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【お詫びと訂正】毛利家の石高について180万石と言っていますが、百十八万石(関ケ原合戦人名辞典参照)の読み間違いによるミスでした。申し訳ございません。
小早川や吉川を合わせたら180万石くらいになりませんかね(^▽^)/
他家とは違い、毛利家の石高は自己申告したものなので(豊臣と友好関係だったから?)実際は180万石くらいあったでしょう。この話の出典をちょっと忘れましたが。確かに近隣の諸藩と比較して、領土面積に比較して120万石じゃ少ないよなとふと思ったのを思い出しました。
石見銀山を加算すれば200万石とも言える経済力はあった。
最後のまとめの部分で、輝元に対する評価がとても公平な視点に立たれている印象を持ちました。大きな責任を抱えている中で、どこまでのリスクをとれるのかは現代でも難しい問題ですよね。
この戦国解説シリーズ面白いですよね。俗説とか通説に対しての考察にとても見どころを感じます👍
ともかく関ケ原一発で決めた家康が優秀過ぎ。孫氏の兵法:5回勝つものは亡びる、一回勝つものは皇帝になる。ダラダラ戦争するようなやつは結局身を滅ぼすということです。
広い視野で説明していたどけて、分かりやすいですね。勉強になりました。
乱世乱世。ミスターブシドーさんのおかげで大河中毒です。今我慢できず龍馬伝見てます。歴史は繋がってるから本当に面白いですね。長宗我部はのちに土佐で下士にされて、それが武市半平太や龍馬につながるってことですか?大森南朋さん。龍馬伝では無念の切腹でしたが、どうする家康では天寿をまっとうし奥さんに看取られ。来世?なんだか繋がってるのかなと思うほどの感動でした。オンタイムではない龍馬伝見ていても、ミスターブシドーさんの細く解説を求めてしまう。中毒です。いつもありがとうございます!
前回の石田三成の動画に続いての関ヶ原の戦いについての考察、勉強になりました。動画内での解説から、輝元の自発的な行動であることは明らかで、迅速な動きからも既に対家康戦を計画済みの感もあります。それにしても、西軍内の仲間割れは凄いですね。小早川秀秋の裏切り、吉川広家の調略を経ての不戦の密約など、毛利家系の一筋縄では行かない裏取引は、祖父元就の面目躍如でしょうか?!でも、最終的にそれが活かせていないのが、痛いですが。野心家であった輝元は、瀬戸内海の制海権に着目するなどの発想は良くても、この戦に対しては首尾一貫していません。たとえ5千の兵で出陣しても、彼の存在自体が大いに西軍の士気を高めたと思います。なまじ180万石の大大名であり、親類が多く参陣しているから、自身が出陣せずとも良いと思ったのでしょう。戦後処理でも家康の口車に乗せられて、大事なものー大阪城と秀頼ーを手放してしまい、最後の詰めの甘さを感じます。もちろん家康の狡さは言わずもがなですが、一番の大義である秀頼の存在と大阪城の意義を考えて行動すべきだったと感じます。
関東に住んでいると毛利氏というのは縁遠く感じるけど、実は神奈川県厚木市にある「毛利台」という地名が家名のルーツとなった毛利荘の名残り。もともとは奈良時代から続く大江氏(大枝氏)で、文人や歌人を多く輩出する学者の家系だった。大江広元の代になって鎌倉幕府の政所別当となり、まずは相模国毛利荘を有して毛利を称し、つづいて安芸国吉田荘を有したのが安芸毛利氏のルーツ。なかなかの歴史ある名家と言える。
毛利の地名は元々は「森」で、森可成の先祖もこの「森」を所領としていたようですね。大江氏が「森」から「毛利」に変えたとかなんとか。
東北と九州、西日本は鎌倉時代に守護・地頭で入っているので、関東の地名だらけですよね。神奈川もかなり多いですね。
@@junjun5127 大江氏は漢籍に通じていたからね
毛利輝元は天地人の大河ドラマで演じられた中尾彬がイメージで合っててすごく合ってるイメージがありますね😮見てた人は同じなはず⁉️
素晴らしい動画解説です!
元就の「毛利は天下を狙うな」っていう遺言は関ヶ原の合戦においては家康のアシストになってしまっているんだよね。
毛利輝元と言えば、和田竜さんの「村上海軍の娘」を読んで、毛利家に興味が湧きました。とてもおもしろい本です。
輝元が総大将になったのは、今までお坊ちゃまとして育てられ、祖父にも現状維持を言い渡されていたけど、やっぱり、偉大な祖父の様になりたいと思い、動いたのではないかと、勝手に物語を作って妄想しています。でも最終的に家康との年期の差で負けてしまったむなしい大名。
関ヶ原の後に江戸で大名達に鮭弁当を取られる話、好き😄
今回も面白いかったです。関ヶ原の戦いについて、旧説、新説両方の動画(もしくは比較したもの)を出してください。お願いいたします。
元就レベルなら賭けに出ることができるだろうが、自分で勝負をかけることもできず、家臣も統制できない時点で家康に勝てるのは難しかったのだろうと思う
マジでそれ。元就なら剛腕で何とかする。輝元は仮に関ヶ原で勝っても西軍をうまく統治できない。それに、関ヶ原で敗北しても負けない戦略を考えたつもりだろうが、家康には見透かされて大減封。気に入らなかったら関ヶ原の続きをするか?って言われたら家康の言うことを聞くしかない。
元就レベルだったら家康は怖くて呑気に上杉討伐なんてできませんよ。大坂から一歩も動けません
元就自身、天下は狙わないと言っているし、先祖のいた関東のことはさっぱり。器として瀬戸内交易と産業奨励で手一杯。大坂、京都、尾張も面倒見きれない。
関ヶ原の時は、大友に兵を貸して豊後を攻めさせたり、加藤嘉明らが留守の間に伊予讃岐を攻めたり、勢力拡大に躍起なんですよ、全部失敗したけど
讃岐と阿波の実質的制圧には成功してますよ。とりあえずやってみたという威力偵察レベルの戦力派遣であって、余力があれば大軍を投入するつもりだったのでしょう。ちなみに伊勢戦線と山陰東部も制覇。懸念事項だったはずの北陸戦線は膠着状態。悪くない展開です
「兵が兵糧 喰ってる途中でしょうがぁ!!」名言でました WWミスター武士道さん 「北の国から」好きですな 😀
まだ食べてる途中でしょうが〜!西の国から ’00年秋
この系統の動画では、ミスター武士道さんが最高です(笑)……🐧(笑
堅実な立ち回りをした輝元はいい意味で凡将だね。決して愚将などではない
関ヶ原で西軍が敗けた後 抗戦派の武将達の進言を聞かず 大阪城を出て徳川と戦おうとしなかったのは賢明だったと思う。もし戦っていたら毛利家は無くなっていたかも知れない。
ruclips.net/video/ud-SL1s_G5s/видео.htmlsi=_7qu5oIuxflRmrnnこっち見ると寧ろ毛利輝元がグダグダ過ぎて、それに石田三成はじめ西軍は巻き込まれたとも言える。西軍は五大老上杉宇喜多はガチで反家康やってたので、毛利輝元がしっかりガチで同様に反家康やってたら十分勝ち目はあった。逆に毛利輝元が天下ではなくあくまでも毛利家中の事ばかりで、結果毛利家自体しょぼくなったのだからとても賢明とは言えん。逆に毛利家中のゴタゴタに石田三成とかが巻き込まれた感じ。毛利輝元が最初から家康方についてたら石田三成も立つのは難しかったろうからな。しかもゴタゴタの原因が家臣の妻を寝とったからって。
毛利家を守り維持するには適材な輝元さんでも天下を収めるにはちょっと物足りない?
@@ドミニオンパワー まあ西軍総大将を受けたのに西軍勝利の最短コースを目指さず、毛利家の利益を追求しすぎたあたりは名将とは言えないわけで。一方の家康は西軍挙兵の時点でこの戦役が自己の生死を分ける事を理解していたはずです。覚悟の差が結果の差。輝元が天下人の器かと言われるとやっぱり疑問ですね
毛利秀元は「宰相殿の空弁当」の他に江戸城で鮭弁当を食べたエピソードもあるので、1人にふたつも弁当エピソードがある稀有な人ですねw
毛利の逆恨みが明治まで続いた
あれ、作り話らしいですよ。
毛利家と幕府は幕府草創期と幕末以外は90%ズブズブの仲です。徳川は毛利を優遇し、毛利は徳川に対して無調法、失態は数多ある。でも幕府は毛利家を潰さない。謎である。幕末も何故か幕府は勝てる戦も不可解な行動で退却する。関ヶ原で真に勝利したのは輝元かもしれない。輝元は負けた総大将が悠々自適に暮らし大往生している。慶喜も輝元と同様である。不思議な一致である。
@@刀禰元彦 防長2国当初は50万石位で申告予定だったらしい。しかし隣国の福島正則への忖度で37万石で確定させたらしいです。
応援してます🎉
19:00 北の国からの吾郎さんが入ってるw
本当だ、よく気づきましたね。更に、口を尖らせぎみに言ったら完璧でしたね❗😅ちなみに【ごろう】の漢字は正しくは【五郎】のようです。(黒板五郎役=田中邦衛さん)😊(ご参考) 当該名セリフは、 「 子供がまだ食ってる途中でしょうがぁ❗😡」でしたね‼️😃
五郎さんなんですね。ご指摘助かりますw
秀頼を伴い輝元が、玉城に入城していれば。。、
大津城を攻めていた毛利元康、立花宗茂の部隊が本戦に間に合っていたらどうなってたかも気になりますね
戦前の政治面では西軍の主力として活発に動き、いざ戦さでは希望的観測から日和見してしまい、戦後処理において戦前の政治的野心を理由に減俸されるという…ここ一番の決断って難しいものですね
やっぱり輝元と家康では器が違い過ぎる。
凡人呼ばわりされがちだけど家康が「狸親父」と言われる中でこの人も充分引けを取らない狸親父である相手が悪かっただけで流石はかの毛利元就の孫、策謀と処世術に長けた傑物の1人と言っても差支えの無い人物
出羽の山中に押し込まれた上杉に比べたら防長2国はかなりマシである。
関ヶ原の布陣図この向きで見るの初めてだなたしかにこう見ると南宮山の争いって結構影響及ぼすんだね
この有名な関ケ原布陣図は明治に入って軍が創作したもので実際は行軍中の遭遇戦だったようです。未だにこの布陣図が正しいと思われていますが・・・
大阪城をクーデターで占拠してたという事実のほうが輝元が出陣するよりはるかにプラスだったんだろうね
ここ最近、関ヶ原の通説が色々と変わってきていますね。
失地王ジョンに近いものがありますね、輝元
南宮山で吉川広家に、なぜ参戦しないんだ と言いに行ったのは増田長盛ではなく増田長盛は大阪城にいて、南宮山で吉川広家に言いに行ったのは長束正家ですね。
輝元が当主になったのは1571年ではなく1563年で毛利元就が後見しました。
去年の年末あたりに『歴史探偵』で、情報戦!関ヶ原の戦いってのを、やっと最近みて、毛利氏が西軍の大将かぁとびっくりしたので、解説楽しみです! 海上を船を使って大阪城に乗り込んだのはすごーく早かったみたいですね!その後、輝元関ヶ原には来なかった😂
0:27: 🎌 戦国時代の西軍総代モリ照本について解説。4:03: 🗾 モリ家と秀吉の領土争いがギリギリの状態で行われ、四国の領地をモリ家に渡すことで妥協が成立した。8:12: 📜 秀吉の遺言により、照本が有利になるような領地配分を独自に行おうとしていたが、石田光成や真田長森が接近し、照本を助けようとしている。12:54: 🎭 照本は家康を倒すために大阪に来るように誘われ、通説とは異なり自発的に行動していた。16:30: 🗡 家康は戦争を避けるために広井への元に調略を仕掛けられ、戦わない方がいいと言われた。20:27: 🏰 照本は大阪城にこもって家康と戦うか、家康の言う通り大阪城から出るか迷っている。24:09: 🗾 テルモのやり方は成功しなかったが、照元が本線に出入りすれば勝てた可能性もあった。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
総大将なのに結果として助かってるのとか西軍からしたら秀秋より裏切り者にも見えるんだよなー。
まぁ、処刑こそされなかったけど、大減封されて自業自得な結果にはなったけどね。
西軍元就vs東軍家康なら西軍勝ってたよな
元就vs家康なら確かに西軍勝ってたかも。ただそうなると元就は100歳オーバーの計算に…
@@tn4595 元就ならまず関が原に来てたんじゃないかな。どんな事情があっても総大将が居るのと居ないとでは士気に差が出るよね。
関ヶ原で東軍が勝利して毛利は領土を取り上げられ吉川が長州を拝領するはずのを拒んで毛利にあげてくれと進言し認められてた、毛利は吉川のことを憎んでいた、第一次長州征伐の中止を西郷に進言したことで明治で岩国藩てして大名慣れました。
家康本軍と戦うことより、家康に従って東北・関東に出払って主力がいない西国大名の留守番部隊を相手に切り取り勝手を優先していた節があるので、毛利輝元は、もっとこの戦乱は長引くと思っていたのだと思います。西国大名を領国から切り離して、疲弊させて、秀頼の威光と本領の一部返還を餌に、東軍を切り崩していく戦略だったのかと思います。逆に、家康からしてみれば、戦が長引けば徐々に東軍が切り崩されるだろうことが予想できたため、早期に決戦する機会を狙っていたのでしょう。しかも、家康は小牧・長久手の戦いで全国を巻き込んだ戦の経験があったが、毛利輝元にはなかった。輝元に反撃の機会を与えなかった交渉術などは、小牧・長久手の戦いでは戦は勝ったはずなのに、いつの間にか秀吉の政治力に敗北していた、経験が活きたのだと思います。輝元に先見の明がない、という人もおりますが、九州でヒャッハーしてた如水の爺様を思うと、状況が違うとは言え、また南北朝初期の頃のように、有力大名があっちこっちで寝返って泥沼化すると思っていた人も、多かったのではないでしょうか。
泥沼化は当時としては当然の考慮材料だっとしか思えません。清州に集結していた東軍の豊臣系諸大名が岐阜城を攻略するまで家康は江戸を動いていません。長期戦が絶対ありえないという判断があれば、とっくに濃尾平野に進出していたはずです。その方が東軍諸大名が切り崩される可能性が小さくなりますからね
毛利の祖である大江 広元が承久の乱でリスクをとりながら上手く立ち回ったけど、関ヶ原の戦いではそのようにはいかなかったのね
赤松山名尼子も"国衆など"になってしまう世の中か…(奉公衆風)
毛利家が一丸となってたら。。。
数百年越しの復讐は流石。毛利元就面白かったなあ。
いろいろ言われていた通説的な輝元像とは実体は違ったのかもしれないけど、西軍諸将に好き勝手動かせてしまったあたりは総大将としては不十分で、そこは暗君たる所以かな(ちょっと厳しいかもしれないけど)
判断を間違えたのは間違いないでしょう。豊臣直轄軍を自由に動かせなかったのは残念ポイント西軍側全体に勢いがあれば西軍諸将の動きも違ってくるでしょうね
歴史を知ってるから輝元も本気で戦ってれば・・って言えるけど、当時の状況からすれば判断に迷うわなー。関ヶ原に勝っても、同格の上杉、宇喜多が残ってる、家康も名声に傷がついたけど、秀忠率いる本隊残ってるし。輝元が天下を獲るのは難しいでしょうね。
濃尾戦線を維持するだけで主導権は取れますよ。東軍諸大名には西国に所領をもつ者が大勢います。家康は彼らの軍勢を養う余裕は無いでしょう。徳川を関東に封印できれば上杉とは理論上は同格でも政治・経済の両面で絶対的な優位性があります
@@toshiyam2853 家康が佐和山に進むかも?って情報だけで美濃捨てて関ヶ原に進む腰の座ってない軍勢が濃尾戦線を維持できます?西軍の中にも東軍に通じてる者もいるから、誰が敵に回るかわからない状態で維持できます?それこそ歴史を知ってるから言えることだって。当時の人は小早川秀秋が裏切ることすら驚く状態ですよ。
@@ズィケン 濃尾方面軍は大垣に集結。北上してきた伊勢方面軍は南宮山。大垣の北西の赤坂に徳川軍が到着し東軍が膨れ上がった。この局面では大垣を捨てるのは自然ですよ。まとまった東軍が西に進んでしまえば孤立しますし、松尾山の小早川を見捨てるか寝がえりを後押しするかという、究極かつ最悪の選択になります。関ヶ原方面への移動以外、他に選択肢はありませんここでは輝元が本気で戦っていればと言う前提だったはずなので、大坂~京・大津~佐和山~大垣のラインは鉄壁です。濃尾戦線の維持は容易でしょう。秀忠の軍勢が到着しても大津戦線と丹後戦線の兵力で相殺できますし
史実とは違うのは、毛利に2国ではなく、吉川広家に2国を与えた。広家が直談判して本家に譲った
そして長州はこの時の報復を二百何十年後に果たすのであった。
果たしてないけどね。別に。
元就の三本の矢の教えは 孫の代には通じなかった というお話ですね。
輝元はよくわからないですよね。西日本の西軍系には援軍を出してたりしますけど大坂城には四万四千の兵を擁し入城しながらも一歩も動かすで。宗茂の大坂籠城の提案も蹴るという、不可解な人って感じでしたが。
興味深いお話ありがとうございました。個人的な感想ですが、当時の家康と比べると役不足とはいえ、西軍が勝つ可能性を模索すると、どうしても輝元が前線にいればとは思ってしまいます。逆に家康の強さの一つが、重要な勝負の現場に必ずいる点であることと、士気と時運次第で十分に可能性のある兵力差なため、少なくとも総指揮官が遠方にいてよい種類の戦場ではなかったであろうなとは・・・個人的には、戦国中期以降、輝元次第では歴史が変わったんじゃないだろうかという場面が多いのが、輝元の魅力だと思っています。
叔父さんたちのスパルタ教育はまったく効果が無かったようで…。
小早川秀秋はどの時点で東軍に付くつもりになったのか、➀伏見城攻め以前②伏見城攻め後~関ヶ原布陣前③関ヶ原布陣後④その他…と、その決定について本家毛利家との関わり具合が気になりました。そんなことが分かる資料など無いのでしょうから、小説の世界でしかスッキリしないことかもしれませんが。。。
①段階ではないでしょうね。西軍の勢いがどこまで伸びるかなんて誰にも判断できないです。そのあとは日和見に徹しているので考慮中ってところでしょう。関ヶ原布陣時点、西軍部隊を追い出して強引に松尾山城に入り込んでいるので、ここでは東軍に寝返るのは確定していたはずです
父親を早くに亡くし叔父2人に支えてもらっていたの忘れてたのか?天下への野心があったか知らんが、西軍の総大将って言葉にのせられ家康が西へ進軍してくると逃げ出すみっともなさ。
乗せられてませんよ。積極的に行動しています
毛利輝元がキーマンとは、にわかに信じがたいです。でも通説はホントに非ず。解説も興味深かったです。安国寺恵瓊が斬首されたのも、毛利家の人柱的な事だったのでしょうか?大河で、どの様に描かれるか楽しみです。
輝元が西軍総大将になり、毛利勢を率いて短期間のうちに大坂に現れなければ、そもそも関ヶ原戦役が開始されません。石田と宇喜多だけで挙兵するんですか?どう見たってキーマンです。関ヶ原戦役の全体構想は奉行衆(石田だけではなく)の立案なのは確実ですが、輝元は輝元で毛利家の利害を追求しています。双方の思惑が上手く合致していなかったのが西軍敗北の原因でしょうね
関ヶ原前の毛利家の石高は121万石だったような?
その毛利家と同じくらいの石高の上杉家で家康を挟撃するというのがこの戦いの戦略だったのですが‥戦略の前に戦術レベルで勝負がついてしまった‥関ヶ原の戦いがあっけなく終わってしまった印象があるのはこのためであるのかもしれない‥
やっぱり暗君は暗君だね。
17:09 「蹄を返す」ではなく「踵を返す」では?
元就は超えれないし超えれないなら言う通りにしとけばよかった
後年、上杉家で兼続の名前が主家に都合良く使われた可能性があるように、毛利家でも責任逃れのために安国寺の名が使われた可能性があるんですね。真実は意外に主君の判断・行動にあったのかも?という。
毛利輝元は西軍の総大将の器出ない、最初から東軍についていたら領土の拡張できたのに⁉️。
この動画とは関係無いですが、武士道さんは、松村邦洋さんと親しいですよね。 私も松村さんの事務所で働いていました。 さて、ところで 松村さんの動画を視聴していて思い出したのですが、家康と酒井忠次は親戚関係ですよね。 家康の祖父•松平清康の娘•碓井姫が忠次の正室ですよね。 「家康にとって酒井忠次は『叔父上』と呼ばねばならぬから、『忠次』と呼び捨てにするのはおかしい」と松村さんは言っていました。あぁ, なるほど, と私も思いました。
最初に言うべき事を失念しておりました。 先日の武士道さんの動画でも お話ししていらっしゃいましたが、本当の首謀者は石田三成ではなく,「毛利輝元や大谷吉継なのだ」の動画と合わせて、今回のお話しは非常にタメになりました❣️🙏
三本の矢が結束しなかったんやね…
輝元が元就までいかなくても、隆景くらい有能だったらどうなっていたかとても興味ある。
関ヶ原戦役は結局のところ政治劇です。能力よりも名声が政治でモノを言いますね。能力だけなら三成は傑出しています
家康が勝手に身動きが取れなくなるので関ヶ原戦役自体が生起しなかった可能性があります。独断で上杉討伐なんて怖くてできないでしょう
慶長騒乱の時は西国覇者を目指してたんじゃねーかと思うそんな中で岐阜失陥の報告を受け負けを確信、なりふり構わずサッサと損切りすると…毛利の国衆上がりらしさを体現しとる
西国覇者を目指し、岐阜失陥で損切りは同感ですね。ある意味、先見の明がありそうです。ただメインプレイヤーとしての自覚が不足してたかな~。なりふり構わず豊臣直属軍を動員できていれば。そんな妄想が笑
@@toshiyam2853 ある意味で国衆らしさがあるなぁと
毛利輝元の子孫さんが大河をいいかげんにしろと怒ってました。なんだかなぁ。大河ってなんだ?🗾😂🙏
せめて父の隆元がもうちょっと長生きしてれば武将の何たるかを教育出来たのかもしれないけどね…
「私が愚かなので足引っ張らないように気を付ける」「折檻されても私が悪いので仕方ない」といった文を手紙ちょくちょく書いてて父の隆元同様自己評価低く、父以上に捻くれすぎなんですよね…子の秀就宛に「折檻なんかやっても無駄だぞ」と子育てに付いて語ってたとか…
輝元の教育係は小早川隆景です。それはもう厳しく笑
関ケ原の敗戦で漸く覚醒できた感じだもんな。
天下を掴みかけた・・(笑) まぁ一旦掴んだとしても 輝元の器量では すぐに手放す事になっただろうね。
この戦い、将来歴史が変わると思う。大化の改新と乙巳の変に分かれたように、関ヶ原の戦いは局地戦で、関ヶ原の戦いと慶長の変(仮)に分けないといけない。いくら輝元がレスポンスが早くても半日で終わる戦いに間に合う訳ないし、大将でもない。そもそも烏合の衆なのに野戦を選んだ石田三成の戦下手が問題。
安国寺恵瓊が一番不憫でならない…
なんというか、身内に振り回されたようにしか見えないなw
毛利家、上杉家としてはワンチャン西軍が勝ったらどっちか将軍になれるやろって思って家康と戦った説、毛利、上杉「島津?九州の田舎モンなんて眼中にないわああ」多分こんな思惑だっただろ
昔テレビの某クイズ番組で「関ヶ原西軍の総大将は?」と言う問題が出て解答者が「毛利輝元」って答えて間違いにされてたなぁ。他の出演者も石田三成を知らないなんて馬鹿じゃーんみたいな反応でモヤモヤしたな。
黒田如水って『にょすい』って読むんだっけ?
如水です。じょすい
北野映画いいすね(*´ー`*)首リアルな戦国時代が描かれてる感じで!
葵徳川三代でもこんなイメージだった
この布陣を見る時いつも思いますが、小早川と言わずとも毛利秀元(と吉川広家)が徳川本陣の後ろから突撃していればかなり勝算はありますよね・・・関が原は盆地なので見晴らしもいいですが、山側になると木もあって戦況を読み違えたのでしょうか。
この有名な布陣は明治時代に軍によって創作されたもので、最新の研究では山中での遭遇戦だったと分かってきています。小早川も最初から東軍として動いていましたし残念ながら勝算は0でした。
そもそも家康自身は毛利を警戒して関ヶ原に移動しなかったという説も有ります
仮に西軍が勝利しても毛利輝元の下では優柔不断と経験不足で天下は収まらなかったと思いますな最終的には豊臣普代の石田三成と対立し足利室町幕府並みに不安定になるのではないかな?
関ヶ原は東軍の奇襲だったのですね輝元は関ヶ原での動きで失敗しましたが、その後の動きを見ると長州藩の礎を作ったように思えるので信長の野望で政治を高くしてほしいなと感じました
毛利家の伝承 毎年正月に 家臣が殿様に「今年は如何ですか」と問い 殿様は「まだ早い」と返答したと伝えられています 萩市生まれで 朗らかな元軍国少年に教えてもらいました
毛利輝元の優柔不断と西軍の作戦ミスですね。1. 毛利輝元が大阪城を出れなかったのは、豊臣秀頼は8歳の子供だから責任ある態度は取れないのはしかたないとして、淀殿がどっちにつきよるやらわからん、という問題があった。又、大阪城に残った増田長盛・前田玄以の2名もどこまで腰が据わっているかわからない…となると、毛利輝元が大阪城におれば淀殿は徳川家康につけないが、毛利輝元が大阪城を出たなら、その時から淀殿と増田長盛・前田玄以が家康側につく……なんて可能性も考えられた…となると、輝元はうかつに大阪城を出れなかった。2. 家康は東軍側豊臣大名を必ずしも信頼しておらず、西軍側につくなら、むしろさっさと西軍側についてもらった方がいい、肝心なところで裏切られるくらいなら先に西軍側についてもらった方がいいくらい…と、少々の突き放した態度を取ることで東軍側の先鋒として戦わせたが、西軍はそういう態度ではなかった。3. 秀吉が織田信孝を倒した際に信孝の母親などを人質に取り、再度、信孝が挙兵した際に、いくらなんでも織田信長の側室だった「信孝の母親」を殺害はしないだろうと思ったら秀吉はさっさと殺害した。主君の側室を殺害するとはけしからんといえばけしからんが、「ルビコンを渡る」という感じで秀吉はそこで態度をはっきりとした。もはや、織田信孝は柴田勝家・滝川一益とともに反秀吉であり、そこで妥協したら負けると決断した……のに対して、毛利輝元は徹底した態度を取れなかった。4. 家康らの上杉攻めの際に加藤清正は参加していない、大坂の陣の際に福島正則は参加していない。これは、連れていったらどっちにつきよるやらわからん……という可能性があるやつは連れていかない方がいい…ということで同行させなかったらしい…のに対して、毛利は態度不鮮明な吉川広家を関ヶ原に行かせた。5 西軍の作戦ミス。せっかく西軍についてくれた織田秀信を見殺しにした。 石田三成は援軍を出そうとして、途中で東軍に阻止されたらしいが、東軍のかなりの舞台が清洲に集結しているのに、西軍はまだ、大垣城には石田三成・小西行長・宇喜多秀家・島津義弘の隊しか来ておらず、毛利・安国寺・長束と吉川は伊勢方面からやっと戻ってきた、大谷吉継・平塚なんとかは小早川秀秋の抑えにその付近にいた…というのは対応が遅い。 舞鶴とか伊勢方面は後まわしでもいいから、あるいは大津城はある程度の軍勢を置いて見張っておくくらいにして、腰が据わっていた立花宗茂とかをさっさと美濃まで来させて、そして勝負は関ヶ原でやるのではなく、木曽川はさんで岐阜城対清洲城 でやるべきだったのではないか。そうすれば、関ヶ原日和見裏切り4人衆の脇坂・朽木・小川・赤座も「勝つ側につきたい」という性質から西軍が勝ちそうに見えたら西軍についたであろうし、小早川秀秋は最初から東軍だったといっても、これも関ヶ原で最初は参戦せずに見ていたように、西軍が勝ちそうに見えれば西軍についた可能性はあったわけで、上杉対策としては、伊達政宗・最上なんとかと結城秀康くらいを残して、さっさと西進した東軍に比べて、舞鶴や伊勢方面・大津城などに軍勢をさいて、大事な岐阜城を落とされてしまった西軍の作戦ミスは大きい。舞鶴や大津を落とすのと岐阜城を落とされないのとでは岐阜城の方が大事だったはず。織田秀信は何のために西軍についたのかわからない。
輝元参戦なら、家康は布陣を変えていたと思います。睨み合いの後、真田に足止めされていた徳川主力が到着してからの決戦になった気がします。小早川・吉川はこの時点で日よると思いますので、やっぱり東軍が勝ってたんじゃないでしょうか?
決戦が遅延した場合、大津戦線と丹後戦線の西軍・3万以上が濃尾方面に来着します。これに輝元の手勢が加算されますので、秀忠が率いる軍勢が東軍に加算されても東軍の数的優位は成立しません。さらに長篠の合戦における織田軍の様に、西軍の布陣が物理的に強化されてしまうのは当時の合戦手法から言っても確実。輝元が豊臣家の馬印と旗を借りてきた場合、東軍諸将の戦意が維持できるかも疑問です。豊臣家直属軍が動員されてしまえば確実にアウトですちなみに吉川広家は毛利家の二重外交の現場担当者でしかありません。伊勢戦線では毛利勢を率いて東軍の城を攻略しており、輝元が間近で指揮を執った場合は一丸となって戦うでしょう。小早川の動向は予測不能です。伏見城攻略戦には西軍として参加しているので、西軍優位の趨勢ならば日和見をする合理性はないでしょうね
小早川隆景があと5年長生きしてればまた変わってたと思う。
私見だけど元就の遺言は輝元を試したような気がする 輝元が遺言聞くような人物ならおとなしくしてろと
くろだにょすいって初めて聞いたけど、そう読む説でもあるの?
祖父や二人の叔父より遥かに器量や能力が劣るのに無理な話だろうに。
後の話になりますが毛利家の当主は輝元の子孫ではなく秀元の子孫になります。輝元系の藩主は最後の藩主となった毛利元徳まで出ませんでした。
そんなに光成に恩義を感じていたのに光成のせいにしちゃうのか。
@@Abe-Wantaなんかキモいな😅
三成だよ、一応。でいいじゃんね笑
@@Abe-Wanta😅こういう大人になりたくない
途中で田中邦衛が見えたんだが…
つかみ損ねてすらいない
信長も秀吉も晩年は自分が出陣する事はまず無いし景勝も全部直江お任せだった(負けたが)から、輝元がいないのは別に普通という見解もある。むしろ家康がおかしい。なんで大阪の陣にもいるんだ。グループ会長がなんで工事現場いるんすか
わしのteruは五凸してます😂
関ケ原の三年前(1597年)に小早川隆景と4本目の矢と言われた穂井田元清の両名が亡くなったのはこの時期の毛利家にとって最大の不幸だっただろう。
18歳違いの兄弟
因みに長兄隆元と末子の小早川秀包の年齢差は驚きの44歳!
@@大坂智義 秀包が生まれたときは隆元はすでに亡くなっていたし、甥の輝元は元服していた。
本田忠勝→×本多忠勝→⚪︎ではないでしょうか?日々多くの動画を作っていただいてとても嬉しいですが、どうかお身体もご自愛くださいませ。
毛利てるもとさんって毛利元就さんのお孫さんだね、ゲーム戦国無双5で、キャラクターに、なってますよ🐯🐯🐯ちなみに毛利さんの、ライバル?尼子さんのとこいた、山中鹿之助さんも、もちろん知ってますし、戦国無双5でも、キャラクターに、なっているよ🐯🐯
つまり、輝元に勝ち目はなかった。広家に先を見る目があったということですね。
普通にありましたよ。判断を間違えたのは確かですが。ちなみに毛利軍の前線指揮官だった吉川広家は関ヶ原前哨戦の伊勢戦線では積極的に東軍側の城を攻略しています。毛利家として二枚舌外交を展開中だったと考えるべきでしょう
兵がまだ食ってる途中でしょうがぁ~
口を尖らせぎみに発言したら、【北の国からの黒板五郎(田中邦衛)】の名セリフ「まだ食ってる途中でしょうがぁ!」になるところでした❗😂
異能ただたかw
すでに自分を支える基盤がすでにしっかりしてる二代目ってなんとも評価しづらいよなあ逆に言えば自分の分相応をわきまえていて必要以上にワンマンになるような暴走しなかったとも言えるが
輝元の場合相手が悪すぎた。改易されず後の土佐藩の元を築いただけ御の字かな?ただ祖父の遺訓「天下を望まず」と「三本の矢」もイマイチ守れなかったのは器量が無いと思います。本家が西軍でも両川といわれた吉川が調略され小早川が東軍ではそりゃ勝てません。
【お詫びと訂正】
毛利家の石高について180万石と言っていますが、百十八万石(関ケ原合戦人名辞典参照)の読み間違いによるミスでした。申し訳ございません。
小早川や吉川を合わせたら180万石くらいになりませんかね(^▽^)/
他家とは違い、毛利家の石高は自己申告したものなので(豊臣と友好関係だったから?)
実際は180万石くらいあったでしょう。この話の出典をちょっと忘れましたが。
確かに近隣の諸藩と比較して、領土面積に比較して120万石じゃ少ないよなと
ふと思ったのを思い出しました。
石見銀山を加算すれば200万石とも言える経済力はあった。
最後のまとめの部分で、輝元に対する評価がとても公平な視点に立たれている印象を持ちました。大きな責任を抱えている中で、どこまでのリスクをとれるのかは現代でも難しい問題ですよね。
この戦国解説シリーズ面白いですよね。
俗説とか通説に対しての考察にとても見どころを感じます👍
ともかく関ケ原一発で決めた家康が優秀過ぎ。
孫氏の兵法:5回勝つものは亡びる、一回勝つものは皇帝になる。
ダラダラ戦争するようなやつは結局身を滅ぼすということです。
広い視野で説明していたどけて、分かりやすいですね。勉強になりました。
乱世乱世。ミスターブシドーさんのおかげで大河中毒です。今我慢できず龍馬伝見てます。歴史は繋がってるから本当に面白いですね。
長宗我部はのちに土佐で下士にされて、それが武市半平太や龍馬につながるってことですか?
大森南朋さん。龍馬伝では無念の切腹でしたが、どうする家康では天寿をまっとうし奥さんに看取られ。来世?なんだか繋がってるのかなと思うほどの感動でした。
オンタイムではない龍馬伝見ていても、ミスターブシドーさんの細く解説を求めてしまう。中毒です。いつもありがとうございます!
前回の石田三成の動画に続いての関ヶ原の戦いについての考察、勉強になりました。動画内での解説から、輝元の自発的な行動であることは明らかで、迅速な動きからも既に対家康戦を計画済みの感もあります。それにしても、西軍内の仲間割れは凄いですね。小早川秀秋の裏切り、吉川広家の調略を経ての不戦の密約など、毛利家系の一筋縄では行かない裏取引は、祖父元就の面目躍如でしょうか?!でも、最終的にそれが活かせていないのが、痛いですが。野心家であった輝元は、瀬戸内海の制海権に着目するなどの発想は良くても、この戦に対しては首尾一貫していません。たとえ5千の兵で出陣しても、彼の存在自体が大いに西軍の士気を高めたと思います。なまじ180万石の大大名であり、親類が多く参陣しているから、自身が出陣せずとも良いと思ったのでしょう。戦後処理でも家康の口車に乗せられて、大事なものー大阪城と秀頼ーを手放してしまい、最後の詰めの甘さを感じます。もちろん家康の狡さは言わずもがなですが、一番の大義である秀頼の存在と大阪城の意義を考えて行動すべきだったと感じます。
関東に住んでいると毛利氏というのは縁遠く感じるけど、実は神奈川県厚木市にある「毛利台」という地名が家名のルーツとなった毛利荘の名残り。
もともとは奈良時代から続く大江氏(大枝氏)で、文人や歌人を多く輩出する学者の家系だった。大江広元の代になって鎌倉幕府の政所別当となり、まずは相模国毛利荘を有して毛利を称し、つづいて安芸国吉田荘を有したのが安芸毛利氏のルーツ。なかなかの歴史ある名家と言える。
毛利の地名は元々は「森」で、森可成の先祖もこの「森」を所領としていたようですね。
大江氏が「森」から「毛利」に変えたとかなんとか。
東北と九州、西日本は鎌倉時代に守護・地頭で入っているので、関東の地名だらけですよね。神奈川もかなり多いですね。
@@junjun5127 大江氏は漢籍に通じていたからね
毛利輝元は天地人の大河ドラマで演じられた中尾彬がイメージで合っててすごく合ってるイメージがありますね😮
見てた人は同じなはず⁉️
素晴らしい動画解説です!
元就の「毛利は天下を狙うな」っていう遺言は関ヶ原の合戦においては家康のアシストになってしまっているんだよね。
毛利輝元と言えば、和田竜さんの「村上海軍の娘」を読んで、毛利家に興味が湧きました。
とてもおもしろい本です。
輝元が総大将になったのは、今までお坊ちゃまとして育てられ、祖父にも現状維持を言い渡されていたけど、やっぱり、偉大な祖父の様になりたいと思い、動いたのではないかと、勝手に物語を作って妄想しています。
でも最終的に家康との年期の差で負けてしまったむなしい大名。
関ヶ原の後に江戸で大名達に鮭弁当を取られる話、好き😄
今回も面白いかったです。関ヶ原の戦いについて、旧説、新説両方の動画(もしくは比較したもの)を出してください。お願いいたします。
元就レベルなら賭けに出ることができるだろうが、自分で勝負をかけることもできず、家臣も統制できない時点で家康に勝てるのは難しかったのだろうと思う
マジでそれ。元就なら剛腕で何とかする。輝元は仮に関ヶ原で勝っても西軍をうまく統治できない。
それに、関ヶ原で敗北しても負けない戦略を考えたつもりだろうが、家康には見透かされて大減封。
気に入らなかったら関ヶ原の続きをするか?って言われたら家康の言うことを聞くしかない。
元就レベルだったら家康は怖くて呑気に上杉討伐なんてできませんよ。大坂から一歩も動けません
元就自身、天下は狙わないと言っているし、先祖のいた関東のことはさっぱり。器として瀬戸内交易と産業奨励で手一杯。大坂、京都、尾張も面倒見きれない。
関ヶ原の時は、大友に兵を貸して豊後を攻めさせたり、加藤嘉明らが留守の間に伊予讃岐を攻めたり、勢力拡大に躍起なんですよ、全部失敗したけど
讃岐と阿波の実質的制圧には成功してますよ。とりあえずやってみたという威力偵察レベルの戦力派遣であって、余力があれば大軍を投入するつもりだったのでしょう。ちなみに伊勢戦線と山陰東部も制覇。懸念事項だったはずの北陸戦線は膠着状態。悪くない展開です
「兵が兵糧 喰ってる途中でしょうがぁ!!」
名言でました WW
ミスター武士道さん 「北の国から」好きですな 😀
まだ食べてる途中でしょうが〜!
西の国から ’00年秋
この系統の動画では、ミスター武士道さんが最高です(笑)……🐧(笑
堅実な立ち回りをした輝元はいい意味で凡将だね。決して愚将などではない
関ヶ原で西軍が敗けた後 抗戦派の武将達の進言を聞かず 大阪城を出て徳川と戦おうとしなかったのは賢明だったと思う。もし戦っていたら毛利家は無くなっていたかも知れない。
ruclips.net/video/ud-SL1s_G5s/видео.htmlsi=_7qu5oIuxflRmrnn
こっち見ると寧ろ毛利輝元がグダグダ過ぎて、それに石田三成はじめ西軍は巻き込まれたとも言える。
西軍は五大老上杉宇喜多はガチで反家康やってたので、毛利輝元がしっかりガチで同様に反家康やってたら十分勝ち目はあった。
逆に毛利輝元が天下ではなくあくまでも毛利家中の事ばかりで、結果毛利家自体しょぼくなったのだからとても賢明とは言えん。
逆に毛利家中のゴタゴタに石田三成とかが巻き込まれた感じ。
毛利輝元が最初から家康方についてたら石田三成も立つのは難しかったろうからな。
しかもゴタゴタの原因が家臣の妻を寝とったからって。
毛利家を守り維持するには適材な輝元さんでも天下を収めるにはちょっと物足りない?
@@ドミニオンパワー まあ西軍総大将を受けたのに西軍勝利の最短コースを目指さず、毛利家の利益を追求しすぎたあたりは名将とは言えないわけで。一方の家康は西軍挙兵の時点でこの戦役が自己の生死を分ける事を理解していたはずです。覚悟の差が結果の差。輝元が天下人の器かと言われるとやっぱり疑問ですね
毛利秀元は「宰相殿の空弁当」の他に江戸城で鮭弁当を食べたエピソードもあるので、1人にふたつも弁当エピソードがある稀有な人ですねw
毛利の逆恨みが明治まで続いた
あれ、作り話らしいですよ。
毛利家と幕府は幕府草創期と幕末以外は90%ズブズブの仲です。徳川は毛利を優遇し、毛利は徳川に対して無調法、失態は数多ある。でも幕府は毛利家を潰さない。謎である。幕末も何故か幕府は勝てる戦も不可解な行動で退却する。関ヶ原で真に勝利したのは輝元かもしれない。輝元は負けた総大将が悠々自適に暮らし大往生している。慶喜も輝元と同様である。不思議な一致である。
@@刀禰元彦 防長2国当初は50万石位で申告予定だったらしい。
しかし隣国の福島正則への忖度で37万石で確定させたらしいです。
応援してます🎉
19:00 北の国からの吾郎さんが入ってるw
本当だ、よく気づきましたね。
更に、口を尖らせぎみに言ったら完璧でしたね❗😅
ちなみに【ごろう】の漢字は正しくは【五郎】のようです。(黒板五郎役=田中邦衛さん)😊
(ご参考) 当該名セリフは、 「 子供がまだ食ってる途中でしょうがぁ❗😡」でしたね‼️😃
五郎さんなんですね。ご指摘助かりますw
秀頼を伴い輝元が、玉城に入城していれば。。、
大津城を攻めていた毛利元康、立花宗茂の部隊が本戦に間に合っていたらどうなってたかも気になりますね
戦前の政治面では西軍の主力として活発に動き、いざ戦さでは希望的観測から日和見してしまい、戦後処理において戦前の政治的野心を理由に減俸されるという…
ここ一番の決断って難しいものですね
やっぱり輝元と家康では器が違い過ぎる。
凡人呼ばわりされがちだけど
家康が「狸親父」と言われる中でこの人も充分引けを取らない狸親父である
相手が悪かっただけで流石はかの毛利元就の孫、策謀と処世術に長けた傑物の1人と言っても差支えの無い人物
出羽の山中に押し込まれた上杉に比べたら防長2国はかなりマシである。
関ヶ原の布陣図この向きで見るの初めてだな
たしかにこう見ると南宮山の争いって結構影響及ぼすんだね
この有名な関ケ原布陣図は明治に入って軍が創作したもので実際は行軍中の遭遇戦だったようです。未だにこの布陣図が正しいと思われていますが・・・
大阪城をクーデターで占拠してたという事実のほうが輝元が出陣するよりはるかにプラスだったんだろうね
ここ最近、関ヶ原の通説が色々と変わってきていますね。
失地王ジョンに近いものがありますね、輝元
南宮山で吉川広家に、なぜ参戦しないんだ と言いに行ったのは増田長盛ではなく増田長盛は大阪城にいて、南宮山で吉川広家に言いに行ったのは長束正家ですね。
輝元が当主になったのは1571年ではなく1563年で毛利元就が後見しました。
去年の年末あたりに『歴史探偵』で、情報戦!関ヶ原の戦いってのを、やっと最近みて、毛利氏が西軍の大将かぁとびっくりしたので、解説楽しみです!
海上を船を使って大阪城に乗り込んだのはすごーく早かったみたいですね!その後、輝元関ヶ原には来なかった😂
0:27: 🎌 戦国時代の西軍総代モリ照本について解説。
4:03: 🗾 モリ家と秀吉の領土争いがギリギリの状態で行われ、四国の領地をモリ家に渡すことで妥協が成立した。
8:12: 📜 秀吉の遺言により、照本が有利になるような領地配分を独自に行おうとしていたが、石田光成や真田長森が接近し、照本を助けようとしている。
12:54: 🎭 照本は家康を倒すために大阪に来るように誘われ、通説とは異なり自発的に行動していた。
16:30: 🗡 家康は戦争を避けるために広井への元に調略を仕掛けられ、戦わない方がいいと言われた。
20:27: 🏰 照本は大阪城にこもって家康と戦うか、家康の言う通り大阪城から出るか迷っている。
24:09: 🗾 テルモのやり方は成功しなかったが、照元が本線に出入りすれば勝てた可能性もあった。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
総大将なのに結果として助かってるのとか西軍からしたら秀秋より裏切り者にも見えるんだよなー。
まぁ、処刑こそされなかったけど、大減封されて自業自得な結果にはなったけどね。
西軍元就vs東軍家康なら西軍勝ってたよな
元就vs家康なら確かに西軍勝ってたかも。
ただそうなると元就は100歳オーバーの計算に…
@@tn4595 元就ならまず関が原に来てたんじゃないかな。どんな事情があっても総大将が居るのと居ないとでは士気に差が出るよね。
関ヶ原で東軍が勝利して毛利は領土を取り上げられ吉川が長州を拝領するはずのを拒んで毛利にあげてくれと進言し認められてた、毛利は吉川のことを憎んでいた、第一次長州征伐の中止を西郷に進言したことで明治で岩国藩てして大名慣れました。
家康本軍と戦うことより、家康に従って東北・関東に出払って主力がいない西国大名の留守番部隊を相手に切り取り勝手を優先していた節があるので、
毛利輝元は、もっとこの戦乱は長引くと思っていたのだと思います。
西国大名を領国から切り離して、疲弊させて、秀頼の威光と本領の一部返還を餌に、東軍を切り崩していく戦略だったのかと思います。
逆に、家康からしてみれば、戦が長引けば徐々に東軍が切り崩されるだろうことが予想できたため、早期に決戦する機会を狙っていたのでしょう。
しかも、家康は小牧・長久手の戦いで全国を巻き込んだ戦の経験があったが、毛利輝元にはなかった。
輝元に反撃の機会を与えなかった交渉術などは、小牧・長久手の戦いでは戦は勝ったはずなのに、いつの間にか秀吉の政治力に敗北していた、経験が活きたのだと思います。
輝元に先見の明がない、という人もおりますが、九州でヒャッハーしてた如水の爺様を思うと、
状況が違うとは言え、また南北朝初期の頃のように、有力大名があっちこっちで寝返って泥沼化すると思っていた人も、多かったのではないでしょうか。
泥沼化は当時としては当然の考慮材料だっとしか思えません。清州に集結していた東軍の豊臣系諸大名が岐阜城を攻略するまで家康は江戸を動いていません。長期戦が絶対ありえないという判断があれば、とっくに濃尾平野に進出していたはずです。その方が東軍諸大名が切り崩される可能性が小さくなりますからね
毛利の祖である大江 広元が承久の乱でリスクをとりながら上手く立ち回ったけど、関ヶ原の戦いではそのようにはいかなかったのね
赤松山名尼子も"国衆など"になってしまう世の中か…(奉公衆風)
毛利家が一丸となってたら。。。
数百年越しの復讐は流石。毛利元就面白かったなあ。
いろいろ言われていた通説的な輝元像とは実体は違ったのかもしれないけど、西軍諸将に好き勝手動かせてしまったあたりは総大将としては不十分で、そこは暗君たる所以かな(ちょっと厳しいかもしれないけど)
判断を間違えたのは間違いないでしょう。豊臣直轄軍を自由に動かせなかったのは残念ポイント
西軍側全体に勢いがあれば西軍諸将の動きも違ってくるでしょうね
歴史を知ってるから輝元も本気で戦ってれば・・って言えるけど、当時の状況からすれば判断に迷うわなー。
関ヶ原に勝っても、同格の上杉、宇喜多が残ってる、家康も名声に傷がついたけど、秀忠率いる本隊残ってるし。輝元が天下を獲るのは難しいでしょうね。
濃尾戦線を維持するだけで主導権は取れますよ。東軍諸大名には西国に所領をもつ者が大勢います。家康は彼らの軍勢を養う余裕は無いでしょう。徳川を関東に封印できれば上杉とは理論上は同格でも政治・経済の両面で絶対的な優位性があります
@@toshiyam2853 家康が佐和山に進むかも?って情報だけで美濃捨てて関ヶ原に進む腰の座ってない軍勢が濃尾戦線を維持できます?西軍の中にも東軍に通じてる者もいるから、誰が敵に回るかわからない状態で維持できます?それこそ歴史を知ってるから言えることだって。当時の人は小早川秀秋が裏切ることすら驚く状態ですよ。
@@ズィケン 濃尾方面軍は大垣に集結。北上してきた伊勢方面軍は南宮山。大垣の北西の赤坂に徳川軍が到着し東軍が膨れ上がった。この局面では大垣を捨てるのは自然ですよ。まとまった東軍が西に進んでしまえば孤立しますし、松尾山の小早川を見捨てるか寝がえりを後押しするかという、究極かつ最悪の選択になります。関ヶ原方面への移動以外、他に選択肢はありません
ここでは輝元が本気で戦っていればと言う前提だったはずなので、大坂~京・大津~佐和山~大垣のラインは鉄壁です。濃尾戦線の維持は容易でしょう。秀忠の軍勢が到着しても大津戦線と丹後戦線の兵力で相殺できますし
史実とは違うのは、毛利に2国ではなく、吉川広家に2国を与えた。広家が直談判して本家に譲った
そして長州はこの時の報復を二百何十年後に果たすのであった。
果たしてないけどね。別に。
元就の三本の矢の教えは 孫の代には通じなかった というお話ですね。
輝元はよくわからないですよね。西日本の西軍系には援軍を出してたりしますけど大坂城には四万四千の兵を擁し入城しながらも一歩も動かすで。宗茂の大坂籠城の提案も蹴るという、不可解な人って感じでしたが。
興味深いお話ありがとうございました。
個人的な感想ですが、
当時の家康と比べると役不足とはいえ、
西軍が勝つ可能性を模索すると、どうしても輝元が前線にいればとは思ってしまいます。
逆に家康の強さの一つが、重要な勝負の現場に必ずいる点であることと、
士気と時運次第で十分に可能性のある兵力差なため、
少なくとも総指揮官が遠方にいてよい種類の戦場ではなかったであろうなとは・・・
個人的には、戦国中期以降、輝元次第では歴史が変わったんじゃないだろうかという場面が多いのが、
輝元の魅力だと思っています。
叔父さんたちのスパルタ教育はまったく効果が無かったようで…。
小早川秀秋はどの時点で東軍に付くつもりになったのか、➀伏見城攻め以前②伏見城攻め後~関ヶ原布陣前③関ヶ原布陣後④その他…と、
その決定について本家毛利家との関わり具合が気になりました。
そんなことが分かる資料など無いのでしょうから、小説の世界でしかスッキリしないことかもしれませんが。。。
①段階ではないでしょうね。西軍の勢いがどこまで伸びるかなんて誰にも判断できないです。そのあとは日和見に徹しているので考慮中ってところでしょう。関ヶ原布陣時点、西軍部隊を追い出して強引に松尾山城に入り込んでいるので、ここでは東軍に寝返るのは確定していたはずです
父親を早くに亡くし叔父2人に支えてもらっていたの忘れてたのか?
天下への野心があったか知らんが、西軍の総大将って言葉に
のせられ家康が西へ進軍してくると逃げ出すみっともなさ。
乗せられてませんよ。積極的に行動しています
毛利輝元がキーマンとは、にわかに信じがたいです。でも通説はホントに非ず。解説も興味深かったです。安国寺恵瓊が斬首されたのも、毛利家の人柱的な事だったのでしょうか?大河で、どの様に描かれるか楽しみです。
輝元が西軍総大将になり、毛利勢を率いて短期間のうちに大坂に現れなければ、そもそも関ヶ原戦役が開始されません。石田と宇喜多だけで挙兵するんですか?どう見たってキーマンです。関ヶ原戦役の全体構想は奉行衆(石田だけではなく)の立案なのは確実ですが、輝元は輝元で毛利家の利害を追求しています。双方の思惑が上手く合致していなかったのが西軍敗北の原因でしょうね
関ヶ原前の毛利家の石高は121万石だったような?
その毛利家と同じくらいの石高の上杉家で家康を挟撃するというのがこの戦いの戦略だったのですが‥
戦略の前に戦術レベルで勝負がついてしまった‥
関ヶ原の戦いがあっけなく終わってしまった印象があるのはこのためであるのかもしれない‥
やっぱり暗君は暗君だね。
17:09 「蹄を返す」ではなく「踵を返す」では?
元就は超えれないし超えれないなら言う通りにしとけばよかった
後年、上杉家で兼続の名前が主家に都合良く使われた可能性があるように、
毛利家でも責任逃れのために安国寺の名が使われた可能性があるんですね。
真実は意外に主君の判断・行動にあったのかも?という。
毛利輝元は西軍の総大将の器出ない、最初から東軍についていたら領土の拡張できたのに⁉️。
この動画とは関係無いですが、武士道さんは、松村邦洋さんと親しいですよね。
私も松村さんの事務所で働いていました。
さて、ところで 松村さんの動画を視聴していて思い出したのですが、家康と酒井忠次は親戚関係ですよね。
家康の祖父•松平清康の娘•碓井姫が忠次の正室ですよね。
「家康にとって酒井忠次は『叔父上』と呼ばねばならぬから、『忠次』と呼び捨てにするのはおかしい」と松村さんは言っていました。あぁ, なるほど, と私も思いました。
最初に言うべき事を失念しておりました。
先日の武士道さんの動画でも お話ししていらっしゃいましたが、本当の首謀者は石田三成ではなく,「毛利輝元や大谷吉継なのだ」の動画と合わせて、今回のお話しは非常にタメになりました❣️🙏
三本の矢が結束しなかったんやね…
輝元が元就までいかなくても、隆景くらい有能だったらどうなっていたかとても興味ある。
関ヶ原戦役は結局のところ政治劇です。能力よりも名声が政治でモノを言いますね。能力だけなら三成は傑出しています
家康が勝手に身動きが取れなくなるので関ヶ原戦役自体が生起しなかった可能性があります。独断で上杉討伐なんて怖くてできないでしょう
慶長騒乱の時は西国覇者を目指してたんじゃねーかと思う
そんな中で岐阜失陥の報告を受け負けを確信、なりふり構わずサッサと損切りすると…
毛利の国衆上がりらしさを体現しとる
西国覇者を目指し、岐阜失陥で損切りは同感ですね。ある意味、先見の明がありそうです。ただメインプレイヤーとしての自覚が不足してたかな~。なりふり構わず豊臣直属軍を動員できていれば。そんな妄想が笑
@@toshiyam2853 ある意味で国衆らしさがあるなぁと
毛利輝元の子孫さんが大河をいいかげんにしろと怒ってました。なんだかなぁ。大河ってなんだ?🗾😂🙏
せめて父の隆元がもうちょっと長生きしてれば
武将の何たるかを教育出来たのかもしれないけどね…
「私が愚かなので足引っ張らないように気を付ける」「折檻されても私が悪いので仕方ない」といった文を手紙ちょくちょく書いてて父の隆元同様自己評価低く、父以上に捻くれすぎなんですよね…子の秀就宛に「折檻なんかやっても無駄だぞ」と子育てに付いて語ってたとか…
輝元の教育係は小早川隆景です。それはもう厳しく笑
関ケ原の敗戦で漸く覚醒できた感じだもんな。
天下を掴みかけた・・(笑) まぁ一旦掴んだとしても 輝元の器量では すぐに手放す事になっただろうね。
この戦い、将来歴史が変わると思う。大化の改新と乙巳の変に分かれたように、関ヶ原の戦いは局地戦で、関ヶ原の戦いと慶長の変(仮)に分けないといけない。いくら輝元がレスポンスが早くても半日で終わる戦いに間に合う訳ないし、大将でもない。そもそも烏合の衆なのに野戦を選んだ石田三成の戦下手が問題。
安国寺恵瓊が一番不憫でならない…
なんというか、身内に振り回されたようにしか見えないなw
毛利家、上杉家としてはワンチャン西軍が勝ったらどっちか将軍になれるやろって思って家康と戦った説、毛利、上杉「島津?九州の田舎モンなんて眼中にないわああ」多分こんな思惑だっただろ
昔テレビの某クイズ番組で「関ヶ原西軍の総大将は?」と言う問題が出て解答者が「毛利輝元」って答えて間違いにされてたなぁ。
他の出演者も石田三成を知らないなんて馬鹿じゃーんみたいな反応でモヤモヤしたな。
黒田如水って『にょすい』って読むんだっけ?
如水です。じょすい
北野映画いいすね(*´ー`*)
首リアルな戦国時代が描かれてる感じで!
葵徳川三代でもこんなイメージだった
この布陣を見る時いつも思いますが、小早川と言わずとも毛利秀元(と吉川広家)が徳川本陣の後ろから突撃していればかなり勝算はありますよね・・・
関が原は盆地なので見晴らしもいいですが、山側になると木もあって戦況を読み違えたのでしょうか。
この有名な布陣は明治時代に軍によって創作されたもので、最新の研究では山中での遭遇戦だったと分かってきています。小早川も最初から東軍として動いていましたし残念ながら勝算は0でした。
そもそも家康自身は毛利を警戒して関ヶ原に移動しなかったという説も有ります
仮に西軍が勝利しても毛利輝元の下では優柔不断と経験不足で天下は収まらなかったと思いますな
最終的には豊臣普代の石田三成と対立し足利室町幕府並みに不安定になるのではないかな?
関ヶ原は東軍の奇襲だったのですね
輝元は関ヶ原での動きで失敗しましたが、その後の動きを見ると長州藩の礎を作ったように思えるので信長の野望で政治を高くしてほしいなと感じました
毛利家の伝承 毎年正月に 家臣が殿様に「今年は如何ですか」と問い 殿様は「まだ早い」と返答したと伝えられています 萩市生まれで 朗らかな元軍国少年に教えてもらいました
毛利輝元の優柔不断と西軍の作戦ミスですね。
1. 毛利輝元が大阪城を出れなかったのは、豊臣秀頼は8歳の子供だから責任ある態度は取れないのはしかたないとして、淀殿がどっちにつきよるやらわからん、という問題があった。又、大阪城に残った増田長盛・前田玄以の2名もどこまで腰が据わっているかわからない…となると、毛利輝元が大阪城におれば淀殿は徳川家康につけないが、毛利輝元が大阪城を出たなら、その時から淀殿と増田長盛・前田玄以が家康側につく……なんて可能性も考えられた…となると、輝元はうかつに大阪城を出れなかった。
2. 家康は東軍側豊臣大名を必ずしも信頼しておらず、西軍側につくなら、むしろさっさと西軍側についてもらった方がいい、肝心なところで裏切られるくらいなら先に西軍側についてもらった方がいいくらい…と、少々の突き放した態度を取ることで東軍側の先鋒として戦わせたが、西軍はそういう態度ではなかった。
3. 秀吉が織田信孝を倒した際に信孝の母親などを人質に取り、再度、信孝が挙兵した際に、いくらなんでも織田信長の側室だった「信孝の母親」を殺害はしないだろうと思ったら秀吉はさっさと殺害した。主君の側室を殺害するとはけしからんといえばけしからんが、「ルビコンを渡る」という感じで秀吉はそこで態度をはっきりとした。もはや、織田信孝は柴田勝家・滝川一益とともに反秀吉であり、そこで妥協したら負けると決断した……のに対して、毛利輝元は徹底した態度を取れなかった。
4. 家康らの上杉攻めの際に加藤清正は参加していない、大坂の陣の際に福島正則は参加していない。これは、連れていったらどっちにつきよるやらわからん……という可能性があるやつは連れていかない方がいい…ということで同行させなかったらしい…のに対して、毛利は態度不鮮明な吉川広家を関ヶ原に行かせた。
5 西軍の作戦ミス。せっかく西軍についてくれた織田秀信を見殺しにした。
石田三成は援軍を出そうとして、途中で東軍に阻止されたらしいが、東軍のかなりの舞台が清洲に集結しているのに、西軍はまだ、大垣城には石田三成・小西行長・宇喜多秀家・島津義弘の隊しか来ておらず、毛利・安国寺・長束と吉川は伊勢方面からやっと戻ってきた、大谷吉継・平塚なんとかは小早川秀秋の抑えにその付近にいた…というのは対応が遅い。
舞鶴とか伊勢方面は後まわしでもいいから、あるいは大津城はある程度の軍勢を置いて見張っておくくらいにして、腰が据わっていた立花宗茂とかをさっさと美濃まで来させて、
そして勝負は関ヶ原でやるのではなく、
木曽川はさんで
岐阜城対清洲城 でやるべきだったのではないか。そうすれば、関ヶ原日和見裏切り4人衆の脇坂・朽木・小川・赤座も「勝つ側につきたい」という性質から西軍が勝ちそうに見えたら西軍についたであろうし、小早川秀秋は最初から東軍だったといっても、これも関ヶ原で最初は参戦せずに見ていたように、西軍が勝ちそうに見えれば西軍についた可能性はあったわけで、上杉対策としては、伊達政宗・最上なんとかと結城秀康くらいを残して、さっさと西進した東軍に比べて、舞鶴や伊勢方面・大津城などに軍勢をさいて、大事な岐阜城を落とされてしまった西軍の作戦ミスは大きい。
舞鶴や大津を落とすのと岐阜城を落とされないのとでは岐阜城の方が大事だったはず。織田秀信は何のために西軍についたのかわからない。
輝元参戦なら、家康は布陣を変えていたと思います。睨み合いの後、真田に足止めされていた徳川主力が到着してからの決戦になった気がします。小早川・吉川はこの時点で日よると思いますので、やっぱり東軍が勝ってたんじゃないでしょうか?
決戦が遅延した場合、大津戦線と丹後戦線の西軍・3万以上が濃尾方面に来着します。これに輝元の手勢が加算されますので、秀忠が率いる軍勢が東軍に加算されても東軍の数的優位は成立しません。さらに長篠の合戦における織田軍の様に、西軍の布陣が物理的に強化されてしまうのは当時の合戦手法から言っても確実。輝元が豊臣家の馬印と旗を借りてきた場合、東軍諸将の戦意が維持できるかも疑問です。豊臣家直属軍が動員されてしまえば確実にアウトです
ちなみに吉川広家は毛利家の二重外交の現場担当者でしかありません。伊勢戦線では毛利勢を率いて東軍の城を攻略しており、輝元が間近で指揮を執った場合は一丸となって戦うでしょう。小早川の動向は予測不能です。伏見城攻略戦には西軍として参加しているので、西軍優位の趨勢ならば日和見をする合理性はないでしょうね
小早川隆景があと5年長生きしてればまた変わってたと思う。
私見だけど元就の遺言は輝元を試したような気がする 輝元が遺言聞くような人物ならおとなしくしてろと
くろだにょすいって初めて聞いたけど、そう読む説でもあるの?
祖父や二人の叔父より遥かに器量や能力が劣るのに無理な話だろうに。
後の話になりますが毛利家の当主は輝元の子孫ではなく秀元の子孫になります。輝元系の藩主は最後の藩主となった毛利元徳まで出ませんでした。
そんなに光成に恩義を感じていたのに光成のせいにしちゃうのか。
@@Abe-Wantaなんかキモいな😅
三成だよ、一応。でいいじゃんね笑
@@Abe-Wanta😅こういう大人になりたくない
途中で田中邦衛が見えたんだが…
つかみ損ねてすらいない
信長も秀吉も晩年は自分が出陣する事はまず無いし景勝も全部直江お任せだった(負けたが)から、輝元がいないのは別に普通という見解もある。
むしろ家康がおかしい。なんで大阪の陣にもいるんだ。グループ会長がなんで工事現場いるんすか
わしのteruは五凸してます😂
関ケ原の三年前(1597年)に小早川隆景と4本目の矢と
言われた穂井田元清の両名が亡くなったのはこの時期の
毛利家にとって最大の不幸だっただろう。
18歳違いの兄弟
因みに長兄隆元と末子の小早川秀包の年齢差は驚きの44歳!
@@大坂智義
秀包が生まれたときは隆元はすでに亡くなっていたし、甥の輝元は元服していた。
本田忠勝→×
本多忠勝→⚪︎
ではないでしょうか?
日々多くの動画を作っていただいてとても嬉しいですが、どうかお身体もご自愛くださいませ。
毛利てるもとさんって毛利元就さんのお孫さんだね、ゲーム戦国無双5で、キャラクターに、なってますよ🐯🐯🐯ちなみに毛利さんの、ライバル?尼子さんのとこいた、山中鹿之助さんも、もちろん知ってますし、戦国無双5でも、キャラクターに、なっているよ🐯🐯
つまり、輝元に勝ち目はなかった。
広家に先を見る目があったということですね。
普通にありましたよ。判断を間違えたのは確かですが。ちなみに毛利軍の前線指揮官だった吉川広家は関ヶ原前哨戦の伊勢戦線では積極的に東軍側の城を攻略しています。毛利家として二枚舌外交を展開中だったと考えるべきでしょう
兵がまだ食ってる途中でしょうがぁ~
口を尖らせぎみに発言したら、【北の国からの黒板五郎(田中邦衛)】の名セリフ「まだ食ってる途中でしょうがぁ!」になるところでした❗😂
異能ただたかw
すでに自分を支える基盤がすでにしっかりしてる二代目ってなんとも評価しづらいよなあ
逆に言えば自分の分相応をわきまえていて必要以上にワンマンになるような暴走しなかったとも言えるが
輝元の場合相手が悪すぎた。改易されず後の土佐藩の元を築いただけ御の字かな?
ただ祖父の遺訓「天下を望まず」と「三本の矢」もイマイチ守れなかったのは器量が無いと思います。
本家が西軍でも両川といわれた吉川が調略され小早川が東軍ではそりゃ勝てません。