【ゆっくり解説】大和の遺跡と邪馬台国

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  • Опубликовано: 6 сен 2024
  • 大和の遺跡と邪馬台国を紹介します。
    銅鐸や銅鏡とも繋げて解説します。
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Комментарии • 70

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w 3 месяца назад +3

    大陸から下賜されたものが100年以上経過してから古墳に埋められるケースは実在します。奈良県の東大寺山古墳で、後漢の年号「中平」が刻まれた鉄剣が出土していますが、中平は西暦184年〜189年です。東大寺山古墳は4世紀後半ごろの築造と考えられており、2世紀近い開きがありますよね。他でも時代を経てから副葬品とするケースはあり得たはずです。

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju 4 месяца назад +13

    民明書房懐かしいですね。友人が本気で神保町の書店で探し回っていました。

  • @user-um8xt9tr7i
    @user-um8xt9tr7i 4 месяца назад +5

    毎回楽しく見させていただいております。
    いつもは同じ邪馬台国九州説であり、良くできているとか良く調べたなとか感心するばかりですが、今回の動画は民明書房なる懐かしい単語が出てきておりマンガも記憶にある絵なので声を出して笑ってしまいました!
    これからも真面目な動画を中心にたまには笑わせてもらえると更に面白くなります。
    これからも頑張って下さい!!

  • @user-kw9yu5qq5b
    @user-kw9yu5qq5b 2 месяца назад

    ハヤシヒロシ先生たち銅鐸は古代のカレンダー説 信憑性有ると思いました。
     穴の所の上面に 水をくべて 水平に設置して、太陽や天体の観測につかったり、28個の玉の飾りで太陰暦のひと月を表す飾りが 着いてて、カレンダーの機能が有るそうです。

  • @harigane4773
    @harigane4773 4 месяца назад +4

    みんなの憧れ民明書房!
    人で鐘もつければ、人でハシゴも作れる!

  • @oniwakamarukumano8328
    @oniwakamarukumano8328 4 месяца назад +4

    邪馬台国とヤマト王朝は無理に繋ぐ必要は無いと思いますけどね。
    福岡県や熊本県の阿蘇山の外輪に山門、山都って地名があります。
    宇佐神宮が卑弥呼の墓地とも言われてますので、今の所は九州島北部を勢力下に置いていたって思います。

    • @user-tk1kn4em6e
      @user-tk1kn4em6e 10 дней назад

      無理に繋ぐ必要はないですが邪馬台国は大和朝廷がモデルになっていると思います。江戸時代の作品

  • @TAJIRI-123
    @TAJIRI-123 4 месяца назад +3

    民明書房の本によれば「古墳時代の埴輪も、大きい物は140cmある」との事ですね?また「人間、シカ、鳥、イノシシなどの形のものもある」らしいですよ?
    さらに「巫女の埴輪の中には、青銅鏡の周囲に鈴をくっつけた鈴鏡という仿製を身につけたものもある」とか?

  • @user-yu1ip1qg4v
    @user-yu1ip1qg4v 4 месяца назад +4

    忘れ去られたというより銅鐸の文明とその後の文明が、文化的に繋がらないという単純な話では?
    巨大化しても、内側に舌のある状態なら釣り鐘のように音を出すことも可能じゃない?

  • @takahiroseto4028
    @takahiroseto4028 4 месяца назад +2

    無いと言うことは、使われて改良されて原型をとどめなくなったからでは無いのだろうか?
    逆に遺構遺物として残っていると言うことは、利用者がいなくなってしまった若しくは何かしらの理由で破棄されてしまったからなのでは無いのだろうか?
    先日、石舞台古墳や飛鳥宮跡を見に行ってきたのですが、大化の改新や藤原京や平城京に遷都しなかったらその遺跡遺構も残らなかった、又は利用継続改良されて別の遺跡遺構となってしまっていたのでは無いのだろうか?
    なーんて、ビール飲みながら思ってみたり・・・

  • @kooota7455
    @kooota7455 4 месяца назад +4

    神功皇后が土蜘蛛征伐の時に、西の海の向こうには何もないとか言っていたはず。
    つまり朝鮮半島は知ってたけど中国については知らなかったのでは?

  • @GM19900520
    @GM19900520 4 месяца назад

    この動画を見て関川先生の本を買ってしまいました。

  • @yoshiz6620
    @yoshiz6620 4 месяца назад +2

    邪馬台国論争って、論争そのものが目的、にしか思えない。

    • @kf1627
      @kf1627 2 месяца назад

      学会のミスリードに人々が声を上げ始めたという認識です

  • @user-jf5un8fy5e
    @user-jf5un8fy5e 3 месяца назад +2

    大和地方から北部九州との繋がりなら既に弥生時代を通して、銅鐸や鏡で証明されてます。
    また貨泉も畿内でも確認されてますからね、明らかに目的地は紀伊半島、丹の山のある場所ですから。
    畿内、東方勢力にとって北部九州は半島や大陸との拠点として重要なだけなんですよ。

    • @kf1627
      @kf1627 2 месяца назад +1

      >大和地方から北部九州との繋がりなら既に弥生時代を通して、銅鐸や鏡で証明されてます。
      どう証明されてるの?

    • @user-jf5un8fy5e
      @user-jf5un8fy5e 2 месяца назад

      @@kf1627 数々の出土品を見れば理解出来ると思いますが。一番わかり易いのは弥生時代中期の時点での貨泉の出土分布ですかね。半島から壱岐、北部九州から瀬戸内本州西部を経て河内丹至ってますよ?
      また同時に同じく河内で水銀朱の付着した秤も確認されています。秤なんて当時の倭人のものなんですか?
      余程妙な解釈しない限り誰が河内に来たのは誰でも理解出来るはずです。

  • @AKIHIKO-uz7wf
    @AKIHIKO-uz7wf 4 месяца назад +1

    土器は、容器=パレットの役目を果たした。九州地方から納品した後、巻向で交換した物品をそのまま土器に入れて、九州地方に戻ったのです。😊

  • @hirouchida3068
    @hirouchida3068 4 месяца назад

    動画楽しく拝見しました!銅鐸文化と蝦夷(愛瀰詩)の関連性が気になるなぁと感じました!

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 4 месяца назад +3

    ちょうど卑弥呼の時代と同時代に近畿の銅鐸文化をやめさせ鏡祭祀に変えさせるほどの力を持った国は九州だと思われるが、九州が大和に入った時期が卑弥呼の時なのか台与の時なのか、あるいはその後なのかがはっきりしないということなんだろう

  • @user-sp1ov6bd5y
    @user-sp1ov6bd5y 4 месяца назад +2

    北部九州の土器が近畿では見つからないと言われているけどそれだけ近畿の文化的力が強かったから北部九州から近畿系土器が見つかるのではないだろうか。

  • @apuro66661
    @apuro66661 4 месяца назад

    民明書房くらいぶっとんだ設定にすれば子供が真似して怪我をするなどという事もなかろうて

  • @tystyp
    @tystyp 4 месяца назад +8

    民明書房ワロタwwv

  • @aaaaaa-sq3se
    @aaaaaa-sq3se 4 месяца назад +2

    大和周辺の土地名が九州北部の地名と位置も同じ場所が多いってことで東遷説なんかもあるけどそれは後世で大宰府やらを立てる時に周辺の土地の名前も
    大和に似せた逆の説の可能性もある訳で、鏡なんかもそれだけで邪馬台国の場所や判断はましてや出来ない。
    文化も立地もあまりにも違い過ぎるから大和や畿内ではないっていうのだけは分る

  • @panamaunga2138
    @panamaunga2138 4 месяца назад

    脳天砕けても、次の日には元気になれるから大丈夫

  • @user-mh8bf7md5i
    @user-mh8bf7md5i 4 месяца назад

    新しい殿さま「(何だか知らんがとにかく)よし!」

  • @nagino_matasaburo
    @nagino_matasaburo 4 месяца назад +9

    「大和」と書いて本来はヤマトと読める要素はまったく無いですよね。
    まず倭の邪馬台が先行して存在しており、対するリスペクトから後付けの地名に思えます。もともとあの地域がヤマトなら、大・和の漢字は用いないのではないでしょうか🤔

    • @taka7218
      @taka7218 4 месяца назад

      日本人が「ヤマト」と言っていたものが中国では「倭」と言っていたので、日本人が書く漢字は大いなるワで「大和」、中国人が書く漢字はヤマトを漢字に当てはめて「邪馬台」繋がりになっていると思います。神武天皇が日ノ本の天皇を称するまでは奈良もヤマト国の一部であったハズです。ただ神武天皇がいつ東征を行ったのかが重要。中国との年表を擦り合わせたら卑弥呼の後であるハズですが、皇歴を紀元前に持っていこうとすれば、邪馬台国という存在が必要なんです。なんなら卑弥呼自体が天皇家の人とすれば良いんじゃねという乱暴な理論さえ生まれているのです。

    • @kf1627
      @kf1627 2 месяца назад +1

      そう思います。
      倭の山門に先祖が住んでいて東遷後に移住先に故地の名称を付けた。

    • @taka7218
      @taka7218 2 месяца назад

      中国人は、「倭」と言っていた。日本人は「ヤマト」と言っていた。なので大いなる倭の語意で「大和」と書き表したで良いのでは?
      日本語的には、「ヤマ」と「ヒト」で山地に住む人と言う意味で「ヤマト」、あと「ハヤ」と「ヒト」で素早い人という意味で隼人とか、昔の日本語の要素なんてそんなもの。因みに昔の日本語の単語は殆ど2音で成り立っています。

    • @kf1627
      @kf1627 2 месяца назад

      @@taka7218
      山より平地にたくさん住んでましたよ?
      大和は仰る通り「大いなる倭」だと思う。
      中国人が「お前の女王国は何という国なんだ?」との問いに、口頭でヤマトだと言った。
      中国人はそれを文字で記録するが倭人は文字を使わないので、聴いた発音を上から目線で「邪馬台」表記するしかなかった。
      4世紀頃、九州にあったヤマト(邪馬台国)の一部勢力が東遷し奈良盆地の銅鐸文化の勢力を短期間で征服し、新しい国の名前もヤマトを踏襲したが、漢字を最初は表音の手段としていたが後にその意味を理解するようになると、中国人に付けられていた「倭」を嫌うようになり、「和」を充てるようになった。
      おまけに自分たちを大きく見せようと「大和」をヤマトと読ませることにした。
      それは多分随分後の時代でしょ。6世紀とか

    • @taka7218
      @taka7218 2 месяца назад

      @@kf1627 海岸沿いの平地に住んでいた人を取りまとめていたのは山岳地(神武天皇出身地辺り?)に住んでいて狩猟にも長けていた祈祷師の国(ヤマト)だったと思うのです。

  • @user-hw9iw3pm3b
    @user-hw9iw3pm3b 4 месяца назад +26

    この動画の内容は良いと思います。日本のマスコミは箸墓古墳が卑弥呼の墓の可能性が高いなどと盛んに報じていますが、少し勉強すれば多くの矛盾点や不都合な真実に出会っているはずなのに不思議でなりません。相変わらずの不勉強、無責任な報道姿勢を苦々しく思っています。

  • @user-nw5lc7xs2m
    @user-nw5lc7xs2m 4 месяца назад

    蒙古襲来をやってほしい!
    3部作ぐらいの大作で笑

  • @as3982
    @as3982 4 месяца назад +6

    庄内期を250年に考えると何も無いというだけですね。5世紀の大和って、誉田御廟山や大山古墳を作ってる時代ですよ。そうすると、西殿塚、桜井茶臼山、行燈山、渋谷向山、五社神、津堂城山、仲ツ山、上石津ミサンザイなどの大王墓は一体いつ作ったのかという話になります。5世紀から大和王権が始まったかのような主張はいくら何でも無茶苦茶です。

    • @user-ml4yn7su1d
      @user-ml4yn7su1d 4 месяца назад +3

      すまん。どこらへんにそのように解釈できるところがあるんだ?

    • @user-pz4jw1db1q
      @user-pz4jw1db1q 3 месяца назад

      稲荷山の鉄剣銘の中のオワケの系図が、少なくとも、AD210年頃には、雄略天皇の血筋が存在していた事を証明してますよ。系図の真贋にかかわらず、オワケが、3世紀前半に遡って、大和朝廷が存在していたと考えていた事は、明らかです。そういった意味では、稲荷山出土の鉄剣は、単なる国宝ではなく、国宝中の国宝だと考えています。

  • @user-Godai_Yoshio
    @user-Godai_Yoshio 3 месяца назад +1

    大和の遺跡を無理に邪馬臺国に結びつけるのではなく、魏志倭人伝に書かれている鉄鏃や鉄製武器、絹、勾玉などがどこで発掘されたかを調べて、その関連から場所を割り出していくべきです。そうすると、これらのものは福岡県を中心に北部九州で発掘されていることから、北部九州を議論の中心にするべきです。

  • @Amichans
    @Amichans 4 месяца назад

    ???「ゆくぞ、冥王島超奥義・・・」→「その先は言う必要がない」@_@;

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan 4 месяца назад +1

    ヤマトっていう地名は奈良以外にもあるみたいです。もしかしたら特定の土地の名称ではなくて、「盆地」とか「集落」とか、そういう土地の特徴を表す言葉だったのかもしれないと素人ながらに思うことがあります。かなり古い時代の日本語に関する資料がないから、完全に私の妄想ですが……。

  • @user-ch8ge3pt4p
    @user-ch8ge3pt4p 4 месяца назад +1

    『民明書房』は『岩波書店』と同じような出版社名で、「民明書房刊」(=民明書房が出版した)の個別の本に驚きの情報が載ってる
    『民明書房』の使い方を間違えてる。

  • @takedaharuki
    @takedaharuki 4 месяца назад +4

    考古学的に見た纒向の印象は、『卑弥呼の邪馬台国』よりも『空白の四世紀』のような気がします。

  • @keeperofthe7keyspart
    @keeperofthe7keyspart 4 месяца назад +1

    魏略が書かれた時点では北九州の女王国でわかりやすかったのが、後から邪馬臺国の地名と陸行水行を追加した陳寿くんが悪い。
    あと考古学者でも森浩一さんは北九州からの東遷説ですし巷のRUclips解説動画で言われてるほど近畿説であらねば人にあらずという雰囲気では無いと思いますよ。

  • @yamashanxia5541
    @yamashanxia5541 4 месяца назад +3

    まぁこれは
    この動画は邪馬台国が現在の奈良県とは思えない~という思いを伝えようとしているものと感じたが
    この「邪馬台国」という言葉は
    当時3世紀頃に日本から使者を送った時に作られた魏志倭人伝に出てくるけど
    中国語の発音や単語に「ヤマト」の発音が無いから当て字として付けたとしか思えない。
    実際は使者が「ヤマトという地域から来ました~」→ヤマト?が書けない→同じ音の「雅马台国と書こう」程度と思う。
    だから日本国内から邪馬台国の文字が発見されないし、日本人が「大和」をヤマトと呼ぶのと関係ないこと。
    日本人が言う「大和」と中国人が理解する「邪馬台国」は同じ地域を指すと思う。
    それと
    「卑弥呼」の言葉
    これは中国語の音ではヒミコと発音しない(中国語でベイミィフォー)、邪馬台国とは違う。
    でも中国語は漢字1文字1文字に意味があるから
    「卑」は劣った、謙ったの意味がある。
    「弥呼」は日本語で同じ音では巫女、神子、皇女、皇子、親王が全てミコと読む。
    だから魏の中国人は「へりくだったミコ」→卑弥呼と記したのではないかな?
    ミィフォーとミコの音は少し違うが
    中国語で日本語のはっきりした「コ」とはっきり発音する言葉はない。
    「可,课,科,克,客」などが近いが一致する意味の文字が無かった?
    だから
    仮に邪馬台国で家来が卑弥呼を呼ぶ時に「ヒミコ様~」とは言わなかったのでは?
    「ミコ様~」?或いはもっと別の名?
    後、この動画では邪馬台国は奈良県の狭い範囲という理解で見てるけど
    邪馬台国ができた頃は乱世の時代で混乱や争いが起きていた。
    約30の地域が連合して邪馬台国になっているわけなので
    もっと広範囲を指して邪馬台国と思う。
    最終的に奈良県に移動してきたとも考えられる。

  • @genkimantotoro
    @genkimantotoro 4 месяца назад +3

    倭人→和人 だったのでは?と思っています。

  • @user-sh8tc8xw7m
    @user-sh8tc8xw7m 4 месяца назад

    勉強になります。やはり、ヤマト国は四国なんですかね。工学博士お笑い芸人遼子規キンジロウ

  • @YO-high
    @YO-high 4 месяца назад +4

    面白いですね。
    纏向が東海などの東国勢力の出先機関であったとするのは正しいと思います。
    この動画を見ても、やはり邪馬台国は纏向にあったと考えております。(または可能性が高いと思います。)
    何故そう思うのかと言えば、ワイは「東遷説」だからです。
    卑弥呼は九州に居て、そこが「女王国」、しかし倭国全体でみれば「纏向」が首都(邪馬台国)だと思うからです。
    魏志倭人伝を見ても「邪馬台国は女王の都するところ」としか書いてないからなぁ。
    「居する」とか「治する」とは書いてない。「都」は先祖のいる場所という意味もある。
    ま、、ワイの個人的な意見なので、スルー推奨です。

  • @user-ls6wm7gs1p
    @user-ls6wm7gs1p 4 месяца назад +1

    漢委奴国王ってかんのなのわのこくおうって読むけど、考えてみたら読み方おかしいよね(わ)がどこにあるんだよ
    わ=大和って思わせたいんだろうけどさ

    • @user-sp1ov6bd5y
      @user-sp1ov6bd5y 4 месяца назад +3

      委が倭だぞ。省画といって金属や石に漢字を記す時漢字の一部を省略するんだ。

    • @AKIHIKO-uz7wf
      @AKIHIKO-uz7wf 3 месяца назад

      委ねる。漢が奴国を委ねる。誰に?💡倭人の国王に?💡

  • @saaccitt
    @saaccitt 4 месяца назад +2

    じゃ、はよ物的証拠出して。