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美輪明宏さんが以前は丸山明宏さんと名乗っていらっしゃいましたが、この付近がご出身なんですよね。私も長崎にいた頃はこの付近を毎日通っていたので懐かしく思います。ありがとうございました。
美輪さんって物凄い美男子だったんですよね、この動画のあと少し調べて勉強しました。コメントありがとうございます😊
8年前に一人旅で長崎市内巡りした時丸山遊郭を散策してたら小雨が降ってきて、傘をささずに歩いてたら丸山公園辺りで通りすがりのおば様に『あら?傘持ってないの?傘をあげるから待ってて!』とすぐそばのマンションに入って行き、ビニール傘を戴きました。あの時はありがとうございました!お陰様で助かりました。感謝です。
石畳と狭い路地、そして坂道。長崎らしい美しい風景にも、やはり遊郭跡は存在したんですね。遊郭の近くには高確率で神社があるようです。遊女さんたちの中には「死ぬまでにもう一度でいいからおっかあに会えますように」そんなことを願った人もいたのでしょうか。そんなことを思うと切なくなりました😢遊郭に売られたのは家族のためでしょうけど、過酷な労働を強いられ病気で命を落とした人も多いと思います。遊郭跡の何気ない空気にはそういう人の置いていった涙も感じられ、胸が痛くなりながらも観ずにはいられません。今回も素敵な動画とBGMを、ありがとうございました👏
いつもありがとうございます😊遊女の悲哀を考えると胸が痛いです😞
長崎の遊郭は他と違って出入りが出来るんですよ。なので市内出の遊女は昼間暇だと実家に帰って夕方まで休んでいたりしたそうです。またオランダ行きの遊女で妊娠してしまったら「宿下がり」と言って実家に戻り出産し生まれたハーフの子は実家の両親が養育しなくてはならなかったそう。家計が苦しいから年季奉公に出したのに元も子もないですね。あと年季が明けたら大店の内儀に迎えられることも多かったのも特徴です。これにはオランダ商館のケンペルが非常に不思議がって書いています。向こうじゃ売女でしかないですからね。
@@ssmmai 様知りませんでした!ありがとうございます。それにしても長崎の遊郭って毛色の変わった所だったんですね。普通は「遊女が逃げ出さないように」していたと聞くのですが、昼間は実家で過ごして夜は遊郭で働く😲現代で言うとスナックでバイトでもする感覚に近いでしょうか?しかも、妊娠したら両親が面倒を見るだなんてびっくり🤣全体的におおらかな信頼関係があったんですね。
@@akiaki7850 そうですね職業感覚なのか親が丸山遊女で娘も丸山遊女になったケースもあったようです。また出入りがわりと自由なので実家と共謀して密貿易を働くこともよくあったようです。あと変わっているのは「名付け遊女」という存在です。これは年季奉公とは真逆で今のお金にして50万円くらいを遊郭に名付け料として払いその遊郭の遊女として籍だけ入れてもらう。建前上公娼になったところで唐人屋敷やオランダ商館の男を相手にして稼ぐというもので唐人屋敷行きやオランダ行きは遊女には嫌われていたので名付け遊女が行ってくれると遊郭の遊女からも喜ばれ、さらに遊郭にとっても名付け料を受け取れるし稼ぎの何パーセントかを紹介手数料として受け取れるのでwin--winの関係だったようです。名付け遊女で最も著名な人は「お滝」でシーボルトの愛娼となっています。そして二人の間に生まれた娘が「イネ」で日本最初の女医さんになります。
素晴らしい動画ありがとうございます‼️きっと、その時の雰囲気や感覚を伝えたい思いが強いのでしょう。丁寧で要所を押さえた動画から、それが伝わって来ます。動画を拝見してると、引き込まれてしまい、また行きたくなってしまうのです👍️
めちゃくちゃ ありがとうございます😊
「円山・花町・母の町」・・昭和48年に三善英史が歌った「円山」は渋谷にあったそうですが、同じ「まるやま」でもっと大規模な遊郭花街が長崎に今も残っている。あの歌はあの時代だから共感を得てヒットしたのですね。この昭和の花街の細い路地を徘徊していたおっさんたちはどこへ消えてしまったのか?とても物悲しい。悲しいけど、見たい。見てしまう。「令和に残る昭和な風景」さんの動画は重要文化財級の記録動画です。これからも昭和を後世に伝えるために、どうぞご活躍下さい。
とても励みになりました。ご視聴ありがとうございます☺
父が若いときは、今思えば、大人の遊び場て遊郭の事言ってたんだなぁと、大人になってわかりました
2015年出張で長崎に訪れた時に夜間一度探索したので懐かしく拝見致しました。探索した時間がおよそ一時間程度でしたので、写メを確認したら丸山町交番、料亭青柳、検番、花月が確認出来ました。もっと裏道を探索していたらお相撲を意識した建物や屋号付の建物など色々と発見出来たのですね!!貴重な動画ありがとうございました🙏
コメントありがとうございます☺️それほど広くないエリアに固まっていましたよ、次の機会にまた歩いてみては如何でしょう😄
遊女って好んでしてたのではなくやらされていた訳ですね~BGMも最高ですよ…
ありがとうございます😊
うちは丸山で一番の置屋だった。父が子供の頃は玄関前に人力車がズラリと並んでいたとのこと。
😳さぞ華やかだったのでしょうね。コメントありがとうございます😊
長崎にいますが、こんな所行ったことがない。長崎の狭い裏路地と石畳の坂が大好きです。
長崎はディープなスポットが沢山ありますね、また行きたくなってきました😄
江戸、明治、大正、昭和日本人は本当に…人の寿命は短いけど…創意と工夫は世界一だと思います。私、羽田の大鳥居移転工事に携わったという高齢男性と握手しました。青森県の遮光器土偶の研究で実物を持ったという大学生とも握手しました。現実がこうやって残るって素晴らしいことだと思います。動画をありがとうございます😭
コメントありがとうございます☺️過去があるから今があるという事ですよね😀
正覚寺の裏ですか。小学生の頃正覚寺前の坂はいつも往来していましたが、あの裏側の地域は立入ったことなかった未知の空間です。あの辺は迷路になってますし盲点でした。長崎に遊郭があったというのは聞いてましたがあの辺だったとは知りませんでした。美輪明宏さんがよく知っているかもしれませんね。
美輪明宏さんはここの出だったのですね!? グクっちゃいました😳情報ありがとうございます。
遠藤周作の「菊の一生」の街なんですね。感無量
せつないですね、コメントありがとうございます😊
坂本龍馬が新撰組に襲われた時の刀疵が残っているのは京都島原の輪違屋です。47年くらい前に落語家の先代の桂小文枝師匠に連れて行ってもらいました。夕霧大夫が先代中村鴈治郎の妹さんでした。舞を踊って見せてくれました。
丸山遊郭というと美輪明宏さんを思い出します。
なかなかに壮絶な人生ですよね☺コメントありがとうございます。
母が長崎県出身で色々な話は聞いてましたが、流石に遊郭の話をされた事が無くて。もっと沢山の話を聞きたかったです。母は長崎原爆の被爆者ですが、丸山町辺りは原爆の影響を受けてないのでしょうか。鳥居が一本足になってしまった神社は近いですよね。詳しい方教えてください。
丸山は爆心地から3~4kmほど離れていたようです。起伏の有る町だったので谷筋は被害を免れたようですね。
ありがとうございます。長年の謎が解けました。また行きたい街です^ ^
一本足神社は浦上天主堂周辺ですよ。
あるのか?あるのか?
美輪明宏さんが以前は丸山明宏さんと名乗っていらっしゃいましたが、この付近がご出身なんですよね。
私も長崎にいた頃はこの付近を毎日通っていたので懐かしく思います。ありがとうございました。
美輪さんって物凄い美男子だったんですよね、この動画のあと少し調べて勉強しました。コメントありがとうございます😊
8年前に一人旅で長崎市内巡りした時
丸山遊郭を散策してたら小雨が降って
きて、傘をささずに歩いてたら丸山
公園辺りで通りすがりのおば様に
『あら?傘持ってないの?傘を
あげるから待ってて!』とすぐそばの
マンションに入って行き、ビニール
傘を戴きました。あの時はありがとう
ございました!お陰様で助かりました。
感謝です。
石畳と狭い路地、そして坂道。長崎らしい美しい風景にも、やはり遊郭跡は存在したんですね。
遊郭の近くには高確率で神社があるようです。遊女さんたちの中には「死ぬまでにもう一度でいいからおっかあに会えますように」そんなことを願った人もいたのでしょうか。そんなことを思うと切なくなりました😢
遊郭に売られたのは家族のためでしょうけど、過酷な労働を強いられ病気で命を落とした人も多いと思います。遊郭跡の何気ない空気にはそういう人の置いていった涙も感じられ、胸が痛くなりながらも観ずにはいられません。
今回も素敵な動画とBGMを、ありがとうございました👏
いつもありがとうございます😊遊女の悲哀を考えると胸が痛いです😞
長崎の遊郭は他と違って出入りが出来るんですよ。
なので市内出の遊女は昼間暇だと実家に帰って夕方まで休んでいたりしたそうです。
またオランダ行きの遊女で妊娠してしまったら「宿下がり」と言って実家に戻り出産し生まれたハーフの子は実家の両親が養育しなくてはならなかったそう。
家計が苦しいから年季奉公に出したのに元も子もないですね。
あと年季が明けたら大店の内儀に迎えられることも多かったのも特徴です。これにはオランダ商館のケンペルが非常に不思議がって書いています。向こうじゃ売女でしかないですからね。
@@ssmmai 様
知りませんでした!ありがとうございます。
それにしても長崎の遊郭って毛色の変わった所だったんですね。
普通は「遊女が逃げ出さないように」していたと聞くのですが、昼間は実家で過ごして夜は遊郭で働く😲現代で言うとスナックでバイトでもする感覚に近いでしょうか?
しかも、妊娠したら両親が面倒を見るだなんてびっくり🤣全体的におおらかな信頼関係があったんですね。
@@akiaki7850
そうですね職業感覚なのか親が丸山遊女で娘も丸山遊女になったケースもあったようです。
また出入りがわりと自由なので実家と共謀して密貿易を働くこともよくあったようです。
あと変わっているのは「名付け遊女」という存在です。
これは年季奉公とは真逆で今のお金にして50万円くらいを遊郭に名付け料として払いその遊郭の遊女として籍だけ入れてもらう。
建前上公娼になったところで唐人屋敷やオランダ商館の男を相手にして稼ぐというもので唐人屋敷行きやオランダ行きは遊女には嫌われていたので
名付け遊女が行ってくれると遊郭の遊女からも喜ばれ、さらに遊郭にとっても名付け料を受け取れるし稼ぎの何パーセントかを紹介手数料として受け取れるので
win--winの関係だったようです。
名付け遊女で最も著名な人は「お滝」でシーボルトの愛娼となっています。そして二人の間に生まれた娘が「イネ」で日本最初の女医さんになります。
素晴らしい動画ありがとうございます‼️
きっと、その時の雰囲気や感覚を伝えたい思いが強いのでしょう。
丁寧で要所を押さえた動画から、それが伝わって来ます。
動画を拝見してると、引き込まれてしまい、また行きたくなってしまうのです👍️
めちゃくちゃ ありがとうございます😊
「円山・花町・母の町」・・昭和48年に三善英史が歌った「円山」は渋谷にあったそうですが、同じ「まるやま」でもっと大規模な遊郭花街が長崎に今も残っている。あの歌はあの時代だから共感を得てヒットしたのですね。この昭和の花街の細い路地を徘徊していたおっさんたちはどこへ消えてしまったのか?
とても物悲しい。悲しいけど、見たい。見てしまう。「令和に残る昭和な風景」さんの動画は重要文化財級の記録動画です。これからも昭和を後世に伝えるために、どうぞご活躍下さい。
とても励みになりました。ご視聴ありがとうございます☺
父が若いときは、今思えば、大人の遊び場て遊郭の事言ってたんだなぁと、大人になってわかりました
2015年出張で長崎に訪れた時
に夜間一度探索したので懐かしく拝見致しました。
探索した時間がおよそ一時間程度でしたので、写メを確認したら丸山町交番、料亭青柳、検番、花月が確認出来ました。
もっと裏道を探索していたらお相撲を意識した建物や屋号付の建物など色々と発見出来たのですね!!
貴重な動画ありがとうございました🙏
コメントありがとうございます☺️それほど広くないエリアに固まっていましたよ、次の機会にまた歩いてみては如何でしょう😄
遊女って好んでしてたのではなくやらされていた訳ですね~BGMも最高ですよ…
ありがとうございます😊
うちは丸山で一番の置屋だった。
父が子供の頃は玄関前に人力車がズラリと並んでいたとのこと。
😳さぞ華やかだったのでしょうね。コメントありがとうございます😊
長崎にいますが、こんな所行ったことがない。
長崎の狭い裏路地と石畳の坂が大好きです。
長崎はディープなスポットが沢山ありますね、また行きたくなってきました😄
江戸、明治、大正、昭和
日本人は本当に…人の寿命は短いけど…創意と工夫は世界一だと思います。
私、羽田の大鳥居移転工事に携わったという高齢男性と握手しました。
青森県の遮光器土偶の研究で実物を持ったという大学生とも握手しました。
現実がこうやって残るって素晴らしいことだと思います。
動画をありがとうございます😭
コメントありがとうございます☺️過去があるから今があるという事ですよね😀
正覚寺の裏ですか。小学生の頃正覚寺前の坂はいつも往来していましたが、あの裏側の地域は立入ったことなかった未知の空間です。
あの辺は迷路になってますし盲点でした。長崎に遊郭があったというのは聞いてましたがあの辺だったとは知りませんでした。
美輪明宏さんがよく知っているかもしれませんね。
美輪明宏さんはここの出だったのですね!? グクっちゃいました😳情報ありがとうございます。
遠藤周作の「菊の一生」の街なんですね。感無量
せつないですね、コメントありがとうございます😊
坂本龍馬が新撰組に襲われた時の刀疵が残っているのは京都島原の輪違屋です。47年くらい前に落語家の先代の桂小文枝師匠に連れて行ってもらいました。夕霧大夫が先代中村鴈治郎の妹さんでした。舞を踊って見せてくれました。
丸山遊郭というと美輪明宏さんを思い出します。
なかなかに壮絶な人生ですよね☺コメントありがとうございます。
母が長崎県出身で色々な話は聞いてましたが、流石に遊郭の話をされた事が無くて。
もっと沢山の話を聞きたかったです。
母は長崎原爆の被爆者ですが、丸山町辺りは原爆の影響を受けてないのでしょうか。
鳥居が一本足になってしまった神社は近いですよね。
詳しい方教えてください。
丸山は爆心地から3~4kmほど離れていたようです。起伏の有る町だったので谷筋は被害を免れたようですね。
ありがとうございます。
長年の謎が解けました。
また行きたい街です^ ^
一本足神社は浦上天主堂周辺ですよ。
あるのか?あるのか?