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現在の橿原神宮創建時には柏原村の代わりにそこに住む多くの人々が強制的に移住させられたと聴いております。
大変丁寧で論理的で納得のいく内容でした。地元民の伝承、口伝こそ真実の生きた信仰、歴史だと思います。他の歴史系youtuberのように過剰に印象付けようとして語り口がうるさかったり、癖がないのも視聴の邪魔にならなくて良いです。これからも期待しています
直ぐ近くに「人間の尊厳は平等」と謳う水平社の博物館が在る事が「在った事は在ったと顕かにせよ」と主張しているようで、過去から現代への連続性を感じる。
徳島県に樫原神社が存在します。創建年は不詳。神武天皇を祀る神社としては、1890年(明治23年)に創建された奈良県の橿原神宮がよく知られているが、当社はそれよりも古い1841年(天保12年)の棟札が残っているほか、境内の小祠には、1751年(寛延4年)の年号が刻まれた石碑がある。1899年(明治32年)、峯で大爆発の音響とともに山崩れが起り、神社が谷の中に埋もれてしまったが、村民が掘り出し再建された。(爆破されたとも噂があります。)祭神の神倭伊波礼彦(神武天皇)そして、その樫原神社より東側に式外社:伊比良咩神社が存在し、創建年は不詳。元々は藍住町東中富に鎮座していた。社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる全国で唯一の神社である。872年(貞観14年)に式外大社として「日本三代実録」に記されたのが最古の記録である。徳島は奈良に都が移る前の「倭」です。倭は淡路島→奈良に入り、「大倭」になるのです。古事記でも「倭」と「大倭」を書き分けているのに、現代の学者も「倭」「大倭」を同じと考えているのがおかしな話です。徳島県美馬市「倭大國魂神社」→淡路島「大倭大國魂神社」→奈良県「大倭坐大國魂神社」式内社にも記載のあるヤマトの大國魂神社は、上記のような変遷が記載されています。そして大嘗祭で行われる「麁服(あらたえ)」が調進されるのが、徳島県木屋平で作られ、大嘗祭へ運ばれているのです。阿波で千年、京で千年。徳島阿波がヤマト国の始まりの地だと思います。
橿原神宮は明治時代に作られた明治政府の国威発揚の人工神社ですからね。この理論が本当でも不思議ではない。
これが本当なのだとしたら、間違ってる場所に建てられただけで、偽物ではないでしょう。橿原神宮は本物だと思います。場所が正しいのかどうかは、別の問題かなと思います。
御所の柏原辺りは考古学的なレベルに見ても重要な発見が多いですよ。秋津の名前からも興味深いですね。少し離れますが長柄遺跡では銅鏡と銅鐸が一緒に埋められたりしてました。また実は弥生時代中期の時点で日本で最大の水田跡もあったりもします。
主さまの仰る通り、明治の激動時代は期待よりも不安だったというのが人々の心情だったと思います。維新にしても美談に纏められ過ぎていて胡散臭い。戦後80年になろうとすしている昨今だからこそ、塗り替えられた史実を正す心意気に拍手です。
紀元前の奈良盆地は水浸し❗広大な古奈良(大和)湖が湖水を満々と湛えていた事が学術的に証明されています。なぜか?奈良盆地に流入する河川はあまた有れど、流出する河川は今も太古も大和川の一本だけ!大和川が奈良盆地~流出する葛城の峡谷は今も地盤が弱く地滑りや崩落の名所(笑笑)でここの治水、地盤製品は難儀な事。この峡谷が地滑りや崩落した莫大な土砂で埋まっていて自然の堰堤となり塞き止められて奈良盆地は水浸し~湖沼となっていた。紀元前後、長い期間を割いて開削工事が行われた結果、湖水がチヌの海(大阪湾)に抜けて漸く地面が見えた。奈良盆地に平野部が広がるのは湖底だった名残とか?もう少し?時代が下るまで湖~泥沼だったのが京都盆地。平安京築造のため大変な難工事を行って水浸しの沼地を埋め立てて平安京の体裁を整えたものの、西側は土地が低く湿地になり勝ち、かつ直ぐに河川が氾濫して水浸しのため住居には不向きな事から直ぐに荒廃を余儀なくされました。
私の先祖は橿原神宮の境内に村があり、橿原神宮創建の為に、現在の場所に住んでいます(_ _)現在町の集会所には当時の村の住宅地図のコピーが貼られてます😮
結果的には真の神武宮跡伝承地が密かに残ってよかったのではないでしょうか。記録が消えたのは残念だが。いつも思うのは、紀記に書かれた神話、系譜と各地に残る伝承と考古学的成果がどう繋がるのかということです。神武天皇東征も出発地の宮崎から北九州、中国地方については色々伝承があるのに紀記は無視。しかし、大阪上陸時の状況は詳しく、しかも弥生後期の地勢(河内湾?)には整合性があるとか。(AD150年前後が妥当らしい.欠史八代の累年を考慮して170年、180年あたりを考える研究者がいる?) 神武東征は、当時の船の大きさや人口を考えると、九州の一部族の少人数の移住であり、大和の磐余でようやく落ち着いたぐらいなので、紀記編者としても、各地の伝承は大きく取り上げることは出来なかったのではと言っている研究者もいるようです。 なお、いわゆる欠史八代については、宝賀寿男氏の豪族や朝廷の系図研究などから必ずしも否定されるべきものではないようです。(兄弟相続はあるようだが)磯城氏や葛城造などの外戚を利用して次第に葛城国から始めて孝霊天皇ぐらいから吉備国に繋がり、円筒器台や墳丘墓を学んで、それが纏向遺跡や纏向古墳群(前方後円墳→箸墓)から崇神天皇へと行きつくというシナリオを書いている研究者もいて個人的には納得?(孝霊天皇、孝元天皇の吉備伝承がある。大和は後進地でまともな墳丘墓もなかった?) ただ、欠史八代の天皇の宮跡、陵墓が紀記では葛城方面に比定されているのに、それらしい遺跡が見当たらないのは不思議です。陵墓を纏向古墳群あたりにしておけば良いのに、あえてそう記載していないのが不思議ですが、見方によれば正直に伝承を伝えているのかも?宮跡も墳墓も九州や吉備、出雲に比べられないほど粗末で、痕跡もないのかもしれないのでしょうか。(一部、宮跡と伝承されている神社もあるようですが)
そもそも奈良の飛鳥が発展し始めたのは588年からです。大倭と呼ばれ始めるのは747年からです。奈良は大口の魔神ヶ原(狼ヶ原)と呼ばれており、未開の地で狼がはびこっていたのは万葉集の歌からもわかることです。よって橿原神宮は偽物であり、ホンモノは別の場所に存在します。当然ですが、纏向遺跡には住居跡も田畑跡もごみ捨て跡も存在しません。
最初にご結婚された元の后が柏原村にお祀りされて居られる皇后だと聞きました。
阿波の樫原神社の話しならウソだ樫原神社は江戸時代の創建山津波で神社が破壊された時に棟上げ札が発見されて判明した村総出で神社再建完成は明治に創建された橿原神宮の9年後その際に同じ読みの[かしはら]にあやかり神武天皇を祭神に迎え前の祭神は不詳一座とされたなので神武天皇祭神迎えいれは橿原神宮完成の後である明治政府に破壊された爆破されたのデマが横行中コレも神社の元宮は全て阿波と云う妄想からである
明治天皇のご意向が有ったと聞いているのですが~~~😄
神社、神宮と名がつくものはコンビニ、歯医者より多いらしい。
9:40蜻蛉のトナメはこの場合具体的に何に比定されるのかが気になります。
何ですか? このサムネは!注目を集めて数を稼ぎたい気持ちは分かりますが、「橿原神宮は偽物」とは一線を越えた言葉ですよ。参詣してるという割に、只の建築物扱いをしてる。伊勢神宮でも場所が変わってるでしょ?三輪山からの大和三山の中に存在する大切な場所。よく参拝してると言う様にもし信仰心が有るのならば、僭越ですが動画は信仰心を育てる方向で進んで欲しいです。
どれも延喜式内社じゃないでしょ。つまり、偽物。
明治に決まっただけ!😂
やはり失氏八台とかは本当だったのか?八紘一宇とは国家神道が明治政府により出来て来て戦争推進に使用した言葉作られた真実ではない歴史であったと言う事?
勉強になりました。どこにでも湧いてくる阿波信者の妨害など無視して頑張ってください。
現在の橿原神宮創建時には柏原村の代わりにそこに住む多くの人々が強制的に移住させられたと聴いております。
大変丁寧で論理的で納得のいく内容でした。地元民の伝承、口伝こそ真実の生きた信仰、歴史だと思います。
他の歴史系youtuberのように過剰に印象付けようとして語り口がうるさかったり、癖がないのも視聴の邪魔にならなくて良いです。
これからも期待しています
直ぐ近くに「人間の尊厳は平等」と謳う水平社の博物館が在る事が「在った事は在ったと顕かにせよ」と主張しているようで、過去から現代への連続性を感じる。
徳島県に樫原神社が存在します。
創建年は不詳。神武天皇を祀る神社としては、1890年(明治23年)に創建された奈良県の橿原神宮がよく知られているが、当社はそれよりも古い1841年(天保12年)の棟札が残っているほか、境内の小祠には、1751年(寛延4年)の年号が刻まれた石碑がある。
1899年(明治32年)、峯で大爆発の音響とともに山崩れが起り、神社が谷の中に埋もれてしまったが、村民が掘り出し再建された。(爆破されたとも噂があります。)
祭神の神倭伊波礼彦(神武天皇)
そして、その樫原神社より東側に式外社:伊比良咩神社が存在し、創建年は不詳。元々は藍住町東中富に鎮座していた。
社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる全国で唯一の神社である。
872年(貞観14年)に式外大社として「日本三代実録」に記されたのが最古の記録である。
徳島は奈良に都が移る前の「倭」です。
倭は淡路島→奈良に入り、「大倭」になるのです。
古事記でも「倭」と「大倭」を書き分けているのに、現代の学者も「倭」「大倭」を同じと考えているのがおかしな話です。
徳島県美馬市「倭大國魂神社」→淡路島「大倭大國魂神社」→奈良県「大倭坐大國魂神社」
式内社にも記載のあるヤマトの大國魂神社は、上記のような変遷が記載されています。
そして大嘗祭で行われる「麁服(あらたえ)」が調進されるのが、徳島県木屋平で作られ、大嘗祭へ運ばれているのです。
阿波で千年、京で千年。
徳島阿波がヤマト国の始まりの地だと思います。
橿原神宮は明治時代に作られた明治政府の国威発揚の人工神社ですからね。
この理論が本当でも不思議ではない。
これが本当なのだとしたら、間違ってる場所に建てられただけで、偽物ではないでしょう。
橿原神宮は本物だと思います。場所が正しいのかどうかは、別の問題かなと思います。
御所の柏原辺りは考古学的なレベルに見ても重要な発見が多いですよ。
秋津の名前からも興味深いですね。
少し離れますが長柄遺跡では銅鏡と銅鐸が一緒に埋められたりしてました。
また実は弥生時代中期の時点で日本で最大の水田跡もあったりもします。
主さまの仰る通り、明治の激動時代は期待よりも不安だったというのが人々の心情だったと思います。維新にしても美談に纏められ過ぎていて胡散臭い。
戦後80年になろうとすしている昨今だからこそ、塗り替えられた史実を正す心意気に拍手です。
紀元前の奈良盆地は水浸し❗
広大な古奈良(大和)湖が湖水を満々と湛えていた事が
学術的に証明されています。
なぜか?
奈良盆地に流入する河川はあまた有れど、
流出する河川は
今も太古も大和川の一本だけ!
大和川が奈良盆地~流出する葛城の峡谷は
今も地盤が弱く地滑りや崩落の名所(笑笑)
でここの治水、地盤製品は難儀な事。
この峡谷が地滑りや崩落した莫大な土砂で埋まっていて
自然の堰堤となり
塞き止められて奈良盆地は水浸し~湖沼となっていた。
紀元前後、長い期間を割いて開削工事が行われた結果、
湖水がチヌの海(大阪湾)に抜けて
漸く地面が見えた。
奈良盆地に平野部が広がるのは
湖底だった名残とか?
もう少し?時代が下るまで
湖~泥沼だったのが京都盆地。
平安京築造のため
大変な難工事を行って
水浸しの沼地を埋め立てて
平安京の体裁を整えたものの、
西側は土地が低く湿地になり勝ち、かつ直ぐに河川が氾濫して水浸しのため
住居には不向きな事から直ぐに荒廃を余儀なくされました。
私の先祖は橿原神宮の境内に村があり、橿原神宮創建の為に、現在の場所に住んでいます(_ _)
現在町の集会所には当時の村の住宅地図のコピーが貼られてます😮
結果的には真の神武宮跡伝承地が密かに残ってよかったのではないでしょうか。記録が消えたのは残念だが。
いつも思うのは、紀記に書かれた神話、系譜と各地に残る伝承と考古学的成果がどう繋がるのかということです。
神武天皇東征も出発地の宮崎から北九州、中国地方については色々伝承があるのに紀記は無視。しかし、大阪上陸時の状況は詳しく、しかも弥生後期の地勢(河内湾?)には整合性があるとか。(AD150年前後が妥当らしい.欠史八代の累年を考慮して170年、180年あたりを考える研究者がいる?)
神武東征は、当時の船の大きさや人口を考えると、九州の一部族の少人数の移住であり、大和の磐余でようやく落ち着いたぐらいなので、紀記編者としても、各地の伝承は大きく取り上げることは出来なかったのではと言っている研究者もいるようです。
なお、いわゆる欠史八代については、宝賀寿男氏の豪族や朝廷の系図研究などから必ずしも否定されるべきものではないようです。(兄弟相続はあるようだが)磯城氏や葛城造などの外戚を利用して次第に葛城国から始めて孝霊天皇ぐらいから吉備国に繋がり、円筒器台や墳丘墓を学んで、それが纏向遺跡や纏向古墳群(前方後円墳→箸墓)から崇神天皇へと行きつくというシナリオを書いている研究者もいて個人的には納得?(孝霊天皇、孝元天皇の吉備伝承がある。大和は後進地でまともな墳丘墓もなかった?)
ただ、欠史八代の天皇の宮跡、陵墓が紀記では葛城方面に比定されているのに、それらしい遺跡が見当たらないのは不思議です。陵墓を纏向古墳群あたりにしておけば良いのに、あえてそう記載していないのが不思議ですが、見方によれば正直に伝承を伝えているのかも?宮跡も墳墓も九州や吉備、出雲に比べられないほど粗末で、痕跡もないのかもしれないのでしょうか。(一部、宮跡と伝承されている神社もあるようですが)
そもそも奈良の飛鳥が発展し始めたのは588年からです。
大倭と呼ばれ始めるのは747年からです。
奈良は大口の魔神ヶ原(狼ヶ原)と呼ばれており、未開の地で狼がはびこっていたのは万葉集の歌からもわかることです。
よって橿原神宮は偽物であり、ホンモノは別の場所に存在します。
当然ですが、纏向遺跡には住居跡も田畑跡もごみ捨て跡も存在しません。
最初にご結婚された元の后が柏原村にお祀りされて居られる皇后だと聞きました。
阿波の樫原神社の話しならウソだ
樫原神社は江戸時代の創建
山津波で神社が破壊された時に棟上げ札が発見されて判明した
村総出で神社再建完成は明治に創建された橿原神宮の9年後
その際に同じ読みの[かしはら]にあやかり神武天皇を祭神に迎え前の祭神は不詳一座とされた
なので神武天皇祭神迎えいれは橿原神宮完成の後である
明治政府に破壊された爆破されたのデマが横行中
コレも神社の元宮は全て阿波と云う妄想からである
明治天皇のご意向が有ったと聞いているのですが~~~😄
神社、神宮と名がつくものはコンビニ、歯医者より多いらしい。
9:40
蜻蛉のトナメはこの場合具体的に何に比定されるのかが気になります。
何ですか? このサムネは!
注目を集めて数を稼ぎたい気持ちは分かりますが、
「橿原神宮は偽物」とは一線を越えた言葉ですよ。
参詣してるという割に、只の建築物扱いをしてる。
伊勢神宮でも場所が変わってるでしょ?
三輪山からの大和三山の中に存在する大切な場所。
よく参拝してると言う様にもし信仰心が有るのならば、
僭越ですが動画は信仰心を育てる方向で進んで欲しいです。
どれも延喜式内社じゃないでしょ。
つまり、偽物。
明治に決まっただけ!😂
やはり失氏八台とかは本当だったのか?八紘一宇とは国家神道が明治政府により出来て来て戦争推進に使用した言葉
作られた真実ではない歴史であったと言う事?
勉強になりました。
どこにでも湧いてくる阿波信者の妨害など無視して頑張ってください。