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縄文人が海洋民族なのは知っていましたが、丸木舟でなくて、葦船だったのかもしれないのは目からうろこでした。その確率が高いように思います。葦なら、すぐ腐るから遺跡に残らないし、大きくするのはわりと簡単そうですし。素晴らしい。小名木先生の話はいつも勉強になります。
@@栄健 さま 葦船を馬鹿にするでない!古代人の知恵を持ってすれば頑丈な葦船等朝飯前じゃ。藁ぶき屋根の頑丈さと精巧さを見よ! by 古代人の子孫
イザナギ、イザナミが大ひるこを生んだ時、葦舟で流したとの記述がありますよね。使ったことはあり得るでしょう。ただ大きな船ではなさそう。
湿原だらけでしたから、アシは捨てるほどあったでしょうね。豆知識アシの根っこに鉄分を吸収して成長するバクテリアが居て、アシが枯れるとストローのように中空構造の褐鉄鉱が残ります。「高師小僧」でググってもらえば分かります。これを砕いて赤い染料にしたり、土器に混ぜたり、野菜の栄養剤になったり、たたら製鉄にとか。もしかしたら、鉄分不足の女性の薬だったかも。中にたまたま塊を内包した鈴のような形のものも自然に出来、それを御神体にしている神社もあるとか。お賽銭箱の上に吊るされた、神様を呼ぶときに鳴らす鈴の原型かもしれません。女性、出産、経血。巫女や神社のイメージカラーが赤いのも鉄と関係してるかも。全部アシにつながる可能性。都市伝説?
@@雨に唄えば-w7f 葦原の中津国にも繋がりますね。
@@rocolulu1380 それ
日本の古代はまだまだ解明されていない謎があるな大海を自由に往来する海洋民族であったことは紛れもない事実だし海底のピラミッド群らしきものにはビックリ誇りを取り戻せ子孫達と叱られているよう。
倭人をしらべますと、中国のミャオ族がでてきます。また中国各所に倭人とい動かす言葉が刻まれた墓もあります。この倭人と日本の倭人の繋がりが読み解けていませんでしたが先生のお話から大陸が繋がっていたなら充分に納得できるものでした。また日本人の精神性がどこから来るか考えていましたが、海洋民だとかんがえれば全てが紐解けてきます。水面が上昇後の中国古代に置いて、桃源郷が遥か彼方にあるとそこへいきたい人がいたようです。これが倭人の国の日本の事だと仮説していた人がおられました。山あり、緑あり、水豊かで、一番は人柄が温厚。確かに桃源郷と思わざるおえませんね。また古代から目が話せなくなりました。これからはカタカムナ勉強します。ありがとうごさいました。
いつも貴重な発信に感謝します。本来 大学院、皆 大好きな 日本学術会議が 発信すべきですが 不思議な 学会ですね。
科学以外は在日が多くまた自分たちの利権を守る為の団体なので国の為になるなんて一つも考えていないもの。数人しか知りませんが全員そうだったのでわたし私は屑の集まりだと思っています。
小名木さんの最新の研究成果を取り入れた解説は出色ですね。30年前の研究成果に固執し、一歩も進歩できない化石のような学者がほとんどですが、小名木さんの語り口、ITの使いこなし、感服いたしております。後30年は活躍していただかないとーー。宜しくお願い致します。
南米大陸にある湖の辺りに住む人々が葦船に似た船を使って生活していたのを見たことがあり、日本にもあることを知らなかったです。日本の古名に豊葦原というのがあるのできっと木を切って船を作るより葦で船を作る方が簡単だったのですね。誰か葦船で実験して欲しいです。
海なし県民ですが、海から離れて山に住むことにした人々はどんな精神性を育んだのかなぁとぼんやり考えました。そして、海なし県出身者が海に憧れてしまうのって海洋民族の遺伝子が残ってるからかな?なんて妄想していました。海を見るとすごく嬉しい気持ちになって、反射的に海だ!って言っちゃうもんね〜笑
動画見て気づいたことは、当時の日本列島は、かなり高い山に囲まれた所だった。そして、太陽により近い土地と推測します。現在の日本人は、そこに住んでいけるだけの「知恵を持って挑んだ祖先が、残してくれた島国」なのでしょうね?かっこいいに決まっていますよ??日本は・・・
無論全部古文書の内容が本当とは限らないけど、海を熟知してた日本のご先祖たちが地平線のまだ見ぬ世界へ冒険に出るのは何もおかしくないしほんとロマンが溢れてるよなぁ。最近の研究だと縄文人とかそれ所か、その前の時代の日本列島の人たちって海を知り尽くしていて海流の流れとか、その仕組みを理解してたんじゃないかとか凄い研究結果も出て来てる。
千葉の山の道を切り開いた土壁に、やたら貝の化石がむき出しに出てたのを覚えてます。 子ども心にも、昔ここら辺は海だったんだな・・と思ってました。今縄文時代の関東平野の地図を観たら、完全に海の中でした。 するとあの化石の貝は縄文時代の物だったんですね。 引っ張り出して遊んでました。
素晴らしい講義です。
日本人は海洋民族で皆漁師だった。漁師同士で喧嘩などしなかった。ということですが、、、私はその漁師の息子ですが、漁師は気が荒いとよく言われました。実際俺が若い頃親父に聞いた話ではよく隣町の漁師同士で漁場をめぐった争いがよくあったそうです。 ただ、近年韓国漁船が沿岸で乱獲するようになって変わってきたようです。 しかし最近では跡継ぎがいないために漁師数がめっきり減ってしまいかつてのような威勢は無くなってしまいました。
必要は発明の母と言います。今とは違い常に飢餓との闘い、空腹を満たす必要に迫れた人々はあらゆる手段を試行錯誤していたと思います。否定は直ぐに思考停止しますが、不可知論としては様々な可能性を否定せずに思考を巡らせる行為は大変重要だと考えます。
南米のボリビアやペルーでは今現在も葦舟を使ってます。船の形が一緒です!先祖が渡ったのかもしれませんね!
小名木先生を視聴されてる方々のレベルもとっても高いので、いつも勉強させていただいてます。今日もありがとうございました(*^^*)
先生のおっしゃるように【日本にはまだまだ未知なる秘められた鍵🔑となるようとなるような発見があり…ソレが世界未来を救うような大きな】気さえします。決して大袈裟ではなく、本当にいつもありがとうございます❣️
45:27~「貝だけでお腹一杯になりますか」現在、1日1食を目標に減食実行中の私は、普通に3食だった頃が食いすぎだったと感じる。世界には、1日に片手のひらに載る量の穀物だけで元気に動ける人たちがいて、その人たちに、文明圏で言うバランスのとれた食事をさせると、それまで縁のなかった病気にかかってしまうと、本で読んだこともある。「豊かになった今と、つましく暮らしていた昔では、満腹できる量の基準も違うはず」とツッコんだわ。
最後のパートも楽しかった!アリガトウゴザイマシタ
最近、7人の侍を見たんですが、苗を植える場面に違和感を感じていました。今は男性が農業で働くのに違和感はありませんが、過去、男性には別の仕事があったということなんですね!すごく納得しました。それにしても、数百年前の事も忘れてしまうなんて、怖いですね。
グーグルアースはいつも驚嘆させられます。 小名木善行氏の解説は科学的に理解しやすいです。 魏志倭人伝は元より過去を解明してこれからの日本の進むべき指針を導きだしてもらいたいです。 今後も拝見させていただきます。
海面の上下だけ話してるが、地殻変動で海底が沈んだり、隆起したりはあり得るし、今、只の海底になっている所にムーやレムリア大陸があってもおかしくない
農耕民族は土地等の取り合いで争いが多く、富の差により支配者が生まれるのに比べ、漁師や猟師の思考や社会性が日本人と同じとの説明で、なぜ近い大陸の民族と日本人の民族性が大きく違うのか理解出来ました。近年の遺跡の花粉の調査等で栗等の保存可能な実をつける植物を大規模に栽培していた事も判明し、稲や栗などを計画的に大規模に栽培していた事を知り、保存出来る食料と山や海の幸(世界最古の釣り針も日本で発見)を高度な技術で効率的に得ていた事は驚きでした。丸木船は、外洋航海出来るかの実験をする学者が大真面目に丸木船だけで実験していたが、アウトリガーも付けていない丸木船で実験していた事に驚き、船を作る技術や知識があるなら船を安定させる為にアウトリガーを使った可能性が高いと気付かない所は頭の固い学者なのかなと感じた。
海洋人族は他に清流な川にタロ芋栽培してを食べてます。平民、日本人は米食でなく、江戸時代まで田舎ではタロ芋を主食で食べています。タロ芋は子芋です。東南アジア国、ポリネシア人 サモア人、ハワイ人もタロ芋食べてます。同じで南から来た古代日本人もタロ芋を食べていたと推測してます。考古学者と植物学者つながっていないので、考古学者がデータ分析できないので、思うところで解釈してますね。で、日本人は継続して古代日本人が食べていたタロ芋つまり、小芋いまでも食べています。と推測しています。
サトイモに似たセレベスは、インドネシアのセレベス島原産ですね。葉っぱがそっくりです。サトイモ、タロイモ、セレベス、イモ食文化の系列です。
日本書紀や古事記に記述されている内容は、ギリシャ神話の話や聖書の創世記の記述そっくりな内容ですので、ヨーロッパにも関係しているし、中近東からパラダイスの地を求めるイスラエル人、アッシリア人の原始キリスト教を世界規模に周知する目的と平穏・平和の地を求めてシルクーロードを開拓しながら(中国人はシルクロードを開拓していません)東を求めて日本までたどりつき、帰化した秦氏が日本の文化になっている。
毎回豊富な発想力で色々な分野の話と関連付けていて、興味深く拝見させていただいてます。私、勉強不足で疑問に思ったので質問させていただきます。以前どなたかも仰ってますが、伊豆半島と神津島の話、海上57km離れてるとのことですが、3万8000年前ということであれば、後に出てくる様に、海面は現在より下がっていて陸地も現在より露出してるとのことなので、海上57kmより短い距離が海部分だったのではないでしょうか?途中途中が陸地だったり島だったりで、今のような大きな海流があったかどうかは微妙だった気がします。また、今より海面が低い氷河期の時代のフィリピン海?周辺は現在より多くの島や陸地が露出していて輪の形の様になっている、その形から日本人のことを"倭人"と言ったのかもしれないとのことですが、"倭人"と言われるようになったのはこの時代よりもずっと後のことだし、その頃は現在に近い地形だっただろうし、氷河期の地形と"倭人"を結びつけるのはどうしても無理があるんじゃないでしょうか?そもそも"倭"には"輪(わ)"の意味はないだろうし、音的に結びつけるのも変だなぁと思いました。
小名木先生、大変面白い講義ありがとうございます。
東北西方の日本海の海底に存在する不思議な人工物の様なモノには正直驚いた。氷河期に作られた遺跡と言う見方が妥当の様に感じる。卑弥呼が姫巫ってことは、我が国の歴史学会も採用して欲しいね。
北極や氷山の氷が融けても海水は増えませんが、地上にある氷が融けて海に流れ込んだり、海水が熱膨張すれば、海水の体積は増えますね。私の地元でも、海があり、国道1号線があり、国道と山の間に湿地帯がありますが、何故か古い地名には「島」が付く地名があります。「浮島」「鬼ヶ島」等、、そして、標高1450mの位牌岳には縄文以前に人が住んでいた跡(横穴群)があります。
先生のGoogle Earth のお話を聞いてから寒冷期当時の海面が現在より相当低く陸地も現在より多く存在していたことを踏まえてその当時の海流ってどういう感じだったのかな って疑問が湧きました。航海術、船舶があったとしたらアメリカ大陸と行き来できたかも?なんて思いました。
日本人にとって上下の支配関係は絶対ではない。これは、アメリカに来て気がつくこととなりました。アメリカ人は全ての関係を支配関係、誰が誰をコントロールしているかで見ようとするので、何が適切かで関係を考える日本人的考えでは話が噛み合わなくなります。
2万年前まで地球は氷河期といっても完全ではなく東南アジアオーストラリア南極辺りは陸地が見え、比較的温暖であったそうですね。海面は2万年前まで200m下がっていたとか。地球の陸地が30%だったとしたら、陸地の上に200mの約3倍つまり、平均して600mの氷があったということです。場所によっては1000mを超える氷が陸地に乗っていたところもあるはずです。 磨製石器が発見されたということは、人間が生活していたということですから、日本列島も低地部分は生活できる環境があったということでしょうか。海面は紀元前6000年くらいまでに現在の水位に近づきます。その頃から西アジア方面から世界の歴史が始まります。 それ以前に人間の歴史があったとしても不思議ではありませんが、ほとんど水没したでしょう。海面から200mの水底を発掘することは不可能です。また、地球の自転軸が氷が溶けるごとに変化したかもしれません。また、陸地の氷が溶けて海に流れ込むには一旦大陸内部に大きな湖ができ、洪水が起こったことでしょう。ユーラシア大陸には大きな山脈があり、その隙間から海に流れ込むには、西アジア、エジプトのあたりや、インドパキスタンの辺りが何度も1000m級の洪水に見舞われたと思います。
全く小名木先生の学説は面白いです。確かに古事記に書かれた神々の時代は実際に存在したのであろうと思います。ただその表現が現代の解釈では困難になっているだけだと思います。国造りの話もこれはもう宇宙創生の話ではないですか!古代の日本人がどうしてそのことを分かっていたのか不思議です。また、海洋民族で人類最古とされるネアンデルタール人より先に文明を築いていたなんてロマンあふれる話です。でもそれが先生の解説をお聞きしているとそうだとしか思えないです。もしかしたら日本民族は世界最古の文明を持つ民族なのでは?そして争いごとを好まずみんなが平和に暮らすをモットーとした民族だと思いす。その基本精神を脈々と繋いできたのが天皇陛下だと思います。侍も相手が負けを認めれば命を奪うことはしなかったし、先生のゼロ戦のパイロットの戦い方も同じです。私の小さい頃の喧嘩も相手が泣いたり、負けを認めればそれ以上は手を出さなかったです。今は徹底して最後まで追い詰めますよね。これは大陸のやり方ですよ。先生がもっともっと広く日本のルーツ、正しい歴史を広めて下さる事を期待しております。
何種類かいた原人は今の人類とはまったく関係が無いと言うのが通説に成りつつあり。最新の説では、実はアフリカで人類は既に誕生していたという事になってます。但し、白人は有る原人と混血する事で寒い場所で住める身体を手に入れ、言葉も手に入れたと言われています。rootsプロジェクトにより、プロパガンダ的な歴史は崩れてきているようです。
ムー文化圏ということ、HawaiIはHawaikiといって、祖先の地という意味。
良い話を有難う御座います。
日本の古代史研究は五指に入るのかな?だから時々すごくエキサイティングな瞬間を見ることができる
田楽の1節は説得力があり面白かった。アマテラスオオミカミが稲作(農耕民)、スサノオノミコトが狩猟(海洋民)の代表として神話化されたのかもと思いました。ところで、小名木先生は神武東征は2700年前と言っておられますが、河内湖(大阪湾)入り口に浪速があったのは2100年前頃と予測され、神武東征も2100年前頃とする説が長浜浩明先生の著書にありますが、小名木先生のご意見を聞きたいです。
倭人の漢字は、自国で名付けた漢字ではないと思うけど、その後、倭人から和人に漢字を変えていると思うけど・・・文字が無かったとも言われているが、世界最古の文明が日本にあったかも知れないし、磨製石器、土器などが今所世界最古縄文文明は、1万年以上長きに渡り続いてきたし、シュメールより古くから日本に人が居た事もわかっている。一説には、長江文明は、縄文人が造ったとも言われているし、悪名高い殷国も和人の国と魏志倭人伝に記載されている。漢字の発症は、縄文人の可能性もある。
倭は委ねる人ということ。日本人を侮蔑してるとしか思えない。
人類アフリカ起源説は次々と覆されていますよ。
言葉の上ではムーツ国、陸の国、睦月、睦児、オムツすべて始まりを意味する
3万8000年前であれば海面が低かったので伊豆半島も島とだいぶ近かったかもしれませんね。あと海面の高さは気温のサイクルには依存はしていますが正比例ではなく水の融点の関係で0℃を超えるか超えないかで境目ができると思います。0℃を超えると一気に海面が上昇し始めると思います。なので海面が一番低かった時が一番寒いというわけではないので間氷期入る時期が最も真水が豊富に存在したのかもしれません。ただ、陸に比べると海水温の変化の方がゆっくりだと思われますので、氷河期は魚や貝をメインに食べ物にしてしのいだ可能性もありそうですね。寒いと農作は厳しいと思いますので食べ物となる動物は陸より海の方が残りやすいと思われます。
あと倭人は現在の中国では中国人の一部であるかのように思ってる人多いですが、当時の中国人(漢人)では書物にもある通り倭人は倭人としっかり分けており、それは弥生人を指していると思われます。DNA鑑定ができたわけでもないので弥生人だけでなく縄文人も倭人として書かれてる書物も一部にはあるかもしれません。ただ一つ確実なのは当時は中国(漢人)では彼等を倭人と書いてる通り同じ国の人種だとは思われていなかった事だけはほぼ確実だと思われます。最終的には現在の中国大陸でも日本列島でもなく間氷期で沈んだ平野の住民だったのではないでしょうか。だからどこから来たのか未だに謎になっている。日本語もひらがな・カタカナ・漢字が共存する不思議な言語になってるのは縄文語(アイヌ人)と弥生語の複合で生まれた言語だからでほぼ説明が付きます。
倭人とは日本ではナワの事ナワとは少国家群の事、それを中国語では文法上の違いでワナになった。沖の少国家群から沖縄で那覇は古代の沖縄はナハレと呼ばれた事の名残りだと思えます。ナワとは九州の事で、倭国とは九州地域を指す事です。九州は20以上の小国群だった。火山活動が激しく長い歴史のある国家が作れなかった事による、それ以外の場所では幾つもの集落が同盟し、ほぼ現在の県単位に纏まっていた。。
漢倭奴国王印はワナ国だったのですね。ワヌ国かもしれんけど。
屋久島に縄文時代の頃の帆掛け船の模型がありますよ、教えてくれたのはその頃から東南アジアと交易が有った様です、屋久島犬の体毛が短いのは東南アジアの犬と同じだそうですよ。
いつも、ご投稿を楽しみにしております。先生、ありがとうございます。海洋国家だった倭国時代。捕鯨の歴史なんかが気になっております。 北欧だか何処かの神話か信仰の様なものよりも、もっと分厚い歴史なんかはございませんでしょうか?
今回のお話しを聞いて、東北地方に自分のことを「ワ」という地域があるなあと思い、「私」は「ワ達」から来ているのかも知れない、などと空想してしまいました。
沖縄県の南の一部にも 自分をワーと呼ぶ方言があります。日本列島が 黒潮 で繋がっていたと思うとわくわくする。
青森県下北半島出身ですが、私の事は『ワ』『ワイ』と言います。私達の事は『ワイド』や『わん』
『ワンド』とか言います。
小名木先生の発想力に脱帽。
小学生の時の担任の先生が神様が人間を作る時、最初に焼いた人間が焼き過ぎて黒人が出来た。次に早く出し過ぎて白人が出来た。そしてうまく焼き上げられたのがアジア人で、だから一番人口も種類も多いのだと話され、最高に上手く出来たのが日本人だったのだよっと言われて、とても記憶に残っています‼️もう半世紀以上前の話ですw☺️🙄
ロマンチックで楽しかったです!
勉強になります。視聴してて楽しいです。
上古語で倭は越と同音で自分を指す言葉、そういう説を見て納得してましたが、倭は輪というのも面白いですねもしかしたら私と輪は同源なのかもアイヌの輪になって踊る映像が浮かびました日本人は個人の区別をあまり重視せず、一つの輪としての単位を重視する私とは一つの輪を指す、元々は私達といった使い方をしていたとか先生の話は楽しいです話を聞いた後色々を考えを巡らせられるので二度美味しい最近はグーグルマップを弄り回すのが楽しくなってしまいましたw
海佐知毘古(うみさちびこ)と山佐知毘古(やまさちびこ)は、兄弟で喧嘩したり、助け合ったりと古事記に書かれていることは、どちらかだけではやはり成り立たず和を以って貴しと為す、和人が大和となり、よく理解できなかった中国の感じで倭を充てたかもしれませんよね~!紙と筆という大陸発明品がなくとも、代々各家庭に史を伝えてきたということは何より大切なことですよね!我が家でも、今更ながら大切な日本文化を伝えていなかければ!
倭=輪=和 みんな『ワ』ですね!本日の講義も大変、勉強になりました。地形の歴史も勉強しないとですね。お疲れさまでした
字義を考えると、倭という字は使いたくないですが。
@@mikkyh 倭ってヤマトでは『稲作をする女性が家を守る』といったような説明があったと思います。私は好きです。
@@tao7362 倭の字をあてたのって中国でしょう。「自分」のことを「ワレ」とか言ってたから当てた文字。しかし、倭という字は委ねる人という意味。従順で慎み深い、まさに日本人らしさを表す文字だと思いますが、中国が言うと、何かしら下に見てる臭がぷんぷんします。
3万8千年前の磨製石器の話は小名木先生でしたか。視野の広さに感服です。
昭和46年、相沢忠洋さんが発見
先生のお話とてもわかりやすく話されるので、何時も楽しみに拝聴しています。タイムマシンで探検したいです。公害のない綺麗な海 見たいです。
同感です。😃☝❗️見てみたいね。😃✌️
葦船ともう一つはカヌーの二つの船があった、カヌーは海獣の皮を使っていた為1人乗りが限界だった、一方葦船は比較的大きな船が作れたしかし葦が取れる比較的温暖な赤道近くの場所に限られた。シュメール船に使われたタルシン船は湿式木造船でかなり大型で(全長40メートル近くまであった、)タルシン船に乗って世界中を航海できた。元々ノルマン人の乗り物で縄文人の乗り物でもあった、太平洋の航路を示したのが神社の鳥居である。10000年前米大陸からラクダを連れ帰り繁殖に成功した、それをメソポタミアに持ち込み中東で繁殖して行った。またヒョウタンをアフリッから持ち帰り日本や新大陸に普及した。縄文以前からの穀物餅アワはウダとかウと言いパウダーの語源ともなっている、そのウダが南米で7000年前突然変異で大きな味がなりその後の品種改良によりとうもろこしとなった、山芋を山間部の薄いかざんばい地で栽培結果根球が大きくなりジャガイモとなった。
神社の鳥居が ⛩️太平洋の航路を 示した❗と言う意味に 興味を持ちました。どんな意味の 標 なんでしょう。⁉️😃☝
日本では当たり前の日々が、いかに素晴らしいか特別な事なのだと言う事を知り、
いつも楽しい話をありがとうございます。ムーの話が出てきたときに日本海を差してくれないかと期待しました。ムーは大陸の極東に存在した単なる都市で、最後は沈んだのではなく瞬時に水没したと考えています。以前、先生が仰っていた今の日本海がある土地は、昔は大きな窪地であった可能性があるという見解に、とても興味があります。なお、ピラミッド郡の写真は画像編集上のミスだと思います。ギリシャのザキントス島の南にも同様の模様が見られます。グーグルアースで見る海底ピラミッドでは、24.49.54N124.06.35Eに興味が惹かれます。(人工物かわかりませんが、)当時、この場所が陸地、または浅瀬だった場合、現代の海面高の計算が誤っていることになり、凍結した氷以外に未知の要因が存在することになるからです。
Flood Mapsで、大体20mほど海面上昇させると西日本の著名な神社が大体海岸線沿いになるんですよね・・邪馬台国談義も縄文海進の名残があったとか考えて検証すべきだとも思います(大宰府の水はけが悪くて菅原道真公が衰弱死してしまっているわけですし)
従来の考え方で言えばヨーロッパ人の方が原始的でアフリカから遠い民族ほど進化しているのかと思ってました。自分は同時期にあちこちで始祖が生まれていたと思ってます。
同意見です。世界中で同時多発的に多くの人類が生まれたのだと思います。
戦後の日本人は海洋民族だったころの本能がかなり薄れているのかも
何べん聞いても面白い 苦情を述べる事もあるが 頑張って欲しい
三国志の魏の国にも倭の字が入ってます。倭人の歴史はかなり歪曲され、今の日本人が自虐史観に陥る結果となってますね。先生の講義をきいて啓発される日本人が増えることを願います。
葦の船では黒潮の激しい海流にさからえず島から島へわたることはできませんでした、と2年位前のテレビで放送していました。丸木船のほうが作るのは大変ですが何人か乗れて協力してオールを漕ぐことができ黒潮にも抵抗し島へ着くことができました、とやっていました。いまの日本海の部分は日本列島の基本形が大陸に右に傾けウラジオストクと本州西北部にくっつけ九州南部が朝鮮半島末端のほうにくっつけると大体大陸とぴったりくっつくかたちになっていると思います。日本海部分が湖として残っていたというよりもそのまま右に傾ける形でジクソーパズルを解くようにぴたりとはまる感じがします。北海道のほうはオホーツクとつながっていてプレート原理で最終的にあの形になって日本列島の北部に位置することになったのかと思います。
黒曜石っていうと、校庭に落ちてるのを拾ってたという記憶が蘇る鹿児島県民です(笑)
ワカメや海苔と言ったものを消化・吸収する酵素を手に入れるのにどれだけの年月が掛かるのでしょうか?日本人以外で海苔を消化・吸収する酵素は持っていないと聞いたもので…
葦船で、輪の海洋で、魚貝の狩猟が食の中心、+陸上の食料で生活していたと考えるのは、妥当ですね。大変勉強になります。
先生の卓見に賛成です。
海面が低くかったり、高かったりしてたんですね。今の気候変動なんて、微々たるものですね。CO2うんぬんで温暖化して海面上昇なんて、、、ただの金儲けですね。
僭越お許しください。food mapではなく、flood mapですね。いつも為になる講義を楽しみにしています。
日本海のピラミッド群は南北に平行になってるところから、撮影から地図作成の各段階でスキャンのエラーが乗っかってしまっただけかもしれませんね。よく調べて見ないとなんとも言えませんね。一方で富山湾ー糸魚川から大和堆へ続く川の跡はロマンありますねー!
先生、この動画は永久保存版ですよね、いろんなヒントがここに集まってます。コヤッキー・スタジオの方でもゲスト講師として先生の動画が上げられていました。たいへん興味深い情報をありがとうございます。(^^)/
もし和の国が最古の文明なら、大陸であったり、東南アジアに移り住む者達もいたって不思議ではないですよね
先生のお話 思想 共に大好きでよく拝見しております今回は少し残念でした『イヴ』は便宜上『最初の女性』ですが『ミトコンドリアイヴ』は『人類最初の女性』ではありません全現生女性の共通祖先の中で 最新の1人の事ですまた 東京~九州間は10,000kmもありません(´・ω・`)
スンダランドの名前がちょっとでましたが、インドネシアの西ジャワ地方に住んでいる民衆をスンダ民族と言います。
楽しくて為になるお話を有り難うございます早速 Google Earthで日本海のピラミッド状のある海底を探してみました。確かに二ヵ所に綺麗に並んで存在していました。この海底の絵は実際の海底と同じなのでしょうか!もし本当なら日本海の海底全体に
詳しく知りたい 気持ちになりますね。😃☝調べてほしいね。☝😉
私の故郷では“ワ”はあなたを示し言う言葉です。“あなたはそうしたら?”を“ワはそうしたら?”と。
大きな輪・・沖縄 だったりして(笑)
あり得ますよね(笑)沖縄人は出自を おこなわ と発音していたと7世紀の遣隋使の報告書にも載っています。おっきなわ→おっこなわ→おこなわ ?日本のあっちこっちに同じ地名があったり、同じ発音で同じものを示す方言があったりと、歴史を学ぶ楽しみが又増えました
縄文時代から黒曜石の日本最大の産地は長野県だよ。今でも見学できるよ。
このお話し、興味深いし、説得力があり納得できます。
海にまつわる地名、浦和、埼玉、高崎
倭の漢字を最初に大陸側の人間が蔑称として当てたのなら大和側の良い解釈を動画で説いてなごませる必要なんてない
日本海の川の跡に見える所ってフォッサマグナに繋がってる様に見えるんだよなぁ。
沖縄の近海に 人が積んだとしか思えないピラミットらしいものがあるんですが、最近それらを単なる自然界の創造物と発表が為された。幾ら自然界でもあんなふうに岩が削り取られるものだろうか・・・?小名木先生率いる調査団に調査して貰いたいです。長い年月の波の浸食も激しく、遺跡としての証拠にもなりえないみたいな風にもなって来ています。このままだとその遺跡(?)も消されてしまいそうです。
Isaiahの映画で おコメの種を持って来ました。と迎えた猿田彦さんにおっしゃて 猿田彦さんは 海から漁をして暮らして居ます。といっていました。又沖縄から東南アジアの 男の人は いつも男同士で よくお茶していて 女の人わ働いていますよね 不思議だったのですが 先生のお話でガッテンがいきました。
明石原人(あかし-げんじん、別名:明石人〈あかし-じん〉、西八木人骨(にしやぎ-じんこつ))は、かつて日本で発見された化石人骨を基に、日本列島に居住したと推測された古人類。日本考古学史および人類学史において注目されるべきものであったが、現物は戦禍によって失われており、疑問の根本的解明は望めない。呼称明石原人は従来の呼称であるが、北京原人やジャワ原人などとは異なり、猿人・原人・旧人・新人のうちどの進化段階に該当するか現時点では定かでない(新人説や旧人説[要検証 - ノート]がある)。ゆえに今日では「明石原人」ではなく「明石人」とする場合も多くなっている。2つの呼称が並立するなか、発見時からの経緯に重点を置く観点により、現状を正確に反映してはいないものの当時から使われ続けている呼称である「明石原人」のほうを、本項目名に採用した。発見と喪失、研究の経緯人骨の発見1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市の西八木海岸[1]において民間人・直良信夫が、古い人骨の一部(右寛骨〈う-かん-こつ〉:os coxae (right))を発見した。しかし、直良がアマチュア考古学者[2]であったこともあり、専門家には相手にされないままであった。鑑定のため東京帝国大学(現・東京大学)の松村瞭のもとへ送られ、石膏模型を製作するなど予備的な研究はなされたが、最終的な結論が出されないまま返却され、人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められることはなかった。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けていた[3]が、腰骨については言及しなかった。さらに、石膏模型を製作した松村の逝去もあって、学会でもこの腰骨は忘れられていった。焼失第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって化石の現物は焼失した。この人骨の焼失については、妻に制止された直良が「骨が焼ける!骨が焼ける!」と叫ぶ目の前で自宅ごと炎上したというセンセーショナルなもの[4]や、「化石が……」とつぶやきながら呆然とする直良の面前で炎上したとするもの[5]が紹介されている。だが、直良の長女である直良三樹子によると、自宅周辺に焼夷弾がばらまかれたため、直良の「もうよせ!早く逃げろ!焼け死ぬぞ!」の一言で一家は慌てて避難するしかなく、家族も直良自身も化石人骨は失念していた。10日後になってようやく鎮火し、直良も化石人骨のことが気がかりになり、焼け跡を掘ってみたが、一緒に保管していた同地点採集の石器だけが残っており、化石はとうとう見つからなかったという[6]。石膏模型の再発見唯一残った石膏模型も忘れられ、東大人類学教室の陳列戸棚に放置されていたが、1947年(昭和22年)11月6日に東大理学部人類学科教授の長谷部言人が写真を発見したことをきっかけに模型が再発見された。長谷部は石膏模型を計測、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘し、この人骨はシナントロプスやピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張、Niponanthropus akashiensis (ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えた[7]。さらに長谷部は、この人骨をパラステゴドンの化石と同じ地層から発見したという直良の証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけた[8]。しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから、同年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘調査が行なわれた。しかし、長谷部の「オブサーバーとしてなら参加を許す。」の一言に怒った直良が参加を拒否したため、調査団は化石発見地点から約80m西寄りの場所を調査してしまい、200万円(当時)もの予算を計上したにもかかわらず、人骨や石器はおろか、植物化石以外の動物化石すらも発見できなかった。34年後の1982年(昭和57年)、コンピューターによる石膏模型の解析が東京大学の遠藤萬里と国立科学博物館の馬場悠男によって行われる。その結果、人類進化史の各段階の人骨と比較して「明石原人」は現代的であるとして、原人ではなく、縄文時代以降の新人であるという説を打ち出した。また、1985年(昭和60年)春には国立歴史民俗博物館の春成秀爾が西八木海岸で発掘調査を行い、人骨が出土したとされる地層と同じ更新世中期の礫層から人工的加工痕の認められる木片を発見。この木片は広葉樹のハマグワと鑑定され、板状に裂けない広葉樹であることから人工品の可能性が考えられた。なおこの地層年代は最終間氷期後半(約8万年前)~最終氷期前半(約6万年前)と考えられている[9]。1997年(平成9年)には明石市教育委員会が近隣の藤江川添遺跡で発掘調査を行い、中期旧石器時代のものとみられるメノウ製の握斧を発見。しかし、直良が発見した人骨がどの段階のものであったのかは、今もって解明されていない。
海洋考古学に期待したいですね
以前結び大学小名木先生、織田信長イタリア大富豪になった節すごかった!労働などの奴隷をアフリカからも日本からも金銀の代わり連れていた時代、弥助という黒人家来が最後まで一緒だったらしいが、奴隷扱いそれとも完全密航?
タイトルについてのお話が少なかったように思います。「倭」という漢字が蔑称でないようなのに、「卑弥呼」は明らかに蔑称と受け止められます。それはなぜなのか、よくわからないままです。
卑弥呼は明らかに 卑しいという文字 弥も身分の低い者を表す言葉 漢字そのものの意味が 蔑称なのに対して、倭は 人と稲穂を表すのぎとその下でくつろぐ女 漢字的には悪い意味は一切ないところが、あちら側が今の ザパニーズ同様に 倭の威を借る○○ として悪行を働き 倭寇なる賊を世に広めたせいで倭=倭寇となってしまったようですね。多分倭人=蔑視語説ってテレビドラマとかとかで盛大に流しているせいで私達もなんとな~く洗脳されていたのかもしえれないですね。
卑しいとういう意味の漢字をあてたからと思います姫巫女(ひみこ)説なるほどありえますね、魏王に謁見したときの通訳の発音を聞いて書記があてた漢字でしようし、現代の中国語の発音は日本人には難しいです(近くの中華料理の親父も日本語の発音は何十年経っても少し違いますね)古代中華(漢人)の周りの異民族(夷狄とか)も全て野蛮な未開人とかの蔑む意味の漢字あてられてます
與邦国島の海底都市も古代の琉球大陸の一部だったのかも知れませんね。
芦の浮島で湖の上に暮らす民族もいますね
沖縄の古宇利島には人類発祥の神話がありますね
日本・日本人とは、何者か?中川八洋 著『超先進国日本』渡部昇一 著『かくて歴史は始まる』ボブ・フィックス 著『時を超える聖伝説』千賀一生 著『ガイアの法則』シリーズ
アトランティス大陸はアフリカ大陸の1部だったらしい今のモーリタニアのサハラの目と言う地形が、当時は水面が今より400m高かったた基本アフリカ大陸は水没していたがサハラの目は、水面から出ておりでアトランティス大陸だったとのこと
3万年前だとすると氷河期で海は浅く成っていたか、陸地化していた所も多いでしょう。外洋航海と言うほどの事も無かったでしょう。日本人の半分、男性は海岸で魚を取り、女性は農耕採集をする文化なのは賛成です。農耕一本やり見たくなったのは江戸時代からかな? ただ倭人の倭の語源はどうですかね?東夷の夷が変化したものではないかな?倭も発音を遡るとイになりませんかね。倭は海を環?輪の様にして動いていたという意味ならかなり怪しい?(笑) ところで中国人(漢族)は農耕民ですけど、家畜を飼い食べる民族でしょう。朝鮮もそれに倣ったが、古代は倭人に近かったと思われます。まあ、北の方は狩猟が主だったでしょうけど。
"中華" と言う新しい国名も、"世界の中心の華" と言う意味ですよね。
先生!「フードマップ」でなくて「フラッドマップ(floodmaps)」ですね!w
あのぉ・・・東京から福岡までで道なりでもせいぜい1000キロです。
そう言う意味では、太平洋戦争時は東条の言う事を聞きすぎたかも知れないなぁー。もっと自由な意見が発言出来ていれば、太平洋戦争の結果も変わっていたかも知れないななぁー。
四大発明は、縄文人と言われます!すすごいですね!
「倭」という呼び方は中華が付けたのでしょうか。中華は周辺諸国をあまり良い呼び方をしないと聞きます。そこで思ったのですが、「倭」に「人偏」が使われているのはどういうことでしょうか。中華は日本を対等あるいはそれ以上に見ていたのでしょうか。
濊はさすがに、、
倭と書いてやまと と発音するそうです
魏は人ではなく鬼
「倭」の象形文字の くだり 勉強しました。 よくわかりました。知らなかったW
18:02 簡単にひっくり返るなら二艘に棒を渡して縛り付ければ良いのではないですか?アウトリガーもいいですね。
葦船と海洋民族。日本語の由来も、興味があります。
縄文人が海洋民族なのは知っていましたが、丸木舟でなくて、葦船だったのかもしれないのは目からうろこでした。その確率が高いように思います。葦なら、すぐ腐るから遺跡に残らないし、大きくするのはわりと簡単そうですし。素晴らしい。小名木先生の話はいつも勉強になります。
@@栄健 さま 葦船を馬鹿にするでない!古代人の知恵を持ってすれば頑丈な葦船等朝飯前じゃ。
藁ぶき屋根の頑丈さと精巧さを見よ! by 古代人の子孫
イザナギ、イザナミが大ひるこを生んだ時、葦舟で流したとの記述がありますよね。使ったことはあり得るでしょう。ただ大きな船ではなさそう。
湿原だらけでしたから、アシは捨てるほどあったでしょうね。
豆知識
アシの根っこに鉄分を吸収して成長するバクテリアが居て、アシが枯れるとストローのように中空構造の褐鉄鉱が残ります。「高師小僧」でググってもらえば分かります。これを砕いて赤い染料にしたり、土器に混ぜたり、野菜の栄養剤になったり、たたら製鉄にとか。もしかしたら、鉄分不足の女性の薬だったかも。中にたまたま塊を内包した鈴のような形のものも自然に出来、それを御神体にしている神社もあるとか。お賽銭箱の上に吊るされた、神様を呼ぶときに鳴らす鈴の原型かもしれません。女性、出産、経血。巫女や神社のイメージカラーが赤いのも鉄と関係してるかも。全部アシにつながる可能性。都市伝説?
@@雨に唄えば-w7f 葦原の中津国にも繋がりますね。
@@rocolulu1380 それ
日本の古代はまだまだ解明されていない謎があるな
大海を自由に往来する海洋民族であったことは紛れもない事実だし
海底のピラミッド群らしきものにはビックリ
誇りを取り戻せ子孫達と叱られているよう。
倭人をしらべますと、中国のミャオ族がでてきます。また中国各所に倭人とい動かす言葉が刻まれた墓もあります。この倭人と日本の倭人の繋がりが読み解けていませんでしたが先生のお話から大陸が繋がっていたなら充分に納得できるものでした。
また日本人の精神性がどこから来るか考えていましたが、海洋民だとかんがえれば全てが紐解けてきます。
水面が上昇後の中国古代に置いて、桃源郷が遥か彼方にあるとそこへいきたい人がいたようです。これが倭人の国の日本の事だと仮説していた人がおられました。山あり、緑あり、水豊かで、一番は人柄が温厚。確かに桃源郷と思わざるおえませんね。
また古代から目が話せなくなりました。これからはカタカムナ勉強します。ありがとうごさいました。
いつも貴重な発信に感謝します。本来 大学院、皆 大好きな 日本学術会議が 発信すべきですが 不思議な 学会ですね。
科学以外は在日が多くまた自分たちの利権を守る為の団体なので国の為になるなんて一つも考えていないもの。数人しか知りませんが全員そうだったのでわたし私は屑の集まりだと思っています。
小名木さんの最新の研究成果を取り入れた解説は出色ですね。
30年前の研究成果に固執し、一歩も進歩できない化石のような学者がほとんどですが、
小名木さんの語り口、ITの使いこなし、感服いたしております。後30年は活躍していただかないとーー。宜しくお願い致します。
南米大陸にある湖の辺りに住む人々が葦船に似た船を使って生活していたのを
見たことがあり、
日本にもあることを知らなかったです。
日本の古名に豊葦原というのがあるので
きっと木を切って船を作るより
葦で船を作る方が簡単だったのですね。
誰か葦船で実験して欲しいです。
海なし県民ですが、海から離れて山に住むことにした人々はどんな精神性を育んだのかなぁとぼんやり考えました。
そして、海なし県出身者が海に憧れてしまうのって海洋民族の遺伝子が残ってるからかな?なんて妄想していました。
海を見るとすごく嬉しい気持ちになって、反射的に海だ!って言っちゃうもんね〜笑
動画見て気づいたことは、当時の日本列島は、かなり高い山に囲まれた所だった。そして、太陽により近い土地と推測します。
現在の日本人は、そこに住んでいけるだけの「知恵を持って挑んだ祖先が、残してくれた島国」なのでしょうね?
かっこいいに決まっていますよ??日本は・・・
無論全部古文書の内容が本当とは限らないけど、海を熟知してた日本のご先祖たちが
地平線のまだ見ぬ世界へ冒険に出るのは何もおかしくないしほんとロマンが溢れてるよなぁ。
最近の研究だと縄文人とかそれ所か、その前の時代の日本列島の人たちって海を知り尽くしていて
海流の流れとか、その仕組みを理解してたんじゃないかとか凄い研究結果も出て来てる。
千葉の山の道を切り開いた土壁に、やたら貝の化石がむき出しに出てたのを覚えてます。 子ども心にも、昔ここら辺は海だったんだな・・と思ってました。今縄文時代の関東平野の地図を観たら、完全に海の中でした。 するとあの化石の貝は縄文時代の物だったんですね。 引っ張り出して遊んでました。
素晴らしい講義です。
日本人は海洋民族で皆漁師だった。漁師同士で喧嘩などしなかった。ということですが、、、私はその漁師の息子ですが、漁師は気が荒いとよく言われました。実際俺が若い頃親父に聞いた話ではよく隣町の漁師同士で漁場をめぐった争いがよくあったそうです。 ただ、近年韓国漁船が沿岸で乱獲するようになって変わってきたようです。 しかし最近では跡継ぎがいないために漁師数がめっきり減ってしまいかつてのような威勢は無くなってしまいました。
必要は発明の母と言います。
今とは違い常に飢餓との闘い、空腹を満たす必要に迫れた人々はあらゆる手段を試行錯誤していたと思います。
否定は直ぐに思考停止しますが、不可知論としては様々な可能性を否定せずに思考を巡らせる行為は大変重要だと考えます。
南米のボリビアやペルーでは今現在も葦舟を使ってます。船の形が一緒です!先祖が渡ったのかもしれませんね!
小名木先生を視聴されてる方々のレベルもとっても高いので、いつも勉強させていただいてます。今日もありがとうございました(*^^*)
先生のおっしゃるように【日本にはまだまだ未知なる秘められた鍵🔑となるようとなるような発見があり…ソレが世界未来を救うような大きな】気さえします。決して大袈裟ではなく、本当にいつもありがとうございます❣️
45:27~
「貝だけでお腹一杯になりますか」
現在、1日1食を目標に減食実行中の私は、普通に3食だった頃が食いすぎだったと感じる。世界には、1日に片手のひらに載る量の穀物だけで元気に動ける人たちがいて、その人たちに、文明圏で言うバランスのとれた食事をさせると、それまで縁のなかった病気にかかってしまうと、本で読んだこともある。
「豊かになった今と、つましく暮らしていた昔では、満腹できる量の基準も違うはず」
とツッコんだわ。
最後のパートも楽しかった!アリガトウゴザイマシタ
最近、7人の侍を見たんですが、苗を植える場面に違和感を感じていました。
今は男性が農業で働くのに違和感はありませんが、過去、男性には別の仕事があったということなんですね!
すごく納得しました。
それにしても、数百年前の事も忘れてしまうなんて、怖いですね。
グーグルアースはいつも驚嘆させられます。 小名木善行氏の解説は科学的に理解しやすいです。 魏志倭人伝は元より過去を解明してこれからの日本の進むべき指針を導きだしてもらいたいです。 今後も拝見させていただきます。
海面の上下だけ話してるが、地殻変動で海底が沈んだり、隆起したりはあり得るし、今、只の海底になっている所にムーやレムリア大陸があってもおかしくない
農耕民族は土地等の取り合いで争いが多く、富の差により支配者が生まれるのに比べ、漁師や猟師の思考や社会性が日本人と同じとの説明で、なぜ近い大陸の民族と日本人の民族性が大きく違うのか理解出来ました。
近年の遺跡の花粉の調査等で栗等の保存可能な実をつける植物を大規模に栽培していた事も判明し、稲や栗などを計画的に大規模に栽培していた事を知り、保存出来る食料と山や海の幸(世界最古の釣り針も日本で発見)を高度な技術で効率的に得ていた事は驚きでした。
丸木船は、外洋航海出来るかの実験をする学者が大真面目に丸木船だけで実験していたが、アウトリガーも付けていない丸木船で実験していた事に驚き、船を作る技術や知識があるなら船を安定させる為にアウトリガーを使った可能性が高いと気付かない所は頭の固い学者なのかなと感じた。
海洋人族は他に清流な川にタロ芋栽培してを食べてます。平民、日本人は米食でなく、江戸時代まで田舎ではタロ芋を主食で食べています。タロ芋は子芋です。東南アジア国、ポリネシア人 サモア人、ハワイ人もタロ芋食べてます。同じで南から来た古代日本人もタロ芋を食べていたと推測してます。考古学者と植物学者つながっていないので、考古学者がデータ分析できないので、思うところで解釈してますね。で、日本人は継続して古代日本人が食べていたタロ芋つまり、小芋いまでも食べています。と推測しています。
サトイモに似たセレベスは、インドネシアのセレベス島原産ですね。葉っぱがそっくりです。サトイモ、タロイモ、セレベス、イモ食文化の系列です。
日本書紀や古事記に記述されている内容は、ギリシャ神話の話や聖書の創世記の記述そっくりな内容ですので、ヨーロッパにも関係しているし、中近東からパラダイスの地を求めるイスラエル人、アッシリア人の原始キリスト教を世界規模に周知する目的と平穏・平和の地を求めてシルクーロードを開拓しながら(中国人はシルクロードを開拓していません)東を求めて日本までたどりつき、帰化した秦氏が日本の文化になっている。
毎回豊富な発想力で色々な分野の話と関連付けていて、興味深く拝見させていただいてます。
私、勉強不足で疑問に思ったので質問させていただきます。
以前どなたかも仰ってますが、
伊豆半島と神津島の話、海上57km離れてるとのことですが、3万8000年前ということであれば、後に出てくる様に、
海面は現在より下がっていて陸地も現在より露出してるとのことなので、
海上57kmより短い距離が海部分だったのではないでしょうか?
途中途中が陸地だったり島だったりで、今のような大きな海流があったかどうかは微妙だった気がします。
また、今より海面が低い氷河期の時代のフィリピン海?周辺は現在より多くの島や陸地が露出していて輪の形の様になっている、その形から日本人のことを"倭人"と言ったのかもしれないとのことですが、
"倭人"と言われるようになったのはこの時代よりもずっと後のことだし、その頃は現在に近い地形だっただろうし、
氷河期の地形と"倭人"を結びつけるのはどうしても無理があるんじゃないでしょうか?
そもそも"倭"には"輪(わ)"の意味はないだろうし、音的に結びつけるのも変だなぁと思いました。
小名木先生、大変面白い講義ありがとうございます。
東北西方の日本海の海底に存在する不思議な人工物の様なモノには正直驚いた。氷河期に作られた遺跡と言う見方が妥当の様に感じる。卑弥呼が姫巫ってことは、我が国の歴史学会も採用して欲しいね。
北極や氷山の氷が融けても海水は増えませんが、地上にある氷が融けて海に流れ込んだり、海水が熱膨張すれば、海水の体積は増えますね。
私の地元でも、海があり、国道1号線があり、国道と山の間に湿地帯がありますが、何故か古い地名には「島」が付く地名があります。「浮島」「鬼ヶ島」等、、そして、標高1450mの位牌岳には縄文以前に人が住んでいた跡(横穴群)があります。
先生のGoogle Earth のお話を聞いてから
寒冷期当時の海面が現在より相当低く陸地も現在より多く存在していたことを踏まえてその当時の海流ってどういう感じだったのかな って疑問が湧きました。航海術、船舶があったとしたらアメリカ大陸と行き来できたかも?なんて思いました。
日本人にとって上下の支配関係は絶対ではない。これは、アメリカに来て気がつくこととなりました。アメリカ人は全ての関係を支配関係、誰が誰をコントロールしているかで見ようとするので、何が適切かで関係を考える日本人的考えでは話が噛み合わなくなります。
2万年前まで地球は氷河期といっても完全ではなく東南アジアオーストラリア南極辺りは陸地が見え、比較的温暖であったそうですね。海面は2万年前まで200m下がっていたとか。地球の陸地が30%だったとしたら、陸地の上に200mの約3倍つまり、平均して600mの氷があったということです。場所によっては1000mを超える氷が陸地に乗っていたところもあるはずです。
磨製石器が発見されたということは、人間が生活していたということですから、日本列島も低地部分は生活できる環境があったということでしょうか。海面は紀元前6000年くらいまでに現在の水位に近づきます。その頃から西アジア方面から世界の歴史が始まります。
それ以前に人間の歴史があったとしても不思議ではありませんが、ほとんど水没したでしょう。
海面から200mの水底を発掘することは不可能です。また、地球の自転軸が氷が溶けるごとに変化したかもしれません。また、陸地の氷が溶けて海に流れ込むには一旦大陸内部に大きな湖ができ、洪水が起こったことでしょう。ユーラシア大陸には大きな山脈があり、その隙間から海に流れ込むには、西アジア、エジプトのあたりや、インドパキスタンの辺りが何度も1000m級の洪水に見舞われたと思います。
全く小名木先生の学説は面白いです。確かに古事記に書かれた神々の時代は実際に存在したのであろうと思います。ただその表現が現代の解釈では困難になっているだけだと思います。国造りの話もこれはもう宇宙創生の話ではないですか!古代の日本人がどうしてそのことを分かっていたのか不思議です。また、海洋民族で人類最古とされるネアンデルタール人より先に文明を築いていたなんてロマンあふれる話です。でもそれが先生の解説をお聞きしているとそうだとしか思えないです。もしかしたら日本民族は世界最古の文明を持つ民族なのでは?そして争いごとを好まずみんなが平和に暮らすをモットーとした民族だと思いす。その基本精神を脈々と繋いできたのが天皇陛下だと思います。侍も相手が負けを認めれば命を奪うことはしなかったし、先生のゼロ戦のパイロットの戦い方も同じです。私の小さい頃の喧嘩も相手が泣いたり、負けを認めればそれ以上は手を出さなかったです。今は徹底して最後まで追い詰めますよね。これは大陸のやり方ですよ。先生がもっともっと広く日本のルーツ、正しい歴史を広めて下さる事を期待しております。
何種類かいた原人は今の人類とはまったく関係が無いと言うのが通説に成りつつあり。
最新の説では、実はアフリカで人類は既に誕生していたという事になってます。
但し、白人は有る原人と混血する事で寒い場所で住める身体を手に入れ、言葉も手に入れたと言われています。
rootsプロジェクトにより、プロパガンダ的な歴史は崩れてきているようです。
ムー文化圏ということ、HawaiIはHawaikiといって、祖先の地という意味。
良い話を有難う御座います。
日本の古代史研究は五指に入るのかな?
だから時々すごくエキサイティングな瞬間を見ることができる
田楽の1節は説得力があり面白かった。アマテラスオオミカミが稲作(農耕民)、スサノオノミコトが狩猟(海洋民)の代表として神話化されたのかもと思いました。
ところで、小名木先生は神武東征は2700年前と言っておられますが、河内湖(大阪湾)入り口に浪速があったのは2100年前頃と予測され、神武東征も2100年前頃とする説が長浜浩明先生の著書にありますが、小名木先生のご意見を聞きたいです。
倭人の漢字は、自国で名付けた漢字ではないと思うけど、その後、倭人から和人に漢字を変えていると思うけど・・・
文字が無かったとも言われているが、世界最古の文明が日本にあったかも知れないし、磨製石器、土器などが今所世界最古
縄文文明は、1万年以上長きに渡り続いてきたし、シュメールより古くから日本に人が居た事もわかっている。
一説には、長江文明は、縄文人が造ったとも言われているし、悪名高い殷国も和人の国と魏志倭人伝に記載されている。
漢字の発症は、縄文人の可能性もある。
倭は委ねる人ということ。日本人を侮蔑してるとしか思えない。
人類アフリカ起源説は次々と覆されていますよ。
言葉の上ではムーツ国、陸の国、睦月、睦児、オムツすべて始まりを意味する
3万8000年前であれば海面が低かったので伊豆半島も島とだいぶ近かったかもしれませんね。
あと海面の高さは気温のサイクルには依存はしていますが正比例ではなく水の融点の関係で0℃を超えるか超えないかで境目ができると思います。
0℃を超えると一気に海面が上昇し始めると思います。なので海面が一番低かった時が一番寒いというわけではないので間氷期入る時期が最も真水が豊富に存在したのかもしれません。
ただ、陸に比べると海水温の変化の方がゆっくりだと思われますので、氷河期は魚や貝をメインに食べ物にしてしのいだ可能性もありそうですね。
寒いと農作は厳しいと思いますので食べ物となる動物は陸より海の方が残りやすいと思われます。
あと倭人は現在の中国では中国人の一部であるかのように思ってる人多いですが、当時の中国人(漢人)では書物にもある通り倭人は倭人としっかり分けており、それは弥生人を指していると思われます。DNA鑑定ができたわけでもないので弥生人だけでなく縄文人も倭人として書かれてる書物も一部にはあるかもしれません。
ただ一つ確実なのは当時は中国(漢人)では彼等を倭人と書いてる通り同じ国の人種だとは思われていなかった事だけはほぼ確実だと思われます。
最終的には現在の中国大陸でも日本列島でもなく間氷期で沈んだ平野の住民だったのではないでしょうか。だからどこから来たのか未だに謎になっている。
日本語もひらがな・カタカナ・漢字が共存する不思議な言語になってるのは縄文語(アイヌ人)と弥生語の複合で生まれた言語だからでほぼ説明が付きます。
倭人とは日本ではナワの事ナワとは少国家群の事、それを中国語では文法上の違いでワナになった。沖の少国家群から沖縄で那覇は古代の沖縄はナハレと呼ばれた事の名残りだと思えます。ナワとは九州の事で、倭国とは九州地域を指す事です。九州は20以上の小国群だった。火山活動が激しく長い歴史のある国家が作れなかった事による、それ以外の場所では幾つもの集落が同盟し、ほぼ現在の県単位に纏まっていた。。
漢倭奴国王印はワナ国だったのですね。
ワヌ国かもしれんけど。
屋久島に縄文時代の頃の帆掛け船の模型がありますよ、教えてくれたのはその頃から東南アジアと交易が有った様です、屋久島犬の体毛が短いのは東南アジアの犬と同じだそうですよ。
いつも、ご投稿を楽しみにしております。先生、ありがとうございます。
海洋国家だった倭国時代。
捕鯨の歴史なんかが気になっております。
北欧だか何処かの神話か信仰の様なものよりも、もっと分厚い歴史なんかはございませんでしょうか?
今回のお話しを聞いて、東北地方に自分のことを「ワ」という地域があるなあと思い、「私」は「ワ達」から来ているのかも知れない、などと空想してしまいました。
沖縄県の南の一部にも 自分をワーと呼ぶ方言があります。日本列島が 黒潮 で繋がっていたと思うとわくわくする。
青森県下北半島出身ですが、私の事は『ワ』『ワイ』と言います。私達の事は『ワイド』や『わん』
『ワンド』とか言います。
小名木先生の発想力に脱帽。
小学生の時の担任の先生が神様が人間を作る時、最初に焼いた人間が焼き過ぎて黒人が出来た。次に早く出し過ぎて白人が出来た。そしてうまく焼き上げられたのがアジア人で、だから一番人口も種類も多いのだと話され、最高に上手く出来たのが日本人だったのだよっと言われて、とても記憶に残っています‼️もう半世紀以上前の話ですw☺️🙄
ロマンチックで楽しかったです!
勉強になります。視聴してて楽しいです。
上古語で倭は越と同音で自分を指す言葉、そういう説を見て納得してましたが、倭は輪というのも面白いですね
もしかしたら私と輪は同源なのかも
アイヌの輪になって踊る映像が浮かびました
日本人は個人の区別をあまり重視せず、一つの輪としての単位を重視する
私とは一つの輪を指す、元々は私達といった使い方をしていたとか
先生の話は楽しいです
話を聞いた後色々を考えを巡らせられるので二度美味しい
最近はグーグルマップを弄り回すのが楽しくなってしまいましたw
海佐知毘古(うみさちびこ)と山佐知毘古(やまさちびこ)は、兄弟で喧嘩したり、助け合ったりと古事記に書かれていることは、どちらかだけではやはり成り立たず和を以って貴しと為す、和人が大和となり、よく理解できなかった中国の感じで倭を充てたかもしれませんよね~!紙と筆という大陸発明品がなくとも、代々各家庭に史を伝えてきたということは何より大切なことですよね!我が家でも、今更ながら大切な日本文化を伝えていなかければ!
倭=輪=和 みんな『ワ』ですね!
本日の講義も大変、勉強になりました。
地形の歴史も勉強しないとですね。
お疲れさまでした
字義を考えると、倭という字は使いたくないですが。
@@mikkyh 倭ってヤマトでは『稲作をする女性が家を守る』といったような
説明があったと思います。私は好きです。
@@tao7362 倭の字をあてたのって中国でしょう。
「自分」のことを「ワレ」とか言ってたから当てた文字。
しかし、倭という字は委ねる人という意味。
従順で慎み深い、まさに日本人らしさを表す文字だと思いますが、
中国が言うと、何かしら下に見てる臭がぷんぷんします。
3万8千年前の磨製石器の話は小名木先生でしたか。視野の広さに感服です。
昭和46年、相沢忠洋さんが発見
先生のお話とてもわかりやすく話されるので、何時も楽しみに拝聴しています。
タイムマシンで探検したいです。公害のない綺麗な海 見たいです。
同感です。😃☝❗️
見てみたいね。😃✌️
葦船ともう一つはカヌーの二つの船があった、カヌーは海獣の皮を使っていた為1人乗りが限界だった、一方葦船は比較的大きな船が作れたしかし葦が取れる比較的温暖な赤道近くの場所に限られた。シュメール船に使われたタルシン船は湿式木造船でかなり大型で(全長40メートル近くまであった、)タルシン船に乗って世界中を航海できた。元々ノルマン人の乗り物で縄文人の乗り物でもあった、太平洋の航路を示したのが神社の鳥居である。10000年前米大陸からラクダを連れ帰り繁殖に成功した、それをメソポタミアに持ち込み中東で繁殖して行った。またヒョウタンをアフリッから持ち帰り日本や新大陸に普及した。縄文以前からの穀物餅アワはウダとかウと言いパウダーの語源ともなっている、そのウダが南米で7000年前突然変異で大きな味がなりその後の品種改良によりとうもろこしとなった、山芋を山間部の薄いかざんばい地で栽培結果根球が大きくなりジャガイモとなった。
神社の鳥居が ⛩️
太平洋の航路を 示した❗と
言う意味に 興味を持ちました。
どんな意味の 標 なんでしょう。⁉️😃☝
日本では当たり前の日々が、いかに素晴らしいか特別な事なのだと言う事を知り、
いつも楽しい話をありがとうございます。ムーの話が出てきたときに日本海を差してくれないかと期待しました。ムーは大陸の極東に存在した単なる都市で、最後は沈んだのではなく瞬時に水没したと考えています。以前、先生が仰っていた今の日本海がある土地は、昔は大きな窪地であった可能性があるという見解に、とても興味があります。
なお、ピラミッド郡の写真は画像編集上のミスだと思います。ギリシャのザキントス島の南にも同様の模様が見られます。
グーグルアースで見る海底ピラミッドでは、24.49.54N124.06.35Eに興味が惹かれます。(人工物かわかりませんが、)当時、この場所が陸地、または浅瀬だった場合、現代の海面高の計算が誤っていることになり、凍結した氷以外に未知の要因が存在することになるからです。
Flood Mapsで、大体20mほど海面上昇させると西日本の著名な神社が大体海岸線沿いになるんですよね・・
邪馬台国談義も縄文海進の名残があったとか考えて検証すべきだとも思います(大宰府の水はけが悪くて菅原道真公が衰弱死してしまっているわけですし)
従来の考え方で言えばヨーロッパ人の方が原始的でアフリカから遠い民族ほど進化しているのかと思ってました。
自分は同時期にあちこちで始祖が生まれていたと思ってます。
同意見です。
世界中で同時多発的に多くの人類が生まれたのだと思います。
戦後の日本人は海洋民族だったころの本能がかなり薄れているのかも
何べん聞いても面白い 苦情を述べる事もあるが 頑張って欲しい
三国志の魏の国にも倭の字が入ってます。
倭人の歴史はかなり歪曲され、今の日本人が自虐史観に陥る結果となってますね。
先生の講義をきいて啓発される日本人が増えることを願います。
葦の船では黒潮の激しい海流にさからえず島から島へわたることはできませんでした、と2年位前のテレビで放送していました。丸木船のほうが作るのは大変ですが何人か乗れて協力して
オールを漕ぐことができ黒潮にも抵抗し島へ着くことができました、とやっていました。
いまの日本海の部分は日本列島の基本形が大陸に右に傾けウラジオストクと本州西北部にくっつけ
九州南部が朝鮮半島末端のほうにくっつけると大体大陸とぴったりくっつくかたちになっていると思います。日本海部分が湖として残っていたというよりも
そのまま右に傾ける形でジクソーパズルを解くようにぴたりとはまる感じがします。北海道のほうはオホーツクとつながっていてプレート原理で最終的にあの形になって日本列島の北部に位置することになったのかと思います。
黒曜石っていうと、校庭に落ちてるのを拾ってたという記憶が蘇る鹿児島県民です(笑)
ワカメや海苔と言ったものを消化・吸収する酵素を手に入れるのにどれだけの年月が掛かるのでしょうか?
日本人以外で海苔を消化・吸収する酵素は持っていないと聞いたもので…
葦船で、輪の海洋で、魚貝の狩猟が食の中心、+陸上の食料で生活していたと考えるのは、妥当ですね。大変勉強になります。
先生の卓見に賛成です。
海面が低くかったり、高かったりしてたんですね。
今の気候変動なんて、微々たるものですね。
CO2うんぬんで温暖化して海面上昇なんて、、、ただの金儲けですね。
僭越お許しください。food mapではなく、flood mapですね。
いつも為になる講義を楽しみにしています。
日本海のピラミッド群は南北に平行になってるところから、撮影から地図作成の各段階でスキャンのエラーが乗っかってしまっただけかもしれませんね。よく調べて見ないとなんとも言えませんね。一方で富山湾ー糸魚川から大和堆へ続く川の跡はロマンありますねー!
先生、この動画は永久保存版ですよね、いろんなヒントがここに集まってます。
コヤッキー・スタジオの方でもゲスト講師として先生の動画が上げられていました。
たいへん興味深い情報をありがとうございます。(^^)/
もし和の国が最古の文明なら、大陸であったり、東南アジアに移り住む者達もいたって不思議ではないですよね
先生のお話 思想 共に大好きでよく拝見しております
今回は少し残念でした
『イヴ』は便宜上『最初の女性』ですが『ミトコンドリアイヴ』は『人類最初の女性』ではありません
全現生女性の共通祖先の中で 最新の1人の事です
また 東京~九州間は10,000kmもありません(´・ω・`)
スンダランドの名前がちょっとでましたが、インドネシアの西ジャワ地方に住んでいる民衆をスンダ民族と言います。
楽しくて為になるお話を有り難うございます
早速 Google Earthで日本海のピラミッド状のある海底を探してみました。確かに二ヵ所に綺麗に並んで存在していました。この海底の絵は実際の海底と同じなのでしょうか!もし本当なら日本海の海底全体に
詳しく知りたい 気持ちになりますね。😃☝
調べてほしいね。☝😉
私の故郷では“ワ”はあなたを示し言う言葉です。“あなたはそうしたら?”を
“ワはそうしたら?”
と。
大きな輪・・沖縄 だったりして(笑)
あり得ますよね(笑)
沖縄人は出自を おこなわ と発音していたと7世紀の遣隋使の報告書にも載っています。
おっきなわ→おっこなわ→おこなわ ?
日本のあっちこっちに同じ地名があったり、同じ発音で同じものを示す方言があったりと、歴史を学ぶ楽しみが又増えました
縄文時代から黒曜石の日本最大の産地は長野県だよ。今でも見学できるよ。
このお話し、興味深いし、説得力があり納得できます。
海にまつわる地名、浦和、埼玉、高崎
倭の漢字を最初に大陸側の人間が蔑称として当てたのなら
大和側の良い解釈を動画で説いてなごませる必要なんてない
日本海の川の跡に見える所ってフォッサマグナに繋がってる様に見えるんだよなぁ。
沖縄の近海に 人が積んだとしか思えないピラミットらしいものがあるんですが、最近それらを単なる自然界の創造物と発表が為された。幾ら自然界でもあんなふうに岩が削り取られるものだろうか・・・?小名木先生率いる調査団に調査して貰いたいです。長い年月の波の浸食も激しく、遺跡としての証拠にもなりえないみたいな風にもなって来ています。このままだとその遺跡(?)も消されてしまいそうです。
Isaiahの映画で おコメの種を持って来ました。と迎えた猿田彦さんにおっしゃて 猿田彦さんは 海から漁をして暮らして居ます。といっていました。又沖縄から東南アジアの 男の人は いつも男同士で よくお茶していて 女の人わ働いていますよね 不思議だったのですが 先生のお話でガッテンがいきました。
明石原人
(あかし-げんじん、別名:明石人〈あかし-じん〉、西八木人骨(にしやぎ-じんこつ))は、かつて日本で発見された化石人骨を基に、日本列島に居住したと推測された古人類。日本考古学史および人類学史において注目されるべきものであったが、現物は戦禍によって失われており、疑問の根本的解明は望めない。
呼称
明石原人は従来の呼称であるが、北京原人やジャワ原人などとは異なり、猿人・原人・旧人・新人のうちどの進化段階に該当するか現時点では定かでない(新人説や旧人説[要検証 - ノート]がある)。ゆえに今日では「明石原人」ではなく「明石人」とする場合も多くなっている。
2つの呼称が並立するなか、発見時からの経緯に重点を置く観点により、現状を正確に反映してはいないものの当時から使われ続けている呼称である「明石原人」のほうを、本項目名に採用した。
発見と喪失、研究の経緯
人骨の発見
1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市の西八木海岸[1]において民間人・直良信夫が、古い人骨の一部(右寛骨〈う-かん-こつ〉:os coxae (right))を発見した。しかし、直良がアマチュア考古学者[2]であったこともあり、専門家には相手にされないままであった。鑑定のため東京帝国大学(現・東京大学)の松村瞭のもとへ送られ、石膏模型を製作するなど予備的な研究はなされたが、最終的な結論が出されないまま返却され、人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められることはなかった。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けていた[3]が、腰骨については言及しなかった。さらに、石膏模型を製作した松村の逝去もあって、学会でもこの腰骨は忘れられていった。
焼失
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって化石の現物は焼失した。
この人骨の焼失については、妻に制止された直良が「骨が焼ける!骨が焼ける!」と叫ぶ目の前で自宅ごと炎上したというセンセーショナルなもの[4]や、「化石が……」とつぶやきながら呆然とする直良の面前で炎上したとするもの[5]が紹介されている。だが、直良の長女である直良三樹子によると、自宅周辺に焼夷弾がばらまかれたため、直良の「もうよせ!早く逃げろ!焼け死ぬぞ!」の一言で一家は慌てて避難するしかなく、家族も直良自身も化石人骨は失念していた。10日後になってようやく鎮火し、直良も化石人骨のことが気がかりになり、焼け跡を掘ってみたが、一緒に保管していた同地点採集の石器だけが残っており、化石はとうとう見つからなかったという[6]。
石膏模型の再発見
唯一残った石膏模型も忘れられ、東大人類学教室の陳列戸棚に放置されていたが、1947年(昭和22年)11月6日に東大理学部人類学科教授の長谷部言人が写真を発見したことをきっかけに模型が再発見された。長谷部は石膏模型を計測、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘し、この人骨はシナントロプスやピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張、Niponanthropus akashiensis (ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えた[7]。さらに長谷部は、この人骨をパラステゴドンの化石と同じ地層から発見したという直良の証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけた[8]。
しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから、同年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘調査が行なわれた。しかし、長谷部の「オブサーバーとしてなら参加を許す。」の一言に怒った直良が参加を拒否したため、調査団は化石発見地点から約80m西寄りの場所を調査してしまい、200万円(当時)もの予算を計上したにもかかわらず、人骨や石器はおろか、植物化石以外の動物化石すらも発見できなかった。
34年後の1982年(昭和57年)、コンピューターによる石膏模型の解析が東京大学の遠藤萬里と国立科学博物館の馬場悠男によって行われる。その結果、人類進化史の各段階の人骨と比較して「明石原人」は現代的であるとして、原人ではなく、縄文時代以降の新人であるという説を打ち出した。また、1985年(昭和60年)春には国立歴史民俗博物館の春成秀爾が西八木海岸で発掘調査を行い、人骨が出土したとされる地層と同じ更新世中期の礫層から人工的加工痕の認められる木片を発見。この木片は広葉樹のハマグワと鑑定され、板状に裂けない広葉樹であることから人工品の可能性が考えられた。なおこの地層年代は最終間氷期後半(約8万年前)~最終氷期前半(約6万年前)と考えられている[9]。
1997年(平成9年)には明石市教育委員会が近隣の藤江川添遺跡で発掘調査を行い、中期旧石器時代のものとみられるメノウ製の握斧を発見。しかし、直良が発見した人骨がどの段階のものであったのかは、今もって解明されていない。
海洋考古学に期待したいですね
以前結び大学小名木先生、織田信長イタリア大富豪になった節すごかった!労働などの奴隷をアフリカからも日本からも金銀の代わり連れていた時代、弥助という黒人家来が最後まで一緒だったらしいが、奴隷扱いそれとも完全密航?
タイトルについてのお話が少なかったように思います。「倭」という漢字が蔑称でないようなのに、「卑弥呼」は明らかに蔑称と受け止められます。それはなぜなのか、よくわからないままです。
卑弥呼は明らかに 卑しいという文字 弥も身分の低い者を表す言葉 漢字そのものの意味が 蔑称なのに対して、倭は 人と稲穂を表すのぎとその下でくつろぐ女 漢字的には悪い意味は一切ない
ところが、あちら側が今の ザパニーズ同様に 倭の威を借る○○ として悪行を働き 倭寇なる賊を世に広めたせいで倭=倭寇となってしまったようですね。
多分倭人=蔑視語説ってテレビドラマとかとかで盛大に流しているせいで私達もなんとな~く洗脳されていたのかもしえれないですね。
卑しいとういう意味の漢字をあてたからと思います
姫巫女(ひみこ)説なるほどありえますね、魏王に謁見したときの通訳の発音を聞いて書記があてた漢字でしようし、現代の中国語の発音は日本人には難しいです(近くの中華料理の親父も日本語の発音は何十年経っても少し違いますね)
古代中華(漢人)の周りの異民族(夷狄とか)も全て野蛮な未開人とかの蔑む意味の漢字あてられてます
與邦国島の海底都市も古代の琉球大陸の一部だったのかも知れませんね。
芦の浮島で湖の上に暮らす民族もいますね
沖縄の古宇利島には人類発祥の神話がありますね
日本・日本人とは、何者か?
中川八洋 著
『超先進国日本』
渡部昇一 著
『かくて歴史は始まる』
ボブ・フィックス 著
『時を超える聖伝説』
千賀一生 著
『ガイアの法則』シリーズ
アトランティス大陸は
アフリカ大陸の1部だったらしい
今のモーリタニアのサハラの目と言う地形が、当時は水面が今より400m高かったた基本アフリカ大陸は水没していたがサハラの目は、水面から出ておりでアトランティス大陸だったとのこと
3万年前だとすると氷河期で海は浅く成っていたか、陸地化していた所も多いでしょう。外洋航海と言うほどの事も無かったでしょう。日本人の半分、男性は海岸で魚を取り、女性は農耕採集をする文化なのは賛成です。農耕一本やり見たくなったのは江戸時代からかな? ただ倭人の倭の語源はどうですかね?東夷の夷が変化したものではないかな?倭も発音を遡るとイになりませんかね。倭は海を環?輪の様にして動いていたという意味ならかなり怪しい?(笑) ところで中国人(漢族)は農耕民ですけど、家畜を飼い食べる民族でしょう。朝鮮もそれに倣ったが、古代は倭人に近かったと思われます。まあ、北の方は狩猟が主だったでしょうけど。
"中華" と言う新しい国名も、"世界の中心の華" と言う意味ですよね。
先生!「フードマップ」でなくて「フラッドマップ(floodmaps)」ですね!w
あのぉ・・・東京から福岡までで道なりでもせいぜい1000キロです。
そう言う意味では、太平洋戦争時は東条の言う事を聞きすぎたかも知れないなぁー。もっと自由な意見が発言出来ていれば、太平洋戦争の結果も変わっていたかも知れないななぁー。
四大発明は、縄文人と言われます!すすごいですね!
「倭」という呼び方は中華が付けたのでしょうか。
中華は周辺諸国をあまり良い呼び方をしないと聞きます。
そこで思ったのですが、
「倭」に「人偏」が使われているのはどういうことでしょうか。
中華は日本を対等あるいはそれ以上に見ていたのでしょうか。
濊はさすがに、、
倭と書いてやまと と発音するそうです
魏は人ではなく鬼
「倭」の象形文字の くだり 勉強しました。 よくわかりました。知らなかったW
18:02 簡単にひっくり返るなら二艘に棒を渡して縛り付ければ良いのではないですか?
アウトリガーもいいですね。
葦船と海洋民族。日本語の由来も、興味があります。