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本当あなたのゆっくりたちのやり取りのテンポ、性格がとても好きです。散歩しているときにラジオのように聞いています。
いつも興味深い歴史動画をありがとうございます。御三家と御三卿の違い、分かりやすかったです。私は学生時代、世界史を履修していたのですが、日本史も奥深く面白いですね。
こうゆうネタ、大好物です。ありがとうございます!
こんにちは。 テスト勉強の参考にさせていただいております。よく分かっていなかった単語も理解できるようになりました。助かってます。ありがとうございます。
ここまで来ると附家老や吉川家、本多家家臣河合家みたいに大名家臣でもあり幕臣でもある複雑な家にも焦点当てて欲しいですね
森藩久留島家は一万五千石だったが、次男が参勤交代途中に船が難破して死亡する惨事にあい、家を守る為に三男に一千石、四男に五百石分けて分家させ徳川家の旗本にしてる。
とてもいい動画、ありがとうございます
サムネに出ている右側の八角形(正しくは隅切り角)に三つ葉葵の紋は紀州藩の分家“伊予西条藩”の紋で「西条三つ葵」と言う紋です!
16:24重箱の隅を突くようですが、家光の三男、綱重は将軍になっていませんよね。将軍になったのは息子の綱豊。
綱重は、甲府藩の城主ですね
網重は二男、三男は早死しています
御両典。甲府宰相。
御三卿はスーパー部屋住み。慶喜が後見職になったこと自体異例。幕末はありえないことばかり起きるから。
吉宗が、末っ子生まれ、死ねまで分家しょうと思ったら、兄二人亡くなり、分家の本家格上げ。吉宗「え?」そして、本番の本家の将軍へ格上げされた。吉宗「えええー?」
一橋や田安は御三卿というのですね。勉強になりました。
農民だって兄弟それぞれに田畑を分けたら共倒れするからこそ「田分者」なんて言葉があるわけで、大名でもむやみに分家すれば同じ事になるのは判っているはず。それでも血筋維持のために分家を作り領地や収入を分けるとは、それほど切実だったんでしょうね。現に無嗣断絶は60藩を超えますが、その多くは5万石以下の小大名ばかり。余裕の無い藩は厳しいですね。
映像もセンスを感じる
吉宗が名君として語り継がれるのは御三卿制度つくって子孫が持ち上げたからで実は暗君って話もあったりして・・・
毎回動画の背景になってるのどかな風景が気になる。
家斉「御三卿や御三家で将軍後継を争うのはうんざりだから、血のストックたくさん作らなきゃ!」
七日市前田家は分家では無く別家。江戸で人質生活のお小遣いとして、幕府から2千人扶持、前田家から一千扶持渡されてた。大阪夏の陣で本多正純に従い武功を立て幕府より上州七日市一万五十八石で立藩。家臣は数名しか居なかったので加賀本家から家老、小姓頭、徒頭、用人、代官等派遣されてる。
今でも田舎に行くほど本家・分家ってのが話題になりますね。新参者は相関が不明で苦労します・・・
ウチはでかい仏壇があって親戚が盆や正月に集まってたけど本家だったんやな
父方の家は本家だけど親戚が殆どいなくて家名自体が滅亡寸前になってる。誰か本家らしい本家の人いないかな?
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。私の所はは本家ではなく、母屋と言いますね。
昔の表現で一戸建てを買って「これで俺も一国一城の主」というセリフがあるんだけど、一族の長という事はそこには一族が集まる施設というか集まることができるプランが必要なんだよね。郵便受けに入れられる住宅チラシの間取りを見るたびに「一族」とか「一門」とかいう概念が過去の遺物になっていくのを感じます。
昔の家は障子を外したら広い部屋になったけど、今は壁で小分けした部屋ばっかりになったよね。
@@kamakura-wm8jk そこに加えて、自分たちの決断を先祖代々に見せるための「表」と私生活の場としての「奥」の概念があるのです。仏壇、御霊の設置場所が予定された物件なんて見たことがない。
分家がなかったために大幅に石高を減らされたのが、米沢藩・上杉家です。分家を作れなかった理由が、初代景勝=男子一人、二代定勝=男女一人づつ、三代綱勝=実子がないまま27歳で急死、という有り様だったからです。四代綱憲は先代の妹の子であり、綱勝の舅だった保科正之のとりなしにより家名が存続された代わりに石高が半減されました。綱憲以降は、男子がそれなりに生まれたおかげで、分家・米沢新田藩を創設するなどして、血脈は現在まで保たれています。
従兄弟ですらあんまり会わないのにひいひい爺さんの兄弟の子孫とか感覚的には赤の他人だわな。戦国時代には一番よく裏切ったのは外様の家臣よりも一族だったと言われてるし血の結束って言ってもやはり個人間の親密さに依拠するよな。信長なんて前半生はほとんど同族と戦ってたし。ヨーロッパだとルーマニア王家はドイツ皇帝の一族なのにWW1では協商国で参戦して家系図から消されてしまったエピソードは好き。
子が多すぎると」それはそれで跡目、財産相続でもめる原因になるし、少ないと当時の医学の水準では絶滅する恐れがある。生産調整が難しい。親の願いと人間の欲望・・永遠(当分)に解決できないのだろうな・・。
御三家と何が違うのかモヤモヤしてたけど、なるほどー!
なるほど、江戸前期と比較すれば御三卿創設も仕方がなかったと言えるのか……僕は、御三卿は吉宗の尾張締め出し作戦だと思ってました。将軍家を継げるのが、「紀州:尾張=4:1」になるようにして、尾張から極力将軍など出ないようにするため、言わば吉宗のエゴだろうと。しかもそのエゴから一橋治済という化け物がうまれて幕府が滅んだから、経済政策とともに吉宗の失政の一つと見ていました。それにしても分家にも色々あるのが分かって驚きました( ゚д゚ )
マッツー2 結局、吉宗以降、全て紀州の血統だよなぁ⁉️
うちは分家筋ですが本家がしっかりしてくれたら良いですが、経済的にも大変そうだから、ある意味、本家にしがらみを押し付けてきたかなと。何も相続しない方が自由で楽してる部分もあって、私も親戚付き合いは自分の兄弟で終わらせるつもり。
ところがどっこい、今でも本家の長男様様気質は抜けず、遺産は長男の家だけで占有し、次男以降には相続放棄をほぼ強制させるような家も残ってます
遺留分を寄越せと言われたら拒否出来んで。
うちもそんな感じやぁ…本家には絶対逆らえん家系だから大変。だけど、進路関係で親(分家)と揉めた時に本家筋の一人を味方につけておいたから、親も俺の進路を認めざるおえなくなった
なるほど
大奥まであって何故宗家が途絶えるのか不思議だわ
みんなが早死にするから子供産む前に
血が濃いから早く死んだり、変なのが生まれたりするからだよ。
当時の化粧の影響だよ。鉛の粉を顔にまぶしている。これじゃ、子供はまともに育たない。
@@wawiuwewo そういう意味では、大奥のせいで将軍の血筋が絶えたのかもしれない一方で、将軍家斉、水戸斉昭、伏見宮邦家親王など、子沢山の世代でつり合いが取れている。
殺し合いがあるからな。毒殺な。それに明治くらいまで、2人のうち1人しか大人になってない。
三つ葉葵紋は御三家及び御家門のみ。十八松平は、遠慮して陰紋使ってる。因みに徳川将軍家は葵の表葉三枚。尾張は表葉二枚裏葉一枚、紀州は表葉一枚裏葉二枚、水戸は裏葉三枚となる。因みに分家一番多いのが水戸家。高松松平、宍戸、等併せると何と十八万石。水戸三十五万石と足すと五十万石超える。しかも、参勤交代無しの江戸定府なのでかなり恵まれてた。
ちなみに、越前松平家は八家ある。福井(本家)三十二万石、津山(嫡家)十万石松江十八万石(内分分家の広瀬、母里を含む)、川越(前橋)十七万石、明石八万石糸魚川一万石。総石高八十六万石に及ぶ。
@@ノブトラ越前は一度嫡流が途絶えてから残った福井と津山が本家筋を相争う関係になったんですよね
@@讃岐国造竹取翁 その通りです。福井が本家、津山が嫡家という考えもあるようです。
大名同士の縁組は幕府の審査&許可が必要だったと言うけれど、大名とその血を残すためにつくられた支藩との間の縁組は許可が下りやすかったのかな?
分家じゃないけど伊予にある藩は島津家から養子入り多いけど島津家から他の大名にも養子入り有るのかな?
もしかして: × 気薄 〇 希薄(きはく)
魔理沙のそうだよなの相槌率www
有力大名は支藩や分家を作っているな有名どころは忠臣蔵で知られる広島藩の分家だった赤穂藩とか
本家、分家の話だと江戸柳生と尾張柳生の話を思い出すな
マイナーかもしれないけど、銀納義民についてやってほしい
御三家といっても、水戸藩からは将軍をだしてはいけない決まりだったと聞きました。従って、家格としては、尾張藩、紀州藩より格下ということです。慶喜は、一ツ橋へ養子にでた立場なので将軍なれたとの認識ですがどうでしょうか?
水戸藩から出してはいけないという規定があったわけではありませんが、他の御三家と立場が少し違うため将軍候補に推し難い所はあります。そもそも御三卿の成立まで将軍家の断絶の場合の規定はなかったのです。
将軍を出してはいけないというよりか水戸家は中納言で、尾張や紀州より家格が下だったからというところでしょう。
大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのナレーションでは江戸時代の御三家は将軍家、尾張家、紀州家を指しているものと語っていました。慶喜が将軍になった時は兄は水戸藩主だったりと何でもありのグダグダの状態だった気がします。
さっき明治の鉄道事情動画が上がってたような気が
肥前五島藩は四代目が幼少だったので、叔父が後見してた。家臣で後見はまずいと幕府から三千石分家を命じられた。幕末に徳川将軍家の孫を婿に迎えたから出世街道爆進します。大目付、御側衆、巡検使とね。足し高だけで軽く一万石超えてた。(富江藩)と呼ばれてた。陸奥南部家二十万石の別家は八戸藩。二万石だが幕末に薩摩藩から婿養子を取ったから出世街道爆進する。将軍の嫁さんの親戚だから本来は従五位下柳の間なのに従四位下侍従となり大広間詰めに出世。(本家と同じ)
長州藩内の岩国藩も長州藩内の藩ナンだよね🎉長州藩は毛利氏、岩国藩は吉川氏。本当は家康公は防長藩2ヶ国を吉川氏に与える予定だったけど毛利本家の存続の為、吉川氏が家康に願い出て防長2藩は毛利氏の所領に成ったんだダヨ🤔毛利輝元は吉川広家に周防国約1/3の岩国周辺を広家に藩内、藩として与えたんだよ😅まあ、関ヶ原で毛利氏が本気で家康と戦ってたら毛利100万石は維持できてたんだけどね(笑)
御三家は徳川将軍家の家臣だから参覲交代がある、御三卿や御両典は将軍家家族なので参覲交代がないので御三家より格上とされます御三家末席の水戸徳川家は御三卿、御両典より席次も下になります
徳川初期の段階での御三家は『江戸尾張水戸』で御三家やったって説も有るけど。正式に江戸を宗家として別格にして水戸を入れた時期はいつなんやろ?
伊達政宗は長男が秀吉の人質で家を継げなかったから次男に伊達家を継がせて長男は伊予宇和島藩主に。
付け加えれば、豊臣伊達秀宗は妾腹の子。遅れて生まれた嫡男が正当とされた。太閤秀吉の命令次第では、秀宗が先に家を継いでいたかもしれない。
@@ib4950 秀吉によって家督を約束されていたらしい。ところが、徳川の世になって豊臣と関係の深い秀宗では都合が悪い。そのため、次男で正妻の子である忠宗を跡継ぎにした。でも秀宗が浮いてしまうので、政宗は幕府に「秀宗をしかるべき大名に取り立てろ」と要求。そのためか、宇和島藩の家格は10万石の割には高い。従四下→30歳代で侍従(後に少将)参考:富山前田家(加賀藩の分家で10万石)従五位下→従四位下→侍従
ノブトラ 政宗は自分が幕府に話したんだから宇和島藩の半分は自分の物と難癖付けて死ぬまで宇和島藩の半分5万石近くを納めさせてた。ケチな政宗
@@ノブトラ おそらく関ヶ原の前に家康と交わした「百万石のお墨付き」を反故にされたから、その代替として「秀宗をしかるべき大名に取り立ててくれ」と家康に直訴したのでは?
広島藩が本家、赤穂藩が分家とされていますが、実際は分家かなと思う感じがしますね。
赤穂藩浅野家は、長政の三男・長重が父の隠居料として与えられた常陸真壁5万石を継承したのが始まりなので、厳密にいえば広島藩とは独立した大名家です。これは上野七日市藩・前田家、常陸谷田部藩・細川家も同様です。
別家ってやつかな?
浅野家は安芸広島藩 本家備後三次藩 広島藩の内部分地播磨赤穂藩 分家分地(浅野長政隠居料を三男が相続し、この家系が転封を重ね赤穂へ)だそうな。越前松平家は血統的には津山の方が宗家福井藩は結城秀康の次男・忠昌の系統津山藩は結城秀康の長男・忠直の系統忠直の系統は、不行状にお家騒動で石高を減らされてしまった。お気の毒です。
血統を残すためだけに存在する一族ってなんかエロゲみたいだな
復習でしたね。本家の分毛筋の宇和島藩は西隣で、瀬戸大橋をおっ建てる迄は、本州に出るには、高松市に行かざるを得なかったからね。
しかしいかに家康さんは偉大でした。
御三卿、へぇぇ。参勤交代もなくて子供だけ作って10万石ももらえたのね
私は武田信玄の分家だと思います。陰武田菱です。まあご親戚だからいいですよね。ずっと、家紋が微妙に違うって思っていました。陰、中陰の家紋が分家だってわかった。そう考えると、日本中にいっぱいご親戚居ると思う。
幕末時点で水戸家だけは吉宗、一橋の血を受けてなかったからそれだけ斉昭他プライドがあった話は聞いたことあるな。実際それが逆作用に動いた感はあるが。
うちは本家が途絶えたからうちが本家になったなぁー(他人事)笑笑
高松藩 狭山藩 久保田藩をやって欲しい。
御両典は?
元々は、一族の始祖を神として祀ったから、長男を直系とし、神の子孫とされたそうですね。次男以下を傍系として、長男(つまり本家)には逆らえなかったらしい。
古代中国、周の宗法制みたいですね。
いつも徳川将軍家相続に関して説明不足な気がする。将軍家の分家として甲府藩があります。基本的に将軍直系が断絶の場合この藩から出してきました。しかし、この藩からも出せない事態が発生したのが徳川家継の死去の時です。この時将軍有力な候補は親王を将軍にする案でした。(綱吉が将軍になる前もこの案が有力でした)結局は吉宗が将軍になりましたが、この事態を勘案して御三卿(吉宗が成立させたのは田安家と一橋家だけですが)を成立させたと考えられます。実際、御三卿の知行地の主要部分は甲州にあります。
久松松平家は何故自身の姓をと思いますね。
自分は分家ですね4代目の分家誰が聞いたかってw
細かい事ですが徳川宗尹は第四子だと思いますが。
郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎が御三卿と呼ばれなかったのが解せません……
ウチは 本家 分家 井持 先生 川辺 隠居 ・・・ 他にもごちゃごちゃ沢山あったなぁ。顔合わせても覚えきれんかったw
最近ゆっくり系の動画が苦戦と聞いてます?頑張って欲しい所です。
網重は将軍になっていないよ
広告収入貯まったらリアルガチで動画作ってください、五分で分かる的なやつ。本家分家親戚一同でお家騒動とかw
いらすとやのストーブじゃねえか!
言ってみればニートね!笑
身バレ覚悟でw 私の父方、母方、特に父方は結構な旧家で、日本人ならば誰もが知っている人物とルーツが同じだったり、直接血縁やら縁戚関係やら主従関係があったりしますw なかには平安時代や鎌倉時代あたりから「ほんまかいな?w」という話が伝わっていたりもしますw興味深いのは、家紋のデザインについても、この動画のサムネのように本家のみ使用が許されるものがあったりします。父方の一族の結束の強さは、近所でも評判です。先年亡くなった父方の祖母も旧家の出身で昔気質の人だったことや、大叔父(祖父の末弟)夫婦がワン◯ースに登場するような、メチャ元気な高齢者ということもあるでしょうねw
別にいいんじゃないの?
全然分からないから大丈夫😃
ワンピースつまり作者
本家滅んだんだけど
宇和島藩は四国だから分家じゃなく別物になるのかな?
幕府から領地を与えられているから、別家というのが正しい。実際にこの事で本家と対立し、老中が仲裁に入っている。宇和島の言い分:うちは別家で、末家(分家)ではない仙台の言い分:いや、末家だ解決策:仙台は宇和島を末家とみなすが、宇和島は別家だと本家に対して主張出来る。
これって、本家ですか?正月に一族が集まる曽祖父が、地元の病院の院長(墓もでかくて、院って文字が入っている)土地はそんな広くない。祖父、祖母は教員
知らんがな。せめて菩提寺とかに聞きなさい。
あなたにつながる所まで長男の父が続いてるかが重要。
Yubari/ Umino 戸籍を調べてみたらいいかと
この話でいうと、富山藩、大聖寺藩は参勤交代はなかったってこと?田安家はどんどん養子に出されて、当主は2代目で早々に若死に。他家に養子に行ったものが復帰するわけでもなく、いとも簡単に乗っ取られたんだっけ。一橋治斉だっけ、彼の存在が一橋突出になるわけだけど、度の大名もそうだけど、徳川の江戸中期以降は若死にが多い気がする。。
城地を与えられた大名は定められた大名を除いて参勤交代必須です。新田大名は城地が無いため在府大名でしたが、明治維新で政府より城地を定めるよう通知が有りました。このため、新田藩も廃藩置県までの短期間に本藩領土内に陣屋を作ることになります
ちなみに、一橋家は初代宗尹の嫡男重昌(母は正妻)が越前松平の養子に。しかし、重昌が16歳で早世したので、一橋家嫡男となっていた弟重富が越前家を継いだ。その結果、一橋家を継いだのは四男の治済(重富の同母弟)。一橋家よりも越前家が優先されている事が分かる。この事から御三卿は幕府の部屋住みだったとも言われている。
なぜ雪国での雪降ろしはいまだ自己責任なんですかね?災害なのだから公が、国が対処すべきです。
本当あなたのゆっくりたちのやり取りのテンポ、性格がとても好きです。
散歩しているときにラジオのように聞いています。
いつも興味深い歴史動画をありがとうございます。
御三家と御三卿の違い、分かりやすかったです。私は学生時代、世界史を履修していたのですが、日本史も奥深く面白いですね。
こうゆうネタ、大好物です。ありがとうございます!
こんにちは。 テスト勉強の参考にさせていただいております。よく分かっていなかった単語も理解できるようになりました。助かってます。ありがとうございます。
ここまで来ると附家老や吉川家、本多家家臣河合家みたいに大名家臣でもあり幕臣でもある複雑な家にも焦点当てて欲しいですね
森藩久留島家は一万五千石だったが、次男が参勤交代途中に船が難破して死亡する惨事にあい、家を守る為に三男に一千石、四男に五百石分けて分家させ徳川家の旗本にしてる。
とてもいい動画、ありがとうございます
サムネに出ている右側の八角形(正しくは隅切り角)に三つ葉葵の紋は紀州藩の分家“伊予西条藩”の紋で「西条三つ葵」と言う紋です!
16:24重箱の隅を突くようですが、家光の三男、綱重は将軍になっていませんよね。将軍になったのは息子の綱豊。
綱重は、甲府藩の城主ですね
網重は二男、三男は早死しています
御両典。甲府宰相。
御三卿はスーパー部屋住み。慶喜が後見職になったこと自体異例。幕末はありえない
ことばかり起きるから。
吉宗が、末っ子生まれ、死ねまで分家しょうと思ったら、兄二人亡くなり、分家の本家格上げ。吉宗「え?」
そして、本番の本家の将軍へ格上げされた。吉宗「えええー?」
一橋や田安は御三卿というのですね。勉強になりました。
農民だって兄弟それぞれに田畑を分けたら共倒れするからこそ「田分者」なんて言葉があるわけで、大名でもむやみに分家すれば同じ事になるのは判っているはず。それでも血筋維持のために分家を作り領地や収入を分けるとは、それほど切実だったんでしょうね。現に無嗣断絶は60藩を超えますが、その多くは5万石以下の小大名ばかり。余裕の無い藩は厳しいですね。
映像もセンスを感じる
吉宗が名君として語り継がれるのは御三卿制度つくって子孫が持ち上げたからで
実は暗君って話もあったりして・・・
毎回動画の背景になってるのどかな風景が気になる。
家斉「御三卿や御三家で将軍後継を争うのはうんざりだから、血のストックたくさん作らなきゃ!」
七日市前田家は分家では無く別家。江戸で人質生活のお小遣いとして、幕府から2千人扶持、前田家から一千扶持渡されてた。大阪夏の陣で本多正純に従い武功を立て幕府より上州七日市一万五十八石で立藩。家臣は数名しか居なかったので加賀本家から家老、小姓頭、徒頭、用人、代官等派遣されてる。
今でも田舎に行くほど本家・分家ってのが話題になりますね。新参者は相関が不明で苦労します・・・
ウチはでかい仏壇があって親戚が盆や正月に集まってたけど本家だったんやな
父方の家は本家だけど親戚が殆どいなくて家名自体が滅亡寸前になってる。
誰か本家らしい本家の人いないかな?
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。
私の所はは本家ではなく、母屋と言いますね。
昔の表現で一戸建てを買って「これで俺も一国一城の主」というセリフがあるんだけど、一族の長という事はそこには一族が集まる施設というか集まることができるプランが必要なんだよね。郵便受けに入れられる住宅チラシの間取りを見るたびに「一族」とか「一門」とかいう概念が過去の遺物になっていくのを感じます。
昔の家は障子を外したら広い部屋になったけど、今は壁で小分けした部屋ばっかりになったよね。
@@kamakura-wm8jk そこに加えて、自分たちの決断を先祖代々に見せるための「表」と私生活の場としての「奥」の概念があるのです。仏壇、御霊の設置場所が予定された物件なんて見たことがない。
分家がなかったために大幅に石高を減らされたのが、米沢藩・上杉家です。分家を作れなかった理由が、初代景勝=男子一人、二代定勝=男女一人づつ、三代綱勝=実子がないまま27歳で急死、という有り様だったからです。
四代綱憲は先代の妹の子であり、綱勝の舅だった保科正之のとりなしにより家名が存続された代わりに石高が半減されました。
綱憲以降は、男子がそれなりに生まれたおかげで、分家・米沢新田藩を創設するなどして、血脈は現在まで保たれています。
従兄弟ですらあんまり会わないのにひいひい爺さんの兄弟の子孫とか感覚的には赤の他人だわな。
戦国時代には一番よく裏切ったのは外様の家臣よりも一族だったと言われてるし血の結束って言ってもやはり個人間の親密さに依拠するよな。信長なんて前半生はほとんど同族と戦ってたし。
ヨーロッパだとルーマニア王家はドイツ皇帝の一族なのにWW1では協商国で参戦して家系図から消されてしまったエピソードは好き。
子が多すぎると」それはそれで跡目、財産相続でもめる原因になるし、少ないと当時の医学の水準では絶滅する恐れがある。生産調整が難しい。親の願いと人間の欲望・・永遠(当分)に解決できないのだろうな・・。
御三家と何が違うのかモヤモヤしてたけど、なるほどー!
なるほど、江戸前期と比較すれば御三卿創設も仕方がなかったと言えるのか……
僕は、御三卿は吉宗の尾張締め出し作戦だと思ってました。将軍家を継げるのが、「紀州:尾張=4:1」になるようにして、尾張から極力将軍など出ないようにするため、言わば吉宗のエゴだろうと。しかもそのエゴから一橋治済という化け物がうまれて幕府が滅んだから、経済政策とともに吉宗の失政の一つと見ていました。
それにしても分家にも色々あるのが分かって驚きました( ゚д゚ )
マッツー2 結局、吉宗以降、全て紀州の血統だよなぁ⁉️
うちは分家筋ですが本家がしっかりしてくれたら良いですが、経済的にも大変そうだから、ある意味、本家にしがらみを押し付けてきたかなと。
何も相続しない方が自由で楽してる部分もあって、私も親戚付き合いは自分の兄弟で終わらせるつもり。
ところがどっこい、今でも本家の長男様様気質は抜けず、遺産は長男の家だけで占有し、次男以降には相続放棄をほぼ強制させるような家も残ってます
遺留分を寄越せと言われたら拒否出来んで。
うちもそんな感じやぁ…
本家には絶対逆らえん家系だから大変。だけど、進路関係で親(分家)と揉めた時に本家筋の一人を味方につけておいたから、親も俺の進路を認めざるおえなくなった
なるほど
大奥まであって何故宗家が途絶えるのか不思議だわ
みんなが早死にするから
子供産む前に
血が濃いから早く死んだり、変なのが生まれたりするからだよ。
当時の化粧の影響だよ。
鉛の粉を顔にまぶしている。
これじゃ、子供はまともに育たない。
@@wawiuwewo そういう意味では、大奥のせいで将軍の血筋が絶えたのかもしれない
一方で、将軍家斉、水戸斉昭、伏見宮邦家親王など、子沢山の世代でつり合いが取れている。
殺し合いがあるからな。毒殺な。
それに明治くらいまで、2人のうち1人しか大人になってない。
三つ葉葵紋は御三家及び御家門のみ。十八松平は、遠慮して陰紋使ってる。因みに徳川将軍家は葵の表葉三枚。尾張は表葉二枚裏葉一枚、紀州は表葉一枚裏葉二枚、水戸は裏葉三枚となる。因みに分家一番多いのが水戸家。高松松平、宍戸、等併せると何と十八万石。水戸三十五万石と足すと五十万石超える。しかも、参勤交代無しの江戸定府なのでかなり恵まれてた。
ちなみに、越前松平家は八家ある。福井(本家)三十二万石、津山(嫡家)十万石
松江十八万石(内分分家の広瀬、母里を含む)、川越(前橋)十七万石、明石八万石
糸魚川一万石。総石高八十六万石に及ぶ。
@@ノブトラ
越前は一度嫡流が途絶えてから残った福井と津山が本家筋を相争う関係になったんですよね
@@讃岐国造竹取翁 その通りです。
福井が本家、津山が嫡家という考えもあるようです。
大名同士の縁組は幕府の審査&許可が必要だったと言うけれど、大名とその血を残すためにつくられた支藩との間の縁組は許可が下りやすかったのかな?
分家じゃないけど伊予にある藩は島津家から養子入り多いけど島津家から他の大名にも養子入り有るのかな?
もしかして: × 気薄 〇 希薄(きはく)
魔理沙のそうだよなの相槌率www
有力大名は支藩や分家を作っているな
有名どころは忠臣蔵で知られる広島藩の分家だった赤穂藩とか
本家、分家の話だと江戸柳生と尾張柳生の話を思い出すな
マイナーかもしれないけど、銀納義民についてやってほしい
御三家といっても、水戸藩からは将軍をだしてはいけない決まりだったと聞きました。従って、家格としては、尾張藩、紀州藩より格下ということです。慶喜は、一ツ橋へ養子にでた立場なので将軍なれたとの認識ですがどうでしょうか?
水戸藩から出してはいけないという規定があったわけではありませんが、他の御三家と立場が少し違うため将軍候補に推し難い所はあります。
そもそも御三卿の成立まで将軍家の断絶の場合の規定はなかったのです。
将軍を出してはいけないというよりか水戸家は中納言で、尾張や紀州より家格が下だったからというところでしょう。
大河ドラマ「八代将軍吉宗」でのナレーションでは江戸時代の御三家は将軍家、尾張家、紀州家を指しているものと語っていました。
慶喜が将軍になった時は兄は水戸藩主だったりと何でもありのグダグダの状態だった気がします。
さっき明治の鉄道事情動画が上がってたような気が
肥前五島藩は四代目が幼少だったので、叔父が後見してた。家臣で後見はまずいと
幕府から三千石分家を命じられた。幕末に徳川将軍家の孫を婿に迎えたから出世街道爆進します。大目付、御側衆、巡検使とね。足し高だけで軽く一万石超えてた。(富江藩)と呼ばれてた。
陸奥南部家二十万石の別家は
八戸藩。二万石だが幕末に薩摩藩から婿養子を取ったから
出世街道爆進する。
将軍の嫁さんの親戚だから
本来は従五位下柳の間なのに
従四位下侍従となり大広間詰めに出世。(本家と同じ)
長州藩内の岩国藩も長州藩内の藩ナンだよね🎉長州藩は毛利氏、岩国藩は吉川氏。本当は家康公は防長藩2ヶ国を吉川氏に与える予定だったけど毛利本家の存続の為、吉川氏が家康に願い出て防長2藩は毛利氏の所領に成ったんだダヨ🤔毛利輝元は吉川広家に周防国約1/3の岩国周辺を広家に藩内、藩として与えたんだよ😅まあ、関ヶ原で毛利氏が本気で家康と戦ってたら毛利100万石は維持できてたんだけどね(笑)
御三家は徳川将軍家の家臣だから参覲交代がある、御三卿や御両典は将軍家家族なので参覲交代がないので御三家より格上とされます
御三家末席の水戸徳川家は御三卿、御両典より席次も下になります
徳川初期の段階での御三家は『江戸尾張水戸』で御三家やったって説も有るけど。正式に江戸を宗家として別格にして水戸を入れた時期はいつなんやろ?
伊達政宗は長男が秀吉の人質で家を継げなかったから
次男に伊達家を継がせて長男は伊予宇和島藩主に。
付け加えれば、豊臣伊達秀宗は妾腹の子。遅れて生まれた嫡男が正当とされた。
太閤秀吉の命令次第では、秀宗が先に家を継いでいたかもしれない。
@@ib4950 秀吉によって家督を約束されていたらしい。
ところが、徳川の世になって豊臣と関係の深い秀宗では都合が悪い。
そのため、次男で正妻の子である忠宗を跡継ぎにした。
でも秀宗が浮いてしまうので、政宗は幕府に「秀宗をしかるべき大名に取り立てろ」と要求。
そのためか、宇和島藩の家格は10万石の割には高い。
従四下→30歳代で侍従(後に少将)
参考:富山前田家(加賀藩の分家で10万石)
従五位下→従四位下→侍従
ノブトラ 政宗は自分が幕府に話したんだから宇和島藩の半分は自分の物と難癖付けて死ぬまで宇和島藩の半分5万石近くを納めさせてた。ケチな政宗
@@ノブトラ おそらく関ヶ原の前に家康と交わした「百万石のお墨付き」を反故にされたから、その代替として「秀宗をしかるべき大名に取り立ててくれ」と家康に直訴したのでは?
広島藩が本家、赤穂藩が分家とされていますが、実際は分家かなと思う感じがしますね。
赤穂藩浅野家は、長政の三男・長重が父の隠居料として与えられた常陸真壁5万石を継承したのが始まりなので、厳密にいえば広島藩とは独立した大名家です。これは上野七日市藩・前田家、常陸谷田部藩・細川家も同様です。
別家ってやつかな?
浅野家は
安芸広島藩 本家
備後三次藩 広島藩の内部分地
播磨赤穂藩 分家分地(浅野長政隠居料を三男が相続し、この家系が転封を重ね赤穂へ)
だそうな。
越前松平家は血統的には津山の方が宗家
福井藩は結城秀康の次男・忠昌の系統
津山藩は結城秀康の長男・忠直の系統
忠直の系統は、不行状にお家騒動で石高を減らされてしまった。
お気の毒です。
血統を残すためだけに存在する一族ってなんかエロゲみたいだな
復習でしたね。本家の分毛筋の宇和島藩は西隣で、瀬戸大橋をおっ建てる迄は、本州に出るには、高松市に行かざるを得なかったからね。
しかしいかに家康さんは偉大でした。
御三卿、へぇぇ。参勤交代もなくて子供だけ作って10万石ももらえたのね
私は武田信玄の分家だと思います。陰武田菱です。まあご親戚だからいいですよね。ずっと、家紋が微妙に違うって思っていました。陰、中陰の家紋が分家だってわかった。そう考えると、日本中にいっぱいご親戚居ると思う。
幕末時点で水戸家だけは吉宗、一橋の血を受けてなかったからそれだけ斉昭他プライドがあった話は聞いたことあるな。
実際それが逆作用に動いた感はあるが。
うちは本家が途絶えたからうちが本家になったなぁー(他人事)笑笑
高松藩 狭山藩 久保田藩をやって欲しい。
御両典は?
元々は、一族の始祖を神として祀ったから、長男を直系とし、神の子孫とされたそうですね。次男以下を傍系として、長男(つまり本家)には逆らえなかったらしい。
古代中国、周の宗法制みたいですね。
いつも徳川将軍家相続に関して説明不足な気がする。
将軍家の分家として甲府藩があります。基本的に将軍直系が断絶の場合この藩から出してきました。
しかし、この藩からも出せない事態が発生したのが徳川家継の死去の時です。
この時将軍有力な候補は親王を将軍にする案でした。(綱吉が将軍になる前もこの案が有力でした)
結局は吉宗が将軍になりましたが、この事態を勘案して御三卿(吉宗が成立させたのは田安家と一橋家だけですが)を成立させたと考えられます。
実際、御三卿の知行地の主要部分は甲州にあります。
久松松平家は何故自身の姓をと思いますね。
自分は分家ですね
4代目の分家
誰が聞いたかってw
細かい事ですが徳川宗尹は第四子だと思いますが。
郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎が御三卿と呼ばれなかったのが解せません……
ウチは 本家 分家 井持 先生 川辺 隠居 ・・・ 他にもごちゃごちゃ沢山あったなぁ。顔合わせても覚えきれんかったw
最近ゆっくり系の動画が苦戦と聞いてます?頑張って欲しい所です。
網重は将軍になっていないよ
広告収入貯まったら
リアルガチで動画作ってください、五分で分かる的なやつ。
本家分家親戚一同でお家騒動とかw
いらすとやのストーブじゃねえか!
言ってみればニートね!笑
身バレ覚悟でw
私の父方、母方、特に父方は結構な旧家で、日本人ならば誰もが知っている人物とルーツが同じだったり、直接血縁やら縁戚関係やら主従関係があったりしますw なかには平安時代や鎌倉時代あたりから「ほんまかいな?w」という話が伝わっていたりもしますw
興味深いのは、家紋のデザインについても、この動画のサムネのように本家のみ使用が許されるものがあったりします。
父方の一族の結束の強さは、近所でも評判です。先年亡くなった父方の祖母も旧家の出身で昔気質の人だったことや、大叔父(祖父の末弟)夫婦がワン◯ースに登場するような、メチャ元気な高齢者ということもあるでしょうねw
別にいいんじゃないの?
全然分からないから大丈夫😃
ワンピース
つまり作者
本家滅んだんだけど
宇和島藩は四国だから分家じゃなく別物になるのかな?
幕府から領地を与えられているから、別家というのが正しい。実際にこの事で本家と対立し、老中が仲裁に入っている。
宇和島の言い分:うちは別家で、末家(分家)ではない
仙台の言い分:いや、末家だ
解決策:仙台は宇和島を末家とみなすが、宇和島は別家だと本家に対して主張出来る。
これって、本家ですか?
正月に一族が集まる
曽祖父が、地元の病院の院長(墓もでかくて、院って文字が入っている)
土地はそんな広くない。
祖父、祖母は教員
知らんがな。
せめて菩提寺とかに聞きなさい。
あなたにつながる所まで長男の父が続いてるかが重要。
Yubari/ Umino
戸籍を調べてみたらいいかと
この話でいうと、富山藩、大聖寺藩は参勤交代はなかったってこと?
田安家はどんどん養子に出されて、当主は2代目で早々に若死に。
他家に養子に行ったものが復帰するわけでもなく、いとも簡単に乗っ取られたんだっけ。
一橋治斉だっけ、彼の存在が一橋突出になるわけだけど、
度の大名もそうだけど、徳川の江戸中期以降は若死にが多い気がする。。
城地を与えられた大名は定められた大名を除いて参勤交代必須です。新田大名は城地が無いため在府大名でしたが、明治維新で政府より城地を定めるよう通知が有りました。このため、新田藩も廃藩置県までの短期間に本藩領土内に陣屋を作ることになります
ちなみに、一橋家は初代宗尹の嫡男重昌(母は正妻)が越前松平の養子に。
しかし、重昌が16歳で早世したので、一橋家嫡男となっていた弟重富が越前家を継いだ。
その結果、一橋家を継いだのは四男の治済(重富の同母弟)。
一橋家よりも越前家が優先されている事が分かる。
この事から御三卿は幕府の部屋住みだったとも言われている。
なぜ雪国での雪降ろしはいまだ自己責任なんですかね?災害なのだから公が、国が対処すべきです。