慶應義塾と同志社

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  • Опубликовано: 28 дек 2024

Комментарии • 3

  • @riuUC
    @riuUC Год назад

    大変興味深く拝聴いたしました。福沢諭吉は旧米国公使館でもある、浄土真宗・東京麻布山善福寺で今も眠っていますが、慶應義塾自体が浄土真宗系の学校では全くありません。敢えて言えば、慶応義塾は旧徳川幕府系の大学になります。福澤諭吉は大分中津藩中級武士の生まれで、中津藩下、寺内町の生まれです。大分中津藩は奥平氏であり、関ケ原の戦いで徳川家康に味方した家系になります。江戸時代、大阪城は共同管理しており、中津藩は譜代大名として大阪城と江戸城に屋敷を構えていましたが、中津藩医が適塾(大阪大学医学部)・緒方洪庵であり、大阪で彼に認められ、江戸に派遣されたのです。そして、幕臣木村摂津守(軍艦奉行・徳川宗家の親戚・甲府藩主の家系)に認められ、日米修好通商条約の翻訳方として軍艦で勝海舟などと渡米、サンフランシスコで条約締結に携わります。明治維新後、版籍奉還で出回っていた島津藩の中屋敷を購入し、三田で英学塾(1858)から慶応義塾と改称(1868)し、今に至るのです。明治時代、慶応義塾は京都と大阪に出張所を開設していたのも事実であり、明治時代は◎×義塾という学校はとても多かったみたいです。大阪は適塾の場所(中の島)だと思います。今は慶應大阪リバーサイドサテライトキャンパス(社会人向け)が該当します。明治時代は慶應義塾三藩 (大分・新潟長岡・和歌山)の人が福澤諭吉を補佐しました。旧幕府側のみならず、三井三菱と子息が婚姻関係を結んだこともあり、創立直後から大資本の参加があった学校だと思います。同志社は京都御所の真裏に居を構えており、京都大学と川を隔てて道路で一直線に結ばれています。当時は神社仏閣で覆われている京都に殴り込みをかけた感じかも知れません。
    慶応義塾高校は東証 (旧) 一部で最も社長を輩出している高校(全3900高校中)であり、1学年750人の神奈川県有数のマンモス高校であり、慶応附属高の半分の定員を占め、司法試験合格最年少記録(18才・2021年)と日本人初の米国弁護士(1985年)を生んだ高校でもあります。相当バカでなければ無条件で慶応義塾大学に推薦入学が可能で、空いた時間をスポーツか勉強に全力で打ち込んだり、一部ボケーッとっと過ごす学生がいるという事です。
    福澤諭吉は徳川方の生まれであり、藩医緒方洪庵に認められ幕臣に重用されるという、運と実力も兼ね備えていました。実力と運は表裏一体だと思い、努力なくして慶応義塾高校は神奈川県大会決勝で横浜高校にホームランで大逆転勝ち出来なかったでしょうし、運が近づいて来たのかも知れません。福澤は最初真言宗系の寺に埋葬されましたが、先祖が浄土真宗なので、麻布山善福寺に墓が建てられました。(善福寺界隈も寺が集中しています)(当方、上述、幕臣の関係者になります)

  • @佐和良英
    @佐和良英 Год назад

    帰命無量寿如来

  • @tubeyou5630
    @tubeyou5630 Год назад

    南無不可思議講