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良い番組でしたねー。昔のプロレスを語り継ぐ人がすくなくなっているのも事実なので残してもらいたい。
サムライテレビはプレ開局と本開局後三ヶ月間だけ豪華ラインナップでしたね。島田十九八先生がお元気にまだご活動されていますように
プロレススーパースター列伝は、昔サムライTVで毎週みておりました。動画アップありがとうございます🙏
カッコイイ🎉
これぞ、スーパースターだった。
日本ではほとんど語られませんが、シニアは短期間ながらNWA 世界Jr.ヘビーを取っていますね写真が見つからないのが残念ですが、アンジェロ・サボルディというレスラーから1958年アマリロで奪い僅か6日後オクラホマで取り返されてる様です 親子全員元世界王者ということになりますね
他のもアップお願いします!!
ドリーは日本のマット界では日本人レスラーにクリーンフォール負け無しなのが凄いです! 馬場にもリングアウト負けだけですから、鶴田、猪木、坂口にもドローか勝ちでした!
ドリーはオープン選手権で馬場にピンフォール勝ちしてますね
@@ythom4201そうなんですよーどれだけ馬場がブッカーのドリーを大事にしていてのかわかりますよね! あとは全日本の助っ人参加する前のデストロイヤーにもノンタイトルではかなり勝たせていました!
@@ythom4201…やはり全日本旗揚げの1972年から約10年はドリーファンクシニアを筆頭のファンクファミリーには頭が上がらなかったのは明白ですよね! ソレが逆に全日本の金庫や日本テレビの制作費の痛手にもなったのでしょうね? 1974年の1月にはブリスコ、レイス、ドリー、テリーのNWAオールスターを呼びながらも新日本のマクガイヤー兄弟に集客力、視聴率も負けたのですから! 馬場も分だり蹴ったりでしょうネ! 逆に猪木、坂口、新間寿は大笑いだったでしょう!
面白い。
18:56 ハーリーレイスがこんなにも怪力だったとは😮
「生涯のライバルは?」という質問には「ジャック・ブリスコとアントニオ猪木。ジャック・ブリスコとは私がNWAチャンピオン時代に20数回戦った。猪木とは1969年1970年に戦って決着がついていない。猪木と決着をつけたい」と、この動画撮影された1997年頃に言っている。前半では1969年に対戦したときには「セコンドにいるシニアのほうが緊張した」と言って、あんまり評価してないのかな?と思いきや、やはり印象に残っていたんですね。それにたいして全日本プロレス時代にさんざん戦ったジャイアント馬場の名前は仕事仲間としてもライバルとしても出て来ないのが印象的ですね(笑)。
アメリカではブリスコが好敵手でしたが、シニアがNWAをブリスコに渡すのを頑なに拒んでいたらしいですね 結果、一旦レイスを経由する案で納得したとか
@@ythom4201 なるほどー・・・そういえば動画冒頭でも出てくる、新チャンピオンになった記念に撮ったような、ベルトを抱えた白黒写真。あのベルトが、NWAという権威にピッタリしてて、印象に残ってますねー。なんか黒っぽくって地味だけど、クラシックな分逆に権威を感じさせた。その後ジュニアは70年代全日本プロレスにNWA現王者ブリスコ、前王者レイス、サム・マソニック会長達と来日した。そのときにたしか『週刊ゴング』の表紙に、4人で映ってる写真が使われてた。ブリスコだけしゃがんで、ベルトを両手で掲げてる。ジュニアやレイスはブリスコの後ろで拳をあげてファイティングポーズ。二人に挟まれてマソニック会長。ちょうど動画の0:49と同じときに撮影されたような。そのベルトが、ああ、前の方が良かったな、て思ったんですよね勝手に。ブリスコがレイスに勝ってベルト移動した。その試合が白黒グラビアで詳報されてる『ゴング』も買った覚えがあるんですが、ブリスコが嬉しくてベルトを腰に巻いて泣くじゃくってる。ブリスコのときのベルトはもう、ジュニアのときと違って、次の代の、前面の装飾が四角張った、クラシックではないカラフルな感じに変わってたんですよね。NWAの権威を表すベルトというと、やっぱりジュニアの代のベルトが思い浮かびますねー・・・まさにクラシックで。
@@人力飛行機-i1p さん 返信ありがとうございますドリーのことをジュニアと呼ぶのにとても愛情を感じますね テリーもジュニアと呼んでいましたね レイスVSブリスコ戦でベルトがいわゆるレイスモデルに新調されました 確かマソニックが両者にそれぞれ確認していました レイスの写真のキャプションには「まさかこの新ベルトが渡ってしまうとは...」が添えられていたような おそらくご存知でしょうがベルト小ネタを一つ 上記の様に防衛にレイスが失敗しレイスモデル(ややこしい表現ですみません...)を最初に手にしたのはブリスコですが旧タイプのベルトを持つブリスコの写真を見ました「え?なぜ?」と思いました 最初のレイスモデルのベースは赤いタイプ(貴殿が仰られたNWAチャンピオンシリーズは確か赤ベースだったと思います)でした どうやら素材がフエルト製だったのですぐ劣化したらしいのです 以前のように革製のベースにリペアするための期間ブリスコも旧ベルトを使用していたとのこと あとテリーが政権を取っていた時代は破天荒過ぎたのか日本で唯一の防衛戦であるジャンボの挑戦を受けるためにテリーが持ってきたベルトはボロボロでしたね笑 レイス二度目の栄冠時代には綺麗になっていました
@@人力飛行機-i1p さん 返信ありがとうございます! お恥ずかしい限りですが、こちらからのコメ返信していたつもりでしたがどうやら途中で「返信」をクリックしていなかった(?)様です苦笑 大変失礼いたしました 貴殿がドリーのことをジュニアと呼ぶことに大変愛情と尊敬を感じられます 当たり前ですがテリーも「ジュニア」と呼んでいましたね さて貴殿ほど博学であられば既にご承知で失礼を承知で「ベルト小ネタ」をレスさせて頂きます いわゆる、レイスモデルが登場したのは王者レイスVSブリスコの防衛戦 マソニックが双方に新ベルトの確認をしている写真を見たことがありレイスがベルトを確認してる写真のキャプションには「まさかこの試合で新ベルトを明け渡すとは思っていなかったレイス」と言った様なキャプションが付けられていたと思います 新ベルトは見事新チャンピオンのブリスコの手に渡ります 貴殿が仰られたNWAチャンピオンシリーズに持ってきたのは赤をベースとしたレイスモデルの初代タイプでした そして自分はネットが普及した時代にブリスコが旧ベルトを肩から下げている写真を見ました 「え?なんで????」と思いました 調べるとレイスタイプの初期赤ベースは素材がフエルト素材ですぐに劣化してしまった様です なので以前の様にベースを革製にリペアしている期間、ブリスコは旧ベルトを使用していた様です また唯一のNWA王者で来日しジャンボの挑戦を受けたテリーの持ってきたベルトはボロボロでしたね ローデスやジョンソン、ストンパーとの防衛戦ではベルトを持ち出しての攻防が残っていますね いかにも破天荒なテリーらしいといえばテリーらしい笑 第二次レイス政権では綺麗にリペアされていました また余談になりますがNWAレイスVSグラハムWWFのダブルタイトル戦の当初の予定はテリーだったとのこと しかし当時のテリーは防衛戦ロードでかなりコンディションが悪かったのでダブルタイトル戦に合わせてレイスに移動があったという説もあります 確かにトロントでのテリーの王座転落の映像を見るとかなり足が細くなっている様に見えます ベルトを巡るファンク一家、レイス、ブリスコの複雑な人間模様はちょっとしたゴッドファーザー的な感慨深くも謎解きも面白いですね 駄文・長文本当に申し訳ありません
@@ythom4201 NWAベルトの旧型と新型の話はそこまでは知りませんでした。ありがとうございます。実に新型になってからも色々あったんですねー・・・肝心の王者の変遷も、ジュニアがレイスに敗れて、レイスがブリスコに敗れて、そのブリスコがジュニア、レイス、マソニック会長とともに全日本プロレスに来日。タイトル戦を繰り広げるあたりまではよく記憶してましたが、その後、たしかテリーが王者になる・・・までは記憶はしています。テリーが王者だった時代は、しかしテリーNWA王者!の映像の記憶が私はないんですね。王者で日本で防衛戦やったかどうかも知らないし。貴殿の話では日本で鶴田の挑戦受けたと、いうことで。おそらく貴殿の話からすると、ブリスコ、レイス、テリーあたりで持ち回りしていたわけでしょうね。1970年代後半は。そのなかで全日本プロレスにブリスコやレイスが来た際にG馬場に一回は破れて、また同じ来日中に馬場から取り返す、G馬場が念願のNWA王者に君臨!の記録も残り。いずれにしろ、そのころはもう、けっこうベルトの動きが激しくなっていっていた。そのなかでの馬場奪取と1週間天下の記録も残る。そういう時代だったんでしょうね。しかし、私の記憶の中では、NWA王者👑 という権威に見合った人間というと、ルー・テーズ→ジン・キニスキー→ドリー・ファンク・ジュニア・・・まで。ジュニアがあのハーリー・レイスに敗れた、というのも意外だったし、ジュニアとレイスでは、あのクラシックなベルトの権威に見合うか否かがもう違うんですよね。どう視てもレイスはじゃじゃ馬。ジュニアはプロレスラーになるべくして英才教育を受けてきたサラブレッド。もうそこから違うし。で、ブリスコはどうかと言えば、たしかに彼は良い選手なんです。彼はA猪木が日本プロレスに在籍した最後の年、1971年に来日。猪木のUN王座に挑戦。これも天才と天才の織り成す名画というか、名演というか、素晴らしいんだけど、1本目は猪木のコブラツイストを跳ね飛ばしたところで猪木が後頭部強打。そのままフォールでブリスコ。この場面が猪木の十八番コブラツイスト返しとしては多分ブリスコだけがやってのけた名場面で、素晴らしい。いまだにああいう動きができたのてあのときのブリスコだけ。あれでブリスコ天才は確定してるとも思うんだけど。ところがしかし2本目に猪木の最もキレる時代のジャーマンを頭から受けてしまうと、ダメージが大きくてもうヘロヘロになり、3本目はもう1本目のようにコブラを返せずにコブラの餌食。そのヘロヘロの場面が脳裏にあって、意外にモロイ、が印象にあります。でテリーはというと、彼は兄貴とは違ってショーマンで、見世物としてのプロレスが上手い。どっかやんちゃ坊主っぽくって女性のハートを掴むのが上手い。母性本能くすぐる。しかし、こと勝負師、本物感、ということになると、イメージが湧かないんですね。ジュニアも動画で言ってたと思うけど、プロレスとしては全然違う。というわけで、NWAベルトに見合うレスラーということになると、私のなかではジュニアが最後なんです。NWAの王者って、各地を転戦。地元の英雄の挑戦を受けて、そこそこ良い場面も作るんだけど、花を持たせるんだけど、しかし、一瞬のスキをつく王者の切れ味の鋭い技を受けてしまうともう立てない。そういう、受けの上手さ+切れ味の鋭い決め技+勝負勘でまだ勝てない感・・・というのがNWA王者なんですね私にとって。本物感がなきゃいけない。それがあってこそのNWA王者。そういうイメージ。そうなると、レイス以降はちょっと、という感じ。なのでこの動画も面白く視れたんですけど。そこまで書いてきて、ジュニアの次の代は誰が適任だったか、となると、意外にA猪木だったような気もするんですよね。で、ここからが勝手な推測で、日本で猪木と2回やって決着つかなかった。今でも決着をつけたい、とジュニアが動画で言ってる。実は、彼は、自分がベルトを譲るとしたら猪木が良いな、と内心思っていたんじゃないか。猪木になら譲ってもいいって。それだけのレスラーだからって。そうだったら面白いなって思います。しかし、1972年以降はNWA圏から外れてる猪木との対戦は、もうなかったわけですけど。しかし、まだ猪木がなんとかNWA圏にいて、ジュニアともやれる状態だったら、ジュニアが譲った可能性ってあるんじゃない?長々失礼しました(笑)。
ドリーさん、テキサス出身じゃ無いんだ・・・
育ったのはパタリロ テキサスだと思うよ。😊
この頃はまだまだ全盛期のコンディションとテンションがみなぎってるますね流石に先日の来日はかなり老け込んだなぁと思いました 当たり前なのですが
おっ、これは日本プロレスのジャージでしょうか? ポスターにはドリーVSヒロ・マツダ?
これは貴重映像!!テキサス州アマリロじゃないんですねw
列伝でも過酷な砂漠を移動する家族の描写がありましたねwwww
馬場は若い嫁をもらい金がいるからギャラアップを要求してきたドリーを試合で仕掛けて潰させ、追放しました。それからドリーは猪木の名前を出すようになった。ブリスコとは生涯で60回以上闘ったはずです。
馬場さんはギャラを下げてはいなかったと思うのですが。だから元々高かったのを上げる要求をしたのかと。馬場さんは外国人にはケチではないはず。
@@カッコマンk 様そうです。元々高いし支払いも毎週キャッシュ払いという事が馬場さんの絶大なる外人レスラーからの信頼だったのです。ところが、ドリーはその女にのめり込んで、どうしても上げてくれとる拝み倒したため、温厚な馬場さんも頭の線切れたのです。
@@bruuzar 今回の来日でも夫人がいたという事で仲良いのは良いですが、そんな事実があったんですね。しかし私も知恵袋で謳ったドリー最強論(今回わたしも忘れていたのですが10年前に投稿していました)馬場猪木2日連続のフルタイムドロー、真夏の猪木の福岡のドロー(猪木もすごい)ガチやらヤオやらを越えた凄さがドリーにはあったんだろうかと思ったりします。失礼しました。
@@bruuzar さん 個人的な憶測ですがおそらくドリーは先妻との離婚でお子さんが3人もいたこともあり財産のほとんどを無くしたんじゃないでしょうか? 離婚を境にアマリロを離れ遠征にも出向きましたが、更にドリーを襲ったのは南アフリカ遠征での重度の食中毒でした 80年の最強タッグに来日したガリガリのドリーは当時小学生の私でも驚きました マーティさんはアメリカ版元子さんとも揶揄されますが、傷心のドリーを救ったのがマーティだったと思います
テリーマンのモデル
良い番組でしたねー。昔のプロレスを語り継ぐ人がすくなくなっているのも事実なので残してもらいたい。
サムライテレビはプレ開局と本開局後三ヶ月間だけ豪華ラインナップでしたね。島田十九八先生がお元気にまだご活動されていますように
プロレススーパースター列伝は、昔サムライTVで毎週みておりました。
動画アップありがとうございます🙏
カッコイイ🎉
これぞ、スーパースターだった。
日本ではほとんど語られませんが、シニアは短期間ながらNWA 世界Jr.ヘビーを取っていますね
写真が見つからないのが残念ですが、アンジェロ・サボルディというレスラーから1958年アマリロで奪い僅か6日後オクラホマで取り返されてる様です 親子全員元世界王者ということになりますね
他のもアップお願いします!!
ドリーは日本のマット界では日本人レスラーにクリーンフォール負け無しなのが凄いです! 馬場にもリングアウト負けだけですから、鶴田、猪木、坂口にもドローか勝ちでした!
ドリーはオープン選手権で馬場にピンフォール勝ちしてますね
@@ythom4201そうなんですよーどれだけ馬場がブッカーのドリーを大事にしていてのかわかりますよね! あとは全日本の助っ人参加する前のデストロイヤーにもノンタイトルではかなり勝たせていました!
@@ythom4201…やはり全日本旗揚げの1972年から約10年はドリーファンクシニアを筆頭のファンクファミリーには頭が上がらなかったのは明白ですよね! ソレが逆に全日本の金庫や日本テレビの制作費の痛手にもなったのでしょうね? 1974年の1月にはブリスコ、レイス、ドリー、テリーのNWAオールスターを呼びながらも新日本のマクガイヤー兄弟に集客力、視聴率も負けたのですから! 馬場も分だり蹴ったりでしょうネ! 逆に猪木、坂口、新間寿は大笑いだったでしょう!
面白い。
18:56 ハーリーレイスがこんなにも怪力だったとは😮
「生涯のライバルは?」という質問には「ジャック・ブリスコとアントニオ猪木。ジャック・ブリスコとは私がNWAチャンピオン時代に20数回戦った。猪木とは1969年1970年に戦って決着がついていない。猪木と決着をつけたい」と、この動画撮影された1997年頃に言っている。
前半では1969年に対戦したときには「セコンドにいるシニアのほうが緊張した」と言って、あんまり評価してないのかな?と思いきや、やはり印象に残っていたんですね。
それにたいして全日本プロレス時代にさんざん戦ったジャイアント馬場の名前は仕事仲間としてもライバルとしても出て来ないのが印象的ですね(笑)。
アメリカではブリスコが好敵手でしたが、シニアがNWAをブリスコに渡すのを頑なに拒んでいたらしいですね 結果、一旦レイスを経由する案で納得したとか
@@ythom4201 なるほどー・・・そういえば動画冒頭でも出てくる、新チャンピオンになった記念に撮ったような、ベルトを抱えた白黒写真。あのベルトが、NWAという権威にピッタリしてて、印象に残ってますねー。なんか黒っぽくって地味だけど、クラシックな分逆に権威を感じさせた。
その後ジュニアは70年代全日本プロレスにNWA現王者ブリスコ、前王者レイス、サム・マソニック会長達と来日した。そのときにたしか『週刊ゴング』の表紙に、4人で映ってる写真が使われてた。ブリスコだけしゃがんで、ベルトを両手で掲げてる。ジュニアやレイスはブリスコの後ろで拳をあげてファイティングポーズ。二人に挟まれてマソニック会長。ちょうど動画の0:49と同じときに撮影されたような。そのベルトが、ああ、前の方が良かったな、て思ったんですよね勝手に。
ブリスコがレイスに勝ってベルト移動した。その試合が白黒グラビアで詳報されてる『ゴング』も買った覚えがあるんですが、ブリスコが嬉しくてベルトを腰に巻いて泣くじゃくってる。ブリスコのときのベルトはもう、ジュニアのときと違って、次の代の、前面の装飾が四角張った、クラシックではないカラフルな感じに変わってたんですよね。
NWAの権威を表すベルトというと、やっぱりジュニアの代のベルトが思い浮かびますねー・・・まさにクラシックで。
@@人力飛行機-i1p さん 返信ありがとうございます
ドリーのことをジュニアと呼ぶのにとても愛情を感じますね テリーもジュニアと呼んでいましたね レイスVSブリスコ戦でベルトがいわゆるレイスモデルに新調されました 確かマソニックが両者にそれぞれ確認していました レイスの写真のキャプションには「まさかこの新ベルトが渡ってしまうとは...」が添えられていたような おそらくご存知でしょうがベルト小ネタを一つ 上記の様に防衛にレイスが失敗しレイスモデル(ややこしい表現ですみません...)を最初に手にしたのはブリスコですが旧タイプのベルトを持つブリスコの写真を見ました「え?なぜ?」と思いました 最初のレイスモデルのベースは赤いタイプ(貴殿が仰られたNWAチャンピオンシリーズは確か赤ベースだったと思います)でした どうやら素材がフエルト製だったのですぐ劣化したらしいのです 以前のように革製のベースにリペアするための期間ブリスコも旧ベルトを使用していたとのこと あとテリーが政権を取っていた時代は破天荒過ぎたのか日本で唯一の防衛戦であるジャンボの挑戦を受けるためにテリーが持ってきたベルトはボロボロでしたね笑 レイス二度目の栄冠時代には綺麗になっていました
@@人力飛行機-i1p さん 返信ありがとうございます! お恥ずかしい限りですが、こちらからのコメ返信していたつもりでしたがどうやら途中で「返信」をクリックしていなかった(?)様です苦笑 大変失礼いたしました 貴殿がドリーのことをジュニアと呼ぶことに大変愛情と尊敬を感じられます 当たり前ですがテリーも「ジュニア」と呼んでいましたね さて貴殿ほど博学であられば既にご承知で失礼を承知で「ベルト小ネタ」をレスさせて頂きます いわゆる、レイスモデルが登場したのは王者レイスVSブリスコの防衛戦 マソニックが双方に新ベルトの確認をしている写真を見たことがありレイスがベルトを確認してる写真のキャプションには「まさかこの試合で新ベルトを明け渡すとは思っていなかったレイス」と言った様なキャプションが付けられていたと思います 新ベルトは見事新チャンピオンのブリスコの手に渡ります 貴殿が仰られたNWAチャンピオンシリーズに持ってきたのは赤をベースとしたレイスモデルの初代タイプでした そして自分はネットが普及した時代にブリスコが旧ベルトを肩から下げている写真を見ました 「え?なんで????」と思いました 調べるとレイスタイプの初期赤ベースは素材がフエルト素材ですぐに劣化してしまった様です なので以前の様にベースを革製にリペアしている期間、ブリスコは旧ベルトを使用していた様です また唯一のNWA王者で来日しジャンボの挑戦を受けたテリーの持ってきたベルトはボロボロでしたね ローデスやジョンソン、ストンパーとの防衛戦ではベルトを持ち出しての攻防が残っていますね いかにも破天荒なテリーらしいといえばテリーらしい笑 第二次レイス政権では綺麗にリペアされていました また余談になりますがNWAレイスVSグラハムWWFのダブルタイトル戦の当初の予定はテリーだったとのこと しかし当時のテリーは防衛戦ロードでかなりコンディションが悪かったのでダブルタイトル戦に合わせてレイスに移動があったという説もあります 確かにトロントでのテリーの王座転落の映像を見るとかなり足が細くなっている様に見えます ベルトを巡るファンク一家、レイス、ブリスコの複雑な人間模様はちょっとしたゴッドファーザー的な感慨深くも謎解きも面白いですね 駄文・長文本当に申し訳ありません
@@ythom4201 NWAベルトの旧型と新型の話はそこまでは知りませんでした。ありがとうございます。実に新型になってからも色々あったんですねー・・・肝心の王者の変遷も、ジュニアがレイスに敗れて、レイスがブリスコに敗れて、そのブリスコがジュニア、レイス、マソニック会長とともに全日本プロレスに来日。タイトル戦を繰り広げるあたりまではよく記憶してましたが、その後、たしかテリーが王者になる・・・までは記憶はしています。テリーが王者だった時代は、しかしテリーNWA王者!の映像の記憶が私はないんですね。王者で日本で防衛戦やったかどうかも知らないし。貴殿の話では日本で鶴田の挑戦受けたと、いうことで。
おそらく貴殿の話からすると、ブリスコ、レイス、テリーあたりで持ち回りしていたわけでしょうね。1970年代後半は。そのなかで全日本プロレスにブリスコやレイスが来た際にG馬場に一回は破れて、また同じ来日中に馬場から取り返す、G馬場が念願のNWA王者に君臨!の記録も残り。いずれにしろ、そのころはもう、けっこうベルトの動きが激しくなっていっていた。そのなかでの馬場奪取と1週間天下の記録も残る。そういう時代だったんでしょうね。
しかし、私の記憶の中では、NWA王者👑 という権威に見合った人間というと、ルー・テーズ→ジン・キニスキー→ドリー・ファンク・ジュニア・・・まで。ジュニアがあのハーリー・レイスに敗れた、というのも意外だったし、ジュニアとレイスでは、あのクラシックなベルトの権威に見合うか否かがもう違うんですよね。どう視てもレイスはじゃじゃ馬。ジュニアはプロレスラーになるべくして英才教育を受けてきたサラブレッド。もうそこから違うし。で、ブリスコはどうかと言えば、たしかに彼は良い選手なんです。
彼はA猪木が日本プロレスに在籍した最後の年、1971年に来日。猪木のUN王座に挑戦。これも天才と天才の織り成す名画というか、名演というか、素晴らしいんだけど、1本目は猪木のコブラツイストを跳ね飛ばしたところで猪木が後頭部強打。そのままフォールでブリスコ。この場面が猪木の十八番コブラツイスト返しとしては多分ブリスコだけがやってのけた名場面で、素晴らしい。いまだにああいう動きができたのてあのときのブリスコだけ。あれでブリスコ天才は確定してるとも思うんだけど。
ところがしかし2本目に猪木の最もキレる時代のジャーマンを頭から受けてしまうと、ダメージが大きくてもうヘロヘロになり、3本目はもう1本目のようにコブラを返せずにコブラの餌食。そのヘロヘロの場面が脳裏にあって、意外にモロイ、が印象にあります。
でテリーはというと、彼は兄貴とは違ってショーマンで、見世物としてのプロレスが上手い。どっかやんちゃ坊主っぽくって女性のハートを掴むのが上手い。母性本能くすぐる。しかし、こと勝負師、本物感、ということになると、イメージが湧かないんですね。ジュニアも動画で言ってたと思うけど、プロレスとしては全然違う。
というわけで、NWAベルトに見合うレスラーということになると、私のなかではジュニアが最後なんです。NWAの王者って、各地を転戦。地元の英雄の挑戦を受けて、そこそこ良い場面も作るんだけど、花を持たせるんだけど、しかし、一瞬のスキをつく王者の切れ味の鋭い技を受けてしまうともう立てない。そういう、受けの上手さ+切れ味の鋭い決め技+勝負勘でまだ勝てない感・・・というのがNWA王者なんですね私にとって。本物感がなきゃいけない。それがあってこそのNWA王者。そういうイメージ。そうなると、レイス以降はちょっと、という感じ。なのでこの動画も面白く視れたんですけど。
そこまで書いてきて、ジュニアの次の代は誰が適任だったか、となると、意外にA猪木だったような気もするんですよね。で、ここからが勝手な推測で、日本で猪木と2回やって決着つかなかった。今でも決着をつけたい、とジュニアが動画で言ってる。実は、彼は、自分がベルトを譲るとしたら猪木が良いな、と内心思っていたんじゃないか。猪木になら譲ってもいいって。それだけのレスラーだからって。そうだったら面白いなって思います。しかし、1972年以降はNWA圏から外れてる猪木との対戦は、もうなかったわけですけど。しかし、まだ猪木がなんとかNWA圏にいて、ジュニアともやれる状態だったら、ジュニアが譲った可能性ってあるんじゃない?
長々失礼しました(笑)。
ドリーさん、テキサス出身じゃ無いんだ・・・
育ったのはパタリロ テキサスだと思うよ。😊
この頃はまだまだ全盛期のコンディションとテンションがみなぎってるますね
流石に先日の来日はかなり老け込んだなぁと思いました 当たり前なのですが
おっ、これは日本プロレスのジャージでしょうか? ポスターにはドリーVSヒロ・マツダ?
これは貴重映像!!
テキサス州アマリロじゃないんですねw
列伝でも過酷な砂漠を移動する家族の描写がありましたねwwww
馬場は若い嫁をもらい金がいるからギャラアップを要求してきたドリーを試合で仕掛けて潰させ、追放しました。
それからドリーは猪木の名前を出すようになった。
ブリスコとは生涯で60回以上闘ったはずです。
馬場さんはギャラを下げてはいなかったと思うのですが。
だから元々高かったのを上げる要求をしたのかと。
馬場さんは外国人にはケチではないはず。
@@カッコマンk 様
そうです。
元々高いし支払いも毎週キャッシュ払いという事が馬場さんの絶大なる外人レスラーからの信頼だったのです。
ところが、ドリーはその女にのめり込んで、どうしても上げてくれとる拝み倒したため、温厚な馬場さんも頭の線切れたのです。
@@bruuzar
今回の来日でも夫人がいたという事で仲良いのは良いですが、そんな事実があったんですね。
しかし私も知恵袋で謳ったドリー最強論(今回わたしも忘れていたのですが10年前に投稿していました)
馬場猪木2日連続のフルタイムドロー、
真夏の猪木の福岡のドロー(猪木もすごい)
ガチやらヤオやらを越えた凄さがドリーにはあったんだろうかと思ったりします。
失礼しました。
@@bruuzar さん 個人的な憶測ですがおそらくドリーは先妻との離婚でお子さんが3人もいたこともあり財産のほとんどを無くしたんじゃないでしょうか? 離婚を境にアマリロを離れ遠征にも出向きましたが、更にドリーを襲ったのは南アフリカ遠征での重度の食中毒でした 80年の最強タッグに来日したガリガリのドリーは当時小学生の私でも驚きました マーティさんはアメリカ版元子さんとも揶揄されますが、傷心のドリーを救ったのがマーティだったと思います
テリーマンのモデル