【ゆっくり解説】古墳時代の始まり

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  • Опубликовано: 10 сен 2024
  • 古墳時代の始まりのゆっくり解説動画です。
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Комментарии • 21

  • @Bon79879
    @Bon79879 2 месяца назад +3

    ゆっくりって何で人気あるんだろうと思ったけど歴史動画で良いと思えた。
    おっさんの声をずっと聴くより良い。

  • @user-cq9ib4hb7k
    @user-cq9ib4hb7k 2 месяца назад +1

    古墳自体が水利工事の土砂を活用したものって話を聞いたことあるけど、それを踏まえると前方後円墳の存在は単に大和政権の勢力に与したというより、畿内の土木工事技術を受け入れた(畿内式の土砂集積方法を取った)ようにも思える。
    出雲に在来の土木技術の技術者が多くいたから、畿内式の土木技術が広まらなかったみたいな。

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon 2 месяца назад +1

    古墳時代の初期には千葉県でも纒向型前方後円墳が登場しますので、弥生時代の終わり頃までには南関東まで瀬戸内や畿内勢力の影響力があった事が伺えますね。

  • @user-pk2yx5jv7j
    @user-pk2yx5jv7j 2 месяца назад +1

    今治と泉州のタオルは10年使い続けても全くほつれないし毛ボコリも立たないしほんと神

  • @user-mh8bf7md5i
    @user-mh8bf7md5i 2 месяца назад +1

    以前紹介されたピラミッドの謎同様、水運の発展した当時は、方角を示すランドマークの一つとしての役割もあったのでしょうね。

  • @nagino_matasaburo
    @nagino_matasaburo 2 месяца назад +6

    岡山には「古墳の大きさランキング」第四位の造山古墳と第十位の作山古墳がありますが、どちらも読みは"つくりやま"ですね。築造時期も現存する場所も、まあ割りと近い感じなんですが、ネーミングはもうちょっとなんとかならなかったんでしょうかね🤔

    • @shou-sho
      @shou-sho 2 месяца назад +2

      まあどうせ「ゾウザン」「サクザン」って言ってるので… 
      「丸山古墳」「車塚古墳」「大塚古墳」「稲荷山古墳」「愛宕山古墳」なんかも同一地域に複数あるのが珍しくないので、資料読んでて「どれやねんっ」となることがよくあります

  • @reizoukoreizouko
    @reizoukoreizouko 2 месяца назад +1

    今治のタオル、しっかりしてて使いやすい。

  • @user-qx5ww1sj9u
    @user-qx5ww1sj9u 2 месяца назад +1

    古墳と言や俺の実家近くにある神社の敷地内にも古墳(確か)があるなあ🙄
    何でも垂仁天皇の皇子の御陵らしいけど実際その神社の管轄って寺社庁じゃなく宮内庁が管轄してるし🤔

  • @sean2540
    @sean2540 Месяц назад

    古墳は畿内発祥なのでしょうか。纏向型古墳というのは形態だけを見れば北は山形県庄内地区、南は鹿児島県まで存在します。畿内地区以外発掘調査がすすんでいないので詳細は不明ですが、前方部が短くバチ型に開くと思われる古墳は九州地方がダントツに多く、宮崎県日向市、延岡市、高鍋町、西都市、宮崎市にも多数見られます。宮崎県だけでも畿内地区を遙かに凌駕する量です。これは何を物語るのでしょうか。ちなみに宮崎県にはバチ型前方部を持つ古墳以外にも、細くて台形の短い前方部を持つ古墳、細くて方形の短い前方部を持つ古墳、細くて方形の長大な前方部を持つ柄鏡型古墳、など初期古墳のバリエーションが豊富なのです。宮崎から古墳が日本中に広がっていった観があります。そして大和で巨大化します。まさに神武東征を見ているようです。

  • @user-hm3km3yd5g
    @user-hm3km3yd5g 2 месяца назад

    山陰地方は冬になると北風で雪雲が流れ込んで雪や曇りの日が多い。逆に言うとコメ作りで重要な稲の生育期間は南から来る雨雲が山地で遮られて梅雨が長引いたりしなければ晴れの日が続く。山陰は何となく暗いイメージがあるが平野部では治水が出来ていればたくさんのコメを栽培できただろう。古代の出雲が大勢力になった理由は、この辺りにあるのではないか?

  • @kyupytarou
    @kyupytarou 2 месяца назад +2

    古墳時代の始まりのお話ありがとうございます。
    そもそもお墓の名前を時代の総称にする文化って類を見ないですよね!
    古墳…関西の古墳ずいぶんと巡りました。石室に入ったり墳頂登って見渡しては支配者の気分味わったり。
    お墓ですけどちっとも怖くないのはなぜでしょうね?墓地なんかは怖くてウロチョロしませんよね!
    弥生時代と古墳時代の境目に興味深々です。
    文化や信仰の変わり目と捉えています。
    さらに食糧事情の変化があったと考えます。
    弥生時代に始まったとされる稲作がこの頃に拡大し覇権の原動力となり氏族間の争いの一因ではなかったか…土木工事の革新的技術により稲作の作付け面積が人口と比例し勢力の格差を生み淘汰されていったのではなかったか…武力の行使より明確な支配構造を形成したのではなかったか…
    あはっ!妄想です。

  • @岡村浩司
    @岡村浩司 2 месяца назад +1

    日向の西都原古墳群は、大和朝廷の大事な同盟国の解釈で良いのだろうか?

    • @user-dy2qh3xo9k
      @user-dy2qh3xo9k 2 месяца назад

      景行天皇の「日向巡幸」に伴う在地豪族からの複数の娘の「景行妃」や、応神・仁徳両天皇の日向出自の「応神妃」「仁徳妃」伝承こそ、それを示唆する男狭穂・女狭穂の超大型古墳の存在です。現・大阪府下の「日下」も、これに由来する地名
      (仁徳の皇子「大日下王」)。

  • @YO-high
    @YO-high 2 месяца назад +3

    経済が国を纏めるって「モンゴル帝国」もそうでしたよね。流通が経済を回すってこと。以前ここでその動画をみたことがあります。
    概ね、この認識でよいかと存じます。
    大きな古墳があるということは、それだけ国力があったってこと。河内にある古墳群をみればその強大さはわかる。同じように関東でも前方後円墳は多いんだがな。
    個人的にはだが、大和王権は連合国家であり、連合に「参加」したところに前方後円墳が作られてるんじゃなかろうか。
    「国造」がモザイク状に日本列島に点在するんだけれど、これって「面」による武力制圧ではなく、文字通り「点」だから、連合国家に「参加」じゃないかなぁ?
    面白かったです。

    • @hiron114
      @hiron114 2 месяца назад

      そもそも、山や谷だらけの日本で、古代での征服事業は難しいのでは?

  • @tn1881
    @tn1881 2 месяца назад

    信仰している神がそのままで多神教だから融和的統一ではあったとか

  • @user-pg9lv7eh9s
    @user-pg9lv7eh9s 2 месяца назад +1

    気のせいかもしれないですけど、AIの作る日本の画像って中華色がついている様な感じなんですけどね。

  • @masamasaict7312
    @masamasaict7312 2 месяца назад +1

    もちろん西日本は大事だけど、東日本も見ないと。

  • @shou-sho
    @shou-sho 2 месяца назад

    丹波道主命が山陰に到達していないのは、四道将軍が征討した地域はヤマト王権に逆らう不届き者という認識であって、出雲神話が『古事記』に取り込まれたように山陰とヤマトはすでに友好的な関係だったからでしょう。
    そもそも四道将軍伝承は3~4世紀の歴史的事実を語ったものではなく、6~7世紀の政治情勢の反映なので、今回の話とは別に関係ないと思いますが。