Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
三国志14の全柔炎上動画で知ってしまったせいで全一族がすごい一族という知識を聞いても脳が処理してくれない
俺もそれだ
全柔を我が子房って言うと要所要所で燃やされる気が…
この泥沼の政争を生き抜いた朱然は、もっと評価されていいと思います。
頑なに政界に関わろうとはしませんでしたからね。お陰で生き抜けましたが、最後に孫権の信頼するただ一人の存在となったのだから、少しくらいは孫権に寄り添ってあげても良かったのかな……なんて思ったり🥲
武昌よりも建業から離れた、江陵に居たのも幸いだったと思います。
陸遜の次ぐレベルの孫呉の重要人物なのに蜀漢とのかかわりがほとんど無いせいでスポットライトが当たりづらいという。正史が読まれることで三国時代の考察が進んでますが、大きな歴史の流れへの理解はまだまだ演義の影響は大きいと思います。
まぁ、呉は内輪争いばっかりで小難しく地味なんですよねぇ…
うぽつです!全琮は何気に孫権末期の呉のキーマンですよね
陸家に次ぐか、並ぶレベルの重要一門ですね
「横山三国志には出てこない人物」とありますが、第53巻の石亭の戦いで出てきてます。
二宮の変でダークなイメージな全琮…直接ではないものの功労者の陸遜を死に至らしめた佞臣的な感もあり仕方ない所もありますね。実力者なのに良いイメージが付きにくい…ちょっと前の松永久秀みたいな…
この辺り難しいんですが、全氏は「名士」かもしれませんが「名門」ではなく陸遜などからは見下される家です。「名士」は家柄・財産に関係なく評判が高い人をいいます。「名門」が何を差すかは人それぞれでしょうが、顕官(太守など)を輩出してる家柄としましょう。もう一つのキーワードが「豪族」。財産がある勢力のことで、避難民に米を援助した全氏はこちらです。もちろん陸遜は3つを兼ね備えています。孫堅が武功で成り上がったように、全柔は商売で成り上がったんですね。(全柔が全琮に米を売りに行かせたというのはそういう事です)「名門」側は孫家との婚姻とは別個に、諸葛氏=彭城張氏=陸氏=顧氏=呉郡張氏と婚姻関係を結んでいます。全氏と歩氏(単身窮困)は孫家との婚姻はできても、名門グループには入れてもらえません。この確執が二宮の変の一因です。
孫呉はこの辺りが複雑なのよなぁ…(笑)
芍陂の役の論功行賞で魏軍の猛攻を食い止めた張休と顧承が戦功第一として雑号将軍を授けられたのに対し、反撃して魏軍を撃退した全端と全緒は裨将軍・偏将軍を授けられるに止まったので、全琮は張休、顧承を恨むようになったと言われている。二宮の変で全琮が孫覇派に属したのはこれも一因かもしれない。
とにかく家ぐるみで仲が悪そう
孫呉の重臣繋がりで降将から太常にまで上り詰め、丞相候補までになった蜀漢の蒋琬の妹婿で従兄弟の潘濬をリクエストします、よろしくお願いします。
『建康實録』によれば建安三年(198)生まれなので若くして将軍にまで出世している所とかは名門なんだろうな。
『卒,時年五十二,帝流涕。』(建康實錄卷二 吳中太祖下)あぁなるほど。52歳から数え年を引いて没年の赤烏十二年(249)から計算したら建安三年(198)と言うことか。Wikipediaの全琮の注で建康実録としか書いてない不親切さ。こうなると自分で調べるしかないのよね。
まぎらわしくてすみません。『建康實録』本文に建安三年生まれとは記されてないですね。一応、中華書局出版の點校説明には計算されてます。
余り気にしないでね。こういう深い話が出来る人が少ないから、此方としては楽しいです。
私は以前は陸遜というのは真面目な聖人君子度の高い人と思っていましたが全琮に息子を殺すように言った件で見方が変わりました。「三國志 three Kingdam」というドラマで陸遜が無表情で冷徹な人物として描かれていましたが、あれが実像なのかな?と最近思うようになりました。全琮もあの時代としては異例になかなか結婚しなかったのも外戚の地位を狙っていたという話もありますね。イメージと実態は皆違うのかも知れません。
自分のイメージでは、陸遜はロボットみたいな人って感覚がありますね(笑)最高率の最適解を導き出すけど、人の気持ちを推し量るのが苦手というか、欠落してるというか('ω')ちなみに全琮は孫魯班との間以外にも子供が複数に居ますね。恐らく心強い藩屏になるように、孫権から公主を押し付けられて正室にした、みたいな感じなのかなぁと。
孫登の死がなければ全琮に対してのダークなイメージもなくただただ有能な臣下として評価されたのかなと思うと少し寂しい。まあでも全家の中では一番まともで有能な人物なのは間違いない。
知れば知るほど全一族丸ごと陸遜ファンの目の敵
しかし陸家はどうも自我が強いというか、主君筋と対立する運命にありますなぁ…
名前は知っていたけどよくわからん奴だったから説明嬉しいいい。有能な奴だったんだなぁ。
魏志倭人伝以外でわずかながら日本の名前が出てくる夷州侵攻。個人的にはこちらを詳しく解説していただけると嬉しい。
いつも燃やされている人の息子だ
いつも楽しく拝見しています^ ^この動画のおかげで、呉勢力の武将を知ることが出来るので、とても楽しいです(*゚∀゚*)b
呉は他の二国と比べて人気がないのが少し寂しいところ
二宮の変で、君主の血統にある人が“捻れ”を起こさせちゃうとムリムリですよ。陸遜のような立場になったら、その状況を理由に引退するわ。孫権の晩年は『リア王』に近いか。。。若き日の全琮の紹介で、才気や器量とかをやっぱり親に認められるのは嬉しいよな。ともすれば、学校やら職場やらよりも。
孫登と諸葛瑾が同時期に没するのは、呪われてるとしか言いようがないレベル
軍事方面にも長け、君主孫権のメンツを潰さずに諫言することが出来た全琮そりゃあ孫権から全幅の信頼を置かれるよなぁと…そして陸遜もこれが出来たらなぁしかし魏呉ともにビッグネームが参戦しているわりに芍陂の役の知名度は低い気がする
芍陂の役・・、蜀漢も参加していればもっと知られたでしょうが。ちなみにこれは個人的解釈ですが、蔣琬はこの戦役に参加するつもりで上庸侵攻を計画したのだと考えています。そしてこの計画が未遂に終わった理由は荊州、特に襄陽の扱いについて呉との合意を形成できなかったからだと。238年の劉禅の詔やその後の上表を読むかぎり、蔣琬の東進は呉との連携が前提っぽいですし。
絶対に対立しちゃ駄目なのに、陸遜はあんな感じの人だし、孫魯班とかいう厄介者が暗躍してるし、もうやめてくれぃ(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 陸遜は張昭方向に行っちゃっだけど、ほんとは顧擁諸葛瑾方向に行けていれば(孫権操縦術
よーし、久保さんの動画を見て孫呉通になるぞー
孫呉の魅力に気づけば、更に三国志が楽しくなる!
孫魯班の叔母の孫尚香もあまり素行がよくなかったからね。孫家の女はカジュウほどではないが癖が強い。何気に劉備とも面識はないと思うが、叔母の夫に当たるので、蜀漢とも多少の繋がりはある。
毎度おなじみ二宮の変、主君の最愛の娘である妻が暴走して国を引っ搔き回すわ陸遜から「お前の血は何色だ!」と言いたくなるような手紙を送りつけられるわ・・・全琮に同情したくなりますね。孫覇派の筆頭として歩隲共々名が上がりますがあまり積極的に動いている感じに見えない(=影が薄い)あたり本人的にはあまりやる気はなかったのは?二宮の変の後、早々に全琮も歩隲も亡くなっていますが多分陸遜だけではなく二人にとってもこの件は相当なストレスだったのではないでしょうか。この件が孫呉に何をもたらすかなんて陸遜と共に孫呉を支えてきた二人なら明確に分かっていたでしょうし。
後世にボロカス評価されている名将
全一族まできたか…(´・ω・`)
一番乗り。「損して得取れ」を狙ったかどうか分からないが、気前よく男前に見える。そんな彼も「二宮の変」では妻とタッグを組んだが、カカア天下で頭が上がらなかっただけとすれば格好悪いとみなすのは失礼か。
満寵にやられた人?
全琮は朱桓にキレてるイメージがでかい笑笑
というか朱桓がいっつもキレてる(笑)
昔の記録のこりすぎぃ
三国志14の全柔炎上動画で知ってしまったせいで全一族がすごい一族という知識を聞いても脳が処理してくれない
俺もそれだ
全柔を我が子房って言うと要所要所で燃やされる気が…
この泥沼の政争を生き抜いた朱然は、もっと評価されていいと思います。
頑なに政界に関わろうとはしませんでしたからね。お陰で生き抜けましたが、最後に孫権の信頼するただ一人の存在となったのだから、少しくらいは孫権に寄り添ってあげても良かったのかな……なんて思ったり🥲
武昌よりも建業から離れた、江陵に居たのも幸いだったと思います。
陸遜の次ぐレベルの孫呉の重要人物なのに蜀漢とのかかわりがほとんど無いせいでスポットライトが当たりづらいという。正史が読まれることで三国時代の考察が進んでますが、大きな歴史の流れへの理解はまだまだ演義の影響は大きいと思います。
まぁ、呉は内輪争いばっかりで小難しく地味なんですよねぇ…
うぽつです!全琮は何気に孫権末期の呉のキーマンですよね
陸家に次ぐか、並ぶレベルの重要一門ですね
「横山三国志には出てこない人物」とありますが、第53巻の石亭の戦いで出てきてます。
二宮の変でダークなイメージな全琮…
直接ではないものの功労者の陸遜を死に至らしめた佞臣的な感もあり仕方ない所もありますね。
実力者なのに良いイメージが付きにくい…
ちょっと前の松永久秀みたいな…
この辺り難しいんですが、全氏は「名士」かもしれませんが「名門」ではなく陸遜などからは見下される家です。
「名士」は家柄・財産に関係なく評判が高い人をいいます。「名門」が何を差すかは人それぞれでしょうが、顕官(太守など)を輩出してる家柄としましょう。
もう一つのキーワードが「豪族」。財産がある勢力のことで、避難民に米を援助した全氏はこちらです。
もちろん陸遜は3つを兼ね備えています。
孫堅が武功で成り上がったように、全柔は商売で成り上がったんですね。(全柔が全琮に米を売りに行かせたというのはそういう事です)
「名門」側は孫家との婚姻とは別個に、諸葛氏=彭城張氏=陸氏=顧氏=呉郡張氏と婚姻関係を結んでいます。
全氏と歩氏(単身窮困)は孫家との婚姻はできても、名門グループには入れてもらえません。
この確執が二宮の変の一因です。
孫呉はこの辺りが複雑なのよなぁ…(笑)
芍陂の役の論功行賞で魏軍の猛攻を食い止めた張休と顧承が戦功第一として雑号将軍を授けられたのに対し、反撃して魏軍を撃退した全端と全緒は裨将軍・偏将軍を授けられるに止まったので、全琮は張休、顧承を恨むようになったと言われている。二宮の変で全琮が孫覇派に属したのはこれも一因かもしれない。
とにかく家ぐるみで仲が悪そう
孫呉の重臣繋がりで降将から太常にまで上り詰め、丞相候補までになった蜀漢の蒋琬の妹婿で従兄弟の潘濬をリクエストします、よろしくお願いします。
『建康實録』によれば建安三年(198)生まれなので若くして将軍にまで出世している所とかは名門なんだろうな。
『卒,時年五十二,帝流涕。』(建康實錄卷二 吳中太祖下)
あぁなるほど。52歳から数え年を引いて没年の赤烏十二年(249)から計算したら建安三年(198)と言うことか。
Wikipediaの全琮の注で建康実録としか書いてない不親切さ。こうなると自分で調べるしかないのよね。
まぎらわしくてすみません。『建康實録』本文に建安三年生まれとは記されてないですね。一応、中華書局出版の點校説明には計算されてます。
余り気にしないでね。
こういう深い話が出来る人が少ないから、此方としては楽しいです。
私は以前は陸遜というのは真面目な聖人君子度の高い人と思っていましたが全琮に息子を殺すように言った件で見方が変わりました。「三國志 three Kingdam」というドラマで陸遜が無表情で冷徹な人物として描かれていましたが、あれが実像なのかな?と最近思うようになりました。全琮もあの時代としては異例になかなか結婚しなかったのも外戚の地位を狙っていたという話もありますね。イメージと実態は皆違うのかも知れません。
自分のイメージでは、陸遜はロボットみたいな人って感覚がありますね(笑)
最高率の最適解を導き出すけど、人の気持ちを推し量るのが苦手というか、欠落してるというか('ω')
ちなみに全琮は孫魯班との間以外にも子供が複数に居ますね。恐らく心強い藩屏になるように、孫権から公主を押し付けられて正室にした、みたいな感じなのかなぁと。
孫登の死がなければ全琮に対してのダークなイメージもなくただただ有能な臣下として評価されたのかなと思うと少し寂しい。まあでも全家の中では一番まともで有能な人物なのは間違いない。
知れば知るほど全一族丸ごと陸遜ファンの目の敵
しかし陸家はどうも自我が強いというか、主君筋と対立する運命にありますなぁ…
名前は知っていたけどよくわからん奴だったから説明嬉しいいい。有能な奴だったんだなぁ。
魏志倭人伝以外でわずかながら日本の名前が出てくる夷州侵攻。個人的にはこちらを詳しく解説していただけると嬉しい。
いつも燃やされている人の息子だ
いつも楽しく拝見しています^ ^
この動画のおかげで、呉勢力の武将を知ることが出来るので、とても楽しいです(*゚∀゚*)b
呉は他の二国と比べて人気がないのが少し寂しいところ
二宮の変で、君主の血統にある人が“捻れ”を起こさせちゃうとムリムリですよ。
陸遜のような立場になったら、その状況を理由に引退するわ。孫権の晩年は『リア王』に近いか。。。
若き日の全琮の紹介で、才気や器量とかをやっぱり親に認められるのは嬉しいよな。
ともすれば、学校やら職場やらよりも。
孫登と諸葛瑾が同時期に没するのは、呪われてるとしか言いようがないレベル
軍事方面にも長け、君主孫権のメンツを潰さずに諫言することが出来た全琮
そりゃあ孫権から全幅の信頼を置かれるよなぁと…そして陸遜もこれが出来たらなぁ
しかし魏呉ともにビッグネームが参戦しているわりに芍陂の役の知名度は低い気がする
芍陂の役・・、蜀漢も参加していればもっと知られたでしょうが。ちなみにこれは個人的解釈ですが、蔣琬はこの戦役に参加するつもりで上庸侵攻を計画したのだと考えています。そしてこの計画が未遂に終わった理由は荊州、特に襄陽の扱いについて呉との合意を形成できなかったからだと。238年の劉禅の詔やその後の上表を読むかぎり、蔣琬の東進は呉との連携が前提っぽいですし。
絶対に対立しちゃ駄目なのに、陸遜はあんな感じの人だし、孫魯班とかいう厄介者が暗躍してるし、もうやめてくれぃ(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 陸遜は張昭方向に行っちゃっだけど、ほんとは顧擁諸葛瑾方向に行けていれば(孫権操縦術
よーし、久保さんの動画を見て孫呉通になるぞー
孫呉の魅力に気づけば、更に三国志が楽しくなる!
孫魯班の叔母の孫尚香もあまり素行がよくなかったからね。孫家の女はカジュウほどではないが癖が強い。
何気に劉備とも面識はないと思うが、叔母の夫に当たるので、蜀漢とも多少の繋がりはある。
毎度おなじみ二宮の変、主君の最愛の娘である妻が暴走して国を引っ搔き回すわ陸遜から「お前の血は何色だ!」と言いたくなるような手紙を送りつけられるわ
・・・全琮に同情したくなりますね。
孫覇派の筆頭として歩隲共々名が上がりますがあまり積極的に動いている感じに見えない(=影が薄い)あたり本人的にはあまりやる気はなかったのは?
二宮の変の後、早々に全琮も歩隲も亡くなっていますが多分陸遜だけではなく二人にとってもこの件は相当なストレスだったのではないでしょうか。
この件が孫呉に何をもたらすかなんて陸遜と共に孫呉を支えてきた二人なら明確に分かっていたでしょうし。
後世にボロカス評価されている名将
全一族まできたか…(´・ω・`)
一番乗り。「損して得取れ」を狙ったかどうか分からないが、気前よく男前に見える。そんな彼も「二宮の変」では妻とタッグを組んだが、カカア天下で頭が上がらなかっただけとすれば格好悪いとみなすのは失礼か。
満寵にやられた人?
全琮は朱桓にキレてるイメージがでかい笑笑
というか朱桓がいっつもキレてる(笑)
昔の記録のこりすぎぃ