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さんべが途中で止まる小郡は福岡県ではなく、山口県の現新山口駅でしょうね
エキスポドリーム号の一休さんばりのとんち戦法は凄い今の時代でも活かせそうだし
12:11皆さん指摘されていらっしゃいますが、「あきよし」の(石見)益田で切り離されて山口線を経由する編成の終点、小郡駅は現在の新山口駅の事で山口県山口市小郡(当時は小郡町)になります。福岡県小郡市の小郡駅は甘木線 筑後小郡駅(現在の甘木鉄道 小郡駅)ではございません。循環列車といえば、千葉県民には房総半島の一周した急行「みさき」「なぎさ」が有名でした。両国駅始発(一部は新宿駅始発)で、蘇我から房総東線(現在の外房線)廻りで安房鴨川に行った列車が、そのまま房総西線(現在の(内房線)廻りで蘇我に戻ってきて、そのまま両国へ帰り着くのが急行「みさき」、逆廻りが急行「なぎさ」でした。当時は房総東線大網駅が現在とは別の東金線沿いの北側に存在していて、スイッチバックの形で折り返す運行経路だったので、両国~蘇我は編成が同一方向で運用可能であり、165系急行型電車にATS機器等々を複数揃える手間が省けました。昭和47年3月ダイヤ大改正で、大網駅が現在位置に移転して循環列車運用が難しくなった事で、房総東線が同時に改称した外房線急行が「外房」安房鴨川行きに、同じく房総西線急が改称した内房線急行が「内房」館山行き(一部は千倉や安房鴨川まで行く列車も)になりました。同時に特急「わかしお」「さざなみ」に格上げされて開業した、東京駅総武本線地下ホームに乗り入れた事に隠れた逸話でした。
今回は比較的間違いないと思ったら盛大な間違いが…12:14の「小郡駅」の場所が福岡県になっていますが、間違いで、山口県の現・新山口駅が小郡駅です訂正願います因みに福岡県の小郡駅は、旧・国鉄甘木線(現・甘木鉄道線)の「筑後小郡駅」で、甘木鉄道に転換後に小郡駅に改称されましたですので、この山陰地区の「離婚・再婚列車」とは全く関係ないもので御座います
@絶対に荒らす坂口達也【再.生リスト見てね】 で
旅館業法をすり抜けるためにエキスポドリーム号を考えだした人は天才。後に別地でも応用されたのもすごい
須田さんあたりが考案したんでしょうか、いまJR東日本が同じ列車を運転したら3万円とかありそうですね。
他には佐賀県の「唐津くんち」の見物客に対応するため同様の列車が運転されていた
よみがえる金狼
夜行高速バスドリーム号(SA/PAで長時間停車) の列車版に近いような位置づけかな…
多分違うと思います。単に万博中央は2面2線で長時間停める場所がないだけ😉
実際につくば博に行った時エキスポドリーム号を利用したが、20系客車の方だったけど違和感がなかった。土浦駅を出発するとすぐに留置線に入り一夜を過ごした。寝台特急「ゆうづる」が通過するまでは起きていようとしてたが、夜間の暗さにギブアップ。朝食だったか駅弁が配布された記憶がある。万博中央駅脇の土産物ショップの方が万博会場より空いていたので、コスモ星丸の饅頭やら缶バッチやらを買い込んだものです。連節バスでつくば博会場までピストン輸送しており、今や懐かしい思い出。エキスポライナーはレアなキハ58を狙って乗車(当時上野駅に顔を出した貴重な常磐水郡線「ときわ・奥久慈」のキハ58を充当していたもの)したものです。
列車ホテル、旅館業法の縛りだったのか運賃を取らないと寝台料金を取れないからだと思いこんでいた
多層建て列車のメリットに車内間の通り抜けで乗換できる(14:10)もありますが、なにより一番のメリットは、線路容量が逼迫している区間で列車を1つにまとめることで、ダイヤに余裕ができることです。
ゆえに東北とかの列車逼迫区間や単線が多い紀勢、関西本線などでよく見られた気がしますね新幹線の場合は通り抜けができないけども、東京から大宮の線路容量が今も併結運転をする最大要因と思われる
美濃太田沿線民です。単線非電化幹線の線路容量確保が基本ですな…特急ひだ5/25/16/16号は急行「たかやま」格上げ・キハ85系への車両統一を機に現れた新しい多層建て列車。名鉄の特急「北アルプス」もキハ85系と美濃太田で連結。昔の急行「のりくら」は定期「おくみの」臨時「うなづき」「むろどう」併結や夜行金沢行の臨時珠洲乗入れ(翌日登路で金沢まで戻る)などカオスの典型でした。循環急行は後に高山線部分が「のりくら」になったとか。廃止直前にのりくら3号富山行に乗ったけど増結車高山切離しなど機動力的にカオス要素はあったなwwのりくら1/6号も末期は高山-富山間グリーン車なしのカオスっぷりだったし。
@@hirataz3 循環急行「こがね」「しろがね」以来の伝統だと思われます紀勢線もなかなかカオスでしたよ鳥羽発紀伊勝浦行とか有りましたから…
@@asakazefuji うむ。紀州・くまの・志摩・はまゆうなど気勢東線の気動車急行も個性満々。快速みえ名古屋~紀伊勝浦(急行紀州の雰囲気)や臨時特急鳥羽・勝浦の臨時復活など須田御大時代のJR東海はオモロかったでホンマ!
東北新幹線は東北本線時代からの名残ですかね?(通り抜けは出来ないけど。)関東では以前は小田急や東武でも普通に分割併合がありましたね。(特急は今でも残っていますが。)
エキスポドリーム号乗ったことありましたよ。583系で下段でした。土浦駅で乗れなくても、留置線へタクシーで行けばスタッフがお迎えしてくれました。
私は20系のエキスポドリーム号に夏休みに友達と乗りました。つくば万博閉幕前には万博中央~大宮まで583系のエキスポライナー号に乗りました。
珍ドコ列車に【マイテ49】が連結されていたのには、驚きです。かつて、模型化されていましたが、昭和時代の幻の車輛というイメージが強かったので懐かしさがこみ上げてきました。歴史を紐解いて下さりありがとうございます。
「あきよし」や「さんべ」のような運用が可能だったのは山陰線経由、山口線経由、美祢線経由の3ルートがほぼ同じ距離だったことが挙げられます。また、歴史としては最初の山陰線は今の山口線、そして美祢線が2番目の山陰線西端、更に西へ伸ばして現在の形になったそうです。
急行「大社」を紹介して欲しかった。あの珍ルートはなかなかありえない。
しかもスイッチバック3回
宮脇俊三先生が最長片道切符の旅で重宝した列車でしたね。
山陰行った際に母親に乗せてほしいとせがんだけど、呆気なく却下😵
寝台車を列車ホテルと活用すればかなり流行りそう。
引退した車両に泊まれるとこなら今でもありますよ
川上薫さん今は亡き「かいもん」「日南」は、時間調整の為「かいもん」は熊本、「日南」は大分で上下列車が長時間停車していたので、周遊券キッパーは上下列車を乗り換えるというチャレンジャーがいたそうな。
@@原田寛-e3u そういえば数年前に18キッパーがムーンライトながら降りを静岡でムーンライトながら上りに乗り換えて宿にしてるのを鉄道系youtuberがやっているのを見たことあるな
@@オザワ-g4l キックターンってやつですね大先輩方々から聞いた話、宿代浮かす為に夜行列車で途中で反対行きに乗り換えて往復して戻って来るってのを良くやったそうです
@@brt0001 さん正に私の言った話そのもので、「かいもん」「日南」を引き継いだ、「ドリームつばめ」「ドリームにちりん」でもエリア内フリーキップを使ったやり方があったらしい。
12:11 小郡駅って今の新山口なので場所が…新幹線とかの大幅遅延時の応急措置としての列車ホテル、なんていう発想はエキスポドリーム号みたいな運用があったからこういう対応もできるんだろうな、なんて考えてしまうな…。
珍ドコ列車は迷列車で行こうシリーズで知ったけど、どないしたらこんなイカれた編成考えられんねんってレベルの衝撃だった。
昭和の終わりから、平成の初期はいわゆるジョイフルトレインブームでした。なので、当時として、これは行き着くとこに行ったカタチです。これをゴハチが牽引することに意味があったんです。俺達、アラフォー世代にとって、ゴハチはヒーローでしたから。
珍ドコ列車は子供のときのプラレールを思い出すね
こういうのは復刻版時刻表を見るとよくわかるんですよね。モータリゼーション・高速道路網が発展した現代においてはもう廃線・三セク化も相俟って運転不可能になってしまいました
冒頭ででてきた名古屋富山循環列車も北半分は西日本+3セク、南半分は東海に・・・
分割から合体は湖西線と琵琶湖線と相生の赤穂線上郡方面みたいな感じだな、あとは尼崎のがんけんとつ線東西線と京都線みたいな感じだな
これも今はありませんが、東武にも「区間快速 新藤原・鬼怒川温泉・会津田島行き」っていう多層階建てもありましたね
その行先だと、途中駅で順次切り離すだけでは?浅草を6両で出て、下今市で分割して2両は日光行、4両は鬼怒川方面に進んで、東武の終点の新藤原で2両切り離し、最後の2両は野岩鉄道の会津田島まで行く列車なら乗ったことがある。杉戸町在住で足立区在勤だった頃に夜勤明けの帰りに乗った。
魔理沙さん、霊夢さん!こんにちは!その昔臨時列車では急行アルベンという循環急行列車がありました。大阪発大阪行で東海道本線、中央西線、篠ノ井線、信越本線、北陸本経由でした。どちらも中央西線は夜行で中央西線先回りは、そして松本まで全車指定席でした。車両は12系客車を使用されていて、もし今も走っていたら、ユーチューバーはこぞって乗っていて動画にあげていたかもしれません。もう当時の走行路線の内、長野から直江津経由で北陸本線の大部分が、第三セクターになっので、無理ではありますが!
急行丹後の最後は、電化に伴う特急電車デビューで廃止になったという穏やかな最期を迎えたと思う。殆どは、乗客減少の廃止が多かったからです。
そうですね。丹後は最後まで結構な本数ありました。編成も長めでした。途中からリクライニングシート装備のキハ58まで居ましたね。明日から電車特急に変わる最後の日、架線の下をキハ58達が爆走していました。最後まで国鉄急行色を堅持したのも懐かしい。
急行〔丹後〕は、よくあのカオスっぷりのままJR化後10年近くも残っていたなと思います。また、急行は末端区間で気軽に快速になったり普通になったり種別が変わるので、それもまた全容の把握困難さに拍車をかけてますね。
乗り換えアプリもない時代に間違えずに乗れるのすごい自分なら間違える自信があります
朝の宮津線からの上り丹後には、行商のおばちゃんが、よう乗っとっちゃったのを思い出した。
これは部活の合宿で一度だけ乗ったことがある「JR宮津線」が存在した3年のあいだの初年・・・
「丹後」1.5号は西舞鶴で宮津線方面行きとに分割した後、前寄り2両が同じ敦賀行きでありながら西舞鶴以東は各駅に停車するものの、1号は7号と同様に京都から乗った場合でも東舞鶴まで急行料金を徴収する仕組みだったのに対し、5号は9号と同様に京都から乗った場合でも西舞鶴まで急行料金を徴収する仕組みだったため、いかにも紛らわしかった。
申し訳ない。このコメと賛同した方達のコメに感心してからなぜか笑いがこみ上げた。東北地方同様、折角覚えた列車を明日には忘れている(笑)また時刻表見て確認してはまた忘れる。(笑)
個人的には、急行「大社」推しですw 他列車と分離併結しない点で選考漏れしたのでしょうが、ルートが意味不明すぎという点がミソでした。
「もがみ」も複雑だった!西村京太郎さんのダイヤトリックの初期作品で使われました!
急行陸中がもう意味不明ですね。当時の人、よく間違えずに乗れたものだと思います。珍ドコ列車、なにげに豪華な快速列車ですね。ぜひ乗ってみたかったです。
当時東北地方には分割併合する急行列車が今では有り得ないダイヤで運行されてました。新幹線が開業し全て廃止になり、今は東北各地から首都の仙台市に高速バスが多数運行されてます。
東北の多層建て急行はデッキのドアのあたりにに運転区間を表示したサボが付いていた。東武鉄道の快速も車内に行先表示を示した方向幕が付いていた。
@@hiroshia5789 いつから仙台が首都になったんだ?😜
@@psychedelicraspberry517県都の間違いだろ。
じいちゃんばあちゃんに会いに行く時に急行「丹後」をよく利用しました。京都~米子を走った、少し停車駅の少ない急行「白兎」もありましたね。
白兎は丹後と同じ車両なのに何故かプレミアム感ありましたね。特急「あさしお」に格上げされた後、96年電化で消滅し、智頭急行スーパーはくとで、京都復活しましたね~
急行丹後 宮津線は普通列車、西舞鶴、綾部、京都間は急行となり、私にとって、重要な路線でした。早朝の京都行は行商列車でもありました。なつかしい。ありがとうございます。
僕は45歳だけど小学生の頃だったかな。。ミステリートレインてのが何回か運行されてましたね。行き先不明な列車でまさに鉄道ファンの為に走らせた列車ですよね☺️まだJR初期中期頃は鉄道全盛期で楽しかったなぁ。。今はつまらないです。
999号ってありましたね。SLではなかったはず。
こがね・しろがねを全線乗り続けた人は偉業達成だな…。苦行に近い。
緒方湊 様同感します。が、はたしてそのようなおめでたいと云うか素っ頓狂な鉄ファンさんはいらしたのでしょうか?大分~別府~小倉~熊本~大分~別府行きのひまわりに子供時代、博多~熊本に乗り、いや父上に乗らされて時刻表見るのが楽しくて仕方なかった。おかげさまで日本中の地理を覚えました。他の多目的列車も車掌さんは案内放送に苦労されたと思います。いや遣り甲斐の方が強いかな?
キハ85辺りでイベント列車でやってくれないかなぁ〜。乗ってみたいですねぇ〜
12:10この場合の小郡駅は現在の新山口駅のことではないでしょうか?こちらは僕の思い込みかもしれませんが、岡山から鳥取なら伯備線ではなく津山線・因美線の方がしっくりくるのですが。
まあ列車の走ってた時代を鑑みれば小郡呼びの方が妥当なんじゃなかろうかね…
仰る通りで、この地図の駅の場所が間違っています小郡駅は、福岡県の小郡市の駅ではなく、現在新山口と名乗っている場所が「小郡駅」ですしかしながら、準急「しんじ」に関しては、宇野→岡山→倉敷→新見→米子…と伯備線経由で米子に向かって運行していました
福岡県小郡市の小郡駅は国鉄時代、筑後小郡駅でしたので、現新山口が正しいかと。
@@oratorio51 ご指摘ありがとうございます。では、動画の鳥取を経由していたというのは誤りですかね。
@@sakamig えっと…厳しいことを申し上げますが、本当に鉄道に詳しいのでしょうか?自ら「伯備線を経由し」と仰っておりますよね?伯備線は倉敷から新見経由し伯耆大山迄結ぶ路線です伯耆大山は米子の一個鳥取寄り。伯耆大山停車後は米子停車し、出雲市を経由し、当時の岩見益田で山口線経由と山陰本線経由を分離し下関で再び連結し博多に向かうのです因みに「あきよし」が浜田発着になったのは昭和40年9月で、この時は、岩見益田で山口線編成と美祢線編成が分離、山陽本線の厚狭駅で再び併合、更に小倉駅で美祢線編成は日田彦山線経由で天ヶ瀬へ、山口線編成は博多止まりではなく更に足を延ばして筑肥線の東唐津行となっていましたが、流石に東唐津行はやりすぎだったために、42年10月には博多行に再変更となったのです元々は昭和35年3月改正で山口~博多の準急として運行開始したのが、昭和38年6月改正で東萩~博多(美祢線経由・厚狭で併合)が追加。昭和39年10月に浜田・岩見益田~天ヶ瀬・東唐津となったが、この時は山陰側は別列車の為、岩見益田駅では07:15発に岩見益田始発の東唐津行が出発後に、07:20発の浜田から来た美祢線経由天ヶ瀬行が岩見益田駅に到着と言う複雑すぎる経緯が有ります因みに鳥取は、宇野発の「しんじ」と岡山まで併結し津山・因美線経由で準急「砂丘」が運行していましたので、もしかしたらこの事が混乱して鳥取経由する…と勘違いしたのではないかとも推測されますが、このような動画を挙げるときは二重三重のチェックされてから投稿されることを推奨いたします
列車じゃないけど青函博覧会で定期運行を廃止に成った青函連絡船が1日2往復の暫定運行して函館と青森の桟橋での夜間停泊を利用して連絡船ホテルをやってましたね、格安で利用出来て有難い運用でした、利用券は全国のみどりの窓口と旅行代理店で発売でした。
今はわかりませんが、父島で「おがさわら丸」が、繁忙期に「ホテルシップ」として同じ事してました😉
12:07 小郡が福岡の小郡市示してて草小郡駅は現在の新山口駅のことなんだけどなあ…小郡市に乗り入れてた国鉄なんて今の甘木鉄道に当たるとこだしあんなとこで折り返しできないし
1980年ブルートレインブームの頃に関西本線の『紀伊』を知り、嬉しくて見たかったけど、家の近くの関西本線を深夜2時頃に通過で小学生じゃ見に行けなかったのが心残り。
急行「丹後」よく使ってました。どの列車も通る綾部までしか使わなかったので悩むことはなかったんですが、それ以降使う人は大変だったでしょうねえ。
「さんべ」の件は再婚列車殺人事件として西村京太郎のトラベルミステリーとしての題材になっています。東北新幹線が併結れれなっているのは東北地区の急行が多層建ての列車があった名残なのかもしれませんね。
昔の技術でここまで盛んなダイヤがあって今の時代まで車両が生き残ったということは、空が増えたということが有るが、今の時代は一般化しすぎて、色々良い味の部分が衰退しているということなのかしら。。
急行「丹後」エグ。笑「高崎行き15両のうち5両が籠原止まり」ですら怯えるのに比じゃねえ。笑笑
「離婚再婚電車」とか多方面編成とか、まるで十津川警部&亀井刑事の世界だなwww♪
循環急行は北海道のいぶりもそうでしたよ。
「しろがね」、「こがね」は中部循環準急として親しまれていた。制度の変換で急行になったけど。
名古屋発紀伊半島回って天王寺行「くろしお」の間合いとして走らせた「あすか」は東和歌山(現和歌山)から阪和線杉本町→阪和貨物線→八尾から関西本線経由名古屋行で今まで定期特急で唯一奈良県を走る国鉄(JR)特急だった。利用率悪すぎて2年で廃止された
金岡→堺が特急停車駅になったきっかけの列車だったりするから世の中はわからない
自分が覚えてたのは103系のカラフル編成ですかねガキ時代・乗ったことはないのですが横浜線で走ってたの覚えてました。
貴重な情報、ありがとうございます!複数階建て列車、昔は多かったですよね?乗るには複雑だったけど、そこが魅力で良かったな!又、懐かしい情報の提供、お願いします!
急行丹後は、子供の頃から廃止になるまでよく乗りました。丹後に帰るときは、号車番号に注意して乗らないと、綾部や西舞鶴到着前に車両を移動するはめに。
名鉄774列車よりも最強クラスのカオス列車がいたとは
本題と異なりますが、いろいろな列車名と急行列車が何ともいい感じですね❗️長距離の急行列車復活して欲しい❗️
丹後は京都発で西舞鶴分割され敦賀行き急行わかさ。同じく、敦賀発わかさが西舞鶴で丹後と併結され京都行きとなっていた。わかさは自由席の編成でした。懐かしいです🐽
列車ホテルはナインドリーム甲子園号だけかと思ってたけど、エキスポドリーム号なんてのもあったんだ(^o^)
当時の山陰、紀伊半島、三陸の海岸線をゆっくり走るディーゼル急行、のんびりとした車窓、「古き良き日本」の風景が楽しめて良かっただろうな…。
下関から山陰本線で福知山まで走破した普通列車(客車)に部分的ですが乗車したのは良い思い出でした。40年以上前です。
急行那智 A寝台下段急行紀伊 グリーン車(1等車?) B寝台下段特急紀伊 B寝台下段 B寝台上段に乗ったことがあります。急行時代は、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車と様々なタイプがあったので、私は子供でしたが、とても面白かったです。特急に格上げされて、全車B寝台となったことがこの列車の寿命を縮めてしまったと思います。急行時代、確かにB寝台から売り切れが出ていたのですが、当時は夜行列車に特急も急行もないだろう、という批判も一部にはありました。全車B寝台というのは、ブルートレインとしては特別感が薄く、昼行新幹線+在来線特急くろしおに移行した人が多かったのではないでしょうか。
あと、寝台特急としては下りの亀山以遠の到着が早すぎる😵
名古屋から高山線経由で金沢へ向かった時にしろがねを使ったな。いやー、考えてみると、この企画は実におもしろい、興味深い、いいところに目をつけましたね。
塩島聖一 様コメント数からも窺えます。それも昭和20~30~40年代に生まれた方々が主様でしょう。自分自身のカオスな謎について。子供時代、八代駅に5~6両もっといたか?の青い🟦旧型客車が休んでいた。理由はのちのち知るが西鹿児島~新大阪行きの急行「しろやま」が深夜23:00、早朝6:00頃に八代駅で3両の増結・解結を行っていた。未だに分からんのは通常は熊本駅と思います。なぜゆえに八代駅なのか?今は使用しない長大ホームを見るたびに思うし懐かしい。
急行「紀伊」の前身の一つ「大和」は、寝台車1両が和歌山線和歌山市行きだと思ったのですが。「紀伊」の王寺行きは、奈良から普通列車ですね。
その通りです。当時本州・九州地区で山口以外に当時東京からの直行が無かった和歌山市に何とかして直行させたいという当時の国鉄が苦肉の策で王寺始発の各駅停車に連結して直通させたのですが、和歌山市始発は17:52で19時頃に和歌山市出ても阪和線乗ったら湊町始発の「大和」に間に合うので意味が有るのか無かったのか解らない直通でした(笑)で、「紀伊」になって短縮されたときに奈良~王寺は上下とも各駅停車扱いでした
分割併合では無いけど、急行「大社」のようにへそまがりな経由をする列車も多かったですね。当時は方眼紙にダイヤ職人がダイヤを書き込んでいたので、腕の見せ所でもあるけど、よく思いつくなぁと関心するしかない車両運用が多数・・・
12:12 この小郡はおそらく西鉄小郡ではなく、山口線の終点の小郡(現在の新山口)かと思います…
鉄道マニアしか知らない様な事ばかりで面白かったです。地元の岡山近辺のネタも多くて興味深く視聴しました😃
中学校の修学旅行で北九州に出かけた際に「さんべ」の往復を利用しました。行きは安来から博多まで山陰本線線経由で、帰りは美祢線経由でした。どのような経由をするのか事前通知もなかったことが理由不明ですが、クラスでただ一人時刻表を購入して持って行きましたので、ここで言う「離婚・再婚列車」での運行は理解できました。帰りにはどちら経由かわからず、クラスで運転台を別車両に分かれていたので、帰りにはクラスで別線を通るのではないかと期待していたことを思い出します。
末期の頃の九州ブルートレイン、24系に14系の併結、白帯・銀帯混在と走行画像みると結構凸凹感強い編成に。
口頭説明で理解するのは諦めました。でも、国鉄ってこんな面白い時代だったんだなと思いました。日本の鉄道全盛期なだけある。
趣味的には最高だけど一般的サービスは最低😢💨💨
私は「みささ」と「みまさか」の行先で、どちらが中国勝山行きか鳥取行きか紛らわしいと思いました。今なら旧国名や沿線の三朝温泉から採用された列車名で判別できますが。
当時姫新線の駅では木の札で列車の案内をしていたがそれに急行みささ、急行みまさかと縦書きに書かれていて漫才師みたいだなと思っていた。
急行陸中やっぱりきたか!迷列車で行こう速達編さん!
当時京都から福知山まで丹後に乗車した時、発車前に「この列車は福知山、和田山、豊岡方面にはまいりません」とアナウンスがあって(?_?)ってなったのを思い出しました綾部乗り換えの案内もあって無事帰れましたけど(笑)いやぁ懐かしいですね
エキスポドリーム号の時代に上野東京ラインが仮に開通していたら、東京or品川発の設定も可能だったはず。
当時のディーゼルカーは貫通幌のある連結面とない連結面でしか連結できず(なしとなしは当然だがありとありでも貫通幌をつなげない)分割併合の際はそれも考慮しなければならなかったという。
連結相手が来たときに「あーっ連結できない!」とかなりそう
分割する時に幌をどちら側の車両に残すか、ルールを決めておかないとい大変ですね。
「鉄道ジャーナル」でDC急行の幌の話が載ってたよ😉
幌だけの運用ダイヤがあったとか...
よくご存知ですなー、車両運用のみで無く、幌運用と言うのも有りました。その為に幌に機関区名も書いて有りました。例えば我が地元で亀山機関区や名古屋第一機関区では、幌にナコやカメキ等の書き込みが昔は有りました。
最後の珍どこ編成、確かにた編成がJR西の和田岬線にも入線してたの思い出した
気動車は、車体の向きが逆転しても、列車制御に必要なジャンパーと、元空気溜管がいわゆる「両栓構造」で、ブレーキ管が客貨車と同じ、連結器下をくぐるように繋ぐから、このようなカオス列車がいたのだと思います。千葉にも循環急行がいて153、165系で運用していましたが、気動車以上に運用制約が厳しい電車だったため、新宿または両国→千葉→内房線→外房線→千葉→両国または新宿と運行したら、新宿または両国→千葉→外房線→内房線→千葉→両国または新宿と反転運行していました。もちろん、この逆バージョンもありました。珍ドコ列車、まだ甘いっっっ!昔の飯田、身延、大糸線を刮目せよ!関西急電、横須賀、中央、京浜....2扉3扉でロング、セミクロスシートに、郵便荷物合造車....挙げ句、流電モハ52にサハ87、サハ75の究極な珍ドコ中の珍ドコがいたのよね。
気動車時代の外房線は大網でスイッチバックししていたから。新宿または両国→千葉→内房線→外房線→千葉→両国または新宿と回っても実は向きがちゃんと戻ってたんです。電化直前に大網のスイッチバックが解消されたから、面倒くさい事になったんですよね。
珍ドコ列車に乗ってみてぇ。今ならレアな客集まりそうじゃない。
タンゴエクスプローラーは気動車やけどね(笑)電化の場面で出てきたけど。今はタンゴエクスプローラーの車体も酷い仕打ちを受けているけど…
とても面白い解説ありがとうございました!つくば科学万博には専用の臨時列車で何度も行きましたが、1度だけ客車列車(おそらく座席を倒すと寝台にもなりそうだった気がします)にあたった事があり、もしかしてドリームエキスポの昼間運用だったのかしら?などと思ったりしました。
循環急行って各地に走ってたんですね。北海道は札幌発札幌行きの「いぶり」。他の急行と離れたりくっついたりで胆振線を走るときには1両編成。寝台列車「からまつ」も、普通列車なのに愛称がある列車でした。
寝台の発券システムの関係ですね、他に「はやたま」「山陰」「ながさき」もあった。最近だと普通になってからの「妙高」も指定券発行のために列車名が付いていた。
急行深浦、当方小学5年生の時、八戸市内の少年自然の家での臨海学校に行く時に乗ったが、そんな運用があったとはね。ちなみに、当時の時刻表見ると、当方が乗った時には、「深浦」は、上り列車のみ、青森駅前で、急行むつ4号秋田行を併結したのみでした。
BGMが鉄道唱歌でGOOD
12:12 この小郡駅は山口県の小郡駅(現・新山口駅)のことだと思いますよ!
12:24「しんじ」本体は伯備線経由なら米子は経由するけど鳥取は経由しないのでは?宇野岡山間のみ津山線因美線経由鳥取行きの「砂丘」を併結していた時期はあったようですが。
この時代の列車や運行がRUclipsにあったら物凄い数の動画になりそう今のは同じようなのをそれぞれができるだけ内容が被らないようにしてたり見せ方を変えたりて大変だろうなと思う
東北線のカオスなまでの併結運用は乗り換えの利便性というより、トータルの列車本数を減らして余裕をもたせるのが目的だったと思う。というか新幹線が無かった頃はそうしないと沢山の列車を走らせられなかった。
@絶対に荒らす坂口達也【再.生リスト見てね】 新幹線できる前の首都圏内の東北・高崎系統時刻みてみたらいい。普通列車が日中1時間に1~2本しか運転していなかったんだから。今の普通電車の本数ぐらい特急・急行運転していた。いまの新幹線に相当する特急・急行が東京~大宮間にいたんだから、これに普通列車と貨物列車が入れ込む・・・無理ありすぎ…。
増解結は西村京太郎のトリックで使われてるんだっけ?流石に陸中の増解結は複雑怪奇過ぎて無理だろうなぁ…
ネット予約もない時代にこれは乗りこなしにくかっただろうね
なお東北では増解結運用が現在も行われている模様(新幹線で)増解結はもはや伝統()←
「時刻表をよく見て乗らないと危険なんだ」列車が危険!?危険な急行丹後…。確かに危険なのに笑ってしまった。「必ず○時の◯号車にご乗車下さいね」と切符窓口で念を押されながら買っていた光景が浮かぶ。
12:12 動画で小郡駅は九州にあることになっていますが、今の新山口駅ですね。(下関出身者)
多層建て列車の急行列車(特急含む)の特徴として、併合した列車に車内乗継した後に分割した場合でも急行料金は1本の列車として通しの料金で計算できる制度がある。現在でも大阪発高山行のひだ25号と名古屋発飛騨古川行のひだ5号の併結で大阪~大垣間から飛騨古川への特急料金が通しの料金で計算されるという形で制度が残っている。
「離婚・再婚・再離婚列車」って、紹介されたルートの帰り方向も「忠実に逆手順」で走るんですか?
急行さんべの小郡って今の新山口じゃなかったけ?まあでも、カオスなので良し!(現場猫)
珍ドコれっしゃはプロ野球のオールスター戦みたい。
丹後3号で城崎に行ったコトありますよ。当時は山陰本線の旧線でしたから3時間以上かかりましたね。途中待ち合わせや分割なんかありましたね。ただあの固いボックスシートは背中がいたかったなぁ〜
国鉄時代の分割併合はまさに無茶苦茶が多かった🤗一つの会社が全国を牛耳っていたから出来ること😁赤字でもやっちゃう、今だと黒字でも面倒くさいからってやめちゃうのにね❣️ありがとうございました🙌
ここに出てくる大半の列車に乗車した経験のある「乗り鉄」です。基本的にその列車の起点から終点までの全区間に乗車し、同一名称でも行く先や経由路線が複数ある場合はその全てに全区間乗車、かつ指定席のある列車は指定席利用にしてマルス券などを“証拠”にする・・・というルールで乗り鉄していました。ですから、「珍ドコ列車」とか「エクスポドリーム」数種類の「丹後」などの指定券も保存してあります。一日しか運転しない臨時列車、イベント列車の指定券もかなりあります。余談ですが、循環列車の指定券は、乗車駅と下車駅が同じでは発券出来ないため、循環になる駅の1つ前の停車駅までの発券になっていたり、「○○1」→「○○2」(「○○」は同一の駅名)という表記になっていた。関係しそうなネタとして・・・ブルートレインの「紀伊」の名古屋駅事故の影響で、不足した電源車(スハネフ14)の代替えとして、座席車のスハフ14が相当期間連結されていて客扱いしていました。マルス発売もしていて、指定席特急券だけで利用出来ていました。相棒の「いなば」にも企画きっぷ利用の寝台車改造のため、一時的に座席車が連結されていました。仙台駅の上り「新星」と下り「八甲田」の“アーリーチェックイン”もありましたが、ブルートレイン「北陸」では一時期金沢に着いてから隣の東金沢に移動して9時位まで車内にいられる“レイトチェックアウト”のサービスをしていたこともあります。
急行から特急になって客離れが進んですぐに廃止になった列車としては、旧しらゆき金沢⇔青森がある、特急になって特急白鳥2号福井⇔青森になったが数年で廃止になった。
北海道の急行大雪・紋別・はぼろは、3か所から途中で一つになって札幌を目指す、札幌からは、深川ではぼろと分離、旭川で紋別と分離していた急行で、乗ってみたかった。今はだだっ広い深川駅のホームも、昔はこの列車の連結切り離しに使われていた。
エキスポドリーム号は学生時代に、つくば科学万博見学の際に利用したのを思い出しました。降車の際にミスタードーナツのサービス券を頂きました。 1985年は日航ジャンボ機墜落、阪神タイガース21年ぶりの優勝と色々あった年でした。 他の列車は乗ったことはありませんが。時刻表を見たり、鉄道雑誌をみたりしてその存在は知っていました。ほとんど国鉄時代と思われ、懐かしく思い出しました。
12:13小郡駅の場所が違うそっちは西鉄電車の駅
「いなば」「紀伊」の東京-名古屋-京都間の牽引機は、旧東京機関区所属のEF58の受け持ちです。
珍どこ列車は、いろいろな種類に乗れて楽しいと思います。
京都から城崎まで丹後2号(後の3号)に乗りました。京都11:03発3時間かけて城崎へ向かいます。DD54牽引の普通列車や貨物と出会い、特急まつかぜに先をゆずります。城崎温泉で泊った後、翌日天橋立に向けて乗ったのが丹後4号(だったと思う)。この列車、豊岡から宮津線に入り途中9駅連続停車する急行だったように後から知りました。天橋立観光後、迎えに来たのが丹後5号。舞鶴と綾部で進行方向が変わり、京都へ向かいました。この旅行の印象は特別に強く、今の鉄道好きもこの時から来ています。行の2号では保津峡で車窓案内がありました。
急行「さんべ」は西村京太郎トラベルミステリーの初期に映像化されましたね。犯人役は緒形拳!
上手すぎる。初めて知った
ちょっと乗って見たい列車が多かったですね。つくばエクスポ、一応、行きましたよ。
ぱっと見で夢空間みたいに色違いにしてるのかと思ったら寝台特急とジョイフルトレインのオールスター編成だったでござる
エキスポドリーム号、今となっては乗っておけば良かったと後悔してる。
私は乗っておいて良かったです。7月の夏休みに乗車して、583系に乗るか、20系に乗るか友達と話し合いましたが、20系に乗ったことがないので20系の運転日に乗りました。
さんべが途中で止まる小郡は福岡県ではなく、山口県の現新山口駅でしょうね
エキスポドリーム号の一休さんばりのとんち戦法は凄い
今の時代でも活かせそうだし
12:11
皆さん指摘されていらっしゃいますが、「あきよし」の(石見)益田で切り離されて山口線を経由する編成の終点、小郡駅は現在の新山口駅の事で山口県山口市小郡(当時は小郡町)になります。福岡県小郡市の小郡駅は甘木線 筑後小郡駅(現在の甘木鉄道 小郡駅)ではございません。
循環列車といえば、千葉県民には房総半島の一周した急行「みさき」「なぎさ」が有名でした。両国駅始発(一部は新宿駅始発)で、蘇我から房総東線(現在の外房線)廻りで安房鴨川に行った列車が、そのまま房総西線(現在の(内房線)廻りで蘇我に戻ってきて、そのまま両国へ帰り着くのが急行「みさき」、逆廻りが急行「なぎさ」でした。当時は房総東線大網駅が現在とは別の東金線沿いの北側に存在していて、スイッチバックの形で折り返す運行経路だったので、両国~蘇我は編成が同一方向で運用可能であり、165系急行型電車にATS機器等々を複数揃える手間が省けました。
昭和47年3月ダイヤ大改正で、大網駅が現在位置に移転して循環列車運用が難しくなった事で、房総東線が同時に改称した外房線急行が「外房」安房鴨川行きに、同じく房総西線急が改称した内房線急行が「内房」館山行き(一部は千倉や安房鴨川まで行く列車も)になりました。同時に特急「わかしお」「さざなみ」に格上げされて開業した、東京駅総武本線地下ホームに乗り入れた事に隠れた逸話でした。
今回は比較的間違いないと思ったら盛大な間違いが…
12:14の「小郡駅」の場所が福岡県になっていますが、間違いで、山口県の現・新山口駅が小郡駅です
訂正願います
因みに福岡県の小郡駅は、旧・国鉄甘木線(現・甘木鉄道線)の「筑後小郡駅」で、甘木鉄道に転換後に小郡駅に改称されました
ですので、この山陰地区の「離婚・再婚列車」とは全く関係ないもので御座います
@絶対に荒らす坂口達也【再.生リスト見てね】 で
旅館業法をすり抜けるためにエキスポドリーム号を考えだした人は天才。後に別地でも応用されたのもすごい
須田さんあたりが考案したんでしょうか、いまJR東日本が同じ列車を運転したら3万円とかありそうですね。
他には佐賀県の「唐津くんち」の見物客に対応するため同様の列車が運転されていた
よみがえる金狼
夜行高速バスドリーム号(SA/PAで長時間停車) の列車版に近いような位置づけかな…
多分違うと思います。単に万博中央は2面2線で長時間停める場所がないだけ😉
実際につくば博に行った時エキスポドリーム号を利用したが、20系客車の方だったけど違和感がなかった。土浦駅を出発するとすぐに留置線に入り一夜を過ごした。寝台特急「ゆうづる」が通過するまでは起きていようとしてたが、夜間の暗さにギブアップ。朝食だったか駅弁が配布された記憶がある。万博中央駅脇の土産物ショップの方が万博会場より空いていたので、コスモ星丸の饅頭やら缶バッチやらを買い込んだものです。連節バスでつくば博会場までピストン輸送しており、今や懐かしい思い出。エキスポライナーはレアなキハ58を狙って乗車(当時上野駅に顔を出した貴重な常磐水郡線「ときわ・奥久慈」のキハ58を充当していたもの)したものです。
列車ホテル、旅館業法の縛りだったのか
運賃を取らないと寝台料金を取れないからだと思いこんでいた
多層建て列車のメリットに車内間の通り抜けで乗換できる(14:10)もありますが、なにより一番のメリットは、線路容量が逼迫している区間で列車を1つにまとめることで、ダイヤに余裕ができることです。
ゆえに東北とかの列車逼迫区間や
単線が多い紀勢、関西本線などでよく見られた気がしますね
新幹線の場合は通り抜けができないけども、東京から大宮の線路容量が今も併結運転をする最大要因と思われる
美濃太田沿線民です。単線非電化幹線の線路容量確保が基本ですな…特急ひだ5/25/16/16号は急行「たかやま」格上げ・キハ85系への車両統一を機に現れた新しい多層建て列車。名鉄の特急「北アルプス」もキハ85系と美濃太田で連結。昔の急行「のりくら」は定期「おくみの」臨時「うなづき」「むろどう」併結や夜行金沢行の臨時珠洲乗入れ(翌日登路で金沢まで戻る)などカオスの典型でした。循環急行は後に高山線部分が「のりくら」になったとか。廃止直前にのりくら3号富山行に乗ったけど増結車高山切離しなど機動力的にカオス要素はあったなwwのりくら1/6号も末期は高山-富山間グリーン車なしのカオスっぷりだったし。
@@hirataz3
循環急行「こがね」「しろがね」以来の伝統だと思われます
紀勢線もなかなかカオスでしたよ鳥羽発紀伊勝浦行とか有りましたから…
@@asakazefuji うむ。紀州・くまの・志摩・はまゆうなど気勢東線の気動車急行も個性満々。快速みえ名古屋~紀伊勝浦(急行紀州の雰囲気)や臨時特急鳥羽・勝浦の臨時復活など須田御大時代のJR東海はオモロかったでホンマ!
東北新幹線は東北本線時代からの名残ですかね?(通り抜けは出来ないけど。)
関東では以前は小田急や東武でも普通に分割併合がありましたね。
(特急は今でも残っていますが。)
エキスポドリーム号乗ったことありましたよ。
583系で下段でした。
土浦駅で乗れなくても、留置線へタクシーで行けばスタッフがお迎えしてくれました。
私は20系のエキスポドリーム号に夏休みに友達と乗りました。つくば万博閉幕前には万博中央~大宮まで583系のエキスポライナー号に乗りました。
珍ドコ列車に【マイテ49】が連結されていたのには、驚きです。かつて、模型化されていましたが、昭和時代の幻の車輛というイメージが強かったので懐かしさがこみ上げてきました。歴史を紐解いて下さりありがとうございます。
「あきよし」や「さんべ」のような運用が可能だったのは山陰線経由、山口線経由、美祢線経由の3ルートがほぼ同じ距離だったことが挙げられます。また、歴史としては最初の山陰線は今の山口線、そして美祢線が2番目の山陰線西端、更に西へ伸ばして現在の形になったそうです。
急行「大社」を紹介して欲しかった。あの珍ルートはなかなかありえない。
しかもスイッチバック3回
宮脇俊三先生が最長片道切符の旅で重宝した列車でしたね。
山陰行った際に母親に乗せてほしいとせがんだけど、呆気なく却下😵
寝台車を列車ホテルと活用すればかなり流行りそう。
引退した車両に泊まれるとこなら今でもありますよ
川上薫さん
今は亡き「かいもん」「日南」は、時間調整の為「かいもん」は熊本、「日南」は大分で上下列車が長時間停車していたので、周遊券キッパーは上下列車を乗り換えるというチャレンジャーがいたそうな。
@@原田寛-e3u
そういえば数年前に18キッパーがムーンライトながら降りを静岡でムーンライトながら上りに乗り換えて宿にしてるのを鉄道系youtuberがやっているのを見たことあるな
@@オザワ-g4l キックターンってやつですね
大先輩方々から聞いた話、宿代浮かす為に夜行列車で途中で反対行きに乗り換えて往復して戻って来るってのを良くやったそうです
@@brt0001 さん
正に私の言った話そのもので、「かいもん」「日南」を引き継いだ、「ドリームつばめ」「ドリームにちりん」でもエリア内フリーキップを使ったやり方があったらしい。
12:11 小郡駅って今の新山口なので場所が…
新幹線とかの大幅遅延時の応急措置としての列車ホテル、なんていう発想はエキスポドリーム号みたいな運用があったからこういう対応もできるんだろうな、なんて考えてしまうな…。
珍ドコ列車は迷列車で行こうシリーズで知ったけど、
どないしたらこんなイカれた編成考えられんねんってレベルの衝撃だった。
昭和の終わりから、平成の初期はいわゆるジョイフルトレインブームでした。
なので、当時として、これは行き着くとこに行ったカタチです。
これをゴハチが牽引することに意味があったんです。
俺達、アラフォー世代にとって、ゴハチはヒーローでしたから。
珍ドコ列車は子供のときのプラレールを思い出すね
こういうのは復刻版時刻表を見るとよくわかるんですよね。
モータリゼーション・高速道路網が発展した現代においてはもう廃線・三セク化も相俟って運転不可能になってしまいました
冒頭ででてきた名古屋富山循環列車も北半分は西日本+3セク、南半分は東海に・・・
分割から合体は湖西線と琵琶湖線と相生の
赤穂線上郡方面みたいな感じだな、あとは尼崎のがんけんとつ線東西線と京都線みたいな感じだな
これも今はありませんが、東武にも「区間快速 新藤原・鬼怒川温泉・会津田島行き」っていう多層階建てもありましたね
その行先だと、途中駅で順次切り離すだけでは?
浅草を6両で出て、下今市で分割して2両は日光行、4両は鬼怒川方面に進んで、東武の終点の新藤原で2両切り離し、最後の2両は野岩鉄道の会津田島まで行く列車なら乗ったことがある。
杉戸町在住で足立区在勤だった頃に夜勤明けの帰りに乗った。
魔理沙さん、霊夢さん!こんにちは!その昔臨時列車では急行アルベンという循環急行列車がありました。大阪発大阪行で東海道本線、中央西線、篠ノ井線、信越本線、北陸本経由でした。どちらも中央西線は夜行で中央西線先回りは、そして松本まで全車指定席でした。車両は12系客車を使用されていて、もし今も走っていたら、ユーチューバーはこぞって乗っていて動画にあげていたかもしれません。もう当時の走行路線の内、長野から直江津経由で北陸本線の大部分が、第三セクターになっので、無理ではありますが!
急行丹後の最後は、電化に伴う特急電車デビューで廃止になったという穏やかな最期を迎えたと思う。
殆どは、乗客減少の廃止が多かったからです。
そうですね。
丹後は最後まで結構な本数ありました。編成も長めでした。
途中からリクライニングシート装備のキハ58まで居ましたね。
明日から電車特急に変わる最後の日、架線の下をキハ58達が爆走していました。
最後まで国鉄急行色を堅持したのも懐かしい。
急行〔丹後〕は、よくあのカオスっぷりのままJR化後10年近くも残っていたなと思います。
また、急行は末端区間で気軽に快速になったり普通になったり種別が変わるので、それもまた全容の把握困難さに拍車をかけてますね。
乗り換えアプリもない時代に間違えずに乗れるのすごい
自分なら間違える自信があります
朝の宮津線からの上り丹後には、行商のおばちゃんが、よう乗っとっちゃったのを思い出した。
これは部活の合宿で一度だけ乗ったことがある
「JR宮津線」が存在した3年のあいだの初年・・・
「丹後」1.5号は西舞鶴で宮津線方面行きとに分割した後、前寄り2両が同じ敦賀行きでありながら西舞鶴以東は各駅に停車するものの、1号は7号と同様に京都から乗った場合でも東舞鶴まで急行料金を徴収する仕組みだったのに対し、5号は9号と同様に京都から乗った場合でも西舞鶴まで急行料金を徴収する仕組みだったため、いかにも紛らわしかった。
申し訳ない。このコメと賛同した方達のコメに感心してからなぜか笑いがこみ上げた。
東北地方同様、折角覚えた列車を明日には忘れている(笑)
また時刻表見て確認してはまた忘れる。(笑)
個人的には、急行「大社」推しですw 他列車と分離併結しない点で選考漏れしたのでしょうが、ルートが意味不明すぎという点がミソでした。
「もがみ」も複雑だった!西村京太郎さんのダイヤトリックの初期作品で使われました!
急行陸中がもう意味不明ですね。
当時の人、よく間違えずに乗れたものだと思います。
珍ドコ列車、なにげに豪華な快速列車ですね。ぜひ乗ってみたかったです。
当時東北地方には分割併合する急行列車が今では有り得ないダイヤで運行されてました。新幹線が開業し全て廃止になり、今は東北各地から首都の仙台市に高速バスが多数運行されてます。
東北の多層建て急行はデッキのドアのあたりにに運転区間を表示したサボが付いていた。東武鉄道の快速も車内に行先表示を示した方向幕が付いていた。
@@hiroshia5789 いつから仙台が首都になったんだ?😜
@@psychedelicraspberry517
県都の間違いだろ。
じいちゃんばあちゃんに会いに行く時に急行「丹後」をよく利用しました。京都~米子を走った、少し停車駅の少ない急行「白兎」もありましたね。
白兎は丹後と同じ車両なのに何故かプレミアム感ありましたね。特急「あさしお」に格上げされた後、96年電化で消滅し、智頭急行スーパーはくとで、京都復活しましたね~
急行丹後 宮津線は普通列車、西舞鶴、綾部、京都間は急行となり、私にとって、重要な路線でした。早朝の京都行は行商列車でもありました。なつかしい。ありがとうございます。
僕は45歳だけど小学生の頃だったかな。。ミステリートレインてのが何回か運行されてましたね。
行き先不明な列車でまさに鉄道ファンの為に走らせた列車ですよね☺️
まだJR初期中期頃は鉄道全盛期で楽しかったなぁ。。今はつまらないです。
999号ってありましたね。
SLではなかったはず。
こがね・しろがねを全線乗り続けた人は偉業達成だな…。苦行に近い。
緒方湊 様
同感します。が、はたしてそのようなおめでたいと云うか素っ頓狂な鉄ファンさんはいらしたのでしょうか?
大分~別府~小倉~熊本~大分~別府行きのひまわりに子供時代、博多~熊本に乗り、いや父上に乗らされて時刻表見るのが楽しくて仕方なかった。おかげさまで日本中の地理を覚えました。
他の多目的列車も車掌さんは案内放送に苦労されたと思います。いや遣り甲斐の方が強いかな?
キハ85辺りでイベント列車でやってくれないかなぁ〜。
乗ってみたいですねぇ〜
12:10この場合の小郡駅は現在の新山口駅のことではないでしょうか?
こちらは僕の思い込みかもしれませんが、岡山から鳥取なら伯備線ではなく津山線・因美線の方がしっくりくるのですが。
まあ列車の走ってた時代を鑑みれば小郡呼びの方が妥当なんじゃなかろうかね…
仰る通りで、この地図の駅の場所が間違っています
小郡駅は、福岡県の小郡市の駅ではなく、現在新山口と名乗っている場所が「小郡駅」です
しかしながら、準急「しんじ」に関しては、宇野→岡山→倉敷→新見→米子…と伯備線経由で米子に向かって運行していました
福岡県小郡市の小郡駅は国鉄時代、筑後小郡駅でしたので、現新山口が正しいかと。
@@oratorio51
ご指摘ありがとうございます。
では、動画の鳥取を経由していたというのは誤りですかね。
@@sakamig えっと…厳しいことを申し上げますが、本当に鉄道に詳しいのでしょうか?
自ら「伯備線を経由し」と仰っておりますよね?伯備線は倉敷から新見経由し伯耆大山迄結ぶ路線です
伯耆大山は米子の一個鳥取寄り。伯耆大山停車後は米子停車し、出雲市を経由し、当時の岩見益田で山口線経由と山陰本線経由を分離し下関で再び連結し博多に向かうのです
因みに「あきよし」が浜田発着になったのは昭和40年9月で、この時は、岩見益田で山口線編成と美祢線編成が分離、山陽本線の厚狭駅で再び併合、更に小倉駅で美祢線編成は日田彦山線経由で天ヶ瀬へ、山口線編成は博多止まりではなく更に足を延ばして筑肥線の東唐津行となっていましたが、流石に東唐津行はやりすぎだったために、42年10月には博多行に再変更となったのです
元々は昭和35年3月改正で山口~博多の準急として運行開始したのが、昭和38年6月改正で東萩~博多(美祢線経由・厚狭で併合)が追加。昭和39年10月に浜田・岩見益田~天ヶ瀬・東唐津となったが、この時は山陰側は別列車の為、岩見益田駅では07:15発に
岩見益田始発の東唐津行が出発後に、07:20発の浜田から来た美祢線経由天ヶ瀬行が岩見益田駅に到着と言う複雑すぎる経緯が有ります
因みに鳥取は、宇野発の「しんじ」と岡山まで併結し津山・因美線経由で準急「砂丘」が運行していましたので、もしかしたらこの事が混乱して鳥取経由する…と勘違いしたのではないかとも推測されますが、このような動画を挙げるときは二重三重のチェックされてから投稿されることを推奨いたします
列車じゃないけど青函博覧会で定期運行を廃止に成った青函連絡船が1日2往復の暫定運行して函館と青森の桟橋での夜間停泊を利用して連絡船ホテルをやってましたね、格安で利用出来て有難い運用でした、利用券は全国のみどりの窓口と旅行代理店で発売でした。
今はわかりませんが、父島で「おがさわら丸」が、繁忙期に「ホテルシップ」として同じ事してました😉
12:07 小郡が福岡の小郡市示してて草
小郡駅は現在の新山口駅のことなんだけどなあ…小郡市に乗り入れてた国鉄なんて今の甘木鉄道に当たるとこだしあんなとこで折り返しできないし
1980年ブルートレインブームの頃に関西本線の
『紀伊』を知り、嬉しくて見たかったけど、家の近くの関西本線を深夜2時頃に通過で小学生じゃ見に行けなかったのが心残り。
急行「丹後」よく使ってました。どの列車も通る綾部までしか使わなかったので悩むことはなかったんですが、それ以降使う人は大変だったでしょうねえ。
「さんべ」の件は再婚列車殺人事件として西村京太郎のトラベルミステリーとしての題材になっています。
東北新幹線が併結れれなっているのは東北地区の急行が多層建ての列車があった名残なのかもしれませんね。
昔の技術でここまで盛んなダイヤがあって今の時代まで車両が生き残ったということは、空が増えたということが有るが、今の時代は一般化しすぎて、色々良い味の部分が衰退しているということなのかしら。。
急行「丹後」エグ。笑
「高崎行き15両のうち5両が籠原止まり」ですら怯えるのに比じゃねえ。笑笑
「離婚再婚電車」とか多方面編成とか、まるで十津川警部&亀井刑事の世界だなwww♪
循環急行は北海道のいぶりもそうでしたよ。
「しろがね」、「こがね」は中部循環準急として親しまれていた。制度の変換で急行になったけど。
名古屋発紀伊半島回って天王寺行「くろしお」の間合いとして走らせた「あすか」は東和歌山(現和歌山)から阪和線杉本町→阪和貨物線→八尾から関西本線経由名古屋行で今まで定期特急で唯一奈良県を走る国鉄(JR)特急だった。利用率悪すぎて2年で廃止された
金岡→堺が特急停車駅になったきっかけの列車だったりするから世の中はわからない
自分が覚えてたのは103系のカラフル編成ですかね
ガキ時代・乗ったことはないのですが横浜線で走ってたの覚えてました。
貴重な情報、ありがとうございます!
複数階建て列車、昔は多かったですよね?
乗るには複雑だったけど、そこが魅力で良かったな!
又、懐かしい情報の提供、お願いします!
急行丹後は、子供の頃から廃止になるまでよく乗りました。
丹後に帰るときは、号車番号に注意して乗らないと、綾部や西舞鶴到着前に車両を移動するはめに。
名鉄774列車よりも最強クラスのカオス列車がいたとは
本題と異なりますが、いろいろな列車名と急行列車が何ともいい感じですね❗️
長距離の急行列車復活して欲しい❗️
丹後は京都発で西舞鶴分割され敦賀行き急行わかさ。同じく、敦賀発わかさが西舞鶴で丹後と併結され京都行きとなっていた。
わかさは自由席の編成でした。懐かしいです🐽
列車ホテルはナインドリーム甲子園号だけかと思ってたけど、エキスポドリーム号なんてのもあったんだ(^o^)
当時の山陰、紀伊半島、三陸の海岸線をゆっくり走るディーゼル急行、のんびりとした車窓、「古き良き日本」の風景が楽しめて良かっただろうな…。
下関から山陰本線で福知山まで走破した普通列車(客車)に部分的ですが乗車したのは良い思い出でした。40年以上前です。
急行那智 A寝台下段
急行紀伊 グリーン車(1等車?) B寝台下段
特急紀伊 B寝台下段 B寝台上段
に乗ったことがあります。
急行時代は、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車と様々なタイプがあったので、私は子供でしたが、とても面白かったです。
特急に格上げされて、全車B寝台となったことがこの列車の寿命を縮めてしまったと思います。
急行時代、確かにB寝台から売り切れが出ていたのですが、当時は夜行列車に特急も急行もないだろう、という批判も一部にはありました。
全車B寝台というのは、ブルートレインとしては特別感が薄く、昼行新幹線+在来線特急くろしおに移行した人が多かったのではないでしょうか。
あと、寝台特急としては下りの亀山以遠の到着が早すぎる😵
名古屋から高山線経由で金沢へ向かった時にしろがねを使ったな。いやー、考えてみると、この企画は実におもしろい、興味深い、いいところに目をつけましたね。
塩島聖一 様
コメント数からも窺えます。それも昭和20~30~40年代に生まれた方々が主様でしょう。
自分自身のカオスな謎について。
子供時代、八代駅に5~6両もっといたか?の青い🟦旧型客車が休んでいた。
理由はのちのち知るが西鹿児島~新大阪行きの急行「しろやま」が深夜23:00、早朝6:00頃に八代駅で3両の増結・解結を行っていた。未だに分からんのは通常は熊本駅と思います。なぜゆえに八代駅なのか?今は使用しない長大ホームを見るたびに思うし懐かしい。
急行「紀伊」の前身の一つ「大和」は、寝台車1両が和歌山線和歌山市行きだと思ったのですが。「紀伊」の王寺行きは、奈良から普通列車ですね。
その通りです。
当時本州・九州地区で山口以外に当時東京からの直行が無かった和歌山市に何とかして直行させたいという当時の国鉄が苦肉の策で王寺始発の各駅停車に連結して直通させたのですが、和歌山市始発は17:52で19時頃に和歌山市出ても阪和線乗ったら湊町始発の「大和」に間に合うので意味が有るのか無かったのか解らない直通でした(笑)
で、「紀伊」になって短縮されたときに奈良~王寺は上下とも各駅停車扱いでした
分割併合では無いけど、急行「大社」のようにへそまがりな経由をする列車も多かったですね。
当時は方眼紙にダイヤ職人がダイヤを書き込んでいたので、腕の見せ所でもあるけど、よく思いつくなぁと関心するしかない車両運用が多数・・・
12:12 この小郡はおそらく西鉄小郡ではなく、山口線の終点の小郡(現在の新山口)かと思います…
鉄道マニアしか知らない様な事ばかりで面白かったです。地元の岡山近辺のネタも多くて興味深く視聴しました😃
中学校の修学旅行で北九州に出かけた際に「さんべ」の往復を利用しました。行きは安来から博多まで山陰本線線経由で、帰りは美祢線経由でした。どのような経由をするのか事前通知もなかったことが理由不明ですが、クラスでただ一人時刻表を購入して持って行きましたので、ここで言う「離婚・再婚列車」での運行は理解できました。帰りにはどちら経由かわからず、クラスで運転台を別車両に分かれていたので、帰りにはクラスで別線を通るのではないかと期待していたことを思い出します。
末期の頃の九州ブルートレイン、24系に14系の併結、白帯・銀帯混在と走行画像みると結構凸凹感強い編成に。
口頭説明で理解するのは諦めました。
でも、国鉄ってこんな面白い時代だったんだなと思いました。日本の鉄道全盛期なだけある。
趣味的には最高だけど一般的サービスは最低😢💨💨
私は「みささ」と「みまさか」の行先で、どちらが中国勝山行きか鳥取行きか紛らわしいと思いました。今なら旧国名や沿線の三朝温泉から採用された列車名で判別できますが。
当時姫新線の駅では木の札で列車の案内をしていたがそれに急行みささ、急行みまさかと縦書きに書かれていて漫才師みたいだなと思っていた。
急行陸中やっぱりきたか!
迷列車で行こう速達編さん!
当時京都から福知山まで丹後に乗車した時、発車前に「この列車は福知山、和田山、豊岡方面にはまいりません」とアナウンスがあって(?_?)
ってなったのを思い出しました
綾部乗り換えの案内もあって無事帰れましたけど(笑)いやぁ懐かしいですね
エキスポドリーム号の時代に上野東京ラインが仮に開通していたら、東京or品川発の設定も可能だったはず。
当時のディーゼルカーは貫通幌のある連結面とない連結面でしか連結できず(なしとなしは当然だがありとありでも貫通幌をつなげない)分割併合の際はそれも考慮しなければならなかったという。
連結相手が来たときに「あーっ連結できない!」とかなりそう
分割する時に幌をどちら側の車両に残すか、ルールを決めておかないとい大変ですね。
「鉄道ジャーナル」でDC急行の幌の話が載ってたよ😉
幌だけの運用ダイヤがあったとか...
よくご存知ですなー、車両運用のみで無く、幌運用と言うのも有りました。その為に幌に機関区名も書いて有りました。例えば我が地元で亀山機関区や名古屋第一機関区では、幌にナコやカメキ等の書き込みが昔は有りました。
最後の珍どこ編成、確かにた編成が
JR西の和田岬線にも入線してたの思い出した
気動車は、車体の向きが逆転しても、列車制御に必要なジャンパーと、元空気溜管がいわゆる「両栓構造」で、ブレーキ管が客貨車と同じ、連結器下をくぐるように繋ぐから、このようなカオス列車がいたのだと思います。
千葉にも循環急行がいて153、165系で運用していましたが、気動車以上に運用制約が厳しい電車だったため、
新宿または両国→千葉→内房線→外房線→千葉→両国または新宿
と運行したら、
新宿または両国→千葉→外房線→内房線→千葉→両国または新宿
と反転運行していました。もちろん、この逆バージョンもありました。
珍ドコ列車、まだ甘いっっっ!
昔の飯田、身延、大糸線を刮目せよ!
関西急電、横須賀、中央、京浜....
2扉3扉でロング、セミクロスシートに、郵便荷物合造車....
挙げ句、流電モハ52にサハ87、サハ75の究極な珍ドコ中の珍ドコがいたのよね。
気動車時代の外房線は大網でスイッチバックししていたから。
新宿または両国→千葉→内房線→外房線→千葉→両国または新宿と回っても実は向きがちゃんと戻ってたんです。
電化直前に大網のスイッチバックが解消されたから、面倒くさい事になったんですよね。
珍ドコ列車に乗ってみてぇ。今ならレアな客集まりそうじゃない。
タンゴエクスプローラーは気動車やけどね(笑)電化の場面で出てきたけど。今はタンゴエクスプローラーの車体も酷い仕打ちを受けているけど…
とても面白い解説ありがとうございました!つくば科学万博には専用の臨時列車で何度も行きましたが、1度だけ客車列車(おそらく座席を倒すと寝台にもなりそうだった気がします)にあたった事があり、もしかしてドリームエキスポの昼間運用だったのかしら?などと思ったりしました。
循環急行って各地に走ってたんですね。北海道は札幌発札幌行きの「いぶり」。他の急行と離れたりくっついたりで
胆振線を走るときには1両編成。
寝台列車「からまつ」も、普通列車なのに愛称がある列車でした。
寝台の発券システムの関係ですね、他に「はやたま」「山陰」「ながさき」もあった。最近だと普通になってからの「妙高」も指定券発行のために列車名が付いていた。
急行深浦、当方小学5年生の時、八戸市内の少年自然の家での臨海学校に行く時に乗ったが、そんな運用があったとはね。ちなみに、当時の時刻表見ると、当方が乗った時には、「深浦」は、上り列車のみ、青森駅前で、急行むつ4号秋田行を併結したのみでした。
BGMが鉄道唱歌でGOOD
12:12 この小郡駅は山口県の小郡駅(現・新山口駅)のことだと思いますよ!
12:24「しんじ」本体は伯備線経由なら米子は経由するけど鳥取は経由しないのでは?宇野岡山間のみ津山線因美線経由鳥取行きの「砂丘」を併結していた時期はあったようですが。
この時代の列車や運行がRUclipsにあったら物凄い数の動画になりそう
今のは同じようなのをそれぞれができるだけ内容が被らないようにしてたり見せ方を変えたりて大変だろうなと思う
東北線のカオスなまでの併結運用は乗り換えの利便性というより、トータルの列車本数を減らして余裕をもたせるのが目的だったと思う。というか新幹線が無かった頃はそうしないと沢山の列車を走らせられなかった。
@絶対に荒らす坂口達也【再.生リスト見てね】 新幹線できる前の首都圏内の東北・高崎系統時刻みてみたらいい。普通列車が日中1時間に1~2本しか運転していなかったんだから。今の普通電車の本数ぐらい特急・急行運転していた。いまの新幹線に相当する特急・急行が東京~大宮間にいたんだから、これに普通列車と貨物列車が入れ込む・・・無理ありすぎ…。
増解結は西村京太郎のトリックで使われてるんだっけ?
流石に陸中の増解結は複雑怪奇過ぎて無理だろうなぁ…
ネット予約もない時代にこれは乗りこなしにくかっただろうね
なお東北では増解結運用が
現在も行われている模様(新幹線で)
増解結はもはや伝統()←
「時刻表をよく見て乗らないと危険なんだ」列車が危険!?危険な急行丹後…。確かに危険なのに笑ってしまった。「必ず○時の◯号車にご乗車下さいね」と切符窓口で念を押されながら買っていた光景が浮かぶ。
12:12 動画で小郡駅は九州にあることになっていますが、今の新山口駅ですね。(下関出身者)
多層建て列車の急行列車(特急含む)の特徴として、併合した列車に車内乗継した後に分割した場合でも急行料金は1本の列車として通しの料金で計算できる制度がある。現在でも大阪発高山行のひだ25号と名古屋発飛騨古川行のひだ5号の併結で大阪~大垣間から飛騨古川への特急料金が通しの料金で計算されるという形で制度が残っている。
「離婚・再婚・再離婚列車」って、紹介されたルートの帰り方向も「忠実に逆手順」で走るんですか?
急行さんべの小郡って今の新山口じゃなかったけ?まあでも、カオスなので良し!(現場猫)
珍ドコれっしゃはプロ野球のオールスター戦みたい。
丹後3号で城崎に行ったコトありますよ。当時は山陰本線の旧線でしたから3時間以上かかりましたね。途中待ち合わせや分割なんかありましたね。ただあの固いボックスシートは背中がいたかったなぁ〜
国鉄時代の分割併合はまさに無茶苦茶が多かった🤗一つの会社が全国を牛耳っていたから出来ること😁赤字でもやっちゃう、今だと黒字でも面倒くさいからってやめちゃうのにね❣️ありがとうございました🙌
ここに出てくる大半の列車に乗車した経験のある「乗り鉄」です。基本的にその列車の起点から終点までの全区間に乗車し、同一名称でも行く先や経由路線が複数ある場合はその全てに全区間乗車、かつ指定席のある列車は指定席利用にしてマルス券などを“証拠”にする・・・というルールで乗り鉄していました。ですから、「珍ドコ列車」とか「エクスポドリーム」数種類の「丹後」などの指定券も保存してあります。一日しか運転しない臨時列車、イベント列車の指定券もかなりあります。
余談ですが、循環列車の指定券は、乗車駅と下車駅が同じでは発券出来ないため、循環になる駅の1つ前の停車駅までの発券になっていたり、「○○1」→「○○2」(「○○」は同一の駅名)という表記になっていた。
関係しそうなネタとして・・・
ブルートレインの「紀伊」の名古屋駅事故の影響で、不足した電源車(スハネフ14)の代替えとして、座席車のスハフ14が相当期間連結されていて客扱いしていました。マルス発売もしていて、指定席特急券だけで利用出来ていました。相棒の「いなば」にも企画きっぷ利用の寝台車改造のため、一時的に座席車が連結されていました。
仙台駅の上り「新星」と下り「八甲田」の“アーリーチェックイン”もありましたが、ブルートレイン「北陸」では一時期金沢に着いてから隣の東金沢に移動して9時位まで車内にいられる“レイトチェックアウト”のサービスをしていたこともあります。
急行から特急になって客離れが進んですぐに廃止になった列車としては、旧しらゆき金沢⇔青森がある、特急になって特急白鳥2号福井⇔青森になったが数年で廃止になった。
北海道の急行大雪・紋別・はぼろは、3か所から途中で一つになって札幌を目指す、札幌からは、深川ではぼろと分離、旭川で紋別と分離していた急行で、乗ってみたかった。今はだだっ広い深川駅のホームも、昔はこの列車の連結切り離しに使われていた。
エキスポドリーム号は学生時代に、つくば科学万博見学の際に利用したのを思い出しました。降車の際にミスタードーナツのサービス券を
頂きました。 1985年は日航ジャンボ機墜落、阪神タイガース21年ぶりの優勝と色々あった年でした。
他の列車は乗ったことはありませんが。時刻表を見たり、鉄道雑誌をみたりしてその存在は知っていました。ほとんど国鉄時代と思われ、懐かしく思い出しました。
12:13小郡駅の場所が違うそっちは西鉄電車の駅
「いなば」「紀伊」の東京-名古屋-京都間の牽引機は、旧東京機関区所属のEF58の受け持ちです。
珍どこ列車は、いろいろな種類に乗れて楽しいと思います。
京都から城崎まで丹後2号(後の3号)に乗りました。京都11:03発3時間かけて城崎へ向かいます。DD54牽引の普通列車や貨物と出会い、特急まつかぜに先をゆずります。城崎温泉で泊った後、翌日天橋立に向けて乗ったのが丹後4号(だったと思う)。この列車、豊岡から宮津線に入り途中9駅連続停車する急行だったように後から知りました。天橋立観光後、迎えに来たのが丹後5号。舞鶴と綾部で進行方向が変わり、京都へ向かいました。この旅行の印象は特別に強く、今の鉄道好きもこの時から来ています。行の2号では保津峡で車窓案内がありました。
急行「さんべ」は西村京太郎トラベルミステリーの初期に映像化されましたね。
犯人役は緒形拳!
上手すぎる。初めて知った
ちょっと乗って見たい列車が多かったですね。つくばエクスポ、一応、行きましたよ。
ぱっと見で夢空間みたいに色違いにしてるのかと思ったら寝台特急とジョイフルトレインのオールスター編成だったでござる
エキスポドリーム号、今となっては乗っておけば良かったと後悔してる。
私は乗っておいて良かったです。7月の夏休みに乗車して、583系に乗るか、20系に乗るか
友達と話し合いましたが、20系に乗ったことがないので20系の運転日に乗りました。