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4:00にミスあり誤・1945年12月末設計改変完了、同年二月には初飛行を完了↓正・1944年12月末設計改変完了、45年二月には初飛行完了
了解シタ
終わってたよねーと思った( ・_・)了解 ニイタカヤマノボレ \(T∇T)/
五式戦は昔「こち亀」に出て来てたなぁ。かつて旧陸軍の整備士、今は旧車のレストア工房を営む爺さん(中川が両さんと一緒に工房を訪れる所から話がスタートする)が自分の整備ミスで墜落してしまった五式戦を密かに入手して、「何とかもう一度こいつを空に返したい」と一人奮闘する…という話だったような。
よく見りゃほとんどWIKI情報・・というよくあるお手軽ミリタリー動画ではなく、末尾にしっかり参考文献まで上げて、製作者自身の推測も含め多角的に考察されている素晴らしい動画です。時間がない時でもついつい最後まで見入ってしまう。
そこそこの性能でも、ほぼ確実にちゃんと動いてくれるというだけで現場の搭乗員達にとっては凄く頼もしい機体だったのだろうなぁ
>そこそこの性能でも、ほぼ確実にちゃんと動いてくれるそれは一式戦・零戦・二式戦でも実現できてる訳で、四式戦ですら稼働率の高い部隊が有りました。しかしそれらの機体では「絶対不敗」とは言われず、乗り比べた上で四式3機より五式1機の方が有用と言われました。信頼性が好評の主因ではないと思います。
@@isi01kt 4式戦はまともに動いた部隊がごく一部だったし…4式からの乗り換えで好評だったのは整備がしっかりできてた部隊?
エンジンが軽くなり尾部の鉛ウエイトが無くなったので軽くて上昇率が向上して旋回性も良好になった。 加えて飛燕譲りの急降下性能が有り空中戦に必要な性能、小回りが効いて突っ込みが効き素早い上昇と機動性が向上した。 四式の方が速くても意識的に操縦桿が重たく設計されて居て旋回性は悪くなって居た。 高馬力なので機体に無理がかからない様にと言う配慮だった。
@@ふみふみ-x5k さんwikiの記述ですが>明野教導飛行師団の檮原秀見中佐が五式戦闘機を操縦し、模擬空戦において2,000馬力級の四式戦闘機3機を相手に有利に戦い、その上航空本部に五式戦闘機1機は四式戦闘機3機以上の価値があるから全力生産を行えとの進言を行ったとする説がある。>明野陸軍飛行学校は、日本陸軍の軍学校のひとつ。主として戦闘機の空中射撃、空中戦闘に関する教育と研究等を行った。>常陸教導飛行隊でも四式戦闘機と五式戦闘機を比較し、特に上昇力、旋回性能など、文句なく五式戦闘機が上と結論している。空中戦の教育・研究を行っていた部隊・パイロットが、整備不良の4式戦しか無かったとか、整備状態の違いも考慮せずに機体性能を評価することは有り得ないでしょう。そしてプロの戦闘機パイロット、それも教官を務める技量の者が、物理性能が劣っているのに優れていると評価するのも考えづらい事です。○既知の「最大速度・馬力・重量・上昇時間」では戦闘力の説明が付かない○しかし実際に操縦した評価(高練度パイロット・高整備の機体と推定される)は高いという矛盾が有る場合、「全て信頼性が高かったことによるプラセボ」と感情論で片付けるより、「単純数値で表せない部分で戦闘能力が高かった」と考える方が合理的と思います。実例としてラファールがあります。専門機関によるシミュレーションでタイフーンより「4.5倍」弱いとされていたが、実際のDACTでは格闘戦で10勝0敗、BVR戦で4勝0敗で完勝。「強さ」の理由は「センサーフュージョンによる状況認識力」「PESAレーダーの走査速度」「FBWの操縦性」という数値化困難で、航空マニアが「戦闘力」を考えるときに重要性が想像つかない要因でした。数値に表せない、あるいは操縦経験の無い素人には重要性が分らない部分に、矛盾の答えがありそうに思います。走り屋をやっていたときにカタログスペック値ではクルマの速さを説明づけられなかった経験からですが。
一生懸命設計し鳴り物入りで誕生させた製品がダメで、急ごしらえで取ってつけたような製品が予想外ヒットするということは工業の世界では時々あります。
カローラとスーパーカーの図式だな
ナチスドイツのデフォルトじゃん。余裕がない時は応用力やコストに優れた兵器を作るけど一度余裕が訪れたらマウスみたいなものを作り出す
お、M16かな?
モーニング娘は鳴り物入りで企画されたオーディションの落選者の寄せ集めだった。エグザイルはケミストリーの落選者を再利用されてつくられた。℃-uteもBerryz工房の落選者、つばきファクトリーもこぶしファクトリーの落選者の寄せ集め。当初のAKB48は柏木由紀や峯岸みなみなどメンバーの大半がモーニング娘オーデの落選者で構成されていた
情熱の空回りと、冷静な妥協の好例。
「義足のエース」檜與平氏も、五式戦でP51を落としてますね。四式戦よりも操縦しやすかったと述べられてます。
隼に近かったんでしょうね。隼が12.7mm、2丁なんで、15mmか、わすれたけど、4丁になったから、火力が違うのと、多少高速になったんで、実質的は隼4型として、隼パイロットにうけが良かったんでしょうね。鍾馗を乗りこなしたパイロットは後継機の疾風を使えたんだと思いますね。疾風も隼みたいなところがあると聞きますし。ただ、やはり高速なんで小回りは、5式に及ばないんでしょうけど。
僕の先生、土居技士のお弟子さんです。88才ですがむちゃくちゃお元気。飛鳥やB767等を設計されました。修行中に土居技士が後ろから歩いてくる足音がしたら、ウラ紙を用意して赤鉛筆が来たらさっと図面の上にウラ紙を置いて図面に直接赤鉛筆を入れられないようにしていたそうです。赤鉛筆で書かれたら全部一から書き直しですからねえ。
土井先生の孫弟子にあたられるわけですね😂過去から現在に繋がる技術の継承を尊く思います。自分も現代の製造業の端くれですので、感謝と日本の誇りの感情を持ってます!
解説内容がかなり理性的踏み込んでてよかった。
ありものあわせが時として正解 とはバンガードを作ったイギリスだけに趣深い。
ただし飛燕二型に固執した理由はもう一つあり、日本陸軍で唯一飛燕二型だけがBー29の飛来高度10000メートルにマトモに上昇できてそこそこ戦える高高度戦闘機だったからです。
結局は液冷発動機も排気タービンも出来なかったんですよねえ日本は。冶金技術と発動機設計はまんま国力のバロメーターでしたし😅
@@tokyoneotokyo排気タービンは量産できなかっただけで一応作ってはいましたよ?まともに動くとは言ってませんがね(まだサ号装置の方が良かったんじゃ...)
一回攻撃したらかなり高度が落ちて追撃出来なかったとか
つーか、当時は今と違ってどの国でも熱に弱いマグネシウム合金を焼き入れる方法でタービンブレードを作るしか無かったんだけど、日本でもドイツでも大量生産が出来ず、何度か飛ばしている内にブレードが破断して使えなくなってしまった。それを使い捨て同然に大量生産して出撃の度に交換できたのが唯一アメリカ。
子供の頃雑誌でイギリスに保存されてる機体の写真を見て,そのバランスの良い姿形に一目で好きになり,きっと飛びっぷりも良かったんだろうなと想像してました.後年走り屋やってる頃,車の速さはカタログスペックでは量れないことを実感しました.180馬力のFFのインテグラで,スペックではずっと上の310馬力の4駆ターボの32GT-Rを峠でもミニサーキットでもちぎったことがありました(同じタイヤ履いて,タイムは57秒 vs 60秒).別の時はパワーが上のランエボ(多分1か2)を「上り」のS字区間でコーナー3〜4個でバックミラーから消したり.馬力はもちろん,パワーウェイトレシオでも速さは決まらない.車を見てもらってたショップの代表さんの「クルマはバランスで速くなる」という言葉が耳に残ってます.戦闘機を操縦した経験のない我々が,カタログスペック(それも測定条件が明確でない)を見て戦闘機の強さを云々するのは,免許を持ってない人間がスペックだけで車の速さや運動性を想像するようなものだろうな,と思ってます.
同感ですというか、確かにそうだよな、と思わされました
20mm機銃を持つ制空戦闘機なんてのじゃなく、15mmとかにすべきで。隼は武装の貧弱さが幸いしてバランスが良かったので長持ちしたとの説が有力で。五式や隼はそれにあたるんだと思いますね。
映像の五式戦はじめて視ましたパイロットの技量もありますが、それに応えてくれる操作性を有しているのが見て取れます
主翼の位置調整が出来た以外にも、飛燕は縦長エンジンによる重量バランスを保つ為に後ろに重りを積んでいたが5式の星型空冷になった事でその重りが不要になったんだよ
いわゆる液冷エンジンに固執して生じた病巣が排除され健康体になったですね。
錘とラジエータがなくなって運動性が上がった。カウルの空力処理が完璧ならもっと速かったはず
バランスタブの撤去による軽量化も良い方向に働きましたね。
例の「絶対不敗」の意味を拡大解釈し5式戦をマンセーする動画が多い中、淡々と実情を解説して行くこの動画には好感が持てる。ちなみに「絶対不敗」の意味は言葉の通り負けることがないと言うことであるが「勝てる」と言ってないところがミソである、要するにそういうことである。
陸軍は腕がたつパイロットが残っていて、彼らが乗れば、事実上の隼4型として、乗りこなせたんだろうね。
日本の組織のトップの現場の人材軽視は筋金入りですね。
@@快舟 今も変わってないのが凄まじいwww
@@快舟経験談だがぼくの働いていた会社で結構でかい減産がはいって、それまで縁の下の力持ち的なポジションで働いていた人らが一斉に切られた。その後安く使えるペーペーをひとつまみくらい雇用したら現場が回らなくなったってのを同僚から聞いた。日本だけではないと思いたいが現状を希望的観測でひっくり返そうとする上層部の頭の弱さには言葉が出なかった。
想像の域ですが、イタリアなら減産の時点で商売たたむ、ドイツは正攻法でなんとかする、アメリカなら事前にそういうシナリオを練っておく、日本は適当に人を集めて結果自爆する。一部できる人が驚異的な能力で何とかするが最終的には自爆。かなw
五式戦闘機のスゴさは液冷エンジン機の細い胴体に上手く空冷エンジンを載せたことだろう。高性能だったがエンジンは三菱製で地震と空襲で壊滅的打撃を受けたのでどっちにしろ大量生産は無理だったと思いますね。
ジェットエンジンと言いロケットエンジンと言い日露の時にも重砲輸入したりマジでドイツ様々だな…
震電とかも、中身を見ると、Me262みたいな機銃配置だし、かたつむりのスーパーチャージャーとかまさにドイツ機。原型はイタリア機かもしれないけど、枢軸同盟で無かったら生まれていなかった機体かもね。
ロケット機の秋水もですね。
RAFミュージアムの過不足のない評価が、色々物語っていますね。話は変わりますが、ありものを利用した最適解ってところで、マツダのSKY ACTIVEを想起しました。
生産数ゴミ以下。性能でも、連合国に勝てなくなった。
@@hosoyalaurence 1945年の空襲祭りズタボロ日本でまぁまぁな性能の400機弱の航空戦力を短期間で確保でき、なお戦果が挙がってるんですからせっかく作った200機以上の機体を放置して終わるよりはよっぽどいいと思いますよ
@@hosoyalaurence ゴミってなんだよ。失礼にも程があるだろ
@@hosoyalaurence P51だって火力ゴミやし、どんなものにでも欠点があると思った方が良いよ
@@サピエンスホモ-j5l ブローニング6門ってP47ほどでは無いけど結構高火力では?
あそこの部署は頑張っているし金も掛かっているからいまさら切り捨てられない、という人情論に負ける話は僕の職場でも見てきたので涙が出ます。社員の士気にも関わる問題なので、どうすればいいのか現代でも簡単には解決できないですね。
そればっかりは海外でも頭を悩ましている問題です。
そういうときは数値評価を見せて撤退するのだそうです。byソフトバンクの孫かたる
うーむ、部下にはきついが本人はそうじゃないなbyソフトバンクの孫
技術的に見るところなし…ある意味最良の褒め言葉なのかも…もっと早くに出ていれば…など、たらればの話の傑作機な気がするなー
金星が1500馬力になるのは、末期だから。まぁ工作があれだから。92オクタンだし。
物資が枯渇する中で産み出されたのが五式戦。これが限界とはいえ、物がない人がいない。日本軍の苦悩が見えますね。
試作機レベルでは700キロ代の戦闘機は造れた技術はあったらしいです。ただ、時間と資源と工作技術やガソリンがあるかは微妙ですけど、温存しているのを見ても、零でなかったのも確かで。
@@室井修-k1r 研究機のでも700キロ弱なんですがそれは期待値と実測値を一緒にしちゃだめですよ
@@ふみふみ-x5k 結局、700キロ超える機体はなかったということか。疾風が、米軍の燃料やプラグで680キロ出したのが最速ってことかな。日本軍でも、状態の良いのは640キロくらい出ていたらしいし。
@@室井修-k1r 軍用機なら疾風のそれが最速だと思う。それも米軍テストだから日本の実質的な限界は620キロそこら、もしハイオク燃料がドバドバ使えてもまともなエンジン作れる力もないしね
フォッケウルフも水冷積むつもりで細い機体を作ったが、エンジンが足りず空冷をつけたところエライいいのができた。五式もこれと同じ。フォッケの機体が陸軍にあったのも幸いした。
フォッケは最初から空冷のBMW 139を使う前提で設計されたというのが今では主流の説ですよ。
フォッケは、その後、発展型で液冷にしたんじゃなかったかな。一見、空冷に見えるけど。
Bf109と同じ液冷だとエンジン供給の問題もあったから空冷エンジンを選択したのもありました。
愛知航空とは愛知時計航空の事で元来は時計製造メーカーだったが中島飛行機誕生に前後し兵器メーカーとしての歩みを始める 時はロンドン軍縮時代、海軍は航空派が台頭するも半ば軍を追われた士官たちは航空兵器開発を夢見て民間企業を説得し軍需メーカーへと転身させた。中でも欧州派遣経験者は在欧メーカーと兵器ライセンス契約を獲得し技師派遣を請い国内メーカーの発展に寄与した。愛知時計にドイツ人技師のハインケルが訪れた事は知られていないが大きく貢献している 具体的にはプロペラ設計、機体の抵抗、の簡易な測定技術を残している 愛知時計社史にのみ簡易に記されている。現在の愛知時計は対中貿易額が大きく自社の戦史に消極的態度を取ってむしろ分社化された輸送機社が当時に興味を持っていると思われる。 このページを愛する諸君にだけ教えよう ハインケルは身長190センチにもなる肥満の巨人で当時より頭頂は薄く芸者遊びに執心 ドイツ語を話す芸者を依頼した、またドイツ公文書館にも身体的特徴や日本滞在の記録は無い
こう言う方がいらっしゃるからユーチューブのコメント欄は見逃せないんですよ、いやすばらしい、貴重な情報ありがたくあります。
「ドイツ語を話す芸者」に衝撃ww
逆に考えればイギリスやドイツ並みの信頼性の高い液冷エンジンが作れたら飛燕はずば抜けた高性能機になってた可能性あるんやなムスタングもイギリス軍がスピットファイアのエンジンに換装してからその性能の真価を発揮したっていうし
ロールスの優れたのは2速2段過給器。GEも造れなかった。ライセンスでは米国造ってますが。
当時、四式戦と五式戦に乗ったことがあるパイロットに話を聞くと「五式戦は乗りづらく、それに比べて四式戦はすごく操作しやすい飛行機だった」と言ってました。
なんかFW190ぽいですよね疾風
確かラダーペダルが四式より細く脚を入れづらかったので義足の先を落として鉄の脚を晒した。若い女学生の前で鉄の脚を晒すのはためらわれたが、黒江少佐がお前でないと敵に勝て無い。海軍の坂井(三郎)は片目失明しても戦っているんだ。お前ならできる。と言われて足先を捨てた。と檜與平氏が回顧してましたね。
@@快舟フィレット周りの設計にフォッケウルフのデザインを参考にしたらしいですよ。
キ100(五式戦)が搭乗員の評価が高い理由としては、一式戦隼の後継として受け入れられたのではと思う。四式戦は二式戦程ではないにせよ高速重戦闘機。元々、中戦闘機を狙った三式戦の空冷エンジン化のキ100は速度は落ちたが、上昇力、旋回性能を発揮し、搭乗員は隼の正常進化と認めたのではないか。
四式戦は二式単戦に隼の要素ぶち込んだ機体って設計者ご本人が言ってますしね
子供の時、ついに買わずに終わったプラモがコイツだった。 排気管の処理が当時輸入されたFw190を参考にしたモノってのはつい最近知った事です。
うぽつです。陸軍機の解説って少ないからありがたい。そして興味深い内容で楽しませてもらいました。
イギリスの博物館の解説にある言葉は当時の日本の技術事情を表しているような気がする。堀越次郎などの設計家などがどれだけ頑張っても相手はその上をいこうとしてくる、零戦の初陣の圧倒的な戦果に気を取られ弱点に気付いたときには既に遅かった。本当に悔しいのは技術者たちだったと思います
開発自体は始めようとしてたけど、発注者の海軍がいらないって暴力まで使って訴えてくるんだから仕方なかったところもあったね。
@@Seaza_Sr1 海軍はちゃんと次世代艦上戦闘機の開発には意欲的でしたよそれでも十七試まで期間があいてしまったのは十七試艦上戦闘機、所謂試製烈風に見合うエンジンが完成してなかったからです(誉では馬力不足だった)
@@そらきち-u4t もっと早くに開発出来たのに、海軍の馬鹿が2000馬力級の発動機なんかイランって技術者を殴ってまで反対して足を引っ張ったから出来なかった、と当事者が証言してたのを昔のテレビやら本やらで見た記憶があるが嘘だったのかな?
@@Seaza_Sr1 十七試艦上戦闘機の試作指示は1942年4月でしたが、実はそれより1年ほど前に十六試艦上戦闘機の内示が出てたんですよねその当時は三菱の設計班が量産体制に入ったばかりの零戦二一型の不良改善と三二型など零戦の改良、雷電の開発に追われてる状態で手がつけられる状態ではなく、また誉やハ43などの高出力エンジンの実用化ができてなかったため結局十七試艦上戦闘機まで間を空けることにしたそうです
@@そらきち-u4t 俺が見たり読んだりした話と違うな、俺が見たり読んだりしたのは上に書いた通りだったんだが。海軍やその関係者が戦後になって言い訳(嘘と捏造)しだしただけなんじゃ無いの?海軍はこればっかりだから。
9:30 別に人情だけじゃなくてハ40エンジンの生産ラインを遊ばせないためって理由もあるぞ
唯一の現存機と言われているコスフォードの5式戦今でもエンジン始動できるのだろうか?(雑誌丸の表紙写真の時点で1986年だが記事によると部品の不足で再始動不可となっている)飛べないまでもエンジンが稼働するだけでも素晴らしいが。今後も大切に保存してほしいものです。
生産数もゴミ。性能もゴミ。日本機の中で最大の駄作。
@@hosoyalaurence 正式採用が昭和二十年なんだから生産機数が少ないのは当然の事なんじゃないのかね
@@user-rd3rx5lt6r 原型機・エンジンは、全然、新技術じゃあない。主力は空軍・諜報の時代に移っていたのだから、その程度は計画できた筈。
@@user-rd3rx5lt6r 2式戦闘機・4式戦闘機と違い、独自性が低い。だが、独自改良も甘いのでは、新機種として全く意義がない。
@@hosoyalaurence それと生産機数の話ははあまり関係無いんじゃないか?
飛燕の設計者が月刊誌「丸」に、45年くらい前に飛燕の設計と製造に関して、投稿していました。設計者が言うのには、日本は生産技術が無くて、設計が良くとも、製造段階で良いものが作れなかった。簡単に言うと、当時は、ボルト1本の品質が当てにならなかったそうです。
hirobon1023 さんお疲れ様です。その頃の軍需工場では労働者は戦場へ駆り出され、挺身隊として女性が軍需工場で働いていました。なので作られた部品の、精度は戦争開始前より落ちていたそうですよ。韓国のせいで挺身隊は慰安婦とのイメージがついてしまいましたがとんでもない話です。
ドイツでは軍需工場での熟練者は貴重だから軍隊の徴兵は免除にして居たが日本はなりふり構わず徴兵してせめて工場の熟練者や勤務者を徴兵したなら軍が管理している工廠や機械関係を扱う部隊に配属すれば良いものを歩兵部隊に回して消耗品にした
熟練の職人を一律の一銭五厘で徴兵するから部品精度が低下し生産性が低下する。なにしろ去年91歳で死んだ母親が「私に零戦のプロペラの軸を削り出しさせてるんだから負けるの当たり前」とと笑い話にしていた。「だって、その前まで風船爆弾の気球を和紙で作ってたんだよ。旋盤何て無理、無理」為せば成るで万歳突撃はできてもちゃんとしたボルトは作れませんってこった。
@@nuruosan4398 >自分は会社にとって必要な人間だと思ってても>会社はそうは思っていない事はままある事なのです.日本国有鉄道清算事業団で遊んでた穀潰し共の事かー
@@-msc アメリカなら、おばちゃん、お姉さんが作ってもある程度のモノができるように生産システムを組むんでしょうが、そういうのは日本人は不得意だったんでしょうかね。B-29をおばちゃんが作っている動画をどこかで見たのでそう思います。
まともな素材と燃料があれば、パイロットの育成と特攻などに消耗しなければ技術的に難しくてもなんとか出来る技術屋さん、海軍と違い零戦に固執せず、また、無理難題を押し付ける海軍さんとは違う一面があり陸軍機も四式戦などバランスの取れどこかゴツいところが良いね。
航空戦力に関して言えば、陸軍の方はどっか割り切って考えていた節がありますね。「どうせ我が国の工業力では大したモノは作れない。ならば適切な運用と、きちんとしたバックアップでなんとかしよう」てな方向で
@@MrTamoya 聞いた話だけど陸軍:無理難題は吹っ掛けるけど達成できるなら良いが多少悪くても「そのうちなんとかせい」って言ってある程度融通きかせる海軍:無理難題は同じように吹っ掛けるけど根性が足りんから達成できんのだ!ってキレるらしい
陸軍が海軍の行き当たりばったりか、付け焼き刃なやり方に反対してたのは、結果的には正しかった方が多かったからなぁ。その後に海軍に賛成して行った行動(対米戦)では、陸軍部隊は海軍のせいでほとんど死に絶えてるし。
一撃離脱の採用とかレーダーの導入とか陸軍の方が技術面、戦術面では先進的なものが多いと思う。
ハセカラ 陸軍は97式戦闘機さえ「多少の重量増加による諸性能の若干の低下、特に格闘性能や航続距離の低下には目を瞑ってでも」ノモンハン戦の後には燃料タンクにゴムと絹フェルト式の防弾タンク付(この為格闘性能は海軍の96式艦上戦闘機より低下したが、防弾には極めて有効)にしてます。
@@jagaimo3839 ホントそれ一般のイメージとは真逆でむしろ陸軍の方が先進的なものは多いあきつ丸とか世間じゃバカ扱いだけど今の強襲揚陸艦の先駆けだったりと相当世間に誤解されてる事が多い
技術面だけでなく戦略面でもそうなんですよね。陸軍はあくまで補給可能な範囲での戦争を考えていたのに対し、ソロモンやアリューシャンなど航空機の航続距離だけを頼りに無茶苦茶な戦略展開を強行したのが海軍。戦後の「陸軍悪玉論・海軍善玉論」はウソもいいところだと思います。
@@mop09drg どう考えても、日本にとって海軍がスキルス性のガン細胞だったのに、何でこうなる?と悔しくて仕方がない😖(>_
落ち着いた解説で好感が持てました。
5式戦に好感が持てるのは、身の丈サイズ、出来ぬ事はしない、出来る事を粛々とする、精神論や根性論に頼らず、、現実を直視し出来ること出来ぬ事を見わめ、出来る事に全力を傾注する。敵の物量を言い訳にせず、同じ負けるにも夢想の果て現実逃避の瓦解の空中分解では無く、組織的抵抗を保ったまま正しい負け方をしてもらいたかった。ナァー;
元々あった機体のポテンシャルが発揮出来たんでしょうね。800㎞近い速度からの急降下の引き起こしでも主翼に歪みが出なかったみたいですから
でも五式戦の誕生のしかたが自分は好きなんですよ。
五式戦が良かったと言うより、日本が出来るエンジンが空冷星形1500馬力が精一杯だったから1500馬力エンジンで出来る最良の戦闘機を目指すべきでしたね。
同意しますが、なにせ軍幹部がブレブレでしたからね・・・・・・・
そういや零戦も金星積んだ54型は本来の性能を取り戻したと絶賛されたらしいですね空冷水星のをポン付けしただけなのに…まあ数機作って終戦でしたが
史実よりも2年は早く実戦でき得たのではないかと残念な気もするのですが。
@@sei-unさん 金星に換装して、さぁ大幅な性能向上と思いきや最高速度に関しては20キロ向上したのみであとは特に見るものが無いため試作2機で中止でしたね
非常に公平な目を持って解説されているのが素晴らしいです。しかも解り易い内容なのも好感が持てます。個人的には現場レベルでの日本の技術力の低下の一因に、工場勤務者の徴兵が拍車をかけたと思っています。
その工場勤務者もまじめに働いていたとは言えず、飲む打つ買うは当然、喧嘩は日常茶飯事でちょっとでも気に食わないことがあるとすぐサボる、品質は安定しない上に数は出てこないでしたからね。
何の手記か忘れてしまいましたが勤労動員の女学生達が熟練工員達のあまりにいい加減な働きぶりに絶句したと言う話を読んだ事があります正規工員達が対米英戦を知り真剣にやっても勝てっこないと思っていた(だからノルマ果たせりゃそれで良い)可能性はあると思います。
私も女工さんが部品の取り付け方が余りにいい加減な指示なので、怒られるのを覚悟で監督役に相談してやっと改善されたと言う話を聞いた事が有ります。ただ私自身の個人的の意見なのですが、工場へ派遣される軍人(軍属)は工業素人が多く、そんな素人の高圧的な指示で作業しなければならなかったり、工場の機械化が整っておらず手作業が大部分を占め、当時の日本の戦闘機は翼を胴体に差し込むタイプが主流でして、それを左右のバランスを整えなくちゃならない。それを木槌で叩いてやれとか言われ続ければ、多少なりとも馬鹿馬鹿しさを感じてしまうのかなぁと思います。また、現代の「ちゃんとしている」感覚で見るのは要注意ですね。現代の高品質の陰には、中頃~後半に出回った兵器に不良品が多くて使い物にならない物が多くて困った経験が、過剰なまでの高品質に繋がっているとの指摘もされてますしね。ま・当時の工業能力では現場に苦労させて無理やり解決ってのが主流でしたし・・・。
@@ほいさっさ太郎行員さん達を責めるのも気の毒でしょう。食料事情が良くなく勤務を抜けて食べ物を調達に行かなければ家族全員飢え死にしかねなかったそうですから。
この当時の日本における「エンジン開発能力の限界」の様相を下敷きにして、今現在の車両搭載新時代エンジンでの競争を見ると少しは雪辱を出来たんじゃないかって思う。
展開はフォッケウルフといっしょ。水冷エンジン用に細身の機体を設計したが、エンジンが手に入らず空冷エンジンを付けたところ思わぬ名機が出来上がった。細い機体に大きなエンジンは意外に抵抗が少なく、形にこだわって胴体を太くした雷電はむしろ失敗。
しかし、そんなに欠陥あっても3000機近く作るんだよなぁ…四式戦も3400機、二つ合わせると一式戦よりたくさん作ってる。
レール方式なので翼の取り付け位置をかえられた。凄いことだ。重心位置を最適化できるのだから。軽いエンジンから重い、馬力の増えたエンジンに零戦は大幅な変更はできなかったのではないか。重いエンジンに積み替えができない飛行機は致命的欠陥があるよね。スピット・ファイアーは次から次へとエンジンを積み替えて、最後まで戦えたね。レール方式だったのかな。
⊃鉛弾バラスト 飛燕も、主翼の移動で調整しきれなかった分、尾部にバラスト入れて釣り合い取ってる。
戦後昭和~平成半ばまで出版された日本陸海軍戦闘機を解説した書籍類を古書店で購入して読むと「燃料とオイルを補給すればエンジンが回る」と言ってキ-100の稼働率の良さをベタ褒めした記事が有ったが、当時何もかも不足だった日本でキ-100が搭載した「金星」発動機だけが「出来が良い」というのは不思議な事だ・・・実際は日本本土内での飛行による部隊移動でも「脱落機」が多かったようで、(キ-100が)他機に比べ突出して稼働率が良いわけではない動画にある通り、キ-100は大戦最末期に「間に合った」陸軍戦闘機として奮闘し戦果を挙げてはいるが当然「それなり」の損失も出しているしかも長距離侵攻してくる米軍戦闘機に対し、キ-100は本土基地からの全力出動という極めて有利な邀撃戦で「辛うじて」互角に近い状況だったことから、手放しで高評価する昔の解説本には違和感が有った
彗星とかのアツタエンジンも意外と稼働率は良かったと書かれている。栄エンジンと、金星とアツタエンジンとかは良かったらしい。でも、紫電改の誉エンジンが悪かったという記述もあまり見つからないんだよね。
ドイツでも最前線での整備が大変で、飛べない戦闘機で溢れていたという話がありますから、当時の日本では絶望的だった事でしょう。戦争という非常時に確実に使えて、そこそこ性能があるものを生産出来なければ、意味が無いという事を証明していると思います。個人的にはⅡ型の涙滴型キャノピーのシルエットは好きなんですけどね。
設計者の土井さんも、泪滴風防の二型を押していましたが、五式戦はなんとなく、飛燕の改造型って感じの一型が好きで。二型は、零戦に似ていて。素人からすれば、零戦だと思うよ。
@@室井修-k1r さん涙滴風防が採用されたのはニューギニアの戦いでベテランの木村少佐が素人同然パイロットが乗った米軍機に後方からいとも容易く撃ち落とされ戦死した事を重く見た陸軍が調査した結果木村少佐が乗っていたキ61(三式戦)は後方視界が悪く、敵に後ろから狙われやすい。もし隼や鍾馗、海軍の零戦みたいに後方視界が良い機体なら助かっていたと言う結論を導き出したです。米軍がP51やP47で涙滴型風防を採用したの後ろから撃たれて撃墜されるケースが頻発、特にカービィー大佐が撃墜されたことでP38のエースであるボングや民間人のリンドバーグが涙滴型風防採用を迫ったから。
動画である昭和20年7月15日(7月16日とも?)、数に圧倒されながらも、五式戦に搭乗してP-51を撃墜したのは檜輿平少佐。檜少佐はかつて飛行64戦隊(加藤隼戦闘隊)に所属し、南方戦線で活躍していた撃墜王だったが、日本軍として初めてP-51を撃墜した男だった。しかし、その後B-24を撃墜した際に、不覚にも護衛のP-51に奇襲され、被弾し右脚を切断する重傷を負いながらも、血のにじむ努力と敢闘精神で前線に復帰。上記の戦いでP-51を撃墜し、右脚の借りを返した伝説を残した。この通り、P-51の因縁含みの人で、かつ五式戦と言えばまずこの人の名前が挙がるであろう。ロールでP-51の攻撃を回避した熟練搭乗員も、檜少佐の可能性もあるかもしれない。
人情でゴミエンジンごり押しされたら現場はかなわんですよね。3式戦なんか島から島へ航空隊が移動するときにそれだけでエンジン故障で脱落・殉職がザラだったのに…
五式戦の試作が比較的順調だったのはどうも土井技師自身ハー112搭載も視野に入れて設計していた節があります。比較的すっぽりハマったのがその証でもし三河地震で三菱のエンジン工場が崩壊してハー112製造が止まって無かったら、既存機を改造して大量生産され、外戦部隊にも配属されていたかも知れません。
毎度安定の的を得た解説ありがとうございます。
逆にいえば、本機と馬力は大して変わらず、重量ははるかに重いムスタングは余程高い設計であったことだろう
本機と同じエンジン積んで重量は軽いのに性能は下という零戦54型丙。
英国にある唯一の現存機体は、一時期マイルストーンとして展示されていたから、世界的、歴史的にみてもその特異の経緯で開発された割には優良な機体だったと、英国も判断したのかもしれないね。日米との間で、機体及び熟練度が大きな差があった時期に登場しながらそれなりに戦えたとしたら、もう少し早く生産されていれば、戦闘で生き残る登乗員が増えて、熟練度の低下に少しは歯止めが掛かったかもしれないな。
土井技師の言うことは非常によくわかる。結局洋の東西を問わず「人情」ってのはかなり大きなファクターを占めていると思う。米軍もニミッツとマッカーサー、ルメイとアーノルド、いろんなところで確執が顔を出して戦略・戦術がぶれている。ただ、米軍にはそれがどっちに転んでも勝てるだけの余裕があった。
新谷かおる先生の漫画「日の丸あげて」で五式戦を知りました。
同じ末期に登場した紫電改より活躍してますな
情熱と勇気、それとやる気があれば技術者の作ったものは心から感じ取れる何かがある
マッピーの余った基盤流用で大ヒットしたドルアーガを思い出した。何事も計画通りには行かないものです。
液冷エンジンはダメなのに写真と設計図の断片からジェット戦闘機とロケット戦闘機は造れる謎よ
種子島大佐がドイツの技術到着以前に研究していたのであった。 ドイツから到着したユモジェットエンジンの図を見ただけで大佐は十分理解出来たと言う。
継続できなければ無力
飛燕のハ140はクランクの焼入れが十分になされて居らず所々焼きが入って無かった。 軸受けがテーパーローラーベアリングであったが3/1000ミリの精度が出て居らず精度の良いものを熟練工が選んでいたが熟練工が兵役で居なくなり生産ができなくなった。 あと試作だったので試験飛行で良かったので陸軍が急に作らせたので技術が追いつかなかった。 愛知航空機は水メタノール噴射装置を付けなかったので比較的生産出来たが結局は金星6型になった。
とはいうものの、ネ20の推力はユンカースjumo004の約半分しかなく、そのため橘花の速力は本家Me262より約200km遅く、米軍レシプロ機のP51やF8F、F4Uにすら劣っていたというあたりは、当時の日本の技術力の限界だったということだろうね。優秀な技師や先進的な発想はあっても、それを完成品にするための工業力が日本にはなかったということだろう。
かもしか侍 さん 戦後直後の技術者の合言葉はアメリカに技術で負けたので次は勝つ。 ソニーの盛田氏は海軍技術中尉だったが敗戦後に今度はニューヨークマンハッタンに日章旗を掲げて見せると言ってその夢は叶った。
ああ・・さすが深謀熟慮の英国だね。なんか 泣けてくるよ。
聞けば聞くほど悲しくなる・・・
@@呑龍ハルカ 栄が燃費良すぎたんや...
@@呑龍ハルカ 2式戦は評判が良くなかったらしいからそれもあるんじゃない?
@@うんちねる-n9b 不意自転からの墜落事故、ハ41の低い信頼性、20mm機銃の入らない15平米の小さい主翼など、置き換えられてしかるべき内容でしたね。また、上の危険な飛行特性から搭乗員には一定以上の飛行時間が、資格条件として設定されていたそうです。
日本帝国の致命的な欠点は「陸海の総合参謀本部を創設しなかった事」だなぁ。これを真の意味で達成されていたら大分違っていた。
その反省からか、今の陸海空自衛隊は世界的に見ても異様に仲が良いらしい
山下奉文って将軍が提言してたとか。この方もまた、石原莞爾みたく、東条英機に疎まれたらしく、提言は無視されたとか。
好きだなぁ五式戦…
6:03この動画は初めて見たな。とても貴重な歴史的資料だ
5式戦は高高度性能も疾風より優れてましたが、これは流用した金星エンジンが司令部偵察機用として過給機が高高度用にチューニングされていた事も大きい。
@田中一郎 金星エンジンに排気タービン積んだ型なんて無いが…
@@skysierra2171さん一段二速過給機でも二速目の全開高度を上げていたようです。但しハー112の排気タービン装着型は試作されてます。
冷静な解説、good jobです。楽しませてもらいました。
海外で日本軍機が過大評価される傾向にあるというのが意外。てっきり日本国内の方が過大評価しがちなのかとばかり。
欧米では機体の性能試験の際に武装などを取り外したテスト専用機を使うので、実際の機体よりも優秀な性能を発揮します。逆に言えば実際の機体の性能は数字ほどではないので、カタログスペックを見比べるだけの現代と違い日本軍機と実際に対峙した場合は手強い相手という印象になるのでしょうね。
昔から設計は優秀だった。基礎技術が不足していた事の反省は戦後に生かされ、自動車産業でメイドインジャパンが世界を席巻した事が先人への手向けになったかもしれない。
先日各務原の博物館に行ってきて目から鱗状態が続いています。
初見です!五式戦闘機は日陸戦闘機の中で1番好きな機体なので解説して貰えて凄い嬉しいです!!動画凄い面白いです!!これからも頑張ってください!!
終戦間際の琵琶湖上空の空中戦は有名ですね!
ハ140はまさしく、戦前のコンコルドだった訳だ。「こんだけ投資したんだから」が身を滅ぼす。
あんまり言及されてないけど陸軍内で高評価だったのは武装の影響もあるかとホ5の機首装備に加えて装弾数も四式戦より多い。同調装置で発射速度落ちても主翼装備より良かったのかと大口径少数装備のロシア機でも機首周りの装備にかなり努力している。
上手くまとめられていて理解しやすく、聞きとりやすい素晴らしい動画でした👏
よく過去の日本が、技術不足だった主な原因は「国民性」や「資源不足」が原因と言われていたりします。ですが私はそうは思いません。おそらく早すぎたのでしょう、先進国になるのが。本来ならば、長年の歳月をかけて先進国化、もしくは莫大な工業力を生かして先進国化、もしくは戦争に敗北し学ぶ、運がいい。イギリスとアメリカとドイツとソ連はこれです。ですが、この頃の日本はどれにも当てはまりません。鎖国解除から約200年で先進国になり、島国なので莫大な工業力があるとは言えません。そしてこの頃の日本は一回も負けたことはないし、運がいいとは言えないでしょう。今の日本は技術大国といえるほどの技術があります。これは戦争に敗北し学んだからでしょう。国民性が主な原因なら、今の日本は技術大国にはなれなかったでしょう。資源不足が主な原因なら、ドイツは終戦直前もなぜあのような技術大国だったのでしょうか?確かに資源があれば、もうちょっと技術的に成長できたでしょう。国民性がもっと良ければ、技術的に成長できたでしょう。ですが、どれも主な原因ではありません。
「隼」「疾風」みたいな愛称を付ける余裕もなく敗戦
戦争後期に入っても隼がビルマなどでは結構善戦していたことを思えば、5式戦が43年ごろ戦力化で来ていれば空の戦いの様相はかなり違ったものになっていたはず。当時の日本の技術では液冷エンジンはやはり無理だったのだろうな。ソ連のクリーモフ M-105もイスパノ・スイザ 12Y を無理やり高出力化したもので、結構扱いずらかったらしいし。
金星エンジンは元々海軍専用だったので、残念ながら1943年頃はまだ陸軍に廻す余裕は無かったはず。
@@エレキング-r4k さん実際には百式司令部偵察機3型で既に採用されてましたよ。
そもそも零戦52型丙が金星積む予定で武装と防弾強化したのにエンジンが間に合わず、重量増で本来の持ち味を失っても栄のまま出すしかなかったわけで。1944年後半の零戦がそんな状態だったのに43年に五式戦なんて夢物語ですよ。そもそも飛燕自体が43年採用なのに。
ダイムラーの水冷エンジンには出力強化型が存在したけど、エンジンに使われたインジェクションシステムは現在のボッシュ製。日本は初期の水冷エンジンに続き、法外な金額で技術移転を申し込んだけど、ボッシュが頑なに拒み手に入らなかった。自国での改良高出力化を目指したけどインジェクションの問題は解決せず、今の日立が自社開発するまで根本的な解決に至らず、その後も開発初期の技術の不安定がよりいっそう水冷エンジンの未来を閉ざした。俗に5式戦と呼ばれた機体が、素性が良くて誉増産計画に影響を受けない中性能のエンジンを載せた事で、とにかく飛べる、エンジンがかかる、必然的に戦う為に信頼性の有るそこそこの性能の機体に人気が出たと言う悲しい話。
素晴らしい内容の動画です。もう、六式はないと皆が思っていた時期に、これが最強と言わざるをえなかった戦闘機の搭乗員たちの哀しさを想います。
いや、隼を乗りこなして、P51やスピットファイヤや、サンダーボルト、P38とかと戦っている方からすれば、悲しくはないんでしょうよ。これで十分戦えると。
むしろ、高速な重戦闘機に代わられたりすると、殺人機とか言って忌避する。海軍の雷電とかはその典型だし。震電なんかも量産しても、乗りこなすまで大変そうな気がする。戦時中にできたのか疑問。
有り合わせの急造機とか愛称つく暇もなかったとか五式戦すらあだ名とかロマンは溢れてるよねあと純粋に見た目が一番好き
たしか陸軍のドイツ駐在武官の話で「海軍がDB601エンジンのライセンス購入しようとしてるから先に購入してしまえ」と話が来たので話をもっていったら案の定、海軍の駐在武官から「その話は海軍が進めているから陸軍は遠慮していただきたい」と言って来たので「そのような話は本国に問い合わせ無くてはならない上、お互い現地に居るのでどうにもならない」と突っぱねた。なんて秘話を雑誌で読みました。
やっと出て来た・・・、エンジンの変更を前提にした翼の位置を変えられるって先進的な設計の事・・・。そこが味噌なんですよ・・・。
FW190D「われら!」La-5「エンジン変えたら!」Yak-3U「なんか思ってたより!」五色戦「性能良くなった組!」
DB601のライセンス契約の視察の為にドイツに行ったときにドイツ側から「貴国にはこちらの方が向いていると思うが」とユンカースJumoエンジンを勧められたそうですが日本側がDB601に固執して突っぱねたとか。
ほかならぬ川崎の林貞助技手が、ベンツの技術的必然性というより趣味に走った造りをみて「日本の(つーか川崎の?)技術じゃムリだからユンカースにしましょう」て意見具申してつっぱねられるんだよな。この人は後にハ140のパワーアップ策として、エンジンの気筒圧縮比上げるんじゃなくて、中間冷却器追加して高ブースト化しようって発案して、やっぱりつっぱねられてる。
風立ちぬの冒頭にいきならネピアライオンエンジンがでてきたは驚いた。必死だな
エチレングリコールは、第3石油類水溶性 引火点111度 発火点398度 沸点198度 指定数量 4000L海軍は、ドン児玉誉士夫が、タングステンやニッケル等共に、ヒロポンや偽札を使って入手してました。陸軍は、貧乏だったのですね。
陸軍の各種公文書上では五式戦闘機(あるいは五式戦)の呼称は一度として用いられておらず、キ100とだけ表記される。他の陸軍機に用いられた公式愛称、また本機固有の連合軍コードネームも存在しない。ただし書類上などでは便宜上「Tony II」とされたことがあったらしい
熱田のエンジンは巡り巡って、いまはセレナとか日産系のエンジンに息づいてますね。
中島三菱川崎の3社の中で川崎は試作機の作成には特に気遣い丁寧に丁寧に仕上げるものの量産時にはそのあたりが雑になり試作機の性能は抜群でも量産機で性能がガタ落ちする傾向があったという主旨のコメントが渡辺氏の飛燕の本に書かれており職人技の世界から抜け出せていない当時の日本の基礎工業力の限界を垣間見た気がしました。゚(゚´Д`゚)゚。
愛称も無ければコードネームも無し…。一式戦隼とか四式戦疾風と並ぶプラモの中で、五式戦だけゴシキと書いてあり強い違和感を覚えたものです。軍関係者にしてみれば、有り合せの間に合わせ、応急のやっつけ仕事みたいな感覚だったんでしょうか。レストアされた五式戦は新鋭機の雰囲気を漂わせていますが、写真に残る五式戦はいかにもツギハギな感じです…。
きちんと動いて、性能が安定してる。これに尽きるんだけど、末期戦を戦ってる日本にとってこれは重要だったんだよなぁ
飛燕の機体の頑丈さからくる連合国機顔負けの800km/hを越える急降下性能は、不意打ちを喰らっても急降下で逃げられるからパイロットとしては安心だろうな
旋回運動が悪すぎる。
なんだろう、なんだか切なくなってくる。
五式戦闘機について、その実力について結構辛口というか、ま所詮1500馬力クラスだから・・・みたいな評価をする人が多いけど。僕は、例えばP51ムスタングと戦っても十分「互角」で戦える実力があったと思っている。要するに高度なんですよ。P51は時速700キロ超えの速度を誇っていたっていうけど、あくまで燃料も少なくして、銃弾はもちろん機銃すら取り除いての速度なんだよね。しかも、それは超高高度での話。つまり実践においては、高高度でも600キロ台後半。低中高度では600キロ前後の速度しか出なかった。五式戦と大差ないんだよね。実際、低高度では、隼Ⅲ型でP51を追いかけられたって証言も残っているし。なので、低中高度では、速度・急降下性能・横転性能でP51がやや有利。逆に上昇性能では五式戦がやや有利。水平旋回では五式戦が断然有利。てことで、あくまで低中高度に限れば十分「互角」で「絶対不敗」は納得できる。と、思う。ま、実践においては超高高度をB29を護衛しているP51と戦わなければならない場面が多いわけで。その点、まあそのへんの根本的な問題はあるんだけど^^;
なるほど、水冷エンジンを見限るタイミングという要素があったのか…
早期から空冷エンジン換装案があったなら、液冷エンジン型と同時に開発すればよかった・・・・
そんな余裕はなかったのだろうけど・・・
エンジンカウルを黒に塗装したら角度によっては零戦に見えなくもないかもですね
川重も中島も三菱も川西も、いい勉強になったな。今そう言うしかないよな。
日本は機体設計の技術は高かったが、エンジンの技術は低かった。まともに動き、量産できる液冷エンジンとオクタン価が高いガソリンがあれば、もう少し違う戦い方が出来たかもしれませんね。
2000馬力の誉は91オクタン価ガソリン使用前提のエンジンだが91オクタン価ガソリンは国内では生産出来なくて南方から供給絶たれたら87オクタン価に水メタノール噴射で誤魔化し更に粗製乱造での品質低下に松根油なんてのを使わないといけない体たらくで戦時下での体制をまともに考えていたのか怪しい理想主義では戦争出来ないよ。
但し搬送できなくなった分、南方の揮発油は豊富で飛行隊ごと錬成の為に南方へ行く部隊も有ったようです。ハ40系列の悲惨な状態は、海軍のアツタ系列の状態(三二型でも、そこそこ好調)を見ると陸軍側の稀少金属への執着等の航空行政指導に主な原因がある気がします。
ちなみに期待された”松根油”ですが第二次精製での水素添加設備が無い陸軍では無理だったそうで、徳山の海軍第三燃料廠で一部製造が行われて居ます。分子構造から高オクタン価は期待できず長く置くと変質したようですが、取りあえず500リットル程度が製造されたようですね。
@ 松根油ですがこれには軽油と重油があったとか?軽油の方はレシプロ機に使い重油は特殊攻撃機橘花に使うことを考えていたらしいです。
@@straker1701 軍関係者は理解していなかったようですが、性質上、松根重油をそのままネ20で使用するのは無理です。しかし何とか使いたかったらしく(笑)ガソリン含有率30%の松根重油を使用する前提としていますが、まあ、これさえ支障が出るのは想像に難くないですね。まったく現実が理解されないまま国家プロジェクトで作られた松根油が実は役立たずだったのです。開戦前に「水からガソリンが出来る」という説に軍部が本気で騙されそうになったことがありましたが、松根油も同じような感じですね。
土井技師や堀越技師が戦後もいろいろメディアに出る勇気があったのはすごいと思う。とても誇りに思えるような飛行機ではない。小山さんの作った飛行機は対照的だが、当の設計者は戦後ほとんど露出しなかった・・・。
小山技師は、大戦末期中島飛行機が岩手県に疎開した際に岩手に移り、戦後は林業機械メーカー現在のイワフジ産業の技術者をされていました。
パーツを取り替え引換してて、動いたら思わぬ性能を発揮した。ラジコンや自作PCみたいなもの
本来、そうあるべきなんだな。エンジン交換で高性能化すればいいんだけど、フルモデルチェンジしすぎで。
烈風と似たような感じとゆうのは飛躍しすぎてすかね、でも五式戦は活躍できただけでもよかったのかな
ベトナムで鹵獲された五式戦はイギリスにある。
摩擦抵抗は空気抵抗全体の2%ですよ。超音速機でも摩擦抵抗ガーっていう人いますけど
せっかくハ40の話も出たし、今度どこかでエンジンの解説もやって欲しいです。
4:00にミスあり
誤・1945年12月末設計改変完了、同年二月には初飛行を完了
↓
正・1944年12月末設計改変完了、45年二月には初飛行完了
了解シタ
終わってたよねーと思った( ・_・)
了解 ニイタカヤマノボレ \(T∇T)/
五式戦は昔「こち亀」に出て来てたなぁ。かつて旧陸軍の整備士、今は旧車のレストア工房を営む爺さん(中川が両さんと一緒に工房を訪れる所から話がスタートする)が自分の整備ミスで墜落してしまった五式戦を密かに入手して、「何とかもう一度こいつを空に返したい」と一人奮闘する…という話だったような。
よく見りゃほとんどWIKI情報・・というよくあるお手軽ミリタリー動画ではなく、
末尾にしっかり参考文献まで上げて、製作者自身の推測も含め多角的に考察されている素晴らしい動画です。
時間がない時でもついつい最後まで見入ってしまう。
そこそこの性能でも、ほぼ確実にちゃんと動いてくれるというだけで現場の搭乗員達にとっては凄く頼もしい機体だったのだろうなぁ
>そこそこの性能でも、ほぼ確実にちゃんと動いてくれる
それは一式戦・零戦・二式戦でも実現できてる訳で、四式戦ですら稼働率の高い部隊が有りました。
しかしそれらの機体では「絶対不敗」とは言われず、乗り比べた上で四式3機より五式1機の方が有用と言われました。
信頼性が好評の主因ではないと思います。
@@isi01kt 4式戦はまともに動いた部隊がごく一部だったし…4式からの乗り換えで好評だったのは整備がしっかりできてた部隊?
エンジンが軽くなり尾部の鉛ウエイトが無くなったので軽くて上昇率が向上して旋回性も良好になった。
加えて飛燕譲りの急降下性能が有り空中戦に必要な性能、小回りが効いて突っ込みが効き素早い上昇と機動性が向上した。
四式の方が速くても意識的に操縦桿が重たく設計されて居て旋回性は悪くなって居た。
高馬力なので機体に無理がかからない様にと言う配慮だった。
@@ふみふみ-x5k さん
wikiの記述ですが
>明野教導飛行師団の檮原秀見中佐が五式戦闘機を操縦し、模擬空戦において2,000馬力級の四式戦闘機3機を相手に有利に戦い、その上航空本部に五式戦闘機1機は四式戦闘機3機以上の価値があるから全力生産を行えとの進言を行ったとする説がある。
>明野陸軍飛行学校は、日本陸軍の軍学校のひとつ。主として戦闘機の空中射撃、空中戦闘に関する教育と研究等を行った。
>常陸教導飛行隊でも四式戦闘機と五式戦闘機を比較し、特に上昇力、旋回性能など、文句なく五式戦闘機が上と結論している。
空中戦の教育・研究を行っていた部隊・パイロットが、整備不良の4式戦しか無かったとか、整備状態の違いも考慮せずに機体性能を評価することは有り得ないでしょう。
そしてプロの戦闘機パイロット、それも教官を務める技量の者が、物理性能が劣っているのに優れていると評価するのも考えづらい事です。
○既知の「最大速度・馬力・重量・上昇時間」では戦闘力の説明が付かない
○しかし実際に操縦した評価(高練度パイロット・高整備の機体と推定される)は高い
という矛盾が有る場合、
「全て信頼性が高かったことによるプラセボ」と感情論で片付けるより、
「単純数値で表せない部分で戦闘能力が高かった」と考える方が合理的と思います。
実例としてラファールがあります。
専門機関によるシミュレーションでタイフーンより「4.5倍」弱いとされていたが、実際のDACTでは格闘戦で10勝0敗、BVR戦で4勝0敗で完勝。
「強さ」の理由は「センサーフュージョンによる状況認識力」「PESAレーダーの走査速度」「FBWの操縦性」という数値化困難で、航空マニアが「戦闘力」を考えるときに重要性が想像つかない要因でした。
数値に表せない、あるいは操縦経験の無い素人には重要性が分らない部分に、矛盾の答えがありそうに思います。走り屋をやっていたときにカタログスペック値ではクルマの速さを説明づけられなかった経験からですが。
@@ふみふみ-x5k さん
wikiの記述ですが
>明野教導飛行師団の檮原秀見中佐が五式戦闘機を操縦し、模擬空戦において2,000馬力級の四式戦闘機3機を相手に有利に戦い、その上航空本部に五式戦闘機1機は四式戦闘機3機以上の価値があるから全力生産を行えとの進言を行ったとする説がある。
>明野陸軍飛行学校は、日本陸軍の軍学校のひとつ。主として戦闘機の空中射撃、空中戦闘に関する教育と研究等を行った。
>常陸教導飛行隊でも四式戦闘機と五式戦闘機を比較し、特に上昇力、旋回性能など、文句なく五式戦闘機が上と結論している。
空中戦の教育・研究を行っていた部隊・パイロットが、整備不良の4式戦しか無かったとか、整備状態の違いも考慮せずに機体性能を評価することは有り得ないでしょう。そしてプロの戦闘機パイロット、それも教官を務める技量の者が、物理性能が劣っているのに優れていると評価するのも考えづらい事です。
○既知の「最大速度・馬力・重量・上昇時間」では戦闘力の説明が付かない
○しかし実際に操縦した評価(高練度パイロット・高整備の機体と推定される)は高い
という矛盾が有る場合、
「全て信頼性が高かったことによるプラセボ」と感情論で片付けるより、
「単純数値で表せない部分で戦闘能力が高かった」と考える方が合理的と思います。
実例としてラファールがあります。
専門機関によるシミュレーションでタイフーンより「4.5倍」弱いとされていたが、実際のDACTでは格闘戦で10勝0敗、BVR戦で4勝0敗で完勝。
「強さ」の理由は「センサーフュージョンによる状況認識力」「PESAレーダーの走査速度」「FBWの操縦性」という数値化困難で、航空マニアが「戦闘力」を考えるときに重要性が想像つかない要因でした。
数値に表せない、あるいは操縦経験の無い素人には重要性が分らない部分に、矛盾の答えがありそうに思います。走り屋をやっていたときにカタログスペック値ではクルマの速さを説明づけられなかった経験からですが。
一生懸命設計し鳴り物入りで誕生させた製品がダメで、急ごしらえで取ってつけたような製品が予想外ヒットするということは工業の世界では時々あります。
カローラとスーパーカーの図式だな
ナチスドイツのデフォルトじゃん。
余裕がない時は応用力やコストに優れた兵器を作るけど一度余裕が訪れたらマウスみたいなものを作り出す
お、M16かな?
モーニング娘は鳴り物入りで企画されたオーディションの落選者の寄せ集めだった。エグザイルはケミストリーの落選者を再利用されてつくられた。℃-uteもBerryz工房の落選者、つばきファクトリーもこぶしファクトリーの落選者の寄せ集め。当初のAKB48は柏木由紀や峯岸みなみなどメンバーの大半がモーニング娘オーデの落選者で構成されていた
情熱の空回りと、冷静な妥協の好例。
「義足のエース」檜與平氏も、五式戦でP51を落としてますね。四式戦よりも操縦しやすかったと述べられてます。
隼に近かったんでしょうね。隼が12.7mm、2丁なんで、15mmか、わすれたけど、4丁になったから、火力が違うのと、多少高速になったんで、実質的は隼4型として、隼パイロットにうけが良かったんでしょうね。鍾馗を乗りこなしたパイロットは後継機の疾風を使えたんだと思いますね。疾風も隼みたいなところがあると聞きますし。ただ、やはり高速なんで小回りは、5式に及ばないんでしょうけど。
僕の先生、土居技士のお弟子さんです。88才ですがむちゃくちゃお元気。飛鳥やB767等を設計されました。
修行中に土居技士が後ろから歩いてくる足音がしたら、ウラ紙を用意して赤鉛筆が来たらさっと図面の上にウラ紙を置いて図面に直接赤鉛筆を入れられないようにしていたそうです。赤鉛筆で書かれたら全部一から書き直しですからねえ。
土井先生の孫弟子にあたられるわけですね😂
過去から現在に繋がる技術の継承を尊く思います。自分も現代の製造業の端くれですので、感謝と日本の誇りの感情を持ってます!
解説内容がかなり理性的踏み込んでてよかった。
ありものあわせが時として正解 とはバンガードを作ったイギリスだけに趣深い。
ただし飛燕二型に固執した理由はもう一つあり、
日本陸軍で唯一飛燕二型だけがBー29の飛来高度10000メートルにマトモに上昇できてそこそこ戦える高高度戦闘機だったからです。
結局は液冷発動機も排気タービンも出来なかったんですよねえ日本は。冶金技術と発動機設計はまんま国力のバロメーターでしたし😅
@@tokyoneotokyo
排気タービンは量産できなかっただけで一応作ってはいましたよ?
まともに動くとは言ってませんがね(まだサ号装置の方が良かったんじゃ...)
一回攻撃したらかなり高度が落ちて追撃出来なかったとか
つーか、当時は今と違ってどの国でも熱に弱いマグネシウム合金を焼き入れる方法でタービンブレードを作るしか無かったんだけど、日本でもドイツでも大量生産が出来ず、何度か飛ばしている内にブレードが破断して使えなくなってしまった。
それを使い捨て同然に大量生産して出撃の度に交換できたのが唯一アメリカ。
子供の頃雑誌でイギリスに保存されてる機体の写真を見て,そのバランスの良い姿形に一目で好きになり,きっと飛びっぷりも良かったんだろうなと想像してました.
後年走り屋やってる頃,車の速さはカタログスペックでは量れないことを実感しました.
180馬力のFFのインテグラで,スペックではずっと上の310馬力の4駆ターボの32GT-Rを峠でもミニサーキットでもちぎったことがありました(同じタイヤ履いて,タイムは57秒 vs 60秒).
別の時はパワーが上のランエボ(多分1か2)を「上り」のS字区間でコーナー3〜4個でバックミラーから消したり.
馬力はもちろん,パワーウェイトレシオでも速さは決まらない.
車を見てもらってたショップの代表さんの「クルマはバランスで速くなる」という言葉が耳に残ってます.
戦闘機を操縦した経験のない我々が,カタログスペック(それも測定条件が明確でない)を見て戦闘機の強さを云々するのは,免許を持ってない人間がスペックだけで車の速さや運動性を想像するようなものだろうな,と思ってます.
同感です
というか、確かにそうだよな、と思わされました
20mm機銃を持つ制空戦闘機なんてのじゃなく、15mmとかにすべきで。隼は武装の貧弱さが幸いしてバランスが良かったので長持ちしたとの説が有力で。五式や隼はそれにあたるんだと思いますね。
映像の五式戦はじめて視ました
パイロットの技量もありますが、それに応えてくれる操作性を有しているのが見て取れます
主翼の位置調整が出来た以外にも、飛燕は縦長エンジンによる重量バランスを保つ為に
後ろに重りを積んでいたが5式の星型空冷になった事でその重りが不要になったんだよ
いわゆる
液冷エンジンに固執して生じた病巣が排除され
健康体になった
ですね。
錘とラジエータがなくなって運動性が上がった。
カウルの空力処理が完璧ならもっと速かったはず
バランスタブの撤去による軽量化も良い方向に働きましたね。
例の「絶対不敗」の意味を拡大解釈し5式戦をマンセーする動画が多い中、淡々と実情を解説して行くこの動画には好感が持てる。
ちなみに「絶対不敗」の意味は言葉の通り負けることがないと言うことであるが「勝てる」と言ってないところがミソである、要するにそういうことである。
陸軍は腕がたつパイロットが残っていて、彼らが乗れば、事実上の隼4型として、乗りこなせたんだろうね。
日本の組織のトップの現場の人材軽視は筋金入りですね。
@@快舟 今も変わってないのが凄まじいwww
@@快舟経験談だがぼくの働いていた会社で結構でかい減産がはいって、それまで縁の下の力持ち的なポジションで働いていた人らが一斉に切られた。その後安く使えるペーペーをひとつまみくらい雇用したら現場が回らなくなったってのを同僚から聞いた。
日本だけではないと思いたいが現状を希望的観測でひっくり返そうとする上層部の頭の弱さには言葉が出なかった。
想像の域ですが、イタリアなら減産の時点で商売たたむ、ドイツは正攻法でなんとかする、アメリカなら事前にそういうシナリオを練っておく、日本は適当に人を集めて結果自爆する。一部できる人が驚異的な能力で何とかするが最終的には自爆。かなw
五式戦闘機のスゴさは液冷エンジン機の細い胴体に上手く空冷エンジンを載せたことだろう。高性能だったがエンジンは三菱製で地震と空襲で壊滅的打撃を受けたのでどっちにしろ大量生産は無理だったと思いますね。
ジェットエンジンと言いロケットエンジンと言い日露の時にも重砲輸入したりマジでドイツ様々だな…
震電とかも、中身を見ると、Me262みたいな機銃配置だし、かたつむりのスーパーチャージャーとかまさにドイツ機。原型はイタリア機かもしれないけど、枢軸同盟で無かったら生まれていなかった機体かもね。
ロケット機の秋水もですね。
RAFミュージアムの過不足のない評価が、色々物語っていますね。話は変わりますが、ありものを利用した最適解ってところで、マツダのSKY ACTIVEを想起しました。
生産数ゴミ以下。
性能でも、連合国に勝てなくなった。
@@hosoyalaurence 1945年の空襲祭りズタボロ日本でまぁまぁな性能の400機弱の航空戦力を短期間で確保でき、なお戦果が挙がってるんですからせっかく作った200機以上の機体を放置して終わるよりはよっぽどいいと思いますよ
@@hosoyalaurence ゴミってなんだよ。失礼にも程があるだろ
@@hosoyalaurence P51だって火力ゴミやし、どんなものにでも欠点があると思った方が良いよ
@@サピエンスホモ-j5l
ブローニング6門ってP47ほどでは無いけど結構高火力では?
あそこの部署は頑張っているし金も掛かっているからいまさら切り捨てられない、という人情論に負ける話は僕の職場でも見てきたので涙が出ます。社員の士気にも関わる問題なので、どうすればいいのか現代でも簡単には解決できないですね。
そればっかりは海外でも頭を悩ましている問題です。
そういうときは数値評価を見せて撤退するのだそうです。
byソフトバンクの孫かたる
うーむ、部下にはきついが本人はそうじゃないな
byソフトバンクの孫
技術的に見るところなし…
ある意味最良の褒め言葉なのかも…
もっと早くに出ていれば…
など、たらればの話の傑作機な気がするなー
金星が1500馬力になるのは、末期だから。まぁ工作があれだから。92オクタンだし。
物資が枯渇する中で産み出されたのが五式戦。
これが限界とはいえ、物がない人がいない。
日本軍の苦悩が見えますね。
試作機レベルでは700キロ代の戦闘機は造れた技術はあったらしいです。ただ、時間と資源と工作技術やガソリンがあるかは微妙ですけど、温存しているのを見ても、零でなかったのも確かで。
@@室井修-k1r 研究機のでも700キロ弱なんですがそれは
期待値と実測値を一緒にしちゃだめですよ
@@ふみふみ-x5k 結局、700キロ超える機体はなかったということか。疾風が、米軍の燃料やプラグで680キロ出したのが最速ってことかな。日本軍でも、状態の良いのは640キロくらい出ていたらしいし。
@@室井修-k1r 軍用機なら疾風のそれが最速だと思う。それも米軍テストだから日本の実質的な限界は620キロそこら、もしハイオク燃料がドバドバ使えてもまともなエンジン作れる力もないしね
フォッケウルフも水冷積むつもりで細い機体を作ったが、エンジンが足りず空冷をつけたところエライいいのができた。五式もこれと同じ。フォッケの機体が陸軍にあったのも幸いした。
フォッケは最初から空冷のBMW 139を使う前提で設計されたというのが今では主流の説ですよ。
フォッケは、その後、発展型で液冷にしたんじゃなかったかな。一見、空冷に見えるけど。
Bf109と同じ液冷だとエンジン供給の問題もあったから空冷エンジンを選択したのもありました。
愛知航空とは愛知時計航空の事で元来は時計製造メーカーだったが中島飛行機誕生に前後し兵器メーカーとしての歩みを始める 時はロンドン軍縮時代、海軍は航空派が台頭するも半ば軍を追われた士官たちは航空兵器開発を夢見て民間企業を説得し軍需メーカーへと転身させた。中でも欧州派遣経験者は在欧メーカーと兵器ライセンス契約を獲得し技師派遣を請い国内メーカーの発展に寄与した。愛知時計にドイツ人技師のハインケルが訪れた事は知られていないが大きく貢献している 具体的にはプロペラ設計、機体の抵抗、の簡易な測定技術を残している 愛知時計社史にのみ簡易に記されている。現在の愛知時計は対中貿易額が大きく自社の戦史に消極的態度を取ってむしろ分社化された輸送機社が当時に興味を持っていると思われる。 このページを愛する諸君にだけ教えよう ハインケルは身長190センチにもなる肥満の巨人で当時より頭頂は薄く芸者遊びに執心 ドイツ語を話す芸者を依頼した、またドイツ公文書館にも身体的特徴や日本滞在の記録は無い
こう言う方がいらっしゃるからユーチューブのコメント欄は見逃せないんですよ、いやすばらしい、貴重な情報ありがたくあります。
「ドイツ語を話す芸者」に衝撃ww
逆に考えればイギリスやドイツ並みの信頼性の高い液冷エンジンが作れたら
飛燕はずば抜けた高性能機になってた可能性あるんやな
ムスタングもイギリス軍がスピットファイアのエンジンに換装してからその性能の真価を発揮したっていうし
ロールスの優れたのは2速2段過給器。GEも造れなかった。ライセンスでは米国造ってますが。
当時、四式戦と五式戦に乗ったことがあるパイロットに話を聞くと
「五式戦は乗りづらく、それに比べて四式戦はすごく操作しやすい飛行機だった」と言ってました。
なんかFW190ぽいですよね疾風
確かラダーペダルが四式より細く脚を入れづらかったので義足の先を落として鉄の脚を晒した。
若い女学生の前で鉄の脚を晒すのはためらわれたが、黒江少佐が
お前でないと敵に勝て無い。
海軍の坂井(三郎)は片目失明しても戦っているんだ。お前ならできる。
と言われて足先を捨てた。
と檜與平氏が回顧してましたね。
@@快舟フィレット周りの設計にフォッケウルフのデザインを参考にしたらしいですよ。
キ100(五式戦)が搭乗員の評価が高い理由としては、一式戦隼の後継として受け入れられたのではと思う。四式戦は二式戦程ではないにせよ高速重戦闘機。元々、中戦闘機を狙った三式戦の空冷エンジン化のキ100は速度は落ちたが、上昇力、旋回性能を発揮し、搭乗員は隼の正常進化と認めたのではないか。
四式戦は二式単戦に隼の要素ぶち込んだ機体って設計者ご本人が言ってますしね
子供の時、ついに買わずに終わったプラモがコイツだった。 排気管の処理が当時輸入されたFw190を参考にしたモノってのはつい最近知った事です。
うぽつです。陸軍機の解説って少ないからありがたい。そして興味深い内容で楽しませてもらいました。
イギリスの博物館の解説にある言葉は当時の日本の技術事情を表しているような気がする。堀越次郎などの設計家などがどれだけ頑張っても相手はその上をいこうとしてくる、零戦の初陣の圧倒的な戦果に気を取られ弱点に気付いたときには既に遅かった。本当に悔しいのは技術者たちだったと思います
開発自体は始めようとしてたけど、発注者の海軍がいらないって暴力まで使って訴えてくるんだから仕方なかったところもあったね。
@@Seaza_Sr1
海軍はちゃんと次世代艦上戦闘機の開発には意欲的でしたよ
それでも十七試まで期間があいてしまったのは十七試艦上戦闘機、所謂試製烈風に見合うエンジンが完成してなかったからです(誉では馬力不足だった)
@@そらきち-u4t もっと早くに開発出来たのに、海軍の馬鹿が2000馬力級の発動機なんかイランって技術者を殴ってまで反対して足を引っ張ったから出来なかった、と当事者が証言してたのを昔のテレビやら本やらで見た記憶があるが嘘だったのかな?
@@Seaza_Sr1
十七試艦上戦闘機の試作指示は1942年4月でしたが、実はそれより1年ほど前に十六試艦上戦闘機の内示が出てたんですよね
その当時は三菱の設計班が量産体制に入ったばかりの零戦二一型の不良改善と三二型など零戦の改良、雷電の開発に追われてる状態で手がつけられる状態ではなく、また誉やハ43などの高出力エンジンの実用化ができてなかったため結局十七試艦上戦闘機まで間を空けることにしたそうです
@@そらきち-u4t 俺が見たり読んだりした話と違うな、俺が見たり読んだりしたのは上に書いた通りだったんだが。
海軍やその関係者が戦後になって言い訳(嘘と捏造)しだしただけなんじゃ無いの?海軍はこればっかりだから。
9:30 別に人情だけじゃなくてハ40エンジンの生産ラインを遊ばせないためって理由もあるぞ
唯一の現存機と言われているコスフォードの5式戦今でもエンジン始動できるのだろうか?(雑誌丸の表紙写真の時点で1986年だが記事によると部品の不足で再始動不可となっている)飛べないまでもエンジンが稼働するだけでも素晴らしいが。今後も大切に保存してほしいものです。
生産数もゴミ。
性能もゴミ。
日本機の中で最大の駄作。
@@hosoyalaurence 正式採用が昭和二十年なんだから生産機数が少ないのは当然の事なんじゃないのかね
@@user-rd3rx5lt6r 原型機・エンジンは、全然、新技術じゃあない。
主力は空軍・諜報の時代に移っていたのだから、その程度は計画できた筈。
@@user-rd3rx5lt6r 2式戦闘機・4式戦闘機と違い、独自性が低い。
だが、独自改良も甘いのでは、新機種として全く意義がない。
@@hosoyalaurence それと生産機数の話ははあまり関係無いんじゃないか?
飛燕の設計者が月刊誌「丸」に、45年くらい前に飛燕の設計と製造に関して、投稿していました。
設計者が言うのには、日本は生産技術が無くて、設計が良くとも、製造段階で良いものが作れなかった。
簡単に言うと、当時は、ボルト1本の品質が当てにならなかったそうです。
hirobon1023 さん
お疲れ様です。その頃の軍需工場では労働者は戦場へ駆り出され、挺身隊として女性が軍需工場で働いていました。なので作られた部品の、精度は戦争開始前より落ちていたそうですよ。
韓国のせいで挺身隊は慰安婦とのイメージがついてしまいましたがとんでもない話です。
ドイツでは軍需工場での熟練者は貴重だから軍隊の徴兵は免除にして居たが日本はなりふり構わず徴兵してせめて工場の熟練者や勤務者を徴兵したなら軍が管理している工廠や機械関係を扱う部隊に配属すれば良いものを歩兵部隊に回して消耗品にした
熟練の職人を一律の一銭五厘で徴兵するから部品精度が低下し生産性が低下する。
なにしろ去年91歳で死んだ母親が「私に零戦のプロペラの軸を削り出しさせてるんだから負けるの当たり前」と
と笑い話にしていた。「だって、その前まで風船爆弾の気球を和紙で作ってたんだよ。旋盤何て無理、無理」
為せば成るで万歳突撃はできてもちゃんとしたボルトは作れませんってこった。
@@nuruosan4398
>自分は会社にとって必要な人間だと思ってても
>会社はそうは思っていない事はままある事なのです
.
日本国有鉄道清算事業団で遊んでた穀潰し共の事かー
@@-msc アメリカなら、おばちゃん、お姉さんが作ってもある程度のモノができるように生産システムを組むんでしょうが、そういうのは日本人は不得意だったんでしょうかね。B-29をおばちゃんが作っている動画をどこかで見たのでそう思います。
まともな素材と燃料があれば、パイロットの育成と特攻などに消耗しなければ技術的に難しくてもなんとか出来る技術屋さん、海軍と違い零戦に固執せず、また、無理難題を押し付ける海軍さんとは違う一面があり陸軍機も四式戦などバランスの取れどこかゴツいところが良いね。
航空戦力に関して言えば、陸軍の方はどっか割り切って考えていた節がありますね。
「どうせ我が国の工業力では大したモノは作れない。ならば適切な運用と、きちんとしたバックアップでなんとかしよう」てな方向で
@@MrTamoya 聞いた話だけど
陸軍:無理難題は吹っ掛けるけど達成できるなら良いが多少悪くても「そのうちなんとかせい」って言ってある程度融通きかせる
海軍:無理難題は同じように吹っ掛けるけど根性が足りんから達成できんのだ!ってキレる
らしい
陸軍が海軍の行き当たりばったりか、付け焼き刃なやり方に反対してたのは、結果的には正しかった方が多かったからなぁ。
その後に海軍に賛成して行った行動(対米戦)では、陸軍部隊は海軍のせいでほとんど死に絶えてるし。
一撃離脱の採用とかレーダーの導入とか
陸軍の方が技術面、戦術面では先進的なものが多いと思う。
ハセカラ
陸軍は97式戦闘機さえ「多少の重量増加による諸性能の若干の低下、特に格闘性能や航続距離の低下には目を瞑ってでも」ノモンハン戦の後には燃料タンクにゴムと絹フェルト式の防弾タンク付(この為格闘性能は海軍の96式艦上戦闘機より低下したが、防弾には極めて有効)にしてます。
@@jagaimo3839
ホントそれ
一般のイメージとは真逆でむしろ陸軍の方が先進的なものは多い
あきつ丸とか世間じゃバカ扱いだけど今の強襲揚陸艦の先駆けだったりと相当世間に誤解されてる事が多い
技術面だけでなく戦略面でもそうなんですよね。陸軍はあくまで補給可能な範囲での戦争を考えていたのに対し、ソロモンやアリューシャンなど航空機の航続距離だけを頼りに無茶苦茶な戦略展開を強行したのが海軍。戦後の「陸軍悪玉論・海軍善玉論」はウソもいいところだと思います。
@@mop09drg
どう考えても、日本にとって海軍がスキルス性のガン細胞だったのに、何でこうなる?と悔しくて仕方がない😖(>_
落ち着いた解説で好感が持てました。
5式戦に好感が持てるのは、身の丈サイズ、出来ぬ事はしない、
出来る事を粛々とする、精神論や根性論に頼らず、、
現実を直視し出来ること出来ぬ事を見わめ、出来る事に
全力を傾注する。
敵の物量を言い訳にせず、同じ負けるにも夢想の果て現実逃避
の瓦解の空中分解では無く、組織的抵抗を保ったまま正しい
負け方をしてもらいたかった。ナァー;
元々あった機体のポテンシャルが発揮出来たんでしょうね。800㎞近い速度からの急降下の引き起こしでも主翼に歪みが出なかったみたいですから
でも五式戦の誕生のしかたが自分は好きなんですよ。
五式戦が良かったと言うより、日本が出来るエンジンが空冷星形1500馬力が精一杯だったから1500馬力エンジンで出来る最良の戦闘機を目指すべきでしたね。
同意しますが、なにせ軍幹部がブレブレでしたからね・・・・・・・
そういや零戦も金星積んだ54型は本来の性能を取り戻したと絶賛されたらしいですね
空冷水星のをポン付けしただけなのに…
まあ数機作って終戦でしたが
史実よりも2年は早く実戦でき得たのではないかと残念な気もするのですが。
@@sei-unさん 金星に換装して、さぁ大幅な性能向上と思いきや最高速度に関しては20キロ向上したのみであとは特に見るものが無いため試作2機で中止でしたね
非常に公平な目を持って解説されているのが素晴らしいです。しかも解り易い内容なのも好感が持てます。個人的には現場レベルでの日本の技術力の低下の一因に、工場勤務者の徴兵が拍車をかけたと思っています。
その工場勤務者もまじめに働いていたとは言えず、
飲む打つ買うは当然、喧嘩は日常茶飯事でちょっとでも気に食わないことがあるとすぐサボる、品質は安定しない上に数は出てこない
でしたからね。
何の手記か忘れてしまいましたが勤労動員の女学生達が熟練工員達のあまりにいい加減な働きぶりに絶句したと言う話を読んだ事があります正規工員達が対米英戦を知り真剣にやっても勝てっこないと思っていた(だからノルマ果たせりゃそれで良い)可能性はあると思います。
私も女工さんが部品の取り付け方が余りにいい加減な指示なので、怒られるのを覚悟で監督役に相談してやっと改善されたと言う話を聞いた事が有ります。
ただ私自身の個人的の意見なのですが、工場へ派遣される軍人(軍属)は工業素人が多く、そんな素人の高圧的な指示で作業しなければならなかったり、
工場の機械化が整っておらず手作業が大部分を占め、当時の日本の戦闘機は翼を胴体に差し込むタイプが主流でして、それを左右のバランスを整えなくちゃならない。それを木槌で叩いてやれとか言われ続ければ、多少なりとも馬鹿馬鹿しさを感じてしまうのかなぁと思います。
また、現代の「ちゃんとしている」感覚で見るのは要注意ですね。
現代の高品質の陰には、中頃~後半に出回った兵器に不良品が多くて使い物にならない物が多くて困った経験が、過剰なまでの高品質に繋がっているとの
指摘もされてますしね。ま・当時の工業能力では現場に苦労させて無理やり解決ってのが主流でしたし・・・。
@@ほいさっさ太郎行員さん達を責めるのも気の毒でしょう。
食料事情が良くなく勤務を抜けて食べ物を調達に行かなければ家族全員飢え死に
しかねなかったそうですから。
この当時の日本における「エンジン開発能力の限界」の様相を下敷きにして、
今現在の車両搭載新時代エンジンでの競争を見ると少しは雪辱を出来たんじゃないかって思う。
展開はフォッケウルフといっしょ。
水冷エンジン用に細身の機体を設計したが、エンジンが手に入らず空冷エンジンを付けたところ
思わぬ名機が出来上がった。
細い機体に大きなエンジンは意外に抵抗が少なく、形にこだわって胴体を太くした雷電はむしろ失敗。
しかし、そんなに欠陥あっても3000機近く作るんだよなぁ…
四式戦も3400機、二つ合わせると一式戦よりたくさん作ってる。
レール方式なので翼の取り付け位置をかえられた。凄いことだ。重心位置を最適化できるのだから。
軽いエンジンから重い、馬力の増えたエンジンに零戦は大幅な変更はできなかったのではないか。
重いエンジンに積み替えができない飛行機は致命的欠陥があるよね。
スピット・ファイアーは次から次へとエンジンを積み替えて、最後まで戦えたね。レール方式だったのかな。
⊃鉛弾バラスト 飛燕も、主翼の移動で調整しきれなかった分、尾部にバラスト入れて釣り合い取ってる。
戦後昭和~平成半ばまで出版された日本陸海軍戦闘機を解説した書籍類を古書店で購入して読むと「燃料とオイルを補給すればエンジンが回る」と言ってキ-100の稼働率の良さをベタ褒めした記事が有ったが、当時何もかも不足だった日本でキ-100が搭載した「金星」発動機だけが「出来が良い」というのは不思議な事だ
・・・実際は日本本土内での飛行による部隊移動でも「脱落機」が多かったようで、(キ-100が)他機に比べ突出して稼働率が良いわけではない
動画にある通り、キ-100は大戦最末期に「間に合った」陸軍戦闘機として奮闘し戦果を挙げてはいるが当然「それなり」の損失も出している
しかも長距離侵攻してくる米軍戦闘機に対し、キ-100は本土基地からの全力出動という極めて有利な邀撃戦で「辛うじて」互角に近い状況だったことから、手放しで高評価する昔の解説本には違和感が有った
彗星とかのアツタエンジンも意外と稼働率は良かったと書かれている。栄エンジンと、金星とアツタエンジンとかは良かったらしい。でも、紫電改の誉エンジンが悪かったという記述もあまり見つからないんだよね。
ドイツでも最前線での整備が大変で、飛べない戦闘機で溢れていたという話がありますから、当時の日本では絶望的だった事でしょう。
戦争という非常時に確実に使えて、そこそこ性能があるものを生産出来なければ、意味が無いという事を証明していると思います。
個人的にはⅡ型の涙滴型キャノピーのシルエットは好きなんですけどね。
設計者の土井さんも、泪滴風防の二型を押していましたが、五式戦はなんとなく、飛燕の改造型って感じの一型が好きで。二型は、零戦に似ていて。素人からすれば、零戦だと思うよ。
@@室井修-k1r さん
涙滴風防が採用されたのは
ニューギニアの戦いでベテランの木村少佐が素人同然パイロットが乗った米軍機に後方からいとも容易く撃ち落とされ戦死した事を重く見た陸軍が調査した結果
木村少佐が乗っていたキ61(三式戦)は後方視界が悪く、敵に後ろから狙われやすい。もし隼や鍾馗、海軍の零戦みたいに後方視界が良い機体なら助かっていた
と言う結論を導き出したです。
米軍がP51やP47で涙滴型風防を採用したの後ろから撃たれて撃墜されるケースが頻発、特にカービィー大佐が撃墜されたことでP38のエースであるボングや民間人のリンドバーグが涙滴型風防採用を迫ったから。
動画である昭和20年7月15日(7月16日とも?)、数に圧倒されながらも、五式戦に搭乗してP-51を撃墜したのは檜輿平少佐。
檜少佐はかつて飛行64戦隊(加藤隼戦闘隊)に所属し、南方戦線で活躍していた撃墜王だったが、日本軍として初めてP-51
を撃墜した男だった。
しかし、その後B-24を撃墜した際に、不覚にも護衛のP-51に奇襲され、被弾し右脚を切断する重傷を負いながらも、血のに
じむ努力と敢闘精神で前線に復帰。
上記の戦いでP-51を撃墜し、右脚の借りを返した伝説を残した。
この通り、P-51の因縁含みの人で、かつ五式戦と言えばまずこの人の名前が挙がるであろう。
ロールでP-51の攻撃を回避した熟練搭乗員も、檜少佐の可能性もあるかもしれない。
人情でゴミエンジンごり押しされたら現場はかなわんですよね。3式戦なんか島から島へ航空隊が移動するときにそれだけでエンジン故障で脱落・殉職がザラだったのに…
五式戦の試作が比較的順調だったのは
どうも土井技師自身ハー112搭載も視野に入れて設計していた節があります。
比較的すっぽりハマったのがその証で
もし三河地震で三菱のエンジン工場が崩壊してハー112製造が止まって無かったら、既存機を改造して大量生産され、外戦部隊にも配属されていたかも知れません。
毎度安定の的を得た解説ありがとうございます。
逆にいえば、本機と馬力は大して変わらず、重量ははるかに重いムスタングは余程高い設計であったことだろう
本機と同じエンジン積んで重量は軽いのに性能は下という零戦54型丙。
英国にある唯一の現存機体は、一時期マイルストーンとして展示されていたから、世界的、歴史的にみてもその特異の経緯で開発された割には優良な機体だったと、英国も判断したのかもしれないね。
日米との間で、機体及び熟練度が大きな差があった時期に登場しながらそれなりに戦えたとしたら、
もう少し早く生産されていれば、戦闘で生き残る登乗員が増えて、熟練度の低下に少しは歯止めが掛かったかもしれないな。
土井技師の言うことは非常によくわかる。結局洋の東西を問わず「人情」ってのはかなり大きなファクターを占めていると思う。米軍もニミッツとマッカーサー、ルメイとアーノルド、いろんなところで確執が顔を出して戦略・戦術がぶれている。ただ、米軍にはそれがどっちに転んでも勝てるだけの余裕があった。
新谷かおる先生の漫画「日の丸あげて」
で五式戦を知りました。
同じ末期に登場した紫電改より活躍してますな
情熱と勇気、それとやる気があれば技術者の作ったものは心から感じ取れる何かがある
マッピーの余った基盤流用で大ヒットしたドルアーガを思い出した。何事も計画通りには行かないものです。
液冷エンジンはダメなのに写真と設計図の断片からジェット戦闘機とロケット戦闘機は造れる謎よ
種子島大佐がドイツの技術到着以前に研究していたのであった。
ドイツから到着したユモジェットエンジンの図を見ただけで大佐は十分理解出来たと言う。
継続できなければ無力
飛燕のハ140はクランクの焼入れが十分になされて居らず所々焼きが入って無かった。
軸受けがテーパーローラーベアリングであったが3/1000ミリの精度が出て居らず精度の良いものを熟練工が選んでいたが熟練工が兵役で居なくなり生産ができなくなった。
あと試作だったので試験飛行で良かったので陸軍が急に作らせたので技術が追いつかなかった。
愛知航空機は水メタノール噴射装置を付けなかったので比較的生産出来たが結局は金星6型になった。
とはいうものの、ネ20の推力はユンカースjumo004の約半分しかなく、そのため橘花の速力は本家Me262より約200km遅く、米軍レシプロ機のP51やF8F、F4Uにすら劣っていたというあたりは、当時の日本の技術力の限界だったということだろうね。
優秀な技師や先進的な発想はあっても、それを完成品にするための工業力が日本にはなかったということだろう。
かもしか侍 さん
戦後直後の技術者の合言葉はアメリカに技術で負けたので次は勝つ。
ソニーの盛田氏は海軍技術中尉だったが敗戦後に今度はニューヨークマンハッタンに日章旗を掲げて見せると言ってその夢は叶った。
ああ・・さすが深謀熟慮の英国だね。
なんか 泣けてくるよ。
聞けば聞くほど悲しくなる・・・
@@呑龍ハルカ 栄が燃費良すぎたんや...
@@呑龍ハルカ 2式戦は評判が良くなかったらしいからそれもあるんじゃない?
@@うんちねる-n9b
不意自転からの墜落事故、ハ41の低い信頼性、20mm機銃の入らない15平米の小さい主翼など、置き換えられてしかるべき内容でしたね。
また、上の危険な飛行特性から搭乗員には一定以上の飛行時間が、資格条件として設定されていたそうです。
日本帝国の致命的な欠点は「陸海の総合参謀本部を創設しなかった事」だなぁ。
これを真の意味で達成されていたら大分違っていた。
その反省からか、今の陸海空自衛隊は世界的に見ても異様に仲が良いらしい
山下奉文って将軍が提言してたとか。この方もまた、石原莞爾みたく、東条英機に疎まれたらしく、提言は無視されたとか。
好きだなぁ五式戦…
6:03この動画は初めて見たな。とても貴重な歴史的資料だ
5式戦は高高度性能も疾風より優れてましたが、これは流用した金星エンジンが司令部偵察機用として過給機が高高度用にチューニングされていた事も大きい。
@田中一郎 金星エンジンに排気タービン積んだ型なんて無いが…
@@skysierra2171さん
一段二速過給機でも二速目の全開高度を上げていたようです。
但しハー112の排気タービン装着型は試作されてます。
冷静な解説、good jobです。楽しませてもらいました。
海外で日本軍機が過大評価される傾向にあるというのが意外。てっきり日本国内の方が過大評価しがちなのかとばかり。
欧米では機体の性能試験の際に武装などを取り外したテスト専用機を使うので、実際の機体よりも優秀な性能を発揮します。
逆に言えば実際の機体の性能は数字ほどではないので、カタログスペックを見比べるだけの現代と違い日本軍機と実際に対峙した場合は手強い相手という印象になるのでしょうね。
昔から設計は優秀だった。基礎技術が不足していた事の反省は戦後に生かされ、自動車産業でメイドインジャパンが世界を席巻した事が先人への手向けになったかもしれない。
先日各務原の博物館に行ってきて目から鱗状態が続いています。
初見です!
五式戦闘機は日陸戦闘機の中で1番好きな機体なので解説して貰えて凄い嬉しいです!!
動画凄い面白いです!!これからも頑張ってください!!
終戦間際の琵琶湖上空の空中戦は有名ですね!
ハ140はまさしく、戦前のコンコルドだった訳だ。「こんだけ投資したんだから」が身を滅ぼす。
あんまり言及されてないけど
陸軍内で高評価だったのは武装の影響もあるかと
ホ5の機首装備に加えて装弾数も四式戦より多い。
同調装置で発射速度落ちても主翼装備より良かったのかと
大口径少数装備のロシア機でも機首周りの装備にかなり努力している。
上手くまとめられていて理解しやすく、聞きとりやすい素晴らしい動画でした👏
よく過去の日本が、技術不足だった主な原因は「国民性」や「資源不足」が原因と言われていたりします。
ですが私はそうは思いません。
おそらく早すぎたのでしょう、先進国になるのが。
本来ならば、長年の歳月をかけて先進国化、もしくは莫大な工業力を生かして先進国化、もしくは戦争に敗北し学ぶ、運がいい。
イギリスとアメリカとドイツとソ連はこれです。
ですが、この頃の日本はどれにも当てはまりません。
鎖国解除から約200年で先進国になり、島国なので莫大な工業力があるとは言えません。
そしてこの頃の日本は一回も負けたことはないし、運がいいとは言えないでしょう。
今の日本は技術大国といえるほどの技術があります。
これは戦争に敗北し学んだからでしょう。
国民性が主な原因なら、今の日本は技術大国にはなれなかったでしょう。
資源不足が主な原因なら、ドイツは終戦直前もなぜあのような技術大国だったのでしょうか?
確かに資源があれば、もうちょっと技術的に成長できたでしょう。
国民性がもっと良ければ、技術的に成長できたでしょう。
ですが、どれも主な原因ではありません。
「隼」「疾風」みたいな愛称を付ける余裕もなく敗戦
戦争後期に入っても隼がビルマなどでは結構善戦していたことを思えば、5式戦が43年ごろ戦力化で来ていれば空の戦いの様相はかなり違ったものになっていたはず。当時の日本の技術では液冷エンジンはやはり無理だったのだろうな。ソ連のクリーモフ M-105もイスパノ・スイザ 12Y を無理やり高出力化したもので、結構扱いずらかったらしいし。
金星エンジンは元々海軍専用だったので、残念ながら1943年頃はまだ陸軍に廻す余裕は無かったはず。
@@エレキング-r4k さん
実際には百式司令部偵察機3型で既に採用されてましたよ。
そもそも零戦52型丙が金星積む予定で武装と防弾強化したのにエンジンが間に合わず、重量増で本来の持ち味を失っても栄のまま出すしかなかったわけで。1944年後半の零戦がそんな状態だったのに43年に五式戦なんて夢物語ですよ。そもそも飛燕自体が43年採用なのに。
ダイムラーの水冷エンジンには出力強化型が存在したけど、エンジンに使われたインジェクションシステムは現在のボッシュ製。
日本は初期の水冷エンジンに続き、法外な金額で技術移転を申し込んだけど、ボッシュが頑なに拒み手に入らなかった。
自国での改良高出力化を目指したけどインジェクションの問題は解決せず、今の日立が自社開発するまで根本的な解決に至らず、その後も開発初期の技術の不安定がよりいっそう水冷エンジンの未来を閉ざした。
俗に5式戦と呼ばれた機体が、素性が良くて誉増産計画に影響を受けない中性能のエンジンを載せた事で、とにかく飛べる、エンジンがかかる、必然的に戦う為に信頼性の有るそこそこの性能の機体に人気が出たと言う悲しい話。
素晴らしい内容の動画です。
もう、六式はないと皆が思っていた時期に、これが最強と言わざるをえなかった戦闘機の搭乗員たちの哀しさを想います。
いや、隼を乗りこなして、P51やスピットファイヤや、サンダーボルト、P38とかと戦っている方からすれば、悲しくはないんでしょうよ。これで十分戦えると。
むしろ、高速な重戦闘機に代わられたりすると、殺人機とか言って忌避する。海軍の雷電とかはその典型だし。震電なんかも量産しても、乗りこなすまで大変そうな気がする。戦時中にできたのか疑問。
有り合わせの急造機とか愛称つく暇もなかったとか五式戦すらあだ名とか
ロマンは溢れてるよね
あと純粋に見た目が一番好き
たしか陸軍のドイツ駐在武官の話で
「海軍がDB601エンジンのライセンス購入しようとしてるから先に購入してしまえ」と話が来たので話をもっていったら案の定、海軍の駐在武官から「その話は海軍が進めているから陸軍は遠慮していただきたい」と言って来たので「そのような話は本国に問い合わせ無くてはならない上、お互い現地に居るのでどうにもならない」と突っぱねた。
なんて秘話を雑誌で読みました。
やっと出て来た・・・、エンジンの変更を前提にした翼の位置を変えられるって先進的な設計の事・・・。
そこが味噌なんですよ・・・。
FW190D「われら!」
La-5「エンジン変えたら!」
Yak-3U「なんか思ってたより!」
五色戦「性能良くなった組!」
DB601のライセンス契約の視察の為にドイツに行ったときにドイツ側から「貴国にはこちらの方が向いていると思うが」とユンカースJumoエンジンを勧められたそうですが日本側がDB601に固執して突っぱねたとか。
ほかならぬ川崎の林貞助技手が、ベンツの技術的必然性というより趣味に走った造りをみて「日本の(つーか川崎の?)技術じゃムリだからユンカースにしましょう」て意見具申してつっぱねられるんだよな。この人は後にハ140のパワーアップ策として、エンジンの気筒圧縮比上げるんじゃなくて、中間冷却器追加して高ブースト化しようって発案して、やっぱりつっぱねられてる。
風立ちぬの冒頭にいきならネピアライオンエンジンがでてきたは驚いた。必死だな
エチレングリコールは、第3石油類水溶性 引火点111度 発火点398度 沸点198度 指定数量 4000L
海軍は、ドン児玉誉士夫が、タングステンやニッケル等共に、ヒロポンや偽札を使って入手してました。
陸軍は、貧乏だったのですね。
陸軍の各種公文書上では五式戦闘機(あるいは五式戦)の呼称は一度として用いられておらず、キ100とだけ表記される。他の陸軍機に用いられた公式愛称、また本機固有の連合軍コードネームも存在しない。ただし書類上などでは便宜上「Tony II」とされたことがあったらしい
熱田のエンジンは巡り巡って、いまはセレナとか日産系のエンジンに息づいてますね。
中島三菱川崎の3社の中で
川崎は試作機の作成には特に気遣い
丁寧に丁寧に仕上げるものの
量産時にはそのあたりが雑になり
試作機の性能は抜群でも
量産機で性能がガタ落ちする
傾向があったという主旨のコメントが
渡辺氏の飛燕の本に書かれており
職人技の世界から抜け出せていない
当時の日本の基礎工業力の
限界を垣間見た気がしました。゚(゚´Д`゚)゚。
愛称も無ければコードネームも無し…。一式戦隼とか四式戦疾風と並ぶプラモの中で、五式戦だけゴシキと書いてあり強い違和感を覚えたものです。軍関係者にしてみれば、有り合せの間に合わせ、応急のやっつけ仕事みたいな感覚だったんでしょうか。レストアされた五式戦は新鋭機の雰囲気を漂わせていますが、写真に残る五式戦はいかにもツギハギな感じです…。
きちんと動いて、性能が安定してる。
これに尽きるんだけど、末期戦を戦ってる日本にとってこれは重要だったんだよなぁ
飛燕の機体の頑丈さからくる連合国機顔負けの800km/hを越える急降下性能は、不意打ちを喰らっても急降下で逃げられるからパイロットとしては安心だろうな
旋回運動が悪すぎる。
なんだろう、なんだか切なくなってくる。
五式戦闘機について、その実力について結構辛口というか、ま所詮1500馬力クラスだから・・・みたいな評価をする人が多いけど。
僕は、例えばP51ムスタングと戦っても十分「互角」で戦える実力があったと思っている。
要するに高度なんですよ。
P51は時速700キロ超えの速度を誇っていたっていうけど、あくまで燃料も少なくして、銃弾はもちろん機銃すら取り除いての速度なんだよね。
しかも、それは超高高度での話。
つまり実践においては、高高度でも600キロ台後半。
低中高度では600キロ前後の速度しか出なかった。
五式戦と大差ないんだよね。
実際、低高度では、隼Ⅲ型でP51を追いかけられたって証言も残っているし。
なので、低中高度では、速度・急降下性能・横転性能でP51がやや有利。
逆に上昇性能では五式戦がやや有利。水平旋回では五式戦が断然有利。
てことで、あくまで低中高度に限れば十分「互角」で「絶対不敗」は納得できる。
と、思う。
ま、実践においては超高高度をB29を護衛しているP51と戦わなければならない場面が多いわけで。
その点、まあそのへんの根本的な問題はあるんだけど^^;
なるほど、水冷エンジンを見限るタイミングという要素があったのか…
早期から空冷エンジン換装案があったなら、液冷エンジン型と同時に開発すればよかった・・・・
そんな余裕はなかったのだろうけど・・・
エンジンカウルを黒に塗装したら角度によっては零戦に見えなくもないかもですね
川重も中島も三菱も川西も、いい勉強になったな。今そう言うしかないよな。
日本は機体設計の技術は高かったが、エンジンの技術は低かった。
まともに動き、量産できる液冷エンジンとオクタン価が高いガソリンがあれば、もう少し違う戦い方が出来たかもしれませんね。
2000馬力の誉は91オクタン価ガソリン使用前提のエンジンだが91オクタン価ガソリンは国内では生産出来なくて南方から供給絶たれたら87オクタン価に水メタノール噴射で誤魔化し更に粗製乱造での品質低下に松根油なんてのを使わないといけない体たらくで戦時下での体制をまともに考えていたのか怪しい理想主義では戦争出来ないよ。
但し搬送できなくなった分、南方の揮発油は豊富で飛行隊ごと錬成の為に南方へ行く部隊も有ったようです。ハ40系列の悲惨な状態は、海軍のアツタ系列の状態(三二型でも、そこそこ好調)を見ると陸軍側の稀少金属への執着等の航空行政指導に主な原因がある気がします。
ちなみに期待された”松根油”ですが第二次精製での水素添加設備が無い陸軍では無理だったそうで、徳山の海軍第三燃料廠で一部製造が行われて居ます。分子構造から高オクタン価は期待できず長く置くと変質したようですが、取りあえず500リットル程度が製造されたようですね。
@ 松根油ですがこれには軽油と重油があったとか?
軽油の方はレシプロ機に使い重油は特殊攻撃機橘花に使うことを考えていたらしいです。
@@straker1701 軍関係者は理解していなかったようですが、性質上、松根重油をそのままネ20で使用するのは無理です。しかし何とか使いたかったらしく(笑)ガソリン含有率30%の松根重油を使用する前提としていますが、まあ、これさえ支障が出るのは想像に難くないですね。まったく現実が理解されないまま国家プロジェクトで作られた松根油が実は役立たずだったのです。開戦前に「水からガソリンが出来る」という説に軍部が本気で騙されそうになったことがありましたが、松根油も同じような感じですね。
土井技師や堀越技師が戦後もいろいろメディアに出る勇気があったのはすごいと思う。とても誇りに思えるような飛行機ではない。小山さんの作った飛行機は対照的だが、当の設計者は戦後ほとんど露出しなかった・・・。
小山技師は、大戦末期中島飛行機が岩手県に疎開した際に岩手に移り、戦後は林業機械メーカー現在のイワフジ産業の技術者をされていました。
パーツを取り替え引換してて、動いたら思わぬ性能を発揮した。ラジコンや自作PCみたいなもの
本来、そうあるべきなんだな。エンジン交換で高性能化すればいいんだけど、フルモデルチェンジしすぎで。
烈風と似たような感じとゆうのは飛躍しすぎてすかね、でも五式戦は活躍できただけでもよかったのかな
ベトナムで鹵獲された五式戦はイギリスにある。
摩擦抵抗は空気抵抗全体の2%ですよ。超音速機でも摩擦抵抗ガーっていう人いますけど
せっかくハ40の話も出たし、今度どこかでエンジンの解説もやって欲しいです。