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素晴らしい音源ですね。震えます。当方昭和46年生まれ。幼少期は長岡京にいました。祖父母がいる嵯峨までは阪急で西院経由、市バス91系統が常。ところが小学4年の頃か、当時神足駅から京都駅経由で祖父母を訪ねることがあり、9時08分発米子行の旧客に圧倒されました。銀河鉄道999の客車が威風堂々と京都駅に佇む姿は別世界のようでした。それからは必ず京都駅経由になり、なるべく遠方の知らない土地まで行く客車を選んで祖父母を訪ねるようになりました。時刻表を買いだしたのもその頃です。山陰線にB寝台を1両だけ連結している普通夜行を見つけ、いつか乗ってみたいと憧れました。そしてついに小学6年生の時、卒業旅行で神足出発、東海道線、山陰線、伯備線、山陽線、東海道線経由神足行きを計画し、友達2人と憧れの山陰号のB寝台に乗りました。今振り返ってもよく親が許したなと思います。手元にあるのは昭和59年3月30日山陰号 京都22:06発米子まで 1号車8番下段の寝台券。駅に停車した時の静寂、哀しげなDD51のホイッスル、もう二度と体験できませんが一番の宝物です。
当時は堺市に住んでいました。旧客ファンとしてはとてもいいところに住んでいたのに、もっと乗っておけばよかったと思います。
静寂のなか虫の声だけが鳴り響く馬堀駅。やがて遠くから出雲3号が近づいてきて、疾風の如く駆け抜けて行く。そしてDD51の汽笛一声のあと動き出す山陰号。。。かつては毎日当たり前だった風景…でも今思えば、なんと幻想的な情景だろうか。この動画によって、瞼を閉じるともう二度と味わうことのできない情景が目に浮かんでくるようです。ありがとうございます😊
コメントありがとうございます。床下にディーゼル発電機を積んでいない旧客ならではの静けさ。そのおかげでたくさんの音が飛び込んできます。虫の音、遠くに聞こえるジョイント音。ホイッスルの音。特にこの時代のDD51のホイッスルは今と違って優しい音色で私は大好きです。
音質のいい素晴らしい音源です❗感動しました。この音を聞きながら寝床で読書しているといつの間にか気持ちよく眠っています。アップしてくれて感謝します。
実家で何の管理をするこtぞもなく数十年ほったらかしでいたカセットテープですが、ノビも劣化もほとんどなく保存されていたことに私も感謝しています。自分自身でもこんないい音源公開しないわけがないと思いアップさせていただきました。
長い録音の公開ありがとうございました。最後の京都駅の到着シーンは懐かしく泣きそうになりました。そして到着の後すぐベルがなって発車する833列車浜田行き。僕も山陰号で京都についた時にこの浜田行きを見て、次はこれだ!と思い、その年の夏に833列車にのりました。そのシーンが蘇りました。
旅一郎さま、コメントありがとうございます。あの京都山陰ホームの雑踏はいまでも一生忘れることはなく、死ぬまで頭の中をグルグル回るんだろうなと思います。旅一郎さんのチャンネルも、いつも楽しく、同じものでも何度殿も聞き返しています。私は後残すところ20系時代の銀河を残すのみえ残念です。これからもご健勝の程、お祈りさせていただきます。このご時世、お体には特に沖をつけてお過ごしください。
浜田行き833列車ですが、実際には京都から特急「あさしお」3号に乗れば、終点の倉吉でちょうど833列車に追いすがるダイヤになっていたため、万一早朝から乗りそびれても安心は確保されていました。
@@rhscm989 倉吉まで行って追いつくのなら、伯備線経由もありですね
京都を朝9時台序盤に出発していたおなじみの837列車(京都発出雲市行き)。その列車が平日になると保津峡付近への遠足に重宝されていたことから、「遠足列車」として呼ばれていました。僕も多くの遠足利用客で賑わう車内での喧騒を避けるべく、休日ダイヤをチョイスして当該列車でのんびり旅気分を堪能すればよかったと後悔しています。
@@rhscm989 遠足として3回乗ったので、837.835列車は懐かしいです。京都駅から旅ができた贅沢な時代でしたね。
素晴らしい動画だと思います。地元が八木なんですが、1985年3月ダイヤ改正(小5学年末)まで山陰本線京都口に旧型客車がたくさん運行されていました。1990年3月改正では普通客車列車自体が山陰本線京都口から消滅してしまいましたが(京都~園部間電化のため)。それどころか、1997年3月改正で山陰本線全線から普通客車列車が消滅してしましましたが…。 (報告:チャンネル登録をさせていただきました。)
「やまぐち号」みたいに新生旧客でもよいので、客車列車を安価で復活させてほしいですね。銀河が客車列車でなくて残念でした。
今は八木~京都間は快速で約30分、各停で約35分と「山陰」よりも大幅に短縮され、京都への通勤・通学路線としての底力を非電化時代から見せ続けています(特に非電化時代はキハ47形が1977年~1981年に集中投入されたため、デッキがなくなった分流動がさらに円滑化されたほか、ラッシュアワーには最大10両連結するなど、一定の対策がなされた)。
山陰旧線は京都という都会のすぐ近くにありながら、明治の面影がたっぷりあったいい場所でした。新線は味気ないです。
ではなぜ現在の嵯峨嵐山~馬堀間を非電化のまま先行して複線化の上新線に切り替える必要があったのか?それは山陰本線(嵯峨野線)京都口の電化(まず1990年3月に京都~園部間、続いて1995年4月に綾部~福知山間、最終的に1996年3月の園部~綾部間の完成を以て既存の福知山~城崎改め城崎温泉間と繋がり現在の姿が出来上がった)が正式に決まると既存の旧線では速度制限を受ける区間が至るところにあってそのままでは複線化ができないため、新たに6ヶ所のトンネルを掘り直して別の線路を敷き直し、さらに保津峡駅を保津川を跨ぐ位置に移設して、将来の電化と複線化に役立てたからです(その後京都駅構内のほんの一部分だけを単線のまま残した以外、2010年3月13日の京都~園部間複線化がかないました)。
元太秦の住民です。”山陰号”と呼ばれる前に(DF50牽引の時代。小中学生時代です)、島根・山口方面や、倉吉線(C11)への撮影旅行によく利用しました。早朝の花園駅から自宅まで歩いて帰った景色を思い出しました。
コメントありがとうございます。なかなか素晴らしい時代にお生まれで、羨ましい次第です。私もあと10年早く生まれていたら、学校なんて言っていないと思います。笑私のしょう、中学校時代は学校サボって名古屋へ寝台特急撮りに行ったりしていましたから。走り始めたばかりのやまぐち号も撮りに行ったっけ。爆
@@jyariten-zizi 山陰線京都口SL最後の日(月曜の朝)、園部発京都行のC575を近所の踏切まで見に行って、学校(太秦小学校)を遅刻したのを思い出しました。鉄道趣味とはしばらく疎遠でしたが、コロナ禍中に「老後の趣味は何をしよう?」と考えた末、昔を思い出し、今は山口線や大井川鐡道に通い始めています。
子供の頃、京都行に二度乗りました。深夜に乗車すると席の足元に新聞紙敷いて丸くなって寝てる人がそこかしこに居て子供心に面食らいましたw保津峡辺りで辺りが白っぽく明るくなりだしてすごく幻想的な景色だった記憶。同時間帯の大阪行きのだいせんと比べると客層が微妙にナニでしたねw京都着は5時半前くらいでしたっけ?
茶さん コメントありがとうございます。この時は島根県や鳥取県では通勤帰りの方が多かったです。乗客は時期にもよると思いますが、特に混雑もなくでした。京都は朝5時24分でした。
お返事ありがとうございます。乗ったのは80年前後だったかなぁ…山陰を降りた構内で赤帽さん?がリヤカー引っ張ってはった記憶があります。その時見上げたホームの時計で覚えてましたwだいせんは国鉄最後の日のフリーきっぷで往復利用したのが最後なんですけど…あの日のアレは何乗っても苦行とゆーか我慢大会でしたw
ほんま・・・よろしいですなぁ。父の実家が綾部でしたので、京都からよく乗りました。普段は近鉄沿線に住んでいましたので、山陰線に乗るとういうのは小学生の私にとってはほんとうに楽しみなことでした。父と帰省するときは、先を急ぐからと気動車に泣く泣く乗車でしたが、祖母のときはなんだかんだといいながら客車(当時は旧客という言葉も知りません)に誘導しておりました。あの当時、キハ47に出くわしたときのガッカリ感はいまでも覚えています。オレンジ色(タラコ色などと小学生は認識してなかった)で、両開きのドア、ロングシートには拒絶反応でした(笑)
私の世代も旧客の終わりが高校生だったので選んで乗ってました。あの頃気動車は残念に思いました。
山陰2番乗り場ねえ・・・
素晴らしい音源ですね。震えます。
当方昭和46年生まれ。幼少期は長岡京にいました。祖父母がいる嵯峨までは阪急で西院経由、市バス91系統が常。ところが小学4年の頃か、当時神足駅から京都駅経由で祖父母を訪ねることがあり、9時08分発米子行の旧客に圧倒されました。銀河鉄道999の客車が威風堂々と京都駅に佇む姿は別世界のようでした。それからは必ず京都駅経由になり、なるべく遠方の知らない土地まで行く客車を選んで祖父母を訪ねるようになりました。時刻表を買いだしたのもその頃です。山陰線にB寝台を1両だけ連結している普通夜行を見つけ、いつか乗ってみたいと憧れました。そしてついに小学6年生の時、卒業旅行で神足出発、東海道線、山陰線、伯備線、山陽線、東海道線経由神足行きを計画し、友達2人と憧れの山陰号のB寝台に乗りました。今振り返ってもよく親が許したなと思います。手元にあるのは昭和59年3月30日山陰号 京都22:06発米子まで 1号車8番下段の寝台券。駅に停車した時の静寂、哀しげなDD51のホイッスル、もう二度と体験できませんが一番の宝物です。
当時は堺市に住んでいました。旧客ファンとしてはとてもいいところに住んでいたのに、もっと乗っておけばよかったと思います。
静寂のなか虫の声だけが鳴り響く馬堀駅。やがて遠くから出雲3号が近づいてきて、疾風の如く駆け抜けて行く。
そしてDD51の汽笛一声のあと動き出す山陰号。。。
かつては毎日当たり前だった風景…でも今思えば、なんと幻想的な情景だろうか。
この動画によって、瞼を閉じるともう二度と味わうことのできない情景が目に浮かんでくるようです。
ありがとうございます😊
コメントありがとうございます。
床下にディーゼル発電機を積んでいない旧客ならではの静けさ。
そのおかげでたくさんの音が飛び込んできます。
虫の音、遠くに聞こえるジョイント音。ホイッスルの音。
特にこの時代のDD51のホイッスルは今と違って優しい音色で私は大好きです。
音質のいい素晴らしい音源です❗感動しました。この音を聞きながら寝床で読書しているといつの間にか気持ちよく眠っています。アップしてくれて感謝します。
実家で何の管理をするこtぞもなく数十年ほったらかしでいたカセットテープですが、ノビも劣化もほとんどなく保存されていたことに私も感謝しています。
自分自身でもこんないい音源公開しないわけがないと思いアップさせていただきました。
長い録音の公開ありがとうございました。
最後の京都駅の到着シーンは懐かしく泣きそうになりました。そして到着の後すぐベルがなって発車する833列車浜田行き。
僕も山陰号で京都についた時にこの浜田行きを見て、次はこれだ!
と思い、その年の夏に833列車にのりました。
そのシーンが蘇りました。
旅一郎さま、コメントありがとうございます。
あの京都山陰ホームの雑踏はいまでも一生忘れることはなく、死ぬまで頭の中をグルグル回るんだろうなと思います。
旅一郎さんのチャンネルも、いつも楽しく、同じものでも何度殿も聞き返しています。
私は後残すところ20系時代の銀河を残すのみえ残念です。
これからもご健勝の程、お祈りさせていただきます。
このご時世、お体には特に沖をつけてお過ごしください。
浜田行き833列車ですが、実際には京都から特急「あさしお」3号に乗れば、終点の倉吉でちょうど833列車に追いすがるダイヤになっていたため、万一早朝から乗りそびれても安心は確保されていました。
@@rhscm989 倉吉まで行って追いつくのなら、伯備線経由もありですね
京都を朝9時台序盤に出発していたおなじみの837列車(京都発出雲市行き)。その列車が平日になると保津峡付近への遠足に重宝されていたことから、「遠足列車」として呼ばれていました。僕も多くの遠足利用客で賑わう車内での喧騒を避けるべく、休日ダイヤをチョイスして当該列車でのんびり旅気分を堪能すればよかったと後悔しています。
@@rhscm989 遠足として3回乗ったので、837.835列車は懐かしいです。
京都駅から旅ができた贅沢な時代でしたね。
素晴らしい動画だと思います。地元が八木なんですが、1985年3月ダイヤ改正(小5学年末)まで山陰本線京都口に旧型客車がたくさん運行されていました。1990年3月改正では普通客車列車自体が山陰本線京都口から消滅してしまいましたが(京都~園部間電化のため)。それどころか、1997年3月改正で山陰本線全線から普通客車列車が消滅してしましましたが…。
(報告:チャンネル登録をさせていただきました。)
「やまぐち号」みたいに新生旧客でもよいので、客車列車を安価で復活させてほしいですね。銀河が客車列車でなくて残念でした。
今は八木~京都間は快速で約30分、各停で約35分と「山陰」よりも大幅に短縮され、京都への通勤・通学路線としての底力を非電化時代から見せ続けています(特に非電化時代はキハ47形が1977年~1981年に集中投入されたため、デッキがなくなった分流動がさらに円滑化されたほか、ラッシュアワーには最大10両連結するなど、一定の対策がなされた)。
山陰旧線は京都という都会のすぐ近くにありながら、明治の面影がたっぷりあったいい場所でした。新線は味気ないです。
ではなぜ現在の嵯峨嵐山~馬堀間を非電化のまま先行して複線化の上新線に切り替える必要があったのか?
それは山陰本線(嵯峨野線)京都口の電化(まず1990年3月に京都~園部間、続いて1995年4月に綾部~福知山間、最終的に1996年3月の園部~綾部間の完成を以て既存の福知山~城崎改め城崎温泉間と繋がり現在の姿が出来上がった)が正式に決まると既存の旧線では速度制限を受ける区間が至るところにあってそのままでは複線化ができないため、新たに6ヶ所のトンネルを掘り直して別の線路を敷き直し、さらに保津峡駅を保津川を跨ぐ位置に移設して、将来の電化と複線化に役立てたからです(その後京都駅構内のほんの一部分だけを単線のまま残した以外、2010年3月13日の京都~園部間複線化がかないました)。
元太秦の住民です。”山陰号”と呼ばれる前に(DF50牽引の時代。小中学生時代です)、島根・山口方面や、倉吉線(C11)への撮影旅行によく利用しました。早朝の花園駅から自宅まで歩いて帰った景色を思い出しました。
コメントありがとうございます。
なかなか素晴らしい時代にお生まれで、羨ましい次第です。
私もあと10年早く生まれていたら、学校なんて言っていないと思います。笑
私のしょう、中学校時代は学校サボって名古屋へ寝台特急撮りに行ったりしていましたから。
走り始めたばかりのやまぐち号も撮りに行ったっけ。爆
@@jyariten-zizi 山陰線京都口SL最後の日(月曜の朝)、園部発京都行のC575を近所の踏切まで見に行って、学校(太秦小学校)を遅刻したのを思い出しました。鉄道趣味とはしばらく疎遠でしたが、コロナ禍中に「老後の趣味は何をしよう?」と考えた末、昔を思い出し、今は山口線や大井川鐡道に通い始めています。
子供の頃、京都行に二度乗りました。深夜に乗車すると席の足元に新聞紙敷いて丸くなって寝てる人がそこかしこに居て子供心に面食らいましたw
保津峡辺りで辺りが白っぽく明るくなりだしてすごく幻想的な景色だった記憶。
同時間帯の大阪行きのだいせんと比べると客層が微妙にナニでしたねw
京都着は5時半前くらいでしたっけ?
茶さん コメントありがとうございます。
この時は島根県や鳥取県では通勤帰りの方が多かったです。
乗客は時期にもよると思いますが、特に混雑もなくでした。
京都は朝5時24分でした。
お返事ありがとうございます。
乗ったのは80年前後だったかなぁ…山陰を降りた構内で赤帽さん?がリヤカー引っ張ってはった記憶があります。
その時見上げたホームの時計で覚えてましたw
だいせんは国鉄最後の日のフリーきっぷで往復利用したのが最後なんですけど…あの日のアレは何乗っても苦行とゆーか我慢大会でしたw
ほんま・・・よろしいですなぁ。父の実家が綾部でしたので、京都からよく乗りました。普段は近鉄沿線に住んでいましたので、山陰線に乗るとういうのは小学生の私にとってはほんとうに楽しみなことでした。父と帰省するときは、先を急ぐからと気動車に泣く泣く乗車でしたが、祖母のときはなんだかんだといいながら客車(当時は旧客という言葉も知りません)に誘導しておりました。あの当時、キハ47に出くわしたときのガッカリ感はいまでも覚えています。オレンジ色(タラコ色などと小学生は認識してなかった)で、両開きのドア、ロングシートには拒絶反応でした(笑)
私の世代も旧客の終わりが高校生だったので選んで乗ってました。
あの頃気動車は残念に思いました。
山陰2番乗り場ねえ・・・