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なんと💦なんと💦知性と感性とが融和し平和裏に反映されるべき時代を呼び覚まそうと頑張っておられる小名木先生の真骨頂ともいうべき神回動画であります👏
いつもありがとうございます。今まで抱いていた歴上の違和感を、いつも拭われて見晴らしが良くなった気分です。
素晴らしい日本人の知恵の結集が日本独特の文化・歴史を作っていく。大切な精神です。只、我慢はいけません、自分は慢心があるので堪える事が出来る、此れは増上慢です。本来は何処までも耐え忍ぶです。日本人ならはです。
本日も素晴らしいお話をしてくださりありがとうございました。女性の力は偉大ですね!またそれを活かす男性も両方ともカッコいいと思いました。
共感しかないです!ありがとうございます😊
ありがとうございます。小名木先生の百人一首解説、絶版でしたので中古で見つけて読んでいる途中です。小名木先生の解説の深さに一つ一つ納得しています。学校で習った解説とはまるでちがいます。細川ガラシャも同じような事を習ったのでしょうか。もう一度書店に並ぺて皆さんにみていただきたい気がします。
文化を通した交流で、国を動かすリーダーたちの心が変わって社会が変わるっていうのはすごくいいですね!!どんなに権力や力を持っていても最終的には人と人との繋がりになるから、奥さんとの関わり方が国の行く末さえも変えてしまえるんですね!!心の豊かさを求める気持ちは止められるものではない大きな力ですね!!
人を動かすのは力では無く共感しお互いを認め合う心だと知っていた女性がいたんですね。教養は平和に必要です。
🇯🇵お話しありがとうございます。細川ガラシャ(女性)平和をありがとうございます。
すごいいい授業👏。。。
細川ガラシャ=キリシタンという考えが変わりました。根底は、日本文化だったんですね。細川ガラシャのことを、再度知る事と、百人一首を読んでみたくなりました。
え…今おすすめで上がってきて拝見し…ふるえがとまらない😭戦国時代を終わらせた女性…個人的には戦国時代の瀬織津姫の分御霊と感じてなりません…細川ガラシャ(和名:玉子)を取り上げていただき有り難うございます(。-人-。)🦋
うしはくは しらすをたすく もののふのたけをたてつる ますらおのわざかつて古事記、日本書紀とあわせて万葉集を編纂した思い。源氏の跡取りに歌を伝え、小倉百人一首を編纂した思い。戦国時代にも伝わっていたんですね。心がふるえる学びを有り難うございます。馬乗りの 心根にそう 馬はなし拍子を合わせ ヂミチ常歩
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます...
先生のお話は、山本周五郎の小説が描く武家社会の姿と類似し、誠実で女性もちゃんと女性としての自由もみとめられ女性としての権理も認められており、規律のあるいい社会のようで好きです。これはSpilitual な内容の話で人を信じる信じないの宗教的な話だと思うんです。サムライは首狩り族の野蛮人だといわれると否定はできないけど、、たとえ帝国国家といわれても、権力者も、一般も、誠実で、義理人情と愛があふれる国家なら問題はないと思います。
細川 ガラシャー1(伽羅奢[1]、迦羅奢[2]、Gracia[3]) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。子に、於長(おちょう:前野景定正室)・忠隆・興秋・忠利・多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。名称明治期にキリスト教徒などが洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い[要出典]とされるが、クリスチャンとしては細川ガラシヤを称したらしいとの主張[4]もある。「明智ガラシア[5]」表記を採る学者もいる。なお古代以来の実名呼称回避の習俗の中で、若い女性が実名を名乗る場面は極めて限定される[6]。本人署名は「た[7]」の一字のみ。生涯忠興に嫁ぐ細川ガラシャ生誕の地(明智神社(福井市)永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる(次女説もある[8])。天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ[9]。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる[9]。なお、信長が8月11日に明智光秀に出した判物がある(『細川家記』)。光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている[10]ことから偽作の可能性が高い古文書とされている[11]。天正6年8月、勝龍寺城に輿入れした(『細川家記』)[12]。天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。勝龍寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る[12]。本能寺の変天正10年(1582年)6月、父の光秀が本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦い後に没したため、「謀叛人の娘」となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した[12]。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女達だった。当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通であった。それをしなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もあるが、明智家の「茶屋」があった味土野に送られたことや、幽閉時代に男子二人を含む子を出産していることから、忠興の珠への愛情が断ち切れなかったからではないかとの指摘がある[13]。一方、珠は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論もある[14]。キリシタンへ天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した[注釈 1]。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機については、はっきりとしたことは分からない[16]。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので[注釈 2]、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった[16]。
補記ー1塚原卜伝(つかはらぼくでん)は1489年(延徳元年)、常陸国(現在の茨城県)で生まれました。生家の「卜部吉川家」(うらべよしかわけ)は代々「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)の祝部(はふりべ:神に仕える役職者)を務める家柄。朝廷から常陸国大掾(ひたちのくにだいじょう:朝廷公認の地方領主)を拝命している鹿島氏の「四宿老」(よんしゅくろう)のひとつに数えられる名家でした。鹿島氏の神官には、剣術を修めた家が7つあり、各家では「鹿島七流」(かしましちりゅう)と呼ばれる流派をそれぞれ継承していました。卜部吉川家もこのひとつで、「鹿島中古流」(かしまちゅうこりゅう)を伝承。塚原卜伝は、幼い頃から父「吉川覚賢」(よしかわあきかた)の手ほどきを受け、メキメキと剣の腕前を上げていきました。塚原卜伝が10歳のとき、転機が訪れます。剣術の才と重厚沈着な性格が「塚原城」(茨城県鹿嶋市)を治める「塚原安幹」(つかはらやすもと)の目に留まり、養子に入ったのです。塚原家もまた剣術の名家として知られ、「香取神道流」(かとりしんとうりゅう)を修める一族でした。塚原卜伝はここでも持ち前の才気を発揮して剣術を修得し、10代半ばで2つの流派をマスターする傑物として一目置かれる存在になったのです。戦乱の京都で剣豪としてスケールアップ塚原卜伝は17歳で武者修行の旅に出ます。小領主の若殿として未来は約束されていましたが、自分の腕前と運を試したかったのです。諸国を巡って京の都に至った塚原卜伝は、名のある剣豪との立ち合いで早速剣名を知られるようになり、室町幕府11代将軍「足利義澄」(あしかがよしずみ)の目に留まります。そののち、足利氏直属の家来に取り立てられ、京の戦乱に身を投じることになりました。戦場においても、塚原卜伝の剣技はレベルが違いました。37回戦場に立ち、そのうち22回敵と干戈(かんか:武力や武器)を交えてすべてに勝利。大将首12、武者首16を討ち取り、計212人を斬り倒したと言われています。しかも、自分が受けた傷はささいな矢傷が6ヵ所。京都にその名をとどろかすには充分な槍働きを見せたのです。こうした実戦における経験は、のちに塚原卜伝が生み出した「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)にも大いに影響を与えました。秘剣を体得!「一之太刀」で前人未踏の剣境へ鹿島神宮に1,000日篭もり、開眼鹿島神宮鹿島神宮1518年(永正15年)、塚原卜伝は戦乱の京都から常陸国鹿島に戻ります。7年前に旧主が没したあとも足利将軍家のために戦い続けましたが、混乱収束の見込みがいっこうに立たず、京都での生活に見切りを付けたのです。塚原卜伝は帰郷後、再び剣術修行に没頭します。養父である塚原安幹のすすめで鹿島家四宿老の一家である松本家の「松本政信」(まつもとまさのぶ)に師事。松本政信は鹿島神宮に参篭(祈願のために神社などに篭もること)して秘技「一之太刀」(ひとつのたち)に開眼した剣豪であり、師礼を執ってきた塚原卜伝にも参篭修行をすすめました。教えにしたがい鹿島神宮での1,000日参篭に入ると、満願の1,000日目が迫ったある夜、塚原卜伝に神託が降りました。白い髭を垂らした老人が現れ、木刀を突き付けてきたのです。塚原卜伝はその木刀を払い、相手に打ち付けようとしましたが、手応えがありません。やがて老人が神か仙人の類であると悟った塚原卜伝は、目の前に見える姿を脳裏から消し去り、自然体のまま一念のみを込めて木刀を打ち込みました。そのとき、「自分も相手も存在せず、ただ無心で太刀とひとつになる」という不思議な感覚を体得。いわゆる一之太刀が開眼した瞬間でした。この新たな境地を開いたことにより、独自の流派・鹿島新當流の基礎が形成されたのです。秘剣「一之太刀」の正体とは?一之太刀については、ごく一部の高弟にしか伝授しなかったため、技の詳細は謎に包まれています。ただし、塚原卜伝の流れをくむ「卜伝流剣術」によると、「一つの太刀に生を燃焼し尽くし、一気に甲をも打ち割る気迫を込めた捨身の技を精神とし、二の太刀、三の太刀は用いない」とのこと。初太刀に全身全霊を込める技であることは確かです。しかし、実際の塚原卜伝の立会は、一之太刀の極意に見える神秘的な側面とは打って変わり、極めて現実的な手段で下準備を行っていたことが分かっています。例えば、「梶原長門」(かじわらながと)という武芸者との決闘では、敵が刃長(はちょう)約75cmの小薙刀(こなぎなた)を使用することを事前に調べ、自らの得物を80~85cmの太刀に変更。あらかじめ間合いの深さで優位を築いた上で立ち合い、一刀のもとに斬り倒しました。このように、塚原卜伝は立ち合いを申込まれると、門弟を使って相手の情報を収集し、勝利により近付く方策を立てた上で決闘に臨むのが常でした。剣の心得をまとめた連歌集「卜伝百首」には、「武士の いかに心の たけくとも 知らぬ事には 不覚あるべし」という一首があります。事前の情報収集や状況分析がいかに大切なのかを説いています。つまり、塚原卜伝の剣技の真髄とは、一之太刀のような必殺技が主体ではなく、徹底的に自分と相手を知ることで勝利を盤石にし、「戦わずして勝つ」ことにあるのです。3度の廻国修行を経て天寿を全う塚原卜伝は生涯を通じて計3回の廻国修行に出ています。初回が1505年(永正2年)から15年間、2度目が一之太刀に開眼したあとの1522年(大永2年)から11年間、そして3度目が1556年(弘治2年)から15年間です。塚原卜伝が没したのは、3度目の修行から帰郷した1571年(元亀2年)。83歳の生涯のうち、39年間も廻国修行に費やしたことになります。これは、自らの剣技を広めることに力を注いだ証です。しかし、秘技・一之太刀を伝授できるだけの力量ある弟子は、片手で数えるほどしか現れませんでした。最強の剣豪・塚原卜伝の逸話と愛刀宮本武蔵と対峙していた!?月岡芳年 作「武藏塚原試合図」(国立国会図書館ウェブサイトより)月岡芳年 作「武藏塚原試合図」(国立国会図書館ウェブサイトより)塚原卜伝の強さを際立たせる逸話のひとつに、「宮本武蔵」と対決したという伝説があります。血気盛んな宮本武蔵が食事を取っていた塚原卜伝に突如斬りかかったものの、とっさに鍋のふたで剣を受けた塚原卜伝が事なきを得たというエピソードです。江戸時代の絵師「月岡芳年」(つきおかよしとし)が「武藏塚原試合図」(むさしつかはらしあいず)という作品にこの逸話を描いたことが原因ですが、そもそも塚原卜伝が没した1571年(元亀2年)には、まだ宮本武蔵は生まれていません。これは二大剣豪の対決を夢見た人々による作り話です。塚原卜伝の愛刀「来国俊」(らいくにとし)塚原卜伝の愛刀のなかには「来国俊」(らいくにとし)の作例があったと言われています。山城国(現在の京都府南部)で隆盛を誇った「来派」(らいは)に属する刀匠で、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて活躍しました。蒙古襲来(もうこしゅうらい)以降の太刀の長大化を受けて豪壮な太刀を多数鍛刀し、現在も「国俊」の二字銘(にじめい)と「来国俊」の三字銘を刻んだ作例が現存しています。塚原卜伝が所有していた1振の詳細は定かではありませんが、作例の傾向を鑑みると、刃長の長かった1振だったとも言われています。
細川ガラシャー2壮絶な最期崇禅寺のガラシャの墓九州から帰還した忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教(カトリック教会)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた[18]。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。ガラシャの死の数時間後、神父ニェッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した[注釈 3]。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の妻子を人質に取る作戦はむやみに拡大しなかった[19]。異説一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされる。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある[20]。『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが窺える[20]。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、三浦浄心『見聞集』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである[要検証 - ノート][20]。なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正12年生、あるいは11年とも)、長女・長(生年不明、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない[20]。人物キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや『細川記』に採録されている逸話を見ると、気位が高く激しい性格の持ち主であったらしい[16]。しかしキリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。いったん事がある時は甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、私は男にさまで劣るまいと語った[16]。夫・忠興が家臣を手討ちにして、その刀の血を彼女の小袖で拭っても動ずることなく、そのまま数日間も着替えないので、結局は忠興が詫びて着替えてもらった[16]。忠興がある夜、彼女の部屋に入ってきて「小夜ふけて入たる物は何やらん」と戯れてうたいかけると、即座に「ともしび消えて閨の星かげ」と答えたとされる[16]。ガラシャ自筆の手紙は、国立国会図書館(松本文書)に10通[21]、永青文庫に4通、東京国立博物館に1通(細川忠興宛) [22]、熊本県立美術館(三宅家文書)、に1通(三宅重利宛)、小侍従の子孫である松本家に1通、の計17点が確認されている。しかしそれらを比べてみると、同一人物が書いていたとは思えないほど書風に差があり、署名だけはガラシャ自筆で、それ以外は右筆が書いた手紙が混ざるとも推測される。宛先の大半は小侍従で、文面からも彼女に対するガラシャの深い信頼が窺える。内容も豊富で、奥向の長として夫・忠興に対する気遣いや、使用人への扱い、上方への贈答や節句の準備の指示などが綴られている[23]。略歴年 珠の略歴 忠興の動向 実子の事績 備考1563年 越前にて出生 京都にて出生 細川京兆家の晴元・氏綱死去1578年 長岡忠興と勝龍寺城にて結婚 明智珠と勝龍寺城にて結婚 1579年 長女・ちょう誕生 明智光秀、丹波平定1580年 丹後・宮津城へ転居 父・藤孝が丹後半国を拝領 長男・忠隆誕生 1581年 京都御馬揃えに参加 1582年 味土野に幽閉 父より長岡家督を継承 本能寺の変1583年 幽閉状態 賤ヶ岳の戦いに参加 次男・興秋誕生 1584年 京・宮津へ転居 小牧・長久手の戦いに参加 1585年 紀州征伐に参加 秀吉が関白就任1586年 大坂に転居 三男・忠利誕生 天正地震1587年 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る(離婚を考えるが思い留まる) 九州征伐に参加 次男・興秋が受洗 バテレン追放令発布1588年 次女・たら誕生 1590年 小田原征伐に参加 1591年 秀次が関白就任、秀吉は太閤に1592年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役1593年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役1595年 忠興に信仰を告白 屋敷内に小聖堂を造る 次女・たらが受洗 秀次事件1596年 長女・おちょうが受洗 慶長大地震・サン=フェリペ号事件1597年 慶長の役開始・二十六聖人の殉教1598年 三女・萬が誕生 秀吉死去・慶長の役終了1599年 三成屋敷を襲撃 1600年 大坂・細川屋敷にて死去 関ケ原の戦いに参加。長男・忠隆を廃嫡 三男・忠利が後継ぎとなる (1601年) 京の教会でガラシャの一周忌を行う
細川ガラシャ―3音楽つき戯曲「強き女」ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」[24]が制作されることになった。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された[25]。脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲した。アドルフは、この戯曲の要約文書[26]において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」[27]であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の独訳本[28]の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」[29]であったことをも明記している。戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きである。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。ガラシャが登場する映画・テレビドラマなど聖女像 (1960年・TBS 演:香川京子)敵は本能寺にあり (1960年・松竹映画 演:岸恵子)徳川家康 (1964年・テレビ朝日 演:村松英子)大坂城の女 (1970年・関西テレビ 演:八千草薫)国盗り物語 (1973年・NHK大河ドラマ 演:林寛子)黄金の日日 (1978年・NHK大河ドラマ 演:島田陽子)おんな太閤記 (1981年・NHK大河ドラマ 演:岡まゆみ)関ヶ原 (1981年・TBS 演:栗原小巻)魔界転生 (1981年・東映映画 演:佳奈晃子)徳川家康 (1983年・NHK大河ドラマ 演:丸尾りえ)女たちの百万石 (1988年・日本テレビ 演:池内淳子)徳川家康 (1988年・TBS 演:加納みゆき)信長 KING OF ZIPANGU (1992年・NHK大河ドラマ 演:今村恵子)織田信長 (1994年・テレビ東京 演:戸田菜穂)秀吉 (1996年・NHK大河ドラマ 演:田村英里子)葵 徳川三代 (2000年・NHK大河ドラマ 演:鈴木京香)利家とまつ〜加賀百万石物語〜 (2002年・NHK大河ドラマ 演:中西夏奈子)国盗り物語 (2005年・テレビ東京 演:石川梨華)功名が辻 (2006年・NHK大河ドラマ 演:長谷川京子)明智光秀〜神に愛されなかった男〜 (2007年・フジテレビ 演:佐々木麻緒)江〜姫たちの戦国〜 (2011年・NHK大河ドラマ 演:ミムラ)[30]利休にたずねよ (2013年・東映映画 演:黒谷友香)真田丸 (2016年・NHK大河ドラマ 演:橋本マナミ)舞台 刀剣乱舞 (2020年-2022年・演:七海ひろき)麒麟がくる (2020年・NHK大河ドラマ 演:岡部明花俐/岡部光花俐→志水心音→竹野谷咲→芦田愛菜)ガラシャを主題とした作品小説芥川龍之介『糸女覚え書』司馬遼太郎「胡桃に酒」(短編集『故郷忘じがたく候』に収録)三浦綾子『細川ガラシャ夫人』永井路子『朱なる十字架』宮木あや子『ガラシャ』山田風太郎「忍法ガラシャの棺」(短編集『忍法聖千姫』に収録)遠藤周作「日本の聖女」(短編集『夫婦の一日』に収録)戯曲『強き女、そして彼女の、真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア。キリスト信仰のために幾多の苦難を耐え抜いた誉れ高き女性』[31](ヴィーン、1698年ヨハン・バプティスト・アドルフ台本、ヨハン・ベルンハルト・シュタウトオペラヴィンチェンツォ・チマッティ『細川ガラシャ』楽曲鈴木静一『劇的序楽「細川ガラシャ」』(1968年)さくらゆき『落花流水』(作詞:遠野ゆき、作曲:石野竜三)アニメまんが日本絵巻(1977年-1978年 ワールドテレビジョン)第16話 この子らに愛を 聖母細川ガラシャガラシャを主題とした祭長岡京ガラシャ祭(京都府長岡京市) 玉(ガラシャ)が勝龍寺城に輿入れした史実にちなんだ祭で、毎年11月第2日曜に開催される。輿入れ行列や婚礼の儀などが行われる。玉が輿入れした勝龍寺城跡を勝竜寺城公園として整備した1992年から毎年開催されている。[32]補記・塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた。・古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受は、広義では、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。狭義では、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたもの。さらなる狭義では、二条家断絶後、二条派の東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す[1]。
今回の大河ドラマではここでガラシャさんがやってたことに近いことを築山御前がやってました
出来が良すぎる人のせいで出来が悪くみられる人達ー1・細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) / 長岡 藤孝(ながおか ふじたか) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。雅号は幽斎。法名を玄旨という。初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。・細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流の細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。・黒田 孝高(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となる。諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といった[注釈 1]が、通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)[注釈 4]、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)(隠居名であるが)としても広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された[2]。・黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前国福岡藩初代藩主。戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となった。長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。・竹中半兵衛竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、軍師。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。・竹中 重門(たけなか しげかど)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。戦国時代の軍師として知られる竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子。・前田利家前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。・前田 利常(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。・北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院[1]。姓名は平氏康[2]。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した[3]。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた[4]。・北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。・斎藤 道三 / 斎藤 利政(さいとう どうさん / さいとう としまさ、明応3年〈1494年?〉- 弘治2年4月20日〈1556年5月28日〉)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主である。名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により、美濃の蝮という綽名でも知られる。(ただしこの異名は同時代の資料には一切記録されておらず、小説の創作である)・斎藤 義龍/ 斎藤 高政(さいとう よしたつ / さいとう たかまさ、大永7年6月10日〈1527年7月8日〉または享禄2年〈1529年〉- 永禄4年5月11日〈1561年6月23日〉)は、戦国時代の武将、美濃国の戦国大名、道三流斎藤氏の第二代当主(美濃一色氏初代とする説もある)、室町幕府相伴衆である。・斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、戦国時代の美濃国の戦国大名。道三流斎藤家3代(美濃一色家2代)[3]。祖父や父と比べると凡庸で、父の代から続く尾張国の織田信長の侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤利治、明智光秀等)、評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより、家臣の信望を得ることができなかった。
今回の小名木先生のお話ですぐ心に浮かんだことがありましたので、それについて述べさせていただきます。女性は正面からでなく、裏から回って世界を変える力を持っているということについてです。つまり暴力を振り回すだけしか知恵のない男たちを、影から密かに操縦して世の中を変えてしまう、素晴らしい力です。ガラシャ夫人のなさったことは、つまりはそういうことだったのでは?それで申し上げます。第二次世界大戦を終了させたのは女性だったという話です。あの時代、アメリカに世界的バレリーナがいて、その人は世界中に名を知られ、上流社会にそれなりの影響力を持っていました。彼女はなんとかしてこの馬鹿げた殺し合いをやめさせたいと考え、戦争の鍵を握る世界の有力者の妻たちに働きかけて Sisterhood of Roses (薔薇の姉妹共同体)という秘密団体を作りました。その一員にヒトラーの彼女、エヴァ・ブラウンもいたのです。長くなるので手短にいいますと、彼女たちはドイツ軍がノルマンディー上陸を果たす計画でいると知り、密かに天気予報を調べ、ドイツ軍が上陸地点が嵐に襲われる日を選ぶよう夫たちにし向かせたのです。女性たちのこの作戦は図に当たり、あとは歴史が示す通り、これによってドイツは敗戦にまっしぐらに向かいました。これは実話です。ですが学校ではそんなことを教えていません。以上
補記ー2・古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受は、広義では、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。狭義では、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたもの。さらなる狭義では、二条家断絶後、二条派の東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す[1]。歴史古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃から現れつつあった[2]。鎌倉時代以降公家の家筋が固まり、家の家職が分別化されると、古今和歌集の解釈は歌学を家職とする二条家の秘事として代々相承されるようになった[2]。しかし二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者達(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった[2]。二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった[3]。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った[3]。宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった[4]。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった[5]。御所伝授三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡して、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は、勅使を派遣し幽斎の身柄を保護して開城させた[6]。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い[7]、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。内容奈良伝授の内容は現在に伝わっていないが、御所伝授や堺伝授の内容は現在確認することができる。御所伝授は口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」(きりがみでんじゅ)によって構成されている。烏丸家には現存最古とされる切紙と、その付属書類が伝わっており、その内容を知ることができる。切紙は単に受け継がれただけではなく、近衛尚通や幽斎によって書かれたものも存在しており、また時代が下ると次第に内容が書き加えられていく傾向があった[8]。また師が弟子に伝達したことを認可する証明書も含まれている。幽斎は肖柏の一族から堺伝授の切紙を買い上げており、その経緯もともに伝授されている[9]。
ガラガラ姫はな北斎や歌麿呂よりな二百年位早く欧州諸国を感動させた日本人だな 芸術家がな歌劇こしらえたな 凄いな女性たなキ印教の殉教者だな 女性だな女だぞ ガハハハ万歳靖子凌駕します😊😊
ガラシャはキリスト教という矛盾に立ち向かった❗良い解釈ですねガラシャの態度言動に感じられる印章は共感を感じます⁉️
楽しいけど俺には難しすぎる…
一首¥20kだけど出張教育サービスとしたら安いかなーと考えてしまう俺は下種 orz
忠興が短気で乱暴者だったから、戦国時代が終わったのかww
出来が良すぎる人のせいで出来が悪くみられる人達ー2・織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。戦国の三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」[注釈 4])を確立して天下人となった戦国時代を代表する英雄[2]。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。・織田 信行(おだ のぶゆき[3])は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ[3])・達成(みちなり[4])・信成(のぶなり[4])である[5]。父は織田弾正忠家の織田信秀[5]、母は土田御前で[5]織田信長の同母弟である。信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した[6]。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い[7]、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった[8]。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが[9]、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された[5]。・織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められ織田政権第2代当主となる。甲斐武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は二条新御所にて自刃した。岐阜城主。・織田 信雄(おだ のぶかつ、のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)・信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。諱の読みには「のぶかつ」と「のぶお(のぶを)」[1]など複数の説がある[2][注釈 2]。信雄から「雄」の偏諱を与えられた家臣は、いずれも「かつ」と呼ばれ「のぶかつ」が一般的呼び名とされる[3]。一方で息子の秀雄、高雄、良雄、長雄は「お」と読む[4]。また江戸時代後期の故実家伊勢貞丈は、「のぶよし」であったとしている。根拠としては村井古巌が『御湯殿上日記』にある「織田のぶよし」は信雄のことと指摘していたこと、信雄から一字拝領した土方雄久の子孫・土方雄忠は「よしただ」と呼ばれ、先祖からその読みを受け継いでいたことなどをあげている[5]。・織田 信孝(おだ のぶたか、おだ のぶのり[注釈 8])は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。信雄の命令によって信孝は自害させられた[19]。これには秀吉の内意があったとも言われている[1]。信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。享年26[1]。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している[3][注釈 30]。太田新左衛門尉は介錯を務めて後、自害して殉死した[46]。・織田 信包(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国柏原藩初代藩主。信包系織田家初代。織田信秀の4男(異説あり)で、織田信長の弟。通称は三十郎[1]。なお、一時長野工藤家に養子に入り17代当主となっている。・織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男で、有楽・如庵(うらく・じょあん)と号した。そのため、織田有楽斎(おだうらくさい)として言及される場合も多い[1]。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。・津田 信澄(つだ のぶずみ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の連枝衆(一門衆)であるが、姓は津田を称し[2]、諱は初め信重といった[2]。通称を七兵衛。近江大溝城主で、摂津大坂城代[注釈 7]。・織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。岐阜城陥落後の逸話として、家臣・小林新六郎が関ヶ原より撤退する島津義弘の軍勢の道案内をしたことが伝わっている。降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった[注釈 7]福島正則が自らの武功と引き換えにと助命を主張したため、合戦終結後に美濃(岐阜)13万石は没収されて高野山へと送られた[15]。道中の警護は浅野家が務めた。岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26。同地の観音寺に位牌が祀られている
なんと💦なんと💦知性と感性とが融和し平和裏に反映されるべき時代を呼び覚まそうと頑張っておられる小名木先生の真骨頂ともいうべき神回動画であります👏
いつもありがとうございます。今まで抱いていた歴上の違和感を、いつも拭われて見晴らしが良くなった気分です。
素晴らしい日本人の知恵の結集が日本独特の文化・歴史を作っていく。大切な精神です。只、我慢はいけません、自分は慢心があるので堪える事が出来る、此れは増上慢です。本来は何処までも耐え忍ぶです。日本人ならはです。
本日も素晴らしいお話をしてくださり
ありがとうございました。女性の力は偉大ですね!またそれを活かす男性も両方ともカッコいいと思いました。
共感しかないです!ありがとうございます😊
ありがとうございます。
小名木先生の百人一首解説、絶版でしたので中古で見つけて読んでいる途中です。小名木先生の解説の深さに一つ一つ納得しています。学校で習った解説とはまるでちがいます。
細川ガラシャも同じような事を習ったのでしょうか。もう一度書店に並ぺて皆さんにみていただきたい気がします。
文化を通した交流で、国を動かすリーダーたちの心が変わって社会が変わるっていうのはすごくいいですね!!
どんなに権力や力を持っていても最終的には人と人との繋がりになるから、奥さんとの関わり方が国の行く末さえも変えてしまえるんですね!!心の豊かさを求める気持ちは止められるものではない大きな力ですね!!
人を動かすのは力では無く共感しお互いを認め合う心だと知っていた女性がいたんですね。教養は平和に必要です。
🇯🇵お話しありがとうございます。
細川ガラシャ(女性)平和をありがとうございます。
すごいいい授業👏。。。
細川ガラシャ=キリシタンという考えが変わりました。根底は、日本文化だったんですね。細川ガラシャのことを、再度知る事と、百人一首を読んでみたくなりました。
え…今おすすめで上がってきて
拝見し…ふるえがとまらない😭
戦国時代を終わらせた女性…
個人的には戦国時代の瀬織津姫の
分御霊と感じてなりません…
細川ガラシャ(和名:玉子)を
取り上げていただき
有り難うございます(。-人-。)🦋
うしはくは しらすをたすく もののふの
たけをたてつる ますらおのわざ
かつて古事記、日本書紀とあわせて万葉集を編纂した思い。
源氏の跡取りに歌を伝え、小倉百人一首を編纂した思い。
戦国時代にも伝わっていたんですね。
心がふるえる学びを有り難うございます。
馬乗りの 心根にそう 馬はなし
拍子を合わせ ヂミチ常歩
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます...
先生のお話は、山本周五郎の小説が描く武家社会の姿と類似し、誠実で女性もちゃんと女性としての自由もみとめられ女性としての権理も認められており、規律のあるいい社会のようで好きです。これはSpilitual な内容の話で人を信じる信じないの宗教的な話だと思うんです。サムライは首狩り族の野蛮人だといわれると否定はできないけど、、たとえ帝国国家といわれても、権力者も、一般も、誠実で、義理人情と愛があふれる国家なら問題はないと思います。
細川 ガラシャー1
(伽羅奢[1]、迦羅奢[2]、Gracia[3]) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。
子に、於長(おちょう:前野景定正室)・忠隆・興秋・忠利・多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。
名称
明治期にキリスト教徒などが洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合が多い[要出典]とされるが、クリスチャンとしては細川ガラシヤを称したらしいとの主張[4]もある。「明智ガラシア[5]」表記を採る学者もいる。
なお古代以来の実名呼称回避の習俗の中で、若い女性が実名を名乗る場面は極めて限定される[6]。本人署名は「た[7]」の一字のみ。
生涯
忠興に嫁ぐ
細川ガラシャ生誕の地(明智神社(福井市)
永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる(次女説もある[8])。
天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ[9]。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる[9]。
なお、信長が8月11日に明智光秀に出した判物がある(『細川家記』)。光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている[10]ことから偽作の可能性が高い古文書とされている[11]。
天正6年8月、勝龍寺城に輿入れした(『細川家記』)[12]。
天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。
勝龍寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る[12]。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月、父の光秀が本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦い後に没したため、「謀叛人の娘」となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した[12]。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通であった。それをしなかったのは、明智家がすぐに滅んだという事情もあるが、明智家の「茶屋」があった味土野に送られたことや、幽閉時代に男子二人を含む子を出産していることから、忠興の珠への愛情が断ち切れなかったからではないかとの指摘がある[13]。一方、珠は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論もある[14]。
キリシタンへ
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した[注釈 1]。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機については、はっきりとしたことは分からない[16]。
天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので[注釈 2]、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。
バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった[16]。
補記ー1
塚原卜伝
(つかはらぼくでん)は1489年(延徳元年)、常陸国(現在の茨城県)で生まれました。生家の「卜部吉川家」(うらべよしかわけ)は代々「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)の祝部(はふりべ:神に仕える役職者)を務める家柄。
朝廷から常陸国大掾(ひたちのくにだいじょう:朝廷公認の地方領主)を拝命している鹿島氏の「四宿老」(よんしゅくろう)のひとつに数えられる名家でした。
鹿島氏の神官には、剣術を修めた家が7つあり、各家では「鹿島七流」(かしましちりゅう)と呼ばれる流派をそれぞれ継承していました。卜部吉川家もこのひとつで、「鹿島中古流」(かしまちゅうこりゅう)を伝承。塚原卜伝は、幼い頃から父「吉川覚賢」(よしかわあきかた)の手ほどきを受け、メキメキと剣の腕前を上げていきました。
塚原卜伝が10歳のとき、転機が訪れます。剣術の才と重厚沈着な性格が「塚原城」(茨城県鹿嶋市)を治める「塚原安幹」(つかはらやすもと)の目に留まり、養子に入ったのです。塚原家もまた剣術の名家として知られ、「香取神道流」(かとりしんとうりゅう)を修める一族でした。塚原卜伝はここでも持ち前の才気を発揮して剣術を修得し、10代半ばで2つの流派をマスターする傑物として一目置かれる存在になったのです。
戦乱の京都で剣豪としてスケールアップ
塚原卜伝は17歳で武者修行の旅に出ます。小領主の若殿として未来は約束されていましたが、自分の腕前と運を試したかったのです。諸国を巡って京の都に至った塚原卜伝は、名のある剣豪との立ち合いで早速剣名を知られるようになり、室町幕府11代将軍「足利義澄」(あしかがよしずみ)の目に留まります。そののち、足利氏直属の家来に取り立てられ、京の戦乱に身を投じることになりました。
戦場においても、塚原卜伝の剣技はレベルが違いました。37回戦場に立ち、そのうち22回敵と干戈(かんか:武力や武器)を交えてすべてに勝利。大将首12、武者首16を討ち取り、計212人を斬り倒したと言われています。しかも、自分が受けた傷はささいな矢傷が6ヵ所。京都にその名をとどろかすには充分な槍働きを見せたのです。こうした実戦における経験は、のちに塚原卜伝が生み出した「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)にも大いに影響を与えました。
秘剣を体得!「一之太刀」で前人未踏の剣境へ
鹿島神宮に1,000日篭もり、開眼
鹿島神宮
鹿島神宮
1518年(永正15年)、塚原卜伝は戦乱の京都から常陸国鹿島に戻ります。
7年前に旧主が没したあとも足利将軍家のために戦い続けましたが、混乱収束の見込みがいっこうに立たず、京都での生活に見切りを付けたのです。塚原卜伝は帰郷後、再び剣術修行に没頭します。養父である塚原安幹のすすめで鹿島家四宿老の一家である松本家の「松本政信」(まつもとまさのぶ)に師事。
松本政信は鹿島神宮に参篭(祈願のために神社などに篭もること)して秘技「一之太刀」(ひとつのたち)に開眼した剣豪であり、師礼を執ってきた塚原卜伝にも参篭修行をすすめました。
教えにしたがい鹿島神宮での1,000日参篭に入ると、満願の1,000日目が迫ったある夜、塚原卜伝に神託が降りました。白い髭を垂らした老人が現れ、木刀を突き付けてきたのです。塚原卜伝はその木刀を払い、相手に打ち付けようとしましたが、手応えがありません。やがて老人が神か仙人の類であると悟った塚原卜伝は、目の前に見える姿を脳裏から消し去り、自然体のまま一念のみを込めて木刀を打ち込みました。
そのとき、「自分も相手も存在せず、ただ無心で太刀とひとつになる」という不思議な感覚を体得。いわゆる一之太刀が開眼した瞬間でした。この新たな境地を開いたことにより、独自の流派・鹿島新當流の基礎が形成されたのです。
秘剣「一之太刀」の正体とは?
一之太刀については、ごく一部の高弟にしか伝授しなかったため、技の詳細は謎に包まれています。ただし、塚原卜伝の流れをくむ「卜伝流剣術」によると、「一つの太刀に生を燃焼し尽くし、一気に甲をも打ち割る気迫を込めた捨身の技を精神とし、二の太刀、三の太刀は用いない」とのこと。初太刀に全身全霊を込める技であることは確かです。
しかし、実際の塚原卜伝の立会は、一之太刀の極意に見える神秘的な側面とは打って変わり、極めて現実的な手段で下準備を行っていたことが分かっています。
例えば、「梶原長門」(かじわらながと)という武芸者との決闘では、敵が刃長(はちょう)約75cmの小薙刀(こなぎなた)を使用することを事前に調べ、自らの得物を80~85cmの太刀に変更。あらかじめ間合いの深さで優位を築いた上で立ち合い、一刀のもとに斬り倒しました。
このように、塚原卜伝は立ち合いを申込まれると、門弟を使って相手の情報を収集し、勝利により近付く方策を立てた上で決闘に臨むのが常でした。剣の心得をまとめた連歌集「卜伝百首」には、「武士の いかに心の たけくとも 知らぬ事には 不覚あるべし」という一首があります。事前の情報収集や状況分析がいかに大切なのかを説いています。
つまり、塚原卜伝の剣技の真髄とは、一之太刀のような必殺技が主体ではなく、徹底的に自分と相手を知ることで勝利を盤石にし、「戦わずして勝つ」ことにあるのです。
3度の廻国修行を経て天寿を全う
塚原卜伝は生涯を通じて計3回の廻国修行に出ています。初回が1505年(永正2年)から15年間、2度目が一之太刀に開眼したあとの1522年(大永2年)から11年間、そして3度目が1556年(弘治2年)から15年間です。
塚原卜伝が没したのは、3度目の修行から帰郷した1571年(元亀2年)。83歳の生涯のうち、39年間も廻国修行に費やしたことになります。これは、自らの剣技を広めることに力を注いだ証です。しかし、秘技・一之太刀を伝授できるだけの力量ある弟子は、片手で数えるほどしか現れませんでした。
最強の剣豪・塚原卜伝の逸話と愛刀
宮本武蔵と対峙していた!?
月岡芳年 作「武藏塚原試合図」(国立国会図書館ウェブサイトより)
月岡芳年 作「武藏塚原試合図」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
塚原卜伝の強さを際立たせる逸話のひとつに、「宮本武蔵」と対決したという伝説があります。
血気盛んな宮本武蔵が食事を取っていた塚原卜伝に突如斬りかかったものの、とっさに鍋のふたで剣を受けた塚原卜伝が事なきを得たというエピソードです。
江戸時代の絵師「月岡芳年」(つきおかよしとし)が「武藏塚原試合図」(むさしつかはらしあいず)という作品にこの逸話を描いたことが原因ですが、そもそも塚原卜伝が没した1571年(元亀2年)には、まだ宮本武蔵は生まれていません。
これは二大剣豪の対決を夢見た人々による作り話です。
塚原卜伝の愛刀「来国俊」(らいくにとし)
塚原卜伝の愛刀のなかには「来国俊」(らいくにとし)の作例があったと言われています。山城国(現在の京都府南部)で隆盛を誇った「来派」(らいは)に属する刀匠で、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて活躍しました。蒙古襲来(もうこしゅうらい)以降の太刀の長大化を受けて豪壮な太刀を多数鍛刀し、現在も「国俊」の二字銘(にじめい)と「来国俊」の三字銘を刻んだ作例が現存しています。
塚原卜伝が所有していた1振の詳細は定かではありませんが、作例の傾向を鑑みると、刃長の長かった1振だったとも言われています。
細川ガラシャー2
壮絶な最期
崇禅寺のガラシャの墓
九州から帰還した忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教(カトリック教会)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。
慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた[18]。
この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。
ガラシャの死の数時間後、神父ニェッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。
なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した[注釈 3]。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。
石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の妻子を人質に取る作戦はむやみに拡大しなかった[19]。
異説
一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされる。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある[20]。
『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが窺える[20]。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、三浦浄心『見聞集』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである[要検証 - ノート][20]。
なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正12年生、あるいは11年とも)、長女・長(生年不明、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない[20]。
人物
キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや『細川記』に採録されている逸話を見ると、気位が高く激しい性格の持ち主であったらしい[16]。しかしキリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
いったん事がある時は甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、私は男にさまで劣るまいと語った[16]。
夫・忠興が家臣を手討ちにして、その刀の血を彼女の小袖で拭っても動ずることなく、そのまま数日間も着替えないので、結局は忠興が詫びて着替えてもらった[16]。
忠興がある夜、彼女の部屋に入ってきて「小夜ふけて入たる物は何やらん」と戯れてうたいかけると、即座に「ともしび消えて閨の星かげ」と答えたとされる[16]。
ガラシャ自筆の手紙は、国立国会図書館(松本文書)に10通[21]、永青文庫に4通、東京国立博物館に1通(細川忠興宛) [22]、熊本県立美術館(三宅家文書)、に1通(三宅重利宛)、小侍従の子孫である松本家に1通、の計17点が確認されている。しかしそれらを比べてみると、同一人物が書いていたとは思えないほど書風に差があり、署名だけはガラシャ自筆で、それ以外は右筆が書いた手紙が混ざるとも推測される。宛先の大半は小侍従で、文面からも彼女に対するガラシャの深い信頼が窺える。内容も豊富で、奥向の長として夫・忠興に対する気遣いや、使用人への扱い、上方への贈答や節句の準備の指示などが綴られている[23]。
略歴
年 珠の略歴 忠興の動向 実子の事績 備考
1563年 越前にて出生 京都にて出生 細川京兆家の晴元・氏綱死去
1578年 長岡忠興と勝龍寺城にて結婚 明智珠と勝龍寺城にて結婚
1579年 長女・ちょう誕生 明智光秀、丹波平定
1580年 丹後・宮津城へ転居 父・藤孝が丹後半国を拝領 長男・忠隆誕生
1581年 京都御馬揃えに参加
1582年 味土野に幽閉 父より長岡家督を継承 本能寺の変
1583年 幽閉状態 賤ヶ岳の戦いに参加 次男・興秋誕生
1584年 京・宮津へ転居 小牧・長久手の戦いに参加
1585年 紀州征伐に参加 秀吉が関白就任
1586年 大坂に転居 三男・忠利誕生 天正地震
1587年 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る
(離婚を考えるが思い留まる) 九州征伐に参加 次男・興秋が受洗 バテレン追放令発布
1588年 次女・たら誕生
1590年 小田原征伐に参加
1591年 秀次が関白就任、秀吉は太閤に
1592年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役
1593年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役
1595年 忠興に信仰を告白 屋敷内に小聖堂を造る 次女・たらが受洗 秀次事件
1596年 長女・おちょうが受洗 慶長大地震・サン=フェリペ号事件
1597年 慶長の役開始・二十六聖人の殉教
1598年 三女・萬が誕生 秀吉死去・慶長の役終了
1599年 三成屋敷を襲撃
1600年 大坂・細川屋敷にて死去 関ケ原の戦いに参加。長男・忠隆を廃嫡 三男・忠利が後継ぎとなる
(1601年) 京の教会でガラシャの一周忌を行う
細川ガラシャ―3
音楽つき戯曲「強き女」
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」[24]が制作されることになった。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された[25]。脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲した。
アドルフは、この戯曲の要約文書[26]において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」[27]であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の独訳本[28]の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」[29]であったことをも明記している。
戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きである。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。
ガラシャが登場する映画・テレビドラマなど
聖女像 (1960年・TBS 演:香川京子)
敵は本能寺にあり (1960年・松竹映画 演:岸恵子)
徳川家康 (1964年・テレビ朝日 演:村松英子)
大坂城の女 (1970年・関西テレビ 演:八千草薫)
国盗り物語 (1973年・NHK大河ドラマ 演:林寛子)
黄金の日日 (1978年・NHK大河ドラマ 演:島田陽子)
おんな太閤記 (1981年・NHK大河ドラマ 演:岡まゆみ)
関ヶ原 (1981年・TBS 演:栗原小巻)
魔界転生 (1981年・東映映画 演:佳奈晃子)
徳川家康 (1983年・NHK大河ドラマ 演:丸尾りえ)
女たちの百万石 (1988年・日本テレビ 演:池内淳子)
徳川家康 (1988年・TBS 演:加納みゆき)
信長 KING OF ZIPANGU (1992年・NHK大河ドラマ 演:今村恵子)
織田信長 (1994年・テレビ東京 演:戸田菜穂)
秀吉 (1996年・NHK大河ドラマ 演:田村英里子)
葵 徳川三代 (2000年・NHK大河ドラマ 演:鈴木京香)
利家とまつ〜加賀百万石物語〜 (2002年・NHK大河ドラマ 演:中西夏奈子)
国盗り物語 (2005年・テレビ東京 演:石川梨華)
功名が辻 (2006年・NHK大河ドラマ 演:長谷川京子)
明智光秀〜神に愛されなかった男〜 (2007年・フジテレビ 演:佐々木麻緒)
江〜姫たちの戦国〜 (2011年・NHK大河ドラマ 演:ミムラ)[30]
利休にたずねよ (2013年・東映映画 演:黒谷友香)
真田丸 (2016年・NHK大河ドラマ 演:橋本マナミ)
舞台 刀剣乱舞 (2020年-2022年・演:七海ひろき)
麒麟がくる (2020年・NHK大河ドラマ 演:岡部明花俐/岡部光花俐→志水心音→竹野谷咲→芦田愛菜)
ガラシャを主題とした作品
小説
芥川龍之介『糸女覚え書』
司馬遼太郎「胡桃に酒」(短編集『故郷忘じがたく候』に収録)
三浦綾子『細川ガラシャ夫人』
永井路子『朱なる十字架』
宮木あや子『ガラシャ』
山田風太郎「忍法ガラシャの棺」(短編集『忍法聖千姫』に収録)
遠藤周作「日本の聖女」(短編集『夫婦の一日』に収録)
戯曲
『強き女、そして彼女の、真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア。キリスト信仰のために幾多の苦難を耐え抜いた誉れ高き女性』[31](ヴィーン、1698年ヨハン・バプティスト・アドルフ台本、ヨハン・ベルンハルト・シュタウト
オペラ
ヴィンチェンツォ・チマッティ『細川ガラシャ』
楽曲
鈴木静一『劇的序楽「細川ガラシャ」』(1968年)
さくらゆき『落花流水』(作詞:遠野ゆき、作曲:石野竜三)
アニメ
まんが日本絵巻(1977年-1978年 ワールドテレビジョン)第16話 この子らに愛を 聖母細川ガラシャ
ガラシャを主題とした祭
長岡京ガラシャ祭(京都府長岡京市) 玉(ガラシャ)が勝龍寺城に輿入れした史実にちなんだ祭で、毎年11月第2日曜に開催される。輿入れ行列や婚礼の儀などが行われる。玉が輿入れした勝龍寺城跡を勝竜寺城公園として整備した1992年から毎年開催されている。[32]
補記
・塚原 卜伝
(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた。
・古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受は、広義では、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。狭義では、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたもの。さらなる狭義では、二条家断絶後、二条派の東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す[1]。
今回の大河ドラマではここでガラシャさんがやってたことに近いことを築山御前がやってました
出来が良すぎる人のせいで出来が悪くみられる人達ー1
・細川 幽斎
(ほそかわ ゆうさい) / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) / 長岡 藤孝(ながおか ふじたか) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗る。雅号は幽斎。法名を玄旨という。
初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。
・細川 忠興
(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流の細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
・黒田 孝高
(くろだ よしたか、旧字体:黑田 孝高)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となる。
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といった[注釈 1]が、通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)[注釈 4]、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)(隠居名であるが)としても広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された[2]。
・黒田 長政
(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前国福岡藩初代藩主。
戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となった。長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。
・竹中半兵衛
竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、軍師。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。
・竹中 重門
(たけなか しげかど)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。戦国時代の軍師として知られる竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子。
・前田利家
前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。
・前田 利常
(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。
・北条 氏康
(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院[1]。姓名は平氏康[2]。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した[3]。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた[4]。
・北条 氏政
(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。
氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。
・斎藤 道三 / 斎藤 利政
(さいとう どうさん / さいとう としまさ、明応3年〈1494年?〉- 弘治2年4月20日〈1556年5月28日〉)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主である。名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により、美濃の蝮という綽名でも知られる。(ただしこの異名は同時代の資料には一切記録されておらず、小説の創作である)
・斎藤 義龍/ 斎藤 高政
(さいとう よしたつ / さいとう たかまさ、大永7年6月10日〈1527年7月8日〉または享禄2年〈1529年〉- 永禄4年5月11日〈1561年6月23日〉)は、戦国時代の武将、美濃国の戦国大名、道三流斎藤氏の第二代当主(美濃一色氏初代とする説もある)、室町幕府相伴衆である。
・斎藤 龍興
(さいとう たつおき)は、戦国時代の美濃国の戦国大名。道三流斎藤家3代(美濃一色家2代)[3]。祖父や父と比べると凡庸で、父の代から続く尾張国の織田信長の侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤利治、明智光秀等)、評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより、家臣の信望を得ることができなかった。
今回の小名木先生のお話ですぐ心に浮かんだことがありましたので、それについて述べさせていただきます。女性は正面からでなく、裏から回って世界を変える力を持っているということについてです。つまり暴力を振り回すだけしか知恵のない男たちを、影から密かに操縦して世の中を変えてしまう、素晴らしい力です。ガラシャ夫人のなさったことは、つまりはそういうことだったのでは?
それで申し上げます。第二次世界大戦を終了させたのは女性だったという話です。
あの時代、アメリカに世界的バレリーナがいて、その人は世界中に名を知られ、上流社会にそれなりの影響力を持っていました。
彼女はなんとかしてこの馬鹿げた殺し合いをやめさせたいと考え、戦争の鍵を握る世界の有力者の妻たちに働きかけて Sisterhood of Roses (薔薇の姉妹共同体)という秘密団体を作りました。その一員にヒトラーの彼女、エヴァ・ブラウンもいたのです。
長くなるので手短にいいますと、彼女たちはドイツ軍がノルマンディー上陸を果たす計画でいると知り、密かに天気予報を調べ、ドイツ軍が上陸地点が嵐に襲われる日を選ぶよう夫たちにし向かせたのです。
女性たちのこの作戦は図に当たり、あとは歴史が示す通り、これによってドイツは敗戦にまっしぐらに向かいました。
これは実話です。ですが学校ではそんなことを教えていません。
以上
補記ー2
・古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受は、広義では、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。狭義では、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御子左流二条家(二条派)に伝えられたもの。さらなる狭義では、二条家断絶後、二条派の東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す[1]。
歴史
古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃から現れつつあった[2]。鎌倉時代以降公家の家筋が固まり、家の家職が分別化されると、古今和歌集の解釈は歌学を家職とする二条家の秘事として代々相承されるようになった[2]。しかし二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者達(二条派)によってこれらの解釈が受け継がれるようになった[2]。
二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった[3]。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った[3]。
宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった[4]。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった[5]。
御所伝授
三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡して、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は、勅使を派遣し幽斎の身柄を保護して開城させた[6]。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い[7]、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。
内容
奈良伝授の内容は現在に伝わっていないが、御所伝授や堺伝授の内容は現在確認することができる。御所伝授は口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」(きりがみでんじゅ)によって構成されている。烏丸家には現存最古とされる切紙と、その付属書類が伝わっており、その内容を知ることができる。切紙は単に受け継がれただけではなく、近衛尚通や幽斎によって書かれたものも存在しており、また時代が下ると次第に内容が書き加えられていく傾向があった[8]。また師が弟子に伝達したことを認可する証明書も含まれている。幽斎は肖柏の一族から堺伝授の切紙を買い上げており、その経緯もともに伝授されている[9]。
ガラガラ姫はな北斎や歌麿呂よりな二百年位早く欧州諸国を感動させた日本人だな 芸術家がな歌劇こしらえたな 凄いな女性たなキ印教の殉教者だな 女性だな女だぞ ガハハハ万歳靖子凌駕します😊😊
ガラシャはキリスト教という矛盾に立ち向かった❗良い解釈ですねガラシャの態度言動に感じられる印章は共感を感じます⁉️
楽しいけど俺には難しすぎる…
一首¥20kだけど出張教育サービスとしたら安いかなー
と考えてしまう俺は下種 orz
忠興が短気で乱暴者だったから、戦国時代が終わったのかww
出来が良すぎる人のせいで出来が悪くみられる人達ー2
・織田 信長
(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 - 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。戦国の三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」[注釈 4])を確立して天下人となった戦国時代を代表する英雄[2]。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
・織田 信行
(おだ のぶゆき[3])は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ[3])・達成(みちなり[4])・信成(のぶなり[4])である[5]。父は織田弾正忠家の織田信秀[5]、母は土田御前で[5]織田信長の同母弟である。信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した[6]。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い[7]、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった[8]。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが[9]、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された[5]。
・織田 信忠
(おだ のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められ織田政権第2代当主となる。甲斐武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は二条新御所にて自刃した。岐阜城主。
・織田 信雄
(おだ のぶかつ、のぶお)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)・信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。
諱の読みには「のぶかつ」と「のぶお(のぶを)」[1]など複数の説がある[2][注釈 2]。信雄から「雄」の偏諱を与えられた家臣は、いずれも「かつ」と呼ばれ「のぶかつ」が一般的呼び名とされる[3]。一方で息子の秀雄、高雄、良雄、長雄は「お」と読む[4]。また江戸時代後期の故実家伊勢貞丈は、「のぶよし」であったとしている。根拠としては村井古巌が『御湯殿上日記』にある「織田のぶよし」は信雄のことと指摘していたこと、信雄から一字拝領した土方雄久の子孫・土方雄忠は「よしただ」と呼ばれ、先祖からその読みを受け継いでいたことなどをあげている[5]。
・織田 信孝
(おだ のぶたか、おだ のぶのり[注釈 8])は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。信雄の命令によって信孝は自害させられた[19]。これには秀吉の内意があったとも言われている[1]。信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。享年26[1]。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している[3][注釈 30]。太田新左衛門尉は介錯を務めて後、自害して殉死した[46]。
・織田 信包
(おだ のぶかね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国柏原藩初代藩主。信包系織田家初代。織田信秀の4男(異説あり)で、織田信長の弟。通称は三十郎[1]。なお、一時長野工藤家に養子に入り17代当主となっている。
・織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。長益系織田家嫡流初代。 織田信秀の十一男で、有楽・如庵(うらく・じょあん)と号した。そのため、織田有楽斎(おだうらくさい)として言及される場合も多い[1]。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
・津田 信澄(
つだ のぶずみ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の連枝衆(一門衆)であるが、姓は津田を称し[2]、諱は初め信重といった[2]。通称を七兵衛。近江大溝城主で、摂津大坂城代[注釈 7]。
・織田 秀信
(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。
改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。
岐阜城陥落後の逸話として、家臣・小林新六郎が関ヶ原より撤退する島津義弘の軍勢の道案内をしたことが伝わっている。降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった[注釈 7]福島正則が自らの武功と引き換えにと助命を主張したため、合戦終結後に美濃(岐阜)13万石は没収されて高野山へと送られた[15]。道中の警護は浅野家が務めた。岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。
慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26。同地の観音寺に位牌が祀られている