狭山市立博物館「博物館がゆく文化財めぐり4狭山の縄文時代(後編)」
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- Опубликовано: 7 фев 2025
- 「博物館がゆく文化財めぐり」第四弾。
今回は「狭山の縄文時代」について”前後編”に分けてご紹介します。
後編は狭山市立博物館の常設展示を見ながら、縄文時代の人々の暮らし(衣食住)について解説します。
動画の訂正箇所
7:17 ナーレーション 全体の6割程度(誤) → 全体の6分の1程度(正)
映像制作:狭山市立博物館
監修:石塚和則(狭山市教育委員会)
ナレーション:志水美枝子
構成・編集:入佐友弥
撮影:青木寛子
撮影助手:肥沼育美
学びの場としてひじょうにおもしろです
動画挙げていただきありがとうございます。
住居がいまやカヤぶきではなく土の説とは
思いもしませんでした。
先日、富士見市の水子貝塚に
行ってみましたが川越まで海が
入り込んでいたのも太古のロマンですね
焼けた土が縄文住居跡から発見されているのは
事実ですが、土の総量は屋根を葺くには量が
少ないという調査結果があります。
カヤを刈る有効な道具がなかったからとよく
言われますが、これはカヤ知らない人の妄言です。
アシやススキを根元で握ってグイと捻れば簡単に
折り取ることができます。女性でもできるでしょう。
実際にお試しください。
竪穴式住居が土葺き屋根だった可能性が高いと聞いて初めてそれから派生するだろうという事を考えさせて貰った。
しかし、縄文と祭司を結びつけ過ぎでは…
縄文人の脚力は現代人の比じゃなかったろう。後世の木地師たちは、一年の内に、京都近辺から秋田近くまで往復していた。彼らは、大河を渡るより山中を走り回っていたと言うべきだろう。会津古街道だって上州から山越えで幾つも道があったに違いない。現代人の尺度で計ると誤りが生まれる。舟運だってどうやって黒瀬川を越えて神津島の黒曜石を運んで来たのか。劣っていたに違いないと思い込みは間違いのもと
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