「人はうわべを見るが」第一サムエル 16章6-12節(16:1-12) 2024年8月11日

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  • Опубликовано: 8 фев 2025
  • 前回、主の祈りを挟んだが、その前の週で見た15章は、サウルが主の御声に聞き従わず、自分の体面を保つことに捕らわれていたため、退けられた話だった。悔やむことのない神が悔やまれたことが印象的だった。
    16章は1節、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。」との言葉で始まる。
    悲しみ、落胆を乗り越えて次に進む。実はサウルよりも大きな答えが用意されていた。
    次に立てられたのがダビデ王。イスラエルの歴史の中でも最高の王様。領土も回復したが、礼拝も回復し、その王としての生き方や詩篇という作品を通してキリストを指し示した。キリストがダビデの子と言われるほど。
    偉大なダビデ王だが、この時点ではまだ少年。
    サムエルは主に導かれダビデの父エッサイを訪ねる。
    これは、とても危険なミッションだった。2節、4節
    まず祝宴を催してエッサイの家族を招いた。エッサイも断ることなく神の働きの中に入った。
    まず長男のエリアブをみてサムエルは「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ。」と思った。主に油を注がれるとは王となるということ。理由は7節、見た目が美しく、背が高かったから。サウルのところでも出てきたが、当時は美しいとか背が高いということが王に相応しい特質とされていた。
    エッサイは、この場にダビデを連れてきていなかった。最初から数にいれていない。エッサイが間違ったというより、神様が人間の常識を超えて働かれるということ。実は、あの大預言者サムエルも人の常識で判断していた。
    主は人が見るようには見ない。人間の常識、判断、知恵を超えて働かれる。
    人の常識、判断、知恵がいらないということではない。それは人間社会で生きていくための基礎。しかし神様はそれを超えて働かれる。
    次にアビナダブが連れてこられ、その次はシャンマが。合わせて七人が連れてこられたが、主が選ばれた王ではなかった。
    先ほどサムエルも常識に捉われていたと話したが、やはりサムエルは神の声を聞く人だった。7節の言葉を聞いたサムエルは見る目が変わった。「これで全員ですか?」「羊の番をしている末の子がいます。」「その子が来るまで私たちはここを離れない。」離れることもできたが、神様が必ずこの場に王を用意しておられるという確信があった。
    主は心を見ると言われているが、ダビデは外見も立派だった。
    血色が良くー原語は赤い 目が美しかったー霊が生きていたことを表す
    うわべを見るーーー実は外見だけでなく、内面的なものもうわべ。人は家柄、経済力、問題解決能力、共感力などを見る。
    主は心を見るーーー心が綺麗だということより、神の心、願いと通じる心。御心がなされますように。
    サウルはうわべを気にする人だった。マタイ6章の偽善(人に見せる善行)もうわべを気にする人の話。

    私の心が御心と一つとなるように
    今、関わっている人も神が用意された人材かも。人の常識、自分の感情に捉われない。
    まだ見ていない主が用意された弟子に対する確信

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