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いま51歳になりますが、若戸スポールで遊べたのは貴重な思い出ですね(^^)
素晴らしい記録です。生まれてから高校卒業まで幸町電停近くに住んでいました。北九州線の全線が残っていれば、今頃は貴重な観光資源になっていたと思います。
今現在は筑豊電鉄を除いて姿を消しましたが現在も当時の規模(凡そ40㌔)の規模が確保出来ていれば北九州の基幹交通機関として大いに活用されていたに違いなかったでしょう私の鉄道マニアの原点でもあるこの西鉄北九州線が多くの市民に惜しまれながらも廃止されてしまったことは誠に残念でなりませんが今でもこの北九州線が生き生きと活躍していれば新型電車の導入はもとよりバス同様にバリアフリー化を達成していたに違いなかったでしょう
貴重な動画ですね。当方、乗りつぶし系鉄道マニアです。1982年に入社後の3交代研修で3か月、北九州にいました。当時の西鉄の路面電車線は殆ど乗りましたが、幸町~戸畑の2駅間は乗らずじまい。研修先のバス停が戸畑西門だったので、毎日、デルタ線だった幸町電停の横を通りましたし、戸畑の電停まで線路沿いに歩いたこともあるので、何故乗らなかったのかと後悔し続けています。今回の動画で、少し乗車した気分になりました。ありがとうございました。
@asa76851さま、コメントありがとうございます。私と同時期に北九州に居られたのですね。何処かでお会いしているかも。
そうですね。中央町あたりの飲み屋さんでご一緒していたかもしれませんね。
懐かしい!素晴らしい動画アップありがとうございます☺️現在50目前ですが日明西口電停の近くに昭和60年代前半まで住んでいました。子供の頃の風景に泣きそうになりました。😭まだ家族が父、母、妹、祖父母の勢揃いしていた平和な時代だったあの頃✨今は独りぼっちになったけど😢
懐かしすぎます。祖母に連れられて、よく乗ってました。幸町のロータリー。涙が出そうになりました。UP、ありがとうございました!
1984年3月は自分にとっては正に青春時代です現在51歳となりましたがこの風景は生涯忘れることのない貴重なものですこの区間はバス専用道路となった後一般道路となりましたがここを走るバスに乗るたびに今でも電車に乗っているように感じられます
この動画は貴重ですね!1966年まで千防町に住んでましたので月に一度は天神町の商店街を歩き三六電停から家族で小倉の井筒屋や玉屋に行って買い物を楽しみ大食堂で「お子様ランチ」を食べて井筒屋では屋上遊園から小倉の街並みを眺めるのが楽しみでした。1965年には戸畑に岩田屋が開店。岩田屋には徒歩10分で行けましたが戸畑も当時は賑やかで活気ありましたが小倉の魚町・室町にはかないませんでしたね😅鹿児島本線で戸畑から小倉まで乗車する事は殆どありませんでしたが両親の実家が熊本でしたから年に数回、急行「ひまわり」で3時間かけて乗車!1965年に国鉄戸畑駅も木造駅舎から近代的な駅舎になり乗降客も最盛期は4万2千人でしたが現在は2万人にも満たない。当時は戸畑駅から急行東京行、名古屋行、大阪行等の列車もありました。北九州市の人口も最盛期は106万…戸畑区も11万人の人口を擁しましたが現在は6万余…2014年に戸畑を久々訪れましたが空気がきれいになりました。あの頃は八幡製鉄所(現日本製鉄)から七色の煙が規制なく排出されてましたから…文化ホールは無くなりましたが街並みも綺麗になった印象です。1992年に西鉄北九州線が廃止。中央町~黒崎まで乗車しなかった事が悔やまれます。
路面電車と西鉄バスのモノコック車両、懐かしいですね。37年も前とは思えない臨場感があります。
路面電車の動画は今となってはとっても貴重ですね。こんな貴重な動画を見せて下さり有り難うございます。この動画私が昔努めていた西日本鉄道の関連会社時代の先輩に見せたらきっと喜ぶかもです。その先輩は西日本鉄道の東電車営業所にいた先輩で車掌をしてたと言ってました。見せたら泣いて懐かしがるかもしれません。
30秒くらいの所の右手に私の生家がありました。若戸スポールとか懐かしいですね。
超貴重な映像をありがとうございました。中原から工大前まで一駅でしたが、幼稚園に行く時一人で無賃乗車してしまい(幼児は無料だと思っていた)。「終点まで連れて行く」と言った運転手さんに、知らないおじさんが「かわいそうやろ」と、電車賃(当時35円)を出してくれた事を思い出しました。風景もその頃とほとんど変わっておらず、素朴な戸畑の町。運転手さんの手元や、スピード感、信号待ちでシンとなる音、すべてが懐かしいです。ありがとうございました。
懐かしい!入社直後の9ヶ月は、米町から九工大前までこれに乗って夜学に通ってました。デジタル化公開ありがとうございます。
懐かし!幸町 テツビル 薄っすらと玉屋も見えますね、有難うございました。
祖父祖母が暮らしていた中原には思い出がたくさん詰まっています。その中原電停を見れるとは。本当にありがとうございます!
生まれる前の我が故郷!路面電車なんて走ってたの?って半信半疑でしたが本当だったんですね....!西鉄バスのデザインも丸っこくて可愛いです。
中学は日明西口から大門まで電車に乗って、大門から徒歩で思永中学まで通い、小倉工業高校へは大門から下到津まで乗って、その後徒歩で学校に通いました。高校は1968年まで通いました。懐かしいです。
懐かしい。私が高校生の頃はすでに電車は廃線になっててバス専用道の時代でした
バス専用道はBRTの嚆矢にあたりますね🚌
工大前の電停懐かしいです。中原の伯母の家の最寄りの電停で公園の近くにあったのでそれを目印に何度も来たことがある。一軒家にアパートに改造した家だった。もう伯母も亡くなったので、来ることもないが、いずれはもう一回でも訪ねてみたいと思う。懐かしい映像でしたありがとうございました。
戸畑線はあまり乗った事が無かったけど、幸町の三角の電停はやたらに記憶に残ってた。
子供の頃、北九州に住んでいた時、魚町から歯科大学前まで、北九州線で、戸畑線、枝光線を経由して、乗ったことがありました。
映像当時6歳でした。当時は若松に住んでいましたが、子供の頃よく健和病院に行っていたので、渡場~中原はよく覚えています。現在は戸畑に居ることもあり、この路線(現在の70、91番)を通りますが…今でも面影ありますね。最寄りの三六はつい最近まで映像のままの風景でした。…今は様変わり中…。………現在、路面電車の復刻バスが1番の路線で走っていますが、色、違うんですよね………。とても懐かしい映像、ありがとうございました。
テツビルって今のスピナ戸畑店かな?いわゆる電車通りですよね。ぼくのアパートの前を通ってるはずだけど、外の景色が映ってなくてわからないな。中原の跨線橋の周辺をよく通りますが、当時はこんな雰囲気だったんですね。貴重な映像をアップいただきありがとうございます。
電車の車窓から見る西鉄北九州線(戸畑線)は私にとって思い出のアルバムです戸畑在住の私にとっては小倉や門司方面へ行く時に殆ど欠かさず乗車したこの西鉄戸畑線は大切な移動手段の一つでした私が幼稚園へ通園する時は三六親戚の自宅へ行く時は工大前そして小倉へ行く時は魚町でよく下車したのを思い出します三六から専用軌道に入って最初に警報機と遮断機のある踏切(現在の小芝三丁目バス停付近)はあらゆる理由で数多く渡り切った事のある思い出風景の一つですまた車窓から映る600形電車や500形電車の在りし日の姿も非常に懐かしく感じられます500形の車内カラーである若草色も過去の情景となりましたこの戸畑線は枝光線や門司-砂津間と共に1985年秋に廃止され最終的に黒崎-折尾間も2000年に廃止となりましたが全廃時まであらゆる目的で31年間お世話になりました貴重なスマホ動画誠に有難う御座いました
九工大OBです。まさにこの時大学4回生でした。貴重な思い出ありがとうございました。
15歳まで住んでいた北九州を検索してたら、この動画を見つけました。もう40年以上も前ですが、当時、中井に住んでいて、中井口から戸畑の祖母の家までこの電車をよく利用していた記憶がよみがえりました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。北九州の町もだいぶ変わりました。
こんな映像があったとは!凄いなぁ~、小学生の頃だ。
これは凄い動画ですね。昭和50年ごろ、筑豊電鉄の永犬丸付近に住んでいましたが、日中は比較的頻繁に砂津行きはあったものの、早朝の何本があった「幸町 経由 砂津行き」というレアな列車に乗ったときは狂喜しました。あの当時は筑豊からの連接車が幸町経由の路線で乗り入れていたのは奇跡ですよね?動画は幸町のデルタ線も入っており、とても感動しました。当時まだ小学生でしたが、結果的に砂津〜門司と北方線が未乗のままで廃止になりました。残念でした。小倉の魚町の井筒屋、室町の玉屋のデパートに行くのに永犬丸から今は亡き母と乗ったのは良い思い出です。幸町経由の路線は併用ではない専用線でしたので、それがまた良かったです。本当に懐かしいです。素晴らしい動画をありがとうございました。
コメントありがとうございます。喜んでいただけたようで何よりです。見慣れた風景だったものが無くなって、このような昔の映像で見たりすると、写っていない風景まで思い出されます。
当時門司住まいで、連接車は自分にはとても珍しい存在に思えました。小学生当時、学校で希望者を募って到津遊園での林間学校に参加したことがあります。専用電車には2車体の連接車が充てられ、砂津方面からやってきた電車が門司駅前の渡り線で向きを変えて遊園地まで行きました。手で操作する笛弁がとても珍しかったです。
西鉄北九州線で乗車した車両は多々あります中でも連接車の比率が割りと高かったので(旧北方線は7割以上で筑豊電鉄はすべて連接車で運転)戸畑線から折尾線に至るまでワンマンや連接車を問わず様々な電車に乗車経験があります(門司線で連接車の経験がなかったのが残念)1970年代半ばの一時期2両連接の2000形(後の筑豊2000形3両連接)にも数回乗車した事がありますが1000形と比べても決して違和感のない乗り心地でありました
色々検索していて、懐かしい動画を見せて貰いました!戸畑には70年近く前に(麻生小・沢見中の頃)住んでいて、幸町、九州工大前、中原、日明、大門等々思い出します。この電車もずっと前に廃止されたんですね?残念です。
動画にある西鉄北九州線(戸畑線)は門司〜砂津間 枝光線と共に1985(昭和60)年10月19日を以って廃止されました
この映像の3年後に、初めて北九州に行き、市電も乗りました。懐かしい。
三六電停付近を走る627号電車が映っていた事に感動しましたこの627号は1984年から1987年に「いとうづゆうえん」の広告電車として活躍したものです627号は1982年から1983年に「ラクチン電車」(窓上に青空を窓下に多くの人々のイラストが描かれたオレンジ系の塗装)としても活躍しどちらの塗装もお気に入りであり「627」が私にとってラッキーナンバーとしてインプットしています今は西鉄バスにも「北九州200か627」と登録されたバスが1番系統を中心に活躍しており電車とバスで昭和 平成 そして令和と3つの時代で「627」の御世話になっておりますただこの627号電車が最後まで冷房化されなかったのが非常に残念でなりません最後になりましたが半分が自慢気な内容になりました事を御詫び申し上げます
いやぁ、感動です!ありがとうございます!私が日明に住んでいた頃、半世紀前とは少し風景が違いますが、懐かしく拝見できました。ただ日明の電停がなかったのが残念!車の免許を取ってから、広島から運転して行った時は、まだ路線が残っていました。鹿児島本線も映っている!通っていた日明小学校、大門にあったおひさま幼稚園を思い出します。日明市場もあったなぁ!いろんなこと思い出しました。ありがとうございます!
コメントありがとうございます。目移りしているような映像ですみません。よく見て戴いて幸いです。
日明駅付近の風景が映ってなかったのが惜しかったです
@@user-884vx2ph1h こちらこそ、感謝です。感謝感激雨霰!第2の故郷、北九州市小倉区(現小倉北区)を本当に思い出しました。
5:20 三六電停の奥にある専用軌道入り口の架線電柱は、1985年10月20日廃止後、残りましたが、2017年5月上旬、道路2車線が4線に拡張工事に伴い、撤去しました。
コメントありがとうございます。いま、電車道の面影は随分無くなってしまいましたね。1985年10月19日の映像も探してみます。
三六駅横の専用軌道出入り口にかつて存在した鉄製架線柱は正に昭和の鉄道の風物詩の一つでした三六から日明(小倉高校下)にかけ専用軌道跡地がバス専用道路として整備されましたがこの架線柱が電車時代の名残ですその後バス道路が一般道路として統合されこの架線柱も撤去されました現在三六から次の小芝三丁目にかけ小倉方面に向かって左側が一段低くなっているのは電車時代からある名残の一つです(地形の関係で平面化出来なかったでしょう)
廃止が本当に悔やまれます。あと10年頑張ってたら…。おそらく低床式のLRTなどが走って広電のように復権出来ていたかもしれません。思えば幸町の活気はこの電車がなくなって驚くほどになくなりました。この頃は中本町よりむしろ幸町が交通結節点でした。
コメントありがとうございます。仰られる様に、現在の北九市の道路状況になるのであれば、路面電車の廃止は早すぎたかも(ここは専用線区間も多かったので尚更ですね)。
全く同感です。
かつて北九州に住んでいた広島在住です。なので路面電車を廃止した都市と存続した都市の風景と現状を味わっております。
映像当時、私は9歳です。戸畑の新池に祖父、祖母が住んでいてよく遊びに行って、路面電車のレールに石を置いて酷く怒られた思い出がよみがえります。
コメントありがとうございます。戸畑はコンパクトで良い街ですよね。
よう、こんな映像残っとったね。廃線後はバス専用道路になったんよね~。工大前に中原、中井…懐かしい🎵
旧福岡市内線(1975年に半減)の一部の専用軌道区間も同様に電車廃止後はバス専用道に転用されました(現在は箱崎から馬出の短い区間のみですが)北九州線の大門−三六間の専用軌道跡地も大部分が同様にバス道路化され電車時代の面影を残していましたが平成の終わりから令和の初めにかけ一般道路化され今では微塵も見られぬほど大きく様変わりしました
この動画の3~4年前、沿線の(やんちゃな方の)高校への通学でこの線を利用していました。運賃表なんてよく撮影されましたね!耳につくモーター音も相まって懐かしさ倍増です。『ちゃっきりくん』ではないタイプのもりかわ園や湯佐部品、いとうづゆうえんの広告電車も懐かしいです。動画とは逆方向になりますが大門から戸畑線の専用軌道に入った時の長い下り坂はどの電車も相当飛ばしていました。特にコイルばね台車を履く300形はピッチングが物凄く、まるでアトラクションのようでした。忘れ得ぬ思い出です。
かつての西鉄北九州線300形電車は西鉄の元運転手さんのお話しによると折尾線の長い専用軌道(皇后崎〜陣の原)で大きくバウンドしていたとのことです
映像当時は生後4か月でしたw10歳の頃、親と一緒に北九州を訪れた時、なんでバス専用道路なんてのがあるんだ?と疑問に思っていましたが、かつて路面電車が走っていたことを知り、驚きました。一度でいいから乗ってみたかったです…
これはすごい…私の生まれた年の映像です…私は折尾ー砂津間しか乗ったことが無くて…この動画を見て、現在職場が戸畑であることもあり、痕跡を探してみました^ ^丁度画像の専用軌道に入るあたりに九軌の杭と西鉄の杭を見つけました^ ^あとは、もう使われていませんが戸畑BCの建物は電車時代からのままですね。枝光線の方は一部築堤が残っていたり、鹿児島本線をオーバーパスしていた名残や、杭も何本か見つけました^ ^折尾ー黒崎駅前間専用軌道はとばすので揺れが半端なかったのは懐かしい思い出です
コメントありがとうございます。また、現在の場所を訪ねての情報、感謝します。九軌の杭が残っているとは驚きですね。
コメントありがとうございますあなたが生まれた当時は私は高校1年生でした此処に紹介されている旧西鉄の戸畑線は私にとって生涯思い出の尽きるものではありません私は幼稚園にあがる1974年から足掛け12年この西鉄戸畑線に何度となくお世話になりましたが今では跡継ぎの交通機関がもっぱら西鉄バスとなりました沿線の風景もすっかりと変わってしまいましたが今でもここを走る西鉄バスに乗る度にかつての電車時代を思い出しまさしく時代の流れを感じさせます1985年当時現役で走っていた電車たちは福岡県内にわずかの数両程度が保存されているに過ぎませんが電車マニアの私にとっては末長く「生き証人」として存在してもらいたい次第でございます
4月まで住んでた社宅が既にあるのが感動。
コメントありがとうございます。この沿線は古い建物が結構残っているのですね。
旧西鉄戸畑線跡地は当初専用軌道がバス専用道となった程度で沿線風景は電車時代さながらでありましたが時代を追うにつれて都市化が進行し道路も拡幅されて風景は一変しましたしかし一歩中へ入ると現在でも当時の面影が残っていて今なお昭和の風景を観る事ができます
電車の運転士さんの前に行って運転を見てるのが好きでした。当時は子供達はみんな運転している所が見れる前の場所が好きだったんではないでしょうか。足の所に鐘を鳴らす突起みたいなのがありましたネ
連接車は進行方向右側で前面窓ギリギリまでシートが伸びていましたので気軽に前面展望を楽しむ事が出来ます筑豊電鉄でも3000形電車がこのようなスタイルであります
この区間廃止が決まった時に戸畑→門司(終点)まで乗りました。北九州線には5両しかない元福岡市内線の300系で湯佐部品(カー用品店)のラッピングトレインでした。
西鉄300形電車はユニークなスタイルで元福岡市内線の車両です連接車の子分とも呼べる独特なスタイルは同じく元福岡市内線の500形と比べ一線を画す存在でした丸々の姿は今は観られませんが長崎電気軌道で新型車に変身した「1300形」の床下回りにその前身がうかがわれます
懐かしい
小学校4年から卒業まで門司に住んでいて、よく西鉄電車を乗っていました。🤗廃止が決まったときは、とても寂しかったです。🤧小学校の卒業文集で隣のクラスの男子がさよなら西鉄電車と書いていました。夏休みに乗ったときは、大手塾に行っていたクラスメイトの男子とあったことがあります。クラブ活動も同じ読書クラブでした。その男子は、無事に私立中学に合格しました。西鉄北九州線、思い出の電車です。🤗
コメントありがとうございます。門司方面の映像もご覧戴けましたか。
出来れば 中央町発幸町経由門司港行きが有れば見たいですね、理由は山王町から沖台通りまで専用軌道が通ってるから懐かしい動画を見たいではないですか、三六町からの専用軌道が大門まで専用軌道が繫がってる画像の写りは我慢是だけの動画を写すなんて至難の技ですよ、非常に良い映像を残してくれて、有難う御座います感謝
この映像が見たかった!工大前が祖母の家の最寄り駅でした!京都から行くので新幹線が最も多かったですね!でも車で行った時に車道になってました!up、Thank youです!
コメントありがとうございます。新幹線といえば、100系の二階食堂車でゆっくりと昼食をとるのが楽しみでした。
これは貴重な映像や!今では京阪京津線の浜大津から上栄町しか路面電車は残ってへんのに…。日明を通り新中原まで乗った子供の頃の記憶が甦る!
コメントありがとうございます。昨年、30年ぶりに京津線に乗りましたが、地下化で楽しい区間が少なくなりました。
@@user-884vx2ph1h 30年?それは長いですね!京阪の京津線は京都市営地下鉄に乗り入れてますし…🚇。
廃止前に北九州線と北方線の全線走破しました。黒崎折尾間が残っていた時に、電車代行バスの乗務員として門司、戸畑、枝光、中央町を走りながら「電車が走ってた」と思いながらハンドルを握ってました。大門から三六のバス専用道も道路拡幅でなくなりましたが、昔日を思い出す画像です。余談ですが福岡市内線の電車代行バスも運転しました。姪浜から九大前、貝塚、博多駅、西新、城南線、大博通りを運転しました。九大前から馬出の専用軌道はバス専用道で電停のホームがそのまま利用されてました。あの狭い区間をモノコックのデカいバスで往来する時は減速してました。
貴重なお話しを頂き、ありがとうございます。
あ~(涙)やっと三六町に帰れた(涙)ありがとう
まさに北九州市内はいいですねえ。このころはいっちいち乗り換え負担🈚でラクチン電車だもの。住み良さがウーンと分かるワァ。
中井口で降りて坂登ってばあちゃんとこに遊びに行ったの覚えてるなぁ・・中井口とこの工場がなんか独特の匂いがしてたっけ?いつもは大門で乗り換えて行ってたから、戸畑側はあまり記憶にないのが残念・・
廃止前くらいかな。自分は国鉄通学でしたが、廃線前は戸畑に見に行きましたね。
小芝の線路沿いに住んでて毎日電車の音を聞いてました沿線の風景が見れて涙が。。 (>_
三六から専用軌道に入って最初に警報機と遮断機のある踏切は現在小芝三丁目バス停のある位置です因みにこの踏切道の正式名称は「工大前3号」踏切です
凄く貴重な映像ですね。北九州線は砂津~黒崎は比較的後年迄あったので映像が残ってますが、門司・戸畑・枝光・北方線は写真ですら結構少ない!!!映像は皆無に等しい!!!できれば門司や枝光線が見たいですね(北方線は無理だろうけど…)
コメントありがとうございます。私が北九州市に移った時には、既に北方線は過去の物でした。門司・門司駅間、幸町電停、牧山電停の映像等をアップしていますので、ご覧いただければと思います。
@@user-884vx2ph1h 殿貴重な映像UPありがとうございます。僕は、門司線の砂津手前の専用軌道部分がとても見たいのですが、無いですかねぇ…。昔、廃線直前、親に門司電停から乗せてもらいに行ったのですが、その部分の記憶がありません。確かに砂津まで乗って、父の会社に行った記憶があるのに…専軌部分は後から知り「そんなのあったの?」てな感じです。数少ない写真を見ても???です。後、枝光の専用軌道部分(特に枝光駅前とか)こちらは、単に乗ったことなかったので…小倉っこ(門司寄りの…)だったんで…戸畑・枝光線は知らないまま無くなってたんで…。
追加コメントありがとうございます。すみません、この後は、撮影の機会を逸してしまい、ご所望の場所の映像はありません。当時の地図では、新幹線の高架下が専用軌道になっていて、現在は、拡幅された3号線の歩道部分のようです。車道の新下関寄りの橋脚の反対側(新下関側)の橋桁の下を抜け、菊陵中学校のフェンスに沿って電車が通っていたと思われます。StreetView で見る限り、すこしは想像できそうです。
@@user-884vx2ph1h殿、御返信ありがとうございます。かなり無茶な願いだったと自分でもわかってます(笑)そうですよね。拡幅前の3号線の駐車場部分は元々北九州線の線路敷だったんですよね。中学校フェンス前を走る電車の写真見たことが有ります。北九州線の砂津~黒崎以外の非常に貴重な映像が有るだけでもとてもありがたいです。あらためて貴重な映像UPありがとうございました。
我が家が見える❗中原電停❗
こうしてみると北九州にも廃止路線は多いものですね。
西鉄北九州線はかつて総延長45㌔の路線網を誇っていて東京 名古屋 大阪等の大都市路面電車が相次いで廃止された後一時期日本一の路線網を記録した時代がありました系列会社の筑豊電鉄をも併せると60㌔を数え北九州市と福岡市を直結出来るような大規模なものでありましたまた筑豊電鉄は過去の大いなる目的として福岡市内(博多)まで60㌔の路線延長計画がありさらに福岡市内線との直結案もありそれらが実現し尚且つ現存していたらJRに勝るとも劣らぬ基幹交通に発展していたに違いなかったでしょう今は両市内線共に全廃され筑豊電鉄のみが黒崎と直方とを往復するにすぎませんが西鉄路面電車時代の面影を色濃く残す魅力あふれる路線として末長く活動してもらいたいものであります
運転席のところにある「マイカーでイライラするよりラクチン電車」のポスターが涙を誘います😢
当時走っていた「ラクチン電車」は600形のうち627号と650号の2両が現役で活躍しておりました627号はオレンジ塗装を650号はイエロー塗装をそれぞれベースに下半分は人の絵が描かれていました私は上記のいずれにも乗車いたしましたがそのうち「627」の3文字が個人的なラッキーナンバーとなりました因みに627号電車は1992年に現役を引退致しましたが2010年初夏頃に同じナンバーの路線バス「北九州200か走る627」が走っており北九州で2つの「627」にお世話になる結果となりました
妄想ですが、1950年代までに、阪神や京阪、京王のように軌道敷を道路と完全に分離し、18m長の4両編成車を走らせていたら、北九州線が存続していただけではなく、西鉄の主力は大牟田線ではなく、今でも北九州線で、九州の中心は北九州市だったかもしれません。JR九州は、西鉄に対抗すべく、門司港ー折尾間に新快速を走らせていたかも。
コメントありがとうございます。幻の「山手線」の再現ですね。数年前、東田で「大蔵線」の展示を見ました。これが活用できなかったのが惜しい。
大蔵線の件、知りませんでした。声が出そうになります。北九州線が廃止された今となっては、勿体ない話です。しかしもっと勿体ないのは、門司ー折尾間の複々線区間を活かせてない事です。これだけ長い区間は、首都圏、関西圏にしかなく、名古屋にはもっと短いものしかありません。ところが、日中1時間あたりでここに走るのが、特急2本快速1本区快2本普通1本勿体ない。これを特急2本新快速・快速4本区快・普通6本くらいにする事で、北九州線が目指したインターアーバンの実現ができるのではないでしょうか。(新快速の停車駅は、折尾ー黒崎ー西小倉ー小倉ー門司ー門司港(下関)でいいと思います。)折尾駅高架の際には、ぜひ期待したいところです。(普通系統を2両ワンマンにすれば、需要があるのではないかと思います。)
@@iiibu 門司~小倉間なら山陽線直通列車運行のため他では観ない交流線直流線の分離によるによる複複線にしてもよさそう。そうすれば415系の後継車両を造らず、筑肥線でしか使われない車両を導入すればいい話になるので。とりわけたった3編成で打ち切られた303系の4編成目以降の活躍の場となるので。でも北九州にそれほど鉄道の需要はないと思う。特に門司~折尾間の沿線に大型商業施設は小倉駅周辺以外だと八幡イオンしかないから。来年できるアウトレットモールも所詮八幡イオンの一部。
@@iiibu でも福間~鳥栖間より需要少ないから無理。
愛知嫌い男より😡⚡。関西三重出身だけど北九州のほうが好きっちゃ。🇦🇷
この電車は中原や工大前に行きますか?小芝の近くを通るなら小さい頃の私も乗車済みです。京都から祖母の家によく行きました、懐かしい!
今は分かりやすくなりました電車が走っていた当時は「小芝」の駅名がなかったため運転士さんに最寄りの駅名を尋ねる事がありましたが現在は同じルートにバスが走っており「小芝三丁目」のバス停がありますので大変便利です因みに現在の「小芝三丁目」のバス停は動画にあるように三六から専用軌道に入って最初に警報機と遮断機のある踏切跡地に設置され後年「三六市民センター入口」と記された信号が目印です
間違えた。「麻生小」でなくて「浅生小」。まだ思い出せるよ。提灯山笠、三六、沢見、夜宮、到津、牧山、金毘羅山、玉屋・井筒屋・・・
めっちゃ飛ばしますね^ ^
コメントありがとうございます。この区間は専用軌道で、並行する国鉄と競走していた感じですね。
西鉄北九州線は専用軌道を中心にかなりスピードを出して走る電車でありましたこの戸畑線や折尾線の専用軌道は鉄道並に信号機が所々にありましたがその多くが難なく通過していたので路面電車とは思えない高速運転を体験することが出来ました元々西鉄北九州線は郊外電車的な役割をも果たしており筑豊電鉄もそのDNAを色濃く引き継いています
12:06ゼブラー 付き角形黒?深緑?の信号機がなかなか
2:19のデルタもそうですが北九州の場合ポイント切り替えはどの様な方式だったんだろ…
コメントありがとうございます。ゼブラ付きは交通信号で、その左下に有る黒い板が電車の信号です。方向を示す「 が表示されていました。他の方の映像で熊西分岐の現示を撮っているのを見たことが有ります。幸町の信号扱所は戸畑から大門に向かう線の左側(外側)に有ったと記憶しています。残念ながら、ちゃんと撮っている映像はありませんでした。幸町電停の映像の5:50辺りで603号の向こう側に有る「家」がそれだったと思います。ご存知の方が有りましたらご教示ください。
うろ覚えで済みませんが、遠い記憶をほじくり返して書いてみます。正確ではないかも知れません。通学途上の大門しか見ていないのですが、白の2灯式(直進と右矢印)のポイント切換え専用の信号機、そしてトロリーコンタクターで運転士が方向を決めていました。トロコンの存在は明確に覚えています。客扱いを終えた電車が少し前進して停止すると、信号機が15秒位の長い間隔で交互に点滅します。希望の方向が点灯するとすぐに運転士はポイント直前まで電車を進めて停止。これでポイントが切り替わります。レールがすでに希望の方向に開通していた場合は客扱い後そのままポイント直前まで電車を進めていました。あとは大門交差点の交通信号機(黄色の矢印)に従って進行します。ポイントの開通方向と交通信号機の矢印(直進:金田・到津方面、右:戸畑方面)の連動も取られていました。信号所の建物に係員は常駐していましたが、トラブル時以外はポイント操作には関与してなかったようです。運行上の都合や車両故障などで行先が変わる(例えば門司行きが途中の砂津止まりになる)時などにマイクで電停に据えられたスピーカーを通して運転士に指示を出していたように覚えています。当時は米町~大門間の道路が一方通行でした。何もかもが懐かしいです。
Takabou6511 行きたい方向が表示したらトロコンで叩く函館 高知 長崎 鹿児島岡山「駅前のみ」の方式ですね
@@スーパーおおとりさん補足ありがとうございます。私の言葉が足りませんでした。
細かい事で申し訳ないですが、タイトルの戸畑渡場はバス停名なので、戸畑電停に変えて頂きたいです(;'∀')
コメントありがとうございます。仰る通りですね。あの場所は「戸畑渡場」と言い慣わしていたのでついそのように記載してしまいました。電車の行き先表示は「戸畑」ですものね。今回、「戸畑(渡場)」としました。
ハヤシタケシ 対応ありがとうございました(^^)第一次縮小前の動画を探していたので見ることが出来て嬉しいです(^-^)
@@user-884vx2ph1hこの当時は「国分寺市立第4小学校」の所属で、この学校の北向かいに「中央鉄道学園」がございました。廃止直前に発売された「西鉄」の関連書籍で「戸畑」と「枝光」を初めて知りました。自分は東京都民で、路面電車と言えば都電、東急世田谷線、江ノ電のイメージが強かったが、北九州にも路面電車が有ったのは知らなかったでした。現在も残っていましたら、北九州旅行にも便利で、到津の森公園にも行くことが出来ていました。
立つたまま運転するのかい。路面電車は好きだが維持するのは難しいだらう。
広告電車なんて、あったんですねぇ・・・
コメントありがとうございます。かなり派手、でしたね。
大門は都電にも存在しましたが、1969年に廃止となりました。(客扱いは1967年に廃止)自分は東京都民で、大門と言えばJR東日本とモノレールの「浜松町駅」と「増上寺」の近くに有る、都営地下鉄の駅ですが、北九州にも「大門」が有るのは知らなかったでした。今となってはラミネートシートによる「広告ラッピング電車」ですが、当時は塗装で広告を塗っていました。
西鉄北九州線は1980年代半ばに600形を中心に数多くの広告電車が活躍していました広告主は主に地元企業ですがデザインは個性に満ち溢れていましたこの動画でも3両が確認され三六付近ですれ違う627号は2代目のスポンサーである「到津遊園」です暫くして1992年秋には砂津━黒崎間が廃止されるのに合わせて600形3両が「お別れメッセージ号」として華やかにペイントされましたこの内1両「634号」が廃止後到津遊園に保存されましたが後にスクラップにされたのは残念でなりません
1980年代の西鉄北九州線は同線の主力電車だった600形を中心に10数両が行き交っておりましたこの動画にも三六駅付近を走る627号や大門駅手前ですれ違う602号!?の姿が確認出来ます627号の広告塗装車は2代目で当時存在した[いとうづゆうえん]号でありすが1982年頃にもオレンジ色系ベースの[ラクチン電車]という初代の広告電車も活躍していて私はどちらもお気に入りのデザインでありました
ポンボン船があった所だね。
この時代、ビデオカメラ持ってる人なんてほとんどいなかったでしょう。目立ったでしょうね。
手元写してどうすんの 一番肝心な景色が大事あの当時の景色がいちばん
コメントありがとうございます。他の映像でもそうですが、運転士のブレーキ弁捌きが面白かったのですね。今なら、カメラ2台使って手許と前面を撮っていたかもしれませんね。
日明駅付近が収録されていなかったのが惜しかったです
撮影の方法が最悪
もう少し考えて発言して下さい貴方感じ悪いですよ
お前、この線路、他の路面区間並みの規格で造られたからたかだか50km/hで名古屋や関西の新快速の3~4倍揺れるとんでもない乗り心地知らねーから抜かすんだろ。知らねーで下らねーことぬかすな。
今でも路面電車は、全国各地に残り活躍している。このクリ-ンな公共交通機関を西鉄と北九州市は、完全に見誤り失策した。取り返しは効かない。大量の排ガスまき散らすバスの前途は明るくない・・・・・。
もう少し長い目で見届けていれば現在でも西鉄北九州線は生き生きと活躍していたに違いなかったでしょう私にとってもこの西鉄北九州線は魅力あふれる交通機関に数えていましたので同線の廃止は誠に残念でなりませんしかしそんな西鉄の路面電車たちが福岡県内で7両(福岡市内線等も含む/他に筑豊電鉄の連接車が2組あり)大切に保存されているのは誠に光栄であります
いま51歳になりますが、若戸スポールで遊べたのは貴重な思い出ですね(^^)
素晴らしい記録です。生まれてから高校卒業まで幸町電停近くに住んでいました。北九州線の全線が残っていれば、今頃は貴重な観光資源になっていたと思います。
今現在は筑豊電鉄を除いて姿を消しましたが現在も当時の規模(凡そ40㌔)の規模が確保出来ていれば北九州の基幹交通機関として大いに活用されていたに違いなかったでしょう
私の鉄道マニアの原点でもあるこの西鉄北九州線が多くの市民に惜しまれながらも廃止されてしまったことは誠に残念でなりませんが今でもこの北九州線が生き生きと活躍していれば新型電車の導入はもとよりバス同様にバリアフリー化を達成していたに違いなかったでしょう
貴重な動画ですね。
当方、乗りつぶし系鉄道マニアです。
1982年に入社後の3交代研修で3か月、北九州にいました。
当時の西鉄の路面電車線は殆ど乗りましたが、幸町~戸畑の2駅間は乗らずじまい。
研修先のバス停が戸畑西門だったので、毎日、デルタ線だった幸町電停の横を通りましたし、戸畑の電停まで線路沿いに歩いたこともあるので、何故乗らなかったのかと後悔し続けています。
今回の動画で、少し乗車した気分になりました。
ありがとうございました。
@asa76851さま、コメントありがとうございます。私と同時期に北九州に居られたのですね。何処かでお会いしているかも。
そうですね。中央町あたりの飲み屋さんでご一緒していたかもしれませんね。
懐かしい!素晴らしい動画アップありがとうございます☺️
現在50目前ですが日明西口電停の近くに昭和60年代前半まで住んでいました。
子供の頃の風景に泣きそうになりました。😭
まだ家族が父、母、妹、祖父母の勢揃いしていた平和な時代だったあの頃✨
今は独りぼっちになったけど😢
懐かしすぎます。祖母に連れられて、よく乗ってました。幸町のロータリー。涙が出そうになりました。UP、ありがとうございました!
1984年3月は自分にとっては正に青春時代です
現在51歳となりましたがこの風景は生涯忘れることのない貴重なものです
この区間はバス専用道路となった後一般道路となりましたが
ここを走るバスに乗るたびに今でも電車に乗っているように感じられます
この動画は貴重ですね!1966年まで千防町に住んでましたので月に一度は天神町の商店街を歩き三六電停から家族で小倉の井筒屋や玉屋に行って買い物を楽しみ大食堂で「お子様ランチ」を食べて井筒屋では屋上遊園から小倉の街並みを眺めるのが楽しみでした。1965年には戸畑に岩田屋が開店。岩田屋には徒歩10分で行けましたが戸畑も当時は賑やかで活気ありましたが小倉の魚町・室町にはかないませんでしたね😅鹿児島本線で戸畑から小倉まで乗車する事は殆どありませんでしたが両親の実家が熊本でしたから年に数回、急行「ひまわり」で3時間かけて乗車!1965年に国鉄戸畑駅も木造駅舎から近代的な駅舎になり乗降客も最盛期は4万2千人でしたが現在は2万人にも満たない。当時は戸畑駅から急行東京行、名古屋行、大阪行等の列車もありました。北九州市の人口も最盛期は106万…戸畑区も11万人の人口を擁しましたが現在は6万余…2014年に戸畑を久々訪れましたが空気がきれいになりました。あの頃は八幡製鉄所(現日本製鉄)から七色の煙が規制なく排出されてましたから…文化ホールは無くなりましたが街並みも綺麗になった印象です。1992年に西鉄北九州線が廃止。中央町~黒崎まで乗車しなかった事が悔やまれます。
路面電車と西鉄バスのモノコック車両、懐かしいですね。37年も前とは思えない臨場感があります。
路面電車の動画は今となってはとっても貴重ですね。
こんな貴重な動画を見せて下さり有り難うございます。
この動画私が昔努めていた西日本鉄道の関連会社時代の先輩に見せたらきっと喜ぶかもです。
その先輩は西日本鉄道の東電車営業所にいた先輩で車掌をしてたと言ってました。
見せたら泣いて懐かしがるかもしれません。
30秒くらいの所の右手に私の生家がありました。若戸スポールとか懐かしいですね。
超貴重な映像をありがとうございました。中原から工大前まで一駅でしたが、幼稚園に行く時一人で無賃乗車してしまい(幼児は無料だと思っていた)。
「終点まで連れて行く」と言った運転手さんに、知らないおじさんが「かわいそうやろ」と、電車賃(当時35円)を出してくれた事を思い出しました。
風景もその頃とほとんど変わっておらず、素朴な戸畑の町。運転手さんの手元や、スピード感、信号待ちでシンとなる音、すべてが懐かしいです。ありがとうございました。
懐かしい!入社直後の9ヶ月は、米町から九工大前までこれに乗って夜学に通ってました。
デジタル化公開ありがとうございます。
懐かし!幸町 テツビル 薄っすらと玉屋も見えますね、有難うございました。
祖父祖母が暮らしていた中原には思い出がたくさん詰まっています。その中原電停を見れるとは。本当にありがとうございます!
生まれる前の我が故郷!路面電車なんて走ってたの?って半信半疑でしたが本当だったんですね....!西鉄バスのデザインも丸っこくて可愛いです。
中学は日明西口から大門まで電車に乗って、大門から徒歩で思永中学まで通い、小倉工業高校へは大門から下到津まで乗って、その後徒歩で学校に通いました。高校は1968年まで通いました。懐かしいです。
懐かしい。私が高校生の頃はすでに電車は廃線になっててバス専用道の時代でした
バス専用道はBRTの嚆矢にあたりますね🚌
工大前の電停懐かしいです。中原の伯母の家の最寄りの電停で公園の近くにあったのでそれを目印に何度も来たことがある。一軒家にアパートに改造した家だった。もう伯母も亡くなったので、来ることもないが、いずれはもう一回でも訪ねてみたいと思う。懐かしい映像でしたありがとうございました。
戸畑線はあまり乗った事が無かったけど、幸町の三角の電停はやたらに記憶に残ってた。
子供の頃、北九州に住んでいた時、魚町から歯科大学前まで、北九州線で、戸畑線、枝光線を経由して、乗ったことがありました。
映像当時6歳でした。当時は若松に住んでいましたが、子供の頃よく健和病院に行っていたので、渡場~中原はよく覚えています。
現在は戸畑に居ることもあり、この路線(現在の70、91番)を通りますが…今でも面影ありますね。最寄りの三六はつい最近まで映像のままの風景でした。…今は様変わり中…。
………現在、路面電車の復刻バスが1番の路線で走っていますが、色、違うんですよね………。
とても懐かしい映像、ありがとうございました。
テツビルって今のスピナ戸畑店かな?いわゆる電車通りですよね。ぼくのアパートの前を通ってるはずだけど、外の景色が映ってなくてわからないな。中原の跨線橋の周辺をよく通りますが、当時はこんな雰囲気だったんですね。貴重な映像をアップいただきありがとうございます。
電車の車窓から見る西鉄
北九州線(戸畑線)は私に
とって思い出のアルバムです
戸畑在住の私にとっては
小倉や門司方面へ行く時に
殆ど欠かさず乗車したこの
西鉄戸畑線は大切な移動手段
の一つでした
私が幼稚園へ通園する時は三六
親戚の自宅へ行く時は工大前
そして小倉へ行く時は魚町で
よく下車したのを思い出します
三六から専用軌道に入って最初
に警報機と遮断機のある踏切
(現在の小芝三丁目バス停付近)
はあらゆる理由で数多く
渡り切った事のある思い出風景
の一つです
また車窓から映る600形電車や
500形電車の在りし日の姿も非常
に懐かしく感じられます
500形の車内カラーである若草色
も過去の情景となりました
この戸畑線は枝光線や門司-砂津
間と共に1985年秋に廃止され
最終的に黒崎-折尾間も2000年に
廃止となりましたが全廃時まで
あらゆる目的で31年間お世話に
なりました
貴重なスマホ動画
誠に有難う御座いました
九工大OBです。まさにこの時大学4回生でした。貴重な思い出ありがとうございました。
15歳まで住んでいた北九州を検索してたら、この動画を見つけました。
もう40年以上も前ですが、当時、中井に住んでいて、中井口から戸畑の
祖母の家までこの電車をよく利用していた記憶がよみがえりました。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。北九州の町もだいぶ変わりました。
こんな映像があったとは!凄いなぁ~、小学生の頃だ。
これは凄い動画ですね。
昭和50年ごろ、筑豊電鉄の永犬丸付近に住んでいましたが、日中は比較的頻繁に砂津行きはあったものの、早朝の何本があった「幸町 経由 砂津行き」というレアな列車に乗ったときは狂喜しました。あの当時は筑豊からの連接車が幸町経由の路線で乗り入れていたのは奇跡ですよね?
動画は幸町のデルタ線も入っており、とても感動しました。
当時まだ小学生でしたが、結果的に砂津〜門司と北方線が未乗のままで廃止になりました。残念でした。
小倉の魚町の井筒屋、室町の玉屋のデパートに行くのに永犬丸から今は亡き母と乗ったのは良い思い出です。幸町経由の路線は併用ではない専用線でしたので、それがまた良かったです。
本当に懐かしいです。
素晴らしい動画をありがとうございました。
コメントありがとうございます。
喜んでいただけたようで何よりです。見慣れた風景だったものが無くなって、このような昔の映像で見たりすると、写っていない風景まで思い出されます。
当時門司住まいで、連接車は自分にはとても珍しい存在に思えました。
小学生当時、学校で希望者を募って到津遊園での林間学校に参加したことがあります。
専用電車には2車体の連接車が充てられ、砂津方面からやってきた電車が門司駅前の渡り線で向きを変えて
遊園地まで行きました。手で操作する笛弁がとても珍しかったです。
西鉄北九州線で乗車した車両は多々あります
中でも連接車の比率が割りと高かったので(旧北方線は7割以上で筑豊電鉄はすべて連接車で運転)戸畑線から折尾線に至るまでワンマンや連接車を問わず様々な電車に乗車経験があります(門司線で連接車の経験がなかったのが残念)
1970年代半ばの一時期2両連接の2000形(後の筑豊2000形3両連接)にも数回乗車した事がありますが1000形と比べても決して違和感のない乗り心地でありました
色々検索していて、懐かしい動画を見せて貰いました!
戸畑には70年近く前に(麻生小・沢見中の頃)住んでいて、
幸町、九州工大前、中原、日明、大門等々思い出します。
この電車もずっと前に廃止されたんですね?残念です。
動画にある西鉄北九州線(戸畑線)は門司〜砂津間 枝光線と共に1985(昭和60)年10月19日を以って廃止されました
この映像の3年後に、初めて北九州に行き、市電も乗りました。懐かしい。
三六電停付近を走る627号電車
が映っていた事に感動しました
この627号は1984年から1987年
に「いとうづゆうえん」の広告
電車として活躍したものです
627号は1982年から1983年に
「ラクチン電車」(窓上に青空を
窓下に多くの人々のイラストが
描かれたオレンジ系の塗装)と
しても活躍しどちらの塗装も
お気に入りであり「627」が
私にとってラッキーナンバー
としてインプットしています
今は西鉄バスにも
「北九州200か627」と登録
されたバスが1番系統を中心に
活躍しており電車とバスで
昭和 平成 そして令和と
3つの時代で「627」の御世話に
なっております
ただこの627号電車が最後まで
冷房化されなかったのが非常に
残念でなりません
最後になりましたが半分が
自慢気な内容になりました事を
御詫び申し上げます
いやぁ、感動です!
ありがとうございます!私が日明に住んでいた頃、半世紀前とは少し風景が違いますが、懐かしく拝見できました。
ただ日明の電停がなかったのが残念!
車の免許を取ってから、広島から運転して行った時は、まだ路線が残っていました。
鹿児島本線も映っている!
通っていた日明小学校、大門にあったおひさま幼稚園を思い出します。
日明市場もあったなぁ!
いろんなこと思い出しました。ありがとうございます!
コメントありがとうございます。
目移りしているような映像ですみません。よく見て戴いて幸いです。
日明駅付近の風景が映ってなかったのが惜しかったです
@@user-884vx2ph1h こちらこそ、感謝です。感謝感激雨霰!
第2の故郷、北九州市小倉区(現小倉北区)を本当に思い出しました。
5:20 三六電停の奥にある専用軌道入り口の架線電柱は、1985年10月20日廃止後、残りましたが、2017年5月上旬、道路2車線が4線に拡張工事に伴い、撤去しました。
コメントありがとうございます。いま、電車道の面影は随分無くなってしまいましたね。1985年10月19日の映像も探してみます。
三六駅横の専用軌道出入り口にかつて存在した鉄製架線柱は正に昭和の鉄道の風物詩の一つでした
三六から日明(小倉高校下)にかけ専用軌道跡地がバス専用道路として整備されましたがこの架線柱が電車時代の名残です
その後バス道路が一般道路として統合されこの架線柱も撤去されました
現在三六から次の小芝三丁目にかけ小倉方面に向かって左側が一段低くなっているのは電車時代からある名残の一つです(地形の関係で平面化出来なかったでしょう)
廃止が本当に悔やまれます。あと10年頑張ってたら…。おそらく低床式のLRTなどが走って広電のように復権出来ていたかもしれません。思えば幸町の活気はこの電車がなくなって驚くほどになくなりました。この頃は中本町よりむしろ幸町が交通結節点でした。
コメントありがとうございます。仰られる様に、現在の北九市の道路状況になるのであれば、路面電車の廃止は早すぎたかも(ここは専用線区間も多かったので尚更ですね)。
全く同感です。
かつて北九州に住んでいた広島在住です。なので路面電車を廃止した都市と存続した都市の風景と現状を味わっております。
映像当時、私は9歳です。
戸畑の新池に祖父、祖母が住んでいてよく遊びに行って、路面電車のレールに石を置いて酷く怒られた思い出がよみがえります。
コメントありがとうございます。
戸畑はコンパクトで良い街ですよね。
よう、こんな映像残っとったね。廃線後はバス専用道路になったんよね~。工大前に中原、中井…懐かしい🎵
旧福岡市内線(1975年に半減)の一部の専用軌道区間も同様に電車廃止後はバス専用道に転用されました(現在は箱崎から馬出の短い区間のみですが)
北九州線の大門−三六間の専用軌道跡地も大部分が同様にバス道路化され電車時代の面影を残していましたが
平成の終わりから令和の初めにかけ一般道路化され今では微塵も見られぬほど大きく様変わりしました
この動画の3~4年前、沿線の(やんちゃな方の)高校への通学でこの線を利用していました。
運賃表なんてよく撮影されましたね!耳につくモーター音も相まって懐かしさ倍増です。
『ちゃっきりくん』ではないタイプのもりかわ園や湯佐部品、いとうづゆうえんの広告電車も懐かしいです。
動画とは逆方向になりますが大門から戸畑線の専用軌道に入った時の長い下り坂はどの電車も相当飛ばしていました。
特にコイルばね台車を履く300形はピッチングが物凄く、まるでアトラクションのようでした。
忘れ得ぬ思い出です。
かつての西鉄北九州線300形電車は西鉄の元運転手さんのお話しによると折尾線の長い専用軌道(皇后崎〜陣の原)で大きくバウンドしていたとのことです
映像当時は生後4か月でしたw
10歳の頃、親と一緒に北九州を訪れた時、なんでバス専用道路なんてのがあるんだ?と疑問に思っていましたが、
かつて路面電車が走っていたことを知り、驚きました。
一度でいいから乗ってみたかったです…
これはすごい…
私の生まれた年の映像です…私は折尾ー砂津間しか乗ったことが無くて…この動画を見て、現在職場が戸畑であることもあり、痕跡を探してみました^ ^丁度画像の専用軌道に入るあたりに九軌の杭と西鉄の杭を見つけました^ ^あとは、もう使われていませんが戸畑BCの建物は電車時代からのままですね。
枝光線の方は一部築堤が残っていたり、鹿児島本線をオーバーパスしていた名残や、杭も何本か見つけました^ ^
折尾ー黒崎駅前間専用軌道はとばすので揺れが半端なかったのは懐かしい思い出です
コメントありがとうございます。また、現在の場所を訪ねての情報、感謝します。九軌の杭が残っているとは驚きですね。
コメントありがとうございます
あなたが生まれた当時は私は
高校1年生でした
此処に紹介されている旧西鉄の
戸畑線は私にとって生涯思い出
の尽きるものではありません
私は幼稚園にあがる1974年から
足掛け12年この西鉄戸畑線に
何度となくお世話になりました
が今では跡継ぎの交通機関が
もっぱら西鉄バスとなりました
沿線の風景もすっかりと変わってしまいましたが今でもここを
走る西鉄バスに乗る度にかつて
の電車時代を思い出しまさしく
時代の流れを感じさせます
1985年当時現役で走っていた
電車たちは福岡県内にわずかの
数両程度が保存されているに
過ぎませんが電車マニアの私に
とっては末長く「生き証人」と
して存在してもらいたい次第で
ございます
4月まで住んでた社宅が既にあるのが感動。
コメントありがとうございます。
この沿線は古い建物が結構残っているのですね。
旧西鉄戸畑線跡地は当初専用軌道がバス専用道となった程度で沿線風景は電車時代さながらでありましたが時代を追うにつれて都市化が進行し道路も拡幅されて風景は一変しました
しかし一歩中へ入ると現在でも当時の面影が残っていて今なお昭和の風景を観る事ができます
電車の運転士さんの前に行って運転を見てるのが好きでした。
当時は子供達はみんな運転している所が見れる前の場所が好き
だったんではないでしょうか。
足の所に鐘を鳴らす突起みたいなのがありましたネ
連接車は進行方向右側で前面窓ギリギリまでシートが伸びていましたので気軽に前面展望を楽しむ事が出来ます
筑豊電鉄でも3000形電車がこのようなスタイルであります
この区間廃止が決まった時に戸畑→門司(終点)まで乗りました。北九州線には5両しかない元福岡市内線の300系で湯佐部品(カー用品店)のラッピングトレインでした。
西鉄300形電車はユニークなスタイルで元福岡市内線の車両です
連接車の子分とも呼べる独特なスタイルは同じく元福岡市内線の500形と比べ一線を画す存在でした
丸々の姿は今は観られませんが長崎電気軌道で新型車に変身した「1300形」の床下回りにその前身がうかがわれます
懐かしい
小学校4年から卒業まで門司に住んでいて、よく西鉄電車を乗っていました。🤗廃止が決まったときは、とても寂しかったです。🤧小学校の卒業文集で隣のクラスの男子がさよなら西鉄電車と書いていました。夏休みに乗ったときは、大手塾に行っていたクラスメイトの男子とあったことがあります。クラブ活動も同じ読書クラブでした。その男子は、無事に私立中学に合格しました。西鉄北九州線、思い出の電車です。🤗
コメントありがとうございます。門司方面の映像もご覧戴けましたか。
出来れば 中央町発幸町経由門司港行きが有れば見たいですね、理由は山王町から沖台通りまで専用軌道が通ってるから懐かしい動画を見たいではないですか、三六町からの専用軌道が大門まで専用軌道が繫がってる画像の写りは我慢是だけの動画を写すなんて至難の技ですよ、非常に良い映像を残してくれて、有難う御座います感謝
この映像が見たかった!工大前が祖母の家の最寄り駅でした!京都から行くので新幹線が最も多かったですね!でも車で行った時に車道になってました!up、Thank youです!
コメントありがとうございます。
新幹線といえば、100系の二階食堂車でゆっくりと昼食をとるのが楽しみでした。
これは貴重な映像や!今では京阪京津線の浜大津から上栄町しか路面電車は残ってへんのに…。日明を通り新中原まで乗った子供の頃の記憶が甦る!
コメントありがとうございます。
昨年、30年ぶりに京津線に乗りましたが、地下化で楽しい区間が少なくなりました。
@@user-884vx2ph1h 30年?それは長いですね!京阪の京津線は京都市営地下鉄に乗り入れてますし…🚇。
廃止前に北九州線と北方線の全線走破しました。
黒崎折尾間が残っていた時に、電車代行バスの乗務員として門司、戸畑、枝光、中央町を走りながら「電車が走ってた」と思いながらハンドルを握ってました。
大門から三六のバス専用道も道路拡幅でなくなりましたが、昔日を思い出す画像です。
余談ですが福岡市内線の電車代行バスも運転しました。
姪浜から九大前、貝塚、博多駅、西新、城南線、大博通りを運転しました。
九大前から馬出の専用軌道はバス専用道で電停のホームがそのまま利用されてました。
あの狭い区間をモノコックのデカいバスで往来する時は減速してました。
貴重なお話しを頂き、ありがとうございます。
あ~(涙)やっと三六町に帰れた(涙)ありがとう
まさに北九州市内はいいですねえ。このころはいっちいち乗り換え負担🈚でラクチン電車だもの。住み良さがウーンと分かるワァ。
中井口で降りて坂登ってばあちゃんとこに遊びに行ったの覚えてるなぁ・・中井口とこの工場がなんか独特の匂いがしてたっけ?いつもは大門で乗り換えて行ってたから、戸畑側はあまり記憶にないのが残念・・
廃止前くらいかな。自分は国鉄通学でしたが、廃線前は戸畑に見に行きましたね。
小芝の線路沿いに住んでて毎日電車の音を聞いてました
沿線の風景が見れて涙が。。 (>_
三六から専用軌道に入って
最初に警報機と遮断機のある
踏切は現在小芝三丁目バス停
のある位置です
因みにこの踏切道の正式名称は
「工大前3号」踏切です
凄く貴重な映像ですね。北九州線は砂津~黒崎は比較的後年迄あったので映像が残ってますが、門司・戸畑・枝光・北方線は写真ですら結構少ない!!!映像は皆無に等しい!!!
できれば門司や枝光線が見たいですね(北方線は無理だろうけど…)
コメントありがとうございます。
私が北九州市に移った時には、既に北方線は過去の物でした。門司・門司駅間、幸町電停、牧山電停の映像等をアップしていますので、ご覧いただければと思います。
@@user-884vx2ph1h 殿貴重な映像UPありがとうございます。
僕は、門司線の砂津手前の専用軌道部分がとても見たいのですが、無いですかねぇ…。
昔、廃線直前、親に門司電停から乗せてもらいに行ったのですが、その部分の記憶がありません。確かに砂津まで乗って、父の会社に行った記憶があるのに…専軌部分は後から知り「そんなのあったの?」てな感じです。数少ない写真を見ても???です。
後、枝光の専用軌道部分(特に枝光駅前とか)こちらは、単に乗ったことなかったので…小倉っこ(門司寄りの…)だったんで…戸畑・枝光線は知らないまま無くなってたんで…。
追加コメントありがとうございます。
すみません、この後は、撮影の機会を逸してしまい、ご所望の場所の映像はありません。
当時の地図では、新幹線の高架下が専用軌道になっていて、現在は、拡幅された3号線の歩道部分のようです。車道の新下関寄りの橋脚の反対側(新下関側)の橋桁の下を抜け、菊陵中学校のフェンスに沿って電車が通っていたと思われます。StreetView で見る限り、すこしは想像できそうです。
@@user-884vx2ph1h殿、御返信ありがとうございます。かなり無茶な願いだったと自分でもわかってます(笑)
そうですよね。拡幅前の3号線の駐車場部分は元々北九州線の線路敷だったんですよね。
中学校フェンス前を走る電車の写真見たことが有ります。
北九州線の砂津~黒崎以外の非常に貴重な映像が有るだけでもとてもありがたいです。
あらためて貴重な映像UPありがとうございました。
我が家が見える❗中原電停❗
こうしてみると北九州にも廃止路線は多いものですね。
西鉄北九州線はかつて総延長45㌔の路線網を誇っていて東京 名古屋 大阪等の大都市路面電車が相次いで廃止された後一時期日本一の路線網を記録した時代がありました
系列会社の筑豊電鉄をも併せると60㌔を数え北九州市と福岡市を直結出来るような大規模なものでありました
また筑豊電鉄は過去の大いなる目的として福岡市内(博多)まで60㌔の路線延長計画がありさらに福岡市内線との直結案もありそれらが実現し尚且つ現存していたらJRに勝るとも劣らぬ基幹交通に発展していたに違いなかったでしょう
今は両市内線共に全廃され筑豊電鉄のみが黒崎と直方とを往復するにすぎませんが西鉄路面電車時代の面影を色濃く残す魅力あふれる路線として末長く活動してもらいたいものであります
運転席のところにある「マイカーでイライラするよりラクチン電車」のポスターが涙を誘います😢
当時走っていた「ラクチン電車」は600形のうち627号と
650号の2両が現役で活躍して
おりました
627号はオレンジ塗装を
650号はイエロー塗装を
それぞれベースに下半分は
人の絵が描かれていました
私は上記のいずれにも乗車
いたしましたがそのうち
「627」の3文字が個人的
なラッキーナンバーとなりました
因みに627号電車は1992年に
現役を引退致しましたが2010年
初夏頃に同じナンバーの路線バス「北九州200か走る627」が
走っており北九州で2つの「627」にお世話になる結果と
なりました
妄想ですが、1950年代までに、阪神や京阪、京王のように軌道敷を道路と完全に分離し、18m長の4両編成車を走らせていたら、北九州線が存続していただけではなく、西鉄の主力は大牟田線ではなく、今でも北九州線で、九州の中心は北九州市だったかもしれません。JR九州は、西鉄に対抗すべく、門司港ー折尾間に新快速を走らせていたかも。
コメントありがとうございます。
幻の「山手線」の再現ですね。
数年前、東田で「大蔵線」の展示を見ました。これが活用できなかったのが惜しい。
大蔵線の件、知りませんでした。声が出そうになります。北九州線が廃止された今となっては、勿体ない話です。
しかしもっと勿体ないのは、門司ー折尾間の複々線区間を活かせてない事です。これだけ長い区間は、首都圏、関西圏にしかなく、名古屋にはもっと短いものしかありません。ところが、日中1時間あたりでここに走るのが、
特急2本
快速1本
区快2本
普通1本
勿体ない。
これを
特急2本
新快速・快速4本
区快・普通6本
くらいにする事で、北九州線が目指したインターアーバンの実現ができるのではないでしょうか。
(新快速の停車駅は、折尾ー黒崎ー西小倉ー小倉ー門司ー門司港(下関)でいいと思います。)
折尾駅高架の際には、ぜひ期待したいところです。(普通系統を2両ワンマンにすれば、需要があるのではないかと思います。)
@@iiibu 門司~小倉間なら山陽線直通列車運行のため他では観ない交流線直流線の分離によるによる複複線にしてもよさそう。そうすれば415系の後継車両を造らず、筑肥線でしか使われない車両を導入すればいい話になるので。とりわけたった3編成で打ち切られた303系の4編成目以降の活躍の場となるので。
でも北九州にそれほど鉄道の需要はないと思う。特に門司~折尾間の沿線に大型商業施設は小倉駅周辺以外だと八幡イオンしかないから。来年できるアウトレットモールも所詮八幡イオンの一部。
@@iiibu でも福間~鳥栖間より需要少ないから無理。
愛知嫌い男より😡⚡。関西三重出身だけど北九州のほうが好きっちゃ。🇦🇷
この電車は中原や工大前に行きますか?小芝の近くを通るなら小さい頃の私も乗車済みです。京都から祖母の家によく行きました、懐かしい!
今は分かりやすくなりました
電車が走っていた当時は
「小芝」の駅名がなかったため
運転士さんに最寄りの駅名を
尋ねる事がありましたが現在は
同じルートにバスが走っており
「小芝三丁目」のバス停が
ありますので大変便利です
因みに現在の「小芝三丁目」の
バス停は動画にあるように三六
から専用軌道に入って最初に
警報機と遮断機のある踏切跡地
に設置され後年「三六市民セン
ター入口」と記された信号が
目印です
間違えた。「麻生小」でなくて「浅生小」。
まだ思い出せるよ。提灯山笠、三六、沢見、夜宮、到津、
牧山、金毘羅山、玉屋・井筒屋・・・
めっちゃ飛ばしますね^ ^
コメントありがとうございます。この区間は専用軌道で、並行する国鉄と競走していた感じですね。
西鉄北九州線は専用軌道を中心にかなりスピードを出して走る電車でありました
この戸畑線や折尾線の専用軌道は鉄道並に信号機が所々にありましたがその多くが難なく通過していたので路面電車とは思えない高速運転を体験することが出来ました
元々西鉄北九州線は郊外電車的な役割をも果たしており筑豊電鉄もそのDNAを色濃く引き継いています
12:06
ゼブラー 付き角形
黒?深緑?の信号機がなかなか
2:19のデルタもそうですが
北九州の場合
ポイント切り替えは
どの様な方式だったんだろ…
コメントありがとうございます。ゼブラ付きは交通信号で、その左下に有る黒い板が電車の信号です。方向を示す「 が表示されていました。他の方の映像で熊西分岐の現示を撮っているのを見たことが有ります。
幸町の信号扱所は戸畑から大門に向かう線の左側(外側)に有ったと記憶しています。残念ながら、ちゃんと撮っている映像はありませんでした。幸町電停の映像の5:50辺りで603号の向こう側に有る「家」がそれだったと思います。ご存知の方が有りましたらご教示ください。
うろ覚えで済みませんが、遠い記憶をほじくり返して書いてみます。正確ではないかも知れません。
通学途上の大門しか見ていないのですが、白の2灯式(直進と右矢印)のポイント切換え専用の信号機、
そしてトロリーコンタクターで運転士が方向を決めていました。トロコンの存在は明確に覚えています。
客扱いを終えた電車が少し前進して停止すると、信号機が15秒位の長い間隔で交互に点滅します。
希望の方向が点灯するとすぐに運転士はポイント直前まで電車を進めて停止。これでポイントが切り替わります。
レールがすでに希望の方向に開通していた場合は客扱い後そのままポイント直前まで電車を進めていました。
あとは大門交差点の交通信号機(黄色の矢印)に従って進行します。
ポイントの開通方向と交通信号機の矢印(直進:金田・到津方面、右:戸畑方面)の連動も取られていました。
信号所の建物に係員は常駐していましたが、トラブル時以外はポイント操作には関与してなかったようです。
運行上の都合や車両故障などで行先が変わる(例えば門司行きが途中の砂津止まりになる)時などに
マイクで電停に据えられたスピーカーを通して運転士に指示を出していたように覚えています。
当時は米町~大門間の道路が一方通行でした。何もかもが懐かしいです。
Takabou6511
行きたい方向が表示したら
トロコンで叩く
函館 高知 長崎 鹿児島
岡山「駅前のみ」の方式ですね
@@スーパーおおとりさん
補足ありがとうございます。私の言葉が足りませんでした。
細かい事で申し訳ないですが、タイトルの戸畑渡場はバス停名なので、戸畑電停に変えて頂きたいです(;'∀')
コメントありがとうございます。
仰る通りですね。あの場所は「戸畑渡場」と言い慣わしていたのでついそのように記載してしまいました。電車の行き先表示は「戸畑」ですものね。今回、「戸畑(渡場)」としました。
ハヤシタケシ 対応ありがとうございました(^^)
第一次縮小前の動画を探していたので見ることが出来て嬉しいです(^-^)
@@user-884vx2ph1h
この当時は「国分寺市立第4小学校」の所属で、この学校の北向かいに「中央鉄道学園」がございました。
廃止直前に発売された「西鉄」の関連書籍で「戸畑」と「枝光」を初めて知りました。
自分は東京都民で、路面電車と言えば都電、東急世田谷線、江ノ電のイメージが強かったが、北九州にも路面電車が有ったのは知らなかったでした。
現在も残っていましたら、北九州旅行にも便利で、到津の森公園にも行くことが出来ていました。
立つたまま運転するのかい。路面電車は好きだが維持するのは難しいだらう。
広告電車なんて、あったんですねぇ・・・
コメントありがとうございます。
かなり派手、でしたね。
大門は都電にも存在しましたが、1969年に廃止となりました。
(客扱いは1967年に廃止)
自分は東京都民で、大門と言えばJR東日本とモノレールの「浜松町駅」と「増上寺」の近くに有る、都営地下鉄の駅ですが、北九州にも「大門」が有るのは知らなかったでした。
今となってはラミネートシートによる「広告ラッピング電車」ですが、当時は塗装で広告を塗っていました。
西鉄北九州線は1980年代半ばに
600形を中心に数多くの広告電車
が活躍していました
広告主は主に地元企業ですが
デザインは個性に満ち溢れて
いました
この動画でも3両が確認され
三六付近ですれ違う627号は
2代目のスポンサーである
「到津遊園」です
暫くして1992年秋には砂津━
黒崎間が廃止されるのに合わせ
て600形3両が「お別れメッセージ
号」として華やかにペイント
されました
この内1両「634号」が廃止後
到津遊園に保存されましたが
後にスクラップにされたのは
残念でなりません
1980年代の西鉄北九州線は同線の主力電車だった600形を中心に10数両が行き交っておりました
この動画にも三六駅付近を走る627号や大門駅手前ですれ違う602号!?の姿が確認出来ます
627号の広告塗装車は2代目で当時存在した[いとうづゆうえん]号でありすが
1982年頃にもオレンジ色系ベースの[ラクチン電車]という初代の広告電車も活躍していて私はどちらもお気に入りのデザインでありました
ポンボン船があった所だね。
この時代、ビデオカメラ持ってる人なんてほとんどいなかったでしょう。
目立ったでしょうね。
手元写してどうすんの 一番肝心な景色が大事あの当時の景色がいちばん
コメントありがとうございます。他の映像でもそうですが、運転士のブレーキ弁捌きが面白かったのですね。今なら、カメラ2台使って手許と前面を撮っていたかもしれませんね。
日明駅付近が収録されていなかったのが惜しかったです
撮影の方法が最悪
もう少し考えて発言して下さい
貴方感じ悪いですよ
お前、この線路、他の路面区間並みの規格で造られたからたかだか50km/hで名古屋や関西の新快速の3~4倍揺れるとんでもない乗り心地知らねーから抜かすんだろ。知らねーで下らねーことぬかすな。
今でも路面電車は、全国各地に残り活躍している。このクリ-ンな公共交通機関を西鉄と北九州市は、完全に見誤り失策した。取り返しは効かない。大量の排ガスまき散らすバスの前途は明るくない・・・・・。
もう少し長い目で見届けていれば現在でも西鉄北九州線は生き生きと活躍していたに違いなかったでしょう
私にとってもこの西鉄北九州線は魅力あふれる交通機関に数えていましたので同線の廃止は誠に残念でなりません
しかしそんな西鉄の路面電車たちが福岡県内で7両(福岡市内線等も含む/他に筑豊電鉄の連接車が2組あり)大切に保存されているのは誠に光栄であります