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教会に行くのをやめて家族で礼拝をしました。聖書を読んで感想を話し合いました。クラウドチャーチ流です。プラス 賛美と感謝と証。説教がなくても神様の愛で満たされました。教会が作り出すキリスト教は終わりにしましょう。
私の集っている教会では分かち合い礼拝というのがあって、御言葉をディスカッション形式で分かち合うことがあります。牧師は準備が大変だそうですけど、積極的に学べるのが楽しいです。
良い教会ですね!
今日のお話し、納得です。先日、有る教会の礼拝に誘われて行って来ました。レストランの一角をお借りしての、礼拝でした。牧師はそこにいるのですが話されず、皆で詩編を回して読んで自分が読んだ箇所から示された事をかちあい、そのあと、じぶんの右隣の人が、どんな事をわかちあったのかを、自分の考えをいれないで、説明する、、と言う流れでした。❤️中学生や小学生も、ビックリするくらい、素晴らしい、恵みを証ししていました。❤牧師は。にこにこして皆の証を聞くだけでした。いやぁ、恵まれましたね。背筋がピンとなりました❗️✝️
説教の起源を知れたこと、今の礼拝スタイルを超えた可能性が見えたこと感謝でした。今通っている教会は、基本説教スタイルですが、積極的に聖書を学ばれている方は多く、また、おそらく沢山の方が、説教を通して聖霊が働かれるように祈られているのでしょうか、月曜から土曜までに湧いた疑問や、気になった御言葉の答えが、日曜の説教を通して知ることができる、という、聖霊の働きとしか思えないことがよく起こります。形だけの礼拝ではなく、聖霊に満ちた礼拝を、と考えた時に、時には礼拝スタイルを変えることも必要だと思います。ただ、それは、主の願われる時に、だなあとも思いました。聖書に書かれていない「常識」から抜け出しながらも、その上で御心を大事にしていきたいです。
待ってました❗この本のお陰で、娘と教会について話す機会が出来ました。
100回おめでとうございます教会で牧師の話を聞くのが目的だと思ってましたが今回の動画でまさしく目から鱗でしたともみんさんの話で神様に目を向けるのが目的だとその通りですね話を聞くだけでなく拓馬さんが言うようにみんなで語り合いながら神沢に目を向けることが礼拝でだと感じましたありがとうございます
毎週水曜日、配信を楽しみにしています。ともみんさん、たくまさん、これからも、いろいろな事を提供して下さい。信仰の上で霊的にも知的にも成長していけます。御二人がますます神様の器として用いられますようにお祈りします。ハレルヤ インマニュエル アーメン!
母教会を出た後、牧師無しのエクレシア方式です。仰る通りめちゃくちゃ盛り上がり、時には論争になるけどかえって聖書理解は深まります。受け身でなくなるので、一人ひとりの個性、賜物、役割、ミッションが、自然と見えてきます。従来法式が、これらを邪魔してたと実感してます。そういう意味では、アウグスティヌスの悪影響を最近思わされます。一番重要なのは、一人ひとりが聖霊に聞き従う自立したクリスチャンであることかと。100回記念に相応しい素晴らしい内容でした~!ありがとうございます😊!
極めて一面的な歴史理解でもう びっくり。何で1つの本の解説に依拠してそんな結論が出るのか全くわからない。私は正統派ユダヤ教、保守的ユダヤ教、リベラルなユダヤ教の会堂であるシナゴーグの礼拝形式を 知ってますが、聖書の朗読の後に、やはり ラビが1人で 聖書の解釈をしています。ラビ的ユダヤ教 の原型が次第に成立してくるのは捕囚期以降ですが、ではこれも ソフィストの影響だと言うんですか?あと中世時代にカトリックのせいで説教がほとんど廃れてたなどということはないです。マイスターエックハルト、 ゾイゼ、タウラーなどの 説教者によって、深い 霊的な覚醒も民衆の間で行われていました。
聖書を読んでみんなで何を思ったか話すのとても楽しいですが、そういうのは聖書研究会でやってるので、「礼拝」っていう形にわざわざしなくてもいいんじゃないかと思いました。
どんなメッセージを語るにしても、大切なのは、神がそのメッセージを通して、会衆に働かれることですよ。そのためには、「祈り」が最も大切です。祈りなしに語って、どんなに雄弁な話しでも神の働きがなければ、無意味です。
非難はしやすいことです。キリスト教のことの少ない日本の中で人々に命と希望を伝える福音のコンテンツをつくってください。
いつもありがとうございます。勉強になります。今回のお話ですが、礼拝出席者の多い教会では、時間的に現行の賛美と説教の礼拝スタイルがいいと思います。分かち合いをしても一郎の人が話す時間しかないです。分かち合いは平日の祈り会や教会学校や家庭集会や、礼拝後に小グループでするといいと思います。
同感と納得だらけのお話でした。お二人の働きがますます主に用いられますようにお祈りしています。楽しく勉強させて頂き感謝しています。
第100回おめでとうございます!スライドの情報量は本当に同意しましたw
説教も聖書的では無かったんですね!心が楽になりました。ルター派の教会に行っていました。教会メンバー当教会は伝統的なプロテスタント教会だと誇っていました。私は古めかしい戦前の学校みたいで窮屈に感じたり、聖書的で無いと感じたり、苦しみもがいていました。・礼拝の奉仕にあたる者は正装。・礼拝前と礼拝中は静寂に!と言われていた。子供などが騒ぐとにらまれる。・礼拝中に演奏や歌で特別に讃美してくれた方に拍手など無くシラーっとしている。・スマホ聖書を注意され、本の聖書を買わされ、いつも重い荷物を持って参加。・硬くて座り心地の悪い木の長イスに、長時間座らされて説教を聞くのがツライ。・説教に「それは違うんじゃない?」とか「私はこう思う」など口をはさめない。・説教で毎回罪人される教会員。教会は刑務所?!・子供が教会の床に落書きしてしまった親を「神聖な教会を汚して!」と役員達が叱っていた。でも、真の教会とは「人」を指しており、「神聖な教会そのものである親子を躓かせた役員こそが『教会を汚した』こと」に気付いておらず、自分たちは正しいことをしたと後に主張していた。・若い世代の人々が教会を離れており、ほとんどシルバー世代。・貴重な休日に会社並みに教会に拘束されることが重荷。・信徒総会の議題に異を唱えると「都合のいい御言葉」で応酬される。これらを先輩に相談していることが、不従順とか分裂をまねくとか警戒され、この教会の延長に永遠の天国があるとは思えず、行くのをやめました。
キリスト教を止めて統一教会い行けばいいですよ。
Pagan christianity そろそろ2回目読もうと思ってた 情報が多すぎて1回だけじゃわからなかったから
礼拝はささげるものと学びましたので、聖書の学びや分かち合いメインだと、本来の礼拝とちょっとずれてしまうのではと思います。
説教を受け身で聞くことだけが「ささげるもの」になるのか、また、「礼拝はささげるもの」という教えの聖書の根拠はどこにあるのか、ご自身でお考えになってみると良いかもしれません!
@seisholab 返信ありがとうございます。そうですね、聖書の学びや分かち合いも礼拝になりますね。礼拝はささげるものというのは教えられたことですが、ノア、アブラハム、イサクは犠牲の動物をささげて礼拝しました。イスラエルの民も、レビ人が民に律法を教え、犠牲の動物をささげて礼拝しました。旧約時代の人々が礼拝した神さまと私たちクリスチャンが礼拝している神さまは、同じお一人の神さまです。イエスさまが御自身をささげてくださったので、私たちは犠牲の動物をささげる必要は無くなりましたが、礼拝はささげるものという教えを私は違和感無く受け入れました。バプテスマを受けて数年の霊的に幼い者ですが、私も自分の心をささげ神さまに心を向けて礼拝しています。牧師の説教は確かに聞いても忘れてしまいますが、礼拝しているときが一番心が満たされています。集中して説教を聞いていると、神さまに思いを向けられる感じがします。
ありがとうございます!
今まで教会に行く目的である説教メッセージの部分をゴソッと変えたというのは斬新ですね。まさに、みんなで自由に語り合い個人の考えも尊重し質問もその場で出来る、有意義な場所ですね。なにしろ、上からじゃないというのがとてもいいですね。私の教会ではレジュメを渡され、説教はそれそのまま読まれます。正直飽きますが😅、ほかに自分でも時々他のサイトを見て聖書の学び?をしています。それが自分の為にはなってると思います。誰かとoutputをし合うことは今のところ無いですが😢あ、でも、今の教会は好きです😊
そうですね、神様を礼拝する場であることを忘れず、説教「だけ」に注目しすぎず、賛美、祈り、ちょっとの挨拶だけでもいいので交わり、そういうのを通しても神様が働かれていることを受け取っていきたいです。説教の起源の話で、色々発展して、本音も聞けて、また新しい視点で考えさせられる動画をありがとうございます。
確かに確かに説教の意味って何かと思います。でも私の通う教会って一定の期間で一つの書を毎週少しず「説明」していくんですよ。そうすると、一学期で教科書の上巻が終わるように、一定の箇所を読み終わったことになるんですね。まさに日曜学校だわ。これもありです。
悪魔側は、信徒一人一人が熱心に聖書を読む事や主との深い交わりを持つ事を嫌うので、さらっと忘れる礼拝が主流になるんでしょうね。
ともみんのスタイル。無茶苦茶大変よ。誰もができるわけでない。練習と本番の賜物よ❤
まったりラボ…回を重ねて聞けば聞くほど、私のキリスト教会が崩れて行く、今回は説教たで… うちの若い牧師成り立てが聞いたら壊れてしまうかも(笑)私も壊れそう…参ったな~
教会のための礼拝を終わりにしましょう。
プロテスタントである石破総理の説教は聞いてみたいですね。
あの方はLGBTに賛成していますよ〜。家柄がプロテスタントの家系です。
普通に、用意された説教を「聞く」だけで!、分かち合いがないから、説教が知識だけで終わり?になる。そしてそれがアタリマエになってしまう。教会は形式的だけで死んでしまった? また説教をエンターテイメントにしたら、ご法度?なのか?原稿ないとバラバラになるタイプの説教者もいる。
私はカトリックですが、いつも楽しく聞いています。説教はもとは、聖書を読んで感動した人が感動した事を伝え合うばだったそうです。カルメル修道会の故奥村一郎師は聖書深読会として、開発されました。参加者が聖書箇所を書き写すところからはじまり、一節づつ気になるを話し合います。ラテン系シスター達は、これならいくらでも喋れますと言うので、奥村師はあなた達を喋らせないための方法ですと言ったそうです。全員が話したら師がまとめて、感謝の典礼でパンと葡萄酒をいただきます。今回の話題は原点回帰したように思いました。
はじめまして。 現代の説教の方式が当時の方式と全然違うというのは初耳でした。 言われてみたらイエスの説教はいわゆる旅先の話で教会で話すとしても、旅のスケジュールに応じて転々と変えてるし、一貫性があるというよりは、旅先のアクシデントを教材に使って説教が突然始まってますよね。 それでイエスを気に入った人々が着いてきてたんですよね。 それを現代によみがえらすってのは難しいように思いますけどね。というか疑似体験でもいいから、現代にってなったら、牧師さんは日曜日に地元の教会に来れませんね。 例えば、牧師さんは現在、誰々牧師と和歌山で釣りをしてるので、ライブ配信を教会のスクリーンでお送りします。 彼らと何かお話ししたい人は壇上に上がって、マイクセットを着用して下さいみたいな感じでしょうか。それで、次の日曜日来てみたら、今日は誰々牧師さんと誰々牧師さんの3人で、能登で泥をシャベルで運ぶお手伝い中です。 教会のスクリーンでライブ配信をお送りしますので、牧師さんたちとお話したい人は壇上に上がって下さい。って繰り返す方法なら実現出来るかも知れないですね。あの牧師は地元の教会をほっぽりだして、毎週毎週、何やってるのって怒られると思うけど。
無教会主義を思い出しました。
15:00ギリシア・ローマ文化
目からウロコです👀
説教を聖書朗読だけにして人間の言葉を語らない。のはどうでしょうか?滝野川教会宗像
独りで聖書を読んでいれば良いと思います
@inthemorning153 様聖書が神の言葉ならそれをただ読み聞かせれば神の言葉になります。一人で読めば良いのは正しいです。毎日聖書を読んでいます。
集まって聖書について語り合ったり、励まし合ったり、祈り合うのも大事ですけど
教会に行くのをやめて家族で礼拝をしました。
聖書を読んで感想を話し合いました。
クラウドチャーチ流です。
プラス 賛美と感謝と証。
説教がなくても神様の愛で満たされました。
教会が作り出すキリスト教は終わりにしましょう。
私の集っている教会では分かち合い礼拝というのがあって、御言葉をディスカッション形式で分かち合うことがあります。牧師は準備が大変だそうですけど、積極的に学べるのが楽しいです。
良い教会ですね!
今日のお話し、納得です。
先日、有る教会の礼拝に誘われて行って来ました。
レストランの一角をお借りしての、礼拝でした。
牧師はそこにいるのですが
話されず、皆で詩編を回して読んで
自分が読んだ箇所から示された事をかちあい、
そのあと、じぶんの右隣の人が、どんな事をわかちあったのかを、自分の考えをいれないで、説明する、、と言う流れでした。❤️
中学生や小学生も、ビックリするくらい、素晴らしい、恵みを証ししていました。❤
牧師は。にこにこして皆の証を聞くだけでした。
いやぁ、恵まれましたね。
背筋がピンとなりました❗️✝️
説教の起源を知れたこと、今の礼拝スタイルを超えた可能性が見えたこと感謝でした。今通っている教会は、基本説教スタイルですが、積極的に聖書を学ばれている方は多く、また、おそらく沢山の方が、説教を通して聖霊が働かれるように祈られているのでしょうか、月曜から土曜までに湧いた疑問や、気になった御言葉の答えが、日曜の説教を通して知ることができる、という、聖霊の働きとしか思えないことがよく起こります。形だけの礼拝ではなく、聖霊に満ちた礼拝を、と考えた時に、時には礼拝スタイルを変えることも必要だと思います。ただ、それは、主の願われる時に、だなあとも思いました。聖書に書かれていない「常識」から抜け出しながらも、その上で御心を大事にしていきたいです。
待ってました❗この本のお陰で、娘と教会について話す機会が出来ました。
100回おめでとうございます
教会で牧師の話を聞くのが目的だと思ってましたが今回の動画でまさしく目から鱗でした
ともみんさんの話で神様に目を向けるのが目的だとその通りですね
話を聞くだけでなく拓馬さんが言うようにみんなで語り合いながら神沢に目を向けることが礼拝でだと感じました
ありがとうございます
毎週水曜日、配信を楽しみにしています。ともみんさん、たくまさん、これからも、いろいろな事を提供して下さい。信仰の上で霊的にも知的にも成長していけます。御二人がますます神様の器として用いられますようにお祈りします。ハレルヤ インマニュエル アーメン!
母教会を出た後、牧師無しのエクレシア方式です。仰る通りめちゃくちゃ盛り上がり、時には論争になるけどかえって聖書理解は深まります。受け身でなくなるので、一人ひとりの個性、賜物、役割、ミッションが、自然と見えてきます。従来法式が、これらを邪魔してたと実感してます。そういう意味では、アウグスティヌスの悪影響を最近思わされます。一番重要なのは、一人ひとりが聖霊に聞き従う自立したクリスチャンであることかと。100回記念に相応しい素晴らしい内容でした~!ありがとうございます😊!
極めて一面的な歴史理解でもう びっくり。何で1つの本の解説に依拠してそんな結論が出るのか全くわからない。私は正統派ユダヤ教、保守的ユダヤ教、リベラルなユダヤ教の会堂であるシナゴーグの礼拝形式を 知ってますが、聖書の朗読の後に、やはり ラビが1人で 聖書の解釈をしています。ラビ的ユダヤ教 の原型が次第に成立してくるのは捕囚期以降ですが、ではこれも ソフィストの影響だと言うんですか?
あと中世時代にカトリックのせいで説教がほとんど廃れてたなどということはないです。マイスターエックハルト、 ゾイゼ、タウラーなどの 説教者によって、深い 霊的な覚醒も民衆の間で行われていました。
聖書を読んでみんなで何を思ったか話すのとても楽しいですが、そういうのは聖書研究会でやってるので、「礼拝」っていう形にわざわざしなくてもいいんじゃないかと思いました。
どんなメッセージを語るにしても、大切なのは、神がそのメッセージを通して、会衆に働かれることですよ。そのためには、「祈り」が最も大切です。祈りなしに語って、どんなに雄弁な話しでも神の働きがなければ、無意味です。
非難はしやすいことです。キリスト教のことの少ない日本の中で人々に命と希望を伝える福音のコンテンツをつくってください。
いつもありがとうございます。勉強になります。
今回のお話ですが、礼拝出席者の多い教会では、時間的に現行の賛美と説教の礼拝スタイルがいいと思います。分かち合いをしても一郎の人が話す時間しかないです。
分かち合いは平日の祈り会や教会学校や家庭集会や、礼拝後に小グループでするといいと思います。
同感と納得だらけのお話でした。お二人の働きがますます主に用いられますようにお祈りしています。
楽しく勉強させて頂き感謝しています。
第100回おめでとうございます!
スライドの情報量は本当に同意しましたw
説教も聖書的では無かったんですね!
心が楽になりました。
ルター派の教会に行っていました。
教会メンバー当教会は伝統的なプロテスタント教会だと誇っていました。
私は古めかしい戦前の学校みたいで窮屈に感じたり、聖書的で無いと感じたり、苦しみもがいていました。
・礼拝の奉仕にあたる者は正装。
・礼拝前と礼拝中は静寂に!と言われていた。子供などが騒ぐとにらまれる。
・礼拝中に演奏や歌で特別に讃美してくれた方に拍手など無くシラーっとしている。
・スマホ聖書を注意され、本の聖書を買わされ、いつも重い荷物を持って参加。
・硬くて座り心地の悪い木の長イスに、長時間座らされて説教を聞くのがツライ。
・説教に「それは違うんじゃない?」とか「私はこう思う」など口をはさめない。
・説教で毎回罪人される教会員。教会は刑務所?!
・子供が教会の床に落書きしてしまった親を「神聖な教会を汚して!」と役員達が叱っていた。でも、真の教会とは「人」を指しており、「神聖な教会そのものである親子を躓かせた役員こそが『教会を汚した』こと」に気付いておらず、自分たちは正しいことをしたと後に主張していた。
・若い世代の人々が教会を離れており、ほとんどシルバー世代。
・貴重な休日に会社並みに教会に拘束されることが重荷。
・信徒総会の議題に異を唱えると「都合のいい御言葉」で応酬される。
これらを先輩に相談していることが、不従順とか分裂をまねくとか警戒され、
この教会の延長に永遠の天国があるとは思えず、行くのをやめました。
キリスト教を止めて統一教会い行けばいいですよ。
Pagan christianity そろそろ2回目読もうと思ってた 情報が多すぎて1回だけじゃわからなかったから
礼拝はささげるものと学びましたので、聖書の学びや分かち合いメインだと、本来の礼拝とちょっとずれてしまうのではと思います。
説教を受け身で聞くことだけが「ささげるもの」になるのか、また、「礼拝はささげるもの」という教えの聖書の根拠はどこにあるのか、ご自身でお考えになってみると良いかもしれません!
@seisholab 返信ありがとうございます。そうですね、聖書の学びや分かち合いも礼拝になりますね。
礼拝はささげるものというのは教えられたことですが、ノア、アブラハム、イサクは犠牲の動物をささげて礼拝しました。イスラエルの民も、レビ人が民に律法を教え、犠牲の動物をささげて礼拝しました。旧約時代の人々が礼拝した神さまと私たちクリスチャンが礼拝している神さまは、同じお一人の神さまです。イエスさまが御自身をささげてくださったので、私たちは犠牲の動物をささげる必要は無くなりましたが、礼拝はささげるものという教えを私は違和感無く受け入れました。
バプテスマを受けて数年の霊的に幼い者ですが、私も自分の心をささげ神さまに心を向けて礼拝しています。牧師の説教は確かに聞いても忘れてしまいますが、礼拝しているときが一番心が満たされています。集中して説教を聞いていると、神さまに思いを向けられる感じがします。
ありがとうございます!
今まで教会に行く目的である説教メッセージの部分をゴソッと変えたというのは斬新ですね。
まさに、みんなで自由に語り合い個人の考えも尊重し質問もその場で出来る、有意義な場所ですね。
なにしろ、上からじゃないというのがとてもいいですね。
私の教会ではレジュメを渡され、説教はそれそのまま読まれます。正直飽きますが😅、ほかに自分でも時々他のサイトを見て聖書の学び?をしています。
それが自分の為にはなってると思います。
誰かとoutputをし合うことは今のところ無いですが😢
あ、でも、今の教会は好きです😊
そうですね、神様を礼拝する場であることを忘れず、説教「だけ」に注目しすぎず、賛美、祈り、ちょっとの挨拶だけでもいいので交わり、そういうのを通しても神様が働かれていることを受け取っていきたいです。
説教の起源の話で、色々発展して、本音も聞けて、また新しい視点で考えさせられる動画をありがとうございます。
確かに確かに説教の意味って何かと思います。でも私の通う教会って一定の期間で一つの書を毎週少しず「説明」していくんですよ。そうすると、一学期で教科書の上巻が終わるように、一定の箇所を読み終わったことになるんですね。まさに日曜学校だわ。これもありです。
悪魔側は、信徒一人一人が熱心に聖書を読む事や主との深い交わりを持つ事を嫌うので、さらっと忘れる礼拝が主流になるんでしょうね。
ともみんのスタイル。無茶苦茶大変よ。誰もができるわけでない。練習と本番の賜物よ❤
まったりラボ…回を重ねて聞けば聞くほど、私のキリスト教会が崩れて行く、今回は説教たで…
うちの若い牧師成り立てが聞いたら壊れてしまうかも(笑)私も壊れそう…参ったな~
教会のための礼拝を終わりにしましょう。
プロテスタントである石破総理の説教は聞いてみたいですね。
あの方はLGBTに賛成していますよ〜。
家柄がプロテスタントの家系です。
普通に、用意された説教を「聞く」だけで!、分かち合いがないから、説教が知識だけで終わり?になる。そしてそれがアタリマエになってしまう。
教会は形式的だけで死んでしまった? また説教をエンターテイメントにしたら、ご法度?なのか?原稿ないとバラバラになるタイプの説教者もいる。
私はカトリックですが、いつも楽しく聞いています。説教はもとは、聖書を読んで感動した人が感動した事を伝え合うばだったそうです。カルメル修道会の故奥村一郎師は聖書深読会として、開発されました。参加者が聖書箇所を書き写すところからはじまり、一節づつ気になるを話し合います。ラテン系シスター達は、これならいくらでも喋れますと言うので、奥村師はあなた達を喋らせないための方法ですと言ったそうです。全員が話したら師がまとめて、感謝の典礼でパンと葡萄酒をいただきます。今回の話題は原点回帰したように思いました。
はじめまして。 現代の説教の方式が当時の方式と全然違うというのは初耳でした。 言われてみたらイエスの説教はいわゆる旅先の話で教会で話すとしても、旅のスケジュールに応じて転々と変えてるし、一貫性があるというよりは、旅先のアクシデントを教材に使って説教が突然始まってますよね。 それでイエスを気に入った人々が着いてきてたんですよね。 それを現代によみがえらすってのは難しいように思いますけどね。
というか疑似体験でもいいから、現代にってなったら、牧師さんは日曜日に地元の教会に来れませんね。
例えば、牧師さんは現在、誰々牧師と和歌山で釣りをしてるので、ライブ配信を教会のスクリーンでお送りします。 彼らと何かお話ししたい人は壇上に上がって、マイクセットを着用して下さいみたいな感じでしょうか。
それで、次の日曜日来てみたら、今日は誰々牧師さんと誰々牧師さんの3人で、能登で泥をシャベルで運ぶお手伝い中です。 教会のスクリーンでライブ配信をお送りしますので、牧師さんたちとお話したい人は壇上に上がって下さい。
って繰り返す方法なら実現出来るかも知れないですね。あの牧師は地元の教会をほっぽりだして、毎週毎週、何やってるのって怒られると思うけど。
無教会主義を思い出しました。
15:00
ギリシア・ローマ文化
目からウロコです👀
説教を聖書朗読だけにして人間の言葉を語らない。のはどうでしょうか?
滝野川教会宗像
独りで聖書を読んでいれば良いと思います
@inthemorning153 様
聖書が神の言葉ならそれをただ読み聞かせれば神の言葉になります。一人で読めば良いのは正しいです。毎日聖書を読んでいます。
集まって聖書について語り合ったり、励まし合ったり、祈り合うのも大事ですけど