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野村朗
Добавлен 29 апр 2020
昭和40年代の国鉄蒸気機関車SLの写真を楽しんで頂きます。C59、C60、C61、C62、D51、D52が御殿場線、東北本線、呉線、函館本線などで活躍していた頃の姿をお届けします。
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磐越東線・西線のSL
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1967年10月、電化で平~仙台間の寝台特急「ゆうづる」の牽引機がC62からELに切り替わった。その最後を記録する為に台風が接近する平に9月中旬に訪れた。その折、平駅構内で大正期の面影を色濃く残すD60に遭遇。同機は平からそれて郡山へ向かう磐越東線で最後の奉公をする姿であった。この一年後の68年9月末で東線は無煙化されD60もその使命を終えることとなった。更にその一年後の69年9月末には会津若松~新津間の旅客列車のSL牽引も矢継ぎ早に廃止となり阿賀野川沿いに優雅に走るC57の姿も消え去ることとなった。
東海道本線の思い出。昭和40年代前半の戸塚、保土ヶ谷、東神奈川近辺での国鉄153系、EF58牽引寝台列車等の記録。
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東海道新幹線が開通して間もない頃の東海道本線を走る列車の記録です。まだまだ153系急行のほか、EF58牽引の多くの寝台列車が元気に活躍していました。懐かしい写真をお楽しみください。
横浜高島線のD51 昭和40年代の国鉄SL Vol 12
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昭和40年代の国鉄SLのVol.12。高度成長期に鶴見~高島まで京浜工業地帯を貫いて活躍していたD51の記録。京浜東北線の鶴見駅のホームからは長大編成の貨物の先頭に立つD51が日常的に見られた。また、高島は東海道本線横浜駅東口の目と鼻の先にあり、操車場からはスカイビルが間近に迫っていた。1970年10月に鶴見~桜木町間の電化が完成し無煙化になったが、引退が迫るD51の活躍の記録をお送りする。
昭和46年夏の旅Vol 13五能線東八森
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13回にわたってお送りした昭和46年夏の旅の最終回。五能線の東八森で混合列車を含めて4本の姿を記録しました。完全無煙化まであと一年半となった頃でまだ危機感もなくノンビリした雰囲気でした。 東北~北海道を約3週間かけてまわった旅は、車中泊とユースホステル泊が半々という厳しいものでした。今にして思えば大学生という若さゆえのかなり無鉄砲な旅でした… #国鉄、#五能線、#SL、#86、#能代
昭和46年夏の旅Vol 12花輪線竜ヶ森~荒屋新町
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この旅もついに終盤に。今回は北海道から本州に戻りこの年の9月末で無煙化が完了する花輪線を訪れた。本線のSL牽引は殆ど残っておらず、かろうじてDL牽引貨物の後補機と1本の貨物列車を撮影できた。 荒屋新町の機関区では出番を失った86が扇形機関庫の中で静かに佇んでいた。旅の終わりと相まって寂しい気持ちになった一日だった。 #花輪線、#国鉄、#SL、#竜ヶ森、#荒屋新町、#86
昭和46年夏の旅Vol 11函館本線倶知安~目名~小沢
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北海道の旅もいよいよ最後。倶知安の機関区に立ち寄った後、最後の山線は目名に訪れた。相変わらずの雨模様の中104レ「ニセコ1号」の先頭に立つC62重連を目に焼き付けた。 明日は室蘭本線でノンビリしたあと函館から2週間ぶりに本州に戻る。 #国鉄、#SL、#函館本線、#C62、#ニセコ、#倶知安、#目名、#小沢
昭和46年夏の旅Vol 10函館本線銀山
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旅の15日目。函館本線の銀山と倶知安での撮影。銀山では山中を行く上りニセコ1号を、倶知安では長万部から到着した下りニセコ3号を撮影。C62の最後の活躍を存分に記録することができた。 #国鉄、#函館本線、#SL、#C62
昭和46年夏の旅Vol 9の2宗谷本線士別~名寄
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前回の岩見沢、深川に続いて訪れた宗谷本線士別~名寄をお送りします。宗谷本線はこの旅2回目ですが、今回は名寄機関区でC551号機をゆっくり撮影しました。九州吉都線の吉松で見たC55は綺麗に磨き上げられていましたが、宗谷本線のそれは厳しい自然に耐え抜いた力強さがありました。 この旅も終盤にかかり体もかなり疲れてきましたが、最後の追い上げで次回以降も思い出をお送りしていきます。楽しみにしてください。 #昭和40年代、#国鉄、#北海道、#SL、#宗谷本線、#士別、#名寄、#C55
昭和46年夏の旅Vol 9釧網線&岩見沢
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今回は旅の13日、14日目。13日目は釧網線の浜小清水で一日のんびり過ごした。オホーツク海に面した丘陵地はまさに日本の最果て。本来気持ちの良いはずだが、この年は北海道に低温注意報が発令されていて、毎日ぶるぶる震えながら過ごした。夕方、網走に戻り夜行の「大雪6号」で一路岩見沢へ。14日目は早朝の岩見沢でスタート。朝の機関区と構内での撮影。その後、深川に移動して機関区を訪問した。 #国鉄、#40年代、#SL、#釧網線、#浜小清水、#網走、#C58、#D61、#岩見沢、#深川
昭和46年夏の旅Vol 8宗谷本線&石北本線
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今回は旅の11日、12日目。11日目は宗谷本線塩狩峠で撮影。峠を行き来するC55牽引の旅客とD51牽引の貨物列車は厳しい勾配に力強く挑んでいた。和寒に立ち寄った後は旭川に戻りそのまま札幌に移動。その夜の517レ「大雪6号」で石北本線の生田原を目指した。 12日目の早朝、生田原に到着。この年は北海道は大変な冷夏に見舞われたが、それにしても道東の朝は予想をはるかに超える寒さであった。生田原から常紋に移動したあと96、D51牽引の貨物列車の迫力ある写真を撮りつつ生田原まで徒歩で戻ったが、昼過ぎに駅まで辿り着いた時には前夜の夜行移動も重なりかなりの疲労が残った…… #国鉄、#40年代、#SL、#宗谷本線、#石北本線、#塩狩峠、#生田原、#常紋、#D51、#96
羽沢横浜国大~武蔵小杉
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JR横浜羽沢貨物駅に訪れたついでに、相鉄JR相互乗り入れの埼京線で羽沢横浜国大駅から武蔵小杉までの車窓を楽しんだ。 出発直後に長いトンネルに入り、鶴見手前で地上に出る……ここからは貨物線を利用した変化にとんだ進路に目を見張る。何回もポイントを渡り武蔵小杉に到着寸前に横須賀線と合流するまではハラハラドキドキのまさにワンダーランド⁉️
JR横浜羽沢貨物駅
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2021.11.20小春日和に誘われて横浜羽沢貨物駅に散歩に行く…… 広大な構内を見渡せる道路をノンビリ歩いていると懐かしい185系の姿を見ることができた。ラッキー❗ この後は、相互乗り入れの相鉄埼京線に乗って旧貨物線のワンダーランドへ⁉️
昭和46年夏の旅Vol 7函館本線C62×3重連
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旅行10日目。この日は上り104ㇾの3重連運転が小樽~俱知安間でおこなわれた。混雑が予想されるポイントを避けて仁木の直線でのんびりと撮影することにした。その後は、余市駅で倶知安から121ㇾの前補機で帰ってきたC622号機の出発シーンを、更に小樽に移動して構内側線で機関区への回送を待つ同期をじっくり楽しむことが出来た。 #国鉄、#40年代、#SL、#函館本線、#ニセコ、#余市、#小樽、#C62
2021.10.28上野東京ライン新橋~上野
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新橋を出ると東京到着。東京駅では乗務員交替、そして本日のクライマックス上野東京ライン、常磐線特急とすれ違い北の玄関上野駅に到着……
懐かしい。直方と中間に親族がいて、時々遊びに行っていました。午前3時に、中間駅を通過する三重連のSLが楽しみでした。当時は自由に線路内に入れたので、日中もよく遊んでいました(^^)。
日本の産業エネルギーを支えていた当時の活気はすごいものでしたね。懐かしいです…
Excellent video my friends awesome 😮like 👍🏻 and Greeting
Thank you sendimg message. I went SanMateo 2weeks ago. And took CalTrain from SanMateo to PalAlto and from SanMateo to Sanfransisco. Both short trip are so amazing! I miss CalTrain...
C60.C61が居るだけで見る価値十分でしたね。個人的にはC62よりも好きでした。野村さんはこの時代に南船北馬の大活躍されて居たんですね。素晴らしい事ですね。
確か昭和43年5月に最後に見ました。当方の列車が国府津を出た時D52牽引の列車が到着しました。5両編成で力をもて余していた様に感じました。17歳の思い出です。
ありがとうございます。今はお休み中の1号機 ここにいたのですね。1号機に比べ189号機は貫禄があり大きく見えます。D60は軸重が軽い割に空転しにくく山坂の多い磐越東線にもってこいの機関車でしたね。本務機D60 前補機DD51というのは貴重な写真だと思います。D60はスピードが出ませんので平坦 直線区間ではDD51についていくのは大変だと思いますが、勾配では本領発揮ですね。
貴重な写真の数々ありがとうございました。室蘭線と千歳線は緩やかなこともあってD51が単機で相当長くて思い貨レを引きましたね。一度引き出しさえすればと言われますが、引き出しそのものが大変ですのでさすがD51と言うべき離れ技です。客レを引く149号機は直線区間を相当速く走ったでしょうね😂
コメントありがとうございます。室蘭本線は平坦で広大なイメージですが、一方函館本線は山線と呼ばれたように急勾配とカーブの連続でした。どちらもそれぞれに魅力的な雰囲気を醸し出していました…
貴重な写真ありがとうございました。昭和46年の奥羽線ではまだ完全無縁化は難しかったのでしょうね。優等列車はDD51 貨物列車はD51 普通の客レはC61 C60が😂多かったのでしょうか?一つお教えください。寝台列車の客レはDD51は単機牽引のように見えました。(もしかしたら補機がついているのかもしれませんが)一方C61牽引の客レは後部補機にD51が付いていました。C61には補機が必要でDD51は単機というのはあり得ないと思うのですが実際はどうだったのでしょうか?
コメントありがとうございます。奥羽本線は確かこの年で無煙化が完成したと記憶しています。写真に架線が写っていないのはこの区間が新線に変更された為です。補機のあるなしについては詳細は分かりませんが、DD51牽引の列車急行には補機はついていませんでした。また奥羽本線にはC60は配属されていなかったと思います。
このスライドに登場するC6120号機はこの後、宮崎県の宮崎機関区に転属になったわけですね。私が見た日豊本線 佐土原駅でC61 20が客車7両を牽引してホームに入ってくるのを見ました。
そうですね。鹿児島本線には東北本線からC6017が移転していました。煙突両脇に小型排煙板をそのまま装備した懐かしい姿でした。
本当に野村さんとは同じ時期に同じ場所を訪れて居たんだなとしみじみ思います。私は何事も中途半端な性格で積極的に動いた訳ではありませんでした。その点は野村さんには到底鉄道ファンとしては追いつく事は叶いませんでした。何時も素晴らしい写真集ありがとう御座居ます。
小学校の低学年から発売日には地元の本屋に行って鉄道ファンを買っていました。隅々まで読み尽くしたのが懐かしいです。今はたまに本屋に立ち寄って立ち見をするのが楽しみです…
この時代の学生の夏休みって最高でしたね。7月はバイト8月は旅この時代は北海道が絶大な人気があり九州地区は余り騒がれなかった記憶が有りました。関東からだと距離的に遠く夏は北海道に比べ暑い事もあったのかなと感じます。今思うに中国地方、九州地区も行って置けばとも思います。芸備線、木次線、三江線、筑豊の各線素晴らしい所ですよね。
そうですね。出掛けられる回数にも限界があるので、どうしても幹線が中心になってしまう。今になればローカルな地方路線にも行ってみたかったですね…
新屋新町か・・気動車で泊ってたな。
北海道編でもコメントしましたが衝動的な北海道からの帰りは奥羽本線に乗り大館まで行きました。列車はD51牽引の普通列車でしたが残念ながら9月末で無煙化されてしまいました。大館機関区のC61も花輪線の86も最後に見られて良かったと思った物でした。そして大館駅前の花善の鳥飯の旨かった事が良き時代の記憶です。当時の貴重な写真ありがとうございます。
コメントありがとうございます。同年代で同じようなところをまわっていたようですね。もう50年も前のことですが、時間はあるけどお金がない懐かしい時代でした…
昭和46年8月に私も東北旅行に行き、青森に着いた時に衝動的に青函連絡船に乗り北海道初上陸しました。目的もなく長万部に行き急行ニセコに遭遇しました。C62の重連で当駅にて単機になり函館に向かいました。私はこの列車で函館にとんぼ返りでした。車内は夏休みの学生で混雑し私はデッキの床に座って過ごしました。此れがきっかけになり翌年の夏休みに北海道周遊券での旅に繋がりました。大学2年の楽しい思い出です。
昔の東海道線は国府津から箱根超え😮
そうですね。当時はまだ長いトンネルを掘る技術がなかったのでしょうね…御殿場廻の険しいルートに線路を敷くだけでも感心しますがね。
保土ヶ谷~東戸塚の写真、今なら全部アウトですね笑 時代は違いますが、私もずいぶんお世話になった場所です。
コメント有り難うございます。本当にあの頃は構内も沿線もかなり自由に出入りさせてもらえました。最近の撮り鉄モラル問題は悩ましいですが、当時はそれなりに事業者側とファン側の信頼関係があったのかなと勝手に思ってます。随分良くしてもらった思い出ばかりです…
貴重な写真です。几帳面に管理されていますね。1号機ここで活躍していたのですね。山口線での運行と違い長い客レを引いて疾走しています。力強いです。昭和46年まだまだ蒸機が多かったですね。ありがとうございます♪
コメント有り難うございます。c571は羽越線、磐越西線で最後の活躍をしていました。貴婦人と呼ばれるようですが、確かにスマートでバランスの良いスタイルでした…
貴重な写真ありがとうございます😊昭和46年はまだ宗谷線ではC55客レが活躍していますね。塩狩峠ではDD51が後部補機に着いたはずですが。この時期はまだ常紋峠の後部補機は96だったのですね。確かに96の前補機は珍しいです😂
コメント有り難うございます。この年の北海道は冷夏で常紋ではストーブを焚いていました…
ヨンサントウの時に中1でしたね近畿地区は写真撮影に行きましたね。
私は高校1年でした。急速に無煙化が進んでいる時代だつたので休みのたびに撮影に出かけていました…懐かしいな!
D51は強い💪D52は最強です。SL DLの中では最強の牽引力でしょうね😂
昭和38年から42年頃、普通列車はC60,急行、特急はC61が牽引してたが、同じハドソンでも全体の大きさはC60の方が大きいのに何で?と疑問に、一ノ関駅2番ホームでは必ず給水作業。1番線では灰を落とす作業をしていたので、思わず見とれて、でもD62の迫力とD51のテンダの重油タンク更にD50の重油タンクは迫力が
仙台〜盛岡間が未電化の頃はさぞ賑やかだったのでしょうね…見たかつたなあ!
貴重な写真ありがとうございました。山線とはいえD51なら長い客レでも余裕で単機牽引できますね。個人的には糸原から連れてきた16号機の写真は初めてでした。やはり2号機は前補機運用でしたね。当時すでに本務機をDD51に置き換え可能だったと思うのですがわざわざ連れてくるくらい信頼性が高かったのでしょうね😂
コメント有り難うございます。平で見た23号機を呉線で見た時も、呉線で見た16号機を北海道で見た時も何となく嬉しく、懐かしく感じたことを思い出します。鹿児島で見た盛岡から来たC6017も煙突周りの排煙板がそのままで感激しました。
5:40 終末期のスロネ30の光景、貴重ですね。寝台車なのに並ロっぽいのが面白いです
コメント有り難うございます。詳細は不明ですが回送だったのかなと思います。
昭和45年の夏に初めて山陽本線の旅に出ました。勿論大型蒸気を見る為でした。東京から急行高千穂に乗り深夜に糸崎で下車、そのまま駅のホ~ムのベンチで宿泊しました。当時は夜通し列車が走っており駅は24時間営業故にこんな事も出来ました。しかも寝ているとC62牽引の列車が入線したりして結局朝まで眠る事は叶いませんでした。国鉄最盛期の時代だった様に記憶して居ます。それに比べ現在の山陽本線は地方のロ~カル線になってしまい面影すらありません。
昭和43年10月で終焉を迎えたんですね。高校3年生故に泊まり掛けで旅に出られる身分ではなく鉄道誌を見るのが精一杯でした。もう一年走って居ればなと悔しい思い出が有ります。国鉄最盛期だった様にも感じて居ました。良き時代でした。
コメント有難うございました。私はちようど中学を卒業した春休みにこの撮影旅行にひとりで出かけました。今から考えるとかなり無謀な旅でした…宿には殆ど泊まらず駅の待合室や夜行列車で夜を過ごしました。よくやったものです。
@@野村朗-i4s凄いバイタリティーですね。駅での宿泊は寝袋ですか?昔の盛岡駅は改札の手前にスペースがあり、そこの床に寝袋で一泊しました。列車待ちの女性の方がやはり新聞紙を広げて夜を過ごして居ました。如何にも昭和ですよね。
C6217は国鉄の当時の中部支社長の尽力で最高速度を出した思い出の地に保存が決まった。常磐線から来た軽量型は重量型ばかり運転していた糸崎の機関士達にはかなり扱いにくいものだった。23と37は最後まで残って頑張ってくれたが検査切れなのか渡道しなかった。もし渡道したら「ゆうづる」「安芸」「ニセコ」を牽いた事になってたが
C61 20は昔、宮崎県(日豊本線)佐土原駅(2面3線)にて客車を牽引しホームに入ってきたところの写真を撮ってます。 盛岡機関区もけっこう蒸気を持ってましたね。福岡県の直方機関区の扇形車庫も大きかったです。保有車両も多くなんと機関区前や構内には転車台が3つもありました。 また佐賀県の鳥栖機関区では扇形車庫が横に並んで2つもあり、ここは蒸気の数が並大抵ではなかったです😅 C11、C12、C50、C51、C55、C57、C58、C59、C60、C61、D51、D52、D60、9600型、8600型など・・です。
素晴らしい画像ありがとうございます😊この区間は1000t重量貨物はD51もDD51も3重連だったようですね。D62なら重連で行けたようですが重すぎでダメだったと聞きました。物資運搬の大動脈ですからね。
コメント有り難うございます。昭和40年前半は旅客にせよ貨物にせよ鉄道が主役の時代でした。首都圏から東北、北海道に向けて人も貨物も大半は鉄路を利用して移動していたのです。盛岡機関区、沼宮内、御堂、…沢山のSLがみんな晴ればれとしていました。懐かしいですね!
画像か白黒❗️ しかも静かに遠近になるようにしてあるのが臨場感を増すネー!ロートルにとっては文章画面の時間をあと少し長めにするか、読んでもらうと尚イイと思います。バンチャン
若者はスピード感がないといらいらすると思いちょっと早いコマ送りになってしまいました。反省❗
ロートルは黙ってただ、、、😅
宮崎に転属直前のC61、撮影を予定していた人は面食らっただろう。でもそのおかげで三年ほど長生きできた
九州のカマは比較的原型を保っていて人気があった。
そうですね。C55、C60、C61共に原型を保った上に良く整備されていた印象が残っていますね!
呉線って単線で徐行区間も多いけど重量級SLが入れたんですね
そうですね。呉に軍港があったことから東京まで直通の優等列車を走らせるため、軌道も高規格のものが戦前から使われたということです。
貴重な写真をありがとうございました。1969年末から藤沢に住み始めて、その数年内に国府津機関区にSLを見に行った記憶があります。1両だけぽつんとD51かD52が残されていたころです。その後も数年間はそのままだったような気がしますが、いつのまにかSLがいなくなり、とうとう扇形車庫も解体されしまいましたが。
そうですね。あれからもう50年以上経ってしまいましたが、今でも国府津駅に行くと山側の暗闇にD52が佇んでいるような気がしますね……
そうですね。あれからもう50年以上経ってしまいましたが、今でも国府津駅に行くと山側の暗闇にD52が佇んでいるような気がしますね……
羽越本線は好きな路線でしたが、昔日の美観は消え失せたと思います。 ここに限ったことではありませんが、昭和時代の羽越本線が素晴らしすぎたので しょうね。 しかしその美観は人を楽しませるためのものではなく、過酷な生活環境の中で生きぬいた 結果なのですね。 棚田や水田は荒れ地や耕作放棄地になり、美しい海岸線を彩る見事な松の木はことごとく消失。そして太陽光発電のパネルという景色になるのも、超高齢化社会 人口減少、気候変動、長引く不況などの社会情勢では無理もないのでしょうね。 45年ほど前の子供時代に、辛うじて輝きが残っていた東北地方の農山村と羽越本線の記憶があることが幸せだったと思います。
そうですね。バブル崩壊以降は国としての勢いが一気に失われている感じですね。最近の国産旅客機の開発頓挫、ロケットの相次ぐ発射失敗、円安による国際競争力の低下など……情けない話ばかりですね。せめて鉄道だけは新幹線をはじめとしてこれからのリニアの開通で世界をリードして行って欲しいですね❗それにしても50年前は懐かしいですね。
まさしくこの時代に急行高千穂に乗り深夜の糸崎に下車、そのままホ~ムのベンチで仮眠し翌朝呉に向かう。深夜の列車も多くとても仮眠どころではなかった。呉から広島に行き広島運転所にて大型蒸気機関車を堪能、当時は現場事務所に挨拶すれば自由に構内を廻る事が出来た。今では考えられない出来事でした。
貴重な写真をありがとうございます。横浜線の蒸気の写真をお持ちでしたら、是非ご披露お願いします🙇
ありがとうございます。横浜線のC58はほんの少ししか撮影していません。何か機会があればアップさせて頂きます。
良い映像ありがとうございます。蒸機も終わりに近づいていますがまだまだ貨物が多い時代 D51は力強く頼りになりますね。現代の貨物用機関車と違い甘えがないですね。
コメントありがとうございます。もう少しアップ予定の画像がありますので、涼しくなる頃には頑張って作業しようと思います。時間があればまた検索してみてください❗
八高線といふことは都内をSLが堂々走行してゐたといふことだ。さう考へるとすごい。
コメントありがとうございます。確かに八王子は東京都ですが、八王子を出て埼玉県を北上して群馬県に至る沿線はお世辞にも都会とは言えない雰囲気です。むしろ都心からこんな近くによくもこんな自然豊かな場所があったものです……この頃に本当に都心で堂々とSLが走っていたのは、山手貨物線のD51や上野、両国に出入りしていた千葉方面からのC57でしょうか。渋谷駅の山手線プラットホームから煙を吐きながらD51が貨物列車を牽引している姿が日常に見れました。懐かしいな……⁉️
何という型式か、もしご存知でしたら教えて下さい。 ruclips.net/video/II-SjGoeC78/видео.html この動画の最後の方に、国鉄のSLが映っています。 場所は国鉄総武線「亀戸駅」の北側、東武亀戸線よりも北側を走行しています。 現在は駅ビルとマンションになっている場所に貨物基地があったらしく、 東武亀戸線の線路を跨いで、総武線に入っていったようです。
浜田光男と宇野重吉はわかりましたが、SLはわかりませんでした。すみません。
今は構内更地になってしまった盛岡機関区の往年の勇姿を拝見できて感動しました C60もD51も初号機が配備されていたことも初めて知りました 私が知っているのは小さい頃に目にしたDLやELが細々と留置されている晩年の盛岡機関区でしたので
青森電化を半年後に控えたs48年3月に訪れましたが、朝早くから活気に満ちあふれたくさんのSLが群れていました。鉄道輸送が物流の中心だったあの頃、東北本線は北海道に向けたまさに大動脈でした。その先頭に立つ彼らの最後の姿は、いつまでも思い出として脳裏に残り続けています。
平成12年ころ、ED75重連貨物と寝台特急はくつる、583系はつかりを撮影しに茨城県から毎月盛岡に行っていました。その頃には盛岡機関区のターンテーブルと古めかしい建物は残っていた記憶があります。
相鉄線で駅メロが流れるのもすごく違和感を感じましたが、今後の東急直通線も期待!!
鉄道の廃止を止めるとするのならば、鉄道の線路の保守は国が行う上下分離式しかないように思います。鉄道の赤字廃線の話しは良く聞きますが、道路も赤字だそうです。 函館本線が廃止になると、地元の学生、高齢者はバス。地元の人は乗用車。こうなると、自治体の淘汰。悲しい現実です。函館本線の山線は小樽の衰退。山からの産業による木材等の開発が、外材に取って変わられた事もあると思います。
この頃はなけなしのこずかいで、初めて鉄道趣味誌の存在を知り『蒸気機関車』のC62特集を購入してカラーページにあった、C62 3号機の運転台とそこに立つ機関士の写真、印象的でした。 SLニセコ号でC62 3号機が復活したとき、小沢と倶知安で撮影。この時は持っていたカメラをほぼ総動員。二台の一眼レフと。ニコンのレンジファインダー機二台。一日一往復などで、少ないチャンスに少しでも多くのカットを撮る為です。 折り返し駅の倶知安で、休んでいるC62 3号機をカラーとモノクロで撮りまくり。モノクロはネオパンF。発車時間が近付き機回し作業が始まり、ネオパンFを入れたカメラで、運転台を流し撮した写真は『蒸気機関車』で見た運転台を思い起こして興奮しながらも撮ったのを思い出します。
あの山線が廃止されるニュースが流れてますが寂しい限りですね。現代のローカル線が生き残れる方法がないものでしょうか。確かに1日数本の列車を通す為に、あの鉄路を維持するのは大変ですよね……
昔、本島三良さんの鉄道という写真集に触発されて十三本木峠に撮影に行きました三重連の貨物、重連の急行などがつぎつぎにやってきました、その迫力はすごいものがありました
あの大きな機関車が3台もつながって重量貨物を引き上げる姿は本当に迫力満点でしたね❗あの時代にあれほどの物流があったことも今になれば驚きです……最近鉄道の衰退が話題になりますが、この時代が懐かしく思い起こされます⁉️
この時代のカラー写真は雑誌への投稿をするのには、中判カメラで撮影された物のみの受け付けですね。困った事にこの時のポジフィルムはコダックのEXのみで、倍増感して走行写真は天気の日のみ。このフィルムは保存性が良くなく、プロの人でもカラー原稿は退色してしまっているそうですね。 当時はモノクロもフィルム性能の関係で、中判カメラ使っていた人もいましたね。 蒸気機関車の写真を見ていると、当時の撮影事情が書かれていたものを必死に読んでいたのも思い出します。
御殿場線にD52がそろっていたのは、今の東海道本線にしても、新幹線も丹那トンネルは断層地帯を走っているので、地震対策の面もあったんですね。写真見ていると50ミリ標準レンズだけで撮影されていますね。 今はデジタルカメラの時代で、ズームが当たり前。 写真を見ていると、当時のカメラとレンズの描写だけでなく、当時の引き伸ばし用のレンズの息づかいを感じます。
コメントありがとうございます。高校入学祝いに父に買ってもらったカメラで撮り始めた頃なので、まだ望遠レンズもなかったです。二年前くらい前からアップしてますが、これからも頑張って写真の整理をしますので時間があれば楽しんでください。
C55は北海道のイメージが強いのですが九州でも活躍したのですね😀長大重量貨物を牽引するD60は強いですね❗️山口線の連続急勾配を苦にしないのも分かりますね。
筑豊本線は貨物輸送のイメージが強く、D50、D60の活躍が有名ですが、C55も地味に旅客列車牽引で頑張っていました❗
C55、本当に美しい!💖✨ 特急や急行の牽引が、SLから変わってしまっていたのは残念でしたね。😢
鹿児島本線、日豊本線、吉都線を走るSLはどれも手入れが行き届いていて綺麗な姿でした❗
思い出深い山線も、ついに廃線が決まってしまいましたね。😢 ただただ残念です。😭 自分は、C62時代のニセコを見ることは出来ませんでしたが、初めての北海道旅行は山線のお世話になり、それ以来山線が大好きです。🥰 有珠山噴火の影響で、北斗星やトワイライトエクスプレス、北斗などが山線を迂回運転したことも、懐かしい思い出です。😌 廃線前には何としても、もう一度訪れたいです。🙏
メッセージありがとうございます。輸送効率が悪く最大都市の札幌まで代替ルートのあることで廃止はやむ無しなんでしょうね。もともとあれだけの未開の地に鉄道を作った技術と熱意に今更ながら感心するばかりです……常磐線、呉線、函館本線でC62を撮影しましたが、やはり山線で最後まで頑張った姿が一番記憶に残っています。最後の山線を楽しんで来てください❗
貴重な動画を拝見いたしました。 9600の力強い活躍ぶりに見とれてました。 トラ塗装の前補機珍しいですね。 煙の上がり具合から死闘の音が聞こえてきそうです。👍✨
パソコンが年末に壊れてしまいアップが遅れてしまいました。次回も頑張ってお送りしますので、ご覧頂ければと思います。
素敵な動画ありがとうございます。🙂
パソコンが年末に壊れてしまい、次回アップが遅れていますが、今年も月一回のペースでお送りしますので、時間があればまたご覧ください。
@@野村朗-i4s 様。 ご返事ありがとうございます。 これからも楽しみにしていますので、どうぞよろしくお願いいたします。