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ありがとうございます。大真ただただ南無阿弥陀仏。
井口好一様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
高科様いつもありがとうございます。お通夜の席でのお話のようで突き刺さりました。死ぬはずのない大切な人が朝は血色も良く元気な笑顔を見せてくれていたのに夕方には息も絶え、浄土に還られました。まさに私たちの命は今終わるかも知れないことを思います。お通夜の夜に線香を絶やさず、故人への思いを振り返り、故人からの願いを夜通し訪ねて思いめぐらす。「あなたから頂いた数々の愛に報いて生きていきます」お通夜の時間がいかに大切な時間なのかが身に染みるほどわかります。これまでの我儘勝手に振る舞っていた自分の愚かさを恥じ、深い思いに応える生き方ができる私になります。ありがとうございました。南無阿弥陀仏合掌
しろくま様ご視聴、コメントありがとうございます。無量寿の中で私は生きている!大きな大きな…そして、深い深い…願いの中で生きている!その真理を疑う術は微塵もありません。正に真理だからです。そのことに、気づき生きていくことこそが、浄土真宗の生活であります。そしてその私の生き様が、死して私を『仏』とするのです。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつか必ず訪れる死 必ず常に頭に置いて日々過ごしています 特別じゃ無いですね 故に少しでも恥ずかしくない生き様 周りの知人達数多くお送りさせて頂きました まさかと思える人も しかしいつか私にもその時は訪れます宗派は違えど最後は同じ 心づもりはあります いつも心に響くお話有り難う御座います 南無阿弥陀 南無阿弥陀
米田英雄様ご視聴、コメントありがとうございます。生れた時、きみは泣き、世界が笑った。だから死ぬ時は、きみが笑い、世界が泣く人生を生きなさい。ネイティブアメリカン・チェロキー族の言葉。まさに、浄土真宗…であります。南無阿弥陀仏合掌高科修
今を生かされています。感謝!生かされている間に信心決定できればホンマに幸せなんやろな!しらんけど!
河内のやっちゃん様ご視聴、コメントありがとうございます。信心決定しても幸せになれるとは限りません。悪しからず。ちなみに…決まって定まるのは…その都度その都度、その時その時であります。信心とはそういうものです。「しらんけど」では、信心は決して信心決定いたしませんし、幸せも感じることはできません。また、最後に「しらんけど」と無責任な事を仰る人間性をお知らせいただき、ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
ロビンウィリアムズ主演「今を生きる」。感動した映画です。無駄な人生を送りたくないですね。
秋元一良様ご視聴、コメントありがとうございます。その無駄は…誰に対して無駄なのでしょうか?その無駄は…何に対して無駄なのでしょうか?無駄とは、なんなのでしょうか?本願力にあいぬれば空しく過ぐる、人ぞなき親鸞聖人の御和讃にあるが如く、あらゆる出来事、出会いは、空しく過ぐる人ぞなき=無駄ではないが、浄土真宗であります。私たちは、人と生れたその瞬間より…無駄なことなど何一つない世界で生きているのです。南無阿弥陀仏合掌高科修
神仏に帰命坊主わ命お投げ捧げられるか?跳梁跋扈何め言ってめ信じられない
高科先生、本日もありがとうございます。今まで、いったい何人の患者さんの死に立ち会ったことでしょう?どんなに医療が進歩しようと、死は、誰にでも例外なく訪れます。何度患者さんの死に立ち会おうとも、気持ちの切り替えはすれど、決して慣れることはありません。その命の最期まで患者さんは生きています。言葉を発せられなくても、身体を動かすことが出来なくとも、生きています。それは、ただの細胞レベルのことでなく、病床に臥せるその身は、生きようとする患者さん自身の想いだけでなく、それを尊ぶご家族、恋人、友達、大切な人達の想いを一身に背負い生き、生ききる姿に思えます。そこには、さよならだけでなく、必ずありがとうも一緒にあります。コロナ禍では、患者さんのご遺体をお返しするのも感染対策が優先となってしまいましたが、コロナも一段落し、できる限り、ご希望されるご遺族様とエンゼルケアを行える日が戻ってきました。つい先程まで生きていた、生き抜かれたそのお姿に、南無阿弥陀仏と自然と手が合わさります。南無阿弥陀仏、合掌。
ちやんぴー様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏と手が合わさるその合掌に……どれほどの、人の思いが合わさっているのでしょう……どれほどの、思いが重なっているのでしょう……思い思われ、願い願われ、私たち一人ひとりは、そうやって、生(う)まれ生(い)き死して行く『身』なのです……悲しみ…浄土真宗の語る悲しみは…愛する大切な人と、生きている私は必ず死という別れをしなければならないという悲しみです。愛別離苦!生れ生きること事態が悲しみであり苦である。それ故に…私が師と仰ぐ方の次の言葉があります。悲しみは人と人をつなぐ糸であると……南無阿弥陀仏合掌高科修
考えさせられるお話ありがとうございました。私は大谷派の門徒なのに、先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました。私は死ぬ、あなたもいつか死ぬ。この事を考えた上で「今を生きる」という事は、難しいものだと思いました。(浄土のお話しのように)「ありがとう」「ごめんなさい」という気持ちを持ち、自分がいて、相手がいて、そのつながりを持って生きている事を忘れずに、「今を生きる」。そのように生きたいと思いました。最後にあった「ガチの法話です」とのお話し。先生の小話、全部ガチの法話じゃないですか(笑)ありがとうございました。
A・シキミ様ご視聴、コメントありがとうございます。『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』…とのA・シキミ様のお言葉に、あらためて浄土真宗大谷派の僧侶としての責任を感じております。如何に大谷派の僧侶が、真宗を語っていないかを痛感させられております。北陸・金沢で…私の僧侶として勤め始めより…私の口癖は、『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』であります。それは、今でも変わっておりません。そのことは、私の一生…言い続けていかねばならないことである!と、しております。一人ひとりの大谷派の僧侶が、真宗の生活をしておれば、『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』など、起こらないはずなのです。私たち真宗大谷派の僧侶は、住職になるために、『大谷派教師』と言う宗派内の資格を習得しなければなりません。この大谷派教師の教師を、多くの僧侶が、大きく誤解、いえ!勘違いをしております。まずは、大谷派教師は資格ではないと言うこと!私が師と仰ぐ先輩僧侶の言葉です。教師の、教と師の間にはレ点が入るのです。と!その言葉を、わかりやすくお話しをするなら…すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏を教えられる、教えをこうて行く生き方をしていく私である!と言う自覚・宣言・告白・覚悟である。その姿を見せていくのが、住職としての日々の勤めである。と、なります。私が、日々の他の僧侶に申している『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』であります。このRUclipsもまた、『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』のなせることであります。考えてみるに…教師の、教と師の間にはレ点が入るのですは、あらゆる師とつく方に通ずるものです。医師ならば…すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、学び気づき、医とは何なのかを日々熟考していく。看護師ならば…すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、学び気づき、看護とは何なのかを日々熟考していく。消防士(師)、政治家(師)警察官(師)等々…あらゆる人に通ずることであります。A・シキミ様に、真宗大谷派僧侶の一員として、『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』と、させていたことに対して、深くお詫び申し上げます。ごめんなさい…と、申し上げるしか御座いません。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 返信ありがとうございます。先生の動画に出会えて、良かったと思っております。>あらゆる人に通ずることであります。多くの人は「知ってるつもり」になっていると思います。だから、そうなるのだと思います。「南無、気付け!」このお言葉を忘れないようにいたします。ありがとうございました。
死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです。しかし、浄土真宗では答えはひとつ、それは念仏生活です。如来回向の信心をいただいた念仏生活は、後生に浄土に往生することが前提となっています。浄土真宗が道徳でなく、宗教である所以です。
阪上芳隆様ご視聴、コメントありがとうございます。先日、阪上芳隆様は「宗教ではありません。」と仰っておりましたが「浄土真宗が道徳でなく、宗教である所以です。」と、なぜ、仰ることが真逆になったのでしょうか。阪上芳隆様の仰るところの「それは念仏生活です。如来回向の信心をいただいた念仏生活は、後生に浄土に往生すること」をどのように了解しているのか分かりかねます。それは、言葉を並べているだけです。浄土真宗は「死」から「今を生きる」を聞法していく宗教宗派でございます。ちなみに…「死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです」との阪上芳隆様のお言葉ですが…古今東西世界中の宗教宗派は、『死』意識した瞬間から始まっております。歴史の語る事実であります。『死と生』を熟考し、生れたて刹那から死に向かい進んでいる『生きる』を私はどういきたらよいのだろう?が、全ての宗教宗派の出発点であります。故に…「死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです」との阪上芳隆様のお言葉は、『違っております』とお伝えいたすしかございません。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつ死ぬか、明確に分かるようになりたいと言う「欲求」が出てくることも、しばしばありますね…まあ、後悔は一つもない身なのでいつ死んでも大丈夫であるように、生き抜きます南無阿弥陀仏
wjadhh 0856 gpmd47様ご視聴、コメントありがとうございます。「いつ死ぬか、明確に分かるようになりたいと言う「欲求」が出てくることも、しばしばありますね…」とのwjadhh 0856 gpmd47様のお言葉。では…wjadhh 0856 gpmd47様は、それが「わかったら」…どうされるおつもりなのでしょうか……どうしたいのでしょうか…何もしませんか?何かをしますか?何もしない選択が出来るとすれば、それは、今!を生きていない証です。何かをするとすれば、それを後悔と申します。「まあ、後悔は一つもない身なので」と話される人に、浄土真宗の宗である、悲しみは人と人をつなぐ糸ですの宗は心に響くことはありません。心に響かない人に、「いつ死んでも大丈夫であるように、生き抜きます」の言葉は、本来の発せられることはありません。南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございます。大真ただただ南無阿弥陀仏。
井口好一様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
高科様
いつもありがとうございます。
お通夜の席でのお話のようで突き刺さりました。
死ぬはずのない大切な人が朝は血色も良く元気な笑顔を見せてくれていたのに
夕方には息も絶え、浄土に還られました。
まさに私たちの命は今終わるかも知れないことを思います。
お通夜の夜に線香を絶やさず、故人への思いを振り返り、
故人からの願いを夜通し訪ねて思いめぐらす。
「あなたから頂いた数々の愛に報いて生きていきます」
お通夜の時間がいかに大切な時間なのかが身に染みるほどわかります。
これまでの我儘勝手に振る舞っていた自分の愚かさを恥じ、
深い思いに応える生き方ができる私になります。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏
合掌
しろくま様
ご視聴、コメントありがとうございます。
無量寿の中で私は生きている!
大きな大きな…
そして、深い深い…
願いの中で生きている!
その真理を疑う術は微塵もありません。
正に真理だからです。
そのことに、気づき生きていくことこそが、浄土真宗の生活であります。
そしてその私の生き様が、死して私を『仏』とするのです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつか必ず訪れる死 必ず常に頭に置いて日々過ごしています 特別じゃ無いですね 故に少しでも恥ずかしくない生き様 周りの知人達数多くお送りさせて頂きました まさかと思える人も しかしいつか私にもその時は訪れます
宗派は違えど最後は同じ 心づもりはあります いつも心に響くお話有り難う御座います 南無阿弥陀 南無阿弥陀
米田英雄様
ご視聴、コメントありがとうございます。
生れた時、
きみは泣き、世界が笑った。
だから死ぬ時は、
きみが笑い、
世界が泣く人生を生きなさい。
ネイティブアメリカン・
チェロキー族の言葉。
まさに、浄土真宗…であります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
今を生かされています。感謝!
生かされている間に信心決定できればホンマに幸せなんやろな!
しらんけど!
河内のやっちゃん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
信心決定しても幸せになれるとは限りません。
悪しからず。
ちなみに…
決まって定まるのは…
その都度その都度、その時その時であります。
信心とはそういうものです。
「しらんけど」では、信心は決して信心決定いたしませんし、幸せも感じることはできません。
また、最後に「しらんけど」と無責任な事を仰る人間性をお知らせいただき、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ロビンウィリアムズ主演「今を生きる」。感動した映画です。無駄な人生を送りたくないですね。
秋元一良様
ご視聴、コメントありがとうございます。
その無駄は…
誰に対して無駄なのでしょうか?
その無駄は…
何に対して無駄なのでしょうか?
無駄とは、なんなのでしょうか?
本願力に
あいぬれば
空しく過ぐる、
人ぞなき
親鸞聖人の御和讃にあるが如く、あらゆる出来事、出会いは、空しく過ぐる人ぞなき=無駄ではない
が、浄土真宗であります。
私たちは、人と生れたその瞬間より…
無駄なことなど何一つない世界で生きているのです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
神仏に帰命坊主わ命お投げ捧げられるか?跳梁跋扈何め言ってめ信じられない
高科先生、本日もありがとうございます。
今まで、いったい何人の患者さんの死に立ち会ったことでしょう?
どんなに医療が進歩しようと、死は、誰にでも例外なく訪れます。
何度患者さんの死に立ち会おうとも、気持ちの切り替えはすれど、決して慣れることはありません。
その命の最期まで患者さんは生きています。
言葉を発せられなくても、身体を動かすことが出来なくとも、生きています。
それは、ただの細胞レベルのことでなく、病床に臥せるその身は、生きようとする患者さん自身の想いだけでなく、それを尊ぶご家族、恋人、友達、大切な人達の想いを一身に背負い生き、生ききる姿に思えます。
そこには、さよならだけでなく、必ずありがとうも一緒にあります。
コロナ禍では、患者さんのご遺体をお返しするのも感染対策が優先となってしまいましたが、コロナも一段落し、できる限り、ご希望されるご遺族様とエンゼルケアを行える日が戻ってきました。
つい先程まで生きていた、生き抜かれたそのお姿に、南無阿弥陀仏と自然と手が合わさります。
南無阿弥陀仏、合掌。
ちやんぴー様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏と手が合わさるその合掌に……
どれほどの、人の思いが合わさっているのでしょう……
どれほどの、思いが重なっているのでしょう……
思い思われ、
願い願われ、
私たち一人ひとりは、そうやって、生(う)まれ生(い)き死して行く『身』なのです……
悲しみ…
浄土真宗の語る悲しみは…愛する大切な人と、生きている私は必ず死という別れをしなければならないという悲しみです。
愛別離苦!
生れ生きること事態が悲しみであり苦である。
それ故に…
私が師と仰ぐ方の次の言葉があります。
悲しみは
人と人をつなぐ
糸である
と……
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
考えさせられるお話ありがとうございました。私は大谷派の門徒なのに、先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました。
私は死ぬ、あなたもいつか死ぬ。この事を考えた上で「今を生きる」という事は、難しいものだと思いました。
(浄土のお話しのように)「ありがとう」「ごめんなさい」という気持ちを持ち、自分がいて、相手がいて、そのつながりを持って生きている事を忘れずに、「今を生きる」。そのように生きたいと思いました。
最後にあった「ガチの法話です」とのお話し。先生の小話、全部ガチの法話じゃないですか(笑)
ありがとうございました。
A・シキミ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』
…とのA・シキミ様のお言葉に、あらためて浄土真宗大谷派の僧侶としての責任を感じております。
如何に大谷派の僧侶が、真宗を語っていないかを痛感させられております。
北陸・金沢で…
私の僧侶として勤め始めより…
私の口癖は、『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』であります。
それは、今でも変わっておりません。
そのことは、私の一生…言い続けていかねばならないことである!と、しております。
一人ひとりの大谷派の僧侶が、真宗の生活をしておれば、『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』など、起こらないはずなのです。
私たち真宗大谷派の僧侶は、住職になるために、『大谷派教師』と言う宗派内の資格を習得しなければなりません。
この大谷派教師の教師を、多くの僧侶が、大きく誤解、いえ!勘違いをしております。
まずは、大谷派教師は資格ではないと言うこと!
私が師と仰ぐ先輩僧侶の言葉です。
教師の、教と師の間にはレ点が入るのです。と!
その言葉を、わかりやすくお話しをするなら…
すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏を教えられる、教えをこうて行く生き方をしていく私である!と言う自覚・宣言・告白・覚悟である。その姿を見せていくのが、住職としての日々の勤めである。と、なります。
私が、日々の他の僧侶に申している『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』であります。
このRUclipsもまた、『真宗の僧侶が一番真宗から遠い所にいる』のなせることであります。
考えてみるに…
教師の、教と師の間にはレ点が入るのですは、あらゆる師とつく方に通ずるものです。
医師ならば…
すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、学び気づき、医とは何なのかを日々熟考していく。
看護師ならば…
すべての事柄を師として仰ぎ、その師から、学び気づき、看護とは何なのかを日々熟考していく。
消防士(師)、
政治家(師)
警察官(師)等々…
あらゆる人に通ずることであります。
A・シキミ様に、真宗大谷派僧侶の一員として、
『先生のお話しに出会うまで「後生の一大事」などを誤解していました』
と、させていたことに対して、深くお詫び申し上げます。
ごめんなさい…と、申し上げるしか御座いません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan 返信ありがとうございます。先生の動画に出会えて、良かったと思っております。
>あらゆる人に通ずることであります。
多くの人は「知ってるつもり」になっていると思います。だから、そうなるのだと思います。「南無、気付け!」このお言葉を忘れないようにいたします。
ありがとうございました。
死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです。しかし、浄土真宗では答えはひとつ、それは念仏生活です。如来回向の信心をいただいた念仏生活は、後生に浄土に往生することが前提となっています。浄土真宗が道徳でなく、宗教である所以です。
阪上芳隆様
ご視聴、コメントありがとうございます。
先日、阪上芳隆様は「宗教ではありません。」と仰っておりましたが「浄土真宗が道徳でなく、宗教である所以です。」と、なぜ、仰ることが真逆になったのでしょうか。
阪上芳隆様の仰るところの「それは念仏生活です。如来回向の信心をいただいた念仏生活は、後生に浄土に往生すること」をどのように了解しているのか分かりかねます。
それは、言葉を並べているだけです。
浄土真宗は「死」から「今を生きる」を聞法していく宗教宗派でございます。
ちなみに…
「死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです」との阪上芳隆様のお言葉ですが…
古今東西世界中の宗教宗派は、『死』意識した瞬間から始まっております。
歴史の語る事実であります。『死と生』を熟考し、生れたて刹那から死に向かい進んでいる『生きる』を私はどういきたらよいのだろう?が、全ての宗教宗派の出発点であります。
故に…
「死をみつめて、今ちゃんと生きていますか、という問いへの回答はいくつもあります。道徳だからです」との阪上芳隆様のお言葉は、『違っております』とお伝えいたすしかございません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつ死ぬか、明確に分かるようになりたいと言う「欲求」が出てくることも、
しばしばありますね…
まあ、後悔は一つもない身なので
いつ死んでも大丈夫であるように、
生き抜きます
南無阿弥陀仏
wjadhh 0856 gpmd47様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「いつ死ぬか、明確に分かるようになりたいと言う「欲求」が出てくることも、しばしばありますね…」
とのwjadhh 0856 gpmd47様のお言葉。
では…wjadhh 0856 gpmd47様は、それが「わかったら」…
どうされるおつもりなのでしょうか……
どうしたいのでしょうか…
何もしませんか?
何かをしますか?
何もしない選択が出来るとすれば、それは、今!を生きていない証です。
何かをするとすれば、それを後悔と申します。
「まあ、後悔は一つもない身なので」
と話される人に、浄土真宗の宗である、
悲しみは
人と人をつなぐ
糸です
の宗は心に響くことはありません。
心に響かない人に、
「いつ死んでも大丈夫であるように、生き抜きます」の言葉は、本来の発せられることはありません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修