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*鈴木啓示* 投手は *近鉄* で長く活躍し78年の25勝と言う成績が印象に残っている。当時の日本記録10試合連続完投勝利も凄いな~と思ったものだ。85年 *投げたらアカン* 言うて *CM* 出てたのにシーズン途中の7月に引退した時はえってなってあんたが途中で投げてどうすんねん!と思わず突っ込み入れたくなったものだ。動画を見て選手やチームの感想や思い出などのコメントいただけるとうれしいです^^ただ、建設的な討論コメントはいいんですが、自分の主義主張を無理やり押し付けたりとか人を不快にさせるようなコメントはお断りしています。
確か監督業も投げたはずw
あれはチーム成績不振により、球団から解任を命じられたものですね。だから自分から投げたわけではないです。
よくこんな動画見つけて来たね。超貴重な動画ありがとう。
鈴木はバッティングも凄かった事は殆ど知られてへんやろね。1975年にDH制度が出来たから、鈴木が打席に立ったのは現役生活の半分以下にもかかわらず、172安打、13発、72打点、2割9厘は大したもんや。代打で起用された事も有ったぐらいやったんや。
阪神で、田淵が入団する前に正捕手として江夏とバッテリーを組んでいた、“ヒゲ辻”こと、辻佳紀氏(故人)は昭和45年に近鉄に移籍し、全盛期の鈴木ともバッテリーを組んだ。そして後年、ラジオ大阪の『近鉄バファローズナイター』の解説者時代に、「ストレートの速さだけなら江夏より鈴木の方が上だった」と話していた事を今でもはっきりと覚えている
杉浦監督すげえな。このクセの塊を修正するとは
ものすごい投手。こういう人こそ年代順にスタッツを追うべき人。晩年は球がヘロヘロになりながらもそれでも勝っていたw 監督時代のことは言うまい。
全盛期は一体何キロぐらい出していたんだろ。
監督時代だけは触れないであげてくれ!
同期入団の堀内はV9巨人のアドバンテージがありながら通算203勝止まり鈴木は弱小時代から投げ抜いて通算317勝チーム事情があるとは言え在籍20年で18度の二桁勝利は凄い速球派から技巧派にモデルチェンジしたから長く好成績を残したピッチャーは走れ走れの理論は間違いではないが、平成の時代では合わなかったのは事実時代の波に付いて来れなかった
「大阪出張の時に、たまたま甲子園球場で育英高校の鈴木投手の試合を観た」野球の話題になると、亡き父はこの話を何回もしていました。
記録を打ち立ててもウイニングボールを、あっさり観客へ譲ったりしていましたが選手として最後の登板試合で投じたボールは例えホームランを打たれたものであっても自らとっておきたいの考え通り日本ハム戦でKO降板した時、ボールをグラブに納めたままベンチに下がった姿が今でも頭に残っています。
後楽園での試合でしたな。
唯我独尊で20年間投げ続けた男のケジメを付けるワンシーン。ラスト登板になるのでは?と周囲も感付いたんじゃないかな(^^)。。
鈴木、山田、東尾、高橋直、山内、村田。年代は多少前後しますが、この時代は各チームに大エースがいましたね。エースは先発完投が当たり前で、現代とは隔世の感が有ります。
鈴木の若い頃も池永、皆川、成田、木樽、小山、米田、梶本、足立、尾崎、金田留、森安そして鈴木と名投手がゴロゴロいましたね。
ホンマ個性や存在感が半端なく、今の時代のような軽さがない良い意味で近寄り難い?筋金入りの名投手ズラリですね(^^)。。
江夏さんにとって高校の頃から理想のピッチングスタイルだったんだな。
パ・リーグ初の永久欠番だった背番号1が近鉄球団の消滅によりいきなり解禁されると言う前代未聞の事態になったのにはホントに驚きました。
317勝ですか。凄いの一言ですね。ただ、評価が下がったのは、監督時代の悪評が大きかったですね。もっと、選手に向かい合って接していれば、違ったのではと思います。でも、近鉄のエースとして活躍されたのは事実ですから。もっと評価されてもおかしくない選手ですね。
子供の頃、NHKで解説されてた印象が強くて結構好きでした。ただ不思議と監督としてはどうかなと感じていましたが、想像以上にやらかしてらっしゃいましたね。
近鉄vsロッテの開幕戦で、村田兆治さんと先発で投げ合った試合は「これぞプロのエース!」と思わせる投球でした。鈴木投手の300勝、米田投手の350勝、そして万年Bクラスの国鉄スワローズで殆どの勝星をあげた金田正一さん、この三人は伝説と言って良いと思います。
阪神のエースだった小山さん、昭和生まれじゃないけど、巨人のスタルヒンを忘れてますよ…
すごく球持ちのいいフォームですね。
“球持ち”。なかなか、“通な”表現やね!
@@oimihimitasumiho 恐れ入ります…
昭和の頃(50年代?)の野球中継でよく耳にした表現だよね。バックネット裏からの中継がなぜかオーバーラップしてきます(^^)。。
監督時代のことをいろいろ言われるが、現役時代の成績はホント素晴らしいと思う。デビューしたときは、セは江夏さん、パは鈴木啓示さんの両左腕が何年も続けて奪三振王をとっていたのが印象に残ります。25勝した年は阪急全盛期の頃。まだまだ発展途上の近鉄バッファローズの中で孤軍奮闘していました。そして近鉄が連覇を果たした頃は、少し力が落ちてきていたのが残念だった。最多被本塁打の記録を持っているのは真っ向勝負を挑んだ証、投手らしい投手だった。監督時代のことがあるから悪く言う人多いけど、私は好きだな。
40年位前 仕事で会った人が 元近鉄のキャッチャーで 鈴木投手は俺が育てた的な事を話してましたが よくよく聞いてみるとブルペンキャッチャーだったとゆう話しを長々聞かされた記憶が有ります。鈴木投手現役晩年の頃の事を思い出しました。
鈴木啓示さんは1977年4月26日に史上15人目の通算200勝を29歳6ヶ月で達成する。戦後生まれでなおかつドラフト制度以降で入団した選手で唯一の名球会の創設メンバーであります。
名選手、必ずしも名監督にならずの典型になってしまったのが残念ですね。
自己中心的な性格が仇になりましたが、個人的には好きな左腕投手です。しかも、あの晩年の投球フォームは本当に完成されて綺麗だった。お手本になる投球フォームだと思います。
米田さんと鈴木さんは凄い
ここまではっきり技巧派に転向して成功した名投手は珍しいのでは?鈴木さん本人が具体的な投球術を語ることがほとんどないので詳しいことがわからないのが残念です。時代が違うとはいえ300も勝ったのだから現役の投手の参考になることがあるはずなのに。
私の印象は、三原監督の時に二位で、阪急との優勝争いが全国放送された姿ですね。力投型で、チームの命運を自分の肩に担っているって雰囲気が良かった‼️
人を助けるのも人に助けられるのも好かんのです。こんな台詞、今のプロ野球選手は思っていても絶対に言えないだろうな。
300勝達成の試合のスタンドがガラガラ。当時のパ・リーグらしい。
東尾の250勝もガラガラでしたね。
弱小近鉄にあって、300勝以上するのは凄いの一語に尽きる。
背番号1 セリーグなら王貞治、パリーグなら間違いなくこの鈴木啓示だろう。
>弱小近鉄にあって、300勝以上するのは凄いセ・リーグの万年最下位チームの国鉄(ヤクルト)スワローズで400勝もした金田正一投手のほうが鈴木啓二よりはるかに凄いサウスポー投手です。
鈴木の技巧派へのモデルチェンジ成功の影には、有田修三の巧みなリードが大きかったのではないでしょうか
有田さんを専属捕手に、したのも「こんなへなちょこ球でようこんなに勝てましたなぁ」と歯に衣着せぬ言動が自分にあっていた、梨田は優しいからと言っていたな
負け数もエグいそれだけ長く活躍してた投手
それは、西本監督になる前(三原脩の三年間を除く)のチームがメチャメチャ“貧打線”で、守備面でもひどいチームやったからや。
通算防御力3点台なんだよな。時代とはいえ、質と量。
全く記憶に残って無いですが、私が初めて親父に連れられて野球観戦したのが日生球場での鈴木啓投手の登板でした。こう言うタイプの男が最近減ってきてる様な気がしますね。
江夏の21球も思い出された配信でした。
鈴木啓示さんは朝のNHKニュースのプロ野球コーナーを担当していた時期があり、開幕から連勝をを続けていた投手が初黒星を喫した時に「自分自身も開幕から連勝を続けていていつ敗けるか、いつかは敗けるんだろうけど1度敗けたら連敗するんじゃなかろうかと不安に思ったものだ。」と言って、このような名投手でも不安やプレッシャーを感じるものなんだ…と思ったこと、野茂投手のルーキーイヤーは開幕から数試合勝てなくて「味方がもっと打って野茂くんを援護するように」と、野茂投手を庇い打線の奮起を促す発言をしていたのを憶えています。それが近鉄の監督に就任して野茂投手と溝ができるとは、野球も人間関係も難しいですね。
変化球が多彩でしたね。広岡達朗みたいな監督がいないのによく自主トレは凄い内容らしい。野茂にも西本監督に言われたのとにたこと言ったのに結果違う。
人生投げたらあかんのや っと言う📺️CMが記憶にあります
引退直後は柔道の山下泰弘選手がCMを引き継ぎ「人生投げたらイカン!」と言っていました。お二方、投げるのが仕事なのに皮肉なCMと当時は思いました。
ヤクルトの鈴木康次郎がトレードで近鉄に入団したとき、「近鉄の鈴木はワシだけだ!彼には奥さんの姓で登録してもらう」、年俸がダウンしたとき「とうとうワシも並みの投手になってしまった」、ルーキー初登板の時、当時の正捕手の吉沢に「マウンドから顔が光って見えるので、顔を黒くしてください」とにかくそのプライドと言動そして実力は金田正一と似ていると思ったことは数多い。解説を聞いていても自分の自慢話が散りばめられている。
投げたらアカンと最初に聞いたときは投手が投げなくてどうするとツッコミたくなりましたが、常勝阪急の山田でさえなし得なかった300勝を弱小近鉄で達成したのは見事です。ただ、難をいえば被本塁打の多さが語るように独りよがりの面が少々強過ぎた感があり、それが後年の監督としての失敗に繋がったのでしょう。
この頃パリーグ各球団絶対エースいましたね。強打者との対戦面白かったな。
村長さまありがとうございます。昭和53年に名球会ができた当初は唯一の現役選手だったと記憶しています。金田サン王さん長嶋さんら長老の前ではしおらしい態度でしたし草魂という言葉も好感が持てました。もう少し選手と同じ目線で見ることができたら西本さんに近づけたかもしない。
日本一、パリーグ最強と呼ばれた投手。最後の300勝、25勝投手。総合力の投手。マー君が13年に24勝するまで鈴木氏以降35年間23勝以上すら挙げる投手はいなかった。本来なら沢村賞に3度は選ばれていたと思う。
叔父さんが兵庫・育英高で投手をしていたそうですが当時、鈴木啓示氏も在籍しており勿論、鈴木氏は大エース!化け物のような直球を投げていたそうですのちにプロで300勝するような投手ですから想像を絶する球だったと思う。
選手時代は有能でドラフト制以降入団唯一の300勝投手しかし監督では野茂、阿波野、吉井、金村を流出させた無能で脳筋志向名選手名監督ならずの典型的な野球人生だった
しかし、「高校時代からスナックに行ってた」とか、「韓国遠征でオンナが居る店に…」とか、ラジオで平気でペラペラ喋ってた金村みたいな“ヨゴレ“がFAで出て行ってくれた時はメチャメチャうれしかったで!(^∀^)
あの加藤哲郎にも「鈴木監督と相性の良かった選手はいません」と言われた。
この世代のころ一線投手はすでに今と同様のメジャーで通用する力を持ってたと思う
「投げたらアカン」のCMに当時心を動かされた同世代がいたとはとても思えないんだな。
時代時代によって練習の取り組みかたや方法は変化していくもの…鈴木氏が現役時代、野茂英雄投手が現役時代、現在では大分違うと思います。監督は自身が現役時代にしてきたことが全て正しいとか経験してきたから今の時代にもそれが通用するとか押し付ける考えはやめた方がいい。自身の経験をふまえながらもその時代の変化に柔軟に対応し新しいことも取り込もうとしていくことも大事です。これはプロ野球の監督だけではなくどのような職種でも当てはまるような気がします。
1970年代のパ・リーグ投手で沢村賞を贈呈したかった投手の1人でした
お山の大将でしたが、私は好きです。🎉
通算で300勝上げた投手は4人しかいないし、もう出てくることはないでしょう。この時代の投手の登板数が今では信じられないほど多い。
よく肩壊さなかったな
速球派の投手は自身の球速に惚れ込んでしまい、打者のタイミングを外すと言うピッチング本来の目的を忘れてしまいがちです。若い頃は力でグイグイ押せても、年を重ねるごとに真っ直ぐだけでは通用しなくなります。鈴木投手の凄いところは、晩年に緩急をつける投球術を覚えて再び20勝以上を挙げたこと。彼のノーワインドアップの投球フォームは美しかった。
日本人選手がMLBで活躍できるようになったのはこの人のおかげ
ある意味ではそうだな野茂も遠慮なくアメリカ行けたし稀代のヒール扱いで活躍したら手のひら返し
近鉄 鈴木啓示 317勝 本当は、江夏豊よりもスゴイ投手
85年最後まで投げていたら小山正明氏と並んでいたかもしれない。
のびのび野球の近鉄だったから、鈴木は300勝投手になれたと思います。管理野球の巨人や阪神だったら、200勝程度の勝ち星だったと思います。あと阪急は投手陣が豊富だったけど、近鉄は投手陣が手薄だったことも幸いしたと思います。
闘将西本監督が退任を考えた時、わしらを見捨てないで下さいと泣きながら監督に頭を下げた。よしもう一年一緒に野球をやろうと退任を撤廃しその年に抑えの山口哲治投手の活躍も有り近鉄が優勝する。選手として凄いが、監督としてダメ監督だった。
25勝した78年のオールスターゲームで初めて見た、軽く投げてるのにタマが早くて驚いた。山田久志、鈴木啓示、東尾修で完封リレーしていた。
その試合は甲子園球場ではなかったですか。不人気パリーグ必死に応援してました。最高の試合でした👏
私もテレビで見てました。
先発勝利数ならカネやん超えてますよね。まぁ、カネやん所属時の国鉄の打線の弱さは洒落にならないから、途中登板で勝利横取りも余り批判する気も無いですが。
令和世代の私には難しすぎる話だ。
昭和54年日本シリーズ第7戦。あの伝説化された江夏の21球の試合。近鉄側の先発は鈴木啓示でした。たしか2回に右翼マニエルが痛恨のトンネルを実施。広島が先制点を挙げる展開でした。もしもマニエルのトンネルがなく、ローテションで井本が先発だった場合、あの伝説はなく、歴史は変わっていたと思われます。
当時は日本シリーズでDH制が使えない時代でした。まあ、1979年の第7戦だと広島市民球場(当時)だったからどの道DHが使えませんが。
メジャーリーグで活躍できる時代ではなかったがあれば通用する投手であったと思える。確執があった野茂とは運命的な出会いだったと言えるます。
この第二戦近鉄が快勝して2勝0敗。ところが試合後西本監督は「山根が打てないなあ」と意外な悲観論を漏らした。そのとおり近鉄はこの年だけでなく二年続けて山根に封じられてシリーズを失った
300勝達成記念で近鉄では臨時特急草魂号という記念列車が発車して車掌も務めていた。できればこの草魂号のNゲージを出してもらいたい。
この動画とは全く関係無い
草魂号運行時は乗客乗員全員が鈴木姓。車内で乗客達に配布されたスナックは某菓子メーカーから発売されていた「すずきくん」と徹底した拘り振りでした。
あの金本ですら2000本安打、2500安打、400本塁打、1500打点、1000試合以上連続フルイニング出場を達成しても阪神で臨時特急「鉄人号」運行される事はなかったしなぁ。
@@イワモトノリアキ阪神電鉄は、総延長キロ40キロしかないから、、、ましてや阪神電鉄の偉いさんがそんな粋なこと考えるかな、、、
奪三振において、キリのいい数字は名のある選手(門田や有藤など)から、と拘ってたな。「門田を見てみぃ、思いっきり振ってきてくれたやないか。門田も浪花節のわかる男や。」とは、クサすぎる。
3000三振は門田から取って見せると言ったことやな、
素晴らしい投手❗️コーチも監督も出来ない❗️周囲がそれを理解すべき❗️なめらか、なめらか、ため?切れ?たぶん鈴木投手の指先だけでは⁉️大フアンです。猫🐱若旦那です。
23勝21敗とかほとんど中継ぎ投手のような当番数w今20勝とうと思ったらほとんど負けられないもんなあ。
負け越しの頭打ち時代も防御率3点台前半なので、そこまで打たれてる訳ではないんですよね。もっと強い球団に居たら350勝くらい出来てたかもしれません。
確かに、そうかも知れないが、逆に、当時、パ・リーグの”お荷物“と言われてた近鉄だったからこそ、鈴木の“草魂”という反骨心に火が点いて、大エースになれたとも言えるとも思う…。
金田正一の国鉄時代は350勝以上挙げていたのだ。
偉大な投手ですね、あと黒い霧の時に八百長を断ったって言う話で凄いなぁって思ったけど、投げたらアカンって座右の銘なのにシーズン途中で引退ってどうなんだろうって思った。
本格派左腕!弱い近鉄での300勝素晴らしい✨現代中6年間25試合も投げない先発年間の試合のなか勝ち負けつかずなんて試合も。最後の300勝?となっていますがおそらくそうでしょう。200も難しい時代になりました。
私が野球に興味を持ち出した頃が、鈴木投手の技巧派転向だったんでしょう。かつては、ノーコンの剛球投手?の面影有りませんでしたから…。まあ、監督に成ってからは微妙というか?外見からサッカー釜本さんと被ります!色々な意味合いで😁
オリックスバファローズOrixBuffaloes
阪急の米田と並べてどっち?と言われ間違わずに答えれる自信がない
78年の活躍が一番おぼえてる。往年の球威と打たせてとる投球術を駆使して最後まで優勝争いした。ただ大舞台かったなぁ。山田さんは大舞台を何度も経験してるからその差だろな。
「投げたらアカン」のCMは記憶にあります。それよりも、20年以上、年間200イニング以上投げて、故障もなく、300勝したんでしょ?これ、弱小バッファローズじゃなかったら・・・と思うと、カネやんの記録超えてたかもしれませんね。本来ならバッファローズの背番号1は永久欠番だったのに、球団消滅で欠番ではなくなったのが残念です。また、福本豊選手の背番号7も欠番じゃなくなったんですよね。オリックス球団には引き継いでほしかったなー、両方とも。
バ『ッ』ファローズ???苦笑
中村勝広もオリ監督時に自軍をバッファローズって真顔で言うてたなww
最多勝3回って意外と少ない??
近鉄が弱かったし、昔のパ・リーグは投手のレベルが高かった。
若かりし頃は阪急に米田がいたし、全盛期は阪急に山田、足立 ライオンズに東尾、後に巨人に移籍したが加藤初ロッテには村田、成田 日ハムには高橋直樹等もいたし、南海には江本や山内新一とか各球団にエース級が多くいたからね🤔…
@@溝口武志-c4sあと南海の皆川さん、ロッテの木樽さん、東映→ロッテの金田留さん、西鉄の池永さんとも被ってたと思う。
鈴木監督が野茂投手を大事に扱っていたら、日本人プレーヤーのメジャー流出は無かった?イチローやダルビッシュ有、大谷翔平は日本に残っていた😅タラレバで恐縮です。良くも悪くも鈴木監督が間接的に日本人プレーヤーのメジャー流出のパイオニア😅
意味不明
こんだけの実績ある投手が監督になったら、そりゃあ我の強い監督になりますわ投手は走れ走れ理論は間違いではないと思う ただそれが苦手な投手がいただけ
阪神希望だった鈴木さんは、パリーグで投げていた時も「阪神さん、逃した魚🐟は大きいでっせ」と言う気持ちで投げていたそうです。鈴木投手は、65年ドラフト1期生で、近鉄2位指名(1位は田端)阪神は1位石床(私はこの投手は、神宮球場🏟️のサンケイ戦中継ぎで一度みただけ)、2位藤田平、3位北角→入団せず後に、中日入り)でした。鈴木投手が阪神に入っていたら、鈴木、江夏、村山、バッキーの凄い投手陣で巨人のV9は無かったでしょう。
鈴木さんがもし阪神に、入ってたら、次の年のわしの入団はなかっただろう、二年続けて高卒の左腕本格派は、取らないだろう、と江夏さんは言っていた
鈴木啓示といえばやけにデットボ-ルをあたえるイメージが強い印象だったぜ!
おいおい!鈴木は、(あの小山正明を抜いて)無四球試合の日本記録を達成したぐらいの抜群のコントロールの持ち主や!あの“ぶつけ屋”東尾と間違ぉうとんのやろ?歴代1位の東尾が4086回で165個、鈴木は4600回も投げて、たったの90個で27位や。と言うか、オマエさん、相当な“ガキ世代”やろ!?モノを知らん子供がエエ加減な事書いたらアカンで!苦笑
鈴木啓示氏は選手としては一流だったが監督としては古臭い根性論の押しつけしかしない5流監督だったというイメージしかないです。とはいえ野茂が業を煮やしてメジャーに行ったことを考えると日本人がメジャーに行く足掛かりを作ったとも言えるでしょう。
コメ主の固定コメ読んだのか?不快なコメントやめなよ
ぼくは、あの人がいたから、近鉄を出るんです、とあからさまに言ってたな、野茂さん
オープン戦で正座させられて山本和行の投球を学習させられた模様
正座!!??おいおい!ええ加減な事言うたらアカン。その話は、近鉄の監督に就任して二年目の西本さんが、75年のオープン戦で阪神にKOされた鈴木に対して、相手の山本和行のピッチングを例に出して、「ちょっとはアイツのピッチングを見習ぉたらどうや」と叱咤した事に鈴木が反発して、(前年の暮れに主砲の土井が放出されたという事も重なり)阪神の監督吉田に電話してトレードを志願したという事や。なんぼ西本さんやというても、大エースの鈴木に正座させる訳無いっちゅうねん。ホンマ、しっかりしてや。苦笑
ボク!何やねん!?それ!?苦笑
@@oimihimitasumiho キミ これを読めばわかるさ!苦笑
@@崎谷猛夫 おいおい!鼻タレボウズ! ワレ、誰にモノ言うとんねん!ワシは昭和48年から近鉄の高井田応援団に居ったホンマもんや。鈴木とも直に話した事も有るんや。ワレみたいな田舎モンがクソ生意気な事ぬかしとったら、ホンマ、イテまうど!
@@崎谷猛夫 何が「わかるさ」じゃ、アホンダラ!オマエみたいな田舎のクソガキが近鉄の事を語るなっちゅうねん!( ^ω^ )
投手としては有能だが指導者としては無能だったな。
監督時代、野茂とはまったソリが合わなかったがはたから見たら似た者同士なんだが
似た者同士が合わんし、なかが悪い
鈴木啓示さんはリスペクトしております。野茂さんに関しては、人と人のかけ違い・・走る、悪いことではない。男っぽい、野茂さんももしかして歳を重ねて今ではわかりあえるのではないでしょうか。
ガソリンタンク
ガソリンタンク!?おいおい!鈴木はそんなアダ名で呼ばれてへんで!それは『350勝投手』の米田哲也やがな!エエ加減な事書いたらアカンがな!苦笑
鈴木啓示投手は同じ左腕という事もあるが、かねやんと似ていますね。「チームの優勝ために投げるではなくオレが勝つ事がチームの優勝につながる。」と考えるタイプ。でもこれだけの投手が何で2位指名だったのだろう?
西宮球場ですね?+選手としては一流、監督としては三流の鈴木啓示ですね‼️
おいおい!三流は言いすぎやで!(笑)で、選手としても一流やなく、『超一流』やがな!ちなみに、鈴木の前の仰木はコーチの権藤の進言を聞かず、阿波野を酷使して”短命“に終わらせた張本人という事を頭に入れてとくようにな!苦笑
最後の300勝投手だね。15勝を毎年20年続けないといけない。もう、今後はそういう投手は出て来ない。シーズン25勝も、今後はいないだろう。田中が無敗でも、24勝だったからね。まあ、鈴木啓が活躍した昭和40年代から、50年代前半は投高打低の時代だった事も大きい。下位打線は今とは比べ物にならないほど、打てなかったから。それと外国人の助っ人で、凄いのがいなかった。打者のレベルが低かった。
*鈴木啓示* 投手は *近鉄* で長く活躍し78年の25勝と言う成績が印象に残っている。当時の日本記録10試合連続完投勝利も凄いな~と思ったものだ。85年 *投げたらアカン* 言うて *CM* 出てたのにシーズン途中の7月に引退した時はえってなってあんたが途中で投げてどうすんねん!と思わず突っ込み入れたくなったものだ。動画を見て選手やチームの感想や思い出などのコメントいただけるとうれしいです^^ただ、建設的な討論コメントはいいんですが、自分の主義主張を無理やり押し付けたりとか人を不快にさせるようなコメントはお断りしています。
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あれはチーム成績不振により、球団から解任を命じられたものですね。だから自分から投げたわけではないです。
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鈴木はバッティングも凄かった事は殆ど知られてへんやろね。
1975年にDH制度が出来たから、鈴木が打席に立ったのは現役生活の半分以下にもかかわらず、172安打、13発、72打点、2割9厘は大したもんや。
代打で起用された事も有ったぐらいやったんや。
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そして後年、ラジオ大阪の『近鉄バファローズナイター』の解説者時代に、「ストレートの速さだけなら江夏より鈴木の方が上だった」と話していた事を今でもはっきりと覚えている
杉浦監督すげえな。このクセの塊を修正するとは
ものすごい投手。こういう人こそ年代順にスタッツを追うべき人。晩年は球がヘロヘロになりながらもそれでも勝っていたw 監督時代のことは言うまい。
全盛期は一体何キロぐらい出していたんだろ。
監督時代だけは触れないであげてくれ!
同期入団の堀内はV9巨人のアドバンテージがありながら通算203勝止まり
鈴木は弱小時代から投げ抜いて通算317勝
チーム事情があるとは言え在籍20年で18度の二桁勝利は凄い
速球派から技巧派にモデルチェンジしたから長く好成績を残した
ピッチャーは走れ走れの理論は間違いではないが、平成の時代では合わなかったのは事実
時代の波に付いて来れなかった
「大阪出張の時に、たまたま甲子園球場で育英高校の鈴木投手の試合を観た」
野球の話題になると、亡き父はこの話を何回もしていました。
記録を打ち立ててもウイニングボールを、あっさり観客へ譲ったりしていましたが選手として最後の登板試合で投じたボールは例えホームランを打たれたものであっても自らとっておきたいの考え通り日本ハム戦でKO降板した時、ボールをグラブに納めたままベンチに下がった姿が今でも頭に残っています。
後楽園での試合でしたな。
唯我独尊で20年間投げ続けた男のケジメを付けるワンシーン。ラスト登板になるのでは?と周囲も感付いたんじゃないかな(^^)。。
鈴木、山田、東尾、高橋直、山内、村田。年代は多少前後しますが、この時代は各チームに大エースがいましたね。エースは先発完投が当たり前で、現代とは隔世の感が有ります。
鈴木の若い頃も池永、皆川、成田、木樽、小山、米田、梶本、足立、尾崎、金田留、森安そして鈴木と名投手がゴロゴロいましたね。
ホンマ個性や存在感が半端なく、今の時代のような軽さがない良い意味で近寄り難い?筋金入りの名投手ズラリですね(^^)。。
江夏さんにとって高校の頃から理想のピッチングスタイルだったんだな。
パ・リーグ初の永久欠番だった背番号1が近鉄球団の消滅によりいきなり解禁されると言う前代未聞の事態になったのにはホントに驚きました。
317勝ですか。凄いの一言ですね。
ただ、評価が下がったのは、監督時代の悪評が大きかったですね。もっと、選手に向かい合って接していれば、違ったのではと思います。でも、近鉄のエースとして活躍されたのは事実ですから。
もっと評価されてもおかしくない選手ですね。
子供の頃、NHKで解説されてた印象が強くて結構好きでした。ただ不思議と監督としてはどうかなと感じていましたが、想像以上にやらかしてらっしゃいましたね。
近鉄vsロッテの開幕戦で、村田兆治さんと先発で投げ合った試合は「これぞプロのエース!」と思わせる投球でした。
鈴木投手の300勝、米田投手の350勝、そして万年Bクラスの国鉄スワローズで殆どの勝星をあげた金田正一さん、この三人は伝説と言って良いと思います。
阪神のエースだった小山さん、昭和生まれじゃないけど、巨人のスタルヒンを忘れてますよ…
すごく球持ちのいいフォームですね。
“球持ち”。
なかなか、“通な”表現やね!
@@oimihimitasumiho 恐れ入ります…
昭和の頃(50年代?)の野球中継でよく耳にした表現だよね。バックネット裏からの中継がなぜかオーバーラップしてきます(^^)。。
監督時代のことをいろいろ言われるが、現役時代の成績はホント素晴らしいと思う。
デビューしたときは、セは江夏さん、パは鈴木啓示さんの両左腕が何年も続けて奪三振王をとっていたのが印象に残ります。
25勝した年は阪急全盛期の頃。まだまだ発展途上の近鉄バッファローズの中で孤軍奮闘していました。そして近鉄が連覇を果たした頃は、少し力が落ちてきていたのが残念だった。
最多被本塁打の記録を持っているのは真っ向勝負を挑んだ証、投手らしい投手だった。
監督時代のことがあるから悪く言う人多いけど、私は好きだな。
40年位前 仕事で会った人が 元近鉄のキャッチャーで 鈴木投手は俺が育てた的な事を話してましたが よくよく聞いてみるとブルペンキャッチャーだったとゆう話しを長々聞かされた記憶が有ります。
鈴木投手現役晩年の頃の事を思い出しました。
鈴木啓示さんは1977年4月26日に史上15人目の通算200勝を29歳6ヶ月で達成する。戦後生まれでなおかつドラフト制度以降で入団した選手で唯一の名球会の創設メンバーであります。
名選手、必ずしも名監督にならずの典型になってしまったのが残念ですね。
自己中心的な性格が仇になりましたが、個人的には好きな左腕投手です。
しかも、あの晩年の投球フォームは本当に完成されて綺麗だった。
お手本になる投球フォームだと思います。
米田さんと鈴木さんは凄い
ここまではっきり技巧派に転向して成功した名投手は珍しいのでは?
鈴木さん本人が具体的な投球術を語ることがほとんどないので詳しいことがわからないのが残念です。時代が違うとはいえ300も勝ったのだから現役の投手の参考になることがあるはずなのに。
私の印象は、三原監督の時に二位で、阪急との優勝争いが全国放送された姿ですね。
力投型で、チームの命運を自分の肩に担っているって雰囲気が良かった‼️
人を助けるのも人に助けられるのも好かんのです。こんな台詞、今のプロ野球選手は思っていても絶対に言えないだろうな。
300勝達成の試合のスタンドがガラガラ。
当時のパ・リーグらしい。
東尾の250勝もガラガラでしたね。
弱小近鉄にあって、300勝以上するのは凄いの一語に尽きる。
背番号1 セリーグなら王貞治、パリーグなら間違いなくこの鈴木啓示だろう。
>弱小近鉄にあって、300勝以上するのは凄い
セ・リーグの万年最下位チームの国鉄(ヤクルト)スワローズで400勝もした金田正一投手のほうが鈴木啓二よりはるかに凄いサウスポー投手です。
鈴木の技巧派へのモデルチェンジ成功の影には、有田修三の巧みなリードが大きかったのではないでしょうか
有田さんを専属捕手に、したのも「こんなへなちょこ球でようこんなに勝てましたなぁ」と歯に衣着せぬ言動が自分にあっていた、梨田は優しいからと言っていたな
負け数もエグい
それだけ長く活躍してた投手
それは、西本監督になる前(三原脩の三年間を除く)のチームがメチャメチャ“貧打線”で、守備面でもひどいチームやったからや。
通算防御力3点台なんだよな。
時代とはいえ、質と量。
全く記憶に残って無いですが、私が初めて親父に連れられて野球観戦したのが日生球場での鈴木啓投手の登板でした。こう言うタイプの男が最近減ってきてる様な気がしますね。
江夏の21球も思い出された配信でした。
鈴木啓示さんは朝のNHKニュースのプロ野球コーナーを担当していた時期があり、開幕から連勝をを続けていた投手が初黒星を喫した時に「自分自身も開幕から連勝を続けていていつ敗けるか、いつかは敗けるんだろうけど1度敗けたら連敗するんじゃなかろうかと不安に思ったものだ。」と言って、このような名投手でも不安やプレッシャーを感じるものなんだ…と思ったこと、野茂投手のルーキーイヤーは開幕から数試合勝てなくて「味方がもっと打って野茂くんを援護するように」と、野茂投手を庇い打線の奮起を促す発言をしていたのを憶えています。それが近鉄の監督に就任して野茂投手と溝ができるとは、野球も人間関係も難しいですね。
変化球が多彩でしたね。
広岡達朗みたいな監督がいないのによく自主トレは凄い内容らしい。野茂にも西本監督に言われたのとにたこと言ったのに結果違う。
人生投げたらあかんのや っと言う📺️CMが記憶にあります
引退直後は柔道の山下泰弘選手がCMを引き継ぎ「人生投げたらイカン!」と言っていました。
お二方、投げるのが仕事なのに皮肉なCMと当時は思いました。
ヤクルトの鈴木康次郎がトレードで近鉄に入団したとき、「近鉄の鈴木はワシだけだ!彼には奥さんの姓で登録してもらう」、年俸がダウンしたとき「とうとうワシも並みの投手になってしまった」、ルーキー初登板の時、当時の正捕手の吉沢に「マウンドから顔が光って見えるので、顔を黒くしてください」とにかくそのプライドと言動そして実力は金田正一と似ていると思ったことは数多い。解説を聞いていても自分の自慢話が散りばめられている。
投げたらアカンと最初に聞いたときは投手が投げなくてどうするとツッコミたくなりましたが、常勝阪急の山田でさえなし得なかった300勝を弱小近鉄で達成したのは見事です。
ただ、難をいえば被本塁打の多さが語るように独りよがりの面が少々強過ぎた感があり、それが後年の監督としての失敗に繋がったのでしょう。
この頃パリーグ各球団絶対エースいましたね。強打者との対戦面白かったな。
村長さまありがとうございます。昭和53年に名球会ができた当初は唯一の現役選手だったと記憶しています。金田サン王さん長嶋さんら長老の前ではしおらしい態度でしたし草魂という言葉も好感が持てました。もう少し選手と同じ目線で見ることができたら西本さんに近づけたかもしない。
日本一、パリーグ最強と呼ばれた投手。最後の300勝、25勝投手。総合力の投手。マー君が13年に24勝するまで鈴木氏以降35年間23勝以上すら挙げる投手はいなかった。本来なら沢村賞に3度は選ばれていたと思う。
叔父さんが兵庫・育英高で投手をしていたそうですが
当時、鈴木啓示氏も在籍しており
勿論、鈴木氏は大エース!
化け物のような直球を投げていたそうです
のちにプロで300勝するような投手ですから
想像を絶する球だったと思う。
選手時代は有能でドラフト制以降入団唯一の300勝投手
しかし監督では野茂、阿波野、吉井、金村を流出させた無能で脳筋志向
名選手名監督ならずの典型的な野球人生だった
しかし、「高校時代からスナックに行ってた」とか、「韓国遠征でオンナが居る店に…」とか、ラジオで平気でペラペラ喋ってた金村みたいな“ヨゴレ“がFAで出て行ってくれた時はメチャメチャうれしかったで!
(^∀^)
あの加藤哲郎にも「鈴木監督と相性の良かった選手はいません」と言われた。
この世代のころ一線投手はすでに今と同様のメジャーで通用する力を持ってたと思う
「投げたらアカン」のCMに当時心を動かされた同世代がいたとはとても思えないんだな。
時代時代によって練習の取り組みかたや方法は変化していくもの…鈴木氏が現役時代、野茂英雄投手が現役時代、現在では大分違うと思います。監督は自身が現役時代にしてきたことが全て正しいとか経験してきたから今の時代にもそれが通用するとか押し付ける考えはやめた方がいい。自身の経験をふまえながらもその時代の変化に柔軟に対応し新しいことも取り込もうとしていくことも大事です。これはプロ野球の監督だけではなくどのような職種でも当てはまるような気がします。
1970年代のパ・リーグ投手で沢村賞を贈呈したかった投手の1人でした
お山の大将でしたが、私は好きです。🎉
通算で300勝上げた投手は4人しかいないし、もう出てくることはないでしょう。
この時代の投手の登板数が今では信じられないほど多い。
よく肩壊さなかったな
速球派の投手は自身の球速に惚れ込んでしまい、打者のタイミングを外すと言うピッチング本来の目的を忘れてしまいがちです。若い頃は力でグイグイ押せても、年を重ねるごとに真っ直ぐだけでは通用しなくなります。鈴木投手の凄いところは、晩年に緩急をつける投球術を覚えて再び20勝以上を挙げたこと。彼のノーワインドアップの投球フォームは美しかった。
日本人選手がMLBで活躍できるようになったのはこの人のおかげ
ある意味ではそうだな
野茂も遠慮なくアメリカ行けたし
稀代のヒール扱いで
活躍したら手のひら返し
近鉄 鈴木啓示 317勝 本当は、江夏豊よりもスゴイ投手
85年最後まで投げていたら小山正明氏と並んでいたかもしれない。
のびのび野球の近鉄だったから、鈴木は300勝投手になれたと思います。
管理野球の巨人や阪神だったら、200勝程度の勝ち星だったと思います。
あと阪急は投手陣が豊富だったけど、近鉄は投手陣が手薄だったことも幸いしたと思います。
闘将西本監督が退任を考えた時、
わしらを見捨てないで下さいと
泣きながら監督に頭を下げた。
よしもう一年一緒に野球をやろう
と退任を撤廃しその年に抑えの山口哲治投手の活躍も有り
近鉄が優勝する。
選手として凄いが、監督としてダメ監督だった。
25勝した78年のオールスターゲームで初めて見た、軽く投げてるのにタマが早くて驚いた。山田久志、鈴木啓示、東尾修で完封リレーしていた。
その試合は甲子園球場ではなかったですか。不人気パリーグ必死に応援してました。最高の試合でした👏
私もテレビで見てました。
先発勝利数ならカネやん超えてますよね。まぁ、カネやん所属時の国鉄の打線の弱さは洒落にならないから、途中登板で勝利横取りも余り批判する気も無いですが。
令和世代の私には難しすぎる話だ。
昭和54年日本シリーズ第7戦。あの伝説化された江夏の21球の試合。近鉄側の先発は鈴木啓示でした。たしか2回に右翼マニエルが痛恨のトンネルを実施。広島が先制点を挙げる展開でした。もしもマニエルのトンネルがなく、ローテションで井本が先発だった場合、あの伝説はなく、歴史は変わっていたと思われます。
当時は日本シリーズでDH制が使えない時代でした。
まあ、1979年の第7戦だと広島市民球場(当時)だったからどの道DHが使えませんが。
メジャーリーグで活躍できる時代ではなかったがあれば通用する投手であったと思える。確執があった野茂とは運命的な出会いだったと言えるます。
この第二戦近鉄が快勝して2勝0敗。ところが試合後西本監督は「山根が打てないなあ」と意外な悲観論を漏らした。そのとおり近鉄はこの年だけでなく二年続けて山根に封じられてシリーズを失った
300勝達成記念で近鉄では臨時特急草魂号という記念列車が発車して車掌も務めていた。できればこの草魂号のNゲージを出してもらいたい。
この動画とは全く関係無い
草魂号運行時は乗客乗員全員が鈴木姓。
車内で乗客達に配布されたスナックは某菓子メーカーから発売されていた「すずきくん」と徹底した拘り振りでした。
あの金本ですら2000本安打、2500安打、400本塁打、1500打点、1000試合以上連続フルイニング出場を達成しても阪神で臨時特急「鉄人号」運行される事はなかったしなぁ。
@@イワモトノリアキ阪神電鉄は、総延長キロ40キロしかないから、、、ましてや阪神電鉄の偉いさんがそんな粋なこと考えるかな、、、
奪三振において、キリのいい数字は名のある選手(門田や有藤など)から、と拘ってたな。
「門田を見てみぃ、思いっきり振ってきてくれたやないか。門田も浪花節のわかる男や。」とは、クサすぎる。
3000三振は門田から取って見せると言ったことやな、
素晴らしい投手❗️コーチも監督も出来ない❗️周囲がそれを理解すべき❗️なめらか、なめらか、ため?切れ?たぶん鈴木投手の指先だけでは⁉️大フアンです。猫🐱若旦那です。
23勝21敗とかほとんど中継ぎ投手のような当番数w今20勝とうと思ったらほとんど負けられないもんなあ。
負け越しの頭打ち時代も防御率3点台前半なので、そこまで打たれてる訳ではないんですよね。もっと強い球団に居たら350勝くらい出来てたかもしれません。
確かに、そうかも知れないが、逆に、当時、パ・リーグの”お荷物“と言われてた近鉄だったからこそ、鈴木の“草魂”という反骨心に火が点いて、大エースになれたとも言えるとも思う…。
金田正一の国鉄時代は350勝以上挙げていたのだ。
偉大な投手ですね、あと黒い霧の時に八百長を断ったって言う話で凄いなぁって思ったけど、投げたらアカンって座右の銘なのにシーズン途中で引退ってどうなんだろうって思った。
本格派左腕!弱い近鉄での300勝素晴らしい✨現代中6年間25試合も投げない先発年間の試合のなか勝ち負けつかずなんて試合も。最後の300勝?となっていますがおそらくそうでしょう。200も難しい時代になりました。
私が野球に興味を持ち出した頃が、鈴木投手の技巧派転向だったんでしょう。かつては、ノーコンの剛球投手?の面影有りませんでしたから…。まあ、監督に成ってからは微妙というか?外見からサッカー釜本さんと被ります!色々な意味合いで😁
オリックスバファローズ
OrixBuffaloes
阪急の米田と並べてどっち?と言われ間違わずに答えれる自信がない
78年の活躍が一番おぼえてる。
往年の球威と打たせてとる投球術を駆使して
最後まで優勝争いした。
ただ大舞台かったなぁ。
山田さんは大舞台を何度も経験してるから
その差だろな。
「投げたらアカン」のCMは記憶にあります。
それよりも、20年以上、年間200イニング以上投げて、故障もなく、300勝したんでしょ?
これ、弱小バッファローズじゃなかったら・・・と思うと、カネやんの記録超えてたかもしれませんね。
本来ならバッファローズの背番号1は永久欠番だったのに、球団消滅で欠番ではなくなったのが残念です。
また、福本豊選手の背番号7も欠番じゃなくなったんですよね。
オリックス球団には引き継いでほしかったなー、両方とも。
バ『ッ』ファローズ???
苦笑
中村勝広もオリ監督時に自軍をバッファローズって真顔で言うてたなww
最多勝3回って意外と少ない??
近鉄が弱かったし、昔のパ・リーグは
投手のレベルが高かった。
若かりし頃は阪急に米田がいたし、全盛期は阪急に山田、足立 ライオンズに東尾、後に巨人に移籍したが加藤初
ロッテには村田、成田 日ハムには高橋直樹等もいたし、南海には江本や山内新一とか各球団にエース級が多くいたからね🤔…
@@溝口武志-c4s
あと南海の皆川さん、ロッテの木樽さん、東映→ロッテの金田留さん、西鉄の池永さんとも被ってたと思う。
鈴木監督が野茂投手を大事に扱っていたら、日本人プレーヤーのメジャー流出は無かった?イチローやダルビッシュ有、大谷翔平は日本に残っていた😅タラレバで恐縮です。良くも悪くも鈴木監督が間接的に日本人プレーヤーのメジャー流出のパイオニア😅
意味不明
こんだけの実績ある投手が監督になったら、そりゃあ我の強い監督になりますわ
投手は走れ走れ理論は間違いではないと思う ただそれが苦手な投手がいただけ
阪神希望だった鈴木さんは、パリーグで投げていた時も「阪神さん、逃した魚🐟は大きいでっせ」
と言う気持ちで投げていたそうです。
鈴木投手は、65年ドラフト1期生で、近鉄2位指名(1位は田端)
阪神は1位石床(私はこの投手は、神宮球場🏟️のサンケイ戦中継ぎで一度みただけ)、2位藤田平、3位北角→入団せず後に、中日入り)でした。
鈴木投手が阪神に入っていたら、鈴木、江夏、村山、バッキーの凄い投手陣で巨人のV9は無かったでしょう。
鈴木さんがもし阪神に、入ってたら、次の年のわしの入団はなかっただろう、二年続けて高卒の左腕本格派は、取らないだろう、と江夏さんは言っていた
鈴木啓示といえばやけにデットボ-ルをあたえるイメージが強い印象だったぜ!
おいおい!
鈴木は、(あの小山正明を抜いて)無四球試合の日本記録を達成したぐらいの抜群のコントロールの持ち主や!
あの“ぶつけ屋”東尾と間違ぉうとんのやろ?
歴代1位の東尾が4086回で165個、鈴木は4600回も投げて、たったの90個で27位や。
と言うか、オマエさん、相当な“ガキ世代”やろ!?
モノを知らん子供がエエ加減な事書いたらアカンで!
苦笑
鈴木啓示氏は選手としては
一流だったが
監督としては古臭い根性論の押しつけしかしない
5流監督だったというイメージしかないです。
とはいえ野茂が業を煮やして
メジャーに行ったことを考えると
日本人がメジャーに行く足掛かりを
作ったとも言えるでしょう。
コメ主の固定コメ読んだのか?
不快なコメントやめなよ
ぼくは、あの人がいたから、近鉄を出るんです、とあからさまに言ってたな、野茂さん
オープン戦で正座させられて山本和行の投球を学習させられた模様
正座!!??
おいおい!ええ加減な事言うたらアカン。
その話は、近鉄の監督に就任して二年目の西本さんが、75年のオープン戦で阪神にKOされた鈴木に対して、相手の山本和行のピッチングを例に出して、「ちょっとはアイツのピッチングを見習ぉたらどうや」と叱咤した事に鈴木が反発して、(前年の暮れに主砲の土井が放出されたという事も重なり)阪神の監督吉田に電話してトレードを志願したという事や。
なんぼ西本さんやというても、大エースの鈴木に正座させる訳無いっちゅうねん。
ホンマ、しっかりしてや。
苦笑
ボク!何やねん!?それ!?
苦笑
@@oimihimitasumiho キミ これを読めばわかるさ!
苦笑
@@崎谷猛夫
おいおい!鼻タレボウズ!
ワレ、誰にモノ言うとんねん!
ワシは昭和48年から近鉄の高井田応援団に居ったホンマもんや。
鈴木とも直に話した事も有るんや。
ワレみたいな田舎モンがクソ生意気な事ぬかしとったら、ホンマ、イテまうど!
@@崎谷猛夫
何が「わかるさ」じゃ、アホンダラ!
オマエみたいな田舎のクソガキが近鉄の事を語るなっちゅうねん!
( ^ω^ )
投手としては有能だが
指導者としては無能だったな。
監督時代、野茂とはまったソリが合わなかったが
はたから見たら似た者同士なんだが
似た者同士が合わんし、なかが悪い
鈴木啓示さんはリスペクトしております。野茂さんに関しては、人と人のかけ違い・・走る、悪いことではない。男っぽい、野茂さんももしかして歳を重ねて今ではわかりあえるのではないでしょうか。
ガソリンタンク
ガソリンタンク!?
おいおい!
鈴木はそんなアダ名で呼ばれてへんで!
それは『350勝投手』の米田哲也やがな!
エエ加減な事書いたらアカンがな!
苦笑
鈴木啓示投手は同じ左腕という事もあるが、かねやんと似ていますね。
「チームの優勝ために投げるではなくオレが勝つ事がチームの優勝につながる。」と考えるタイプ。
でもこれだけの投手が何で2位指名だったのだろう?
西宮球場ですね?+選手としては一流、監督としては三流の鈴木啓示ですね‼️
おいおい!三流は言いすぎやで!
(笑)
で、選手としても一流やなく、『超一流』やがな!
ちなみに、鈴木の前の仰木はコーチの権藤の進言を聞かず、阿波野を酷使して”短命“に終わらせた張本人という事を頭に入れてとくようにな!
苦笑
最後の300勝投手だね。15勝を毎年20年続けないといけない。
もう、今後はそういう投手は出て来ない。
シーズン25勝も、今後はいないだろう。
田中が無敗でも、24勝だったからね。
まあ、鈴木啓が活躍した昭和40年代から、50年代前半は投高打低の時代だった事も大きい。
下位打線は今とは比べ物にならないほど、打てなかったから。
それと外国人の助っ人で、凄いのがいなかった。
打者のレベルが低かった。