【ゆっくり解説】日本はなぜ大和から始まったのか

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  • Опубликовано: 15 дек 2023
  • 日本は大和から始まったとされています。
    神武天皇が奈良の橿原で即位し日本が始まったわけですが、決して皇室の徳により国が豊かになったわけではありません。
    大和から日本が発展したのは、豊かな地形のお陰とも言えます。
    木材(エネルギー)、防衛、海産物(栄養)、水資源など大和の地は文明が発展する土壌があったわけです。
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Комментарии • 107

  • @caither2413
    @caither2413 7 месяцев назад +22

    大和はローカルな一地域でもあり、日本全体のことでもあり、民族の名前でもあり…興味深いよね。

    • @user-he2fk3tw3o
      @user-he2fk3tw3o 7 месяцев назад +6

      イギリスにおけるイングランド的な?

    • @user-dq3yq4lf3n
      @user-dq3yq4lf3n 23 дня назад

      大和(奈良)があっての日本。ここがない日本は日本ではないね。

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju 7 месяцев назад +3

    良質な内容の動画をアップしていただきましてありがとうございます。
    そういえば山城の国ももともと湖でしたねー

  • @torapeziumintheorion
    @torapeziumintheorion 7 месяцев назад +5

    平安京の有る「山城」と言う地名は奈良から見て山の向こうを表す「山背」だったそうです。

  • @schimitch3277
    @schimitch3277 7 месяцев назад +4

    奈良盆地から山城盆地に首都がスライドしたのは、「日本海経由で東北を征伐する」意味合いもあったと個人的に考えます。
    平安最初期に坂上田村麻呂が大活躍したのと、見事に符合してますしね。小学校以来になる清水寺をこの前拝観して、しみじみ思いました。

  • @user-lv7ic9iu8v
    @user-lv7ic9iu8v 7 месяцев назад +4

    古代日本には一種のミステリー的面白さがある

  • @shou-sho
    @shou-sho 7 месяцев назад +3

    コメント見てたらむっちゃ詳しい人がところどころにいて感動しますね。
    纏向遺跡についていうと、奈良盆地の中でも東海地方に近い場所にあるというのは興味深いところ。
    この後の佐紀古墳群は京都(日本海)側、法隆寺とかは大阪(瀬戸内海)側にあるわけですからね。

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 7 месяцев назад +2

    おお興味深い題名ですね。

  • @user-lj2up3pi5u
    @user-lj2up3pi5u 7 месяцев назад +3

    近畿の一地方名の大和が国そのものを指すくらいに日本人にとっては特別すぎる場所

  • @okadatomomitsu
    @okadatomomitsu 7 месяцев назад +2

    「山辺の道」を歩いて思ったのは、大和川や、盆地の周囲の山々からの水を、古代の土木技術でも管理しやすい地形だったのでは?という事。盆地での水田の大規模開発や、古代のハイウエイ瀬戸内海に通じる水路のある、伸びしろのある土地だったんだろうなというところかな。

  • @user-sv8kq4yd2q
    @user-sv8kq4yd2q 3 месяца назад +2

    考古学的にみると纏向遺跡が大和王権発祥の地である事に異論がある人は少ないと思いますが
    纏向遺跡の人達はすぐ近くの唐古・鍵遺跡から引っ越している形跡があるとのことで、事実であればこれが最初の遷都と言えるかもしれません
    その唐古・鍵遺跡は弥生時代前期からの遺跡ですので神武東征は完全なるフィクションになるかと思います

    • @yskztkhs7986
      @yskztkhs7986 23 дня назад

      どうでしょうか。その人たちが天孫族とは限りません。

  • @user-qe4ew7ho7x
    @user-qe4ew7ho7x 7 месяцев назад +2

    京都は西側は開けてるけど、東側は東山は険しいから一旦伏見に行って、奈良街道を通って大津に運んでいたから、羽柴秀吉は伏見を首都にしたのでしょうね。

  • @wa33785
    @wa33785 7 месяцев назад +1

    父桓武天皇が遷都した平安京(京都)から平城京(奈良)に戻そうと復位を企てた平城上皇の薬子の変が成功していた場合の世界線を考察してみると興味深いかも。明治には大阪湾から運河で結び奈良(大和)帝都案もあったらしい。WWII末期本土決戦に向けて、帝國陸軍は信濃松代大本営(現長野市)の一方、帝國海軍は大和柳本(現天理市)大本営を建設していたそうです。

  • @YO-high
    @YO-high 7 месяцев назад +10

    古代だと大王が即位するごとに遷都してたんだけれど、一か所にずっといると木材が不足するからでは?と思った次第です。
    たぶん、平城京は長年使ってて、周囲にハゲ山が目立ってきたんじゃなかろうか?という推論。
    平安京は南部に巨椋池という巨大な湖があったとされております。水運に使うのにも便利な地勢だったんでしょうね。
    で、倭、大倭、大和、日本、これ全部「ヤマト」なんだよね。
    地名で言えば奈良県のことだけれど、日本全体のことも「大和」だとすると、やはりここが日本の原点であると思うわ。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie 7 месяцев назад +4

      古墳の総数を見れば関東や西国もすごいですが、大きさでは近畿が異次元ですよね

  • @user-fw8rc8lh3j
    @user-fw8rc8lh3j 6 месяцев назад +1

    魔理沙 霊夢 妖夢が喋るときに照れて顔が紅くなるのがこってるな😅

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu 7 месяцев назад

    16:04ほんま、この地図を見ると、いつも笑える。大阪半分ないやん!みたいな
    今住んでるところが奈良寄りの元から土地が有ったところで良かった

  • @shou-sho
    @shou-sho 7 месяцев назад +3

    今は纏向遺跡がヤマト王権と直接繋がるか否かがホットな話題なんだよね。
    岩波新書なんか1巻の研究者と2巻の研究者で言ってることが違うという。

  • @user-ow1ww6cf7p
    @user-ow1ww6cf7p Месяц назад

    別の人の動画で大和地方には大和王権以前に東西様々な地方の人々が住んでいた痕跡があるというものを見ました。
    当初東西の交易拠点として発展した大和を大和王権勢力が支配下に置き、交易の力で勢力を伸ばしたのではと想像しています。

  • @user-qx5ww1sj9u
    @user-qx5ww1sj9u 7 месяцев назад +3

    ある意味もう一つの奈良時代実に興味深いお話でした😇

  • @オリーブ-v1k
    @オリーブ-v1k 7 месяцев назад +4

    動画楽しく拝聴いたしました。内容も同感です。ただ大和について個人的にまだ解決していないのは、その後、数百年で『なぜ大和が朝鮮南部と関東以南を制覇出来たのか?』(倭王武の上表文参照)
    言い方を変えると、大和の軍事力や、前方後円墳を広げめた力の源泉はなんなのか?
    この点、ある意味、邪馬台国より難しいと感じてます。

    • @user-um9yo2xg6b
      @user-um9yo2xg6b 7 месяцев назад +2

      ①日本内部では互いに争いを好まない民族性
      ②半島南部に関しては、倭人の進出は奴国以前から交流があったと思われること、半島の武力が脆弱であったこと等を想定しています。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie 7 месяцев назад +1

      朝鮮南部を制覇というか、雑居してたのを、後世で朝廷が利用して支配してたってことにしたのが実情だと思いますけどね 百済が熊津に移った時期に限って、倭人豪族が百済や倭国に許可を得て、百済が半島西南部を支配するのを手伝ったとする倭系百済官僚説というのがあります

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが 7 месяцев назад +3

    動画ありがとうございます。
    奈良に都をおいたということに、防備という観点というのはなかったですね。確かに四方からいかに攻められないかという観点は大切です。

  • @user-mp3cr5gb2l
    @user-mp3cr5gb2l 7 месяцев назад

    日向時代には地熱で温暖な山岳地でも栽培できる陸稲が食料需要を支え、地球温暖化に従い低地での栽培に適した水稲が拡散していった。転作と生産拡大が神武東征だったんじゃないかと妄想。

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p 7 месяцев назад +2

    最近のシリーズ面白いな。
    色んな概念が相対化される
    カタルシスがある。
    記紀や向こう側の記述では無く
    考古学から見た我が国の姿がより
    事実に近い。本当に豊かで素晴らしい場所だと思う日本て。

    • @yskztkhs7986
      @yskztkhs7986 23 дня назад

      現在、考古学により記紀の真実性が明らかになりまくっているんですよw

  • @Hayato_Takezawa
    @Hayato_Takezawa 7 месяцев назад

    先発の青銅文明は長江から、後発の鉄文明は黄河から来たと考える

  • @murasondayo
    @murasondayo 6 месяцев назад

    個人的な意見だけどそれまでは 東北地域 が反映していたのでないか?と考察。色々と温まった所で大和が反映。

  • @PS-ot4bx
    @PS-ot4bx 7 месяцев назад +1

    仁徳より応神じゃないのかなぁ(小声)

  • @Kappa-Lub
    @Kappa-Lub 3 месяца назад

    神武東征 もしくは東遷 火山活動とからめると 7000年前のアカホヤから事務の辺りでかなり火山噴火してて
    九州南部は住めなくなったから移動していく必要に迫られ
    神話 三貴神にしても火山灰を洗いながしたと考察してもよき

  • @user-dv3fo5dm6c
    @user-dv3fo5dm6c 7 месяцев назад +1

    ちなみに記紀に八咫烏が三本足のカラスという表記は無い。
    内容から考えても普通に人間

  • @user-um9yo2xg6b
    @user-um9yo2xg6b 7 месяцев назад

    ①農耕の発達、②文明の発達、③水利、エネルギーの必要性、④森林の伐採、⑤砂漠化、⑥文明の衰退または移住 不確定要素としては、近隣国との争い。 この辺が、考察の前提でしょうか?

  • @user-yh2um6gc4m
    @user-yh2um6gc4m 6 месяцев назад +1

    奈良湖とか大阪が海じゃなくなったのいつなんだろ
    そりゃ防衛に適して水に恵まれてる大和栄えたわけだ

  • @28maaru88
    @28maaru88 6 месяцев назад +1

    個人的に列島開拓期として見ている古墳時代

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect 7 месяцев назад

    平城京『へいぜ』の時代には、植林『仙』がすでに始まってる事が文献に出てますね。若狭~高島の鯖街道
    平城京の木材は伊賀4郡からの輸送で現在も古代の行事の流れが残っています。
    色んな文献やなごりから、奈良の木材は使わないようにしていた痕跡と三輪山付近衛星写真見ると古代に大規模土砂災害が発生して現在定着してる感じなので、もっと高く切り立った山を山の扉・山の門の訛りがあったのかも?
    むやみに伐採すると土砂崩れの危険性を知っていた可能性があり。古代人恐るべし(笑)
    100年ぶりの温暖期で考えるなら、現在、琵琶湖が渇水なので、伊勢遺跡の時代は温暖期で琵琶湖の水位が下がっていた可能性もあり、今から50年後に向けて寒冷期になり雨期に入る事も推量すると平城京遷都は、雨期による水害・平城京の木材は解体され最終には平安京の木材に利用されているらしいので、リサイクルは昔からしていたのにビックリです。
    日本古代史最大のミステリー、なぜ・大和だったのか、、、、良いテーマですよね。

    • @pirukuru_cRinn.D6KE
      @pirukuru_cRinn.D6KE 6 месяцев назад +1

      「杣」じゃないですかね。
      あと『』の使い方がちょっと違いますよ。

    • @trinitydisconnect
      @trinitydisconnect 6 месяцев назад +2

      @@pirukuru_cRinn.D6KE 老眼なので、許して下され。(笑)『へいぜ』が正解とおもいますよ。記紀用語での話。奈良の人は『へいじょう』で発音してますね。

  • @user-gz2ty9ob6j
    @user-gz2ty9ob6j 7 месяцев назад

    記紀には大和朝廷の祖のアマテラスは筑紫の日向で生まれたとありますから九州で生まれたと思われ、アマテラスの孫ニニギが天孫降臨したとあります。ここでアマテラスを邪馬台国の女王卑弥呼とすると卑弥呼は九州で生まれた事になり、おそらく筑後山門郡、卑弥呼の孫は台与ですから台与が天孫降臨して、九州から畿内に東遷して崇神天皇になって紀元300年頃大和朝廷が成立したのではないでしょうか。

  • @niklohukiin6310
    @niklohukiin6310 3 месяца назад

    これぞ大和魂ィ

  • @user-og9rj9kf1c
    @user-og9rj9kf1c 7 месяцев назад

    うぽつです。今回は何で日本は大和から始まったかについでだったようですが、大阪が昔は海に沈んでいたのと奈良湖の存在については知っていましたが、たぶん其れ故に当時の大和盆地は沿岸部に準じた水運が使えたというのも有るかもしれませんね。
    桓武天皇の頃には動画で言われたような大和盆地の森林伐採が進んでいたのと、過度な仏教から逃れたくなったのに加えて、藤原京 以前の飛鳥京の頃までは有った奈良湖の残滓たる運河代わりの川とかも枯れてきたというのも有ったのかもしれませんね。長岡京も調べてみた感じでは巨椋池の西岸に都の東端が接触するようにして計画されていたらしいですし……
    ……あと、前回までの自分の意見を汲んでくれたのか、今回は実写の人間モデルの画像や動画が皆無だったのが良かったです😊

  • @kappanouen
    @kappanouen 7 месяцев назад +2

    『世界四大文明』を否定する人は「へえ!勉強してんなあ!(゚Д゚;)」って思うけど
    『世界四大文明』って言うと怒る人は・・・なんていうか、あんまりお近づきにはなりたくないタイプの方ですよね(^_^;)

    • @einsfia
      @einsfia 7 месяцев назад +2

      そもそも四大文明を別に否定しなくてもいいじゃんって思うけどね
      四大文明だけが古代文明だった、みたいな誤解は正すべきだけど
      農耕定住型の古代の代表的な4つの文明という切り取り方は別に何も間違ってない
      日本人だけが言ってるってのも間違いで、西洋人の書いた本でも四大文明として扱ってる例が沢山ある
      四大文明を否定する人の方がなんかヘンな文明コンプレックスかヘンなナショナリズムに縛られてるんじゃないのって思ってしまう

  • @tea5778
    @tea5778 3 месяца назад

    奈良に汽水湖があったのか!明日香村の亀石の言い伝えは空想ではなく、過去に実際に海(湖)あったからなのか!明日香村から見える風景が山に囲まれているって感じだったから、つい縄文の海退を忘れていた😅
    明日香村観光ポータルサイトに、『亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもので、元は北向きだったものが現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという怖い伝説も残されています。』と書いてあった。

  • @kmftrf
    @kmftrf 7 месяцев назад

    奈良こそが、人類のジオフロントだったのですね

  • @hir-pk9fo
    @hir-pk9fo 7 месяцев назад

    奈良のすぐ上に広大な湿地帯があるだろ?

  • @user-jq9cm3vd3p
    @user-jq9cm3vd3p 7 месяцев назад +1

    記紀を作ったとき、矛盾する過去の記述は捨ててるからね、優秀な日本人の歴史は記紀ほど浅くないと思うよ。

  • @user-qy4sj6bk5s
    @user-qy4sj6bk5s 7 месяцев назад +1

    古代の最重要人物には(継体天皇)を推薦したいです。また、この動画では奈良盆地に奈良湖(汽水湖)が有ったとの事をとても興味深く思いましたが、汽水湖が干上がって奈良盆地が形成されたならば、当分の間は塩分で農地に不向きだったんではないでしょうか?山林の草木や森林が生活に必要不可欠だったのは間違いない。何故ならば、奈良の大仏建立時には、金属を溶かしたり建設労働者の生活に必要な燃料(材木)が不足して、滋賀県の甲賀や大津市南部の山の木を伐採した結果、その後はハゲ山状態が長く続いたことが判明しています。なお、生活に必要な飲料水や草木・湿地・水運・外敵からの防御を考えたら、滋賀県の湖南地域は全てをクリア出来る地域だったと思います。なぜ奈良盆地が大和の中心になったか不思議です。ひとつ考えられるのは、近江(現滋賀県)地域には、既に渡来人が多数居住していてテリトリーがある程度確率されていたのではないでしょうか?

  • @user-hh9dc1hm1v
    @user-hh9dc1hm1v 6 месяцев назад

    後から作った歴史に影響されてないのかな???

  • @saburoutanba581
    @saburoutanba581 7 месяцев назад +3

    そりゃ近所に阿蘇山とか富士山みたいなでっかい火山が無かったからでしょ。
    桓武天皇の時代になると東北地方が大和朝廷の支配下に入り東日本への交通網を整備する必要が出来たので、特に日本海沿岸を移動する海上ルートの
    起点である丹後(舞鶴・若狭)に近い山背(京都盆地)に首都を移転させた。

  • @ASTYRA8492
    @ASTYRA8492 7 месяцев назад +4

    水資源なら関東(~4世紀までで言えば便宜上「東国」)も豊かで平地面積も広い。
    こっちから始まらなかったのが個人的に謎。

    • @user-lm9sy2qq6w
      @user-lm9sy2qq6w 7 месяцев назад +1

      そっちも始まってたけど、ヤマトの勢力に平定されて同化してしまったんだと思う。

    • @user-ms2bv7lg6h
      @user-ms2bv7lg6h 7 месяцев назад +3

      大陸から遠いからね

    • @hermitlogger
      @hermitlogger 7 месяцев назад +7

      ①瀬戸内海の存在
      瀬戸内海は十分に広い多島海の穏やかな内海で、各地との交易が容易、大陸との連絡航路であり、漁業生産性も高い。関東にはこれがない。
      ②利根川流域は『暴れ川』だった
      当時の灌漑土木技術では、大河かつ暴れ川である利根川流域の農業生産ポテンシャルを生かす事が出来なかった(利根川よりずっと「穏やかな」大河である淀川流域ですら洪水被害を防ぎつつ開発するのに苦労している)
      ③関東平野は広大かつ平坦過ぎた
      そのため攻撃された時の防御が困難で、長期的に統一された軍事勢力が形成されなかった。
      (世界史的に見ても、広大な平原地帯ほど軍事勢力が群雄割拠し、統一されたとしても短期間で分裂しがち)

    • @user-um9yo2xg6b
      @user-um9yo2xg6b 7 месяцев назад

      東京23区の多くは、海底もしくは湿地帯だったはずですが… 武蔵府中の場所は、現在は内陸部ですが、当時の武蔵(埼玉・東京の全域、神奈川県東部)の中心地でしょ?

    • @ASTYRA8492
      @ASTYRA8492 7 месяцев назад

      ​@@hermitlogger
      なるほど、この説が納得できる。ありがとう。

  • @run-x
    @run-x 7 месяцев назад

    私詳しくありません、たたらば製鉄にも火を起こすために木材が必要で、木材を得るために、たたらばを定期的に移動していたと聞きました、都を遷都?近畿内を何度も移動しますよね、たたらばが移動するのは自然環境を壊す前に移動して、自然にもどれるようにしていたそうです、都も自然が復元できなくなるほど壊す前に移動してたのかな、奈良はそのスタート地点なだけじゃないかなー

  • @user-st8lz4tl8n
    @user-st8lz4tl8n 7 месяцев назад +1

    牧畜とは普通、牛・羊など草食動物を飼育する物を指すので、その話をする背景に豚を用いるのは適切でない。豚は穀物、木の実を食べるがこれによって直接に植物が枯死する又は繁茂が妨げられるものではない。気候変動の他、人間が沙漠化の原因となるとすればそれは過剰放牧、過剰伐採など様々であり、さらにその原因は人口、金属精錬などの過剰な増加等、様々考えられる。

  • @user-ve4kd9cx8i
    @user-ve4kd9cx8i Месяц назад

    大和やまとやまとやま富山

  • @huihui1842
    @huihui1842 7 месяцев назад

    逆に蝦夷から始まってたらすごいよな😂

  • @KOHBO1
    @KOHBO1 7 месяцев назад

    大和王権初期は古墳時代の始まる3~4世紀ごろと思いますが、それまでには奈良で大規模な水田はなかったのでは?
    また、時代背景としては、北九州を中心に大陸と貿易をしてそれ以上に発展している土地があるので、水田に適した地が発展するのは時代遅れなメリットだと思います。
    神武東征でみつけた奈良は農業などの第一次産業というより、国家運営や交易の中心地を建造するための広大な空き地があったことではないでしょうか?

  • @reizoukoreizouko
    @reizoukoreizouko 7 месяцев назад

    最近知ったのだけど、古墳の数に(も)注目して邪馬台国はどこかを考察した動画を見た。
    邪馬台国はどこかはともかくとして、一つの事実として、関東圏に前方後円墳が一番多いというのは意外だった(単純な古墳の数でいえば兵庫など近畿エリアだが、権力者にのみ許されたであろう前方後円墳に限ると関東圏が最多らしい)。
    このことから、関東圏にもなんらかの勢力があったとは想像されるけど、そういった観点の動画って予定されてたりします?

    • @nnkk8888
      @nnkk8888 7 месяцев назад +3

      種類は問わずに古墳の数だけなら1位から順に兵庫県18,841、鳥取県13,459、京都府13,089、千葉県12,750、岡山県11,726、広島県11,255、福岡県10,776、奈良県9,617
      前方後円墳に関しては、千葉県733、茨城県455、群馬県391、奈良県312、福岡県267。になります。
      前方後円墳は古墳時代前期では数はどの地域でも作られ数は大差ないです。
      中期になると大型が進み最も大きい170m規模のものは近畿地方に多く、60~70mの規模の古墳は畿内から西の地域が多くなります。
      古墳時代の後期から終末期にかけて、近畿地方で前方後円墳が作られなくなった頃から関東では前方後円墳が多く作られるようになったみたいです。
      なので、関東地方の前方後円墳が多くなるのは邪馬台国の時代から約300年後です。

    • @reizoukoreizouko
      @reizoukoreizouko 7 месяцев назад +1

      @@nnkk8888
      詳しくありがとうございます。
      邪馬台国云々はそういう説もあるんだなくらいなんですが、関東圏で多く作られるようになった、その勢力はどういったものだったのか? というのが主な疑問でした。
      回答の主旨としては、全国的に作られたが、近畿含む大部分が前方後円墳を作るのを止めた時期以降も、関東圏だけは作り続けた(理由までは不明)、で合ってますか? 誰かが移って新たに作り始めたというよりも、すでにそこにいた人たちが作るのをやめなかった(と見るほうが自然だろうか?)、という意図です。

  • @hisashi626
    @hisashi626 7 месяцев назад

    渡来系の天孫族は、おそらく九州や日本海側しか知らなかったが、もっと東にこれから発展しそうな土地がある事を知り、どうしても手に入れたくなった。
    そうでなければ、3人の兄を戦闘で失ってまで手に入れようとするだろうか。
    うちの近くに、塩土老翁を祭神とする白鬚神社があります。
    白鬚神社はだいたいが新羅系なので、塩土老翁も渡来系かなと思います。

    • @yskztkhs7986
      @yskztkhs7986 7 месяцев назад +1

      渡来系ではない

    • @hisashi626
      @hisashi626 7 месяцев назад

      @@yskztkhs7986
      その根拠は❓
      うちの近くの白鬚神社の由来にも、新羅と関係あると書いてあるが❓

    • @yskztkhs7986
      @yskztkhs7986 7 месяцев назад +2

      @@hisashi626 日本書紀を読んでください。天孫族が渡来系だとはどこにも書いてありませんし、物的証拠もありません。むしろ、隼人と近いと思われます。
      新羅の国王である昔氏は倭人ですが、元は丹波の人と思われます。これは三国史記に書かれています。のちの天日槍にもつながると思われます。

    • @hisashi626
      @hisashi626 7 месяцев назад

      天日槍は僕が住んでいるところの近くに祀られている神社があるので調べていますが、あの時代の半島人は皆、多かれ少なかれ倭人の血が入っているでしょう。もとが縄文人ですし。
      でもそれを渡来系というのでは?
      塩土老翁=猿田彦は身長が2m以上で鼻の長さが1m以上、そんな異形の隼人がいるのですか?

  • @user-fd6uv7vd2n
    @user-fd6uv7vd2n 7 месяцев назад +1

    古墳時代とか奈良時代って実は弥生時代の付録程度なのよね😢本州全体で見れば

  • @mangakoji
    @mangakoji 7 месяцев назад +1

    俺らの時代だと天武天皇が最初の歴史上の人物だと言われてた。
    逆にヤマトタケルを歴史上の人物に入れるのはどうかと思うよ。

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n 7 месяцев назад +11

    中国の史書、後漢書や魏志倭人伝によれば倭は九州から始まってる、奈良が日本の中心となるのは8世紀から。

    • @RR-pm8ie
      @RR-pm8ie 7 месяцев назад +3

      弥生時代末期に箸墓古墳を作った勢力は一体なんなんだろう

    • @user-ng7ml5er9r
      @user-ng7ml5er9r 7 месяцев назад

      ​@@RR-pm8ie一般的にどこにでとある古墳だよ✨何と結びつけたいのかな🎉

    • @user-ml4yn7su1d
      @user-ml4yn7su1d 7 месяцев назад +6

      「倭」じゃなくて「日本」の話だぞ

    • @user-ng7ml5er9r
      @user-ng7ml5er9r 7 месяцев назад

      @@user-ml4yn7su1d 倭と日本は別物です(笑)

    • @user-zg8mf3zc9m
      @user-zg8mf3zc9m 7 месяцев назад +1

      四世紀以降に九州王朝的なものは存在しません。

  • @user-by5kb6eg7l
    @user-by5kb6eg7l 7 месяцев назад

    17:28の地形図の「海」は強引すぎませんか?
    そんなに海が生駒山系に近かったら河内平野に展開していた弥生時代の集落は海の中ということになりますが?
    自説を主張するときはもう少し客観性がないと折角の叡察も信用を得ることが難しくなると思いますよ。

    • @nnkk8888
      @nnkk8888 7 месяцев назад

      邪馬台国の時代に海や平野部の面積を根拠にする方々は遺跡のあった場所を海の中にあるとよく断言されます。
      邪馬台国の時代は小氷期で海面は低く平野の面積は広かったのに温暖で海面が高かった縄文時代の海岸線を当てはめている人が多いです。
      地盤も隆起や沈降しますし、堆積もするので現在の等高線をそのまま当てはめられないのに当てはめていたする場合もあります。

  • @yskztkhs7986
    @yskztkhs7986 7 месяцев назад +2

    奈良はよくなかったようですよ。大阪米とか奈良米なんて聞いたことないですから。奈良盆地は沼地が多かったらしい。なぜ大和が日本列島の主になれたかというと、他の地域が争いあっている時に、速やかに奈良・大阪和歌山など広い地域の豪族を支配下に置けたからではないかと思う。

    • @user-dq3yq4lf3n
      @user-dq3yq4lf3n 23 дня назад

      奈良県北部は米の食味ランキング最高ランクの特A受賞地域ですが?

    • @yskztkhs7986
      @yskztkhs7986 23 дня назад

      ​@@user-dq3yq4lf3n 、現在は関係ないです。コシヒカリの産地新潟なんて最近ですし

  • @youchin1975
    @youchin1975 6 месяцев назад +1

    倭は徳島、これは大和は奈良

  • @user-cs8kh3nq8d
    @user-cs8kh3nq8d 7 месяцев назад +3

    少なくとも古代においては日本もまったく単一民族ではないでしょう?
    そこだけ引っ掛かりました。
    あと、日本武尊の和歌は大和以東へ行ったことの無い人の作な気がしませんかねぇ。山が蒼くて素晴らしいって、はるばる関東まで遠征した人の視点にしてはちょっとあれな気がして。