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素晴らしい!
戦後に歌われた正田正子さんの、みかんの花咲く丘は何度聞いても心にしみる曲で昔の風景が忍ばれてなりません
川田正子さんですよ(笑)。 2024.09.12 21:32
これをラジオで聞いた世代です。懐かしいですねえ!
こんな素晴らしい歌を何故もっとラジオやテレビ局で取り上げてくれないのか、今の時代にこそ大切な歌です。マスコミの皆さん、よろしくお願いします🙇⤵️
幸子さん、コメントありがとうございます!ホントに同感です!この歌を流す度にデイサービスは大合唱に包まれます!日本の戦後は、リンゴとミカンで始まったと言われているそうです。リンゴは言わずと知れたサトウハチロー作詞の『リンゴの唄』。かたや、『みかんの花咲く丘』を作詞した「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾は、サトウハチローの後輩。当時『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、みかんの実の方を扱えば加藤の先輩にあたるサトウ・ハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われるおそれがあったとか。8月はみかんは実がなっている季節であったが、あえて実ではなく、花の方を主題とすることに決めたそうです。「ヰキペディア」より。
y0u Tube の時代に生きていることに 感謝です。小生 御年 75歳です。
御年??これを自分に言うか?自分に “御” をつけるのか?あなたは敬語を知らないね?アーッ 恥ずかしいよ!これは、自分以外に遣(つか) う言葉だよ。なんという無知だよ!
もう40です。幼い頃に母や祖母が手遊びをしながらよく歌ってくれた曲。今は私が娘たちと手遊びしながら歌っています。ほんと、綺麗な声。心があらわれるようです。
手遊びの曲でお馴染みですね❤
川田さんの歌唱力につい涙が出てきます。今の時代にこそ大切にしたい歌ですね🎵
気持ちは同じです。あなたの言われることが全くその通りです。
感激して涙が止まらないです!12歳の川田正子さんが見れるとは。
ほんとに素晴らしい歌声!川田正子ちゃんのファンになりました!
今、16歳です。幼い頃祖母とレコードで聞きました。とても、あたたかい記憶が蘇ります。「優しい母さん思われる」という歌詞に、いつも心がギュッと痛くなっていました。大切な人との些細な時が、一番幸せだと思っているので、情景を想像しただけで泣けてきます。いつまでも生きている人間なんていませんから、家族への感謝を日々忘れずに、大切に生きていきたいと思います。この歌を聴き、初心に返ってみると、こうして生きていられることがどれだけ幸せか、家族が側にいるのがどれほど幸せなのか、感謝すべきことがたくさんあることに気づかせてもらえました。また心がすさんできたら、聴きにきたいと思います。人としての大切な感情を、思い出せるので。
この歌を聞く自分が子供👧の事が懐かしいい海の住んでなかったが山🗻育ちで山に行ってやまびこのようによく歌っていた山からこたえる歌がかえってあの頃は楽しいかった童謡ふるさと又懐かしいねでもどの歌最高です童謡歌とあの頃が浮かびます
好きな歌です川田正子さん。一生を歌で貫かれて素晴らしいと思います❤当時は少女雑誌やラジオ放送で色んな人を知りかわいい童謡を覚えて育ちました❤懐かしく感謝🙏です🥲思い出が甦ります❤
昭和21年、わたしが、生まれた年、母は2年の後、亡くなったけど素晴らしい歌。
コメント!ありがとうございます!なかなか返信ができず、申し訳ありませんでした。素晴らしい童謡ですよね!僕は学校で歌った記憶はないです。職場のデイサービスの方々との交流を通して知りました。
母の実家の新橋、南佐久間町の長屋で育った幼少時代、川田正子さんの「みかんの花咲く丘」のSP盤を手回しの蓄音機でよく聴いていた。昭和21年のレコードだったことも知らなかったが、僕が4、5歳の頃に良く聴いていた昭和31~32年頃の記憶が甦ってきた。そう、玄関で蓄音機を回していた。祖母も、母も、もうとっくに亡くなり、このSP盤のレコードも、蓄音機も、50年以上前に紛失し処分していたが、こうやってまた聴けるとは・・・。しかもこの動画のそれぞれのイラストが、この曲を聴きながら頭に想い浮かべていたイメージとそっくりなので驚いている。感謝しています。
これがオリジナルですね。 配信を、ありがとうございます。
始めまして。今晩は、最近は、朝晩涼しく成りましたね。突然ですが、みかんの咲く丘の歌は。今は亡き、私の、親父の、3番目の叔母さんの、好きな歌でしたね。又、この歌を聞きますと、叔母さんを、思い出しますね。では、此の辺で失礼致します。令和四年、10月、6日、🤔
あさかはじめ様、素敵なコメントをありがとうございます!小生の母は、昭和2年生まれでしたが、乳ガンに罹り42歳の若さで他界しました。きっと母もこの歌が大好きだったろうな、と勝手に思っています。
涙が出そうになる。懐かしい!😢私のふるさとの景色じゃないのに・・・日本人の心に生まれた景色なんだろうか・・・?
昨年、初めて一人で丘から海を、見ました❗️
母(昭和二年生まれ)が生存中に唯一私の前で唄った歌です。それは「いつか来た丘母さんと」と全く同じシチュエーションでした。海ではなく琵琶湖でしたが、母と幼い(七歳頃の)私が家業の鶏肉製造販売(零細個人経営)でアポイントの無い行商中でした。その日は全く売れなくて、人里離れた琵琶湖を見渡せる人家に行って唯一買ってくれた帰り道だったことを今でも思い出します。人の優しさに母も嬉しかったんでしょうね!
なんて、素晴らしい記憶の光景でしょうか!!そしてこの歌を貴方に歌ってくれたお母さんの優しさ・・・。涙が出ます。
素晴らしい
この懐かしい歌、父母を思い出し、涙が出てきて止まりません。和歌山のみかん農家で育った私は11月から12月にかけてが繁忙期で、中学生の頃から段々畑のみかん採りをよく手伝いました。 優しかった父母と一緒に段々畑から青い海を眺めながら、お弁当を食べた記憶が甦ります。あの頃は腕力、脚力勝負の、今から思えばとてもハードな作業でした。
子供らしく素直に歌ってて良いね。
コメント!ありがとうございます!返信がたいへん遅れて申し訳ありませんでした。川田正子ちゃんは、声変わりして一旦「引退」をしてしまいましたが、この頃の声は最高ですね!
みかんの花咲く丘ほんとに懐かしいね❗静岡県に住んでる私は幼少期ずっと聴いて育ちましたから…そうそうワカメちゃんのような髪型あの頃流行りましたね.私もそうでした😅
何故か、胸にぐっと熱いものが込み上げてくるような歌声ですね。懐かしいし、素晴らしい。
同感です
今日、熊本で海沼実さんが音羽ゆりかご会創立90周年 コンサートでいらっしゃいました。さすがでした✨音羽ゆりかご会の可愛さと、可愛い歌声に正子さんの歌声が重なり、思わず涙が出ました。😂
コメントありがとうございます!海沼 実さんは「童謡の神様」と呼ばれた作曲家・海沼 實(かいぬま みのる)のお孫さんですよね。川田正子さんの当時の歌声は、本当に素晴らしいです!特に三番の歌詞では、僕が中学生の頃に他界した昭和2年生まれの母を思い出してしまって、なんかジーンときてしまいます。海沼 實が創設した日本初の児童合唱団「音羽ゆりかご会」についても、ちゃんと解説動画作りたいと思ってます。とりあえず、こちらの歌も是非どうぞ!1938(昭和13)年『お猿のかごや』唄:音羽ゆりかご会ruclips.net/video/1vHN7whoE70/видео.htmlsi=0xsSe9_zpsDJTf2h1939(昭和14)『あの子はたァれ』&『ちんから峠』ruclips.net/video/QPRf2E14f1E/видео.htmlsi=a9FrdQMYL4LxqyxI1946(昭和21)『ばあやたずねて』ruclips.net/video/YwOONaLB_QU/видео.htmlsi=pmoEhZFoWdWqxl-d
子供の頃良く聴きました川田三姉妹さん有名な歌手になりました忘れたけど
私の母は11歳の頃、母もこの声を聴いて歌ってたのでしょうか?もう聞くこともできない遠い所にいっちゃいました。今なら沢山話す内容あるのに いる時はなんもなくて 優しい言葉もかけてやれず、憎らしい娘でした。お母ちゃん も一度話したいな
私も、あなたと一緒です。もう一度、話したいですが😭
でも今もお母さんのこと思い出して、会いたいと思う事が素晴らしいですよ❗きっと天国でお母さん喜んでいますよ。私も両親を亡くして自分もそろそろの年齢になりましたが今でも懐かしく両親の事を思い出していますよ。頑張って下さいね‼️
私の姉が女学校の時学芸会で踊ったのを走馬灯のように浮かんで来ました。ありがとうございました♪
幼い頃母がよく歌ってくれました🩷そして小学生の頃に、担任の先生(体育がお得意の男性の先生)がピアノで弾いてくださり皆感動しました🩷それから何十年して、私のアート作品を老人福祉施設に飾らせていただいた時、利用者の方々がこの歌を歌われてました🩷 「優しい母さん思い出す」の歌詞に胸が熱くなりました。思い出深い歌を有難うございます🩷
なーつかしーいくっそー昔に戻れー♪♪♪
I haver 71 years. I learn this music. I live in Brazil, São Paulo
このお声が、幼いころの川田正子さんの歌声ですか!本当に素晴らしいお声ですね!こうした幼いころの歌手のお声を再現して聴かせて頂くのはうれしいですね!!
海近くに生まれ育った自分にとってテーマソングと言える歌であります♫
なんだろな...なんか胸が締め付けられる想い。
素晴らしいですね!この頃の歌詞はしっかり起承転結が考えられていました。特に3番は泣けて来ます。
もう70年前に覚えて歌ってきました!今では何年も前から我のハーモニカのレパートリー曲です。
他でも投稿しましたけど、昭和20年代NHKのスタジオで正子ちゃんが、歌ってる所を見る事が出来ました。今考えると、大袈裟に言えば、奇跡だったのかなと思ってます。劇場などと違い予定が分からないですから。
当方もこの川田正子の「みかんの花咲く丘」のSP盤を所持しております。視聴すると純情な幼いころを思い出すような気持になります。やはり川田正子版の方がしっくりきます。こういう昭和戦後間もないラジオ流行歌を配信している配信者様は尊敬に値します。
今の子供達にもこのような歌を聴いてほしいです。懐かしいですね。
懐かしいな。よく聴きました。
あっぷありがとうございます😂
0:37 の絵は昔、NHKのみんなのうたの雑誌でみたような気がします。
私は昔。この歌をカラオケでトライしましたが、音程はズレまくりました…。でも、いい歌ですね!
亡くなった母がこの曲が好きだった。
不便も便利に、思わずには、おれないでしょうかねぇ~。改悪ありきでは、本当に改善するユウナさんが解くしあわせですよね。
なんて美しい曲、なんて美しい声なんだろう
小学生時代、放送部がよく流してくれ、大好きな歌になりました。小学校同窓会の二次会カラオケで歌うと、女性の同窓生も声を合わせて歌ってくれます。
男性の皆さんは歌わないのですか?あなたのコメントを読むかぎり、女性だけの同窓会なのかなと思いますが・・・・。②
これも歌謡曲だったんですね!自分はおぢさんですが、小学校唱歌として歌っていました。
結構、悲しい歌詞なのですね?じっくり聴くと。
この曲に涙がこみあげて来る方は戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた方です。先に書いた歌詞の件ですが三番の最後です。「……母さん 思われる」ここで涙腺が弛みます。少し後に登場する「鐘の鳴る丘」とどうしても重なってくる。もしも「思い出す」とすると直過ぎて、敢えて加藤氏は『思われる』という婉曲な歌詞というか、これが絶妙です。太平洋側の都市は空襲で壊滅状態となり、映画「むっちゃんの詩」のような子供達は巷にあふれ、母亡き子らはやっと始まった施設に収容されて行きましたが・・・感慨こめた加藤氏の急遽追加の歌詞はそれゆえ相当に思案されたはず。長文2つすいません
おばあちゃの好きな曲や
昭和20年(1945年)5月に加藤省吾が深谷市に疎開中に、この『みかんの花咲く丘』を作詩したといわれています。現地にはこの碑が建てられています。
牧山さん加藤省吾が、埼玉県にご縁があったとは初耳です。彼は静岡県伊豆半島の付け根に位置する伊東市に生まれ、生涯同地で暮らしたと、ある雑談で読みました。「みかんの花咲く丘」は川田正子・孝子さん姉妹が、NHKラジオの公開放送が伊東市で行われることになった時、急遽加藤氏に同局から地元伊東市にちなんだ童謡を作って欲しいと依頼され、2時間程で詩を書いたそうです。
最後の歌詞を聞いて、この歌を歌う「私」には母親がいないんだ、おそらく母親はすでに亡くなっている。だからこの歌は母恋いの歌だったんだ、と理解できました。抒情味あふれる名曲ですね。
私もこの唄を口ずさんで、ミカン🍊畑に行って母を思い出しています
この歌もそうですが、同じく川田正子さんが歌って有名になった「鐘の鳴る丘」も、戦争で親をなくした子供たちが一所懸命に共同生活しながら生きてゆく、という歌詞でしたね。ドラマ「エール」でお馴染みの古関裕而作曲、作詞は菊田一夫でしたね。
その通りですでも一時母ではなく姉に歌詞が変えられて姉が嫁いでいなくなったと思わせるようになっていたときもあったとwikiにありました親がいない子供への配慮だったようですね
やっぱりこの声だよね。
東海道本線国府津駅発車メロディの原曲ですね!
川田さん ! ! ! 川田さん ! ! ! 川田さん ! ! !
東海道線、国府津駅の列車出発時にこの曲が流れます。
黒い煙を吐きながら・・・云々・・・その当時は時代の最先端だったらしい。21世紀の現代には考えられないこと・・・とか思いながらも、多くの貨物船は今でも外洋では非道く質の劣る燃料で、有害な煙の出し続けている。
愛媛県の正午のサイレンです。(八幡浜市)
今の歌は英語ばかり・・日本的、日本の情緒戦争が終わった後、思えない。
お母さんはどうしたのだろう、亡くなったのか。今日も一人で来ていると やさしい母さん思われる、。この唱歌の発表時期、時代が時代、敗戦直後だ。お母さんは空襲で亡くなってるのだろうか。この母さんの部分を やさしい姉さん と歌詞を変えて歌った時期があったと聞いた。そんな子供に配慮して。
「お母さんどうされたのか」との趣旨のコメントだが、正子さん自身が80を過ぎて亡くなっているはず。そのお母さんなら普通に考えればかなり前に逝去 (せいきょ) されているとみるのが普通ではありませんか?コメントの意味が分からない???
@@NK-li1no 歌聞いてください
@@mouke1015 どう言う意味のコメントですか? いきなりのことで、戸惑っています。私は昭和40年代に、主にラジオの番組で川田姉妹とは何度もお会いして、ナマの歌唱もそばで拝聴していました。優しいお姉さん達でした。正子さん、孝子さんのほかに、少し歳の離れた美智子さんもいらっしゃったのをご存じですか?いきなりの意味不明の貴コメントですが、仕事を通じて長い間川田さん姉妹とお付き合いしてきた者として、貴殿の失礼極まりないいきなりのコメントに困惑しています。(元 放送局アナウンサー)
@@NK-li1no コメ主のおっしゃっていることは、川田さんのお母様の話ではないと思いますよ~
@@mouke1015 何故ひと言もお詫びがないのか? あなたの非常識さには腹立たしさを通り越して、ただただあきれるばかりだ。わたしの長い人生で、公私ともにたくさんの方と巡り会ったが、あなたのような超失礼な人間は初めてだ。恥を知りなさい。 返信不要。ただただ気持ちが悪い。
川田正子さんのこの歌毎日何処に行っても掛かっていました❗綺麗な声ですね❗
=この曲が生まれたエピソードです。=「この曲が誕生する秘話が良いというか驚きです。巷では「りんごの歌」が大ヒット…子供を元気づけるような歌をということで作曲家の海沼氏と作詞家の加藤氏にNHKから依頼が来た。(正確には海沼氏から加藤氏へと)。加藤省吾氏はいろいろ思案、りんごを意識して果物を変えただけでは二番煎じと言われるかもと思ったが、ラジオ番組が静岡と東京の二元中継を当日行うことから、みかんがすぐに浮かんだが放送日が8月25日、つまり夏。みかんの実を意識させるには合わない…そこでみかんの花となった。しかし、歌詞は2番までできていたが曲の時間の関係で3番まで作ってほしいと突然告げられた。加藤氏は東京の放送局に向かう汽車の中から見える静岡のみかん畑から「花」の構想となる。原詩がどこまで変化した経緯は不確かだが出来上がりを待つ東京の放送局では、原詩が変化し、追記(追加)されたこの歌を、これまた天才少女歌手の川田正子さんが、リハーサルそこそこのままだったが本番で見事に歌い切った。
三番の歌詞 この子のお母さんは亡くなったの?悲しい歌になるな
1946是二戰後日本戰敗國,民生應該很困苦。
這也是這首歌大受歡迎的原因。
何の何処に価値を置くべきか。会長を無視します。公明党ですよね。
❓❓❓
北朝鮮のあの女の子の方が断然上手いと思います
童謡唱歌三姉妹の長女正子さん変声期で声がおかしく成り見事にカムバック致しましたね✨
懐かしい自分の田舎を思い出すまったく後ろの絵と同じ風景です
素晴らしい!
戦後に歌われた正田正子さんの、みかんの花咲く丘は何度聞いても心にしみる曲で昔の風景が忍ばれてなりません
川田正子さんですよ(笑)。 2024.09.12 21:32
これをラジオで聞いた世代です。懐かしいですねえ!
こんな素晴らしい歌を何故もっとラジオやテレビ局で取り上げてくれないのか、今の時代にこそ大切な歌です。マスコミの皆さん、よろしくお願いします🙇⤵️
幸子さん、コメントありがとうございます!
ホントに同感です!この歌を流す度にデイサービスは大合唱に包まれます!
日本の戦後は、リンゴとミカンで始まったと言われているそうです。
リンゴは言わずと知れたサトウハチロー作詞の『リンゴの唄』。
かたや、『みかんの花咲く丘』を作詞した「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾は、サトウハチローの後輩。
当時『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、みかんの実の方を扱えば加藤の先輩にあたるサトウ・ハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われるおそれがあったとか。
8月はみかんは実がなっている季節であったが、あえて実ではなく、花の方を主題とすることに決めたそうです。「ヰキペディア」より。
y0u Tube の時代に生きていることに 感謝です。
小生 御年 75歳です。
御年??
これを自分に言うか?
自分に “御” をつけるのか?
あなたは敬語を知らないね?
アーッ 恥ずかしいよ!これは、自分以外に遣(つか) う言葉だよ。
なんという無知だよ!
もう40です。
幼い頃に母や祖母が手遊びをしながらよく歌ってくれた曲。
今は私が娘たちと手遊びしながら歌っています。
ほんと、綺麗な声。
心があらわれるようです。
手遊びの曲でお馴染みですね❤
川田さんの歌唱力につい涙が出てきます。今の時代にこそ大切にしたい歌ですね🎵
気持ちは同じです。あなたの言われることが全くその通りです。
感激して涙が止まらないです!
12歳の川田正子さんが見れるとは。
ほんとに素晴らしい歌声!川田正子ちゃんのファンになりました!
今、16歳です。幼い頃祖母とレコードで聞きました。
とても、あたたかい記憶が蘇ります。
「優しい母さん思われる」という歌詞に、いつも心がギュッと痛くなっていました。
大切な人との些細な時が、一番幸せだと思っているので、
情景を想像しただけで泣けてきます。
いつまでも生きている人間なんていませんから、家族への感謝を日々忘れずに、大切に生きていきたいと思います。
この歌を聴き、初心に返ってみると、こうして生きていられることがどれだけ幸せか、家族が側にいるのがどれほど幸せなのか、感謝すべきことがたくさんあることに気づかせてもらえました。
また心がすさんできたら、聴きにきたいと思います。
人としての大切な感情を、思い出せるので。
この歌を聞く
自分が子供👧の事が懐かしいい
海の住んでなかったが
山🗻育ちで山に行って
やまびこのように
よく歌っていた
山からこたえる歌がかえって
あの頃は楽しいかった
童謡ふるさと又懐かしいね
でもどの歌最高です
童謡歌と
あの頃が浮かびます
好きな歌です
川田正子さん。一生を歌で貫かれて素晴らしいと思います❤当時は少女雑誌やラジオ放送で色んな人を知りかわいい童謡を覚えて育ちました❤
懐かしく感謝🙏です🥲
思い出が甦ります❤
昭和21年、わたしが、生まれた年、母は2年の後、亡くなったけど素晴らしい歌。
コメント!ありがとうございます!
なかなか返信ができず、申し訳ありませんでした。
素晴らしい童謡ですよね!
僕は学校で歌った記憶はないです。
職場のデイサービスの方々との交流を通して知りました。
母の実家の新橋、南佐久間町の長屋で育った幼少時代、川田正子さんの「みかんの花咲く丘」のSP盤を手回しの蓄音機でよく聴いていた。昭和21年のレコードだったことも知らなかったが、僕が4、5歳の頃に良く聴いていた昭和31~32年頃の記憶が甦ってきた。そう、玄関で蓄音機を回していた。
祖母も、母も、もうとっくに亡くなり、このSP盤のレコードも、蓄音機も、50年以上前に紛失し処分していたが、こうやってまた聴けるとは・・・。しかもこの動画のそれぞれのイラストが、この曲を聴きながら頭に想い浮かべていたイメージとそっくりなので驚いている。感謝しています。
これがオリジナルですね。 配信を、ありがとうございます。
始めまして。今晩は、最近は、朝晩涼しく成りましたね。突然ですが、みかんの咲く丘の歌は。今は亡き、私の、親父の、3番目の叔母さんの、好きな歌でしたね。又、この歌を聞きますと、叔母さんを、思い出しますね。では、此の辺で失礼致します。令和四年、10月、6日、🤔
あさかはじめ様、素敵なコメントをありがとうございます!
小生の母は、昭和2年生まれでしたが、乳ガンに罹り42歳の若さで他界しました。
きっと母もこの歌が大好きだったろうな、と勝手に思っています。
涙が出そうになる。懐かしい!😢
私のふるさとの景色じゃないのに・・・日本人の心に生まれた景色なんだろうか・・・?
昨年、初めて一人で丘から海を、見ました❗️
母(昭和二年生まれ)が生存中に唯一私の前で唄った歌です。それは「いつか来た丘母さんと」と全く同じシチュエーションでした。海ではなく琵琶湖でしたが、母と幼い(七歳頃の)私が家業の鶏肉製造販売(零細個人経営)でアポイントの無い行商中でした。その日は全く売れなくて、人里離れた琵琶湖を見渡せる人家に行って唯一買ってくれた帰り道だったことを今でも思い出します。人の優しさに母も嬉しかったんでしょうね!
なんて、素晴らしい記憶の光景でしょうか!!そしてこの歌を貴方に歌ってくれたお母さんの優しさ・・・。涙が出ます。
素晴らしい
この懐かしい歌、父母を思い出し、涙が出てきて止まりません。
和歌山のみかん農家で育った私は11月から12月にかけてが繁忙期で、中学生の頃から段々畑のみかん採りをよく手伝いました。 優しかった父母と一緒に段々畑から青い海を眺めながら、お弁当を食べた記憶が甦ります。あの頃は腕力、脚力勝負の、今から思えばとてもハードな作業でした。
子供らしく素直に歌ってて良いね。
コメント!ありがとうございます!
返信がたいへん遅れて申し訳ありませんでした。
川田正子ちゃんは、声変わりして一旦「引退」をしてしまいましたが、
この頃の声は最高ですね!
みかんの花咲く丘ほんとに懐かしいね❗静岡県に住んでる私は幼少期ずっと聴いて育ちましたから…そうそうワカメちゃんのような髪型あの頃流行りましたね.私もそうでした😅
何故か、胸にぐっと熱いものが込み上げてくるような歌声ですね。
懐かしいし、素晴らしい。
同感です
今日、熊本で海沼実さんが音羽ゆりかご会創立90周年 コンサートでいらっしゃいました。
さすがでした✨
音羽ゆりかご会の可愛さと、可愛い歌声に正子さんの歌声が重なり、思わず涙が出ました。😂
コメントありがとうございます!
海沼 実さんは「童謡の神様」と呼ばれた作曲家・海沼 實(かいぬま みのる)のお孫さんですよね。
川田正子さんの当時の歌声は、本当に素晴らしいです!
特に三番の歌詞では、僕が中学生の頃に他界した昭和2年生まれの母を思い出してしまって、なんかジーンときてしまいます。
海沼 實が創設した日本初の児童合唱団「音羽ゆりかご会」についても、ちゃんと解説動画作りたいと思ってます。
とりあえず、こちらの歌も是非どうぞ!
1938(昭和13)年『お猿のかごや』唄:音羽ゆりかご会
ruclips.net/video/1vHN7whoE70/видео.htmlsi=0xsSe9_zpsDJTf2h
1939(昭和14)『あの子はたァれ』&『ちんから峠』
ruclips.net/video/QPRf2E14f1E/видео.htmlsi=a9FrdQMYL4LxqyxI
1946(昭和21)『ばあやたずねて』
ruclips.net/video/YwOONaLB_QU/видео.htmlsi=pmoEhZFoWdWqxl-d
子供の頃良く聴きました川田三姉妹さん有名な歌手になりました忘れたけど
私の母は11歳の頃、母もこの声を聴いて歌ってたのでしょうか?もう聞くこともできない遠い所にいっちゃいました。今なら沢山話す内容あるのに いる時はなんもなくて 優しい言葉もかけてやれず、憎らしい娘でした。お母ちゃん も一度話したいな
私も、あなたと一緒です。もう一度、話したいですが😭
でも今もお母さんのこと思い出して、会いたいと思う事が素晴らしいですよ❗きっと天国でお母さん喜んでいますよ。私も両親を亡くして自分もそろそろの年齢になりましたが今でも懐かしく両親の事を思い出していますよ。頑張って下さいね‼️
私の姉が女学校の時学芸会で踊ったのを走馬灯のように浮かんで来ました。ありがとうございました♪
幼い頃母がよく歌ってくれました🩷そして小学生の頃に、担任の先生(体育がお得意の男性の先生)がピアノで弾いてくださり皆感動しました🩷それから何十年して、私のアート作品を老人福祉施設に飾らせていただいた時、利用者の方々がこの歌を歌われてました🩷 「優しい母さん思い出す」の歌詞に胸が熱くなりました。
思い出深い歌を有難うございます🩷
なーつかしーい
くっそー
昔に戻れー♪♪♪
I haver 71 years. I learn this music. I live in Brazil, São Paulo
このお声が、幼いころの川田正子さんの歌声ですか!本当に素晴らしいお声ですね!こうした幼いころの歌手のお声を再現して聴かせて頂くのはうれしいですね!!
海近くに生まれ育った自分にとってテーマソングと言える歌であります♫
なんだろな...なんか胸が締め付けられる想い。
素晴らしいですね!この頃の歌詞はしっかり起承転結が考えられていました。特に3番は泣けて来ます。
もう70年前に覚えて歌ってきました!
今では何年も前から我のハーモニカのレパートリー曲です。
他でも投稿しましたけど、昭和20年代NHKのスタジオで正子ちゃんが、歌ってる所を見る事が出来ました。今考えると、大袈裟に言えば、奇跡だったのかなと思ってます。劇場などと違い予定が分からないですから。
当方もこの川田正子の「みかんの花咲く丘」のSP盤を所持しております。視聴すると純情な幼いころを思い出すような気持になります。やはり川田正子版の方がしっくりきます。こういう昭和戦後間もないラジオ流行歌を配信している配信者様は尊敬に値します。
今の子供達にもこのような歌を聴いてほしいです。懐かしいですね。
懐かしいな。よく聴きました。
あっぷありがとうございます😂
0:37 の絵は昔、NHKのみんなのうたの雑誌でみたような気がします。
私は昔。この歌をカラオケでトライしましたが、音程はズレまくりました…。でも、いい歌ですね!
亡くなった母がこの曲が好きだった。
不便も便利に、思わずには、おれないでしょうかねぇ~。改悪ありきでは、本当に改善するユウナさんが解くしあわせですよね。
なんて美しい曲、なんて美しい声なんだろう
小学生時代、放送部がよく流してくれ、大好きな歌になりました。小学校同窓会の二次会カラオケで歌うと、女性の同窓生も声を合わせて歌ってくれます。
男性の皆さんは歌わないのですか?
あなたのコメントを読むかぎり、女性だけの同窓会なのかなと思いますが・・・・。
②
これも歌謡曲だったんですね!
自分はおぢさんですが、小学校唱歌として歌っていました。
結構、悲しい歌詞なのですね?じっくり聴くと。
この曲に涙がこみあげて来る方は戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた方です。先に書いた歌詞の件ですが三番の最後です。
「……母さん 思われる」ここで涙腺が弛みます。少し後に登場する「鐘の鳴る丘」とどうしても重なってくる。
もしも「思い出す」とすると直過ぎて、敢えて加藤氏は『思われる』という婉曲な歌詞というか、これが絶妙です。
太平洋側の都市は空襲で壊滅状態となり、映画「むっちゃんの詩」のような子供達は巷にあふれ、母亡き子らはやっと始まった施設に収容されて行きましたが・・・感慨こめた加藤氏の急遽追加の歌詞はそれゆえ相当に思案されたはず。長文2つすいません
おばあちゃの好きな曲や
昭和20年(1945年)5月に加藤省吾が深谷市に疎開中に、この『みかんの花咲く丘』を作詩したといわれています。
現地にはこの碑が建てられています。
牧山さん
加藤省吾が、埼玉県にご縁があったとは初耳です。
彼は静岡県伊豆半島の付け根に位置する伊東市に生まれ、生涯同地で暮らしたと、ある雑談で読みました。
「みかんの花咲く丘」は
川田正子・孝子さん姉妹が、NHKラジオの公開放送が伊東市で行われることになった時、
急遽加藤氏に同局から地元伊東市にちなんだ童謡を作って欲しいと依頼され、2時間程で詩を書いたそうです。
最後の歌詞を聞いて、この歌を歌う「私」には母親がいないんだ、おそらく母親はすでに亡くなっている。だからこの歌は母恋いの歌だったんだ、と理解できました。抒情味あふれる名曲ですね。
私もこの唄を口ずさんで、ミカン🍊畑に行って母を思い出しています
この歌もそうですが、同じく川田正子さんが歌って有名になった「鐘の鳴る丘」も、戦争で親をなくした子供たちが一所懸命に共同生活しながら生きてゆく、という歌詞でしたね。ドラマ「エール」でお馴染みの古関裕而作曲、作詞は菊田一夫でしたね。
その通りです
でも一時母ではなく姉に歌詞が変えられて姉が嫁いでいなくなったと思わせるようになっていたときもあったと
wikiにありました
親がいない子供への配慮だったようですね
やっぱりこの声だよね。
東海道本線国府津駅発車メロディの原曲ですね!
川田さん ! ! ! 川田さん ! ! ! 川田さん ! ! !
東海道線、国府津駅の列車出発時にこの曲が流れます。
黒い煙を吐きながら・・・云々・・・
その当時は時代の最先端だったらしい。
21世紀の現代には考えられないこと
・・・とか思いながらも、
多くの貨物船は今でも外洋では
非道く質の劣る燃料で、
有害な煙の出し続けている。
愛媛県の正午のサイレンです。(八幡浜市)
今の歌は英語ばかり・・日本的、日本の情緒
戦争が終わった後、思えない。
お母さんはどうしたのだろう、亡くなったのか。
今日も一人で来ていると やさしい母さん思われる、。この唱歌の発表時期、時代が時代、敗戦直後だ。お母さんは空襲で亡くなってるのだろうか。この母さんの部分を やさしい姉さん と歌詞を変えて歌った時期があったと聞いた。そんな子供に配慮して。
「お母さんどうされたのか」との趣旨のコメントだが、正子さん自身が80を過ぎて亡くなっているはず。そのお母さんなら普通に考えれば
かなり前に逝去 (せいきょ) されているとみるのが普通ではありませんか?
コメントの意味が分からない???
@@NK-li1no 歌聞いてください
@@mouke1015
どう言う意味のコメントですか? いきなりのことで、戸惑っています。
私は昭和40年代に、主にラジオの番組で川田姉妹とは何度もお会いして、ナマの歌唱もそばで拝聴していました。
優しいお姉さん達でした。
正子さん、孝子さんのほかに、少し歳の離れた美智子さんもいらっしゃったのをご存じですか?
いきなりの意味不明の貴コメントですが、仕事を通じて長い間川田さん姉妹とお付き合いしてきた者として、貴殿の失礼極まりないいきなりのコメントに困惑しています。
(元 放送局アナウンサー)
@@NK-li1no コメ主のおっしゃっていることは、川田さんのお母様の話ではないと思いますよ~
@@mouke1015
何故ひと言もお詫びがないのか? あなたの非常識さには腹立たしさを通り越して、ただただあきれるばかりだ。
わたしの長い人生で、公私ともにたくさんの方と巡り会ったが、あなたのような超失礼な人間は初めてだ。恥を知りなさい。 返信不要。ただただ気持ちが悪い。
川田正子さんのこの歌毎日何処に行っても掛かっていました❗綺麗な声ですね❗
=この曲が生まれたエピソードです。=
「この曲が誕生する秘話が良いというか驚きです。巷では「りんごの歌」が大ヒット…子供を元気づけるような歌をということで作曲家の海沼氏と作詞家の加藤氏にNHKから依頼が来た。(正確には海沼氏から加藤氏へと)。加藤省吾氏はいろいろ思案、りんごを意識して果物を変えただけでは二番煎じと言われるかもと思ったが、ラジオ番組が静岡と東京の二元中継を当日行うことから、みかんがすぐに浮かんだが
放送日が8月25日、つまり夏。みかんの実を意識させるには合わない…そこでみかんの花となった。しかし、歌詞は2番までできていたが曲の時間の関係で3番まで作ってほしいと突然告げられた。加藤氏は東京の放送局に向かう汽車の中から見える静岡のみかん畑から「花」の構想となる。原詩がどこまで変化した経緯は不確かだが出来上がりを待つ東京の放送局では、原詩が変化し、追記(追加)されたこの歌を、これまた天才少女歌手の川田正子さんが、リハーサルそこそこのままだったが本番で見事に歌い切った。
三番の歌詞 この子のお母さんは亡くなったの?悲しい歌になるな
1946是二戰後日本戰敗國,民生應該很困苦。
這也是這首歌大受歡迎的原因。
何の何処に価値を置くべきか。会長を無視します。公明党ですよね。
❓❓❓
北朝鮮のあの女の子の方が断然上手いと思います
童謡唱歌三姉妹の長女正子さん変声期で声がおかしく成り見事にカムバック致しましたね✨
懐かしい自分の田舎を思い出すまったく後ろの絵と同じ風景です