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今川氏は一門衆をあまり大事にしなかったツケが氏真の代になって回ってきた結果だと思います。
氏真って、、、家臣きりくって、裏切られて、徳川の公家パイプなったと変な記憶してた白目
流石信玄公の武略と言うべきなのか?裏切りの恩賞が半国は過大すぎると思うが、それに乗るところがねぇ。本領安堵+一郡くらいが最大の恩賞で現実的だと思うんだが。彼らの感覚ではそうじゃなかったんだろうな。信玄公も信用の切り売りで四面楚歌になるのも後世の人間からすると何なんだろうな?と思うし。
信繁が川中島戦死、義信廃嫡粛清で衰退の兆しが武田家にあったからな。
いつもかゆいところに手が届くような解説をありがとうございます。
朝比奈信置の人生、しかと聞かせていだたきました。今川を裏切り武田へと寝返りましたが自分的には信玄公こそ使えるべき主君であると考えたのでしょう、また信置は山本勘助を義元に推挙したと伝わっており、義元自身が勘助の実績のなさや容姿などを嫌ってとりあわなかったが信置は勘助の高い能力を見抜いていたかもしれませんね。信置のお墓は実家の遠くない場所にあるので今度行ってみたいと思います。
自分が見抜いた勘助が重用され武田家なら庶家の自分をもっと高く評価してくれるかもしれないと思っていたかもですね。
「瀬名信輝」については、Wikipediaや他の書籍では、瀬名氏俊の子で、1544年生まれの「瀬名氏詮」が瀬名信輝とされていますが、長谷川清一氏の『瀬名氏三代の考察ー今川氏一門としての功と罪ー』に従って、氏詮の父、瀬名氏俊=瀬名信輝としています。
秀吉も家康も有力大名になったから言われんだけで、実質、裏切り者よ。勝てば官軍、負ければ賊軍。。。運って大事よね。
幕末までの若年寄などの面々をみると、意外な末裔が出てきますね。
今川家臣にだったとしても 滅亡してただろうし 武田に裏切っても結局 滅亡してたし今川の家臣は悲惨ですね
この時代の斜陽な家ではよく目にする光景かも知れませんね。主家に殉じていくのも道なら、独立して家名を守る、あるいは飛躍を狙うのもまた道なのでしょう。自分だけでなく家臣の命運も預かる人間の判断とはなんとも難しい。そう遠くない未来に同じ運命を武田も北条も辿るし、なんとも家名を残すのが難しい時代だったのですねぇ。
武田、北条、徳川のうち一つが大当たりという状況ですからね。武田に仕えながらも滅亡後に徳川に移って大名にまで出世した岡部正綱の例なんかもありますが一握りで、運、実力ともに兼ね備えていないと家名を残すことは難しかったのだと思います。
今川一門衆の関口親永を、娘が家康に嫁いでいるというだけで切腹させたことが、他の今川一門衆の離反を招いた所もあるのかなと思ってしまいます。
今川氏当主と一門衆の関係自体が既に何度も破綻していますからね。関口誅殺も瀬名、葛山には脅威に映ったことは間違いないでしょう。
築山殿は今でも通用する美人だねー
「降る」は「ふる」ではありません。「くだる」とよみます。
無断欠勤して切腹とは惨めー
戦国の世とは言え、裏切り者の多くが不幸な末路をたどっていますよね。
それな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
かつらやまといってますが、実際はかづらやまです
半国は……… くれないよなぁ。
家名が残った家はまだましなんでしょうけど、絵に描いたような没落人生ですね。
朝比奈信置については勝敗は兵家の常といったところですが、瀬名氏と葛山氏は典型的な没落ですね。もともと今川本家と確執もあったので仕方ない部分もありましたが。
氏真「おれ、、、MJっす」勝ちたいから凄十
挨拶信置!?挨拶信置じゃないか!?
戦国大戦ネタw
@@rekishock 信置をみるとついつい士気2で精鋭戦術したくなry
こんばんは
今川氏は一門衆をあまり大事にしなかったツケが氏真の代になって回ってきた結果だと思います。
氏真って、、、家臣きりくって、裏切られて、徳川の公家パイプなったと変な記憶してた白目
流石信玄公の武略と言うべきなのか?
裏切りの恩賞が半国は過大すぎると思うが、それに乗るところがねぇ。
本領安堵+一郡くらいが最大の恩賞で現実的だと思うんだが。
彼らの感覚ではそうじゃなかったんだろうな。
信玄公も信用の切り売りで四面楚歌になるのも後世の人間からすると何なんだろうな?と思うし。
信繁が川中島戦死、義信廃嫡粛清で衰退の兆しが武田家にあったからな。
いつもかゆいところに手が届くような解説をありがとうございます。
朝比奈信置の人生、しかと聞かせていだたきました。
今川を裏切り武田へと寝返りましたが自分的には信玄公こそ使えるべき主君であると考えたのでしょう、また信置は山本勘助を義元に推挙したと伝わっており、義元自身が勘助の実績のなさや容姿などを嫌ってとりあわなかったが信置は勘助の高い能力を見抜いていたかもしれませんね。信置のお墓は実家の遠くない場所にあるので今度行ってみたいと思います。
自分が見抜いた勘助が重用され武田家なら庶家の自分をもっと高く評価してくれるかもしれないと思っていたかもですね。
「瀬名信輝」については、Wikipediaや他の書籍では、瀬名氏俊の子で、1544年生まれの「瀬名氏詮」が瀬名信輝とされていますが、長谷川清一氏の『瀬名氏三代の考察ー今川氏一門としての功と罪ー』に従って、氏詮の父、瀬名氏俊=瀬名信輝としています。
秀吉も家康も有力大名になったから言われんだけで、実質、裏切り者よ。
勝てば官軍、負ければ賊軍。。。
運って大事よね。
幕末までの若年寄などの面々をみると、意外な末裔が出てきますね。
今川家臣にだったとしても 滅亡してただろうし 武田に裏切っても結局 滅亡してたし今川の家臣は悲惨ですね
この時代の斜陽な家ではよく目にする光景かも知れませんね。
主家に殉じていくのも道なら、独立して家名を守る、あるいは飛躍を狙うのもまた道なのでしょう。
自分だけでなく家臣の命運も預かる人間の判断とはなんとも難しい。
そう遠くない未来に同じ運命を武田も北条も辿るし、なんとも家名を残すのが難しい時代だったのですねぇ。
武田、北条、徳川のうち一つが大当たりという状況ですからね。
武田に仕えながらも滅亡後に徳川に移って大名にまで出世した岡部正綱の例なんかもありますが一握りで、運、実力ともに兼ね備えていないと家名を残すことは難しかったのだと思います。
今川一門衆の関口親永を、娘が家康に嫁いでいるというだけで切腹させたことが、他の今川一門衆の離反を招いた所もあるのかなと思ってしまいます。
今川氏当主と一門衆の関係自体が既に何度も破綻していますからね。
関口誅殺も瀬名、葛山には脅威に映ったことは間違いないでしょう。
築山殿は今でも通用する美人だねー
「降る」は「ふる」ではありません。「くだる」とよみます。
無断欠勤して切腹とは惨めー
戦国の世とは言え、裏切り者の多くが不幸な末路をたどっていますよね。
それな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
かつらやまといってますが、実際はかづらやまです
半国は……… くれないよなぁ。
家名が残った家はまだましなんでしょうけど、絵に描いたような没落人生ですね。
朝比奈信置については勝敗は兵家の常といったところですが、瀬名氏と葛山氏は典型的な没落ですね。
もともと今川本家と確執もあったので仕方ない部分もありましたが。
氏真「おれ、、、MJっす」
勝ちたいから凄十
挨拶信置!?挨拶信置じゃないか!?
戦国大戦ネタw
@@rekishock 信置をみるとついつい士気2で精鋭戦術したくなry
こんばんは