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te tu
Добавлен 25 ноя 2017
お城が好きなので、お城を中心に戦国時代関連の動画を投稿しています。
好きなお城に行きたくてもまだ行けない子供や行くことが難しい方等に
そのお城の歴史や雰囲気が伝わればいいなと思っています。
城の華やかさや縄張りの技巧さ等より、戦国武将達の慰霊が主な訪城目的となっています。
人の役に立てればいいと思っていますが、所詮、自己満足の陶酔動画ですのでご容赦ください。
登城方法はなるべく往時の人達と同じ目線でいたいことや、
温室効果ガス抑制の為、なるべく徒歩や電車等で訪れるようにしています。
マイカーで行くのはカミさんか子供が一緒で駐車場が完備されている場合です。
路上駐車で地元の方に迷惑かけるのが嫌なので、駐車場のない城には車で行きません。
ニコニコ動画には2013年から動画を投稿しています。
好きなお城に行きたくてもまだ行けない子供や行くことが難しい方等に
そのお城の歴史や雰囲気が伝わればいいなと思っています。
城の華やかさや縄張りの技巧さ等より、戦国武将達の慰霊が主な訪城目的となっています。
人の役に立てればいいと思っていますが、所詮、自己満足の陶酔動画ですのでご容赦ください。
登城方法はなるべく往時の人達と同じ目線でいたいことや、
温室効果ガス抑制の為、なるべく徒歩や電車等で訪れるようにしています。
マイカーで行くのはカミさんか子供が一緒で駐車場が完備されている場合です。
路上駐車で地元の方に迷惑かけるのが嫌なので、駐車場のない城には車で行きません。
ニコニコ動画には2013年から動画を投稿しています。
【日本の城】尾張国中山城 令和6年(2024) 初冬
2024年の11月中旬、愛知県半田市にある中山城址(なかやまじょうし)を訪れました。
築城年代等は不明ですが、
16世紀中頃から江戸時代初期まで水野氏の家臣である中山氏が城主だったようで、
岩滑城(やなべじょう)から中山勝時が移ったとも伝わりますが、詳細は分かっていないようです。
城址と伝わる場所は童話『ごん狐』の作者である、新美南吉さんの記念館があり、
城址の北側にある矢勝川は『ごん狐』の舞台と考えられるようです。
城址の南にある「童話の森」は周囲より小高い丘になっており、
木で周囲の景色は見えませんでしたが、
木がなければ周囲を見渡し、北の矢勝川を抑える要衝だったと思います。
今回、岩滑城と中山城を訪れたことにより、数十年振りに
『ごんぎつね』や『てぶくろをかいに』を思い出すことができました。
築城年代等は不明ですが、
16世紀中頃から江戸時代初期まで水野氏の家臣である中山氏が城主だったようで、
岩滑城(やなべじょう)から中山勝時が移ったとも伝わりますが、詳細は分かっていないようです。
城址と伝わる場所は童話『ごん狐』の作者である、新美南吉さんの記念館があり、
城址の北側にある矢勝川は『ごん狐』の舞台と考えられるようです。
城址の南にある「童話の森」は周囲より小高い丘になっており、
木で周囲の景色は見えませんでしたが、
木がなければ周囲を見渡し、北の矢勝川を抑える要衝だったと思います。
今回、岩滑城と中山城を訪れたことにより、数十年振りに
『ごんぎつね』や『てぶくろをかいに』を思い出すことができました。
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【日本の城】尾張国岩滑城 令和6年(2024) 初冬
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2024年の11月中旬、愛知県半田市にある岩滑城址(やなべじょうし)を訪れました。築城年代等は不明ですが、榊原主殿が築城したと伝わり、天文12年(1543年)、宮津の新海淳尚を攻め滅ぼした水野信元が岩滑城に家臣の中山勝時を入れたと伝わります。後に中山勝時は西に中山城を築き、そちらに移ったようです。城址の近くには童話『ごん狐』の作者である、新美南吉さんの生家があり、城址の北側にある矢勝川は『ごん狐』の舞台と考えられるようです。北の矢勝川を天然の堀とし、周囲より高台にある常福院が岩滑城跡と伝わります。中山勝時は徳川家康の母・於大の方の妹を妻としており、家康の叔父に当たる人物で、矢勝川に架かる橋は家康も渡ったと伝わります。矢勝川の流れは非常に穏やかで、周囲の風景も非常に印象的でした。
【日本の城】美濃国三井城 令和6年(2024) 晩秋
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2024年の10月下旬、岐阜県各務原市にある三井城址(みいじょうし)を訪れました。 築城年代等は不明ですが、古くから砦が築かれ、戦国時代には山城となっていたようです。 木曽川を見下ろす標高108mの三井山に築かれた山城で、 北は稲葉山城、南は尾張国を一望できる要衝でしたが、 天文17年(1548年)、尾張の織田信秀(織田信長の父)に攻められ落城し、 廃城になったと考えられるようです。 現在、城址の本丸跡には御井神社が建っていますが、 本丸跡からは周囲の眺めがよく見えます。 本丸と第一曲輪から第三曲輪の曲輪が残っているようですが、 第二・第三の曲輪は草木が生えており、曲輪の範囲についてよく分かりませんでした。 西の登山口には北ルートと南ルートの登山道がありますが、 北ルートは水道関係の施設で改変が激しいので、 南ルートからの登城をお勧めします。
【日本の城】尾張・美濃国松倉城 令和6年(2024) 晩秋
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2024年の10月下旬、岐阜県各務原市にある松倉城址を訪れました。 築城年代等は不明ですが、戦国時代に坪内氏が築城したと伝わります。 城主・坪内利定は織田信長に仕え、各地を転戦したようですが、 信長死後は羽柴秀吉と不仲になり、その後、徳川家康に仕え、 関ヶ原の合戦では、井伊直政の軍に属し戦功をたて、 その功により、羽栗・各務両軍に6500石の領地を得て、 幕府の 本となり、新加納に移り、松倉城は廃城になったと考えられます。 現在、城址とされる所は木曽川の河川整備の為、遺構は残っていませんが、 城主・坪内氏のお墓にあった石碑(明治43年に守り役の小島清太郎さんが建立)を南へ70~80m移設したものがあり、説明板もあります。 木曽川の流路が変わっているので、往時に正確な様子は分かりませんが、 木曽川(境川)を抑える重要な拠点だったと想像できました。
【日本の城】伊勢国神戸城 令和6年(2024) 初秋
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2024年の8月中旬、三重県鈴鹿市にある神戸城址を訪れました。 伊勢国の神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532年 - 1555年)に築城したと伝わり、 天正8年(1580年)、織田信孝(織田信長・三男)が城を改修し、 五層の天守を築いたと伝わり、本丸には天守台の石垣が残っています。 現在、本丸は神戸城公園となり、二の丸と三の丸跡には神戸高校が建っています。 遺構は天守台の石垣と、本丸南に土塁、本丸の西と南に堀跡が残っています。 公園化されていますが、天正の時代に築造された石垣が残っているので、 戦国時代の気概をどことなく感じさせてくれる城址でした。
【日本の城】陸奥国猪苗代城と土津神社 平成30年(2018) 初秋
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2018年の8月中旬、福島県耶麻郡猪苗代町にある猪苗代城址を訪れました。 築城年代等は不明ですが、 猪苗代を本拠とした佐原氏(猪苗代氏)が鎌倉時代以降に築城したと考えられるようです。 天正17年(1589年)、会津の葦名氏と米沢の伊達氏が争った 摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、この城の西方で行われました。 摺上原の戦い後、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、 猪苗代盛国も猪苗代を離れ、約400年に及ぶ猪苗代氏の支配が終焉しました。 会津領主が蒲生氏郷になると、蒲生郷安が猪苗代城主となり、 慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に移封されると、 慶長5年(1600年)春、今井源右衛門国広(または国清)が同城に入るが死去し、 後 として水原親憲が福島城から移りました。 関ヶ原の戦い後、蒲生秀行が再入部すると、猪苗代城には関一利が7500石で入りました。 寛永20...
【日本の城】三河国保科正直邸址 令和6年(2024) 晩夏
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2024年の7月中旬、愛知県安城市にある保科正直邸址を訪れました。 以下、安城市文化財図録HPの説明です。 信濃国高遠城主保科正直が、1584年(天正12)7月に桜井松平家の未亡人多却姫(徳川家康の妹)と高遠で婚儀をあげた時、小牧長久手の戦は終わっていたが、徳川方は反撃に備えて領内の守備をさらに整えていった。 正直も家康の妹婿となったのを機に、山崎に館を置いて防備にあたったとされ、1590年(天正18)に家康の関東移封にともない、この地を去るまでの6年間の期間が、この屋敷の存在期間と思われる。屋敷の遺構は発見できないが、館跡である正法寺境内は周囲より切岸状じょうに1~2メートル高くなっている。 以上、安城市文化財図録HPの説明です。 東の岡崎方面を抑える山崎城とは低地を挟んで西側にあり、 西側を意識して築かれた館城だったのではないかと思いました。 岡崎城と安祥城の間に位置しているので...
【日本の城】三河国山崎城 令和6年(2024) 晩夏
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2024年の7月中旬、愛知県安城市にある山崎城(やまざきじょう)址を訪れました。 以下、安城市HPの山崎城の説明です。 山崎城は、矢作川右岸、碧海台地の東端に位置します。 北側は谷地形で、東側は沖積地に面しています。 現在、城館の一部区域は山崎神明社の境内になっています。 「松平記」・『寛政重修諸家譜』によると、 山崎城は1543(天文12)年に織田氏と親密な関係にあった松平信孝によって築城されたとあります。 しかし、築城して5年後の1548(天文17)年、 今川氏の配下として敵対していた松平広忠の在城する岡崎城攻撃に出陣し、戦死してしまいます。 そして翌1549(天文18)年、今川氏は、軍を派遣して織田氏の勢力下にあった安祥城を攻略して明け渡させました。この時、山崎城も廃城となりました。 堀や土塁は1960年代の土地改良事業が行われるまでよく残存していました。 土地改良事業以前の1...
【日本の城】三河国上条城 令和6年(2024) 晩夏
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2024年の7月中旬、愛知県安城市にある上条城(じょうじょうじょう)址を訪れました。 築城年代等は不明で、 城主も上条氏や足立吉太夫等と伝わるようですが、詳細は不明です。 安祥城の北にある丘の一番高い位置にある城址とされる付近に浄玄寺(じょうげんじ)があり、 城に活用する場所としてはありだと思いましたが、 遺構等は特に見つけられませんでした。 また、「三河国二葉松に出てくる城である」という情報が インターネット上にちょこちょこ出てくるのですが、 国立公文書館デジタルアーカイブと愛知県立図書館の貴重和本デジタルライブラリーの 「三河国二葉松」を確認しましたが、「上条城」についての記載は見つけられませんでしたので、 記載箇所を知ってる方は是非とも教えてください!
【日本の城】三河国安祥城(安城城) 令和6年(2024) 晩夏
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2024年の7月中旬、愛知県安城市にある安祥城址を訪れました。 室町時代の永享年間(1429~1441)、 志貴荘の地頭・和田親平(わだちかひら)によって築城されたと伝わります。 文明8年(1476)頃に岩津城の松平信光(まつだいらのぶみつ)が安城城を奪い取ったと伝わり、 その後、信光の子の松平親忠(まつだいらちかただ)が城主となったようです。 4代・松平清康(まつだいらきよやす・徳川家康の祖父)が本拠地を岡崎に移しますが、 天文4年(1535)に清康が家臣に暗殺されると、 尾張の織田信秀(おだのぶひで・織田信長の父)が安城城を攻め取り、 松平・今川方と織田方の間で焼く10年間、3度にわたる安城合戦が繰りひろげられ、 松平方の本多忠豊(ほんだただとよ・本多忠勝の祖父)や 本多忠高(ほんだただたか・本多忠勝の父)が討死にしました。 永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に松平家(徳川家)...
【日本の城】三河国安城古城 令和6年(2024) 晩夏
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2024年の7月中旬、愛知県安城市にある安城古城址を訪れました。 築城年代等の詳しいことは分かりませんが、 鎌倉時代に安藤氏が居館としていたと伝わり、 室町時代には和田氏が5代にかけて本拠としていたようです。 永亨10年(1438)の永亨の乱後に、 安祥城を築き移った為、廃城になったと考えられるようです。 また、天文9年(1540)、織田勢が安祥城を攻めた時に、 松平勢はここを前線基地の一つとして兵を入れて戦ったとも伝わるそうです。 現在、明確な遺構や城址碑等はありませんが、 土塁跡なのか一段高くなったところに社口社が建っており、 城の説明板もあります。
【ドイツの旅】14_アーヘン大聖堂_2020年1月
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2019年の年末から2020年1月上旬にかけてドイツに旅行に行きました。 最終日はアーヘンを散策します。 アーヘンはドイツ西部にあり、オランダ・ベルギーと国境を接している人口25万人程の街で、古代ローマ帝国時代からの歴史があります。 8世紀末にフランク王国のカール大帝がアーヘン大聖堂を建設し、アーヘン大聖堂では、936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われました。 1978年、アーヘン大聖堂は世界遺産第1号の12箇所の一つとして、世界遺産に登録されました。 今回はアーヘン大聖堂を訪れ、動画の最後にエンディングを挿入しています。 ドイツの旅の最終回である本動画は2020年にニコニコ動画にアップロードしていましたが、RUclipsにアップロードしてなかったので、今更ながらアップロードします。
【日本の城】大和国多聞山城(多聞城) 令和6年(2024) 初夏
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2024年の5月中旬、奈良県奈良市にある多聞山城(たもんやまじょう)址を訪れました。 永禄2年(1559年)、松永久秀が大和国支配の拠点として築城を開始し、 永禄4年(1561年)久秀が入城、 永禄7年(1564年)城が完成しますが、 天正元年(1573年)末に織田信長へ引き渡しとなり、 天正3年(1575年)塙直政が大和守護として入ったが、直政は翌天正4年、 本願寺勢力との戦いで討死に、 天正5年(1577年)に城は破却され、廃城となりました。 奈良盆地の北に位置する標高115m程(比高約50m)の多聞山に築かれた城で、 北から奈良に睨みを利かすとともに、東の京街道を抑える城でした。 古文書等に四重の矢倉や壮麗な城内の様子が残されており、 近世城郭の先駆け的な城だったと考えられており、 各地に存在する多聞櫓は多聞山城から呼ばれるようになったとも考えられるようです。 現在、本丸跡は若...
【日本の城】越後国村上城(本庄城) 令和6年(2024) 晩春
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2024年の4月中旬、新潟県村上市にある村上城址を訪れました。 築城年代等は不明ですが、 戦国時代(16世紀初頭)に、越後揚北衆の本庄氏によって築城されたとみられています。 城主・本庄繁長は上杉謙信・景勝の家臣として活躍した武将でした。 慶長3年(1598年)、上杉氏の会津転封にともない、 堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となりました。 元和4年(1618年)、堀直寄が10万石で村上に転封。 村上氏と堀氏の改修により、近世の村上城の基礎が完成しました。 慶安2年(1649年)に姫路から松平直矩が入城。 寛文年間に村上城は大規模に改修され、天守・櫓等が新たに造り直されますが、 寛文7年(1667年)の落雷により天守等を焼失。 以後、城主が転々と変わったこともあり、天守が再建されることはありませんでした。 享保5年(1720年)、徳川家康の家臣だった内藤信成の子孫が村上に入部し、 明治時代を...
【日本の城】出羽国尾浦城 令和6年(2024) 晩春
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2024年の4月中旬、山形県鶴岡市にある尾浦城址を訪れました。 天文年間(1532年〜1555年)頃に大宝寺氏(武藤氏)によって築かれたと伝わり、 戦国時代に庄内地方で勢力を誇った大宝寺氏(だいほうじし)の居城でした。 城主の大宝寺義氏は上杉謙信や織田信長と誼を通じ、 安東氏や最上氏と争いながら勢力を広げていきますが、 天正11年(1583)、家臣の東禅寺義長(とうぜんじよしなが)の裏切りにあい、 尾浦城を包囲され、城外の高館山で自害しました。 家督を継いだ大宝寺義興も、天正15年(1587)、最上義光に攻められ自害し、 最上氏が支配しました。 江戸時代に入ると一国一城令が出され、尾浦城は廃城となったようです。 標高273mの高館山の東の麓の低山に築かれた山城で、 公園化によって改変されていますが、 曲輪跡と思われる所がよく残っています。 主郭跡からは東の庄内平野を一望でき、土塁跡と...
偶然に視聴させていただきました。地元の者ですが、大変興味深く見させていただきました。 特に東側からの登城道は参考になりました。挑戦してみます。
セントレア✈行くときよく通りましたよ😊
スンバらしぃ!😊 早速チャンネル登録しました。
人の声はないですが、なんともいえない、 味わいがありますね。自分は面白かったですね。土佐清水出身、千葉県人より
ありがとうございます。 土佐清水には行ったことがないのですが、近くの中村の中村城もRUclipsに投稿してますので、よろしければそちらもご覧ください。RUclipsにもまだ中村城の動画少ないので、「中村城」または「土佐国中村城」で検索するとすぐ分かるかと思います。一応、中村城の動画のURLも載せておきますが、気が向いたらご覧ください。 ruclips.net/video/xoi0kI2YQmM/видео.html
旅行に行けなくても、行った気分になるのでホントにありがたいです❗🙂
サイコーです。 早速チャンネル登録しました😊
ありがとうございます。 サイコーな動画を投稿できるよう頑張ります!
風情がある景色ですね❗️ 釣り人もその景色に馴染んでとても良いです‼️ 遠くに見える金華山も素敵でした👍️ これからも動画配信楽しみにしてます❗️(見れてないことが多々ありますが😟)
ありがとうございます。編笠の釣り人と金華山の風景は、仰る通りでとても風情あるものでした。 気の向いた時に視聴頂き、何かの参考になりましたら幸いです。
昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前 − 織田信孝 辞世
コメントありがとうございます。因果応報と言いましょうか。その織田信孝の織田家も神戸家を乗っ取っているので、諸行無常を感じます。
「これより我ら修羅に入る!! 仏と会えば仏を斬り!!鬼と会えば鬼を斬る!! 情を捨てよ!! ただ一駈けに敵城に攻め入れ!!」(漫画「花の慶次」佐渡攻めの章より)
コメントありがとうございます。 いつかきっと誰かがそのコメントくれると思ってましたw 「花の慶次」のセリフもちろん存じております。 実際現地に行くと、河原田城に8000人(漫画の内容うろ覚えですが)も籠城は絶対無理やろと突っ込みいれてました。
ここは安閑天皇陵だが、畠山氏が占拠した当時も天皇陵と分っていたのだろうか?それともただの小高い丘くらいに思っていたのだろうか?
古城山に登ると桧木内川堤の桜が綺麗に見えます~ それを知ってる人達と…なんで皆んな上がって来ないのかなぁ~と話してました~🌸
大谷吉継の素顔、珍しいぃ!昔は素顔だったんだぁ
最近のシリーズは分かりませんが、昔のシリーズでも素顔なのは『覇王伝』だけみたいです。確かに珍しい。
陸奧国福島城は古代・中世の陸奧国衙跡です。 陸奧国衙内に国家鎮護を願い王老杉大仏(おろすぎだいぶつ)が安置されていました。 大老杉大仏は(おさらぎ)とも呼称されていたため、大仏と記しても(おさらぎ)と読み為され鎌倉時代中後期の陸奧守に任じらてた北条一北条北条宣時は大仏宣時とも名乗りました。 それ故、大仏と記して「おさらぎ」と読み為されました。鎌倉時代最後の陸奧守は大仏貞直でした。 それ故、鎌倉幕府滅亡後も陸奧国衙は「大仏ノ城」と呼称されていました。 陸奧国難調方は伊達郡霊山城に仮野南朝方陸奧国府を置き信夫郡にあった陸奧国衙奪還のため屡々、伊達郡内の諸城から信夫郡に攻め込んでいましたが、奪還叶わず、 逆に貞和三年に北朝方の吉良貞家、畠山国氏等の一斉攻撃を受け、伊達郡内南朝方諸城は全て陥落しました。 室町時代初頭に観応の擾乱が起こり、高師直が畠山国氏討伐を吉良貞家に命じました。その時、畠山国氏一族は陸奧国衙「大仏ノ城」に立て籠もったことが記録されています。 明徳三年に明徳の和約が結ばれた。 一、 後龜山天皇より後小松天皇に御譲國の儀たるべき事、 一、 皇統は大覺寺・持明院領統迭立たるべき事、 一、 諸國々衙領は悉大覺寺統の御官領たるべき事、 一、 長講堂領は持明院統の進止たるべき事、 (村田正志著作集第一巻 増捕南北朝史論 思文閣出版168~169) これにより、陸奧国衙領の差配権は南朝方に与していた伊達氏に付与され、伊達政宗(戦国時代より数代前の人物)は大膳大夫という官職名も与えられた。 しかし、応永十九年に両統迭立の約束を守らず「稱光天皇(中略)應永十九年八月廿九日受禪、同廿一年十二月即二位官廳一。」 伊達松犬丸揚レ旗 同二十年四月十八日、二階堂信濃守が飛脚と、信夫常陸介の早馬と、同時に鎌倉に参着して申しけるは、伊達大膳大夫入道が子息松犬丸、生年二十一歳、會津山中に隠れ居たりしが、家子郎従此処彼処より馳せ参り、懸田播磨守定勝入道玄昌を語らひ、近辺のあふれもの共を招き集めて、其勢五六百騎に及ぶ、大仏の城に閉籠り、百姓を脅して、資財を掠め奪ひ、民家に乱入して、米穀を取運び、軍勢日に從ひて馳せ着く、漸く国中に蔑り候、城の要害極めて堅固に、切岸高く峙ち、小勢を以て攻干し難く候、早く討手を向はせられずば、災、大になり候べしとぞ告げたりける、持氏聞召し、畠山修理大夫義忠に、八千余騎を差添へ向はしめらる、既に城近くなりしかば、大手・搦手・同時に押寄せたりけれども、容易く攻上り難し、憖の事に、人数を損じては然るべからずとて、城の麓に陣屋を取固め、夜討の用心してぞ居たりける、城中之に気を屈して、ただ折々は、逆茂木の際まで下り立て、鬨の声をつくり、矢を射出し、敵を小引きて日を送りけり、斯くて十一月にもなりしかば、嵐に交わる時雨は、間なく時なく降りみ降らずみ、朝置く霜の霜柱、膚に徹りて凄じく、夕積む雪や雪霙、 凍え渡りて堪へ難し、手屈まぬ薬もがなと、彼の北越の戦まで、思ひ合せて物わびしく、心細さは、限りなし、斯る所に、城中いかがしたりけん、俄に出火燃え出でて、折節吹荒ぶ嵐に、作り並べし小屋共、一時の間に焼けにけり、いかさま城中に、返忠の者ありけるかと、互に疑ひしが、四方の櫓は、堅固に防ぎて恙なし、寄手八千余騎、すはや城中の者共の、自滅するぞやとて、四方の軍勢一同に潜き連れて、攻上りしかども、懸田入道は、さすがに老功武勇のものにて、少しも騒がず、郎従に下知して、張置きたる石弓を切って放つに、寄手若干之に討たれ、むらむらになって引退く、其間に、火は既に鎮まりぬ、寄手も重ねて進み得ず、されども城中には、山の如く積み置きたる兵粮を焼き失ひ、とても此城を、持遂ぐべきにあらずとて、十二月廿一日、竊に城を落失せたり、松犬丸・懸田入道落失せたる上は、軍兵皆思ひ〳〵に、夜に紛れて落行く所を、寄手の兵追詰め〳〵、或は打伏せ切倒し、或は生捕り搦め取りて、首三百余を切懸けて、大将畠山を始めて、諸軍事故なく鎌倉に凱陣す、寄手の数を損ぜずして帰りしは、神妙なるに似たりと雖、永永の在陣に、さして仕出したる功もなく、城は自滅に落ちて、大将を討漏らしつることを、持氏いと無興し給ひければ、帰陣の首尾、何を以て取囃すべきこともなく、修理大夫は面目なく、暫し出仕を止め、閉門してこそ居られけれ、 皇統迭立反故に抗議して、伊達松犬丸(後の伊達大膳大夫持宗)、懸田播磨守定勝入道玄昌等が、陸奧国衙「大仏ノ城」に立て籠もった。 大仏ノ城は北条一族の名残をけすため杉の目城と改称された。 戦国時代の伊達政宗の豊臣秀吉の全国惣無事令に反したとして岩出山に移封された。 豊臣秀吉により、諸国の国衙、国衙領は廃止された。陸奧国国衙、国衙領も廃止され、木村吉清は居館を大森城か杉の目城に移し、府城(杉の目城)を福島城と改めた。 これが、福島という地名の由来である。 通説では陸奧国府を多賀城とするが、六国史は多賀城を辺縁の城塞の一つと明記されている。 多賀城は名取以南十四郡から離れた賀美郡部内にあった城柵であり国衙ではない。 であるから、東鑑文治五年八月の条に多賀国府と記すことから同条は、存在しない多賀国府の存在を記すことから、同条は虚構と断定できる。 陸奧国の古代中世史は多賀国府の存在を前提に論じられているが、前提が誤りであるから通説の陸奧国の歴史は虚構である。
私の母方のご先祖様に鳥居強衛門が居ますだから長篠城には思い入れが強いです。
松永久秀も1次資料の研究が進んで、それまでイメージされていた 「梟雄」とは随分違う実像が出てきましたね。 出っ歯の肖像画が発見されたり、 信貴山城での「爆死」が同時代資料に見当たらず、昭和以降に出来た説らしいことが明らかになったり、足利義輝を殺した永禄の変を主導したのは息子の松永久通で、久秀は当日大和国内にいて、事後報告を受けただけだったらしいことなど、久秀の「悪行」として名高い逸話のほとんどが再検証されています。 島左近の墓は、奈良にもあったんですね。京都の立本寺の「島左近友之」名義の墓が有名ですが、九州熊本の西岸寺にも、島左近こと泰岩和尚の墓が残されています。
「出っ歯?」と思い、Wikipediaの松永久秀の肖像画を拡大したら、確かに出っ歯でしたw 信貴山城の「爆死」は信長に貴重な火薬取られたくなかったから使い切っただけとかかもしれないですね。火薬はドンパチしてたかもしれないですけど、普通に切腹したとか。 永禄の変は松永久通が主導となっているんですね。私の一次資料である『信長の野望 覇王伝武将ファイル』には「久秀が将軍義輝を暗殺」と書いてありましたので、歴史の研究も進化しているんですね。 学生時代を京都で過ごしたんですが、立本寺の「島左近友之」の墓は知りませんでした。対馬とか陸前高田とか、全国にお墓があるみたいです。熊本の西岸寺にもあるんですね。情報ありがとうございます!
島左近についての追伸です。私が先日コメントした京都の立本寺の塔頭・教法院にある「島左近友之」の墓が発掘されて、ほぼ1体分の成人男性の遺骨が出土したと、今日のYahooニュースに出ていました。この人骨が左近本人のものかどうかは、これからの調査によるそうです。ちなみにソースは読売新聞でした。
東北にも金ヶ崎城がありますよ。それは岩手県金ヶ崎町の陸奥金ヶ崎城です。 陸奥金ヶ崎城は北上川の断崖に築かれた平山城です。その城は延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)征伐の際に築城したのが始まりだと伝えられています。 中世には葛西氏家臣・柏山氏や小野寺氏が陸奥金ヶ崎城に滞在したといわれていますが、不明です。 江戸時代になると、陸奥金ヶ崎城は仙臺藩伊達領となり、南部藩(盛岡藩)領との境目にあることから「金ヶ崎要害」と改称され、仙臺藩の北限を守る要衝地として重視されました。(この場合の要害は、仙臺藩独自の支城体制の1つ・「要害」のことを指します。「要害」とは城に準ずる軍事拠点であり、伊達氏家臣が中世城郭を破却せず、そのまま居館(要害屋敷)として再利用した施設です。仙臺藩内には21ヶ所の要害(例えば、谷地小屋(やちごや)要害(現・福島県新地町)、亘理(わたり)要害(現・宮城県亘理町)、人首(ひとかべ)要害(現・岩手県奥州市)など。)が存在しました。また、「要害」以外に「所」・「在所」と言う支城体制で仙臺藩内を統治しました。) 慶長6年(1601年)には桑折氏が、元和2年(1616年)には留守氏(水沢伊達氏)が、正保元年(1644年)には大町氏が陸奥金ヶ崎城主を務めました。以来、大町氏は幕末まで金ヶ崎の領内を支配しました。 現在、陸奥金ヶ崎城は築城当時から北上川の侵食で城の形状が変わっていますが、公園として整備されており、土塁や空堀や郭が残っています。その近くには藩政時代の武家の街並みがよく残っており、武士の気分を味わうことができます。また、「金ヶ崎要害歴史館」では、陸奥金ヶ崎城の歴史について学ぶことができるので、陸奥金ヶ崎城に行く前に情報収集するのがオススメです‼️更に陸奥金ヶ崎城について詳しく知りたいなら、仙臺藩と伊達氏について解説する「青葉 伊達チャンネル」さんの動画を是非ご覧下さい。 因みに、岩手県金ヶ崎町は前九年合戦の舞台でもあります。そのため、前九年合戦に関連する史跡が数多くあり、特に奥六郡の支配者・安倍氏の重要な居館とされる鳥海柵(とのみのさく)や、源頼義が前九年合戦の際、戦勝祈願として信濃国(現・長野県)の諏訪大社を勧請したといわれる金ヶ崎神社(諏訪神社)や、鎌倉時代に葛西氏家臣・柏山氏が築いた陸奥大林城などが有名なので、機会があれば是非行ってみて下さい🏯 「青葉 伊達チャンネル」さんの「仙台藩一族 金ヶ崎大町氏」についての解説動画の外部リンク↷ ruclips.net/video/ggx2hKo5YBA/видео.htmlsi=5Gtoh6Rq9PU0sxb_ 「青葉 伊達チャンネル」さんの「[絵図集]伊達二十一要害の全貌!」についての解説動画の外部リンク↷ ruclips.net/video/Gf-YE726HEk/видео.htmlsi=UsNVq5kSDl737VIe 陸奥金ヶ崎城と金ヶ崎町内諏訪小路の外部リンク↷ www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017071900038/ 金ヶ崎要害歴史館の外部リンク↷ www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017071900014/ 鳥海柵の外部リンク↷ www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017071900021/
陸奥金ヶ崎城の情報ありがとうございます。金ヶ崎要害は伊達藩の要害の一つとして名前は知っていましたが、金ヶ崎城の歴史等は知りませんでした。 陸奥金ヶ崎城に訪問する機会がありましたら、紹介頂いたリンク先を参考にさせて頂きます。
@@tetu7930 (追記) 陸奥金ヶ崎城には「白絲館(しらいとだて)」という別名があります。その由来は、陸奥金ヶ崎城に安部貞任の叔父・金為行が居城し、貞任の死後は安倍頼良(安倍貞任の父。後に「頼時」と改名。)の娘・白絲前(しらいとのまえ)が居住したといわれています。 そのため、陸奥金ヶ崎城には「白絲館」という別名があり、陸奥金ヶ崎城は前九年合戦の舞台の一つとして有名です。 また、源頼義が前九年合戦の際に、陸奥金ヶ崎城に宿陣したという伝承があります。
@@michinokubito 陸奥金ヶ崎城の情報ありがとうございます。 前九年の役の舞台の一つである鳥海柵から1km程しか離れていないんですね。 前九年の役については詳しくないのですが、安倍貞任公の弟の安倍宗任公は役後に伊予、筑前に流されて、筑前大島で死去し、安倍晋三元首相は宗任公の末裔と称していたそうです。
@@tetu7930 (更に追記) そう言えば、安倍宗任には梅の花に関連する歌のエピソードがありますよ。 それは、都の貴族たちが「蝦夷(エミシ)は花の名など知らぬだろう。」と侮辱して梅の花を宗任に見せた際に、宗任が「わが国の梅の花とは見たれども大宮人は如何言うらん(我が国では梅の花と言うのですが、都では何と言うのでしょうか?)」という歌で返答し、歌で返答した宗任に都の貴族たちはびっくりしたというのです。 この歌は都の人々に対する反撃として、宗任が教養のある武将であること、そして、宗任が奥六郡主・安倍氏一族としてのプライドがあることを知ることができます‼️ 因みに、独眼竜・伊達政宗公も似たようなことをされました。政宗公が上洛した際、都の人々から桜の花の名前を聞かされたといいます。この時、政宗公は「都人 梅懲りずに 桜かな(都の人々はかつて安倍宗任に梅の花で恥をかかかせたくせに、今度は桜の花で恥をかかせたいのか?)」という歌で返答したといいます。 この歌も都の人々に対する反撃として、安倍宗任と同様に政宗公は教養のある武将であることと、奥州の覇者としてのプライドがあることを示しています🌙
山の上の石垣の城、「天空の城」竹田城や「荒城の月」の岡城を思い出しました。
竹田城に岡城いいですね!山の上の石垣の城は本当に見事なんですが、どうやってここまで運んだの?といつも昔の人の技術に驚嘆します。
福島県南相馬市小高区にも村上城がありますよ。それは相馬村上城です。 相馬村上城は太平洋を望む高台にある平山城であり、慶長元年(1595年)に奥州相馬氏16代当主・相馬義胤(外天公)によって築かれた城です。 当初、相馬村上城は相馬小高城(現・相馬小高神社)に替わる居城として工事が行われる予定でしたが、建物が火災で全焼したため、義胤はこれを不吉として工事を中止し、未完のまま廃城となりました。その後、移転先を牛越城(現・福島県南相馬市原町区)へ変更しました。 現在、相馬村上城の跡地には本丸跡に貴布根神社が鎮座し、海側は海岸線の浸食にともない消失しているものの、一部に土塁や堀が残存しています🏯
相馬村上城の情報ありがとうございます。小高城を訪れた時に村上城のすぐ北の塚原地区まで行きましたが、そこから撮った写真に村上城の高台が写っていました。太平洋を一望できる海を抑える城だったんですね。
たまたま視聴しましたがすごく壮大な動画でとても面白かったですありがとうございます😊
ありがとうございます。村上城と村上の街も良い所ですので、興味を持ってもらえたら幸いです。
とても よく遺構が 残されていますね 大事にしてください 変にいじらないことを願います。
そうですね。素晴らしい遺構が残されているので、変に改変せず後世にこの姿を引き継いでいってもらいたいです。
とても良く保存されていて 嬉しいですね。
そうですね。残された部分はよく整備されていて感謝です
友達の白川くんの家の裏で…当時は…森?…林がありました… しょっちゅう森で…缶蹴りとか…やってたなぁ…
現地に赴きたくなる動画でした!ありがとうございました
ありがとうございます!是非とも現地に行かれて下さい!
松平家忠著「家忠日記」は、長崎県島原市の本光寺(たぶん幸田町の方の末寺)に付属する本光寺資料館で見たことがあります。他の展示品には藩主の膳や衣装、家忠が鳥居元忠らとともに討死した伏見城の戦いの陣立図、今川義元、織田信長や上杉謙信の書状、李氏朝鮮時代の世界地図など、見ごたえのあるものがありました。
島原市の本光寺と資料館の情報ありがとうございます! 伏見城の戦いの陣立図、今川義元、織田信長や上杉謙信の書状、李氏朝鮮時代の世界地図・・・どれも是非とも見てみたい物ばかりです! 島原の本光寺は「沖田畷の戦い」の舞台の一つとなった「丸尾城」の跡地なんですね。島津方の猿渡信光公と龍造寺方の鍋島直茂公が激戦を広げた地ですか・・・原田様のおかげで知識をアップデートすることができました。本当にありがとうございます。
@@tetu7930 本光寺に行ったのはもう5〜6年前ですが、投稿主様が仰るとおり本光寺の境内は丸尾城の跡で、ちょうど藩主松平家廟所(幸田町の方に遺体があるなら詣り墓)の位置が本丸の跡だと案内板が出ていたと記憶しています。
この夏目広次という武将がいなかったら、子孫である夏目漱石が「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」や「三四郎」などの作品を生み出すことはなかったでしょう。
夏目漱石は夏目広次の子孫ではなく、武田信玄の家臣だった信濃の夏目氏の流れのようなので動画内では取り上げませんでした。 soseki-museum.jp/blog/blog_soseki/9531/ 上のリンクはいずれ切れるかもしれないので、コメントに内容記載しておきます。 漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。 小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、 三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、 その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、 八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。 武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、 北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。 これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、 もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。 漱石自身もこれらは認識しており、 「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」 (漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。 信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も 同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。 すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、 家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。 江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、 徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、 漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。 (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)
いずれのルートもかなり上るようですね?
そうですね。比高は100mもない山と思いますが、下の登城口からだと20~30分くらいかかると思います。
天野岩戸の岩戸町住人です。 2年前ですね。気付きませんでした。 龍神様は、ポストの映っていた、天野家由来?のお地蔵さまから、ほんの50メートル奥に進んだ処に有りますよ。 僕の息子は、長崎の大学に行っていましたので、何か不思議な縁を感じます。
コメントありがとうございます。竜神様はお地蔵様から少し奥に行った所だったんですね、情報ありがとうございます! 長崎も九州ですが、私が育った福岡県には安芸天野氏(広島県)の末裔と思われる天野さんがいて、自分の小学校時代の友人もきっとその子孫だったのかと思います。 秦梨の地名の由来である朝鮮半島との結びつきは長崎や博多も昔から盛んでしたので、遠く離れた三河ともなんやかんやで縁があり、歴史はおもしろいものだなと感じております。
溝口氏と言えば、溝口秀勝‼️ 溝口秀勝と言えば、新発田城が有名ですね🏯
そうですね。溝口氏は西溝口城→熊之庄城→溝口城(豊場城)に移っていったとも伝わり、秀勝の弟の常吉(勝吉?)が熊之庄城を居城にしたとの説もあるようなので、秀勝も訪れていたかもしれません。
和歌山城の展示物は、当時のものも多数展示しており、ほかのお城に比べても現存している当時使われていたものが多くてイイですね!
見事な編集をありがとうございました。太田は瑞龍に住まいしておりますが大変勉強になりました。
視聴・コメントありがとうございます。瑞龍中学校が小野崎城のあった所と伝わるので、瑞龍にも行きたかったのですが、今回は行けませんでした。また常陸太田に行く機会があれば、馬場八幡宮と瑞龍の方にも足を伸ばしたいと思っています。
自分の住んでいる街、少しは街の歴史を学びましたが最近は車での移動が多くて町の景色をしみじみと目にすることが少なくなりました。
我が故郷を、丁寧に案内して頂き有難うございます。 特に、実家近くの吉田城迄…戦国常陸への想いを巡らしてます。
ありがとうございます。 ご実家が吉田城の近くなんですね。 もう少し時間があれば、吉田城跡まで行きたかったです。 水戸から東京までの電車の車窓を見ながら、 関東大震災のような有事の際は、 常陸国茨城県が大きな役割を果たすと 広がる農地を見て思いました。 頼もしい故郷だと思います。 戦国常陸への想いも素敵です。
「蛮社の獄」で渡辺崋山は自害、高野長英は牢屋敷を脱獄して各地を潜伏するものの、江戸に戻ったところで捕縛され獄死。 一方で彼らを弾圧した鳥居耀蔵は、後に水野忠邦を裏切った報復で丸亀藩に流罪にはなったものの、無事に明治維新後まで生き延びている。
ただの城址として、片付けられるのはもったいないし、悔しさを覚える。
田原城もかなり広い城郭だな!ただ往時の建物がないだけであって………
久々に見させてもらいました❗️ タイトルに『晩夏』とありましたが、まだまだ暑いのでお身体に気を付けて活動なさって下さい❗️ 応援してます‼️😀
ありがとうございます。 タイトルの季節は歳時記の季語を使用しています。 花隈城に登城した日は7/23だったので、 二十四節気だと立秋(2023/8/8)の前の大暑に辺り、季節は晩夏になります。 口語で使用する「晩夏」とは1ヶ月以上異なるので違和感あるかもしれませんが。
おい! 昭和13年でさえも85年前だぞ! 俺の親父は昭和 15年生だぞ! 人間って長生きできねぇ〜な!
ただ当時の資料がないので、往年を想像できないと言うのはやや残念だな!
返って中世城郭のほうが曲輪が多くて楽しいかも………
確か関東の方にも滝山城ってあった気が…… 俺の勘違いかな………?
隣接する伊深(いぶか)にあった伊深城についてご存じの方教えてください。書籍には加治田城主・佐藤忠能は絹丸の戦いで嫡男を失い、その後伊深・佐藤信則のところに身を寄せ生涯を終えたとなっています、伊深佐藤氏は幕府旗本として幕末まで続いている
清水寺 寺傳によるよと創建は808年 開山は京都清水寺と同じ延鎮 開基も同じ坂上田村麻呂で両者の座像が安置されている 延鎮大師の護国鎮護の祈祷所として創建された、
俺の住んでた所に大垣城って城があるんだけど今の時代に合わせて外郭が殆ど破壊されちゃった。そんな城も少なくないよね?
城郭の面白い見方。 幕藩時代は既に廃城だった。(一国一城令) 明治維新まで在城した。 城内の建造物が文化財に指定された。 近年、新資料・文件が見付かり、城内に建造物が復元された。
まぁまぁ広い城なんだな〜
幕藩時代も在城だったの?
秀吉の中国攻め・山崎合戦に関係ある城?
焼いた米ではありません。炭化です。
指摘ありがとうございます。確かに炭化ですね。現地解説板の写真にもちゃんと書いてあります(1:23)が、動画編集時に参考にしたサイトで焼いた米との記載があったのでそれを引用しましたが、10年くらい前なのでそのサイトを見つけることができませんでした・・・ 陸奥陣が峯城の動画で大野城を引用した時はちゃんと炭化したと書いてますね(9:50~) ruclips.net/video/X_jwQNZfi2M/видео.html 越前金ヶ崎城は、落城時の戦火で焼けた米が出土したので、焼米石出土跡があるようです。(13:42~) ruclips.net/video/UNGL8u3iUH8/видео.html 以上、参考まで。
逍遥軒信廉と違って、武田典厩信繁が、生きていたら、武田一門・古参の将を統率できたか!!
島根県か……。いいえん結びになるといいんだが……