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興味深い内容でした。
1954年のプロ野球の展覧試合を最初に企画したのも、永田雅一氏だったと聞いています。あと 、オレは昔から『大映』って『大阪映画社』の略称かと思っていました。まさか『大日本映画社』だったとは知らなかった😊
偉人達を語るその語り口に溢れんばかりの愛と情熱が伝わっ来てしばし聴き入ってしまう。毎回、聴き惚れながら往時を想像し、日本には凄い人がいたものだなぁ、と溜息ついて充足感に浸る。きっと動画の作者もタダモノではない、凄い人なのだろうと思います。現代に生きることを再考させてくださる動画をありがとう‼️
嬉しいコメントをいただきありがとうございます。
ありがとうございます!
誠にありがとうございます、
永田氏の作ってくれたガメラ対バルゴンは、素晴らしかった
何も知らない世代みたいな、私です。。歴史の『明るい』部分の変遷をりることも、欠かせない 極めて重要なことですね。。学校教育だけでは、半分しか「過去の日本史」を想像できない!!。。刮目!!!!
内容もだがナレーションの声が素晴らしい。RUclipsはゆっくり解説みたいなのが多すぎ。こういうじっくり聴かせてくれる動画がいい。
ありがとうございます。
私財を投げ打って球場を造ったのはすごすぎる
映画ファンや野球ファンにはお馴染みのラッパですが、大映の映画部門は1964年から傾きが始まり、67年以降はスター流出で深刻化し、71年倒産。それでも大映の称号は大映ドラマだけながら今に残る。本人も1976年に高倉健主演の【君よ憤怒の河を渉れ】と1979年萬屋錦之介主演【日蓮】の二作品のプロデューサーとして大作を仕上げてはいるんだよね。この人が没落したのは経営者後期に野球と映画でテレビを軽視したことじゃないかなとも思う。
伝記を読むより面白い。永田氏のプライベートな面も知りたかった。混乱期には彼のような大物が登場する。世の常か。
1960年代後半以降の映画産業は、テレビが各家庭に普及して映画館に足を運ぶ人が減ってしまって大変そうでした。大映も15歳になったばかりの関根恵子さんのベッドシーンがある映画など、人々が関心を持ってくれそうな作品を制作しましたが、倒産してしまいました。大映が倒産する直前に、テレビドラマを制作する大映テレビが、大映から分社化されたのを覚えています。3:47大倉高等商業学校は今の東京経済大学では?
大倉経済専門学校は、現在大倉高等商業学校ではなく、東京経済大学です。
プロ野球オーナーとしては南千住に東京スタジアムを作ったことが思い浮かびます。狭いけどスタンドはンか中きれいな球場だったと思います(少年時代に写真を見た記憶)
下町の、「光の球場」😊
プロ野球球団のオーナー、ダービー馬のオーナー、2つを獲得したのは永田雅一が唯一だと思う。大東亜戦争など日本が混乱期で混沌としていた時代にマッチした人物だと思う。ダービー馬トキノミノルが長生きしていたら天皇賞など素晴らしい名馬になっていただろう。
市川崑監督「ぼんち」の内容が永田雅一の前半生そっくり。雷蔵が市川監督に持ち込んだとウィキペディアにありますが、色々興味深いです。
黎明期(れいめいき)😮…背番号8。レフト。山内一弘。打撃の職人。 小学生の頃、ファンだったなあ。
そういえば大映の作品で『ボクは五才』の中でペプシコーラの看板が大写しされるシーンがあったな
永田オ-ナ-と言えば当時昭和45年西鉄戦でロッテが優勝したとき最初に胴上げされ、それをラジオで聞いていたことが思い出されます。
😊😊
サイトは
元ヤクザだったとは知りませんでした。
道楽と言われても極めればそれは立派な職業となると証明してみせたわけだ
永田さんのヤクザ時代のエピソードをもうちょっと聞きたかった。生い立ちとか人生の大半の経歴はやり手プロデューサーって感じで、あんまりヤクザな感じはしなかった
ラッパと言えば「平和ラッパ」さんを思いだします。🤩🤩🤩
懐かしい。
お姿は拝見したことはありませんが、私の母校の弓道場のお隣が永田雅一邸でした🏘️渋谷の丘の上ですが、勘違いでしたら御免なさい💦
永田雅一さんの孫?に外食産業評論家?永田ラッパさんがいます。鋭い批評と奇抜な外見でyoutubeに出演されてます。大映は子供の頃よく観に行きました。江波杏子の女賭博師シリーズなど姉のデートに付き合わされました。今大映の映画を見ると画面の質が高く改めて凄い会社でした。
現在も大学生、転職する若田人に履歴書は、学歴以前に印象を見られると言っています。楷書(素人の続け字は誤魔化し)、自書が基本ですが、加えて丁寧さと言っています。字は正に性格などが表面化します。行政・大企業などで作文・論文が出題されますね。最も紹介者の責任と被採用者の義理関係を思ってのコネ採用が重視されていますね。「特に金融関係・以前の行政職員など…硬い職種」
映画関係者の昔話でしばしば大映の名が挙がるのも、戦後しばらくは今の常識から外れていた映画業界の光と闇という話だね
TBSの永田さんは今どうしておられるのでしょうか。
1972年に西鉄ライオンズが身売りを表明した時、最初ペプシが買おうとした理由は永田氏の影響があったからでしょうね。
確か東スポへの名誉毀損の裁判の公判で裁判官に向かって、「裁判長❗️東スポの記事なんか信用してるモン、世の中に一人もおまへんでぇ❗️」と陳実して逆転勝訴した逸話の持ち主がこの人だったような...🤔間違っていたらすんません🙏
大映の元社長の永田雅一氏は、新東宝の元社長の大蔵貢氏を慕っており、影響を受けたと云われています。
大蔵貢よ。
先を見通して何かに成りたいと思う若者はスゴイと思う。大学に行ってたら間に合わないと思うのはせっかちだったのかな?
偉人エピソード様へ吉本興業の林正之助のリクエストをお願いします。
先進的産業にはアウトローが飛びつき、育てる。今のネット界も経営者にしろ、制作者にしろアウトロー的存在の人がたくさんいますね。
女優を愛人にしたんじゃなく愛人を女優にしたんだ。
大蔵貢
新東宝の大蔵貢女優は高倉みゆき
懐かしい、有名な逸話ですネ?大藏貢氏。女優を妾にしたんじゃない、妾を女優にしたのだ‼️新東宝社長時代短かかったけど宇津井健ス―パ―マン、2回も見ました!小学生30円の時代です!👴🙇
永田雅一、通称永田ラッパ、戦後の裏面史を賑わせた仕掛人の一人。あの口髭が懐かしい‼️
大映を代表する女優、京マチ子さんは凄い美女だったにも関わらず生涯独身で浮いた噂一つ無い方でしたが結婚しない理由が永田社長の愛人だったからなんて都市伝説がありましたねえ😅
虚栄心が強く(すでに)映画は斜陽だったのにも関わらず東映への対抗意識でオリオンズのオーナーになったが資金繰りに苦しみ東京スタジアムを政商小佐野賢治に売却,小佐野は永田に破格の球場使用料をふっかけやむなく永田は球団を手放す羽目になった(その後小佐野は田中角栄の口利きで永田から買い取った3倍の値段で東京都に売却)東京スタジアムは戦後儚く下町に咲いた一夜の夢として記憶の片隅に留めることとなる
これだけ機転が効くなら、TV時代を読めなかったのかなぁと思う。映画からTVへのシフトを上手くやってればと思います。
なるほどぉ。千本組の若い衆がどうして?と不思議でしたが 京友禅のボンボンでしたか。といっても幼少期に没落を体験して それでも親戚の支援を受けて大倉商業。戦前の旧制中学を4年で中退するのも勿体ないけれど そのまま 大倉財閥系の会社で働いていたら 大映もなかったでしょう。溝口健二がワンシーンワンカットを押し通す、戦時中でも実寸大の松の廊下をセットで作らせるなんてことも 永田がバックアップしていました。溝口を大映の重役にしています。東宝は黒澤明を重役にはしませんでしたね。黒澤であれだけ儲けたのに。永田雅一の方が 人情があったのです。近代化に乗り遅れてしまったけれど 冷や飯食わせ続けていたゴジラで近代化に成功した東宝より 生き残ってほしかった映画会社。京王線仙川だったかな?大映スタジオでよく テレビCMの撮影しました。 そうそう 溝口の最後の助監督 東大で三島由紀夫と同級生だった増村保造監督が 大映テレビは 頑張っていましたよね。山口百恵の赤いシリーズとか。
古川ラッパ
ラッパと聞くと自分は「はったり」を思い浮かべますね、これを使う人は直ぐに人を信用させてしまう特徴を持ってます。例えば、先日あの大物と話しましてね、こんな話をしましたとか、格上の人物を持ち出して自分を位置を高く見せる。政治と金の原点みたいな話、因みに永田雅一と似た様な人、今なら誰だろうかと思い浮かべました・・・のちの石原裕次郎や勝新太郎が永田雅一を知っていたのか知らなかったのか、似たところがある。先日、ユーチューブで大映の「釈迦」を見て、よくもこんなセットを莫大な金をかけて製作したと思いましたね、内容が釈迦、え、日本人からすると何か違う。この映画まさか永田雅一が絡んでいないかとフト思いました。最後は自滅、豊臣秀吉と同じ、どんどん性格が変わっていき、誰も止められなくなる。
空を飛ぶ亀を見た
映画の五社協定の発案者?何でしょ…時代劇は錦之介は別として大映映画の時代劇の方が現代で見ても古く無い気がする…
ヤクザではありません。
おもしろい!(笑)
けど劇場の多くは東宝が吸収したよ。
いいねか
興味深い内容でした。
1954年のプロ野球の展覧試合を最初に企画したのも、永田雅一氏だったと聞いています。
あと 、オレは昔から『大映』って『大阪映画社』の略称かと思っていました。まさか『大日本映画社』だったとは知らなかった😊
偉人達を語るその語り口に溢れんばかりの愛と情熱が
伝わっ来てしばし聴き入ってしまう。
毎回、聴き惚れながら往時
を想像し、日本には凄い人がいたものだなぁ、と溜息ついて充足感に浸る。
きっと動画の作者もタダモノではない、凄い人なのだろうと思います。
現代に生きることを再考させてくださる動画をありがとう‼️
嬉しいコメントをいただきありがとうございます。
ありがとうございます!
誠にありがとうございます、
永田氏の作ってくれたガメラ対バルゴンは、素晴らしかった
何も知らない世代みたいな、私です。。歴史の『明るい』部分の変遷をりることも、欠かせない 極めて重要なことですね。。学校教育だけでは、半分しか「過去の日本史」を想像できない!!。。刮目!!!!
内容もだがナレーションの声が素晴らしい。RUclipsはゆっくり解説みたいなのが多すぎ。こういうじっくり聴かせてくれる動画がいい。
ありがとうございます。
私財を投げ打って球場を造ったのはすごすぎる
映画ファンや野球ファンにはお馴染みのラッパですが、大映の映画部門は1964年から傾きが始まり、67年以降はスター流出で深刻化し、71年倒産。
それでも大映の称号は大映ドラマだけながら今に残る。
本人も1976年に高倉健主演の【君よ憤怒の河を渉れ】と1979年萬屋錦之介主演【日蓮】の二作品のプロデューサーとして大作を仕上げてはいるんだよね。
この人が没落したのは経営者後期に野球と映画でテレビを軽視したことじゃないかなとも思う。
伝記を読むより面白い。永田氏のプライベートな面も知りたかった。混乱期には彼のような大物が登場する。世の常か。
1960年代後半以降の映画産業は、テレビが各家庭に普及して映画館に足を運ぶ人が減ってしまって大変そうでした。
大映も15歳になったばかりの関根恵子さんのベッドシーンがある映画など、人々が関心を持ってくれそうな作品を制作しましたが、倒産してしまいました。
大映が倒産する直前に、テレビドラマを制作する大映テレビが、大映から分社化されたのを覚えています。
3:47大倉高等商業学校は今の東京経済大学では?
大倉経済専門学校は、現在大倉高等商業学校ではなく、東京経済大学です。
プロ野球オーナーとしては南千住に東京スタジアムを作ったことが思い浮かびます。
狭いけどスタンドはンか中きれいな球場だったと思います(少年時代に写真を見た記憶)
下町の、「光の球場」😊
プロ野球球団のオーナー、ダービー馬のオーナー、2つを獲得したのは永田雅一が唯一だと思う。
大東亜戦争など日本が混乱期で混沌としていた時代にマッチした人物だと思う。
ダービー馬トキノミノルが長生きしていたら天皇賞など素晴らしい名馬になっていただろう。
市川崑監督「ぼんち」の内容が永田雅一の前半生そっくり。雷蔵が市川監督に持ち込んだとウィキペディアにありますが、色々興味深いです。
黎明期(れいめいき)😮
…背番号8。レフト。山内一弘。打撃の職人。
小学生の頃、ファンだったなあ。
そういえば大映の作品で『ボクは五才』の中でペプシコーラの看板が大写しされるシーンがあったな
永田オ-ナ-と言えば当時昭和45年西鉄戦でロッテが優勝したとき最初に胴上げされ、それをラジオで聞いていたことが思い出されます。
😊😊
サイトは
元ヤクザだったとは知りませんでした。
道楽と言われても極めればそれは立派な職業となると証明してみせたわけだ
永田さんのヤクザ時代のエピソードをもうちょっと聞きたかった。生い立ちとか人生の大半の経歴はやり手プロデューサーって感じで、あんまりヤクザな感じはしなかった
ラッパと言えば「平和ラッパ」さんを思いだします。🤩🤩🤩
懐かしい。
お姿は拝見したことはありませんが、私の母校の弓道場のお隣が永田雅一邸でした🏘️
渋谷の丘の上ですが、勘違いでしたら御免なさい💦
永田雅一さんの孫?に外食産業評論家?永田ラッパさんがいます。鋭い批評と奇抜な外見でyoutubeに出演されてます。大映は子供の頃よく観に行きました。江波杏子の女賭博師シリーズなど姉のデートに付き合わされました。今大映の映画を見ると画面の質が高く改めて凄い会社でした。
現在も大学生、転職する若田人に履歴書は、学歴以前に印象を見られると言っています。楷書(素人の続け字は誤魔化し)、自書が基本ですが、加えて丁寧さと言っています。字は正に性格などが表面化します。行政・大企業などで作文・論文が出題されますね。最も紹介者の責任と被採用者の義理関係を思ってのコネ採用が重視されていますね。「特に金融関係・以前の行政職員など…硬い職種」
映画関係者の昔話でしばしば大映の名が挙がるのも、
戦後しばらくは今の常識から外れていた映画業界の光と闇という話だね
TBSの永田さんは今どうしておられるのでしょうか。
1972年に西鉄ライオンズが身売りを表明した時、最初ペプシが買おうとした理由は永田氏の影響があったからでしょうね。
確か東スポへの名誉毀損の裁判の公判で裁判官に向かって、「裁判長❗️東スポの記事なんか信用してるモン、世の中に一人もおまへんでぇ❗️」と陳実して逆転勝訴した逸話の持ち主がこの人だったような...🤔
間違っていたらすんません🙏
大映の元社長の永田雅一氏は、新東宝の元社長の大蔵貢氏を慕っており、影響を受けたと云われています。
大蔵貢よ。
先を見通して何かに成りたいと思う若者はスゴイと思う。大学に行ってたら間に合わないと思うのはせっかちだったのかな?
偉人エピソード様へ
吉本興業の林正之助のリクエストをお願いします。
先進的産業にはアウトローが飛びつき、育てる。今のネット界も経営者にしろ、制作者にしろアウトロー的存在の人がたくさんいますね。
女優を愛人にしたんじゃなく
愛人を女優にしたんだ。
大蔵貢
新東宝の大蔵貢
女優は高倉みゆき
懐かしい、有名な逸話ですネ?大藏貢氏。女優を妾にしたんじゃない、妾を女優にしたのだ‼️新東宝社長時代短かかったけど宇津井健ス―パ―マン、2回も見ました!小学生30円の時代です!👴🙇
永田雅一、通称永田ラッパ、戦後の裏面史を賑わせた仕掛人の一人。あの口髭が懐かしい‼️
大映を代表する女優、京マチ子さんは凄い美女だったにも関わらず生涯独身で浮いた噂一つ無い方でしたが
結婚しない理由が永田社長の愛人だったからなんて都市伝説がありましたねえ😅
虚栄心が強く(すでに)映画は斜陽だったのにも関わらず東映への対抗意識でオリオンズのオーナーになったが資金繰りに苦しみ東京スタジアムを政商小佐野賢治に売却,小佐野は永田に破格の球場使用料をふっかけやむなく永田は球団を手放す羽目になった(その後小佐野は田中角栄の口利きで永田から買い取った3倍の値段で東京都に売却)東京スタジアムは戦後儚く下町に咲いた一夜の夢として記憶の片隅に留めることとなる
これだけ機転が効くなら、TV時代を読めなかったのかなぁと思う。映画からTVへのシフトを上手くやってればと思います。
なるほどぉ。千本組の若い衆がどうして?と不思議でしたが 京友禅のボンボンでしたか。といっても幼少期に没落を体験して それでも親戚の支援を受けて
大倉商業。戦前の旧制中学を4年で中退するのも勿体ないけれど そのまま 大倉財閥系の会社で働いていたら 大映もなかったでしょう。
溝口健二がワンシーンワンカットを押し通す、戦時中でも実寸大の松の廊下をセットで作らせるなんてことも 永田がバックアップしていました。
溝口を大映の重役にしています。東宝は黒澤明を重役にはしませんでしたね。黒澤であれだけ儲けたのに。永田雅一の方が 人情があったのです。近代化に
乗り遅れてしまったけれど 冷や飯食わせ続けていたゴジラで近代化に成功した東宝より 生き残ってほしかった映画会社。京王線仙川だったかな?
大映スタジオでよく テレビCMの撮影しました。
そうそう 溝口の最後の助監督 東大で三島由紀夫と同級生だった増村保造監督が 大映テレビは 頑張っていましたよね。
山口百恵の赤いシリーズとか。
古川ラッパ
ラッパと聞くと自分は「はったり」を思い浮かべますね、これを使う人は直ぐに人を信用させてしまう特徴を持ってます。例えば、先日あの大物と話しましてね、こんな話をしましたとか、格上の人物を持ち出して自分を位置を高く見せる。政治と金の原点みたいな話、因みに永田雅一と似た様な人、今なら誰だろうかと思い浮かべました・・・のちの石原裕次郎や勝新太郎が永田雅一を知っていたのか知らなかったのか、似たところがある。先日、ユーチューブで大映の「釈迦」を見て、よくもこんなセットを莫大な金をかけて製作したと思いましたね、内容が釈迦、え、日本人からすると何か違う。この映画まさか永田雅一が絡んでいないかとフト思いました。最後は自滅、豊臣秀吉と同じ、どんどん性格が変わっていき、誰も止められなくなる。
空を飛ぶ亀を見た
映画の五社協定の発案者?何でしょ…時代劇は錦之介は別として大映映画の時代劇の方が現代で見ても古く無い気がする…
ヤクザではありません。
おもしろい!(笑)
けど劇場の多くは東宝が吸収したよ。
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