Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
久しぶりの歴史解説動画だ!と思って開くと、まさかの40分越えの大作!本チャンネルはいつも本格的かつ分かりやすく、とても為になるチャンネルだと感じています。今回の動画も教材のようにしっかりした動画で見応えのある興味深いものでした!今後も楽しみにしております!
面白かったです!
とっても分かりやすかったです。最近日本の古代史からの歴史をみたばかりなので、俯瞰したみかたができてよかっです。百済と日本の関係が気になります。
三韓と倭地の里数は、一寸千里法で測ったとすると、必ず1里が76m程になります。一寸千里法は80寸の棒を立てて、その棒の影の長さを寸で測り里に読替えたもので、周里と比べデタラメな距離ですが、海峡をまたぐなどする場合は有用です。 面白いことに2箇所の影長の差を求めた時に限り、1里が76m程になります、数学的にも。ただ、測れるのは南北のみ、東西や斜めは測れないので、三角関数を使って計算します。南北以外は、仮想の距離になるため、皆さんが期待する都市と都市の距離は測れません。 倭地は島国のため測定ポイントは想定できますが、七千余里や萬二千餘里などの場所は数字は合うものの、仮想の場所なので遺跡などはそこにはなく、都市ではなく別の物を指していると思われます。
繰り返し聞いています。面白いです。「水行陸行」の答え見つけました。魏志倭人伝は正確です。答えはありますよ。
動画の最後の方でも言及されているように、日中両国にはまだまだ、古代の同国関係に関わると思われる歴史的な資料が発見されないまま眠っている可能性は否定出来ないと思います。両国で互いに古墳や古文書などの調査が進めば、新たな発見が期待できると痛感しています。
基礎編たいへん完結にまとめていました。
倭人の外交使者は自ら『大夫』と名乗ってたことが昔から不思議に感じてた。後漢や魏も古風な肩書きに違和感を感じたので、記録に残したんだと思います。漢・魏より前の王朝で一般的だった肩書。古くから交流を暗示するものであり、漢字が日本に伝わった時代は、相当古いんじゃないでしょうか。
邪馬台国について記紀をいくら調べても皇統にしかたどりつかない。呉服について誰も語っていない。是非、調べて。呉服が奈良時代に入って来たともいわれるが呉服という言葉がそんなに残っていたのか。九州はそもそも長江流域から人や文化が入っている。出雲や越、常陸国=日高見国、東北が連合として女王国になり、この範囲だから大月氏国と同格だった。その後、馬を持ってきたヤマト政権が平定していった。あと、沖縄説は面白い。ギリギリ年中裸足でいられる。アマミキヨ族なら範囲は広大だし呉に対してにらみを利かせられる。とにかく九州や四国では範囲が狭すぎる。
入口紀男『邪馬臺國』(2022年11月アマゾンより発売)に近い内容です。
使者は行く先々で歓待儀式を戦略的に受けて時間間隔も地理感覚も酒混り色交じりにボカサれていた筈なんですよねだから水行も陸行もやたら時間がかかり東へ南へジグザグに進んでいます誰が 強大国から派遣された調査官に素直に国の機密を伝えるかってな話ですからね
自分は徳島県に邪馬台国はあったのではないかと思っています。北九州にも大きなクニはあったのは、吉野ヶ里を見ても間違いなさそうではありますが、辰砂が出るのは徳島県ということや神社の元宮が多いのもそれを裏付けているのでは…
唐代に成立した『北史』(中国の正史二十五史の一つ)においても倭国の都大和を指して「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」と述べています。
岳飛と宋金戦争の動画待っています
邪馬台国の説明は非常に簡単です。 古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。 それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。 宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。 皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。 宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。12:38 その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。 ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。 邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。 ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。 宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。 全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。 京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。 宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の土地、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。 巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
倭の五王の時代には漢字を使ってますよね?(倭王武の上表文)記紀以前の物は焚書された蘇我氏のせいにしてるけど誰かの命令だったかも倭の五王や卑弥呼はあくまでも中国の臣下なので記紀に記すには相応しく無かったのてしょう。
とても疑問に思うところがあるのですが、倭の五王を大和王権としているのに、卑弥呼を大和王権から探すのは少し不自然に感じます。⑴倭の五王や日本書紀では、かつての九州の勢力を土蜘蛛、衆夷と蔑視していますが、邪馬台国が畿内にあった場合、畿内から関東、九州を従えたことになります。⑵つまり魏志の時代、考古学的にみて畿内と九州との交易は痕跡もなく、魏志に書かれている鉄もない、ガラスもほとんどない、大陸系の遺物がない畿内の邪馬台国は、九州の伊都国文化圏を敵視していたということになるのではないでしょうか?⑶それが4世紀になると急に畿内から九州、大陸系の遺物が発見され、全国に前方後円墳が築造されます。っということは卑弥呼と壱与の時代に伊都国勢力を滅ぼし、南の狗奴国?も滅ぼした?っということになるのでしょうか?勉強不足なのでどうかご教授お願いいたします。
素直に言いますとここは分からない、という事になります。卑弥呼が誰なのかについは、文献を査読すると畿内説が有力に思え、一方考古学的な発掘によると吉野ヶ里遺跡を筆頭とした遺跡群もあり北九州説が優勢に見えます。奈良で王権が成立、有力になっていった経緯はNHKのドキュメンタリーにもありますので詳細は省きますが、古墳の形の成立過程や特殊器台の吉備から畿内への変遷などもあり、征服というよりも、大和王権自体が地方政権の寄せ集めという説が有力に思えます。王権成立後に、地方政権を弱体化させ、中央集権をすすめにるあたっての抗争はあったと思います
@@enkyotv わからないですか…残念です。
霊帝の治世(147~189)の王が孝霊天皇、その娘である百襲媛が卑弥呼という事だと思います。孝霊天皇の逸話というのが富士山辺りから畿内、出雲、瀬戸内海に及びますからね。北部九州から本州西側が倭のエリアという事でしょう。邪馬台国が70000戸と倭では最大の国なのが九州では収まりきらない理由の一つです。
疑問として、日本国内に記録なくて中国の文書に頼らないといけないのはわかるんですが日本よりは早く漢字文化が伝わってたんじゃないかとおもうんですが、なぜ朝鮮には記録がないんでしょうか
これはGOOD questionでその通りですね!日本では聖徳太子が独立国の日本を意識したときに最古の歴史書である天皇紀と国記(ともに焼失してしまいましたが)を書いていますので、独立国家としての意識=歴史の編纂という行動になるのでしょうね。朝鮮半島は分裂が長く続き、中国への朝貢が日本より長く続いたため独立国として国際情勢を含めた歴史の編纂に動かなかったのかもしれませんね。余談ですが、歴史を残すことに中国が特別の情熱を持っていたのと同様に、文物の保存では日本が特別の熱意を持っていたのは間違いないですよね、正倉院然り
@@enkyotv なるほど。ありがとうございます。その発想に至りませんでした。ある意味、朝貢してる状態で歴史書をつくるなんていうことは宗主国から見て反逆行為になりかねないわけですね。一つ自分の中でバラバラの知識のピースがつながりましたありがとうございます。
百済には百済本紀、百済国記、が有ったと伝わってます、高句麗、新羅、も同様に有ったのが滅亡の際に失われたのではないでしょうか?
ワイからできた新羅が大陸にとって扱いやすかったので、日本文明圏や百済・高句麗の書物を焼いて、新羅に文化的な能力がなかったと思われます。百済はどう見ても漢の楽浪郡から遼東公孫氏の勢力と日本文明圏の共同国家で、高句麗自体は大陸東北部の勢力で朝鮮半島勢力ではなかったのです。好太王碑を見ればわかるように、高句麗と百済には高い知識や文化があったが、ワイからできた新羅にはそれがなかったのです。
BGMが耳障り!もう少し音量を下げてほしい。
魏志倭人伝の読み解き方ですが、原文の"到"と"至"の使い分けが全然考慮されていません。日本人はあいまいに扱っていますが、中国人から見るとその二文字は音が違い意味も違います。再度その観点から読み直すことをお勧めします。
比定と否定が紛らわし過ぎるのでそこだけ字幕が欲しいです
日本の歴史も世界の歴史も中臣氏が作った。
ただ中国でも識字層はごく僅かだったはず
宋書倭人伝の済王と興王の話は、どう見ても大和王権との干渉地帯で、大和王権とは違う地方の独立政権だと認識していたと思います。その後大陸東北部の高句麗が百済の交易路の警護を宋に頼んでいますが、大和王権だったならば自分達で守ったはずで大陸を頼るのはおかしいのです。つまり倭の五王と言う大陸に阿っていた北九州勢力は、大和王権とは別の弱小地域だとばれていたので、朝貢をする為にも命がけになっていたと言う事です。それと言うもの大和王権が朝鮮半島南部を勢力圏において、百済と国交を結んだ状態だったからだと思われ、大陸の庇護がなければ朝鮮半島に影響力を発揮できなかったのです。
倭の五王が冊封を受けなくても朝鮮半島に大きな影響力を行使できたと思いますが、百済、高句麗も宋から冊封を受けていますので、宋を無視して朝鮮半島の領有権を主張すると最悪の場合、宋と戦争っということにもなりかねないので、宋の冊封に入り領有権を認めてもらう外交を行っていたのかと思いますよ。
魏志倭人伝 裴松之の注釈に「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあり、倭人が春秋歴(二倍年歴)を使用していたことが窺えます。これより、「其人壽考 或百年 或八九十年」は40歳から50歳で、自然な寿命になります。古事記では雄略天皇(124歳⇒62歳)まで続いていたと考えられます。また、継体天皇が日本書紀では82歳、古事記では43歳であることから、日本書紀ではまだ春秋歴を使っていたと思われます。
魏志倭人伝を扱うのであれば、『短里と長里』に触れなければなりません。短理 1里=76~77m長里 1里=400~440m秦の始皇帝が各地でばらばらだった単位を統一した時の長さが、1里=400~440m。晋の時代に復古思想により秦以前の周の時代単位に戻したのが、1里=76~77m。中国最古の天文算術書『周髀算(しゅうひさんけい)』では、1里=76~77m。三国志の中では、長里と短理が混在している。
実はこの問題も解説しようかと悩んだところでした、、、Googleアース使って計測もしてみたんですよ、、、ただ、すこし矛盾する部分が解決できずにあえて削りました、、、
@@enkyotv 様その、「すこし矛盾する部分」について、教えて戴けませんか?
ちょっと詳細を失念してしまったのですが、Googleアースで地図にあてはめて、いろんなパターンの里を使ってみたのですが、厳密に計算すればするほど、場所が判明している国の位置が合わなかったんで詳細解説やめたんだったと思います
@@enkyotv 様「厳密に計算すればするほど」分からなくなるのは当然かもでしょうね。大雑把な計算で北九州になる、で良いのでは?短理が使われている可能性には触れてほしかったですね。
@@takashiumeda6276 倭人伝は短里のようですが、伊都国奴国間の百里がおかしいです。この点はどうお考えでしょうか?
隋書倭国伝とは内容がいがうのでは?倭王について書かれています。聖徳太子とは別人では?
ちなみに大陸に倭は古代の王朝の末裔と言う話があるのは、恐らく長江文明が日本と交流があって稲作などが伝わったからだと思います。そしてその稲作などが伝わった先が朝鮮半島南部や北九州の日本文明圏ではなく、日向地方の大和王権勢力だったので邪馬台国をわからない場所にしたのだと思います。そうなれば大和王権の勢力が呉に味方する事になって、魏志倭人伝が司馬懿が遼東公孫氏を討伐したのに、朝鮮半島全域を落とせなかった事に辻褄が合わないからです。何か魏志倭人伝で装束などがみすぼらしく描写されていると思いますが、それは朝鮮半島南部の日本文明圏の事ではなくワイの事を言っていると思います。
遣隋使を派遣したのは多利思北孤です。多利思北孤の名は記紀に有りません。決して聖徳太子ではありません。多利思北孤の遣隋使は第2回で終わります。俀国伝に「此後遂絶」とあります。以降は大和王朝からの派遣となります。
多分その人は北九州勢力で、恐らく蘇我氏が朝鮮半島南部の大和王権地域を、唐に渡す為に意図的に先に送ったと思われます。蘇我氏が勢力を伸ばすと共に、朝鮮半島南部の大和王権地域を失っているので、日本は景教勢力に侵略を受けていたと思います。
🗾倭王阿毎多利思比狐→アマタリシヒコ→アマテラスヒコ→アマテラス👻法隆寺釈迦三尊像の光背に銘がある🥸なお聖徳太子は実在しなかった📚✍️
@@はははのは-t1u 様上宮聖徳法王は多利思北孤だと思います。大和朝廷は、九州王朝が長い年月をかけて作り上げた制度を取り入れました。そして、九州王朝の痕跡をなくすため、聖徳太子が一人で創り上げたことにしたと思われます。厩戸皇子は実在します。九州王朝を代表する上宮聖徳法王(多利思北孤)の事蹟を厩戸皇子に付け替えたのではないでしょうか。
動画ありがとうございます邪馬台国について思うことがいくつかあるのですが動画内容をそこに加味していくと読み方は魏国の音写を前提に距離や方角が大方正しく対公孫氏ではなく対呉戦略という視点からの派遣であるとして台湾〜フィリピン・ブルネイ〜ベトナム辺りなのではないかと(当時呉が台湾に手を伸ばしていたようてすし)生野菜を毎日一年中食べるという食習慣が東南アジア的で現代日本でも自然農法では無理そうですしということで邪馬台国は外国説に一票辺境地域についてまとめられている巻のようなので現代的にいえば日本と韓国が同じと思っている欧米人的混同もあろうかと個人的にですが稲作渡来前から大陸の系譜の王朝が開かれていたのではないかと思うのですがアルタイ語族系の征服王朝(女真の部族)にとってかわるまではナラの都の意味の答えがありそうですしね
魏志や後漢書が邪馬台国の位置を明確に記した箇所「会稽東冶之東」。会稽郡東冶県の東、つまり台湾の北海上と明記しています。風俗も海南島(儋耳・朱崖)に近いと説明しています。後漢書東夷伝の倭国登場も地理的順番に朝鮮半島諸国・琉球・倭国・流鬼(オホーツク)で列島の北が南に認識されていたことがわかります。
中国の書物を読むのに中国のことを詳しくないと読めない。いきなりここだけ短里はありえない。基本長里で読まないと。一大国が出雲って可能性はない?壱岐島の3000余戸がおかしい。日高見国常陸の国説はあり得ないだろうか?これが一番納得した。最後の水行10日は海を渡っていない。香取鹿島神宮を調べて見て。記紀をいくら見ても邪馬台国を平定したヤマト政権のものなので載っていない。
広開土王碑に書いている倭とそれ以前の大陸の史書に書かれている倭は別だと言えます。それがわかるのが百済が倭と通じたと言う部分で、元から朝鮮半島南部と北九州文明圏があった中で、新羅が大陸東北部の高句麗に支援を求めた事からも大和王権だと言えるのです。はっきり言うと高句麗が5万の大軍で倭を新羅から退却させたと言っていますが、それならば任那や加羅などを攻められたはずなのににやっていないのです。つまり百済は倭と言う北九州の倭人・新羅・高句麗に朝鮮半島南部の大和王権と中立だったが、それが破られたと言う事になっていくのです。実際には百済と言うのは領土がかなり変遷して、恐らく漢の楽浪郡の末裔と日本文明圏の合同国家で、この時点で大和王権が日本では圧倒的な勢力を誇っていたのです。
漢書は楽浪海中と言っているので、荒れ狂う波の海に倭人がいて、100余国と言っているので、朝鮮半島南部と北九州の事で、大和王権は別だったと言う事が出来ます。大陸で言う倭と言う勢力は、文字通り大和王権に対抗するために大陸に朝貢したので、日本の古代にはない生口と言う恐らく度例を献上したと思います。この動画の中で遼東公孫氏に朝貢と言っていますが、実際には遼東公孫氏がある間に魏への朝貢が途絶えただけで、朝鮮半島南部が日本文明圏だった事を否定できません。なぜなら遼東公孫氏が独立して存在出来ていると言う事は、朝鮮半島南部と北九州の日本人勢力にとっては干渉をされないと言う事で、無意味に朝貢をする必要がなかったのです。
そもそも親魏倭王と言っているので、魏に対して融和的な倭の王と言う意味になって、倭の王がたくさんいた中で認めた事を示しています。大和王権はこの時点では、神武東征によって纏向方面まで勢力を伸ばしていたはずで、どう見ても魏と交流を持って臣下として朝貢したのは朝鮮半島南部と北九州の日本勢力です。大和王権が長江文明と交流があったとすれば、沖縄などの南西諸島方面での海上貿易路があったはずで、倭を大和王権と勘違いさせる意図はあったと思います。更にこの動画によれば曹真による大月氏の討伐を隠して、晋の正当性を出したと言う事ですが、それならば意図的に大和王権と倭を混同させた可能性が高いですね。
金印偽物説なんてそんな有力なの?
NHKでドキュメンタリーやる程度には有力で、理由を聞くと結構説得力あるんですよね、、、当時には使われていなかった削りの技術が使われているなどなど。確か去年の邪馬台国サミットでも議論されていたと思います
久しぶりの歴史解説動画だ!と思って開くと、まさかの40分越えの大作!
本チャンネルはいつも本格的かつ分かりやすく、とても為になるチャンネルだと感じています。今回の動画も教材のようにしっかりした動画で見応えのある興味深いものでした!今後も楽しみにしております!
面白かったです!
とっても分かりやすかったです。最近日本の古代史からの歴史をみたばかりなので、俯瞰したみかたができてよかっです。
百済と日本の関係が気になります。
三韓と倭地の里数は、一寸千里法で測ったとすると、必ず1里が76m程になります。一寸千里法は80寸の棒を立てて、その棒の影の長さを寸で測り里に読替えたもので、周里と比べデタラメな距離ですが、海峡をまたぐなどする場合は有用です。
面白いことに2箇所の影長の差を求めた時に限り、1里が76m程になります、数学的にも。ただ、測れるのは南北のみ、東西や斜めは測れないので、三角関数を使って計算します。南北以外は、仮想の距離になるため、皆さんが期待する都市と都市の距離は測れません。
倭地は島国のため測定ポイントは想定できますが、七千余里や萬二千餘里などの場所は数字は合うものの、仮想の場所なので遺跡などはそこにはなく、都市ではなく別の物を指していると思われます。
繰り返し聞いています。
面白いです。
「水行陸行」の答え見つけました。
魏志倭人伝は正確です。答えはありますよ。
動画の最後の方でも言及されているように、日中両国にはまだまだ、古代の同国関係に関わると思われる歴史的な資料が発見されないまま眠っている可能性は否定出来ないと思います。両国で互いに古墳や古文書などの調査が進めば、新たな発見が期待できると痛感しています。
基礎編たいへん完結にまとめていました。
倭人の外交使者は自ら『大夫』と名乗ってたことが昔から不思議に感じてた。後漢や魏も古風な肩書きに違和感を感じたので、記録に残したんだと思います。漢・魏より前の王朝で一般的だった肩書。古くから交流を暗示するものであり、漢字が日本に伝わった時代は、相当古いんじゃないでしょうか。
邪馬台国について記紀をいくら調べても皇統にしかたどりつかない。呉服について誰も語っていない。是非、調べて。呉服が奈良時代に入って来たともいわれるが呉服という言葉がそんなに残っていたのか。九州はそもそも長江流域から人や文化が入っている。出雲や越、常陸国=日高見国、東北が連合として女王国になり、この範囲だから大月氏国と同格だった。その後、馬を持ってきたヤマト政権が平定していった。あと、沖縄説は面白い。ギリギリ年中裸足でいられる。アマミキヨ族なら範囲は広大だし呉に対してにらみを利かせられる。とにかく九州や四国では範囲が狭すぎる。
入口紀男『邪馬臺國』(2022年11月アマゾンより発売)に近い内容です。
使者は行く先々で歓待儀式を戦略的に受けて
時間間隔も地理感覚も酒混り色交じりにボカサれていた筈なんですよね
だから水行も陸行もやたら時間がかかり
東へ南へジグザグに進んでいます
誰が 強大国から派遣された調査官に素直に国の機密を伝えるかってな話ですからね
自分は徳島県に邪馬台国はあったのではないかと思っています。北九州にも大きなクニはあったのは、吉野ヶ里を見ても間違いなさそうではありますが、辰砂が出るのは徳島県ということや神社の元宮が多いのもそれを裏付けているのでは…
唐代に成立した『北史』(中国の正史二十五史の一つ)においても
倭国の都大和を指して「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」と述べています。
岳飛と宋金戦争の動画待っています
邪馬台国の説明は非常に簡単です。
古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。
それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。
日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。
その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。
宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。
皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。
宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)
ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。
12:38
その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。
ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。
邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。
ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。
宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。
全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。
京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。
宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の土地、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。
巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
倭の五王の時代には漢字を使ってますよね?(倭王武の上表文)
記紀以前の物は焚書された
蘇我氏のせいにしてるけど誰かの命令だったかも
倭の五王や卑弥呼はあくまでも中国の臣下なので記紀に記すには相応しく無かったのてしょう。
とても疑問に思うところがあるのですが、倭の五王を大和王権としているのに、卑弥呼を大和王権から探すのは少し不自然に感じます。
⑴倭の五王や日本書紀では、かつての九州の勢力を土蜘蛛、衆夷と蔑視していますが、邪馬台国が畿内にあった場合、畿内から関東、九州を従えたことになります。
⑵つまり魏志の時代、考古学的にみて畿内と九州との交易は痕跡もなく、魏志に書かれている鉄もない、ガラスもほとんどない、大陸系の遺物がない畿内の邪馬台国は、九州の伊都国文化圏を敵視していたということになるのではないでしょうか?
⑶それが4世紀になると急に畿内から九州、大陸系の遺物が発見され、全国に前方後円墳が築造されます。
っということは卑弥呼と壱与の時代に伊都国勢力を滅ぼし、南の狗奴国?も滅ぼした?っということになるのでしょうか?
勉強不足なのでどうかご教授お願いいたします。
素直に言いますとここは分からない、という事になります。卑弥呼が誰なのかについは、文献を査読すると畿内説が有力に思え、一方考古学的な発掘によると吉野ヶ里遺跡を筆頭とした遺跡群もあり北九州説が優勢に見えます。奈良で王権が成立、有力になっていった経緯はNHKのドキュメンタリーにもありますので詳細は省きますが、古墳の形の成立過程や特殊器台の吉備から畿内への変遷などもあり、征服というよりも、大和王権自体が地方政権の寄せ集めという説が有力に思えます。王権成立後に、地方政権を弱体化させ、中央集権をすすめにるあたっての抗争はあったと思います
@@enkyotv わからないですか…残念です。
霊帝の治世(147~189)の王が孝霊天皇、その娘である百襲媛が卑弥呼という事だと思います。
孝霊天皇の逸話というのが富士山辺りから畿内、出雲、瀬戸内海に及びますからね。
北部九州から本州西側が倭のエリアという事でしょう。
邪馬台国が70000戸と倭では最大の国なのが九州では収まりきらない理由の一つです。
疑問として、日本国内に記録なくて中国の文書に頼らないといけないのはわかるんですが
日本よりは早く漢字文化が伝わってたんじゃないかとおもうんですが、なぜ朝鮮には記録がないんでしょうか
これはGOOD questionでその通りですね!日本では聖徳太子が独立国の日本を意識したときに最古の歴史書である天皇紀と国記(ともに焼失してしまいましたが)を書いていますので、独立国家としての意識=歴史の編纂という行動になるのでしょうね。朝鮮半島は分裂が長く続き、中国への朝貢が日本より長く続いたため独立国として国際情勢を含めた歴史の編纂に動かなかったのかもしれませんね。余談ですが、歴史を残すことに中国が特別の情熱を持っていたのと同様に、文物の保存では日本が特別の熱意を持っていたのは間違いないですよね、正倉院然り
@@enkyotv なるほど。ありがとうございます。その発想に至りませんでした。ある意味、朝貢してる状態で歴史書をつくるなんていうことは宗主国から見て反逆行為になりかねないわけですね。一つ自分の中でバラバラの知識のピースがつながりましたありがとうございます。
百済には百済本紀、百済国記、が有ったと
伝わってます、高句麗、新羅、も同様に
有ったのが滅亡の際に失われたのでは
ないでしょうか?
ワイからできた新羅が大陸にとって扱いやすかったので、日本文明圏や百済・高句麗の書物を焼いて、新羅に文化的な能力がなかったと思われます。
百済はどう見ても漢の楽浪郡から遼東公孫氏の勢力と日本文明圏の共同国家で、高句麗自体は大陸東北部の勢力で朝鮮半島勢力ではなかったのです。
好太王碑を見ればわかるように、高句麗と百済には高い知識や文化があったが、ワイからできた新羅にはそれがなかったのです。
BGMが耳障り!
もう少し音量を下げてほしい。
魏志倭人伝の読み解き方ですが、原文の"到"と"至"の使い分けが全然考慮されていません。日本人はあいまいに扱っていますが、中国人から見るとその二文字は音が違い意味も違います。再度その観点から読み直すことをお勧めします。
比定と否定が紛らわし過ぎるのでそこだけ字幕が欲しいです
日本の歴史も世界の歴史も中臣氏が作った。
ただ中国でも識字層はごく僅かだったはず
宋書倭人伝の済王と興王の話は、どう見ても大和王権との干渉地帯で、大和王権とは違う地方の独立政権だと認識していたと思います。
その後大陸東北部の高句麗が百済の交易路の警護を宋に頼んでいますが、大和王権だったならば自分達で守ったはずで大陸を頼るのはおかしいのです。
つまり倭の五王と言う大陸に阿っていた北九州勢力は、大和王権とは別の弱小地域だとばれていたので、朝貢をする為にも命がけになっていたと言う事です。
それと言うもの大和王権が朝鮮半島南部を勢力圏において、百済と国交を結んだ状態だったからだと思われ、大陸の庇護がなければ朝鮮半島に影響力を発揮できなかったのです。
倭の五王が冊封を受けなくても朝鮮半島に大きな影響力を行使できたと思いますが、百済、高句麗も宋から冊封を受けていますので、宋を無視して朝鮮半島の領有権を主張すると最悪の場合、宋と戦争っということにもなりかねないので、宋の冊封に入り領有権を認めてもらう外交を行っていたのかと思いますよ。
魏志倭人伝 裴松之の注釈に「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」とあり、倭人が春秋歴(二倍年歴)を使用していたことが窺えます。
これより、「其人壽考 或百年 或八九十年」は40歳から50歳で、自然な寿命になります。
古事記では雄略天皇(124歳⇒62歳)まで続いていたと考えられます。
また、継体天皇が日本書紀では82歳、古事記では43歳であることから、日本書紀ではまだ春秋歴を使っていたと思われます。
魏志倭人伝を扱うのであれば、『短里と長里』に触れなければなりません。
短理 1里=76~77m
長里 1里=400~440m
秦の始皇帝が各地でばらばらだった単位を統一した時の長さが、1里=400~440m。
晋の時代に復古思想により秦以前の周の時代単位に戻したのが、1里=76~77m。
中国最古の天文算術書『周髀算(しゅうひさんけい)』では、1里=76~77m。
三国志の中では、長里と短理が混在している。
実はこの問題も解説しようかと悩んだところでした、、、Googleアース使って計測もしてみたんですよ、、、ただ、すこし矛盾する部分が解決できずにあえて削りました、、、
@@enkyotv 様
その、「すこし矛盾する部分」について、教えて戴けませんか?
ちょっと詳細を失念してしまったのですが、Googleアースで地図にあてはめて、いろんなパターンの里を使ってみたのですが、厳密に計算すればするほど、場所が判明している国の位置が合わなかったんで詳細解説やめたんだったと思います
@@enkyotv 様
「厳密に計算すればするほど」分からなくなるのは当然かもでしょうね。
大雑把な計算で北九州になる、で良いのでは?
短理が使われている可能性には触れてほしかったですね。
@@takashiumeda6276
倭人伝は短里のようですが、伊都国奴国間の百里がおかしいです。
この点はどうお考えでしょうか?
隋書倭国伝とは内容がいがうのでは?倭王について書かれています。
聖徳太子とは別人では?
ちなみに大陸に倭は古代の王朝の末裔と言う話があるのは、恐らく長江文明が日本と交流があって稲作などが伝わったからだと思います。
そしてその稲作などが伝わった先が朝鮮半島南部や北九州の日本文明圏ではなく、日向地方の大和王権勢力だったので邪馬台国をわからない場所にしたのだと思います。
そうなれば大和王権の勢力が呉に味方する事になって、魏志倭人伝が司馬懿が遼東公孫氏を討伐したのに、朝鮮半島全域を落とせなかった事に辻褄が合わないからです。
何か魏志倭人伝で装束などがみすぼらしく描写されていると思いますが、それは朝鮮半島南部の日本文明圏の事ではなくワイの事を言っていると思います。
遣隋使を派遣したのは多利思北孤です。
多利思北孤の名は記紀に有りません。
決して聖徳太子ではありません。
多利思北孤の遣隋使は第2回で終わります。
俀国伝に「此後遂絶」とあります。
以降は大和王朝からの派遣となります。
多分その人は北九州勢力で、恐らく蘇我氏が朝鮮半島南部の大和王権地域を、唐に渡す為に意図的に先に送ったと思われます。
蘇我氏が勢力を伸ばすと共に、朝鮮半島南部の大和王権地域を失っているので、日本は景教勢力に侵略を受けていたと思います。
🗾倭王阿毎多利思比狐→アマタリシヒコ→アマテラスヒコ→アマテラス👻法隆寺釈迦三尊像の光背に銘がある🥸なお聖徳太子は実在しなかった📚✍️
@@はははのは-t1u 様
上宮聖徳法王は多利思北孤だと思います。
大和朝廷は、九州王朝が長い年月をかけて作り上げた制度を取り入れました。
そして、九州王朝の痕跡をなくすため、聖徳太子が一人で創り上げたことにしたと思われます。
厩戸皇子は実在します。
九州王朝を代表する上宮聖徳法王(多利思北孤)の事蹟を厩戸皇子に付け替えたのではないでしょうか。
動画ありがとうございます
邪馬台国について思うことがいくつかあるのですが動画内容をそこに加味していくと
読み方は魏国の音写を前提に距離や方角が大方正しく対公孫氏ではなく対呉戦略という視点からの派遣であるとして台湾〜フィリピン・ブルネイ〜ベトナム辺りなのではないかと(当時呉が台湾に手を伸ばしていたようてすし)生野菜を毎日一年中食べるという食習慣が東南アジア的で現代日本でも自然農法では無理そうですし
ということで邪馬台国は外国説に一票
辺境地域についてまとめられている巻のようなので現代的にいえば日本と韓国が同じと思っている欧米人的混同もあろうかと
個人的にですが
稲作渡来前から大陸の系譜の王朝が開かれていたのではないかと思うのですが
アルタイ語族系の征服王朝(女真の部族)にとってかわるまでは
ナラの都の意味の答えがありそうですしね
魏志や後漢書が邪馬台国の位置を明確に記した箇所「会稽東冶之東」。会稽郡東冶県の東、つまり台湾の北海上と明記しています。風俗も海南島(儋耳・朱崖)に近いと説明しています。
後漢書東夷伝の倭国登場も地理的順番に朝鮮半島諸国・琉球・倭国・流鬼(オホーツク)で列島の北が南に認識されていたことがわかります。
中国の書物を読むのに中国のことを詳しくないと読めない。いきなりここだけ短里はありえない。基本長里で読まないと。一大国が出雲って可能性はない?壱岐島の3000余戸がおかしい。日高見国常陸の国説はあり得ないだろうか?これが一番納得した。最後の水行10日は海を渡っていない。香取鹿島神宮を調べて見て。記紀をいくら見ても邪馬台国を平定したヤマト政権のものなので載っていない。
広開土王碑に書いている倭とそれ以前の大陸の史書に書かれている倭は別だと言えます。
それがわかるのが百済が倭と通じたと言う部分で、元から朝鮮半島南部と北九州文明圏があった中で、新羅が大陸東北部の高句麗に支援を求めた事からも大和王権だと言えるのです。
はっきり言うと高句麗が5万の大軍で倭を新羅から退却させたと言っていますが、それならば任那や加羅などを攻められたはずなのににやっていないのです。
つまり百済は倭と言う北九州の倭人・新羅・高句麗に朝鮮半島南部の大和王権と中立だったが、それが破られたと言う事になっていくのです。
実際には百済と言うのは領土がかなり変遷して、恐らく漢の楽浪郡の末裔と日本文明圏の合同国家で、この時点で大和王権が日本では圧倒的な勢力を誇っていたのです。
漢書は楽浪海中と言っているので、荒れ狂う波の海に倭人がいて、100余国と言っているので、朝鮮半島南部と北九州の事で、大和王権は別だったと言う事が出来ます。
大陸で言う倭と言う勢力は、文字通り大和王権に対抗するために大陸に朝貢したので、日本の古代にはない生口と言う恐らく度例を献上したと思います。
この動画の中で遼東公孫氏に朝貢と言っていますが、実際には遼東公孫氏がある間に魏への朝貢が途絶えただけで、朝鮮半島南部が日本文明圏だった事を否定できません。
なぜなら遼東公孫氏が独立して存在出来ていると言う事は、朝鮮半島南部と北九州の日本人勢力にとっては干渉をされないと言う事で、無意味に朝貢をする必要がなかったのです。
そもそも親魏倭王と言っているので、魏に対して融和的な倭の王と言う意味になって、倭の王がたくさんいた中で認めた事を示しています。
大和王権はこの時点では、神武東征によって纏向方面まで勢力を伸ばしていたはずで、どう見ても魏と交流を持って臣下として朝貢したのは朝鮮半島南部と北九州の日本勢力です。
大和王権が長江文明と交流があったとすれば、沖縄などの南西諸島方面での海上貿易路があったはずで、倭を大和王権と勘違いさせる意図はあったと思います。
更にこの動画によれば曹真による大月氏の討伐を隠して、晋の正当性を出したと言う事ですが、それならば意図的に大和王権と倭を混同させた可能性が高いですね。
金印偽物説なんてそんな有力なの?
NHKでドキュメンタリーやる程度には有力で、理由を聞くと結構説得力あるんですよね、、、当時には使われていなかった削りの技術が使われているなどなど。確か去年の邪馬台国サミットでも議論されていたと思います