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わかりやすく説明していただき、さらに興味が出てきました。次回楽しみにしています。
大変興味深いお話をありがとうございました。
考古マニア垂涎の動画ですね。非常に興味深い内容です!
とても分かりやすく、興味深いお話でした。第一回とこの第二回と、続けて見させて頂きました。次もとても楽しみです。
楽しみに待っていました!これからも続けていただきたいです
とてもわかりやすく、興味深い内容でした!ありがとうございます!
高校生のときこの装飾古墳に入って見ました、校庭のそばにあり何時もその道を学校の行き帰りにとうって
続きです、装飾古墳の傍を通っていました
とても興味深いお話なのですが、核心部分の、死者と生者の断絶を強調することで、亡くなった豪族たちの系譜の中心に大王が位置づけられる、という理屈がいまいちよくわからないのですが、どなたかわかる方教えて頂けないでしょか??
博物館の展示のシーンで壁画がありますが、三角縁神獣鏡を紐で吊していたシーンでしょうか。現代の鳥よけにCDを吊るすような飾り方だったんですかね。
誰かが意図的に隠したか壊したってあり得ますかね?熊本のトンカラリンの謎、この国の古墳の謎全部解きたいですね。
ロマン、ロマン、何処からでものイリュージョン且つ、イマジネーション。真実は難い
「死を穢れたものとする死生観」が近畿地方で主流となったならば、追葬できる横穴式石室とする必要はあるのでしょうか?
今から1500年前、継体朝の頃、日本神話の始祖伝説がつくられたとは興味深いお話です。昔は継体天皇と教わりましたからまだ耳慣れませんが、天皇の称号はまだ存在しない時代だから継体大王と呼ぶ方が適切ですね。福岡県宮若市の竹原古墳ですが、私見では後室奥の壁画のさしばの間に描かれた武人の顔や龍のような動物の朱点は北天の星を表わすようです。人物の顔が重要でこれが北極星です。龍が口から吐く炎と龍の頭の朱点の延長に武人の顔があります。この炎と体の逆W字形の朱点は北斗七星です。今の北斗七星と違って動物の首から上が升の形をしていないのは1500年前の星座の形だからです。人物が抑えている馬は北極星(こぐま座α)と北斗七星の位置関係からこぐま座です。馬の体の後半身にある朱点がこぐま座βの2等星にあたります。馬は武人が抑えていますから、日周運動で周囲をぐるぐる回るばかりです。このような武人や動物の下に描かれた波文は海の上の景色、すなわち北天であることを示します。波の向きは中央で左右に分かれます。なぜでしょう。さしばを持った女官の顔が波文に変化していったように感じます。
黄泉の国神話の創作者の想像力には恐れ入る。着想の原点は何だったろうか?
浪漫ですなーー
これを国立博物館で生で説明を受けたい。。
どちらかというと、この時期に中国の葬送儀礼が流入してきたからではないか?と思えます。中国の墓では死後も日常的な生活をおくれるように副葬品にも炊事器などが選ばれていたので、そういうものと黄泉下り神話が結びついて石室を黄泉に見立てるようになったのでは。黄泉下り神話は明らかに洞窟を想定されているような箇所がいくつもあるので、このときに作られたというよりは、はるか昔は洞窟内を葬送の場としていた記憶の名残ではないでしょうか。
とても興味深かったのですが、結局、どっちなんですか? (^_^;)ローカルってことですか?それとも近畿風の死生観が広まる以前のもの、つまり時期的なものってことですか?でも、だとすれば、死生観の普及以前には近畿圏にも装飾古墳が多く存在していたということですか?少なくとも僕の中では、九州に多いのはなぜか? という疑問は解消されてません。…何しろ「え〜」が多くて、入ってこないのよ。 >_
歴史ロマンですねーただ、仮説にはあまり説得力を感じませんでした。
推測にすぎないので違いありませんというのはどうかなと思う。
継体天皇が日本神話を作ったと言うことでしょうか?
エー ばかりが耳について中身全く頭に入らず。研究者はよき解説者、教育者ではないという学生時代の感慨を再体験した
エーぐらいいじゃないですか~それ以外の言葉に耳を傾ければ〜
わかりやすく説明していただき、さらに興味が出てきました。次回楽しみにしています。
大変興味深いお話をありがとうございました。
考古マニア垂涎の動画ですね。非常に興味深い内容です!
とても分かりやすく、興味深いお話でした。第一回とこの第二回と、続けて見させて頂きました。次もとても楽しみです。
楽しみに待っていました!これからも続けていただきたいです
とてもわかりやすく、興味深い内容でした!ありがとうございます!
高校生のときこの装飾古墳に入って見ました、校庭のそばにあり何時もその道を学校の行き帰りにとうって
続きです、装飾古墳の傍を通っていました
とても興味深いお話なのですが、核心部分の、死者と生者の断絶を強調することで、亡くなった豪族たちの系譜の中心に大王が位置づけられる、という理屈がいまいちよくわからないのですが、どなたかわかる方教えて頂けないでしょか??
博物館の展示のシーンで壁画がありますが、三角縁神獣鏡を紐で吊していたシーンでしょうか。
現代の鳥よけにCDを吊るすような飾り方だったんですかね。
誰かが意図的に隠したか壊したってあり得ますかね?
熊本のトンカラリンの謎、この国の古墳の謎全部解きたいですね。
ロマン、ロマン、何処からでものイリュージョン且つ、イマジネーション。真実は難い
「死を穢れたものとする死生観」が近畿地方で主流となったならば、追葬できる横穴式石室とする必要はあるのでしょうか?
今から1500年前、継体朝の頃、日本神話の始祖伝説がつくられたとは興味深いお話です。
昔は継体天皇と教わりましたからまだ耳慣れませんが、天皇の称号はまだ存在しない時代だから継体大王と呼ぶ方が適切ですね。
福岡県宮若市の竹原古墳ですが、私見では後室奥の壁画のさしばの間に描かれた武人の顔や龍のような動物の朱点は北天の星を表わすようです。
人物の顔が重要でこれが北極星です。龍が口から吐く炎と龍の頭の朱点の延長に武人の顔があります。
この炎と体の逆W字形の朱点は北斗七星です。今の北斗七星と違って動物の首から上が升の形をしていないのは1500年前の星座の形だからです。
人物が抑えている馬は北極星(こぐま座α)と北斗七星の位置関係からこぐま座です。馬の体の後半身にある朱点がこぐま座βの2等星にあたります。
馬は武人が抑えていますから、日周運動で周囲をぐるぐる回るばかりです。
このような武人や動物の下に描かれた波文は海の上の景色、すなわち北天であることを示します。
波の向きは中央で左右に分かれます。なぜでしょう。さしばを持った女官の顔が波文に変化していったように感じます。
黄泉の国神話の創作者の想像力には恐れ入る。着想の原点は何だったろうか?
浪漫ですなーー
これを国立博物館で生で説明を受けたい。。
どちらかというと、この時期に中国の葬送儀礼が流入してきたからではないか?と思えます。中国の墓では死後も日常的な生活をおくれるように副葬品にも炊事器などが選ばれていたので、そういうものと黄泉下り神話が結びついて石室を黄泉に見立てるようになったのでは。
黄泉下り神話は明らかに洞窟を想定されているような箇所がいくつもあるので、このときに作られたというよりは、はるか昔は洞窟内を葬送の場としていた記憶の名残ではないでしょうか。
とても興味深かったのですが、結局、どっちなんですか? (^_^;)
ローカルってことですか?
それとも近畿風の死生観が広まる以前のもの、つまり時期的なものってことですか?
でも、だとすれば、死生観の普及以前には近畿圏にも装飾古墳が多く存在していたということですか?
少なくとも僕の中では、九州に多いのはなぜか? という疑問は解消されてません。
…何しろ「え〜」が多くて、入ってこないのよ。 >_
歴史ロマンですねー
ただ、仮説にはあまり説得力を感じませんでした。
推測にすぎないので違いありませんというのはどうかなと思う。
継体天皇が日本神話を作ったと言うことでしょうか?
エー ばかりが耳について中身全く頭に入らず。研究者はよき解説者、教育者ではないという学生時代の感慨を再体験した
エーぐらいいじゃないですか~
それ以外の言葉に耳を傾ければ〜