小三治 円蔵 仁鶴 三木助 柳昇 花の与太郎まかり通る【落語】
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- Опубликовано: 6 фев 2025
- 0:48金明竹 25:07道具屋 36:39牛ほめ 57:29大工調べ 1:16:19与太郎戦記
「金明竹」
おじさんの店の手伝いをしている与太郎さん。今日も店番をしていると俄か雨が降って来た。雨宿りに店の軒先を借りに来た見知らぬ男に「軒先は貸せないが、傘なら貸せる」と、おじさんの新品の蛇の目の傘を貸してしまう。おじさんは「傘はみんな使い尽くしてバラバラになって使い物にならないから焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」と叱る・・・
十代目 柳家 小三治
「まくらの小三治」と呼ばれるほど、まくらに力を入れており小三治のまくらを聴きに寄席に足を運ぶ常連もいたという。中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定され東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われ四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽に並び本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し大看板となった落語家のひとりである
「道具屋」
江戸時代から口演されてきた伝統的な前座向きの噺です。軽妙で面白く、よく知られる落語の一つです。古くからある小咄を集めて一席の落語にしたオムニバス形式の落語で与太郎が伯父にいわれて道具屋になるが、へまばかりして失敗を繰り返すという内容です。別名「道具の開業」とも呼ばれます。三十すぎてもぶらぶらしている甥の与太郎に伯父が自分の内職の道具屋をさせることにしますが・・・古典落語をベースにしていますが、声劇台本として作成されています。元の落語に様々なアレンジが加えられている場合があります
八代目 橘家 圓蔵
1960年代から1980年代にかけて「ヨイショの圓鏡」の異名で落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。頭の回転の速さからなぞかけを得意としテレビやラジオなどの放送番組で人気を博す。得意のなぞかけから自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。また頭の回転を活かした頓知も発揮し大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。強度の近視のため黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていたがこれは従来の寄席演芸のタブーを破るものでトレードマークになった。
「牛ほめ」
一応、前座用の話(前座話)となっているが、難解な挨拶の文句をいちいち混ぜっ返す練習シーンや、メモを読みながら喋ったせいでお経のような抑揚になってしまう口上など山場が多い。以前は「秋葉様のお札をお張りなさい」と簡単な落ちだったが『屁の用心』が追加された。「秋葉様」とは、神仏習合の火防・火伏せの神として広く信仰された秋葉権現で、お札は秋葉神社のお札である。なお、上方版で節穴(と牛のお尻)に張りなさいとアドバイスされるお札は、愛宕神社のお札である。
三代目 笑福亭 仁鶴
1960年代後半から70年代前半にかけて、深夜ラジオ番組の出演で当時の若者層から絶大な人気を博し、番組中に発した「どんなんかな~」で一気にブレイクした。「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせぇ」のフレーズでレギュラー番組を長らく受け持つ。天狗連で売り出した当時は、初代桂春団治ばりのあくの強いスピーディーな語り口であったが、6代目笑福亭松鶴に入門直後は、「教えてもうた通りきっちりとやらなあかん時期」だったため、「地味で硬い語り口」に転じた。そこで基礎から落語を学び直し、やがて本来の「機関銃のような」スピードと強さを取り戻していった。1970年代後半に喉を痛めてからは芸風を変更し、的確な描写力を持ってじっくりと聴かせる正統派の落語家となった。
「大工調べ」
大工の腕はたいしたものだが頭の回転がちょっと遅い与太郎がしばらく仕事に出て来ない。心配した棟梁の政五郎が長屋に行ってみると家賃を1両と800文ため込んで家主の源六に家賃の抵当に道具箱を押さえられ持って行かれたという。政五郎は家主の所から道具箱を返してもらって来いと持っていた1両を与太郎に渡す。まだ800足りないと言う与太郎に政五郎は「あとから納めるから今すぐ道具箱を返してもらいたい」と大家に頼むが話はもつれにもつれ、ついに怒った政五郎は大家がこの長屋に流れ着いた時点からの所行を激しい口調で難ずる(ここまでが大工調べの”序”、ここで噺を切り上げる場合が多い)
三代目桂三木助
当時まではとりわけ注目もされていなかった円朝作と云われる落語「芝浜」を独自に練り上げ得意にした。以降「芝浜」は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも三代目桂三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」と呼ばれる。賭博にはまっただけに博打にまつわる噺をよくした。ある日仲間の噺家が6代目三遊亭圓生に「へっつい幽霊」の稽古をつけているとき、「あなた!それじゃあ盆の使い方が悪い」と言ってサイコロの振り方を演じた。それはあまりにも真に迫っているので、圓生は感心したが、そこまでやらなくてもいいのにと思ったという。小さんとは同姓で義兄弟の杯を交わしたほどの大親友であった。この縁で最晩年に生まれた長男の名前に小さんの本名と同じ盛夫と名付ける。盛夫は後年小さんに入門し、4代目桂三木助を襲名し孫(娘の子)の康浩は5代目桂三木助を襲名した。
「与太郎戦記」
飄々とした語り口で笑いを誘いながら、生死をかけた戦いの様子が語られます。 上海 - 香港は約1600km。さらっと語られていますが8ノット(約15Km/h)の船団ですので、ジグザグ運航をしなければ片道130時間くらいの航海。暁雲丸は最高速度7ノットで船団には追いつけず外れくじの船に乗り込んでしまうが、人間は何所で幸運に恵まれるか分かりません。『与太郎戦記』は、1969年にフランキー堺主演で映画化され、著作もベストセラーとなりました。
五代目 春風亭 柳昇
戦後に講釈師を志したが戦友に6代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で柳橋に入門した
戦争で手を怪我したため手の表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動した。年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け生涯現役の噺家であった
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落語の蔵: / @repli455
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