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17:15阪急初の冷房車は確か5200系だと思います。神宝線が1500V昇圧時に登場した5000系の冷房版で、5100系はその後の神宝京共通仕様目的の形式と何かの解説本で見ました。阪急はその頃、おおよそで形式は○000系は神戸線、○100系は宝塚線、○300系は京都線という感じですが、5100系と最近の形式は例外です。
その頃東の赤いハマのあんちくしょうは目覚めてなかったんだろうなぁ。私鉄王国関西ならではの逸話ですね。
1967年生まれです。小さいながら、がっちりした車両のP6型を上新庄駅で見た覚えがありました。間違いなかったみたいです😢
戦前の関西の私鉄は名車が多かったですね。1936年の「職業野球」開始の際に阪神・阪急、少し遅れて南海が参加したのも当時の関西の私鉄に勢いがあったからなのでしょうね。
初めて聞く逸話もあって楽しませていただきました。成り行きで河原町から淡路へこの形式の急行に乗り合わせたことがありました。直線区間の爆走ぶりは記憶に残っています。
1980年頃、こんなことがありました。吹田総合車両所の東海道線(JR京都線)から見える場所に、「流電」モハ52が移動されてきました。すると、時期を合わせたように阪急正雀車庫は「P-6」を東海道線から一番近い線路へ移動させました。当時の国鉄と阪急の間になんらかの話し合いがあったのか、単なるライバル意識か、全くの偶然かは不明のままでした。
重戦車とも呼ばれ 嘗ては開業前の新幹線のレールも走行したP6。
新京阪開業の時点でボックスシート車だけでなくロングシート車が投入されていたとは知りませんでした。頑丈な車体だったからこそ50年近くも走り続けられたことと思います。今の阪急京都線の伝統はデイ100に始まったことが良くわかる素晴らしい内容でした。ありがとうございます。
速度計はありませんでしたが、枕木間隔・レールのジョイント音・架線柱間隔と鉄道時計の併用などで容易に速度はわかったそうです。
国電でも速度計が全ての車両に整ったのは60年代中盤以降です。それでも乗務員は体幹で速度がわかったいたとのこと。まさに職人ですね。
Oldman阪急です。まさにおっしゃる通りです。👍万一の速度計の故障に備え、速度計にフタをして目隠しした状態で、現在の速度を観測する訓練もあるぐらいです。😌🍀
阪急はこのP6を始め、神戸線の900など、数々の名車を昔の華やかな時代の姿に戻して復元、保存しているのが、素晴らしい。現在これらの車両たちは正雀に保管されているが、一般の人たちにはフェスティバルなどの限られた時にしかご開帳されないのは、なんか勿体無い気もする。やはり正雀に保管されてる、昔の宝塚電車館の資料や備品、模型などと共に、これら保存車両も通年公開する施設、阪急ミュージアムなるものを作ってくれたらいいなぁと思う。
そもそも阪急は京阪からの泥棒が多くて当時の出資者にかなり恨まれているからね…京阪出身はそこまでやらないかも
Oldman阪急です。阪急ミュージアムに賛同ですが、建設用地が…。誰か、正雀車庫に隣接する土地を提供(👈ここ重要)してくれないかしらん?もちろん、建設費用はクラファンで。(笑)😅🍀
@@Midori-Cloverあの辺だと勲英学園の校舎と創価学会の会館があるけどどっちもまだ使ってるし、洛西口の西側の農地買う方が現実的ではないですか?
企業が経営する博物館って、資金だけでなく学芸員の確保や体系的整備など、結構ハードルが高いんだそうで……。昔は形式的に形だけ揃えておけば良かったのですが。在阪私鉄では車体更新車両や電装品更新車両が多く、往時の形で残る車両が少ないことも鉄道博物館開館の妨げともなっています。とは言え工場内で細々と保管されるよりも安住の地を得て保管されるほうが車両にとっては良いはずで、『鉄道遺産』の積極的保存を後押しする法整備と助成金があればなぁ……、とも思います。
@@Timutimu-xp さんOldman阪急です。お返事ありがとうございます。☺️昔と違って最近のお株主様は、利益のリターンにウルサいので…ゲフンゲフン知らんけど。(笑)🤭🍀
100km/hでの運航時代でも速度計がなかったんですね
元々新京阪の車両だったんですね。戦前、戦中、戦後 まもない頃の車両速度計がないのが当たり前だったんですね。
デイ100。貫通ホロの接触面はグリスがたっぷり塗ってあったとか。
聞いた話ですが、燕号と競争するためには、京都方面ゆきで高槻駅の時点で遠くの国鉄線を走る列車の姿(当時は大きな建物などの障害物がなかった)を確認できていなければ競争は無理だったと言われています。また大阪方面ゆきでは線形と下り勾配でスピードが出すぎる関係上競争はできないと聞いたことがあります。並走の弊害で、高速のまま阪急山崎駅付近の国鉄線との立体交差を通過するときに、物凄い衝撃と轟音が発生したとも聞いています。あとP-6の話ではありませんが、当時の最新鋭ビジネス特急「こだま」号に、併走区間で隣を走っていた3両編成の1300系普通列車が終始ぴったり並走していたという逸話が残されています。
残暑お見舞い申し上げます🙇この電車 大出力電動機を載せていたとはいえ その超ヘビー級の重量と ハイギヤードな歯車装置の為 キツめの勾配途中で起動した時は 上り切るまで牛歩のような加速だったと聞いた事がありましたが本当だったのかな?🤔
@@toriri-service さま。喪中のため時候の挨拶はご遠慮させていただきます。手持ちの資料(レイルロード:阪急P-6全3冊、プレスアイゼンバーン:P-6ーデイ100物語ー、鉄ピク等各雑誌)を確認させてもらいましたが、通常の状態で加速の問題は記載されていませんでした。おそらく上新庄駅以東の設計勾配が最大10%であったという記述があったので、それに合わせて設計されていたのであろうと思います。200HPと公称していますが、戦後一時期710形登場までは230HPのときもあったようです。該当するのはおそらく当時600Vの宝塚線を走行して旧梅田駅に乗り入れていた際の、十三駅から淀川鉄橋への勾配と旧梅田駅手前の国鉄アンダーパスにつながる急勾配のことではないかと思います。乗り入れ対応車両36両(44両?)は、電動発電機と空気圧縮機は手動での複電圧切替対応改造(止まれなかったら悲惨な結果になりますので)されたようですが、主回路の電動機や抵抗器の改造は行われなかった(電圧が低くても文句を言わなければ動かすことはできますので)ために、ご承知のような結果となったらしいですね。どのくらい遅かったというと、三複線開通後の話になりますが(当時は京都線部分も含めてまだすべて600Vでした)、梅田駅発車後の上り勾配で、宝塚線小型車にさえ追い抜かれる状態だったそうで、これは全線1500V昇圧まで続いたという話です。今の話で、昇圧前の十三駅の京都線本線上淡路寄り(現在は廃止された7号線合流および渡り線の先)に無電区間らしきもの(設備や標識)があったのを思い出しました。(長文失礼)
参考ですが、当時標準的な神戸線中型車は140kw(約187.7HP)✕4、宝塚線小型車は82kw(約109.9HP)✕2もしくは48kw(約64.3HP)✕4、旧梅田駅国鉄ガードを潜る部分に向かう勾配が40‰だったと聞いています。
5歳の頃から姉と2人で北千里に有る親戚の家に夏休みの度に毎回泊まりに行き、梅田駅の1番ホームへこの列車が入線して来た時のガッカリ感は半端なかった。 2300系や2000系がずらりと並んでいるに1編成だけ古臭いこいつに乗るのが子供ながら恥ずかしかった。大人になってからこの車両の方が味わい深かったなと感じるようになりこの動画を見て更に好きな車両になりました。
本国アメリカのインターアーバン電車だと溝型鋼の通し台枠で魚腹台枠はヘビーレール電化区間のペンシルバニア鉄道MP54とかだったようなサウスショアー線の1500V電車がP-6の元ネタに近いか
一応東海道本線も50kgレールの特甲線規格だったな
イングリッシュエレクトリックデッカー系の電装品か
旧梅田駅を記憶している者としては、あの鋼鉄製の大屋根と停車しているP-6との存在感は、当時小学生だった子供心では『ほわぁぁぁぁ〜』という圧倒感しかなかったですね。普段利用していたのが宝塚線だったせいもありますけども。1970年万国博当時は阪急百貨店東側の通路は、百貨店側半分が地下鉄との連絡通路、残り半分と建設前の阪急グランドビル部分が京都線ホームとなっていましたので、外側からでも停車しているのがわかりました。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN様、当時幼かった自分はその辺りの記憶はぼんやりで姉に手を引かれて動くムービングウォーク?に乗り移るのが怖くて足元ばかり見ていて梅田駅ホーム近くだったかどこかのアーチ状の天井にお洒落なシャンデリアとピカピカの阪急電車から降りてくる身綺麗な大人たちに田舎者の自分はキョロキョロしていたものです。自家用車で移動するようになって梅田駅を利用する事も無くなりましたがあのアーチ状天井はまだ残っているのでしょうか?
今現在は、1両だけ車庫で保存されてますね※動ける状態で
むかし千里カトリック教会に1511号の車体のみが残っていましたが、現在は解体されて残っていません。
復元の際、クロスシート部分の現物が残っていなくて、代わりに社内の備品として事務所などに残っていた、710形等のものを使用しています。余談ですが、900形のときは同じ理由で2800系のものを使用しています。
阪急のイベントでご登場することも有ります これも動態保存されている阪急の努力の賜物ですね!
最近はイベント走行が急遽中止されたり、旧車が一切展示されなくなったりで、動く状態にあるか怪しいところである。
「燕」に挑んだ私鉄電車で、名鉄のモ3300(初代)を出してくれたのは嬉しい。車体だけなら豊鉄時代に乗ったし、更新された車体更新形モ3780は三河線時代に乗った。
余談ですが、おなじように国鉄との併走区間があった山陽電鉄では、おもに特急として使用される事が多かった高速で安定して走行できる高性能車両が登場してきた頃に『国鉄列車と競争してはいけません』という通達が出ていたそうです。小さな踏切が多く危険だったせいかもしれません。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 確かに神戸市内は危険かもしれません。明石以西だと速度は出せても並走区間は無くなるし……
@@schimitch3277 さま。知ってる限り危ないと思ったのは、明石駅(高架化前)〜舞子公園駅ですね。細い生活道路の踏切が多く、まして隣が国道2号線と山陽本線に挟まれていて、国鉄側には電鉄線とは別々に踏切がありました。明石駅ー人丸前駅は高架化されたので、だいぶん改善されたとは思いますが。
おぉ愛電(現名鉄)の名車初代3300形が出てくるとは…。確かにこの頃は各電鉄会社は高速運転の優等列車を続々と誕生させており華やかな時代とも言えますな。
そういえば、『大ドス』ってどういう意味でしたっけ?ごぞんじですか?
P-6が最後に飾った華は東海道新幹線の線路を走った事でしょう。上牧付近から大山崎間の高架化に伴い、仮線としてちょうど線路敷設が完了した東海道新幹線を間借りしたのです。1963年4月24日から同年12月28日の短い間でしたが、0系新幹線電車よりも先に東海道新幹線の営業運転に就いたのでした。
Oldman阪急です。私の師匠が運転士をしていた頃、夜間、新幹線の盛り土区間の上を、P-6に鋳鉄ブレーキシューを沢山積んで往復し、新線の地固めをする役割を仰せつかった事があったと、でも、只の行ったり来たりで面白くないので、そこは「適切に」往復していたと、イタズラっぽく話されていました。もう50年近い昔の話です。😅🍀
京阪間を担う特急としてはオーバースペックな気がしましたが、未完ながら名古屋への乗り入れも視野に入れた車両だったんですよね。国鉄の燕を意識したのか、グリーン車以上の設備を誇りました。
南から大軌と参急が2200形で名阪直通狙ってたわけだし
Oldman阪急です。新京阪P-6がグリーン車以上の設備は、過分なお褒め言葉だと思います。😅第一次車には、防音耐寒を想定した二重窓設備だったり、名古屋延長を前提に21m級の中間付随車の図面も残っていたりします。ただ、1両だけ付随車のフキ500という特別車両があって、皇族や貴賓が乗車する際に臨時列車が運転されていた記録が残っています。車両には、中央に大理石製のマントルピース(暖炉)が設えられ、応接ソファが並び、随行員室、給仕室、洗面所まであったとか。😊🍀
阪急に長年関わられた山口益生氏によりますと、乗り心地の悪さは如何ともし難く、台車に手を加えても改善しなかったそうです指摘されている方もいらっしゃいますが、重量車体との相性や酷使も原因だったのかもしれませんそんな背景もありP6のモーターを流用した1600系は新型のアルストーム台車を履いていました
のちに行われた汽車型台車改良工事のときは、住友金属と汽車製造が担当し台車枠の交換が行われ、住友担当分はKS33Eに改造されましたが、汽車製造が担当したものは多種多様でなかでも第二次改造台車4両分は、ボルスターアンカ・オイルダンパー・枕バネのコイルばね化が行われて、とくに乗り心地が良かったそうです。結果的に枕ばねの改良が良かったそうな。あとJ.E.ブリル社のパテントで日本製鋼所が制作したブリル台車2両分は格段に乗りごこちが良かったそうです。
戦前関西私鉄、新京阪電鉄と阪和電鉄の飛ばしっぷりはガチ。後者は超特急から逃げるため貨物用機関車までジェットカー仕様でした。
阪和線は戦後もEF58が貨物牽いてましたから(゚∀゚)(゚∀゚)
@@schimitch3277 龍華のブタ鼻🐽仕様ですね。シールドビーム・元空気溜引通管装備の龍華機は不格好ではあるものの、他所の機にはない個性が大変魅力的でした。
@@schimitch3277さんOldman阪急です。今から半世紀以上前の70年代前半、龍華機関区に出入りしていた頃、戦前型の電機EF52が休んでおり、デッキ部分に登って遊びましたよ。EF58の登場は、もっと後では?🤔🍀
さすがは技術の京阪ですね
なんたって京阪電気鉄道の出身者たちが電車の電機品を作るための会社『東洋電機製造』をわざわざ作るくらいだからね。車体こそ汽車製造→川崎重工→川崎車両で、京阪80形のみ近畿車輛の製造だけど、主電動機は『すべて』東洋電機製造のもので固めてます。そして律儀に阪急電鉄も京都線の車両には東洋電機製造の主制御器を積んでいます。神宝線系統では三井つながりの東芝製なのに。
あまり知られていませんが、あまりの車体重量と戦時中の無理がたたって、戦後かなりの電動車台車の補強改造が行われました。(動画中の写真でも改造台車を履いています)2両のみ存在した米国ブリル社設計の台車は、設計図のみ存在するP-2・P-3用台車のサンプルではないかと言われています。
じつはこのブリル台車。定説ではこの台車が改造の上P-6に使われていたと言われていましたが、識者が設計図面を確認すると全く別物である可能性がでてきています。16m木造車の台車を19m鋼鉄車にそのまま転用することはどだい無理な話ですんで、なにかの意図があると思われるのですが。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さんOldman阪急です。実際にP-6のMc車C#122とTc車C#1501が履いていた、BRILL27-MCB4X台車の内、1台車が正雀車庫内屋外に保存展示されていますが、この台車は戦後補強改造の対象にはなっておりません。また、「心皿荷重10t を超えるブリル台車は、日本ではあまり例がなく、最大のものではなかろうか。」と、元阪急車両部の山口氏がPRESS EISENBAHNの「阪急でんてつP-6 デイ100物語」に一文を寄せておられます。実物を見ても車軸間のホイールベースが長く、とても16m級車両の台車改造、サンプル品では無く、当時大型車両向けに設計されたものと考えます。また、同書によると、計画のみで実現しなかった名古屋延長線用の計画車両として、全長21m級(=原文では66‘-6“付随車)のT付随車(両運、片運洗面所付き)の2種の車両について、「ブリルトラック使用」との注釈があり、この2種の車両がP-2・P-3に該当するのかどうか、そちらの図面等の資料を持ち合わせていないので不明ですが、新京阪線の命名規則として、北大阪電気鉄道から引き継いだ車両をP-1、新京阪鉄道が建造した千里線向けの小型車両をP-4、P-5、新京阪線の本線向け大型車両をP-6と命名した経緯からすると、時系列を遡って「P-2・P-3用台車のサンプル」とする説には、少し無理があるかと思いますね。🤔🍀
@@Midori-Clover さま。コメントを寄せておきながら何なのだという話なのですが、詳しいことまでは専門外なので、できましたら参照元の鉄道史料保存会刊『鉄道史料』誌・156号・157号に林宏祐氏が「新京阪鉄道 幻の車両P-2・P-3とその考察」という論考を寄稿されておりますので、こちらの説明不足なところもふくめて補足できるかと思います。
Oldman阪急です。P-6で使用したBRIIL台車の話題ですが、前掲書の図面を見るとホイールベースは2438mmで、P-6に採用された他の台車と同等であり、乗り心地は他に較べて良かったとあります。また、電動車McのC#122で使用した台車バネの撓み過ぎが原因で、踏切道通過時に電動機の底をこする事象が発生した為、昭和39年(1964)8月に制御車TcのC#1502に台車振替を行ったとの記述もありますが、昭和46年(1971)12月にP-6の第一次廃車が始まった際、廃車分の台車を利用して再びC#1502の台車振替が行われ、BRIIL台車から他の台車に変更されたとの記述もあります。現在では、空気バネ台車が当たり前ですが、枕バネに金属の板バネを多用していた時代に、乗り心地の良い車両を目指して、当時としては優れた台車が採用されていた事実も忘れてはならないと思います。😌🍀
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さんOldman阪急です。ご丁寧なお返事を下さってありがとうございます。☺️ご提示くださった資料は、あいにく持ち合わせておりませんが、web等で公開されているのであれば、ぜひ一読する価値のある資料のように思われます。また、当方の所有する資料は、市販の刊行物によりますが、前掲書では私も知る会社の大先輩の幾人かの方々が、現場で実車の整備・運転に実際に携わった記録、経験等を披瀝されており、実車写真の他、図面等も掲載され極めて信憑性が高く、新京阪P-6、デイ100を愛する方には絶好の資料だと考えております。もし、何処かで本書をご覧になる機会があれば幸いです。どうもありがとうございました。🙏😌🍀
1969〜70年頃乗りました「ポロい癖に早い!」と言う印象は最後まで変わりませんでした致命的だった安威川鉄橋は大雨による増水で道路橋の千歳橋までひん曲がって傾いたレベル新たな橋は共に軽くして強度を上げたのでP-6だけ渡れなくなってしまいました。動態保存してるので淡路駅高架工事完成したら渡り初めして欲しい。
しょうみ5300系や6300系の方が軽くて速いからただのオンボロとしか当時から見ていなかった。カルダン駆動には背伸びしたって敵わないよ。
最高の動画をありがとうございます!一度は新京阪時代の超特急として乗ってみたい名車...
京阪間34分て…現代でも通用する水準やん…
新快速とガチバトルさせたいですね(*^_^*)
@@schimitch3277 割といい勝負までは行きそう
今の特急よりもかなり速いですね。
Oldman阪急です。ただし、それは天神橋(現、天神橋筋六丁目)〜京阪京都(現、大宮)間の時代の話です。2800系や6300系が活躍していた頃、京都線特急十三〜大宮間ノンストップ時代は38分で走破していました。😌🍀
@@Midori-Clover 新性能車相手に吊り掛け車が勝てるはずないですもんね。今の電車見てたらどんな高性能な吊り掛けでもカルダンには遠く及ばないと感じました。もはや1970年代後半ともなるとカルダンの車両は皆高性能
燕をぶっちぎる件でどこの京浜急行?と思った
私が小学生当時の阪急京都線は特急710系,急行100系(P6)が定番.千里山線は700系.
P-6以外5300系に首切られた。吊り掛け車ファンにはかなりショックだったようですが、堺筋線乗り入れが遅れたせいで5300系の仕事場がなくなったから旧型車淘汰の為に量産しようってなんで考えたんですかね。
堺筋線には旧型吊り掛け駆動車はMT比規制で乗り入れが叶わなかったんで、千里万博の観客輸送で増車したこともあり、旧型車両は廃車の憂き目に遭ったんでしょうね……。
@@asokai2346さんOldman 阪急です。P-6廃車に伴う置き換えは、京都線5300系では無く、神宝線5100系の増備で行われました。その後、5300系の登場により5100系は神宝線に戻されました。😌🍀
こんばんは!P6は自重50トンこえてますよね。(笑)しかし非公式記録かどうかピクトリアル談話記事で砂袋積んで145km/h出したとか書いてありました。←ホントカ?(*^^*)阪和モヨ100も速度違反常習犯で120km/h運転みたいですね。お疲れ様でした。私の今週の動画は奈良電の俊足車デハボ1200です。よろしく皆様とご覧ください。(*^^*)
Oldman阪急です。戦前は速度計など無くATSも無かった時代、全て目測、体感による速度観測なので、多少の誤差は当たり前です。😅でも、速度観測の結果、実速度より多少高く判定することはOKでも、実速度より低く判定することは、安全に直結する話なので御法度です。P-6が145km/h出したという記事を読んだことはありませんが、速度計の無かった戦前の話題ではないでしょうか。🤔🍀
@@Midori-Clover さん、過去のピクトリアルの阪急特集かの関係者談話会でP6のことを語っておられたさいに試験時には砂袋を積載して145キロでたと仰せでした。他の方々もホントデスカ?なんてざわめいておられました。しかし吊り掛け電動機の許容回転数や弱め界磁の限界もありますから誤差もでていたでしょうね。130キロぐらいならさもありなんと思います。(*^^*)
じゃあP-6の性能を遥かに凌駕すると言われた堺筋線直通車の5300系は160㎞/hぐらい出せるって事ですね。P-6は5300系には勝てないとまで当時の友人たちと話してました。5300系アンチよこれが現実だ。カルダン駆動を認めろ。
@@xyossiytrainさんOldman阪急です。お返事ありがとうございます。😌その手の資料はある程度、持っていますがその記事には気付かなかったですねぇ。まぁ、戦前に平坦線なら130km/hぐらいなら出していたかも知れませんが(=但し、確証はありませんが)、国鉄の重大事故を受けて車内警報装置(後のATSに発展)設置が進められた頃から、電◯でDみたいなやんちゃな走りは期待出来なくなりました。(笑)😂でも、3300系の6連オールM編成なら、可能性があったりして…ゲフンゲフン…😅🍀
4:40 ここからsyamu
「デザインが角張りすぎ」というコメントがありました。 いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいですけどね。
参急デ2200阪和モヨ100南海モハ301新京阪P6戦前の関西を代表するビッグ4全国的に見ても関東に匹敵するクルマはなく、唯一愛電デハ3080ぐらいやろな
まぁぶっちゃけ阪急の公式が「時速100キロ以上の高速で〜」ってDVDの中でナレーターに発言させてるあたり法令違反は事実の可能性がかなり高いんだよなぁ
Oldman阪急です。戦前、今のATSはおろか、運転台に速度計はありませんでしたから、目測、体感による速度観測がすべての時代でした。現代の感覚で、当時を理解しようとすると無理が生じますね。😌🍀
まあ、今更ですが、『P』はパッセンジャーのPですね。200馬力は150キロワットだし諸元では全く見劣りしないですね。
間違っていたら申し訳ありませんが、自分が図鑑が何かで見た記憶では、P-6形は100系と改称され、廃車になった際、1300系と同じ軽量車体を載せて、1600系になったのではないかと思っています。しかしながら旧性能車で晩年は嵐山線で最後の活躍をして廃車、という感じだった様な。
堺筋線乗り入れが遅れたので、予想以上に直通車の新性能車が京都線に走るようになったせいでダイヤに追いつけなくなり、嵐山線などの運用にしか就けなかったんですよね。
廃車では無く本動画でも触れているように100形のMc⇒Tc化の際の余剰モータを流用し1300系と同じ軽量車体を載せて、1600系になったのです。台車は新品。
晩年のP-6の運用を代替したのは5100系じゃなくて、今でも地下直で爆走している5300系ですよ。5300系は堺筋線乗り入れが伸びたせいで、行き場を失って京都線新性能化を目的に増備されて旧型車置き換えに従事したのです。
阪急関係者の記録から抜粋すると、P-6型(100形)の廃止代替え計画は1970年10月20日に決定され、次年度1971年12月13日から1973年3月23日までで全73両の廃車が実施されました。解体は1両約5日の日程で行われ、1973年5月には終了し、それに続くように京阪神急行電鉄も同年4月には阪急電鉄に改称されました。5100系は1971年度の増備車ならびに100形代替車として第一陣50両、1972年度第二陣14両、1973年度第三陣15両が製造され、そのうち京都線には64両が配属されました。この結果5136号編成の営業開始日前の3月23日に100形の置き換えが完了しました。5300系は1972年9月4日に第1編成が増備されました。これに伴って5100系は神戸・宝塚線へ、冷房化率平均化として2000系が京都線に移籍しました。5300系の地下鉄乗り入れは1978年より対応編成並びに増備が行われ、翌1979年3月4日から堺筋急行として運行開始しました。P-6型の廃車の原因には色々とありますが、ATS装備に伴って現状のブレーキシステムの対応に問題があり、さりとて全車対応改造(7両編成車は対応改造車ですが一部にとどまりました)するにも費用面などの問題があったことも原因の一つです。
5300系登場以前に、先に全線対応用車として製造された5100系の一部が7連で京都戦に投入されてP-6の優等列車運用がなくなったと思います。なので5100系で正解かと。
5100系は設計作業の簡素化と神戸・宝塚・京都線に均等に冷房車を投入して吃緊のサービスの向上を図るのが目的でもあったようです。ですので継続して全線に投入する予定はなく、時間を開けて5300系が登場したあとは、神戸・宝塚線に全車移籍したのはそういうことです。
コメント欄にいる謎の有識者すごすぎ😂
阪急にNTRされてて草
新京阪100周年の時に動態保存されているものを完全レストアして成田スカイアクセスで思いっきり走らせて欲しい!ディ100ベースの阪和電鉄モヨ・モタが681/683系並みのポテンシャルを持っていたのでディ100もスカイアクセス線でスカイライナーと同等の走りが出来ると思うので。
なんかMP54みたいだな
阪急が当時の国鉄のつばめを追い抜かした報復として国鉄がわざと新幹線を阪急の横に通したという噂もありますね。
……というよりもトンネルを掘らず、橋梁も架けずに東海道新幹線を通すにはそこしか無かった、とも。
Oldman阪急です。阪急京都線と東海道新幹線が並行する区間(上牧〜大山崎間)は、淀川を間に挟み、西は天王山、東は男山が位置する狭い地峡となって京都盆地の入口にあたり、東海道本線、阪急京都線、国道171号線、京阪本線が並ぶ地形上の要衝となっています。東海道新幹線は、上記の狭い場所に線路を敷設する必要があり、結果的に阪急京都線と並行するルートとなっただけで、戦前の報復云々は都市伝説の類いの与太話です。🍀
10:34 これホンマなんかな。昔の当時の地図見ても、茨木、富田、高槻は枚方や寝屋川なんかより全然大きな市街地やし、新京阪線はそれらの街に接してるし、間違いなく人口多いと思うんやけど。当時の国鉄も京阪間の近距離なんかは全然本数もないし新快速もないから競争力なく、乗客の取り合いも怒らんかったやろうし。沿線人口少ないとか阪急が後付けで自分に都合いいように言うてるようにしか見えへんけど。
Oldman阪急です。昭和始めの昭和天皇御大典輸送に合わせて、当時の最高度の設備で開業した新京阪線ですが、御大典終了後、旅客輸送の伸び悩みによりP-6の単行運転なども実施されていました。それから時代が下り、阪急京都線の沿線人口増加が起こったのは、昭和30年代から始まった高度成長期以降のことであり、これ以降、梅田〜十三間の京都線用複線建設、千里山線の新千里山(現、南千里)延長、京都(現、大宮)〜河原町間延長、千里山線(現、千里線)北千里への延長、梅田駅の国鉄東海道線北側への移設、大阪市営地下鉄との相互直通運転開始等、電車では新阪急スタイル2000・2300系以降の車両増備、車両連結両数の増加等、輸送力増強に関する投資が急増したのもこの時期です。🍀
@@Midori-Clover いや終戦前の当時の比較をしているんですけど。人口統計上も今昔マップ上も茨木富田高槻の方が当時の人口多いねんから、どうしてもお金なかったら、京阪は低規格のおんぼろの本線を阪急に渡し、高規格に敷いた未来ある新京阪線側を持っておきたかったやろうに。
確認してきたんですが、1928年当時の正雀付近では完全に田んぼの真ん中を新京阪が通っていますね。議題とは少しずれますが新京阪千里山線(千里山電鉄)は終点の千里山や大学町、吹田などを中心に市街地を走ってはいますがこれは千里山地区開発によるものなので敷設時は別です。残念ながら茨木には当時の写真がなかったことから、1938〜42年で確認すると東側に都市が見えますが今の茨木西口はほぼ田畑です。一方の高槻は最初から都会の中心を貫く形で建設されたようです。現在もある大阪医大の東側は畑でしたが。続いて長岡天神付近。1948年ごろにはある程度住宅が密集しているのですが、明らかに駅を中心に400×1000の都市ができている感じなので、これは新京阪の影響でしょう。桂以東は当然京都市内なので割愛しますが、恐らくoldman阪急さんが正しいです。
@@Timutimu-xp それと比較して、京阪本線側はもっと田畑だらけで市街地がなく、そことの比較の話してんのやけど。田畑が多い本線側で収益あるんやったら、より多くの市街地に接する新京阪線側は、さらに大きな市街地を要する京都、大阪市内間の速達性までも考慮すると、十分に本線を凌駕する集客が当時も見込めそうやん。当時、京阪間の特急は新京阪線側しかなく、本線は特急なかったんやから。あと、富田は結構な市街地で、完全に新京阪線が抑えていると思う。高槻はいわはる通り、市街地の真ん中を新京阪線が貫いていて、国鉄の本数と利便性からして新京阪線が抑えてそう。あと、茨木は今の市駅の西側の市街地と接しているようやけど。こちらも国鉄の本数と利便性からして新京阪線が抑えてそう。
@@asupe1255 逆に枚方・門真・交野あたりの古地図が48年からしかなくてわからなかったんですが、今の京阪の地域は前からの市街地ですよ特徴がはっきりあって、(茨木はこの点元からですね)駅舎側・または線路を挟んで綺麗に半径500mほど広がるのは後から歪に広がるのは前からで京阪の場合樟葉を除けばほぼ元からの市街地です
17:15阪急初の冷房車は確か5200系だと思います。神宝線が1500V昇圧時に登場した5000系の冷房版で、5100系はその後の神宝京共通仕様目的の形式と何かの解説本で見ました。阪急はその頃、おおよそで形式は○000系は神戸線、○100系は宝塚線、○300系は京都線という感じですが、5100系と最近の形式は例外です。
その頃東の赤いハマのあんちくしょうは目覚めてなかったんだろうなぁ。私鉄王国関西ならではの逸話ですね。
1967年生まれです。小さいながら、がっちりした車両のP6型を上新庄駅で見た覚えがありました。間違いなかったみたいです😢
戦前の関西の私鉄は名車が多かったですね。1936年の「職業野球」開始の際に阪神・阪急、少し遅れて南海が参加したのも当時の関西の私鉄に勢いがあったからなのでしょうね。
初めて聞く逸話もあって楽しませていただきました。成り行きで河原町から淡路へこの形式の急行に乗り合わせたことがありました。直線区間の爆走ぶりは記憶に残っています。
1980年頃、こんなことがありました。
吹田総合車両所の東海道線(JR京都線)から見える場所に、「流電」モハ52が移動されてきました。
すると、時期を合わせたように阪急正雀車庫は「P-6」を東海道線から一番近い線路へ移動させました。
当時の国鉄と阪急の間になんらかの話し合いがあったのか、単なるライバル意識か、全くの偶然かは不明のままでした。
重戦車とも呼ばれ 嘗ては開業前の新幹線のレールも走行したP6。
新京阪開業の時点でボックスシート車だけでなくロングシート車が投入されていたとは知りませんでした。
頑丈な車体だったからこそ50年近くも走り続けられたことと思います。
今の阪急京都線の伝統はデイ100に始まったことが良くわかる素晴らしい内容でした。
ありがとうございます。
速度計はありませんでしたが、枕木間隔・レールのジョイント音・架線柱間隔と鉄道時計の併用などで容易に速度はわかったそうです。
国電でも速度計が全ての車両に整ったのは60年代中盤以降です。それでも乗務員は体幹で速度がわかったいたとのこと。まさに職人ですね。
Oldman阪急です。
まさにおっしゃる通りです。👍
万一の速度計の故障に備え、速度計にフタをして目隠しした状態で、現在の速度を観測する訓練もあるぐらいです。😌🍀
阪急はこのP6を始め、神戸線の900など、数々の名車を昔の華やかな時代の姿に戻して復元、保存しているのが、素晴らしい。現在これらの車両たちは正雀に保管されているが、一般の人たちにはフェスティバルなどの限られた時にしかご開帳されないのは、なんか勿体無い気もする。やはり正雀に保管されてる、昔の宝塚電車館の資料や備品、模型などと共に、これら保存車両も通年公開する施設、阪急ミュージアムなるものを作ってくれたらいいなぁと思う。
そもそも阪急は京阪からの泥棒が多くて当時の出資者にかなり恨まれているからね…京阪出身はそこまでやらないかも
Oldman阪急です。
阪急ミュージアムに賛同ですが、建設用地が…。
誰か、正雀車庫に隣接する土地を提供(👈ここ重要)してくれないかしらん?
もちろん、建設費用はクラファンで。(笑)😅🍀
@@Midori-Cloverあの辺だと勲英学園の校舎と創価学会の会館があるけどどっちもまだ使ってるし、洛西口の西側の農地買う方が現実的ではないですか?
企業が経営する博物館って、資金だけでなく学芸員の確保や体系的整備など、結構ハードルが高いんだそうで……。昔は形式的に形だけ揃えておけば良かったのですが。
在阪私鉄では車体更新車両や電装品更新車両が多く、往時の形で残る車両が少ないことも鉄道博物館開館の妨げともなっています。
とは言え工場内で細々と保管されるよりも安住の地を得て保管されるほうが車両にとっては良いはずで、『鉄道遺産』の積極的保存を後押しする法整備と助成金があればなぁ……、とも思います。
@@Timutimu-xp さん
Oldman阪急です。
お返事ありがとうございます。☺️
昔と違って最近のお株主様は、利益のリターンにウルサいので…ゲフンゲフン
知らんけど。(笑)🤭🍀
100km/hでの運航時代でも速度計がなかったんですね
元々新京阪の車両だったんですね。
戦前、戦中、戦後 まもない頃の車両速度計がないのが当たり前だったんですね。
デイ100。貫通ホロの接触面はグリスがたっぷり塗ってあったとか。
聞いた話ですが、燕号と競争するためには、京都方面ゆきで高槻駅の時点で遠くの国鉄線を走る列車の姿(当時は大きな建物などの障害物がなかった)を確認できていなければ競争は無理だったと言われています。
また大阪方面ゆきでは線形と下り勾配でスピードが出すぎる関係上競争はできないと聞いたことがあります。
並走の弊害で、高速のまま阪急山崎駅付近の国鉄線との立体交差を通過するときに、物凄い衝撃と轟音が発生したとも聞いています。
あとP-6の話ではありませんが、当時の最新鋭ビジネス特急「こだま」号に、併走区間で隣を走っていた3両編成の1300系普通列車が終始ぴったり並走していたという逸話が残されています。
残暑お見舞い申し上げます🙇
この電車 大出力電動機を載せていたとはいえ その超ヘビー級の重量と ハイギヤードな歯車装置の為 キツめの勾配途中で起動した時は 上り切るまで牛歩のような加速だったと聞いた事がありましたが本当だったのかな?🤔
@@toriri-service さま。喪中のため時候の挨拶はご遠慮させていただきます。
手持ちの資料(レイルロード:阪急P-6全3冊、プレスアイゼンバーン:P-6ーデイ100物語ー、鉄ピク等各雑誌)を確認させてもらいましたが、通常の状態で加速の問題は記載されていませんでした。おそらく上新庄駅以東の設計勾配が最大10%であったという記述があったので、それに合わせて設計されていたのであろうと思います。200HPと公称していますが、戦後一時期710形登場までは230HPのときもあったようです。
該当するのはおそらく当時600Vの宝塚線を走行して旧梅田駅に乗り入れていた際の、十三駅から淀川鉄橋への勾配と旧梅田駅手前の国鉄アンダーパスにつながる急勾配のことではないかと思います。
乗り入れ対応車両36両(44両?)は、電動発電機と空気圧縮機は手動での複電圧切替対応改造(止まれなかったら悲惨な結果になりますので)されたようですが、主回路の電動機や抵抗器の改造は行われなかった(電圧が低くても文句を言わなければ動かすことはできますので)ために、ご承知のような結果となったらしいですね。
どのくらい遅かったというと、三複線開通後の話になりますが(当時は京都線部分も含めてまだすべて600Vでした)、梅田駅発車後の上り勾配で、宝塚線小型車にさえ追い抜かれる状態だったそうで、これは全線1500V昇圧まで続いたという話です。
今の話で、昇圧前の十三駅の京都線本線上淡路寄り(現在は廃止された7号線合流および渡り線の先)に無電区間らしきもの(設備や標識)があったのを思い出しました。(長文失礼)
参考ですが、当時標準的な神戸線中型車は140kw(約187.7HP)✕4、宝塚線小型車は82kw(約109.9HP)✕2もしくは48kw(約64.3HP)✕4、
旧梅田駅国鉄ガードを潜る部分に向かう勾配が40‰だったと聞いています。
5歳の頃から姉と2人で北千里に有る親戚の家に夏休みの度に毎回泊まりに行き、梅田駅の1番ホームへこの列車が入線して来た時のガッカリ感は半端なかった。 2300系や2000系がずらりと並んでいるに1編成だけ古臭いこいつに乗るのが子供ながら恥ずかしかった。大人になってからこの車両の方が味わい深かったなと感じるようになりこの動画を見て更に好きな車両になりました。
本国アメリカのインターアーバン電車だと
溝型鋼の通し台枠で
魚腹台枠はヘビーレール電化区間の
ペンシルバニア鉄道MP54とかだったような
サウスショアー線の1500V電車が
P-6の元ネタに近いか
一応東海道本線も50kgレールの特甲線規格だったな
イングリッシュエレクトリック
デッカー系の電装品か
旧梅田駅を記憶している者としては、あの鋼鉄製の大屋根と停車しているP-6との存在感は、当時小学生だった子供心では『ほわぁぁぁぁ〜』という圧倒感しかなかったですね。普段利用していたのが宝塚線だったせいもありますけども。
1970年万国博当時は阪急百貨店東側の通路は、百貨店側半分が地下鉄との連絡通路、残り半分と建設前の阪急グランドビル部分が京都線ホームとなっていましたので、外側からでも停車しているのがわかりました。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN様、当時幼かった自分はその辺りの記憶はぼんやりで姉に手を引かれて動くムービングウォーク?に乗り移るのが怖くて足元ばかり見ていて梅田駅ホーム近くだったかどこかのアーチ状の天井にお洒落なシャンデリアとピカピカの阪急電車から降りてくる身綺麗な大人たちに田舎者の自分はキョロキョロしていたものです。自家用車で移動するようになって梅田駅を利用する事も無くなりましたがあのアーチ状天井はまだ残っているのでしょうか?
今現在は、
1両だけ車庫で保存されてますね
※動ける状態で
むかし千里カトリック教会に1511号の車体のみが残っていましたが、現在は解体されて残っていません。
復元の際、クロスシート部分の現物が残っていなくて、代わりに社内の備品として事務所などに残っていた、710形等のものを使用しています。
余談ですが、900形のときは同じ理由で2800系のものを使用しています。
阪急のイベントでご登場することも有ります これも動態保存されている阪急の努力の賜物ですね!
最近はイベント走行が急遽中止されたり、旧車が一切展示されなくなったりで、動く状態にあるか怪しいところである。
「燕」に挑んだ私鉄電車で、名鉄のモ3300(初代)を出してくれたのは嬉しい。車体だけなら豊鉄時代に乗ったし、更新された車体更新形モ3780は三河線時代に乗った。
余談ですが、おなじように国鉄との併走区間があった山陽電鉄では、おもに特急として使用される事が多かった高速で安定して走行できる高性能車両が登場してきた頃に『国鉄列車と競争してはいけません』という通達が出ていたそうです。小さな踏切が多く危険だったせいかもしれません。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 確かに神戸市内は危険かもしれません。明石以西だと速度は出せても並走区間は無くなるし……
@@schimitch3277 さま。知ってる限り危ないと思ったのは、明石駅(高架化前)〜舞子公園駅ですね。細い生活道路の踏切が多く、まして隣が国道2号線と山陽本線に挟まれていて、国鉄側には電鉄線とは別々に踏切がありました。明石駅ー人丸前駅は高架化されたので、だいぶん改善されたとは思いますが。
おぉ愛電(現名鉄)の名車初代3300形が出てくるとは…。確かにこの頃は各電鉄会社は高速運転の優等列車を続々と誕生させており華やかな時代とも言えますな。
そういえば、『大ドス』ってどういう意味でしたっけ?ごぞんじですか?
P-6が最後に飾った華は東海道新幹線の線路を走った事でしょう。
上牧付近から大山崎間の高架化に伴い、仮線としてちょうど線路敷設が完了した東海道新幹線を間借りしたのです。
1963年4月24日から同年12月28日の短い間でしたが、0系新幹線電車よりも先に東海道新幹線の営業運転に就いたのでした。
Oldman阪急です。
私の師匠が運転士をしていた頃、夜間、新幹線の盛り土区間の上を、P-6に鋳鉄ブレーキシューを沢山積んで往復し、新線の地固めをする役割を仰せつかった事があったと、でも、只の行ったり来たりで面白くないので、そこは「適切に」往復していたと、イタズラっぽく話されていました。
もう50年近い昔の話です。😅🍀
京阪間を担う特急としてはオーバースペックな気がしましたが、未完ながら名古屋への乗り入れも視野に入れた車両だったんですよね。
国鉄の燕を意識したのか、グリーン車以上の設備を誇りました。
南から大軌と参急が2200形で名阪直通狙ってたわけだし
Oldman阪急です。
新京阪P-6がグリーン車以上の設備は、過分なお褒め言葉だと思います。😅
第一次車には、防音耐寒を想定した二重窓設備だったり、名古屋延長を前提に21m級の中間付随車の図面も残っていたりします。
ただ、1両だけ付随車のフキ500という特別車両があって、皇族や貴賓が乗車する際に臨時列車が運転されていた記録が残っています。
車両には、中央に大理石製のマントルピース(暖炉)が設えられ、応接ソファが並び、随行員室、給仕室、洗面所まであったとか。😊🍀
阪急に長年関わられた山口益生氏によりますと、乗り心地の悪さは如何ともし難く、台車に手を加えても改善しなかったそうです
指摘されている方もいらっしゃいますが、重量車体との相性や酷使も原因だったのかもしれません
そんな背景もありP6のモーターを流用した1600系は新型のアルストーム台車を履いていました
のちに行われた汽車型台車改良工事のときは、住友金属と汽車製造が担当し台車枠の交換が行われ、住友担当分はKS33Eに改造されましたが、汽車製造が担当したものは多種多様でなかでも第二次改造台車4両分は、ボルスターアンカ・オイルダンパー・枕バネのコイルばね化が行われて、とくに乗り心地が良かったそうです。結果的に枕ばねの改良が良かったそうな。
あとJ.E.ブリル社のパテントで日本製鋼所が制作したブリル台車2両分は格段に乗りごこちが良かったそうです。
戦前関西私鉄、新京阪電鉄と阪和電鉄の飛ばしっぷりはガチ。後者は超特急から逃げるため貨物用機関車までジェットカー仕様でした。
阪和線は戦後もEF58が貨物牽いてましたから(゚∀゚)(゚∀゚)
@@schimitch3277
龍華のブタ鼻🐽仕様ですね。シールドビーム・元空気溜引通管装備の龍華機は不格好ではあるものの、他所の機にはない個性が大変魅力的でした。
@@schimitch3277さん
Oldman阪急です。
今から半世紀以上前の70年代前半、龍華機関区に出入りしていた頃、戦前型の電機EF52が休んでおり、デッキ部分に登って遊びましたよ。
EF58の登場は、もっと後では?🤔🍀
さすがは技術の京阪ですね
なんたって京阪電気鉄道の出身者たちが電車の電機品を作るための会社『東洋電機製造』をわざわざ作るくらいだからね。車体こそ汽車製造→川崎重工→川崎車両で、京阪80形のみ近畿車輛の製造だけど、主電動機は『すべて』東洋電機製造のもので固めてます。
そして律儀に阪急電鉄も京都線の車両には東洋電機製造の主制御器を積んでいます。神宝線系統では三井つながりの東芝製なのに。
あまり知られていませんが、あまりの車体重量と戦時中の無理がたたって、戦後かなりの電動車台車の補強改造が行われました。(動画中の写真でも改造台車を履いています)
2両のみ存在した米国ブリル社設計の台車は、設計図のみ存在するP-2・P-3用台車のサンプルではないかと言われています。
じつはこのブリル台車。定説ではこの台車が改造の上P-6に使われていたと言われていましたが、識者が設計図面を確認すると全く別物である可能性がでてきています。16m木造車の台車を19m鋼鉄車にそのまま転用することはどだい無理な話ですんで、なにかの意図があると思われるのですが。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さん
Oldman阪急です。
実際にP-6のMc車C#122とTc車C#1501が履いていた、BRILL27-MCB4X台車の内、1台車が正雀車庫内屋外に保存展示されていますが、この台車は戦後補強改造の対象にはなっておりません。
また、「心皿荷重10t を超えるブリル台車は、日本ではあまり例がなく、最大のものではなかろうか。」
と、元阪急車両部の山口氏がPRESS EISENBAHNの「阪急でんてつP-6 デイ100物語」に一文を寄せておられます。
実物を見ても車軸間のホイールベースが長く、とても16m級車両の台車改造、サンプル品では無く、当時大型車両向けに設計されたものと考えます。
また、同書によると、計画のみで実現しなかった名古屋延長線用の計画車両として、全長21m級(=原文では66‘-6“付随車)のT付随車(両運、片運洗面所付き)の2種の車両について、「ブリルトラック使用」との注釈があり、この2種の車両がP-2・P-3に該当するのかどうか、そちらの図面等の資料を持ち合わせていないので不明ですが、新京阪線の命名規則として、北大阪電気鉄道から引き継いだ車両をP-1、新京阪鉄道が建造した千里線向けの小型車両をP-4、P-5、新京阪線の本線向け大型車両をP-6と命名した経緯からすると、時系列を遡って「P-2・P-3用台車のサンプル」とする説には、少し無理があるかと思いますね。🤔🍀
@@Midori-Clover さま。コメントを寄せておきながら何なのだという話なのですが、詳しいことまでは専門外なので、できましたら参照元の鉄道史料保存会刊『鉄道史料』誌・156号・157号に林宏祐氏が「新京阪鉄道 幻の車両P-2・P-3とその考察」という論考を寄稿されておりますので、こちらの説明不足なところもふくめて補足できるかと思います。
Oldman阪急です。
P-6で使用したBRIIL台車の話題ですが、前掲書の図面を見るとホイールベースは2438mmで、P-6に採用された他の台車と同等であり、乗り心地は他に較べて良かったとあります。
また、電動車McのC#122で使用した台車バネの撓み過ぎが原因で、踏切道通過時に電動機の底をこする事象が発生した為、昭和39年(1964)8月に制御車TcのC#1502に台車振替を行ったとの記述もありますが、昭和46年(1971)12月にP-6の第一次廃車が始まった際、廃車分の台車を利用して再びC#1502の台車振替が行われ、BRIIL台車から他の台車に変更されたとの記述もあります。
現在では、空気バネ台車が当たり前ですが、枕バネに金属の板バネを多用していた時代に、乗り心地の良い車両を目指して、当時としては優れた台車が採用されていた事実も忘れてはならないと思います。😌🍀
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さん
Oldman阪急です。
ご丁寧なお返事を下さってありがとうございます。☺️
ご提示くださった資料は、あいにく持ち合わせておりませんが、web等で公開されているのであれば、ぜひ一読する価値のある資料のように思われます。
また、当方の所有する資料は、市販の刊行物によりますが、前掲書では私も知る会社の大先輩の幾人かの方々が、現場で実車の整備・運転に実際に携わった記録、経験等を披瀝されており、実車写真の他、図面等も掲載され極めて信憑性が高く、新京阪P-6、デイ100を愛する方には絶好の資料だと考えております。
もし、何処かで本書をご覧になる機会があれば幸いです。
どうもありがとうございました。🙏😌🍀
1969〜70年頃乗りました
「ポロい癖に早い!」と言う印象は最後まで変わりませんでした
致命的だった安威川鉄橋は
大雨による増水で
道路橋の千歳橋まで
ひん曲がって傾いたレベル
新たな橋は
共に軽くして強度を上げたので
P-6だけ渡れなくなってしまいました。
動態保存してるので
淡路駅高架工事完成したら
渡り初めして欲しい。
しょうみ5300系や6300系の方が軽くて速いからただのオンボロとしか当時から見ていなかった。カルダン駆動には背伸びしたって敵わないよ。
最高の動画をありがとうございます!
一度は新京阪時代の超特急として乗ってみたい名車...
京阪間34分て…
現代でも通用する水準やん…
新快速とガチバトルさせたいですね(*^_^*)
@@schimitch3277
割といい勝負までは行きそう
今の特急よりもかなり速いですね。
Oldman阪急です。
ただし、それは天神橋(現、天神橋筋六丁目)〜京阪京都(現、大宮)間の時代の話です。
2800系や6300系が活躍していた頃、京都線特急十三〜大宮間ノンストップ時代は38分で走破していました。😌🍀
@@Midori-Clover 新性能車相手に吊り掛け車が勝てるはずないですもんね。今の電車見てたらどんな高性能な吊り掛けでもカルダンには遠く及ばないと感じました。もはや1970年代後半ともなるとカルダンの車両は皆高性能
燕をぶっちぎる件でどこの京浜急行?と思った
私が小学生当時の阪急京都線は特急710系,急行100系(P6)が定番.千里山線は700系.
P-6以外5300系に首切られた。吊り掛け車ファンにはかなりショックだったようですが、堺筋線乗り入れが遅れたせいで5300系の仕事場がなくなったから旧型車淘汰の為に量産しようってなんで考えたんですかね。
堺筋線には旧型吊り掛け駆動車はMT比規制で乗り入れが叶わなかったんで、千里万博の観客輸送で増車したこともあり、旧型車両は廃車の憂き目に遭ったんでしょうね……。
@@asokai2346さん
Oldman 阪急です。
P-6廃車に伴う置き換えは、京都線5300系では無く、神宝線5100系の増備で行われました。
その後、5300系の登場により5100系は神宝線に戻されました。😌🍀
こんばんは!P6は自重50トンこえてますよね。(笑)しかし非公式記録かどうかピクトリアル談話記事で砂袋積んで145km/h出したとか書いてありました。←ホントカ?(*^^*)阪和モヨ100も速度違反常習犯で120km/h運転みたいですね。お疲れ様でした。私の今週の動画は奈良電の俊足車デハボ1200です。よろしく皆様とご覧ください。(*^^*)
Oldman阪急です。
戦前は速度計など無くATSも無かった時代、全て目測、体感による速度観測なので、多少の誤差は当たり前です。😅
でも、速度観測の結果、実速度より多少高く判定することはOKでも、実速度より低く判定することは、安全に直結する話なので御法度です。
P-6が145km/h出したという記事を読んだことはありませんが、速度計の無かった戦前の話題ではないでしょうか。🤔🍀
@@Midori-Clover さん、過去のピクトリアルの阪急特集かの関係者談話会でP6のことを語っておられたさいに試験時には砂袋を積載して145キロでたと仰せでした。他の方々もホントデスカ?なんてざわめいておられました。しかし吊り掛け電動機の許容回転数や弱め界磁の限界もありますから誤差もでていたでしょうね。130キロぐらいならさもありなんと思います。(*^^*)
じゃあP-6の性能を遥かに凌駕すると言われた堺筋線直通車の5300系は160㎞/hぐらい出せるって事ですね。P-6は5300系には勝てないとまで当時の友人たちと話してました。5300系アンチよこれが現実だ。カルダン駆動を認めろ。
@@xyossiytrainさん
Oldman阪急です。
お返事ありがとうございます。😌
その手の資料はある程度、持っていますがその記事には気付かなかったですねぇ。
まぁ、戦前に平坦線なら130km/hぐらいなら出していたかも知れませんが(=但し、確証はありませんが)、国鉄の重大事故を受けて車内警報装置(後のATSに発展)設置が進められた頃から、電◯でDみたいなやんちゃな走りは期待出来なくなりました。(笑)😂
でも、3300系の6連オールM編成なら、可能性があったりして…ゲフンゲフン…😅🍀
4:40 ここからsyamu
「デザインが角張りすぎ」というコメントがありました。 いやーほならね、自分が作ってみろって話でしょ?そう私はそう言いたいですけどね。
参急デ2200阪和モヨ100
南海モハ301新京阪P6
戦前の関西を代表するビッグ4
全国的に見ても関東に匹敵するクルマはなく、
唯一愛電デハ3080ぐらいやろな
まぁぶっちゃけ阪急の公式が「時速100キロ以上の高速で〜」ってDVDの中でナレーターに発言させてるあたり法令違反は事実の可能性がかなり高いんだよなぁ
Oldman阪急です。
戦前、今のATSはおろか、運転台に速度計はありませんでしたから、目測、体感による速度観測がすべての時代でした。
現代の感覚で、当時を理解しようとすると無理が生じますね。😌🍀
まあ、今更ですが、『P』はパッセンジャーのPですね。200馬力は150キロワットだし諸元では全く見劣りしないですね。
間違っていたら申し訳ありませんが、自分が図鑑が何かで見た記憶では、P-6形は100系と改称され、廃車になった際、1300系と同じ軽量車体を載せて、1600系になったのではないかと思っています。しかしながら旧性能車で晩年は嵐山線で最後の活躍をして廃車、という感じだった様な。
堺筋線乗り入れが遅れたので、予想以上に直通車の新性能車が京都線に走るようになったせいでダイヤに追いつけなくなり、嵐山線などの運用にしか就けなかったんですよね。
廃車では無く本動画でも触れているように100形のMc⇒Tc化の際の余剰モータを流用し1300系と同じ軽量車体を載せて、1600系になったのです。台車は新品。
晩年のP-6の運用を代替したのは5100系じゃなくて、今でも地下直で爆走している5300系ですよ。5300系は堺筋線乗り入れが伸びたせいで、行き場を失って京都線新性能化を目的に増備されて旧型車置き換えに従事したのです。
阪急関係者の記録から抜粋すると、
P-6型(100形)の廃止代替え計画は1970年10月20日に決定され、次年度1971年12月13日から1973年3月23日までで全73両の廃車が実施されました。
解体は1両約5日の日程で行われ、1973年5月には終了し、それに続くように京阪神急行電鉄も同年4月には阪急電鉄に改称されました。
5100系は1971年度の増備車ならびに100形代替車として第一陣50両、1972年度第二陣14両、1973年度第三陣15両が製造され、そのうち京都線には64両が配属されました。この結果5136号編成の営業開始日前の3月23日に100形の置き換えが完了しました。
5300系は1972年9月4日に第1編成が増備されました。これに伴って5100系は神戸・宝塚線へ、冷房化率平均化として2000系が京都線に移籍しました。
5300系の地下鉄乗り入れは1978年より対応編成並びに増備が行われ、翌1979年3月4日から堺筋急行として運行開始しました。
P-6型の廃車の原因には色々とありますが、ATS装備に伴って現状のブレーキシステムの対応に問題があり、さりとて全車対応改造(7両編成車は対応改造車ですが一部にとどまりました)するにも費用面などの問題があったことも原因の一つです。
5300系登場以前に、先に全線対応用車として製造された5100系の一部が7連で京都戦に投入されてP-6の優等列車運用がなくなったと思います。
なので5100系で正解かと。
5100系は設計作業の簡素化と神戸・宝塚・京都線に均等に冷房車を投入して吃緊のサービスの向上を図るのが目的でもあったようです。
ですので継続して全線に投入する予定はなく、時間を開けて5300系が登場したあとは、神戸・宝塚線に全車移籍したのはそういうことです。
コメント欄にいる謎の有識者すごすぎ😂
阪急にNTRされてて草
新京阪100周年の時に動態保存されているものを完全レストアして成田スカイアクセスで思いっきり走らせて欲しい!ディ100ベースの阪和電鉄モヨ・モタが681/683系並みのポテンシャルを持っていたのでディ100もスカイアクセス線でスカイライナーと同等の走りが出来ると思うので。
なんかMP54みたいだな
阪急が当時の国鉄のつばめを追い抜かした
報復として国鉄がわざと新幹線を阪急の横に通した
という噂もありますね。
……というよりもトンネルを掘らず、橋梁も架けずに東海道新幹線を通すにはそこしか無かった、とも。
Oldman阪急です。
阪急京都線と東海道新幹線が並行する区間(上牧〜大山崎間)は、淀川を間に挟み、西は天王山、東は男山が位置する狭い地峡となって京都盆地の入口にあたり、東海道本線、阪急京都線、国道171号線、京阪本線が並ぶ地形上の要衝となっています。
東海道新幹線は、上記の狭い場所に線路を敷設する必要があり、結果的に阪急京都線と並行するルートとなっただけで、戦前の報復云々は都市伝説の類いの与太話です。🍀
10:34 これホンマなんかな。昔の当時の地図見ても、茨木、富田、高槻は枚方や寝屋川なんかより全然大きな市街地やし、新京阪線はそれらの街に接してるし、間違いなく人口多いと思うんやけど。当時の国鉄も京阪間の近距離なんかは全然本数もないし新快速もないから競争力なく、乗客の取り合いも怒らんかったやろうし。
沿線人口少ないとか阪急が後付けで自分に都合いいように言うてるようにしか見えへんけど。
Oldman阪急です。
昭和始めの昭和天皇御大典輸送に合わせて、当時の最高度の設備で開業した新京阪線ですが、御大典終了後、旅客輸送の伸び悩みによりP-6の単行運転なども実施されていました。
それから時代が下り、阪急京都線の沿線人口増加が起こったのは、昭和30年代から始まった高度成長期以降のことであり、これ以降、梅田〜十三間の京都線用複線建設、千里山線の新千里山(現、南千里)延長、京都(現、大宮)〜河原町間延長、千里山線(現、千里線)北千里への延長、梅田駅の国鉄東海道線北側への移設、大阪市営地下鉄との相互直通運転開始等、電車では新阪急スタイル2000・2300系以降の車両増備、車両連結両数の増加等、輸送力増強に関する投資が急増したのもこの時期です。🍀
@@Midori-Clover いや終戦前の当時の比較をしているんですけど。人口統計上も今昔マップ上も茨木富田高槻の方が当時の人口多いねんから、どうしてもお金なかったら、京阪は低規格のおんぼろの本線を阪急に渡し、高規格に敷いた未来ある新京阪線側を持っておきたかったやろうに。
確認してきたんですが、
1928年当時の正雀付近では完全に田んぼの真ん中を新京阪が通っていますね。
議題とは少しずれますが新京阪千里山線(千里山電鉄)は終点の千里山や大学町、吹田などを中心に市街地を走ってはいますがこれは千里山地区開発によるものなので敷設時は別です。
残念ながら茨木には当時の写真がなかったことから、1938〜42年で確認すると東側に都市が見えますが今の茨木西口はほぼ田畑です。
一方の高槻は最初から都会の中心を貫く形で建設されたようです。現在もある大阪医大の東側は畑でしたが。
続いて長岡天神付近。
1948年ごろにはある程度住宅が密集しているのですが、明らかに駅を中心に400×1000の都市ができている感じなので、これは新京阪の影響でしょう。
桂以東は当然京都市内なので割愛しますが、恐らくoldman阪急さんが正しいです。
@@Timutimu-xp それと比較して、京阪本線側はもっと田畑だらけで市街地がなく、そことの比較の話してんのやけど。
田畑が多い本線側で収益あるんやったら、より多くの市街地に接する新京阪線側は、さらに大きな市街地を要する京都、大阪市内間の速達性までも考慮すると、十分に本線を凌駕する集客が当時も見込めそうやん。当時、京阪間の特急は新京阪線側しかなく、本線は特急なかったんやから。
あと、富田は結構な市街地で、完全に新京阪線が抑えていると思う。高槻はいわはる通り、市街地の真ん中を新京阪線が貫いていて、国鉄の本数と利便性からして新京阪線が抑えてそう。
あと、茨木は今の市駅の西側の市街地と接しているようやけど。こちらも国鉄の本数と利便性からして新京阪線が抑えてそう。
@@asupe1255 逆に枚方・門真・交野あたりの古地図が48年からしかなくてわからなかったんですが、今の京阪の地域は前からの市街地ですよ
特徴がはっきりあって、(茨木はこの点元からですね)駅舎側・または線路を挟んで綺麗に半径500mほど広がるのは後から
歪に広がるのは前からで
京阪の場合樟葉を除けばほぼ元からの市街地です