩の意を長に、長の意を薩に告く、遂に御取結に相成」(薩長同盟について。慶応二年二月二日『吉川経幹周旋紀』)
「龍馬こと先生のお世話に相成り候義もこれある由申し居り候」(薩長同盟について。時田少輔の・木戸寛治宛書簡)
・間市太郎「終に薩長合体の基本を開く人なり」[115]
・長井長義
「僕は土州脱走人有名有志之輩、人を不殺無罪之者を御引返しに相成、かつ他藩たりとも脱藩人を養い申すべくつもりにて、諸方の脱藩人を餌付け、我者になし候策、相見え申しそ候。山師、おそろべし、おそろべし」
「(いろは丸の)船将は坂本龍馬という脱藩人なれども、かねて高名なる議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国のためと唱え、周旋おり申し候の為めなら何時でも一命を捨てる」[116]
・高柳楠之助「彼の才谷梅太郎は討幕論主唱の魁なる坂本龍馬にして、応答言論は存外正直穏当の如くなれども、中々大胆不適の人物」(『南紀徳川史』)
・日原素平「坂本先生は真に気柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった」
・広瀬丹吉「坂本先生はまことに天衣無縫で無頓着の人でありました。ボーと大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」
・高木三郎「坂本は大きな男で背中にアザがあって毛が生えてね。はあ、いっしょに湯などにも這入りましたから、ヨク知ってます。坂本は柔術を知らないものですから、先生(勝海舟)が小さくて胸の所へ、こう小さくくっついた工合は、まあ鶴がタカにちょっと止まったようで、それは見物で未だに忘れられません。坂本は文字がありません」
・三宅謙四郎「健海翁の妻曰く、坂本龍馬さんはサイサイ使いなどに行きてよく見覚えたり。姿勢あしく肩を斜に傾けタホウ(撓むこと)で、行く様に見えたり」[117]
・岡上太吉「いろんなところからまとまった金が届いてくると、そりゃ使え、とばかり、皆の前にサッと、ぜんぶ出すもんじゃから、皆が龍馬を好いてのう」(長崎にいたころ)[118]
・山川須磨「龍馬って、嫌な男でしたよ」
・信田歌之助「勝の手紙には坂本は剣術は中々つかえる、組打も上手だと書いてありましたが、さて道場に通して見ると坂本は大きな男でした。私は五尺二寸、彼の男は五尺九寸で胴も太い。立ち上がると私の口が龍馬の乳房の辺に当たるのです。双方とも若い血気の盛です。しっかりやりましょうと取組んで見ると組打は中々上手だ。(中略)実に偉い元気の男でありました」
大変勉強になりました。
千葉周作説はないですか?