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以前から、脳や意識について興味がありました。その意識が、茂木先生の動画が視覚に飛び込んだ途端、観たい、という欲求がわき、行動につながっていました。私は、私の五感を通して感じる感覚がとてつもなく素晴らしいことだと思っています。その感覚に感謝する意識があります。自分が喜ぶ感覚を与えてあげる意識を認識しています。
難しかったけど、すごく刺激になりました。アカデミックなことはちんぷんかんぷんでしたが、プルーストのお話から、“今、この瞬間、幸せを感じているか、そしてそのことに気づけているか否か” が大切なんだなぁ、と、一人で納得しました。
ALSのヒロ 私は、ALSに罹り、終末期を迎え、自分の人生と存在を考えているが、茂木さんの意識への洞察には感心している。生きがいは、70歳の私の世代では、学生時代に、第一に考察すべきテーマでした。私は、医師でもあるが、MBAも取得し、経済社会からも、人の生きがい、存在理由、真美善を、卒後に追求してきたつもりです。存在の理由は分からない、宇宙の意思かも、が、何をなすべきかは、わかっているつもりです。真善美に世界を進化、向上させることが、人の使命、生きる理由だと、50歳ぐらいに気づきました。混迷する世界、宗教も解決策とならない現在、生きがい、実存哲学、意識の再考察が、必須だと思っていましたが、茂木さんがそのような活動を行ってる事、この動画で、初めて知りました。スピリチュアルの矢作君、医学生時代を知ってる、には、閉口しているが、サイアンス、脳科学から、意識、生きがいを分析する手法には、100パーセント賛成です。ときどき、イマジン大学にお邪魔させていただきます。まだしばらく生きているので、病気を楽しみながら、生きがいを完成実践する予定です。
興味に必要な学問が全て苦手で無知ですが、何かわからない意識の話を聞くと、すごく心地良くなります。それほど低次元の私でも、わからないことさえ楽しくなるのは何か意味があるかもしれないと思いました。
予備知識があるなしを気にしないのが良いですね。
プルースト「幸せは当たり前の経験の中に在る」 持つこと=達成して得ること ではなく 在ることに幸せはある。エーリッヒ・フロムの「TO HAVE OR TO BE」(邦題「生きるということ」)のテーマでもあります。茂木さんありがとうございます。意識問題こそ正に最大のハードプロブレムです。茂木さんは僧侶の南直哉さんとの共著も出されてますね。医師の矢作直樹さんとの対談も期待します。
結局何も分かっていない。
ここ1、2年で“意識“についての興味が湧き、クオリアと言う言葉を知りました。集中して調べることはありませんが、ふと思考に浮かんだ時に、ネットで調べたり、本を読んだりしています。その過程で、私なりに強く感じていることは、意識は脳の分野に留まらないということです。意識について調べていると、いつの間にか量子や遺伝子など他ジャンルにつながっていき、調べれば調べるほど範囲が広がって行って、まるで宇宙を漂っているような感覚になります。いわゆる脳科学博士と肩書を持っていらっしゃる方でも、専門の範囲だけで完結させようとしていらっしゃり、根本的に“意識“についてちゃんと捉えている方がほとんどいないと思っていたところに、今回茂木さんのご意見を伺い、共感すると同時に嬉しく感じています。今回、たまたま上がってきた動画を拝見しましたが、早速チャンネル登録させていただいて、ご著書を読ませていただこうと思います。
最近ではペンローズの量子論的意識論に惹かれたりしましたが、意識の理解には物理的アプローチの他に、数学的な意識モデルも重要かもなどと素人ながら思考しております。
身体の有無に意識の存在が左右されるのか?と疑問が湧きました。大変興味深く視聴致しました。有難うございます。
数学者の岡潔さんが仰っていた『情緒』とはクオリアの事だったのかなぁと思いました。スミレはスミレとして咲くことに邪な思惑などなく、あるがままに咲いている。情緒ある人はそんなスミレを見て美しいと感じる。衝動的、動物的に生きる生き方も決して否定はしませんが、わたしは情緒ある人として生きたいと思います。茂木さんの発信されるお話は、昔テレビで見た時から大好きです。今後のご活躍も楽しみにしております。
ベストセラーおめでとう御座います10年ほど前の茂木先生の動画が落ち込んだ自分を勇気付けてくれます👋♥
日本人が、海外のベストセラー作家なのは夢の様な事を叶えられましたね。嬉しいです😊
興味深くお聞かせいただきました。ありがとうございます。唯識について茂木さんの見解を聞いてみたいと思いました。
10年ほど前に妻の腎臓を生体移植しました。以前は苦手で食指の進まなかった食べ物が好物に変わりました。それらは全て妻が大好物な食べ物です。これは意識に関係あるのでしょうか?妻と私は冗談半分に腎臓間でWi-Fiが飛んでると笑っています。臓器移植に意識は関係ないかも知れませんが、ドナーの記憶や癖は臓器の細胞に残っていて、時間をかけて融合を果たしていると感じています。私の意識は15歳の時の、ある経験で覚醒したと感じています。生命体は個体のようでいて、実は全て繋がっています。
誤字だらけだったので編集しました。
茂木さんは心臓に記憶が宿る等の主張は疑似科学の一種と思われているようですが、実際に生体移植(特に心臓)にて記憶転移が起きるのは(記憶転移以外によって説明出来ると反論する方もいますが)事実としてありますね。記憶は脳のみならず、他の臓器(特に心臓は自ら小さな電気を発生させることが出来る等特殊性のある臓器なので)にもその一部は残るのかもしれないですね。
DNA自体に記憶が刻まれて子供や孫に受け継がれるでしょうね。茂木氏は信じないでしょうけど。意識体自体は依代を必要とせず、空間を漂う素粒子のように存在してると思います。幽体離脱した人や人形供養する神主さん達は浮遊する魂や意識体を感じ取ってるはず。何も感じないホラ吹き自称科学者は鈍感なのです。
@@hanjofuchikore455もしかしたら、奥さんの腎臓の代謝能力の特徴で、塩分とか、特定の成分の排出が得意になった結果、奥さんと食の好みが似てきた可能性はあるかな?と思いました。
心臓移植の時には特に、ドナーの性質気質等も同時に移植されてるように思いますね。ドナー登録するときには、自分の性質気質等の記載も必要になるときが来るかもですね。
こちらの動画を見ているときでも茂木さんの話を聞いている時は意識が向いている訳だがその途中で「今、私の中にある意識が動画に向かっている。」と思った時は「そう思う所に意識が向かっている。」
子供の頃からずっと記憶について不思議に思ってました。どうしても脳の中に膨大な量の記憶が保存されているとは思えず、記憶は脳の外のどこかに保存されていて、脳は記憶の外部保存ストレージにアクセスするためのデバイスのように感じていました。自己とは記憶であるといる感覚をずっと持っています。生きている間に意識の謎が解明されたらいいなぁ。
そう思います 高次に生きてる自分意識 は高次世界の記憶サーブにバックアップされるのだろう 記憶のバックアップすなわち守護神だと。 98歳 しばしば昏睡する 要介護の母にそう言ったら、全くそうだ 実感してると 同感された 驚きです
脳科学者の口から世界線という単語が出てくるとは····😅
ベルグソンの研究をしているものですが、純粋記憶の話は、記憶の話というよりも存在論で、世界の存在の仕方が持続と(潜在的な)記憶をともなっているという話で、理解することが難しいのはそのためです。茂木さんが純粋記憶についてお話くださりうれしいです。
私は茂木先生と同じ年で今年62歳になります。高校時代にはSF小説とブルーバックスシリーズが愛読書の凡庸な学生でした。当時はカール・セーガンの「コスモス」などが話題になっていて、間もなく宇宙の真理が解明されるかもしれないという期待もあり、私自身も物理学科に進学して真理を探求しようと考えていました。しかし、高校生の幼稚な思考でどうすれば真理に到達できるのかについて毎日考えているうちに、「あれ?」と思う瞬間が訪れました。「科学の方法ではそこには到達できない」…という直感に襲われたのです。それがどういう理屈なのかを言葉で説明することは難しく、もどかしいのですが、それ以来『エウレカ!』なんて夢物語でしか無いのだと思うようになった私は、物理学科への進学はやめて、まったく無関係なエンターテインメントの道に進みました。エンターテインメントは現実的で、人間にとって絶対的な価値があるものだと思えたからです。今60歳を過ぎ、再び真理への興味が湧いてきています。今でも科学では真理に到達できないという思いは揺らいでいませんが、突然、想像もできない何らかのジャンプ(それは「死」なのかもしれないと思いつつ)が起こって意識が変容し、『エウレカ!』がやってくるかもしれないと期待して、イマジン大学を拝見させていただこうと思います。
2:00~「クオリアってなんですか。赤の赤い感じです。で分からない人は意識の研究にご縁がない。」これで納得できる人が存在するのが、私には理解できません。コメント欄を含めて本当に「スゴイ」動画です。
28歳ですが最近、人生の幸せは「自分の認知している世界を知り尽くすこと」と思いました。この認知は旅をたくさんするなどの視覚的認知ではなく、感情や思考・意識などの情緒的な認知です。人それぞれ感じている「世界」というこの世が違うので、自分はこの世界をどのように捉えていて、また年齢を重ねるにつれてどのように拡大させていくのか?を知ることがとても楽しく思います。「知る」ということがとても楽しいです。意識は変幻自在な概念過ぎるので、いい意味で人の中で解釈が一致することはないと思いますが、その変幻自在にあるときは近づけて、あるときは距離を取られながら研究をするのが楽しそうだなと思いました☺
茂木先生は、東大出身の方ですが、コメンテーターというイメージが多く、私にはあまり価値を感じられないイメージがありましたが、初めて聞いた「意識」の御専門のお話しは素晴らしいですね。解明できないけどロマンを感じます。解明できないけど面白い。でも自分には、皆にも「ある」ということ。初めて茂木先生に向かってみたいと思いました。偶然、これに出会えてよかったです!! 今はこういう講義が無料で聞けるって、有難い時代だな、と思います。
意識の科学的な「仕組み」と意識の来源(という言葉の適否は別にして、「私は何故この私であってその他の誰かではないのか」という疑問)は全然違う問題なんだけど、後者の問いを持てる人は私の感覚でも茂木さんが言っておられるように、100人に1人くらいの感じがします。自分としては意外ですけど。これは永井均さんが言っておられる「タテ・ヨコ」問題に通じていると思います。
それを考え始めると宇宙に飛ぶ時ありますよね😊
脳がポジティブになっているときとネガティブになっているときに頭の中で流れる音楽が違うことに気づきました。さらに疲れているときに流れる音楽も。私はコーヒーを飲むとたいてい鬱傾向になるので、メランコリックな曲が流れます。
証明することができないので単なる逃げになってしまうのですが‥私は子供の頃から「意識」というものは、パソコンでいうところのショートカットのようなもので、身体(主に脳)の中に存在するものではないと思っておりました。自分では意識というものがあるから身体を中心とした周囲を認識できますが、実際には俯瞰して見ているものを自分として認識しているだけなんじゃないか‥と考えています。現在62歳ですが、それは今でも変わっていません。「ショートカット」という表現は誰もしませんが(今まで聞いたことが無い)、同じような感覚を持っている方は‥おりませんかね~?
単に「機能の名詞」とするなら、「意外に」デネットの機能主義で問題がない様にも。意識、クオリアも、セルフモニタリングと象形、自己言及とするなら、その発生段階を探る進化生物学的アプローチあたり?。博学、哲学的な茂木さんにはいつも啓発を受け楽しませてもらっております。
@@yasiyasi5839 「唯脳論」読み直してみましょう。茂木氏も敬愛する養老氏がそう言ってるなら案外それで充分?。それより、主題についてのあなた考えは、ないやん😂
脳が意識を生み出しているというのは本当に間違いのない事実なのでしょうか?そもそも意識とは何なのかがまだ分かっていないと思うのですが、その分からないもの製造元を確定出来るとは思えないのですが、、、。
クオリア問題があるのにシンクロすることがあるのが不思議ですね、いつか先生のご意見を伺ってみたいです
ベルリン在住です。仕事で患者さんから、茂木先生の本が凄い👏と聞き嬉しくなりました。たしかに「わからないこと」を「わかる」のが一番難しいかもしれません。わからないからこそ、神秘的でロマンを駆り立てられます😊
感謝します。 7:03
Ikigai読んでみたくなりました!
30年以上研究していて、これは、という物が無い、、というのを聞くと、逆に元気づけられる。
成功それ自体に幸せを感じるのではなく、成功を追い求める日々にこそ幸せがあるということか
意識・・不思議です。19歳の時に事故に合い生死を彷徨った後に生きているのかそれとも死んでいく過程なのか考えてしまうことが多かったです。映画「マトリックス」を観たときにこの様な世界の中にいるのでは?と考えてみたりもしました。今、意識というか思うのは「虫でもなく、鳥でも、犬でもなく過去の誰か、でも未来の誰かでもなく、この時代の、この肉体の中に何故私の意識が有るのかが不思議」でなりません。
それ自分も思った事があります。「何故自分の意識は今この世界のこの身体に宿ったのだろう?」と他の誰でも良かったし別の誰かが自分を体験してたかもしれないのに何故自分なのだろうかと。ホログラフィック宇宙論などもありますけど、実際は2次元の情報として存在していて3次元の世界に投影されているだけなのかもしれないですね。ロジャーペンローズ博士の脳量子論では人の意識は量子的な性質を持ってるという話しもあります。本当の自分はどこかにいて、ここに投影されてるのであればフェイトの英霊みたいで面白いです他の存在を全て消しても自分の思考だけは残る。我思う故に我ありですね
とても素晴らしい内容でした。このような話を聞けるのは僕の人生にとって大いなる価値があります。
番組ご視聴ありがとうございます!茂木先生と一緒にこらからも価値あるお話を配信してまいります!
「脳を開けたら心は無かった」って本最近読んだけど面白かった
意識とは、他人を知ることで自分を知る能力。と聞いたことがあります
それは自己同一性ですね。英語で言うと「アイデンティティ」って奴です。自分は他の人とどう違い、自分と思える枠組みを作る働きです。
生きている事の本質や快の源は表面的な出来事ではなくて、それぞれの中で沸き起こってるある独特な「感覚」というのはとてもしっくりきます。茂木さんが嘆いていらっしゃった「意識」に関する研究の現状について思ったことですが、何かを証明しようと躍起になる人々が多くいる学問・学術?の世界で、本質的なところに目が向かないのはごく自然なことのような気がしました。求めている物が違うというか、ベクトルがまず異なっているような感じがしました。
意識の問題を日常の生活で求めてます。純粋記憶の可能性は考えています。一応基本的に自分の記憶と外的な環境から現れる記憶は日常の生活では感じることが出来ますが、純粋記憶は日常の生活とはまったく違ってますから、かなりハードルは高いです。
意識の問題はまず生命の成り立ちから解明しないと無理かなと思う。生命体が原子から構成され、かつ炭素が関係している事はわかっている。(生命と非生命体の違い)原子は素粒子から成るのだけど、そこからどういう理屈で生命体が作られていくかを解析しないと意識の問題もわからないんじゃないかと思う。細胞はDNAによって各器官を構成し役割を担うのだけど、個々の細胞が生きる為の手段を何故多数からなる細胞を共同体としたのか、何故連携出来るのか、ひいては原子素粒子が細胞活動にどう影響しているのか解明しないとかな。意識は有意識と無意識に分けられるけど、生命活動に必要なのは最低条件として無意識がある。何処か怪我をした時、痛みによって危険を察知するけど先ずは危険から離れるという意識が何処から作られているか、その際に意識されるのが細胞なのか原子なのか素粒子なのか、そこからかなと思う。
現時点までの人間が理解しうる、主に目でみて科学的に確認できるこの問題の領域には限界があるだろうことは察していても、各研究者の主張は、その時代においての社会的意義、立場などから、学問として少しでも進化したようなそれらしい論理が展開されるが、それらはみな問題を真に理解するための論理からは程遠いような印象がある。
統合情報理論は理論の基本的な部分を大きな仮定で支えてますが、こういう仮定から話を進めるのが大事だと思いますね。間違えてようがなんだろうが、論議をして発展していくのが科学の素晴らしさだと思いますし。『意識をめぐる冒険』とか、読み物としても超面白かったです。
個人的には、AIが人間と同じような意識およびクオリアを獲られるか、という問題は語用論を中心に否定可能だと考えてます。
容易に思考を止めることが出来るようになるまで訓練して、感情がある、それを観察している観察者が残る。やがてそれが消えてゆく。自分というのがどこにあるのか、じっと探って行くと面白いです。なぜ、このような無意味で面倒臭いことを始めたか。苦しみから逃れる道を探した末。こちらで教えて頂いた、プルーストの日々の幸せとも繋がりがあと感じています。意識は科学の最大のテーマ・謎ですが、アカデミックというフィルターをすり抜けてしまう。
細菌レベルから霊長類、人類までの全生命の中で、どのレベルの生命から意識と呼べるものを持っているんでしょうかね?
一過性急性精神障害になった時の自分の意識、記憶が振り返ると面白いかったなぁと思い、意識について考え始めました。これから茂木先生の動画や本で勉強したいと思います😊
クオリアを感じられない人が居るということに驚いた 何だか、孤独を感じにくくて幸せそう ぼんやりと、意識の問題と甘えの関係には深い繋がりを感じる
解き明かしましょう。🙏
例えば五感を絶たれた状態でも意識は意識として存在出来るのだろうか?という事を考えました。というのも、SF的に人間の意識だけをコンピューターに移すというのが有って、その場合、体が無い状態=五感が無い状態で意識だけ存在できるのか?とふと思いました。
人間レベル十段回中、多分一もないですが、意識の問題は、難しいのですね!ただのアナログと同じに感じていました♪
「五十二位」ですけど・・・。「等覚一転名字妙覚」という不思議な境地を説いていますね。悟りの段階の五十一位(等覚)まで上り詰めてみてハッと感じたのは悟りに入る前の最初の位(名字)の純粋な「信」そのものが妙覚(五十二位)への直道であったという教えは茂木さんの意識のとらえ方の難しさと通じるものがあると思います。
茂木さんはXで「世間がなんと言おうと、人間には魂というものがある。」とおっしゃっているので意識の正体が魂であることは本心ではわかっているのだと思います。
それを科学に取り込もうとしてるんじゃないの?
間違いないね☆
記憶は、私たちの想定以上に私たちの意識と関係していて、だからこそ、時々ベルクソンやプルーストに戻る必要があります。
意識は疑心暗鬼とゆうか確信への疑い自信の確信に?をつけることでしょうか赤?は赤い?から始まる様々な定義を再定義しょうとスタンバイする状態無意識は知識の固定化をそのまま使用する状態でしょうかね
アインシュタインは量子問題と絡んで、実在とは何かという問題を巧妙に回避し続けた。意識とは何かという問題も同じ次元にあるように感じます。また、意識の発生の仕組みが完璧に分かったとしても、意識と仕組みは別物(意識と脳が別物であるのと同じように)だから、じゃあ何故そこで意識が生まれるのかという疑問は決して消えることはない。結局、意識という奇妙なものを我々も脳科学者も生きるしかないんでしょう。
笑福亭鶴瓶は40年程前の頭がもじゃもじゃの頃にラジオの番組で「おれが見てる綺麗な夕焼けの赤い色は、お前の見てる夕焼けの色と同じなん?どうなん?同じかどうか証明できるん?」と鼻息荒く叫んでました。髪型との相関があるかどうかはさておき、鶴瓶はわかってるんですね。それが芸風にも現れているようにも感じます。
うーん、でもそれって誰もが子供自体にふと思うことじゃない?特別な話じゃないよ
意識は全身の細胞に宿っていますよ。脳を特別視しちゃダメです。脳はあくまで全身の細胞の円滑な交流のための機能でしかないです。量子コンピューターもスペースシャトルも作れる人類が未だ作ることができない小さな細胞が37兆個集まったのが人間です。その細胞が脳という機能を使い交流するその瞬間意識が生まれます。AとBがキャッチボールする際「投球」が生まれるようなものです。頭の先からつま先までの全てが我々が我々たりうるために欠かせない主人公です。脳は他の臓器と同様たんなる機能です。しかし五感のほぼ全てが脳の周りに配置されているため(タンスの角につま先をぶつけると、痛みにタイムラグが生まれるように、物理的な距離を減らすためだと予想)脳を特別視してしまったんだと思います。初期の生命は進化の術として細胞を大きくさせる道ではなく細胞分裂していく道を選びました。おそらくある数に到達した際、これ以上数が増えても効率よく生命活動が為せないという壁にぶつかり、それを打開するための機能として脳が誕生したと予想します。つまり生命にとって最も重要なのは細胞であり、記憶も感情も意識も脳ではなく細胞自体に宿っていると確信します。以上、ドグラマグラの脳髄論から着想を得た僕の妄想でした。
『脳とクオリア』を読みました。私は、茂木さんの主張の基礎と思われる「相互作用連結なニューロンの発火のクラスター」と、「統合情報理論」のトノーニさんが言う「統合されたニューロンのシステム」は、よく似ているように感じました。茂木さんにしてみれば「それは私の主張が全く分かってない証拠だ」という事なのでしょうが、私には、ニューラルネットワークの同じ構造、同じ現象に、別の角度から別のアプローチで迫っているように見えます。そして、「これは意識が何であるか何のためにあるのかの説明にはなっていない」と、ご自身で述べている点でも共通しています。ただ大きく違うのは、トノーニさんは自分の理論を仮説として大らかに提唱しているのに対して、茂木さんはご自身の様々な着想に対して、慎重に「極めて興味深い可能性」と述べたり、「道のりは、とてつもなく遠いのである。その道のりは、「意識」について、客観的な、技術的議論を進めることによってのみたどることができる。」などと述べるに留めている点でしょう。しかし、少なくとも「統合情報理論」は、統計的手法によって作られる AI に「意識が宿るのは時間の問題」と当然のごとく言っている方よりは遥かに核心に迫っていて考慮に足る仮説だと私は思います。脳研究の世界が一時的に「統合情報理論で意識が説明できる」と舞い上がったのは、トノーニさんの責任ではなくて、むしろ周りの方々の問題ではないでしょうか。 ***改めて、『脳とクオリア』の感想を簡単に書きます。とても面白い本でした。私がずっと疑問に思っている話題が次々に出て来たからです。ぼんやりと考えていたことが明確に言語化されて爽快でしたし、今まで考えた事もなかった「相互作用同時性の原理」の話はとても印象的でした。また、私は「結局、クオリアと意識は同義ではないだろうか」という考えから、意識と同様にクオリアが存在する必然性に疑問を持っていたので、「クオリアは、脳の中で行われている情報処理の本質的な特性を表す概念である」という定義(二つの定義の一つ)はすごく新鮮でした。この本が 30 年近く前に出ていたのは、本当に驚きです。もっと早く読んでおけば良かったと何度も思いました。良い本を読ませていただき、ありがとうございました。今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
幸せとは何か?人生とは何か?命とは何か?愛とは何か?神とは何か?奇跡とは何か?希望とは何か?科学とは何か?宇宙とは何か?・・・それらは全てそれぞれが「ジョーク」の異なる一つの形態に過ぎない。
高畑勲監督のホタルの墓が宮崎峻のトトロの横で上映されてて、宮崎峻は敗北感満載だっただろうって、誰か話してたのを思い出しました。確かにホタルの墓で死後の二人が遊ぶ場面は、生命や人生賛歌のトトロと真逆。マドレーヌを紅茶に浸して食べるのを思い出す幸せって話で思い出しました。
とても興味深く拝見しました!私も高校生の頃「俺にはなんで意識があるんだ」と思い始め、素人ながら半世紀も思考実験をしてきました。神経回路網の活動から意識が発生するなら、コンピュータ上でその回路網をシミュレートすれば意識は発生するのかとか。人間同士の相互コミュニケーションを大局的にみると神経回路網の活動と類似しているから人間組織にも意識は発生しているのか?とか
どれだけの原子を沢山集めたとしてもそこに意識が発生するとは思えないというね。
しょうもないお話だこと、人間をミキサーで撹拌しても人間の材料は入っていても意識はないでしょ。
「私」という意識について4〜5才ぐらいの時に疑問で仕方なかった事を思い出した。こんな凄い学者も考えてるんだと嬉しくなった
同じく、私もそうでした。友達に話しても何言ってんの?みたいなこと言われてそれからは誰にも言わなくなってしまいました。
茂木さんの著書は、「脳とクオリア」以来、何冊も読んできました。 ペンローズやチャーマーズの著書も多少は読みましたが、まだ十分に時間をかけて読破するまでには至っていません。 あと脳科学関係では、クリストフ・コッホとジョン・サールの著書は何冊か読んでいます。 コッホの見解には賛同できる点が多いですね。 個人的な考えを述べると、チャーマーズが「意識の諸相」で述べているように、意識を質量とか時間・空間みたいな物理学上の基本概念と同様に、理論構築の大前提として扱うアプローチが良いように思えます。 それ以外の何かしら還元主義的なアプローチでは、意識の本質が上手く捉えられない気がします。 そのチャーマーズの発想は、哲学の世界ではフッサールの現象学に近い考え方です。 エネルギー医学の方面では、例えばエネルギーヒーリングによる心身の治癒のプロセスについての知見があります。 そんな知見は意識の本質の探究と密接に関係するはずです。 何故なら意識のあり方によって、ヒーリングは決定的に左右されるからです。 そこでも基盤になるのは意識自体であり、オーラがどうとかエネルギーがどうとかではありません。 ちょうど物理的なプロセスによって意識が説明できないのと、そこにはパラレルな関係があります。 そうなると意識の探究は宗教と密接に関連してきます。 密教の法要などが、何故、実質的な効果を生むのかは、意識自体によって説明可能でもあり、またそれ以外の説明は、根源的な解明にはならないと思います。コッホが意識が生まれる条件として、有機的な生命体あることを必須条件として挙げていますが、有機的な生命体にしか存在しないエネルギー場が解明されれば、それが次に段階の探究に繋がっていくと思います。 ただ、その際に還元的な形で意識の解明ではなく、意識自体の本源性を確保した形で、そんなエネルギー場の具体的な解明が必須だと思います。茂木さんには、その辺りに関係する科学的なアプローチに基づいた脳科学の更なる研究を期待しています。
普段見てる時は、全然そう思わないけど、この動画だけは、素晴らしいと思える不思議。
クオリア、ダニングクルーガー効果、メタ認知などの単語に出会えて感謝しています。「水がコップから溢れ出す瞬間」に名前はあるのでしょうか?意識の問題と似ている気がしていまして。年とともに目が悪くなるというのも自分が目が悪くていいやって思ったら悪くなる?みたいなことなんですかね。般若心経では「ない」を言い続けているみたいに、本当の意味で人に理解してもらうって本当に大変なことだと思います。いいチャンネルに出会えました。ありがとうございます。
脳科学者が説明している意識は、すべて物質的な脳の機能の判断ことを言われていると思います。だけど意識とは本来、人間の脳から分離した存在なのです。人間とは、人の生命体に個の意識が融合することにより、人間たる存在になっているのです。そして意識こそが人間を支配し、またそれらを取り巻く物質に影響を与えている存在なのです。もっと大きく捉えるのならば、意識の元である意識界や精神界がこの私たちの宇宙を創っているのです。
脳科学者の研究の範疇ではないかもしれませんが、場面緘黙の子供の治療に関して茂木さんに聞いてみたいと思いました。
場面緘黙 初めてその言葉知りました!ありがとうございます!
すべてはプログラムされている。遺伝子とプログラムされた私たち量子理論よりわからな世界脳と体の不思議!今日も感謝!😍
難しいと理解する事が大事なのですね。全てを見切れていない、なかで全てを分かったと勘違いをするのが馬鹿なんです✨ね人生の中で20代30代の人が偉そうに年配の人を軽んじるときに同じ気持ちになります。自分以上の経験者は世の中に五万といます。意味の有る謙虚さが生きる上で学びに繋がります。
全ての研究は意識の研究に方向が向いとるイメージあるしな
目的を持つという意識、自分の利益を持つ意識、他者を意識する意識、空間を認識する意識、時間を感じる等など、感覚と知識、実践理性と考えていくと、数学的表現では分かりませんが、西田幾多郎先生の言われた純粋経験に達するように思えます。深い問題ですね。
自身意外の意識証明は難しいですよね。意識があるものと、意識があるように見せてるものをどうやって見極めていくかコレから議論されそう。
自分の中のものに対しても難しいと思う
意識の事を分かろうとするのは、なぜ素粒子が存在してるのかと同じぐらい分からないと思います。
意識は脳内では生まれない。つまり、発生しない。記憶は脳内には蓄積されない。思考と情報処理は脳内では行われない。意識は違う「場所」にある。記憶は違う「場所」で保管される。思考と情報処理は違う「場所」で行われる。脳は生物的・物理的に生命活動を行う為の管制機関でしかない。厳密に言うなら、意識は違う場所にあるのではなく、意識の中に物質的・物理的世界が存在している。
何かを見ている自分。これは意識の作用ですよね。この作用は脳内で実現しているのだとすると、見ている自分は脳内のどこにいてるのか、とても不思議です。スマートホンに意識アプリをインストールすると、見るスマホが実現するのか。スマホのカメラと人が見ていることの決定的な違いは人の場合は、そこに見えてる物がある様に感じてること。それこそクオリアなのか。
意識とは何か、って意識をどう定義するのか、というところからして難しそうです。言語とは部分を切り取るものですが、意識イコール言語ではないですよね。意識について論理で研究する、とはおそろしく難しそうです。
意識というのはメカニズムそのものだと考えています。例えば物が動くメカニズムについて、ボールが転がる、歩く、自転車をこぐ、車で走る、飛行機で飛ぶ、そのメカニズムは様々ですが、それら全てが動くという現象であると同様に、意識という現象も様々であって、極端な事を言えば、石にも意識はあると言えるのだと考えています。しかし、やはり最も重要なことは、人間の意識のメカニズムの解明であってそれを多くの学者さんは考えているのですよね。がんばってほしいなと思います。
意識を持つものが、意識を考察し理解しようとすること自体がとても難しいと思いました。意識を俯瞰しようとすればするほど意識が積み上がっていくだけのようで、いよいよ捉えられません笑この現在の次元に生きている限り、意識の問題は解けそうに思えませんね。でもだから楽しい!
睡眠中に夢を見ているとき、意識は有るが記憶の無い状態です。そして、夢の内容がどんなに奇想天外なものだとしても、夢を見ているときはそれを現実だと思って見ています。あれこそ、個人の意識そのものなのではないかな、なんて思っています。ただ、それがどう発生しているのかは、全く分かりませんが!
無意識と意識の狭間だろ。そもそも、無意識の情報は意識に上がってこないと気付けない
茂木先生がもし、ラマナ・マハリシを読んだらどのような感想を抱くのか、興味深いです。
ピュアメモリーは時空(移動)を認識する為のもの右にあったものが左に移動したとしたら右にあったものを記憶していないとこの移動は認識できません。シナップスが破損したアルツハイマーの人が車の移動を認識できるのはこの為ピュアメモリーは物質に存在しているのだと思います。ピュアメモリーの複合体である物質はエピソードメモリーを持ち各メモリーをまとめて"保存"する為、意識が存在していると思います。一次元 線二次元 画像三次元 立体四次元 動画四次元は時空と記憶でできています。
脳にどうやって記憶されているのか知りたい。電気信号でナノレベルのタンパク質で構成されてるのか、取り出したいと意識してアクセスしようという意識を前頭葉から電気信号を出して化学反応を起こしだす時点以前から天文学的な反応が常に起こり続けてるような気がします。
私は何か記憶を思い出すとき25秒から30秒くらいしてやっと思い出すことがあります。そんな記憶再生の仕組みは、たとえば脳のどこかに何かDNA的な記憶媒体があってそれを巻き戻し再生でもしてるんじゃないかと感じますよ。知らんけど😅
意識の問題については、他の何かに置きかえることが不可能ということかと思います。その大きな理由としては、人間の意識を数値化したり代わる表現が出来ないが故のことだと確信します。
ふと思い出したのですが…小松左京の「果てしなき流れの果に」だったか「次ぐのは誰か」だったかは忘れたましたが、彼がSFと言う当時 (戦後の昭和時代…実存から不確実性の不安な時代へ、大阪万博からやがて阪神淡路大震災を経て、そしてリーマンショックへと向かう直前辺りの時代) の文学ジャンル上で、可能な限り、人類のはるか未来へ視線を投げかけ、その可能性 (それが良かれ悪しかれ、また人間の物理的な存在形態の有り様やその有無も含めて) を可能な限り思考実験した果てにたどりついた、というか新たな沃野の入口に、その主人公が新たな未知の存在形態として究極的にたどりついたところが、やはり今回テーマの “意識” 体としての未来だった… 確かそんなことが書かれていた気がします。それは、思うに、きっと、デカルトあたりがたどりついた、コギト・エルゴ・スム「我思う故に我あり」(ほんとは彼がハッキリこう言ったわけではないが) にも通じる近代西洋哲学の確固たる基本的な思考原理の拠り所?あたりも、その意識としての自信というか自覚のようなものでもあるし、逆に、そのアンチテーゼとも言える?アプローチかもしれないけれど、うつろう変化やゆらぎの中で、そのデカルトの確信した危うさ?さえも既に見抜いていた?感のあるブッダが既に2500前にスッタニパータで弟子たちに言っていた「我ありと考える不当な意識の根本を制止し…」というあたりの、後の弟子たちが構築する ”空“ (有るけど無い…(つまり意識たる捉え方や立場=場によって事象は異なる)、無いからこそあり得る…(つまり変化によって有無が生じ、意識=意志の介在によって新たな変化=有に関与も出来る))…つまり、立場によって変わったり移ろいゆく自分を絶対だと思っていけないし、単純に自分を基準にして他と比較し思い上がったり落ち込んでもいけない。また、終わり(=無)があるから始まる(=有)ので、ならば気持ち(=意識)次第で新たな展開も見込まれる…もやはり、 現実の現象に対する “意識” の関わり方としての、彼なりの探求であり、また同時代の人々を救おうとした切実な、彼なりのアプローチだったのだと思います(私なりの解釈ではありますが…😂)。さらに、アインシュタインやマックス・プランクそして南部先生などの時代を経て現代に至る新たな世界観の時代での、“意識” という、茂木先生方の取り組まれるジャンルは、今まさに、新たな科学的なフェーズのステージへの展開へと入って来ていると思われます。この意識の問題は、深く究明し、どこかで一線を引いておかないと、いずれ、案外そう遠くない未来に、AIやロボットに意識はあるか、さらには、人権を認めるべきか。また、事故によっては、自己判断能力のあるロボットに責任があるのか、開発者の責任なのか、などの裁判や議論にもつながることかもしれず…なので、まあ、特に偏った思想にも、また特定の宗教にも縛られない日本の、まさにこの時代に、この ”意識“ あるいは “認識” 探求の現場に?居合わせたことに感謝したいと思う、今日この頃であります😂✨
最高の内容です。
意識と時間の概念はとても関係が深いと思う。空間というのは初めからあったもだけど、時間という概念は初めて人が創り出した概念だったのではないか?時間を忘れて没頭している時は意識が無い、時間は物凄く短くなる。時間という束縛を人は創り出した、それは空間を変形させる事が出来るという意識を創り出してしまった。情報を科学的な技術により時間を超えてて伝達する手段を知ってしまった。意識とは概念であって、概念の共有化によって生み出されたものだと思う。その中に一つの契約の中に生きているというのが人間の時間意識だけど、同時に、その時間的約束事から解放されたいという切なる願いをもって苦しんでいるのが人で、何故、意識を探求するするのかといえば、答えは意識から自由になりたい根源的意識があるからなのだと思う。こういう問いの場合、答えをだすというより、何故、疑問にするのか?という方に目を向けた方が良い、何故、私はそれを問題としているのか?何処からその問題をもって来たのか?何故疑問にするのか、実はその事が答えである事が多いのに、きずかない。
意識の難しさを理解するのが難しい、ということですが、一つぐらいクイズのような問いかけ、例題が欲しかったです。仏教系辺りでの議論も同じですが、意識という言葉の定義が曖昧で議論がかみ合わないというのがよくある話です。仏教系では現象を時間的、物質的に細かく極限に小さく追求していくアプローチが取られます。ですから意識と言っても意識の最小単位(微小時間)のことを調べようとするのです。クオリアについても生まれた瞬間の極めて経験が少ない瞬間にはどうのようになっているのか的な方向性になると思います。私にとっては意識自体の存在、意識の存在自体を意識できる(認識できる)不思議、が長年の大いなる疑問でした。この、自分は今、ありありと間違いなく存在している、という感覚。この疑問の答えは、わかってしまえば非常に単純で間違えようもないものでした。なぜ仏教が刹那(せつな)などという微小時間の概念を生み出したのかも合点がいきました。ですがこの問題は非常にやっかいなものなのです。将来、科学が意識やクオリアの正体を見事明らかにしたとしても、その論文を書いた当人も、読者も誰一人、わかったー!そうだったのか!はースッキリした!とはなれないのです。キリンを見たことがない人に絵や映像を使わず、言葉や文章で懇切丁寧に事細かにその特徴を伝えるのに似ているかもしれません。9割方イメージは出来たとしても、実際に見たことがある人の理解には及ばず、理解が欠けている、スッキリしない。茂木さんは美しく完璧に記述された数学での意識、クオリアの証明を見せられてもスッキリしないタイプではないでしょうか?電車内でのガタンゴトンが疑問の発露であるならば、そんな気がします。茂木さんが良いアプローチ方法に出会えますことをお祈りします。
意識とはどこにありますか? 脳に?心臓に?体内の水分の中に?死んだ後霊魂は残るとも言われますが 意識は霊魂とは違うのですか?
フックから取れた外套はどこにいっちゃうのでしょうか?
床に落ちる。
御講義ありがとうございます。答えの思いつかないことを考え生きて生きてもがいているんだんぁと思い少し心が軽くなりました。ありがとうございます。
先生によると、コレコレの人は「わかっていない」という話が根底にあり、多すぎるように思うのですが、視聴者はわかる答え(あるいはそれに近いもの)を求めていると思います。
医学だけでなく、コンピュータや人工知能などの工学、生物学、哲学など様々な視点から迫ってもまだ意識はどのように生み出されるのか解明されないのはそれだけ人間や動物など命ある生物が複雑かつ宇宙と関わりながら進化していったから宇宙のことも同時に解明されないと、宇宙という空間にある物質のことは分からないのかなと思いました。
意識や宇宙の解明は私には想像もできない果てしない問いです。それでも少しづつニュースや知識が広がって未来のアインシュタインに届くといいですね。
困難であるのは、あなたが意識だからではないでしょうか。目が目を見ることはできません。
肉体が死滅しても意識は永遠に存在し続けることを臨死体験を経験してわかりました。持病もなく事故でもなく突然心肺停止の状態で起きた出来事でした。この体験はあくまで私の経験上の話なので上手く説明できませんが、意識は肉体の死滅を認知するまで、いま何が起きているのか説明のつかない恐怖と闘いあがきました。そんな中突然記憶が蘇り生命は死を何度も繰り返している記憶がはっきり思い出し、死への恐怖は一瞬に去りました。この体験で学んだことは、あくまで持論ですが潜在意識とは脳の思考、感情、感覚を司る司令塔(DNA)にあらゆるデータを記憶保管しているから、無意識に思考や感情が何度も同じことを繰り返すのも納得できました。意識は目に見えない特性なので恐れを回避するため都合や意味づけで勝手に記憶を変えたりしているのも納得できます。
私達が研究したり論じているものは全て自分の意識の外のことですが、自分の意識の世界には自分しか居ないし自分しか認識できないので、他者の意識と比較したり共通性を見出すこと自体ができないと思います。量子力学的に意識を定義することは可能かも知れませんが、私達自身にそれを認知する能力はないので、理論で終わってしまうと思います。
面白いですね、確かに『私の水の冷たい感覚』を他人はどう感じているのか?自分は何なのか。意識とAIの関係(AIに意識を付加する)が大きな壁になるかもしれませんね。『クオリアと人工意識』注文しましたので、これから読ませていただきます。
死んだら、この今の考えている自分は何処に行くの?と小学生の頃、寐る前、布団に座りながら思いました。まさに、意識について疑問が生まれた「純粋記憶」でしょうか。生きるとは?何のために生まれてきたの?は、その頃に考えたのか、以来、還暦を過ぎてもほぼ進化はなく、同じようです。愛を知るために生まれてきた、が、私のテーマのようです。愛って、意識ですね😊私はサイエンスはや学術世界には縁がない場所に生きてますが、意識のことや探究は好きです。デヴィッド・R・ホーキンズ博士の意義のマップは分かりやすく、自分の現状を確認できるツールとして壁に貼ってます😂分からないのに知っている感覚の「意識とは」は永遠のなぞなぞ、楽しめますね❤ありがとうございました🙏💞🌿
脳に記憶はなくて、フックの役割だけって話を聞くと、プログラミングの世界におけるポインターの役割に似てるように感じますね
アンリ・ベルクソンの純粋記憶とかのお話を聞いた時、これはプログラミングとかの概念を理解するのと似ていると思いました
失われた時の中にある経験から自己理解を深める事で、自分の幸せを見つけて将来的に更に自分の幸せを深く追求出来る力を身に付けられる。そして選択ができる。確かにとても幸せな事だと思います。それを世界規模で行い歴史から幸せを追求出来る世界になると少しは平和になるのかななんて思いました
私は意識に関してデネットの全てを否定する気にはなれない一方で、チャーマーズの全てを肯定する気にもなれません。スーザンブラックモアの言っていることが一番しっくりします。そういう私は、茂木先生に言わせれば、メタ認知出来ない何もわかっていない人間ということになるだろうと思います。
この場合純粋記憶は必ずしも自分のものである必要はないと思います小説を読んだ時のあのなんとも言えない幸せな気持ちも、小説を通じて自分の中に純粋記憶を生み出すことで、幸せに似た感情を生み出しているのではないでしょうか
意識の問題は難しいですが、以前瞑想をしていた時に、寝ている時に、朝、目が覚める直前に有ったのですが、その時の体験は、寝ているのに意識が有り、勿論五感は働いていないでしたが、目が覚める直前の具体的に説明すれば、五感が開く時の経験はガラスに石をぶつけた時にヒビが広がって割れる様に、五感がその様な感じで、触覚、聴覚が開いた感じです。不思議に感じました。
聴きながら、最後にお釈迦様の話が出てくるのでは、と思ってたらやっぱり出てきてびっくり。
以前から、脳や意識について興味がありました。
その意識が、茂木先生の動画が視覚に飛び込んだ途端、観たい、という欲求がわき、行動につながっていました。
私は、私の五感を通して感じる感覚がとてつもなく素晴らしいことだと思っています。その感覚に感謝する意識があります。自分が喜ぶ感覚を与えてあげる意識を認識しています。
難しかったけど、すごく刺激になりました。アカデミックなことはちんぷんかんぷんでしたが、プルーストのお話から、“今、この瞬間、幸せを感じているか、そしてそのことに気づけているか否か” が大切なんだなぁ、と、一人で納得しました。
ALSのヒロ
私は、ALSに罹り、終末期を迎え、自分の人生と存在を考えているが、茂木さんの意識への洞察には感心している。生きがいは、70歳の私の世代では、学生時代に、第一に考察すべきテーマでした。私は、医師でもあるが、MBAも取得し、経済社会からも、人の生きがい、存在理由、真美善を、卒後に追求してきたつもりです。存在の理由は分からない、宇宙の意思かも、が、何をなすべきかは、わかっているつもりです。真善美に世界を進化、向上させることが、人の使命、生きる理由だと、50歳ぐらいに気づきました。混迷する世界、宗教も解決策とならない現在、生きがい、実存哲学、意識の再考察が、必須だと思っていましたが、茂木さんがそのような活動を行ってる事、この動画で、初めて知りました。スピリチュアルの矢作君、医学生時代を知ってる、には、閉口しているが、サイアンス、脳科学から、意識、生きがいを分析する手法には、100パーセント賛成です。ときどき、イマジン大学にお邪魔させていただきます。まだしばらく生きているので、病気を楽しみながら、生きがいを完成実践する予定です。
興味に必要な学問が全て苦手で無知ですが、何かわからない意識の話を聞くと、すごく心地良くなります。それほど低次元の私でも、わからないことさえ楽しくなるのは何か意味があるかもしれないと思いました。
予備知識があるなしを気にしないのが良いですね。
プルースト「幸せは当たり前の経験の中に在る」 持つこと=達成して得ること ではなく 在ることに幸せはある。エーリッヒ・フロムの「TO HAVE OR TO BE」(邦題「生きるということ」)のテーマでもあります。茂木さんありがとうございます。意識問題こそ正に最大のハードプロブレムです。茂木さんは僧侶の南直哉さんとの共著も出されてますね。医師の矢作直樹さんとの対談も期待します。
結局何も分かっていない。
ここ1、2年で“意識“についての興味が湧き、クオリアと言う言葉を知りました。
集中して調べることはありませんが、ふと思考に浮かんだ時に、ネットで調べたり、本を読んだりしています。
その過程で、私なりに強く感じていることは、意識は脳の分野に留まらないということです。
意識について調べていると、いつの間にか量子や遺伝子など他ジャンルにつながっていき、調べれば調べるほど範囲が広がって行って、まるで宇宙を漂っているような感覚になります。
いわゆる脳科学博士と肩書を持っていらっしゃる方でも、専門の範囲だけで完結させようとしていらっしゃり、根本的に“意識“についてちゃんと捉えている方がほとんどいないと思っていたところに、今回茂木さんのご意見を伺い、共感すると同時に嬉しく感じています。
今回、たまたま上がってきた動画を拝見しましたが、早速チャンネル登録させていただいて、ご著書を読ませていただこうと思います。
最近ではペンローズの量子論的意識論に惹かれたりしましたが、意識の理解には物理的アプローチの他に、数学的な意識モデルも重要かもなどと素人ながら思考しております。
身体の有無に意識の存在が左右されるのか?と疑問が湧きました。
大変興味深く視聴致しました。
有難うございます。
数学者の岡潔さんが仰っていた『情緒』とはクオリアの事だったのかなぁと思いました。スミレはスミレとして咲くことに邪な思惑などなく、あるがままに咲いている。情緒ある人はそんなスミレを見て美しいと感じる。衝動的、動物的に生きる生き方も決して否定はしませんが、わたしは情緒ある人として生きたいと思います。茂木さんの発信されるお話は、昔テレビで見た時から大好きです。今後のご活躍も楽しみにしております。
ベストセラーおめでとう御座います
10年ほど前の茂木先生の動画が落ち込んだ自分を勇気付けてくれます
👋♥
日本人が、海外のベストセラー作家なのは夢の様な事を叶えられましたね。嬉しいです😊
興味深くお聞かせいただきました。ありがとうございます。唯識について茂木さんの見解を聞いてみたいと思いました。
10年ほど前に妻の腎臓を生体移植しました。以前は苦手で食指の進まなかった食べ物が好物に変わりました。それらは全て妻が大好物な食べ物です。これは意識に関係あるのでしょうか?妻と私は冗談半分に腎臓間でWi-Fiが飛んでると笑っています。臓器移植に意識は関係ないかも知れませんが、ドナーの記憶や癖は臓器の細胞に残っていて、時間をかけて融合を果たしていると感じています。私の意識は15歳の時の、ある経験で覚醒したと感じています。生命体は個体のようでいて、実は全て繋がっています。
誤字だらけだったので編集しました。
茂木さんは心臓に記憶が宿る等の主張は疑似科学の一種と思われているようですが、
実際に生体移植(特に心臓)にて記憶転移が起きるのは(記憶転移以外によって説明出来ると反論する方もいますが)事実としてありますね。
記憶は脳のみならず、他の臓器(特に心臓は自ら小さな電気を発生させることが出来る等特殊性のある臓器なので)にもその一部は残るのかもしれないですね。
DNA自体に記憶が刻まれて子供や孫に受け継がれるでしょうね。茂木氏は信じないでしょうけど。意識体自体は依代を必要とせず、空間を漂う素粒子のように存在してると思います。
幽体離脱した人や人形供養する神主さん達は浮遊する魂や意識体を感じ取ってるはず。何も感じないホラ吹き自称科学者は鈍感なのです。
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もしかしたら、奥さんの腎臓の代謝能力の特徴で、塩分とか、特定の成分の排出が得意になった結果、奥さんと食の好みが似てきた可能性はあるかな?と思いました。
心臓移植の時には特に、ドナーの性質気質等も同時に移植されてるように思いますね。ドナー登録するときには、自分の性質気質等の記載も必要になるときが来るかもですね。
こちらの動画を見ているときでも
茂木さんの話を聞いている時は
意識が向いている訳だが
その途中で「今、私の中にある意識が動画に向かっている。」と思った時は「そう思う所に意識が向かっている。」
子供の頃からずっと記憶について不思議に思ってました。どうしても脳の中に膨大な量の記憶が保存されているとは思えず、記憶は脳の外のどこかに保存されていて、脳は記憶の外部保存ストレージにアクセスするためのデバイスのように感じていました。自己とは記憶であるといる感覚をずっと持っています。生きている間に意識の謎が解明されたらいいなぁ。
そう思います 高次に生きてる自分意識 は高次世界の記憶サーブにバックアップされるのだろう 記憶のバックアップすなわち守護神だと。 98歳 しばしば昏睡する 要介護の母にそう言ったら、全くそうだ 実感してると 同感された 驚きです
脳科学者の口から世界線という単語が出てくるとは····😅
ベルグソンの研究をしているものですが、純粋記憶の話は、記憶の話というよりも存在論で、世界の存在の仕方が持続と(潜在的な)記憶をともなっているという話で、理解することが難しいのはそのためです。茂木さんが純粋記憶についてお話くださりうれしいです。
私は茂木先生と同じ年で今年62歳になります。高校時代にはSF小説とブルーバックスシリーズが愛読書の凡庸な学生でした。当時はカール・セーガンの「コスモス」などが話題になっていて、間もなく宇宙の真理が解明されるかもしれないという期待もあり、私自身も物理学科に進学して真理を探求しようと考えていました。
しかし、高校生の幼稚な思考でどうすれば真理に到達できるのかについて毎日考えているうちに、「あれ?」と思う瞬間が訪れました。「科学の方法ではそこには到達できない」…という直感に襲われたのです。それがどういう理屈なのかを言葉で説明することは難しく、もどかしいのですが、それ以来『エウレカ!』なんて夢物語でしか無いのだと思うようになった私は、物理学科への進学はやめて、まったく無関係なエンターテインメントの道に進みました。エンターテインメントは現実的で、人間にとって絶対的な価値があるものだと思えたからです。
今60歳を過ぎ、再び真理への興味が湧いてきています。今でも科学では真理に到達できないという思いは揺らいでいませんが、突然、想像もできない何らかのジャンプ(それは「死」なのかもしれないと思いつつ)が起こって意識が変容し、『エウレカ!』がやってくるかもしれないと期待して、イマジン大学を拝見させていただこうと思います。
2:00~「クオリアってなんですか。赤の赤い感じです。で分からない人は意識の研究にご縁がない。」
これで納得できる人が存在するのが、私には理解できません。コメント欄を含めて本当に「スゴイ」動画です。
28歳ですが最近、人生の幸せは「自分の認知している世界を知り尽くすこと」と思いました。この認知は旅をたくさんするなどの視覚的認知ではなく、感情や思考・意識などの情緒的な認知です。人それぞれ感じている「世界」というこの世が違うので、自分はこの世界をどのように捉えていて、また年齢を重ねるにつれてどのように拡大させていくのか?を知ることがとても楽しく思います。「知る」ということがとても楽しいです。意識は変幻自在な概念過ぎるので、いい意味で人の中で解釈が一致することはないと思いますが、その変幻自在にあるときは近づけて、あるときは距離を取られながら研究をするのが楽しそうだなと思いました☺
茂木先生は、東大出身の方ですが、コメンテーターというイメージが多く、私にはあまり価値を感じられないイメージがありましたが、初めて聞いた「意識」の御専門のお話しは素晴らしいですね。解明できないけどロマンを感じます。解明できないけど面白い。でも自分には、皆にも「ある」ということ。初めて茂木先生に向かってみたいと思いました。偶然、これに出会えてよかったです!! 今はこういう講義が無料で聞けるって、有難い時代だな、と思います。
意識の科学的な「仕組み」と意識の来源(という言葉の適否は別にして、「私は何故この私であってその他の誰かではないのか」という疑問)は全然違う問題なんだけど、後者の問いを持てる人は私の感覚でも茂木さんが言っておられるように、100人に1人くらいの感じがします。自分としては意外ですけど。
これは永井均さんが言っておられる「タテ・ヨコ」問題に通じていると思います。
それを考え始めると宇宙に飛ぶ時ありますよね😊
脳がポジティブになっているときとネガティブになっているときに頭の中で流れる音楽が違うことに気づきました。さらに疲れているときに流れる音楽も。
私はコーヒーを飲むとたいてい鬱傾向になるので、メランコリックな曲が流れます。
証明することができないので単なる逃げになってしまうのですが‥
私は子供の頃から「意識」というものは、パソコンでいうところのショートカットのようなもので、身体(主に脳)の中に存在するものではないと思っておりました。
自分では意識というものがあるから身体を中心とした周囲を認識できますが、実際には俯瞰して見ているものを自分として認識しているだけなんじゃないか‥
と考えています。現在62歳ですが、それは今でも変わっていません。
「ショートカット」という表現は誰もしませんが(今まで聞いたことが無い)、同じような感覚を持っている方は‥おりませんかね~?
単に「機能の名詞」とするなら、「意外に」デネットの機能主義で問題がない様にも。意識、クオリアも、セルフモニタリングと象形、自己言及とするなら、その発生段階を探る進化生物学的アプローチあたり?。博学、哲学的な茂木さんにはいつも啓発を受け楽しませてもらっております。
@@yasiyasi5839
「唯脳論」読み直してみましょう。茂木氏も敬愛する養老氏がそう言ってるなら案外それで充分?。それより、主題についてのあなた考えは、ないやん😂
脳が意識を生み出しているというのは本当に間違いのない事実なのでしょうか?
そもそも意識とは何なのかがまだ分かっていないと思うのですが、その分からないもの製造元を確定出来るとは思えないのですが、、、。
クオリア問題があるのにシンクロすることがあるのが不思議ですね、いつか先生のご意見を伺ってみたいです
ベルリン在住です。仕事で患者さんから、茂木先生の本が凄い👏と聞き嬉しくなりました。たしかに「わからないこと」を「わかる」のが一番難しいかもしれません。わからないからこそ、神秘的でロマンを駆り立てられます😊
感謝します。 7:03
Ikigai読んでみたくなりました!
30年以上研究していて、これは、という物が無い、、というのを聞くと、逆に元気づけられる。
成功それ自体に幸せを感じるのではなく、成功を追い求める日々にこそ幸せがあるということか
意識・・不思議です。19歳の時に事故に合い生死を彷徨った後に生きているのかそれとも死んでいく過程なのか考えてしまうことが多かったです。
映画「マトリックス」を観たときにこの様な世界の中にいるのでは?と考えてみたりもしました。
今、意識というか思うのは「虫でもなく、鳥でも、犬でもなく過去の誰か、でも未来の誰かでもなく、この時代の、この肉体の中に何故私の意識が有るのかが不思議」でなりません。
それ自分も思った事があります。「何故自分の意識は今この世界のこの身体に宿ったのだろう?」と他の誰でも良かったし別の誰かが自分を体験してたかもしれないのに何故自分なのだろうかと。
ホログラフィック宇宙論などもありますけど、実際は2次元の情報として存在していて3次元の世界に投影されているだけなのかもしれないですね。
ロジャーペンローズ博士の脳量子論では人の意識は量子的な性質を持ってるという話しもあります。本当の自分はどこかにいて、ここに投影されてるのであればフェイトの英霊みたいで面白いです
他の存在を全て消しても自分の思考だけは残る。我思う故に我ありですね
とても素晴らしい内容でした。このような話を聞けるのは僕の人生にとって大いなる価値があります。
番組ご視聴ありがとうございます!茂木先生と一緒にこらからも価値あるお話を配信してまいります!
「脳を開けたら心は無かった」って本最近読んだけど面白かった
意識とは、他人を知ることで自分を知る能力。と聞いたことがあります
それは自己同一性ですね。英語で言うと「アイデンティティ」って奴です。
自分は他の人とどう違い、自分と思える枠組みを作る働きです。
生きている事の本質や快の源は表面的な出来事ではなくて、それぞれの中で沸き起こってるある独特な「感覚」というのはとてもしっくりきます。茂木さんが嘆いていらっしゃった「意識」に関する研究の現状について思ったことですが、何かを証明しようと躍起になる人々が多くいる学問・学術?の世界で、本質的なところに目が向かないのはごく自然なことのような気がしました。求めている物が違うというか、ベクトルがまず異なっているような感じがしました。
意識の問題を日常の生活で求めてます。純粋記憶の可能性は考えています。一応基本的に自分の記憶と外的な環境から現れる記憶は日常の生活では感じることが出来ますが、純粋記憶は日常の生活とはまったく違ってますから、かなりハードルは高いです。
意識の問題はまず生命の成り立ちから解明しないと無理かなと思う。
生命体が原子から構成され、かつ炭素が関係している事はわかっている。(生命と非生命体の違い)
原子は素粒子から成るのだけど、そこからどういう理屈で生命体が作られていくかを解析しないと意識の問題もわからないんじゃないかと思う。
細胞はDNAによって各器官を構成し役割を担うのだけど、個々の細胞が生きる為の手段を何故多数からなる細胞を共同体としたのか、何故連携出来るのか、ひいては原子素粒子が細胞活動にどう影響しているのか解明しないとかな。
意識は有意識と無意識に分けられるけど、生命活動に必要なのは最低条件として無意識がある。何処か怪我をした時、痛みによって危険を察知するけど先ずは危険から離れるという意識が何処から作られているか、その際に意識されるのが細胞なのか原子なのか素粒子なのか、そこからかなと思う。
現時点までの人間が理解しうる、主に目でみて科学的に確認できるこの問題の領域には限界があるだろうことは察していても、各研究者の主張は、その時代においての社会的意義、立場などから、学問として少しでも進化したようなそれらしい論理が展開されるが、それらはみな問題を真に理解するための論理からは程遠いような印象がある。
統合情報理論は理論の基本的な部分を大きな仮定で支えてますが、こういう仮定から話を進めるのが大事だと思いますね。間違えてようがなんだろうが、論議をして発展していくのが科学の素晴らしさだと思いますし。
『意識をめぐる冒険』とか、読み物としても超面白かったです。
個人的には、AIが人間と同じような意識およびクオリアを獲られるか、という問題は語用論を中心に否定可能だと考えてます。
容易に思考を止めることが出来るようになるまで訓練して、感情がある、それを観察している観察者が残る。
やがてそれが消えてゆく。自分というのがどこにあるのか、じっと探って行くと面白いです。
なぜ、このような無意味で面倒臭いことを始めたか。
苦しみから逃れる道を探した末。
こちらで教えて頂いた、プルーストの日々の幸せとも繋がりがあと感じています。
意識は科学の最大のテーマ・謎ですが、アカデミックというフィルターをすり抜けてしまう。
細菌レベルから霊長類、人類までの全生命の中で、どのレベルの生命から意識と呼べるものを持っているんでしょうかね?
一過性急性精神障害になった時の自分の意識、記憶が振り返ると面白いかったなぁと思い、意識について考え始めました。これから茂木先生の動画や本で勉強したいと思います😊
クオリアを感じられない人が居るということに驚いた 何だか、孤独を感じにくくて幸せそう ぼんやりと、意識の問題と甘えの関係には深い繋がりを感じる
解き明かしましょう。🙏
例えば五感を絶たれた状態でも意識は意識として存在出来るのだろうか?という事を考えました。というのも、SF的に人間の意識だけをコンピューターに移すというのが有って、その場合、体が無い状態=五感が無い状態で意識だけ存在できるのか?とふと思いました。
人間レベル十段回中、多分一もないですが、意識の問題は、難しいのですね!
ただのアナログと同じに感じていました♪
「五十二位」ですけど・・・。「等覚一転名字妙覚」という不思議な境地を説いていますね。悟りの段階の五十一位(等覚)まで上り詰めてみてハッと感じたのは悟りに入る前の最初の位(名字)の純粋な「信」そのものが妙覚(五十二位)への直道であったという教えは茂木さんの意識のとらえ方の難しさと通じるものがあると思います。
茂木さんはXで「世間がなんと言おうと、人間には魂というものがある。」とおっしゃっているので
意識の正体が魂であることは本心ではわかっているのだと思います。
それを科学に取り込もうとしてるんじゃないの?
間違いないね☆
記憶は、私たちの想定以上に私たちの意識と関係していて、だからこそ、時々ベルクソンやプルーストに戻る必要があります。
意識は疑心暗鬼とゆうか
確信への疑い
自信の確信に?をつけることでしょうか
赤?は
赤い?から始まる様々な定義を再定義しょうとスタンバイする状態
無意識は知識の固定化をそのまま使用する状態でしょうかね
アインシュタインは量子問題と絡んで、実在とは何かという問題を巧妙に回避し続けた。意識とは何かという問題も同じ次元にあるように感じます。また、意識の発生の仕組みが完璧に分かったとしても、意識と仕組みは別物(意識と脳が別物であるのと同じように)だから、じゃあ何故そこで意識が生まれるのかという疑問は決して消えることはない。結局、意識という奇妙なものを我々も脳科学者も生きるしかないんでしょう。
笑福亭鶴瓶は40年程前の頭がもじゃもじゃの頃にラジオの番組で「おれが見てる綺麗な夕焼けの赤い色は、お前の見てる夕焼けの色と同じなん?どうなん?同じかどうか証明できるん?」と鼻息荒く叫んでました。髪型との相関があるかどうかはさておき、鶴瓶はわかってるんですね。それが芸風にも現れているようにも感じます。
うーん、でもそれって誰もが子供自体にふと思うことじゃない?
特別な話じゃないよ
意識は全身の細胞に宿っていますよ。
脳を特別視しちゃダメです。
脳はあくまで全身の細胞の円滑な交流のための機能でしかないです。
量子コンピューターもスペースシャトルも作れる人類が未だ作ることができない小さな細胞が37兆個集まったのが人間です。その細胞が脳という機能を使い交流するその瞬間意識が生まれます。AとBがキャッチボールする際「投球」が生まれるようなものです。頭の先からつま先までの全てが我々が我々たりうるために欠かせない主人公です。脳は他の臓器と同様たんなる機能です。しかし五感のほぼ全てが脳の周りに配置されているため(タンスの角につま先をぶつけると、痛みにタイムラグが生まれるように、物理的な距離を減らすためだと予想)脳を特別視してしまったんだと思います。
初期の生命は進化の術として細胞を大きくさせる道ではなく細胞分裂していく道を選びました。おそらくある数に到達した際、これ以上数が増えても効率よく生命活動が為せないという壁にぶつかり、それを打開するための機能として脳が誕生したと予想します。
つまり生命にとって最も重要なのは細胞であり、記憶も感情も意識も脳ではなく細胞自体に宿っていると確信します。
以上、ドグラマグラの脳髄論から着想を得た僕の妄想でした。
『脳とクオリア』を読みました。
私は、茂木さんの主張の基礎と思われる「相互作用連結なニューロンの発火のクラスター」と、「統合情報理論」のトノーニさんが言う「統合されたニューロンのシステム」は、よく似ているように感じました。
茂木さんにしてみれば「それは私の主張が全く分かってない証拠だ」という事なのでしょうが、私には、ニューラルネットワークの同じ構造、同じ現象に、別の角度から別のアプローチで迫っているように見えます。
そして、「これは意識が何であるか何のためにあるのかの説明にはなっていない」と、ご自身で述べている点でも共通しています。
ただ大きく違うのは、トノーニさんは自分の理論を仮説として大らかに提唱しているのに対して、茂木さんはご自身の様々な着想に対して、慎重に「極めて興味深い可能性」と述べたり、「道のりは、とてつもなく遠いのである。その道のりは、「意識」について、客観的な、技術的議論を進めることによってのみたどることができる。」などと述べるに留めている点でしょう。
しかし、少なくとも「統合情報理論」は、統計的手法によって作られる AI に「意識が宿るのは時間の問題」と当然のごとく言っている方よりは遥かに核心に迫っていて考慮に足る仮説だと私は思います。
脳研究の世界が一時的に「統合情報理論で意識が説明できる」と舞い上がったのは、トノーニさんの責任ではなくて、むしろ周りの方々の問題ではないでしょうか。
***
改めて、『脳とクオリア』の感想を簡単に書きます。
とても面白い本でした。
私がずっと疑問に思っている話題が次々に出て来たからです。
ぼんやりと考えていたことが明確に言語化されて爽快でしたし、今まで考えた事もなかった「相互作用同時性の原理」の話はとても印象的でした。
また、私は「結局、クオリアと意識は同義ではないだろうか」という考えから、意識と同様にクオリアが存在する必然性に疑問を持っていたので、「クオリアは、脳の中で行われている情報処理の本質的な特性を表す概念である」という定義(二つの定義の一つ)はすごく新鮮でした。
この本が 30 年近く前に出ていたのは、本当に驚きです。
もっと早く読んでおけば良かったと何度も思いました。
良い本を読ませていただき、ありがとうございました。
今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
幸せとは何か?
人生とは何か?
命とは何か?
愛とは何か?
神とは何か?
奇跡とは何か?
希望とは何か?
科学とは何か?
宇宙とは何か?
・・・
それらは全てそれぞれが「ジョーク」の異なる一つの形態に過ぎない。
高畑勲監督のホタルの墓が宮崎峻のトトロの横で上映されてて、宮崎峻は敗北感満載だっただろうって、誰か話してたのを思い出しました。確かにホタルの墓で死後の二人が遊ぶ場面は、生命や人生賛歌のトトロと真逆。マドレーヌを紅茶に浸して食べるのを思い出す幸せって話で思い出しました。
とても興味深く拝見しました!
私も高校生の頃「俺にはなんで意識があるんだ」と思い始め、素人ながら半世紀も思考実験をしてきました。神経回路網の活動から意識が発生するなら、コンピュータ上でその回路網をシミュレートすれば意識は発生するのかとか。人間同士の相互コミュニケーションを大局的にみると神経回路網の活動と類似しているから人間組織にも意識は発生しているのか?とか
どれだけの原子を沢山集めたとしてもそこに意識が発生するとは思えないというね。
しょうもないお話だこと、人間をミキサーで撹拌しても人間の材料は入っていても意識はないでしょ。
「私」という意識について4〜5才ぐらいの時に疑問で仕方なかった事を思い出した。
こんな凄い学者も考えてるんだと嬉しくなった
同じく、私もそうでした。友達に話しても何言ってんの?みたいなこと言われてそれからは誰にも言わなくなってしまいました。
茂木さんの著書は、「脳とクオリア」以来、何冊も読んできました。 ペンローズやチャーマーズの著書も多少は読みましたが、まだ十分に時間をかけて読破するまでには至っていません。 あと脳科学関係では、クリストフ・コッホとジョン・サールの著書は何冊か読んでいます。 コッホの見解には賛同できる点が多いですね。
個人的な考えを述べると、チャーマーズが「意識の諸相」で述べているように、意識を質量とか時間・空間みたいな物理学上の基本概念と同様に、理論構築の大前提として扱うアプローチが良いように思えます。 それ以外の何かしら還元主義的なアプローチでは、意識の本質が上手く捉えられない気がします。 そのチャーマーズの発想は、哲学の世界ではフッサールの現象学に近い考え方です。
エネルギー医学の方面では、例えばエネルギーヒーリングによる心身の治癒のプロセスについての知見があります。 そんな知見は意識の本質の探究と密接に関係するはずです。 何故なら意識のあり方によって、ヒーリングは決定的に左右されるからです。 そこでも基盤になるのは意識自体であり、オーラがどうとかエネルギーがどうとかではありません。 ちょうど物理的なプロセスによって意識が説明できないのと、そこにはパラレルな関係があります。 そうなると意識の探究は宗教と密接に関連してきます。 密教の法要などが、何故、実質的な効果を生むのかは、意識自体によって説明可能でもあり、またそれ以外の説明は、根源的な解明にはならないと思います。
コッホが意識が生まれる条件として、有機的な生命体あることを必須条件として挙げていますが、有機的な生命体にしか存在しないエネルギー場が解明されれば、それが次に段階の探究に繋がっていくと思います。 ただ、その際に還元的な形で意識の解明ではなく、意識自体の本源性を確保した形で、そんなエネルギー場の具体的な解明が必須だと思います。
茂木さんには、その辺りに関係する科学的なアプローチに基づいた脳科学の更なる研究を期待しています。
普段見てる時は、全然そう思わないけど、この動画だけは、素晴らしいと思える不思議。
クオリア、ダニングクルーガー効果、メタ認知などの単語に出会えて感謝しています。「水がコップから溢れ出す瞬間」に名前はあるのでしょうか?意識の問題と似ている気がしていまして。年とともに目が悪くなるというのも自分が目が悪くていいやって思ったら悪くなる?みたいなことなんですかね。般若心経では「ない」を言い続けているみたいに、本当の意味で人に理解してもらうって本当に大変なことだと思います。いいチャンネルに出会えました。ありがとうございます。
脳科学者が説明している意識は、すべて物質的な脳の機能の判断ことを言われていると思います。
だけど意識とは本来、人間の脳から分離した存在なのです。
人間とは、人の生命体に個の意識が融合することにより、人間たる存在になっているのです。
そして意識こそが人間を支配し、またそれらを取り巻く物質に影響を与えている存在なのです。
もっと大きく捉えるのならば、意識の元である意識界や精神界がこの私たちの宇宙を創っているのです。
脳科学者の研究の範疇ではないかもしれませんが、場面緘黙の子供の治療に関して茂木さんに聞いてみたいと思いました。
場面緘黙 初めてその言葉知りました!ありがとうございます!
すべてはプログラムされている。遺伝子とプログラムされた私たち量子理論よりわからな世界脳と体の不思議!今日も感謝!😍
難しいと理解する事が大事なのですね。
全てを見切れていない、なかで全てを分かったと勘違いをするのが
馬鹿なんです✨ね
人生の中で20代30代の人が偉そうに年配の人を軽んじるときに
同じ気持ちになります。
自分以上の経験者は世の中に
五万といます。意味の有る謙虚さが生きる上で学びに繋がります。
全ての研究は意識の研究に方向が向いとるイメージあるしな
目的を持つという意識、自分の利益を持つ意識、他者を意識する意識、空間を認識する意識、時間を感じる等など、感覚と知識、実践理性と考えていくと、数学的表現では分かりませんが、西田幾多郎先生の言われた純粋経験に達するように思えます。深い問題ですね。
自身意外の意識証明は難しいですよね。意識があるものと、意識があるように見せてるものをどうやって見極めていくかコレから議論されそう。
自分の中のものに対しても難しいと思う
意識の事を分かろうとするのは、なぜ素粒子が存在してるのかと同じぐらい分からないと思います。
意識は脳内では生まれない。つまり、発生しない。記憶は脳内には蓄積されない。思考と情報処理は脳内では行われない。意識は違う「場所」にある。記憶は違う「場所」で保管される。思考と情報処理は違う「場所」で行われる。脳は生物的・物理的に生命活動を行う為の管制機関でしかない。厳密に言うなら、意識は違う場所にあるのではなく、意識の中に物質的・物理的世界が存在している。
何かを見ている自分。これは意識の作用ですよね。
この作用は脳内で実現しているのだとすると、見ている自分は脳内のどこにいてるのか、とても不思議です。
スマートホンに意識アプリをインストールすると、見るスマホが実現するのか。
スマホのカメラと人が見ていることの決定的な違いは人の場合は、そこに見えてる物がある様に感じてること。
それこそクオリアなのか。
意識とは何か、って意識をどう定義するのか、というところからして難しそうです。言語とは部分を切り取るものですが、意識イコール言語ではないですよね。意識について論理で研究する、とはおそろしく難しそうです。
意識というのはメカニズムそのものだと考えています。例えば物が動くメカニズムについて、ボールが転がる、歩く、自転車をこぐ、車で走る、飛行機で飛ぶ、そのメカニズムは様々ですが、それら全てが動くという現象であると同様に、意識という現象も様々であって、極端な事を言えば、石にも意識はあると言えるのだと考えています。しかし、やはり最も重要なことは、人間の意識のメカニズムの解明であってそれを多くの学者さんは考えているのですよね。がんばってほしいなと思います。
意識を持つものが、意識を考察し理解しようとすること自体がとても難しいと思いました。
意識を俯瞰しようとすればするほど意識が積み上がっていくだけのようで、いよいよ捉えられません笑
この現在の次元に生きている限り、意識の問題は解けそうに思えませんね。
でもだから楽しい!
睡眠中に夢を見ているとき、意識は有るが記憶の無い状態です。
そして、夢の内容がどんなに奇想天外なものだとしても、夢を見ているときはそれを現実だと思って見ています。
あれこそ、個人の意識そのものなのではないかな、なんて思っています。
ただ、それがどう発生しているのかは、全く分かりませんが!
無意識と意識の狭間だろ。そもそも、無意識の情報は意識に上がってこないと気付けない
茂木先生がもし、ラマナ・マハリシを読んだらどのような感想を抱くのか、興味深いです。
ピュアメモリーは時空(移動)を認識する為のもの
右にあったものが左に移動したとしたら右にあったものを記憶していないとこの移動は認識できません。
シナップスが破損したアルツハイマーの人が車の移動を認識できるのはこの為
ピュアメモリーは物質に存在しているのだと思います。
ピュアメモリーの複合体である物質はエピソードメモリーを持ち
各メモリーをまとめて"保存"する為、意識が存在していると思います。
一次元 線
二次元 画像
三次元 立体
四次元 動画
四次元は時空と記憶でできています。
脳にどうやって記憶されているのか知りたい。電気信号でナノレベルのタンパク質で構成されてるのか、取り出したいと意識してアクセスしようという意識を前頭葉から電気信号を出して化学反応を起こしだす時点以前から天文学的な反応が常に起こり続けてるような気がします。
私は何か記憶を思い出すとき25秒から30秒くらいしてやっと思い出すことがあります。そんな記憶再生の仕組みは、たとえば脳のどこかに何かDNA的な記憶媒体があってそれを巻き戻し再生でもしてるんじゃないかと感じますよ。知らんけど😅
意識の問題については、他の何かに置きかえることが不可能ということかと思います。
その大きな理由としては、人間の意識を数値化したり代わる表現が出来ないが故のことだと確信します。
ふと思い出したのですが…
小松左京の「果てしなき流れの果に」だったか「次ぐのは誰か」だったかは忘れたましたが、彼がSFと言う当時 (戦後の昭和時代…実存から不確実性の不安な時代へ、大阪万博からやがて阪神淡路大震災を経て、そしてリーマンショックへと向かう直前辺りの時代) の文学ジャンル上で、可能な限り、人類のはるか未来へ視線を投げかけ、その可能性 (それが良かれ悪しかれ、また人間の物理的な存在形態の有り様やその有無も含めて) を可能な限り思考実験した果てにたどりついた、というか新たな沃野の入口に、その主人公が新たな未知の存在形態として究極的にたどりついたところが、
やはり今回テーマの “意識” 体としての未来だった…
確かそんなことが書かれていた気がします。
それは、思うに、きっと、デカルトあたりがたどりついた、コギト・エルゴ・スム「我思う故に我あり」(ほんとは彼がハッキリこう言ったわけではないが) にも通じる近代西洋哲学の確固たる基本的な思考原理の拠り所?あたりも、その意識としての自信というか自覚のようなものでもあるし、
逆に、そのアンチテーゼとも言える?アプローチかもしれないけれど、うつろう変化やゆらぎの中で、そのデカルトの確信した危うさ?さえも既に見抜いていた?感のあるブッダが既に2500前にスッタニパータで弟子たちに言っていた「我ありと考える不当な意識の根本を制止し…」というあたりの、後の弟子たちが構築する ”空“ (有るけど無い…(つまり意識たる捉え方や立場=場によって事象は異なる)、無いからこそあり得る…(つまり変化によって有無が生じ、意識=意志の介在によって新たな変化=有に関与も出来る))…
つまり、立場によって変わったり移ろいゆく自分を絶対だと思っていけないし、単純に自分を基準にして他と比較し思い上がったり落ち込んでもいけない。また、終わり(=無)があるから始まる(=有)ので、ならば気持ち(=意識)次第で新たな展開も見込まれる…
もやはり、 現実の現象に対する “意識” の関わり方としての、彼なりの探求であり、また同時代の人々を救おうとした切実な、彼なりのアプローチだったのだと思います(私なりの解釈ではありますが…😂)。
さらに、アインシュタインやマックス・プランクそして南部先生などの時代を経て現代に至る新たな世界観の時代での、“意識” という、茂木先生方の取り組まれるジャンルは、今まさに、新たな科学的なフェーズのステージへの展開へと入って来ていると思われます。
この意識の問題は、深く究明し、どこかで一線を引いておかないと、いずれ、案外そう遠くない未来に、AIやロボットに意識はあるか、さらには、人権を認めるべきか。
また、事故によっては、自己判断能力のあるロボットに責任があるのか、開発者の責任なのか、などの裁判や議論にもつながることかもしれず…
なので、
まあ、特に偏った思想にも、また特定の宗教にも縛られない日本の、まさにこの時代に、この ”意識“ あるいは “認識” 探求の現場に?居合わせたことに感謝したいと思う、今日この頃であります😂✨
最高の内容です。
意識と時間の概念はとても関係が深いと思う。空間というのは初めからあったもだけど、時間という概念は初めて人が創り出した概念だったのではないか?時間を忘れて没頭している時は意識が無い、時間は物凄く短くなる。時間という束縛を人は創り出した、それは空間を変形させる事が出来るという意識を創り出してしまった。情報を科学的な技術により時間を超えてて伝達する手段を知ってしまった。意識とは概念であって、概念の共有化によって生み出されたものだと思う。その中に一つの契約の中に生きているというのが人間の時間意識だけど、同時に、その時間的約束事から解放されたいという切なる願いをもって苦しんでいるのが人で、何故、意識を探求するするのかといえば、答えは意識から自由になりたい根源的意識があるからなのだと思う。こういう問いの場合、答えをだすというより、何故、疑問にするのか?という方に目を向けた方が良い、何故、私はそれを問題としているのか?何処からその問題をもって来たのか?何故疑問にするのか、実はその事が答えである事が多いのに、きずかない。
意識の難しさを理解するのが難しい、ということですが、一つぐらいクイズのような問いかけ、例題が欲しかったです。
仏教系辺りでの議論も同じですが、意識という言葉の定義が曖昧で議論がかみ合わないというのがよくある話です。
仏教系では現象を時間的、物質的に細かく極限に小さく追求していくアプローチが取られます。
ですから意識と言っても意識の最小単位(微小時間)のことを調べようとするのです。
クオリアについても生まれた瞬間の極めて経験が少ない瞬間にはどうのようになっているのか的な方向性になると思います。
私にとっては意識自体の存在、意識の存在自体を意識できる(認識できる)不思議、が長年の大いなる疑問でした。
この、自分は今、ありありと間違いなく存在している、という感覚。
この疑問の答えは、わかってしまえば非常に単純で間違えようもないものでした。
なぜ仏教が刹那(せつな)などという微小時間の概念を生み出したのかも合点がいきました。
ですがこの問題は非常にやっかいなものなのです。将来、科学が意識やクオリアの正体を見事明らかにしたとしても、
その論文を書いた当人も、読者も誰一人、わかったー!そうだったのか!はースッキリした!とはなれないのです。
キリンを見たことがない人に絵や映像を使わず、言葉や文章で懇切丁寧に事細かにその特徴を伝えるのに似ているかもしれません。
9割方イメージは出来たとしても、実際に見たことがある人の理解には及ばず、理解が欠けている、スッキリしない。
茂木さんは美しく完璧に記述された数学での意識、クオリアの証明を見せられてもスッキリしないタイプではないでしょうか?
電車内でのガタンゴトンが疑問の発露であるならば、そんな気がします。
茂木さんが良いアプローチ方法に出会えますことをお祈りします。
意識とはどこにありますか? 脳に?心臓に?体内の水分の中に?死んだ後霊魂は残るとも言われますが 意識は霊魂とは違うのですか?
フックから取れた外套はどこにいっちゃうのでしょうか?
床に落ちる。
御講義ありがとうございます。答えの思いつかないことを考え生きて生きてもがいているんだんぁと思い少し心が軽くなりました。ありがとうございます。
先生によると、コレコレの人は「わかっていない」という話が根底にあり、多すぎるように思うのですが、視聴者はわかる答え(あるいはそれに近いもの)を求めていると思います。
医学だけでなく、コンピュータや人工知能などの工学、生物学、哲学など様々な視点から迫ってもまだ意識はどのように生み出されるのか解明されないのはそれだけ人間や動物など命ある生物が複雑かつ宇宙と関わりながら進化していったから宇宙のことも同時に解明されないと、宇宙という空間にある物質のことは分からないのかなと思いました。
意識や宇宙の解明は私には想像もできない果てしない問いです。それでも少しづつニュースや知識が広がって未来のアインシュタインに届くといいですね。
困難であるのは、あなたが意識だからではないでしょうか。目が目を見ることはできません。
肉体が死滅しても意識は永遠に存在し続けることを臨死体験を経験してわかりました。持病もなく事故でもなく突然心肺停止の状態で起きた出来事でした。
この体験はあくまで私の経験上の話なので上手く説明できませんが、意識は肉体の死滅を認知するまで、いま何が起きているのか説明のつかない恐怖と闘いあがきました。そんな中突然記憶が蘇り生命は死を何度も繰り返している記憶がはっきり思い出し、死への恐怖は一瞬に去りました。
この体験で学んだことは、あくまで持論ですが潜在意識とは脳の思考、感情、感覚を司る司令塔(DNA)にあらゆるデータを記憶保管しているから、無意識に思考や感情が何度も同じことを繰り返すのも納得できました。
意識は目に見えない特
性なので恐れを回避するため都合や意味づけで勝手に記憶を変えたりしているのも納得できます。
私達が研究したり論じているものは全て自分の意識の外のことですが、自分の意識の世界には自分しか居ないし自分しか認識できないので、他者の意識と比較したり共通性を見出すこと自体ができないと思います。量子力学的に意識を定義することは可能かも知れませんが、私達自身にそれを認知する能力はないので、理論で終わってしまうと思います。
面白いですね、確かに『私の水の冷たい感覚』を他人はどう感じているのか?
自分は何なのか。
意識とAIの関係(AIに意識を付加する)が大きな壁になるかもしれませんね。
『クオリアと人工意識』注文しましたので、これから読ませていただきます。
死んだら、この今の考えている自分は何処に行くの?と小学生の頃、寐る前、布団に座りながら思いました。まさに、意識について疑問が生まれた「純粋記憶」でしょうか。生きるとは?何のために生まれてきたの?は、その頃に考えたのか、以来、還暦を過ぎてもほぼ進化はなく、同じようです。愛を知るために生まれてきた、が、私のテーマのようです。愛って、意識ですね😊私はサイエンスはや学術世界には縁がない場所に生きてますが、意識のことや探究は好きです。デヴィッド・R・ホーキンズ博士の意義のマップは分かりやすく、自分の現状を確認できるツールとして壁に貼ってます😂
分からないのに知っている感覚の「意識とは」は永遠のなぞなぞ、楽しめますね❤ありがとうございました🙏💞🌿
脳に記憶はなくて、フックの役割だけって話を聞くと、プログラミングの世界におけるポインターの役割に似てるように感じますね
アンリ・ベルクソンの純粋記憶とかのお話を聞いた時、これはプログラミングとかの概念を理解するのと似ていると思いました
失われた時の中にある経験から自己理解を深める事で、自分の幸せを見つけて将来的に更に自分の幸せを深く追求出来る力を身に付けられる。そして選択ができる。
確かにとても幸せな事だと思います。
それを世界規模で行い歴史から幸せを追求出来る世界になると少しは平和になるのかななんて思いました
私は意識に関してデネットの全てを否定する気にはなれない一方で、チャーマーズの全てを肯定する気にもなれません。スーザンブラックモアの言っていることが一番しっくりします。
そういう私は、茂木先生に言わせれば、メタ認知出来ない何もわかっていない人間ということになるだろうと思います。
この場合純粋記憶は必ずしも自分のものである必要はないと思います
小説を読んだ時のあのなんとも言えない幸せな気持ちも、小説を通じて自分の中に純粋記憶を生み出すことで、幸せに似た感情を生み出しているのではないでしょうか
意識の問題は難しいですが、以前瞑想をしていた時に、寝ている時に、朝、目が覚める直前に有ったのですが、その時の体験は、寝ているのに意識が有り、勿論五感は働いていないでしたが、目が覚める直前の具体的に説明すれば、五感が開く時の経験はガラスに石をぶつけた時にヒビが広がって割れる様に、五感がその様な感じで、触覚、聴覚が開いた感じです。不思議に感じました。
聴きながら、最後にお釈迦様の話が出てくるのでは、と思ってたらやっぱり出てきてびっくり。