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お疲れ様です。3月11日に徳島の善入寺島に行って来ました。なるほど、幅広い吉野川が天然の濠になり、女王の王宮にはピッタシの環境だと思いました。車がないから中洲全域を廻ることはできませんでしたが、邪馬台国の中心はあそこであると信じます。
何時も楽しみに見ています!東道神社はお氣の毒ですね!東の端に追いやられて 本当は大事な神社なのに、、いかがし神社の境内には 崇神天皇をお祀りしている王子神社がありますね!阿波は誇らしいです!
行きましたよ~凄い神々しいところでした~🌠けっし8代は無かったのでしょうね😂😂😂
古事記の世界が阿波だったということにはとても興味があるのですが、仁徳天皇や應神天皇の巨大な古墳が大阪に存在していることはどういう解釈をされているのでしょうか。
宮内庁はこれらの陵墓の内部の調査を許可していないはずですが、、、これが仁徳天皇陵、これが応神天皇陵という確証はどこにあるのでしょうか?
@@takaokamm ありがとうございます。私も確かにそれぞれの古墳に埋葬されている人物を特定することはできないと思っています。そこで、それぞれの古墳を造った人々と阿波の政権関係はどのように解釈されているのかここが最もお聞きしたいところです。だれの古墳かではなくなぜ何の目的で阿波の政権が大阪にあの巨大な物を造ったのか、どのようなご見解をお持ちなのかをぜひお聞かせください。
@@budaibaseball 仁徳天皇に関していいますと、生没年は西暦257年~399年没、在位年数87年、寿命142才という、当時の平均寿命45~50才よりとんでもない長寿となっています。(中国は東普、北魏の時代) おそらく欽明天皇の時代前後に、中国の隋王朝に対して、日本の国の歴史をさも長大にみせる為、「神武天皇紀元前660年」まで引き延ばしたのにあわせて、仁徳天皇の生没年等も、「春秋暦」を使って、それぞれ倍の数字にした可能性があります。(ほぼ定説)それはともかく、仁徳天皇六十七年十月に河内の石津原に陵地を定め、二週間で「陵」を築いたと書かれています。しかし仁徳天皇記の最後に「仁徳天皇八十七年(399年)一月崩御された」と追記されています。六十七年に「陵」を築いたはずなのに二十年後に崩御というのはちょっとつじつまがあわない気がします。さらに古墳の分析では、仁徳天皇古墳の築造は550年頃となっており、死後150年も経ってだれが築造したか不明です。(聖徳太子の前の時代) ただ、その頃は、朝鮮半島の任那、伽耶が滅亡寸前で在り、対外国の国防、国威発揚意識が高まっていたので、海外からくる来客に、国の威信を見せつける為、大坂湾から奈良に向かう途中に葺き石でギンギラの巨大古墳を築造したと思われます。 国威発揚は良いのですが、肝腎の奈良の都は710年の平城京からであり、それまでのおもな宮都は阿波にありました。雄略~継体天皇までの宮は一部奈良盆地の北部にはあったと思いますが、詳細は未検証です。仁徳天皇古墳ができた事は、奈良盆地はまだ中央部が干上がりつつある奈良湖であり、生駒とか周辺部に新興の渡来系集落ができはじめた頃だと思います。つまり、奈良に大規模な宮城ができてないまま、小規模な天皇の宮はいくつかある状態で、大坂湾から奈良に至る大和川流域に、焦って巨大古墳を築いたのではと思います。仁徳天皇陵は江戸時代中期に盗掘されていますが、被葬者の特定はされておらず、また墳丘墓の等高線も乱れており、急造で作り上げ、不完全なまま放置されたようです。
Mitsuo Takaoka 2023.6.25.本音と建て前がぶつかりあっていたという事もあったかもしれません。建前: 中国、朝鮮の国々になめられてはいけない。隋なみの首都つくりは必要だ。本音:干上がったばかりの奈良の周辺は、ちょっと前まで人食い狼が跋扈していた土地であり、水田もあまりなく、新鮮な魚介類も奈良盆地では取れない、塩もない。特に天皇家は「四つ足」「生もの」は食べてはいけないという暗黙のルールがあります。さらに新鮮な魚介類も取れないとなると、食べていくのも大変である。といった事情があり、遷都賛成派(主に藤原不比等)、反対派(各天皇、豪族)でそうとう議論が続いたと思われます。(550~700年頃)
@@takaokamm 詳細な解説をいただき感謝いたします。とても参考になります。私も約30年趣味で古代史の文献を漁り頭の体操をしてきました。きっかけは大杉博さんの著書「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」でした。私は邪馬䑓国の中心地は阿波であったという仮説を実証する証拠を集めているところです。takaoka様の動画はこの上ないありがたい史料です。これからも動画を楽しみにしております。
ほんと、天津神の系譜の神を祀る神社に品格のない明神鳥居や赤く塗ったくった鳥居を置くのはやめてほしいものです。また、牛を置くのは理解ができますが、なぜ、外来種の青龍、朱雀、白虎、玄武を置くのか誰得の影響なのか意味が分かりません。本来の訳も分からず余計なものに置けば、神力は穢れます。四神などむしろ、四方ある外来種によって、本来の神々の力が封じられているやにも思えてなりません。
お疲れ様です。3月11日に徳島の善入寺島に行って来ました。
なるほど、幅広い吉野川が天然の濠になり、女王の王宮にはピッタシの環境だと思いました。
車がないから中洲全域を廻ることはできませんでしたが、邪馬台国の中心はあそこであると信じます。
何時も楽しみに見ています!
東道神社はお氣の毒ですね!
東の端に追いやられて 本当は大事な神社なのに、、
いかがし神社の境内には 崇神天皇をお祀りしている
王子神社がありますね!
阿波は誇らしいです!
行きましたよ~凄い神々しいところでした~🌠けっし8代は無かったのでしょうね😂😂😂
古事記の世界が阿波だったということにはとても興味があるのですが、仁徳天皇や應神天皇の巨大な古墳が
大阪に存在していることはどういう解釈をされているのでしょうか。
宮内庁はこれらの陵墓の内部の調査を許可していないはずですが、、、これが仁徳天皇陵、これが応神天皇陵という確証はどこにあるのでしょうか?
@@takaokamm ありがとうございます。
私も確かにそれぞれの古墳に埋葬されている人物を特定することはできないと思っています。
そこで、それぞれの古墳を造った人々と阿波の政権関係はどのように解釈されているのか
ここが最もお聞きしたいところです。
だれの古墳かではなくなぜ何の目的で阿波の政権が大阪にあの巨大な物を造ったのか、どのようなご見解をお持ちなのかをぜひお聞かせください。
@@budaibaseball 仁徳天皇に関していいますと、生没年は西暦257年~399年没、在位年数87年、寿命142才という、当時の平均寿命45~50才よりとんでもない長寿となっています。(中国は東普、北魏の時代) おそらく欽明天皇の時代前後に、中国の隋王朝に対して、日本の国の歴史をさも長大にみせる為、「神武天皇紀元前660年」まで引き延ばしたのにあわせて、仁徳天皇の生没年等も、「春秋暦」を使って、それぞれ倍の数字にした可能性があります。(ほぼ定説)
それはともかく、仁徳天皇六十七年十月に河内の石津原に陵地を定め、二週間で「陵」を築いたと書かれています。しかし仁徳天皇記の最後に「仁徳天皇八十七年(399年)一月崩御された」と追記されています。六十七年に「陵」を築いたはずなのに二十年後に崩御というのはちょっとつじつまがあわない気がします。さらに古墳の分析では、仁徳天皇古墳の築造は550年頃となっており、死後150年も経ってだれが築造したか不明です。(聖徳太子の前の時代)
ただ、その頃は、朝鮮半島の任那、伽耶が滅亡寸前で在り、対外国の国防、国威発揚意識が高まっていたので、海外からくる来客に、国の威信を見せつける為、大坂湾から奈良に向かう途中に葺き石でギンギラの巨大古墳を築造したと思われます。 国威発揚は良いのですが、肝腎の奈良の都は710年の平城京からであり、それまでのおもな宮都は阿波にありました。
雄略~継体天皇までの宮は一部奈良盆地の北部にはあったと思いますが、詳細は未検証です。仁徳天皇古墳ができた事は、奈良盆地はまだ中央部が干上がりつつある奈良湖であり、生駒とか周辺部に新興の渡来系集落ができはじめた頃だと思います。
つまり、奈良に大規模な宮城ができてないまま、小規模な天皇の宮はいくつかある状態で、大坂湾から奈良に至る大和川流域に、焦って巨大古墳を築いたのではと思います。
仁徳天皇陵は江戸時代中期に盗掘されていますが、被葬者の特定はされておらず、また
墳丘墓の等高線も乱れており、急造で作り上げ、不完全なまま放置されたようです。
Mitsuo Takaoka 2023.6.25.
本音と建て前がぶつかりあっていたという事もあったかもしれません。
建前: 中国、朝鮮の国々になめられてはいけない。隋なみの首都つくりは必要だ。
本音:干上がったばかりの奈良の周辺は、ちょっと前まで人食い狼が跋扈していた土地であり、
水田もあまりなく、新鮮な魚介類も奈良盆地では取れない、塩もない。
特に天皇家は「四つ足」「生もの」は食べてはいけないという暗黙のルールがあります。
さらに新鮮な魚介類も取れないとなると、食べていくのも大変である。
といった事情があり、遷都賛成派(主に藤原不比等)、反対派(各天皇、豪族)でそうとう議論が続いたと思われます。(550~700年頃)
@@takaokamm 詳細な解説をいただき感謝いたします。とても参考になります。
私も約30年趣味で古代史の文献を漁り頭の体操をしてきました。きっかけは大杉博さんの著書「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」でした。私は邪馬䑓国の中心地は阿波であったという仮説を実証する証拠を集めているところです。takaoka様の動画はこの上ないありがたい史料です。これからも動画を楽しみにしております。
ほんと、天津神の系譜の神を祀る神社に品格のない明神鳥居や赤く塗ったくった鳥居を置くのはやめてほしいものです。
また、牛を置くのは理解ができますが、なぜ、外来種の青龍、朱雀、白虎、玄武を置くのか誰得の影響なのか意味が分かりません。
本来の訳も分からず余計なものに置けば、神力は穢れます。
四神などむしろ、四方ある外来種によって、本来の神々の力が封じられているやにも思えてなりません。