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東京教育大学は戦前東京文理大学で、教育系大学ではないですね。東京高等師範と合併し、師範学校側が譲らず、東京教育大学になったそうです。だから、文学部、理学部、教育学部、農学部、体育学部なんですよね。文一文ニに対応するのが一橋理一が東工文三理ニに対応するのが東京教育大学(旧東京文理科大)です理学は数物化学系統の東工生物地学化学の文理大ですね名前だけ教育で中身は文理科大ですから、格としては一工と同じです
2:50 筑波の法と経済の定員が極端に少ないのはこういうこと元から教育や文のおまけでしかなかった模様
旧制東京文理科大学。当時の大学ランキング的には東工大、一橋と並び、阪大を凌駕する大学だったと聞いています。
午前中に別動画で東京教育大についてコメントしたら、まさかの速攻動画! すごい!感謝です。
凄い魅力的な大学だなぁ
文学部社会科学科の経済学専攻で教鞭を執っていたのが、美濃部亮吉元都知事でした。
うちの隣のおじさんが東京教育大(中退)でした。学業不振だったからではなくて、当時大学紛争が激しくて授業がほとんど開かれなかったため、大学にいる意味がないと中退して帰ってきたとのこと。どう見てもその辺にいる田舎オヤジなんですが、頭よかったんだなぁ、意外。そのおじさん、故郷に戻り某士業に就かれ、今は息子にあとを譲って悠々自適な様子。サンダルに短パン姿で近所を歩いておられます。
東京教育大学というと思い浮かぶのは、家永三郎教授ですね。教科書裁判、筑波への移転反対を通して、ご自身の姿勢を貫かれた印象が強いです。筑波大学の設置あたりから、大学の在り方が変わった気がしています。
もう四半世紀以上前ですが、筑波大に合格しました。そしたら病気療養中だった祖父が入院先で看護師に「孫が東京高等師範に受かった」と自慢してました。東京高等師範って…(笑)と思いつつ、喜んで貰えたのは嬉しかったのをよく覚えてます。この動画を見て、そんなことを思い出しました。
66歳です。旧東京教育大学理学部は東大、京大に並ぶトップ校でした。大久保には光学研究所を分室として持っていたと思います。朝永振一郎が最後の学長かな。いわゆるリベラルアーツのような教養主義の延長線上にあったのだと思います。移転というか、解体の原因の一つは政府の言うことに盾つくことが多かったと言われていたのを記憶しています。
戦後日本では大学の自治権が守られていなかったんですね。高学歴なはずの政府が民主主義の本質を理解してないって愚かな話です。
はい。東京教育大学のように政府の言うことに盾つき潰され、東工大と東京医科歯科大のように政府にYES連発でもクラッシュ合併の憂き目にあう。日本政府に「学問の基軸」が定まっていないからでしょうか。
最後の学長は、教育学部教授で眼科医の大山信朗博士だつたはずですが。
そうでしたか。失礼しました。記憶違いでした。@@岩崎正泰
かつての東京高等師範学校で、長らく嘉納治五郎が校長をつとめていましたね。その名残で武道学科があるのでしょう。
東京教育大学・筑波大学の同窓会組織「茗溪会」が作った学校法人 茗溪学園中学校・高等学校がつくば市にある。
当時、全国の国立大学は教授会の力が強く、学長はお飾りでしかなかった。政府は、学長を権力のトップとした、つまり政府の言いなりに成るような国立大学の構築を目指し、その実験校として東京教育大を母体とした筑波大学を設立した。従って、当時日本で唯一の学長に権限が集中した国立大学が誕生した。 今考えると、国立大学は独法化され、皆筑波大と同じような構造になっており、良いか悪いか分からないが、自民党政府の思い通りになっている。
良い大学でした。一期校ですよね。東京教育大学は、このままで、筑波大学を新設しても良かったのにと思います。付属高も、教駒などと言っていましたね。
漫画家の池田理代子先生が、確か、筑波大学になる以前の、東京教育大学出身だったと思います。名作『ベルサイユのばら』、『オルフェウスの窓』は、この大学で培われた学びから生まれたのでしょう。
私の高校時代の政経の先生が、文学部社会科学科経済学専攻(←この学科名が私にとって異様に思えた)の卒業で、漫画家の池田理代子と同学年だったと話されていた記憶があります。家永三郎教授の講義も学生には人気だったと話していました。その先生自体も元々教師ではなくて、東京教育大卒業後は大手商社に就職したものの、親の介護のために実家に戻るため高校教師になったという人で、会社四季報の読み方とかを授業で取り上げるユニークな先生でした。それにしても、東京教育大学と東京学芸大学は、本来は大学名が逆のような気がする。。。。
民青の活動家でしたよね。それで仕送りを止められてしまったので生活費稼ぎに、好きだった漫画を描き始めたとのことですよ。
筑波大の生物資源学類は、昔の「農林学類」の方がわかりやすかった。今となっては。
かつての幡ヶ谷キャンパスは今の渋谷区スポーツセンターが立地している場所にありましたね。学生時代に近くに住んでいたので、スポーツセンターの温水プールでよく泳いでいました。
都立高校の出身ですが、先生は東教大ばかりでした(半分以上)。いろいろと学問に取組んでも結局、就職先は高校教師という状態でした。筑波大になってもしばらく高校教師ばかり。今は教師になる学生がほとんどいないとの事隔世の感です。
東教大時代は超有名大企業に多くの学生が就職されていましたよ。今はしらんけど。山内氏がおっしゃる通りここは教育学部じゃあないよ。まぁ高校の校長養成大でもあったのは間違いないですが、今は誰でも校長とはいかないな。
残すべきだった
筑波に移転しなければ東工・一橋に並ぶ東京の難関大学の一角だったのだろうな。教育大学なのに理学部などがあったと知って驚いている。狭かったから仕方がなかったらしいが、文系学部だけでも東京に残っていたらな。そもそも中等教育の教員を養成する目的の大学だったから学科構成はこうだったのだろうな。
東京教育大学は東京大学の先生方からとにかく馬鹿にされていました。私の指導教官(東大)もそうでした。馬鹿というのも“頭が悪い”のニュアンスでしたが、私の世代では既に筑波大学だった為、何故そのようになったのか経緯はわかりません。OBの方に聞いても理由は分からず終い。東京大学vs東京教育大学の戦いも面白いかもしれません。
東京教育大学は実に響きが良いですね。知り合いも東京教育大学のOBですが、筑波大学は認めてませんね。筑波大学作るために東京教育大を無くしてしまった事は残念ですね。今も文京区にあれば東大に匹敵してたと思いますね。
筑波大学附属駒場高校はすごい
本動画の趣旨からはずれますが、付属の坂戸高校はつくばキャンパスの移転に向けて動いているとの報道がなされましたね。表向きは、大学と高校の教育の連携ですが、裏の目的として、筑波大への進学率の向上、つくば市内の高校不足への対応、坂戸の土地の売却によるスリム化などがありそうですね。なお、筑波移転に関しては、理系体育系は賛成したが、文系は反対したため冷遇されただとか諸説ありますね。移転の待遇として、理系を中心として、地方旧帝大に準ずる予算が投じられているのは救いだと思います。
一工と並ぶ東教大筑波を新設、東教大を移転せず赤狩りし茗荷谷に残せたら2000年代初頭五大学連合となり、本当に東大と並ぶ大学が誕生していたかもしれない
私の大学の英語の先生が教育大卒で、文化、歴史、思想、多くの本、苦学時代の面白い話をしてくれました。先生は出世して、某大学の外国学部長をされていました。私の誇りです。教育大が存続してたら?恐らく早慶上理がこれほど有名難関大になっていなかったでしょうね。
むかし家の近くに東京教育大学体育学部があつた、今は渋谷区のスポーツセンターと介護施設
地理学については大雑把に言って東京大学の自然地理学京都大学の人文地理学東京教育大学の地誌学という伝統的な3拠点でありました。私立大学での地理の大規模な拠点である立正大学地理学科は、東京教育大学=筑波大学の「植民地」でしたね。
好的💰
今でも難関国立大学の一つではあるがキャンパスが東京にあったらまず確実に東京一工筑だよな。
大学が、タコ足キャンパスで入学式卒業式が付属小学校の講堂でしてました、4年卒業が難しかつたと思います。 キャンパスの高層化しないと難しかった思われます。
筑波に移転して農工大の地位が上がったのかな?
今の都立国際高校があるところが、東京教育大学農学部だったと聞いたことがある。
だから坂戸に附属農業高校があるわけか
農学部卒業しました。駒場のキャンバスや保谷農場本当にいい思い出
さすが 東京の大学だけあって ドイツ語フランス語受験に熱心だった!
筑波に新たな大学を作るとしても、別に東京教育大学を廃校にしなくても良かったのにね。誰だ、これを決めた文部大臣は。
むしろ東京教育大学をつぶすために筑波大をつくったという側面があったと思います。(家永三郎氏の名を聞いたことはありませんか?)
学生運動が盛んだったからですね。
@@KK-vo8um はい、もちろん知ってますよ。教科書検定制度は検閲だ、と訴訟を起こしました。東京教育大学は左派の牙城で左寄りの教員の教え子が各地の大学の教育学部の教員になり、その教員が教師志望の学生を左寄りに洗脳し、就職後日教組に加入することを政府・自民党は危惧したことは容易に察せられます。それは承知のうえでもっと良い知恵はなかったのかと、やり方の拙さを言いたかったわけです。
左翼のスクツ。無くなってよかった。
@@ドラえ者 学生だけじゃなく、教員も全部左翼だったそうです。そうでなきゃ居られない程だったと聞いてます。
東京教育大に限らず、学芸大、都立大あたりも移転しなければ今頃は早慶に並ぶくらいの難易度になってたはずなんですけどね移転しても難易度を保てているのは一橋くらいでしょうか
僕が弟子入りした、もう亡くなられた書道の先生が東京教育大学、筑波大学の教授をされていたので東京教育大学の名前が懐かしく感じました。
高校の先生が東京教育大出身だったけど優秀だったんだな…
学部構成的に、東京学芸大学と東京教育大学はネーミング逆の方がしっくりくるな。
学芸とは学芸会の学芸で小学生・中学生が対象です。
@@マイケル-j9z 学問と芸術じゃないんだ…
ここで言う学芸は、教養を意味するリベラルアーツを訳した意味だつたはずですが。
🎉🎉茨城県立境高校蛍雪応援団🎉東京教育大学文学部
大昔の国立は法文学部が主流だった記憶
”教育”にかこつけて若干まぜっ返し的なコメントになりますが、今はやりのスクールカースト的視点からこの学校の存亡を振り返ると面白いかと。要は教育大はクラストップの優等生ではなく2番手の秀才っていう役回りだったんじゃないのかな。 文武両道の生徒会長タイプともちょっと違う。どちらかというと陰キャ。そのくせ高等遊民的で内心自分より学力的に下の者を慇懃無礼に小ばかにするタイプ。つまりは孤立しやすくみんなから怨嗟の目で見られ、しかもそれに気づかない。こりゃ昭和の時代一番いじめのターゲットにされるわな。学校全体のイメージはおフランスのエコール・ノルマル(大学院クラスの高等師範)に一番近いのかな。 ここ出身の元過激派の闘士を知ってるが、人柄的には庶民的で素晴らしかった…
たしか横国と並んで二期校の代表だったと思います。東大不合格者が東京教育大学に入学する立ち位置だったと思います。かっては東京文理大学ですね。
一期校です。東工大、一ツ橋に並ぶ難関大でした。
一期校二期校時代は、筑波大や広島大に落ちると地方の国立大教育学部に入学していました。
所詮、文理科大学でしたからね。当時文系、理系ともに北大並みのレベルでした。都内にあれば一橋大、東工大には敵いません。筑波に進化して北関東の覇者になったと思いますよ。
政治的に弄ばれた学校ですね。伝統ある学校が茨城のド田舎に飛ばされたのは残念です。茨城でっせ、なんでやねん😮筑波へ行けるのなら都内の有力大学に行くべきですわ。
筑波大学は教育大ではありませんね。
東京教育大学と東京学芸大学は似てる
東京教育大学は戦前東京文理大学で、教育系大学ではないですね。東京高等師範と合併し、師範学校側が譲らず、東京教育大学になったそうです。
だから、文学部、理学部、教育学部、農学部、体育学部なんですよね。
文一文ニに対応するのが一橋
理一が東工
文三理ニに対応するのが東京教育大学(旧東京文理科大)です
理学は数物化学系統の東工
生物地学化学の文理大ですね
名前だけ教育で中身は文理科大ですから、格としては一工と同じです
2:50 筑波の法と経済の定員が極端に少ないのはこういうこと
元から教育や文のおまけでしかなかった模様
旧制東京文理科大学。当時の大学ランキング的には東工大、一橋と並び、阪大を凌駕する大学だったと聞いています。
午前中に別動画で東京教育大についてコメントしたら、まさかの速攻動画! すごい!感謝です。
凄い魅力的な大学だなぁ
文学部社会科学科の経済学専攻で教鞭を執っていたのが、美濃部亮吉元都知事でした。
うちの隣のおじさんが東京教育大(中退)でした。学業不振だったからではなくて、当時大学紛争が激しくて授業がほとんど開かれなかったため、大学にいる意味がないと中退して帰ってきたとのこと。どう見てもその辺にいる田舎オヤジなんですが、頭よかったんだなぁ、意外。そのおじさん、故郷に戻り某士業に就かれ、今は息子にあとを譲って悠々自適な様子。サンダルに短パン姿で近所を歩いておられます。
東京教育大学というと思い浮かぶのは、家永三郎教授ですね。教科書裁判、筑波への移転反対を通して、ご自身の姿勢を貫かれた印象が強いです。筑波大学の設置あたりから、大学の在り方が変わった気がしています。
もう四半世紀以上前ですが、筑波大に合格しました。そしたら病気療養中だった祖父が入院先で看護師に「孫が東京高等師範に受かった」と自慢してました。東京高等師範って…(笑)と思いつつ、喜んで貰えたのは嬉しかったのをよく覚えてます。この動画を見て、そんなことを思い出しました。
66歳です。旧東京教育大学理学部は東大、京大に並ぶトップ校でした。大久保には光学研究所を分室として持っていたと思います。朝永振一郎が最後の学長かな。いわゆるリベラルアーツのような教養主義の延長線上にあったのだと思います。移転というか、解体の原因の一つは政府の言うことに盾つくことが多かったと言われていたのを記憶しています。
戦後日本では大学の自治権が守られていなかったんですね。高学歴なはずの政府が民主主義の本質を理解してないって愚かな話です。
はい。東京教育大学のように政府の言うことに盾つき潰され、東工大と東京医科歯科大のように政府にYES連発でもクラッシュ合併の憂き目にあう。日本政府に「学問の基軸」が定まっていないからでしょうか。
最後の学長は、教育学部教授で眼科医の大山信朗博士だつたはずですが。
そうでしたか。失礼しました。記憶違いでした。@@岩崎正泰
かつての東京高等師範学校で、長らく嘉納治五郎が校長をつとめていましたね。その名残で武道学科があるのでしょう。
東京教育大学・筑波大学の同窓会組織「茗溪会」が作った学校法人 茗溪学園中学校・高等学校がつくば市にある。
当時、全国の国立大学は教授会の力が強く、学長はお飾りでしかなかった。政府は、学長を権力のトップとした、つまり政府の言いなりに成るような国立大学の構築を目指し、その実験校として東京教育大を母体とした筑波大学を設立した。
従って、当時日本で唯一の学長に権限が集中した国立大学が誕生した。
今考えると、国立大学は独法化され、皆筑波大と同じような構造になっており、良いか悪いか分からないが、自民党政府の思い通りになっている。
良い大学でした。一期校ですよね。東京教育大学は、このままで、筑波大学を新設しても良かったのにと思います。
付属高も、教駒などと言っていましたね。
漫画家の池田理代子先生が、確か、筑波大学になる以前の、東京教育大学出身だったと思います。
名作『ベルサイユのばら』、『オルフェウスの窓』は、この大学で培われた学びから生まれたのでしょう。
私の高校時代の政経の先生が、文学部社会科学科経済学専攻(←この学科名が私にとって異様に思えた)の卒業で、漫画家の池田理代子と同学年だったと話されていた記憶があります。家永三郎教授の講義も学生には人気だったと話していました。
その先生自体も元々教師ではなくて、東京教育大卒業後は大手商社に就職したものの、親の介護のために実家に戻るため高校教師になったという人で、会社四季報の読み方とかを授業で取り上げるユニークな先生でした。
それにしても、東京教育大学と東京学芸大学は、本来は大学名が逆のような気がする。。。。
民青の活動家でしたよね。それで仕送りを止められてしまったので生活費稼ぎに、好きだった漫画を描き始めたとのことですよ。
筑波大の生物資源学類は、昔の「農林学類」の方がわかりやすかった。今となっては。
かつての幡ヶ谷キャンパスは今の渋谷区スポーツセンターが立地している場所にありましたね。
学生時代に近くに住んでいたので、スポーツセンターの温水プールでよく泳いでいました。
都立高校の出身ですが、先生は東教大ばかりでした(半分以上)。
いろいろと学問に取組んでも結局、就職先は高校教師という状態でした。
筑波大になってもしばらく高校教師ばかり。今は教師になる学生がほとんどいないとの事
隔世の感です。
東教大時代は超有名大企業に多くの学生が就職されていましたよ。今はしらんけど。山内氏がおっしゃる通りここは教育学部じゃあないよ。まぁ高校の校長養成大でもあったのは間違いないですが、今は誰でも校長とはいかないな。
残すべきだった
筑波に移転しなければ東工・一橋に並ぶ東京の難関大学の一角だったのだろうな。教育大学なのに理学部などがあったと知って驚いている。狭かったから仕方がなかったらしいが、文系学部だけでも東京に残っていたらな。そもそも中等教育の教員を養成する目的の大学だったから学科構成はこうだったのだろうな。
東京教育大学は東京大学の先生方からとにかく馬鹿にされていました。私の指導教官(東大)もそうでした。馬鹿というのも“頭が悪い”のニュアンスでしたが、私の世代では既に筑波大学だった為、何故そのようになったのか経緯はわかりません。OBの方に聞いても理由は分からず終い。
東京大学vs東京教育大学の戦いも面白いかもしれません。
東京教育大学は実に響きが良いですね。知り合いも東京教育大学のOBですが、筑波大学は認めてませんね。筑波大学作るために東京教育大を無くしてしまった事は残念ですね。今も文京区にあれば東大に匹敵してたと思いますね。
筑波大学附属駒場高校はすごい
本動画の趣旨からはずれますが、付属の坂戸高校はつくばキャンパスの移転に向けて動いているとの報道がなされましたね。
表向きは、大学と高校の教育の連携ですが、裏の目的として、筑波大への進学率の向上、つくば市内の高校不足への対応、坂戸の土地の売却によるスリム化などがありそうですね。
なお、筑波移転に関しては、理系体育系は賛成したが、文系は反対したため冷遇されただとか諸説ありますね。移転の待遇として、理系を中心として、地方旧帝大に準ずる予算が投じられているのは救いだと思います。
一工と並ぶ東教大
筑波を新設、東教大を移転せず赤狩りし茗荷谷に残せたら2000年代初頭五大学連合となり、本当に東大と並ぶ大学が誕生していたかもしれない
私の大学の英語の先生が教育大卒で、文化、歴史、思想、多くの本、苦学時代の面白い話をしてくれました。先生は出世して、某大学の外国学部長をされていました。私の誇りです。
教育大が存続してたら?恐らく早慶上理がこれほど有名難関大になっていなかったでしょうね。
むかし家の近くに東京教育大学体育学部があつた、今は渋谷区の
スポーツセンターと介護施設
地理学については大雑把に言って
東京大学の自然地理学
京都大学の人文地理学
東京教育大学の地誌学
という伝統的な3拠点でありました。
私立大学での地理の大規模な拠点である立正大学地理学科は、東京教育大学=筑波大学の「植民地」でしたね。
好的💰
今でも難関国立大学の一つではあるがキャンパスが東京にあったらまず確実に東京一工筑だよな。
大学が、タコ足キャンパスで入学式卒業式が付属小学校の講堂でしてました、4年卒業が難しかつたと思います。 キャンパスの高層化しないと難しかった思われます。
筑波に移転して農工大の地位が上がったのかな?
今の都立国際高校があるところが、東京教育大学農学部だったと聞いたことがある。
だから坂戸に附属農業高校があるわけか
農学部卒業しました。駒場のキャンバスや保谷農場本当にいい思い出
さすが 東京の大学だけあって ドイツ語フランス語受験に熱心だった!
筑波に新たな大学を作るとしても、別に東京教育大学を廃校にしなくても良かったのにね。誰だ、これを決めた文部大臣は。
むしろ東京教育大学をつぶすために筑波大をつくったという側面があったと思います。(家永三郎氏の名を聞いたことはありませんか?)
学生運動が盛んだったからですね。
@@KK-vo8um はい、もちろん知ってますよ。教科書検定制度は検閲だ、と訴訟を起こしました。東京教育大学は左派の牙城で左寄りの教員の教え子が各地の大学の教育学部の教員になり、その教員が教師志望の学生を左寄りに洗脳し、就職後日教組に加入することを政府・自民党は危惧したことは容易に察せられます。それは承知のうえでもっと良い知恵はなかったのかと、やり方の拙さを言いたかったわけです。
左翼のスクツ。無くなってよかった。
@@ドラえ者 学生だけじゃなく、教員も全部左翼だったそうです。そうでなきゃ居られない程だったと聞いてます。
東京教育大に限らず、学芸大、都立大あたりも移転しなければ今頃は早慶に並ぶくらいの難易度になってたはずなんですけどね
移転しても難易度を保てているのは一橋くらいでしょうか
僕が弟子入りした、もう亡くなられた書道の先生が東京教育大学、筑波大学の教授をされていたので東京教育大学の名前が懐かしく感じました。
高校の先生が東京教育大出身だったけど優秀だったんだな…
学部構成的に、東京学芸大学と東京教育大学はネーミング逆の方がしっくりくるな。
学芸とは学芸会の学芸で小学生・中学生が対象です。
@@マイケル-j9z
学問と芸術じゃないんだ…
ここで言う学芸は、教養を意味するリベラルアーツを訳した意味だつたはずですが。
🎉🎉茨城県立境高校蛍雪応援団🎉東京教育大学文学部
大昔の国立は法文学部が主流だった記憶
”教育”にかこつけて若干まぜっ返し的なコメントになりますが、今はやりのスクールカースト的視点からこの学校の存亡を振り返ると面白いかと。要は教育大はクラストップの優等生ではなく2番手の秀才っていう役回りだったんじゃないのかな。 文武両道の生徒会長タイプともちょっと違う。どちらかというと陰キャ。そのくせ高等遊民的で内心自分より学力的に下の者を慇懃無礼に小ばかにするタイプ。つまりは孤立しやすくみんなから怨嗟の目で見られ、しかもそれに気づかない。こりゃ昭和の時代一番いじめのターゲットにされるわな。学校全体のイメージはおフランスのエコール・ノルマル(大学院クラスの高等師範)に一番近いのかな。 ここ出身の元過激派の闘士を知ってるが、人柄的には庶民的で素晴らしかった…
たしか横国と並んで二期校の代表だったと思います。東大不合格者が東京教育大学に入学する立ち位置だったと思います。かっては東京文理大学ですね。
一期校です。東工大、一ツ橋に並ぶ難関大でした。
一期校二期校時代は、筑波大や広島大に落ちると地方の国立大教育学部に入学していました。
所詮、文理科大学でしたからね。当時文系、理系ともに北大並みのレベルでした。都内にあれば一橋大、東工大には敵いません。筑波に進化して北関東の覇者になったと思いますよ。
政治的に弄ばれた学校ですね。伝統ある学校が茨城のド田舎に飛ばされたのは残念です。茨城でっせ、なんでやねん😮
筑波へ行けるのなら都内の有力大学に行くべきですわ。
筑波大学は教育大ではありませんね。
東京教育大学と東京学芸大学は似てる