Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
田中英道先生の本を読むようになって古墳巡りをしています。昨年、さきたま古墳群を訪れましたが忍城を含め再訪したいと思います。
いつも素晴らしい内容だと感心してます。これってオンサイト録音でしょうか?
なかなか行けない貴重な体験ができて、ありがとうございます。
めちゃくちゃ面白い!副葬品含めて歴史書との照らし合わせ等、更に歴史を楽しむための素晴らしい動画ですね。ロマンが溢れてます
昨年の夏に群馬の古墳群を見学に行きました。なかなか素晴らしい大きな前方後円墳でした。埼玉の古墳群も凄いですね。古代史はどうしても畿内~河内~奈良、そして北部九州が古墳群の印象ですが、北関東も凄い。再認識と見直しが必要ですね。
20数年前、横浜にいたころ、鉄剣と古墳を見にいきました。鉄剣見た時感動したこと、古墳が思った以上に高く築かれていて驚いたことを思い出しました。
ありがとうございます。今度行ってみます。
埼玉にこんなに貴重な古墳があると初めて知りました。日本書紀との符合にはドキドキしました。近いうちに訪問したいと思います。紹介して下さりありがとうございます。
是非いってみてください。1日コースですよw
@@NAKAHirotoshi さん、ありがとうございます。この自粛期間が終わったら、お出かけする候補地ナンバーワンにします。
実家が堺市です。古墳大好き。ここ2年前に行ってきました。文字もない頃、識字率0%で古墳を作るとかヤバい。
堺には勝てません^^;
古代史ってロマンあるよね
多摩川古墳群と展示館には行ったことが有ります。こじんまりとはしていますが非常に歴史好きには心に響く場所です。勉強不足でしたが、多摩川古墳群が稲荷山古墳や中国史書の倭王武に繋がるとは。。ロマンが有って古代史は素敵ですね!貴重な動画を投稿有難う御座いました!
もう50年以上前になってしまいますが、杉原(当時の地名)では、普通の畑で、弥生土器がザックザック出土。小学生だった私は、大切に保管していたのだが...
天皇、大王は、奈良の都ができるまで、関東エリアにいたと言われています。
安閑天皇は6世紀の方だから471年ではなく531年説あってもいいと思います
大変貴重な映像と解説、ありがとうございました!!服装品の武器の多さもですが、剣に代々先祖の名を長々と刻むあたり、まっすぐな武人の気骨を感じてしまいます。ワカタケルの文字を最初に目にした研究者はシュリーマンの様に興奮したでしょうね😄
古代史大好きです。古事記の世界に色々と自分なりの考えを持って旅するのは楽しく、ここ数年はまっています。神社や古墳に知られていない物語を想像し、勝手に感じています。関西でもブラタモギをやってください!
♥️マークありがとうございます。最近勝手に思っているのは、古事記とは、賀茂氏と秦氏の物語だったりして…以外に伝説の物語の中心は、紀元後の話なのかな?
茂木先生、ご解説ありがとうございます。ブラタモギの動画がきっかけとなり、埼玉古墳群や出土鉄剣について調べるようになりました。今回の動画は、まさに知りたい内容だったのでこのタイミングでの動画投稿に驚きました。また、わかりやすいご説明ありがとうございます。
鉄剣の名加差披余其児名乎獲居臣の加差披余 (カサハヨ カサヒヨ)は笠原のことの可能性が高いそうですね。
自分の出身地は、群馬の天神山古墳の東隣で、古い地名が「毛里田(モリタ)」と云う所です。利根川を挟んで対峙する「さきたま古墳群」との関係性が知りたかったので、この動画は有り難いです。
貴重な動画 さらには撮影許可の御高配感謝いたします。 有り難いです。
撮影許可がでたなんてすごい!茂木先生の説明つきで分かりやすかったです。自分で展示を見るだけではそこまで深く理解できないです。田中英道先生が指摘されている芝山古墳のユダヤ人ハニワについていつか茂木先生のご見解をお聞きしたいです。😀
俺もこの剣見に行きました!めちゃ感動した!
よく博物館が撮影を許可してくれました。茂木先生の実績のなせる業ですかね。いつもながら、分かりやすい解説、ありがたいです。我々日本人の歴史、ルーツについて、興味が増しました。
国宝は文化庁の管轄ですので、文化庁の許可が必要でした。
@@maomao96363 動画作成の陰に、関係各所への許可申請など、大変なご苦労があること、初めて知りました。戦後の歴史教育の偏りもあるのか、日本人の多くは、自分達の歴史、ルーツに無頓着になりました。これからは、もっと探求心と好奇心を持ち、神話とされるものの中にも、真実を見つけていきたいと感じました。貴重な動画、改めて感謝いたします。
東京都杉並区の大宮八幡宮周辺に、海人の遺跡が見つかっていますが、大きな変化が600年頃に起きているので、それとの関連も気になっています。確か、北との勢力争いに負けたという記述も見たような。その種族は人見街道を西に移住したようですが、その聖地性は残り、源頼義の奥州征伐の通り道になった。ココに(多田源氏の雑色?)江戸氏一門の「中野殿」がいて、六郷殿とともに坂東平氏を熊野詣でに連れて行く先達だったようですが、太田道灌の時代に衰弱(その事実が謎に隠されているとする「堀之内の謎」という自費出版っぽいのまであります)。中野殿は阿佐ヶ谷に有った八幡太郎義家の宝仙寺(現・世尊院)を鬼門にあたる中野坂上に移したとされ、妙にその後あの一帯の豪商となる鈴木九郎(新宿十二社熊野)と特徴が一致します。南朝派でもある。十二社は大宮八幡宮から人見街道の延長線上の終点。十二社の隣は明治神宮。自分としては、600年の異変後に、熊野水軍の穂積鈴木が来たのではないか?中野殿を名乗っていた鈴木が、南北朝時代に武家を見限り真言・曹洞の財力ネットワークを形成したように思います。長らく上杉に苦しめられた人々(南朝派)が、この地が後北条の手にに落ちた時に、大宮八幡で喜びの声を上げた・・というのも、どっかで(w)読みました。蛇足ですが、宝仙寺(真言)は鎌倉幕府が出来ると秘仏化します。江戸期に人気となる妙法寺(法華)も元は真言の尼寺で、水路で繋がっている痕跡が有ります。奥州へ向う伝統ある道ですし「義経?」と思ってしまったり。「あさかや氏」は不思議なカリスマ人気が有ったらしく、中野殿に熊野に連れて行かれる旦那だったとか
間違いないと言う場合は証明が必用だけど、博物館も「あっていると思う」といっているだけですね
昔、20年ぐらい前、飛鳥の苑地遺跡の現地説明会を聴講したことがありました。予備知識なしで聞いても結構楽しめます。関西人のトークですのでww
修学旅行で行った薬師寺の坊さんもノリノリでしたw
私が中学生の時、やはり薬師寺で講話ききました。なんと高田好胤さんでした。
「絹」が特産品だから「毛野」地方なのか、毛野の地の特産なので絹という名前になったのか、考えると夜と昼しか眠られないです。
「鬼怒川」は「毛野川」が語源だそうですね。
@@maomao96363 毛野と言えば「毛人」と書いて「えみし」と読むのも深いわけがあるのでしょう。
多分そうだよ
絹の川だから鬼怒川ですね。恐らく。
先日私もさきたま古墳群を訪れました。残念ながら国宝館が改修工事のために鉄剣の実物はみることができませんでした。もうひとつ残念なことは、現在は辛亥の年は531年が有力なのに、それについては触れず471年で決まり!みたいに展示してあることです。考古学は年々新しい発見や最新の分析技術で情報が更新されるので、現地では最新の情報がほしいと思っています!
尊称があれば実在しないという理屈がわかりません。どうかご教授お願い致します。
第21代雄略天皇が、埼玉稲荷山古墳の鉄剣に記された西暦471年頃の人物だとすると、安本美典さんの初期の天皇の平均在位年数約10年説に従えば、初代神武天皇は雄略天皇から二百年前の西暦270年頃の人物ということになりますね。私は神武東遷は事実と考え、その年代は纏向に巨大古墳が出現する大体三世紀終わり頃と考えていましたので、鉄剣に記されたワカタケル大王が雄略天皇を指すとする説は、私にとって無理なく受け入れられますね。
考古学ってロマンよな数学絡めてやってみれたら面白そう
副葬品からも、当時の天皇や貴族が護衛する親衛隊として矢などは、敵を殺傷する能力の高い武器で大和朝廷を守っていたのですね。四道将軍の話しから岡山の桃太郎さんの話し作ったりしました。
茂木先生。「崇神天皇が初代天皇だった」と簡単に言わないで欲しい。いろいろな説がある。「崇神天皇が初代天皇だった、と言う説もある」くらいにとどめておくべきかな。私の意見になりますが、「崇神天皇が初代天皇」だったら記紀の記述とあわないのではないでしょうか。神武東征の記述が大阪湾の状況とあっていた、という長浜浩明氏の著作に説得力を感じています。
いろいろ想像できるのが、古代史の楽しさですね。
@@maomao96363 さん。コメントありがとうございます。世界史の動画の方も楽しみに拝見しています。こういう動画を見て勉強できる今の世代がうらやましいです。最近、見つけてよく見ているのが、ゆる言語学ラジオ。よく練られています。数学RUclipsrで有名な鈴木貫太郎さんも見ているようです。ruclips.net/channel/UCmpkIzF3xFzhPez7gXOyhVgvideos勉強しようと思えば、いくらでも、しかも無料で勉強できる凄い時代になったものです。
記紀の悩ましい点は原本がなく、古事記が南北朝時代の写し、書紀が平安時代の写しが一番古いものと言うことです。この間に桓武天皇や藤原氏などにより書き換えられていることは十分考えられます。また神武天皇の即位年がBC660年ということも、昔ある歴史家の先生が、60年×21=1260年ごとの辛酉の年に革命が起きるという中国の「辛酉革命説」による年数合わせではないかという説をだしていますがどうなのでしょうか?(600年に何かあったらしく、それから1260年前のBC660年としたということです。)確かに想像はいろいろ広がります。
勾玉を継承している人たちはみんな同族だけど、元々、関東の食料供給能力はけた違いで縄文時代、関東、東北の方が人口が多く、鬼海カルデラの破局噴火で西日本は壊滅して、その後の寒冷化で南進して再入植が天孫降臨だと考えている。東日本の元の中心地は鹿島、香取神宮の常陸で伊勢神宮よりはるかに古い。アマテラス派の売りは効率の良い稲作おしえるので一緒にやろうよで、倭国大乱後は2年分備蓄しようねというのが売りになるが、この2年の備蓄が出来る前に飢饉が来るともめる。
群馬の古墳時代も動画作って欲しいです
雄略天皇のお墓は、仲哀天皇陵と言われていますね。
8代天皇の皇子様の名前は大彦命です!
中学生の時にみにいったな
ってワクチン屋思い出してしもた。あれは汚魅かw
古代史の地形も現代とは違いますから地政学的にも人々の考えは違っていた?埼玉の古墳群の辺りは海に面していたとしたら、結構荒っぽい性格の人間になっていたかもしれないですね。
ワカタケルという読みも雄略天皇だというのも、古代の流れから考えると信用できません。埼玉・群馬の古墳群と千葉(前方後円墳日本最多)の関係が気になります。
古墳は土地開拓事業の土盛り。?最初から墓として作ったのでは無く、その地域の土地開拓の時に集められ、その土盛りを墓として有効活用。年代が新しくなって来るに従い、古墳は小さくなったんじゃ無いですかね。?
うんなわけないぞ😢知識ないと石室つくれんよ。
そのとうりです。
撮影許可出たのか。将軍山の方の内部展示も撮ったの?
次回の動画をお楽しみに。
この古墳の最大の意義は欠史八代説を覆す鉄剣が出土した事であるが埼玉の学芸員はこれを無視する。崇神天皇の父は開花天皇(9代)であり大彦はその兄である。大彦が存在したとなるとその父 孝元天皇(8代)の存在を否定できなくなる。なので先祖の名前は創作であろうとか、大彦はどこにでもある一般名であると学芸員というか日本の歴史学会は言っている。 仮に大彦が存在してもその父の孝元天皇の存在を証明するものでないという人もいる。膨大な系譜が残っており物証も出ても欠史八代説を否定しない歴史学会の闇は深いし、もせぎ先生も目をつぶってているのは残念である。
大彦って多氏のことで、大野東人や太安万侶を輩出した、古くから大和朝廷と密接なつながりのある一族ですよ。稲荷山古墳出土鉄剣や多胡碑を作った人々でもあるでしょう。
何の事件❓金策名鉄剣。時何があったの?
稲荷山古墳から出土した稲荷山鉄剣、金象嵌の細工が施され、当時の技術の高さを感じます。鉄剣に刻まれた崇神天皇の名があるの見ても、埋葬者は只者じゃないですよね。大和王権との繋がりを見ても、埋葬者は使主氏の一族の方かな。PS博物館内の撮影を許可してくれた埼玉史跡の博物館様、茂木先生、ありがとうございました。茂木先生の動画を見て、またさきたま古墳群に行ってみたくなりました。
コロナで閑散としていました。ぜひ行ってあげてください!
最高に面白かったです。先生の影響で私も日本の古代史にハマってしまいました。新潟県に住んでおりますが海沿いに出雲崎という地名があります。これは!と思い出雲崎の神社を調べますとやはりありました、大国主ゆかりの神社が。勉強して仮説を立てて調べる。発見のあった時の驚きと喜び!これ以上はない大人の娯楽だと思っております。そちらの博物館も是非訪れてみようと思います。
新潟県も縄文時代の遺跡あります。出雲と繋がりがありますね。
@@asa01053 さん自分は長岡歴史博物館に良く行きます。縄文土器大好きです。
古事記日本書紀にも記載があって出土品から銘が出ても実在しない可能性があると言われてしまう四道将軍(よつみちいくさがみ)大彦命。纏向遺跡も相まって実在の可能性はかなり高い、というか祖先をでっち上げるにしても200年程度しか離れていない当時の人が実在したと考えていたわけで、実在しなかったというのは難しいと思うのですがね。古墳時代初期の大和王権の勢力を過小評価しようとしてるのではとどうしても疑ってしまいます。
地元の子にはただの高台がある広場でしたね〜近くまで来た時には丸墓山のてっぺんで三成の観た景色を眺めてみてほし
安閑天皇からホタテ貝式ではなく丸に戻っているのが気になりました。巷の陰謀論では、明治天皇から丸い韓国式のような古墳になっていると言われていますが、日本の国の形成における陰謀論は大概作られたものではないかと思っています。(麻生さんや安倍さんが売国奴だというのも含め)先生の動画で是非少しずつ論破していただけたら嬉しいです。
ここ、埋葬品の説明に日本語と英語はいいとして、中国語の説明文まであるんですよ。いったい誰に忖度してるのかと、すごくムカついたのを覚えています。
忖度というより、中国語に堪能な方がおられたというだけではないのかな。仕事柄、古代の漢文を普通に読んでるでしょうし。
@@武田信治-k6e 田舎ですよ。中国語に堪能な方がいったい何人いらっしゃるというのでしょう。必要性がどれ程あるのかも甚だ疑問です。靖国神社にオシッコをかけるような人達です。何をされるかわかりません。
埼玉県はもちろんのこととなりの群馬県にはもっと重要な遺跡群があります❣️また、多胡碑と重要文化財が有ります‼️
もぎ先生は群馬の古墳はさきたまと違って独立国って言っていたような。。。気になりますね😃
ふーむ、当時から多摩川沿いは悪の巣窟だったってことか。伝統だな。
鉄剣に刻まれた名って雄略天皇ってちょっと違う気がします。新羅の王に似た名前いましたよね?日本に逃げて来てたのでは?
外国人だと都合悪いから
関東王国ですね!ユダヤ民族か。
いわゆる「大彦」(皇太子の意味)は系図上の孝霊天皇朝の大彦(皇太子)本当の時代は紀元1世紀頃に実在したお方。古事記は、大彦を神武東征神話ではナガスネ彦として描かれました。第一次物部侵攻により大和王国(磯城王朝)は物部の策謀に踊らされた大王家の孝霊天皇や御子の吉備津彦らは大和を喪失。身内の義理や信義をかなぐり捨てた孝霊天皇は出雲王国から吉備地方を奪い取り吉備王国を建てます。同じく、孝霊天皇ら大和の大王家軍が物部の策謀に踊らされて播磨地方に出征した留守番をしていた大彦(皇太子)は、物部の大攻勢を一度は退けましたが、その物部の大軍が再びイワレに出現すると、内乱状態だった大和王国の豪族たちや大彦ら大王家は物部の敵では無く、各個別に大和から排除され各地に退去、頑強に抵抗した物部嫌いの大彦とその御子のヌナカワワケらは近江~伊賀地方に盤拠して信仰する最高神の名を貰いクナト国(中国では「狗奴国」と書かれた)を号して抵抗しますが、物量に勝る物部の猛攻に抗いきれずにクナト国は瓦解。軍を二手にわけた大彦自身は北陸方面~東北に御子のヌナカワワケらは伊賀~東海地方~関東、更に東北地方に。物部は尚もこの元大和王国勢力を執拗に追撃を行って行きました二方面に分かれていた元大和王国勢は東北地方で再会、合流すると、体制を建て直しして強力な日本国(ヒノモトの国)を建国して関東以南の大和王国(数次の王朝変遷あり)と対峙して以来、大和王国の年代の鎌倉時代までの1千数百年間、日本列島には北の日本国と南の大倭王国が並立/併存しました。大倭王国側は、全く外国の北の日本国を威令に添わない輩の蝦夷と言って卑下するとともに恰も大和王国の領土かの如く奥州等と呼んだ。古事記や日本書紀の8世紀は、北の日本国の最盛期?にあたり、それゆえに東北地方等の歴史的な事柄がほとんど無い理由にもなります。戻って、物部の猛攻にクナト国の大彦は女系の本宗(親戚)である出雲王国に救援を求めて自ら出雲王国に出向きましたが、出雲王国も吉備王国に攻め込まれ、また、物部が来襲すると言う情報等から勢力を分割する余裕は無いと断られました。この際に、出雲王国の親戚が多く勢力圏である北陸方面に退去する事を勧められました。また、大彦のクナト国は大和で行われていて物部により停止を余儀なくされた銅鐸祭祀を復活させていましたが、銅鐸が巨大化して見せる権力の象徴化していました。退去に当たり、巨大化した銅鐸はどう考えても足手まといに成ることから、出雲との往来で道すがら度々目にした斎の木に藁蛇神を巻き付け祭祀をする「アラハバキ」祭祀を自分たちのシンボルとして勢力内に広める事にしました。中部、北陸関東、東北地方のアラハバキ神はこうして伝播したらしい(1世紀と3世紀の二回に渡り九州の物部王家(徐福の子孫)が大和に侵攻。二度目の3世紀後半に吉備、出雲、大和他を攻め滅ぼして大和に一応の統一王朝の物部政権(王朝)を樹立した歴史を古事記等は、「神武東征神話」や「出雲の国譲り神話」、「天照大神の岩戸隠れ神話」等で比喩的に表した。二度にわたる物部の大和侵攻の煽りを受けた大和王国勢力(主に出雲族)ほかが物部勢力に追撃を受けて東に北に退去して東海地方や関東に盤拠した結果が、各地の出雲系の神社群に関東の氷川神社群や古墳群因みに、系図上の神武は、大和王国の初代大王、海(天)村雲大王(徐福の孫)大和王国の成立は紀元前2世紀後半頃。この時代の奈良盆地には広大な古大和/奈良湖が湖水を満々と湛えていて盆地平野部は当然ながら湖の下。神話の神武は紀元前660に奈良盆地で賊を平らげたり、天皇(大王)に即位したり等は出来ないことは明らかな自然環境だった。
天孫降臨はアメノムラクモ
勉強になりました!
田中英道先生の本を読むようになって古墳巡りをしています。昨年、さきたま古墳群を訪れましたが忍城を含め再訪したいと思います。
いつも素晴らしい内容だと感心して
ます。これってオンサイト録音でしょうか?
なかなか行けない貴重な体験ができて、ありがとうございます。
めちゃくちゃ面白い!副葬品含めて歴史書との照らし合わせ等、更に歴史を楽しむための素晴らしい動画ですね。ロマンが溢れてます
昨年の夏に群馬の古墳群を見学に行きました。なかなか素晴らしい大きな前方後円墳でした。埼玉の古墳群も凄いですね。古代史はどうしても畿内~河内~奈良、そして北部九州が古墳群の印象ですが、北関東も凄い。再認識と見直しが必要ですね。
20数年前、横浜にいたころ、鉄剣と古墳を見にいきました。鉄剣見た時感動したこと、古墳が思った以上に高く築かれていて驚いたことを思い出しました。
ありがとうございます。今度行ってみます。
埼玉にこんなに貴重な古墳があると初めて知りました。日本書紀との符合にはドキドキしました。近いうちに訪問したいと思います。紹介して下さりありがとうございます。
是非いってみてください。1日コースですよw
@@NAKAHirotoshi さん、ありがとうございます。この自粛期間が終わったら、お出かけする候補地ナンバーワンにします。
実家が堺市です。古墳大好き。ここ2年前に行ってきました。文字もない頃、識字率0%で古墳を作るとかヤバい。
堺には勝てません^^;
古代史ってロマンあるよね
多摩川古墳群と展示館には行ったことが有ります。こじんまりとはしていますが非常に歴史好きには心に響く場所です。勉強不足でしたが、多摩川古墳群が稲荷山古墳や中国史書の倭王武に繋がるとは。。ロマンが有って古代史は素敵ですね!貴重な動画を投稿有難う御座いました!
もう50年以上前になってしまいますが、杉原(当時の地名)では、普通の畑で、弥生土器がザックザック出土。小学生だった私は、大切に保管していたのだが...
天皇、大王は、奈良の都ができるまで、関東エリアにいたと言われています。
安閑天皇は6世紀の方だから
471年ではなく531年説あってもいいと思います
大変貴重な映像と解説、ありがとうございました!!
服装品の武器の多さもですが、剣に代々先祖の名を長々と刻むあたり、まっすぐな武人の気骨を感じてしまいます。
ワカタケルの文字を最初に目にした研究者はシュリーマンの様に興奮したでしょうね😄
古代史大好きです。古事記の世界に色々と自分なりの考えを持って旅するのは楽しく、ここ数年はまっています。
神社や古墳に知られていない物語を想像し、勝手に感じています。
関西でもブラタモギをやってください!
♥️マークありがとうございます。
最近勝手に思っているのは、古事記とは、賀茂氏と秦氏の物語だったりして…
以外に伝説の物語の中心は、紀元後の話なのかな?
茂木先生、ご解説ありがとうございます。
ブラタモギの動画がきっかけとなり、埼玉古墳群や出土鉄剣について調べるようになりました。
今回の動画は、まさに知りたい内容だったので
このタイミングでの動画投稿に驚きました。
また、わかりやすいご説明ありがとうございます。
鉄剣の名加差披余其児名乎獲居臣
の加差披余 (カサハヨ カサヒヨ)は笠原のことの可能性が高いそうですね。
自分の出身地は、群馬の天神山古墳の東隣で、古い地名が「毛里田(モリタ)」と云う所です。
利根川を挟んで対峙する「さきたま古墳群」との関係性が知りたかったので、この動画は有り難いです。
貴重な動画 さらには撮影許可の御高配
感謝いたします。 有り難いです。
撮影許可がでたなんてすごい!茂木先生の説明つきで分かりやすかったです。自分で展示を見るだけではそこまで深く理解できないです。田中英道先生が指摘されている芝山古墳のユダヤ人ハニワについていつか茂木先生のご見解をお聞きしたいです。😀
俺もこの剣見に行きました!めちゃ感動した!
よく博物館が撮影を許可してくれました。
茂木先生の実績のなせる業ですかね。
いつもながら、分かりやすい解説、ありがたいです。
我々日本人の歴史、ルーツについて、興味が増しました。
国宝は文化庁の管轄ですので、文化庁の許可が必要でした。
@@maomao96363 動画作成の陰に、関係各所への許可申請など、大変なご苦労があること、初めて知りました。戦後の歴史教育の偏りもあるのか、日本人の多くは、自分達の歴史、ルーツに無頓着になりました。これからは、もっと探求心と好奇心を持ち、神話とされるものの中にも、真実を見つけていきたいと感じました。
貴重な動画、改めて感謝いたします。
東京都杉並区の大宮八幡宮周辺に、海人の遺跡が見つかっていますが、大きな変化が600年頃に起きているので、それとの関連も気になっています。確か、北との勢力争いに負けたという記述も見たような。その種族は人見街道を西に移住したようですが、その聖地性は残り、源頼義の奥州征伐の通り道になった。ココに(多田源氏の雑色?)江戸氏一門の「中野殿」がいて、六郷殿とともに坂東平氏を熊野詣でに連れて行く先達だったようですが、太田道灌の時代に衰弱(その事実が謎に隠されているとする「堀之内の謎」という自費出版っぽいのまであります)。中野殿は阿佐ヶ谷に有った八幡太郎義家の宝仙寺(現・世尊院)を鬼門にあたる中野坂上に移したとされ、妙にその後あの一帯の豪商となる鈴木九郎(新宿十二社熊野)と特徴が一致します。南朝派でもある。十二社は大宮八幡宮から人見街道の延長線上の終点。十二社の隣は明治神宮。自分としては、600年の異変後に、熊野水軍の穂積鈴木が来たのではないか?中野殿を名乗っていた鈴木が、南北朝時代に武家を見限り真言・曹洞の財力ネットワークを形成したように思います。長らく上杉に苦しめられた人々(南朝派)が、この地が後北条の手にに落ちた時に、大宮八幡で喜びの声を上げた・・というのも、どっかで(w)読みました。蛇足ですが、宝仙寺(真言)は鎌倉幕府が出来ると秘仏化します。江戸期に人気となる妙法寺(法華)も元は真言の尼寺で、水路で繋がっている痕跡が有ります。奥州へ向う伝統ある道ですし「義経?」と思ってしまったり。「あさかや氏」は不思議なカリスマ人気が有ったらしく、中野殿に熊野に連れて行かれる旦那だったとか
間違いないと言う場合は証明が必用だけど、博物館も「あっていると思う」といっているだけですね
昔、20年ぐらい前、飛鳥の苑地遺跡の現地説明会を聴講したことがありました。
予備知識なしで聞いても結構楽しめます。関西人のトークですのでww
修学旅行で行った薬師寺の坊さんもノリノリでしたw
私が中学生の時、やはり薬師寺で講話ききました。なんと高田好胤さんでした。
「絹」が特産品だから「毛野」地方なのか、毛野の地の特産なので絹という名前になったのか、考えると夜と昼しか眠られないです。
「鬼怒川」は「毛野川」が語源だそうですね。
@@maomao96363 毛野と言えば「毛人」と書いて「えみし」と読むのも深いわけがあるのでしょう。
多分そうだよ
絹の川だから鬼怒川ですね。恐らく。
先日私もさきたま古墳群を訪れました。残念ながら国宝館が改修工事のために鉄剣の実物はみることができませんでした。
もうひとつ残念なことは、現在は辛亥の年は531年が有力なのに、それについては触れず471年で決まり!みたいに展示してあることです。
考古学は年々新しい発見や最新の分析技術で情報が更新されるので、現地では最新の情報がほしいと思っています!
尊称があれば実在しないという理屈がわかりません。どうかご教授お願い致します。
第21代雄略天皇が、埼玉稲荷山古墳の鉄剣に記された西暦471年頃の人物だとすると、安本美典さんの初期の天皇の平均在位年数約10年説に従えば、初代神武天皇は雄略天皇から二百年前の西暦270年頃の人物ということになりますね。
私は神武東遷は事実と考え、その年代は纏向に巨大古墳が出現する大体三世紀終わり頃と考えていましたので、鉄剣に記されたワカタケル大王が雄略天皇を指すとする説は、私にとって無理なく受け入れられますね。
考古学ってロマンよな
数学絡めてやってみれたら面白そう
副葬品からも、当時の天皇や貴族が護衛する親衛隊として矢などは、敵を殺傷する能力の高い武器で大和朝廷を守っていたのですね。四道将軍の話しから岡山の桃太郎さんの話し作ったりしました。
茂木先生。「崇神天皇が初代天皇だった」と簡単に言わないで欲しい。いろいろな説がある。「崇神天皇が初代天皇だった、と言う説もある」くらいにとどめておくべきかな。
私の意見になりますが、「崇神天皇が初代天皇」だったら記紀の記述とあわないのではないでしょうか。神武東征の記述が大阪湾の状況とあっていた、という長浜浩明氏の著作に説得力を感じています。
いろいろ想像できるのが、古代史の楽しさですね。
@@maomao96363 さん。コメントありがとうございます。
世界史の動画の方も楽しみに拝見しています。こういう動画を見て勉強できる今の世代がうらやましいです。
最近、見つけてよく見ているのが、ゆる言語学ラジオ。よく練られています。数学RUclipsrで有名な鈴木貫太郎さんも見ているようです。
ruclips.net/channel/UCmpkIzF3xFzhPez7gXOyhVgvideos
勉強しようと思えば、いくらでも、しかも無料で勉強できる凄い時代になったものです。
記紀の悩ましい点は原本がなく、古事記が南北朝時代の写し、書紀が平安時代の写しが一番古いものと言うことです。この間に桓武天皇や藤原氏などにより書き換えられていることは十分考えられます。また神武天皇の即位年がBC660年ということも、昔ある歴史家の先生が、60年×21=1260年ごとの辛酉の年に革命が起きるという中国の「辛酉革命説」による年数合わせではないかという説をだしていますがどうなのでしょうか?(600年に何かあったらしく、それから1260年前のBC660年としたということです。)確かに想像はいろいろ広がります。
勾玉を継承している人たちはみんな同族だけど、
元々、関東の食料供給能力はけた違いで縄文時代、関東、東北の方が人口が多く、鬼海カルデラの破局噴火で西日本は壊滅して、その後の寒冷化で南進して再入植が天孫降臨だと考えている。
東日本の元の中心地は鹿島、香取神宮の常陸で伊勢神宮よりはるかに古い。
アマテラス派の売りは効率の良い稲作おしえるので一緒にやろうよで、倭国大乱後は2年分備蓄しようねというのが売りになるが、この2年の備蓄が出来る前に飢饉が来るともめる。
群馬の古墳時代も動画作って欲しいです
雄略天皇のお墓は、仲哀天皇陵と言われていますね。
8代天皇の皇子様の名前は大彦命です!
中学生の時にみにいったな
ってワクチン屋思い出してしもた。あれは汚魅かw
古代史の地形も現代とは違いますから地政学的にも人々の考えは違っていた?
埼玉の古墳群の辺りは海に面していたとしたら、結構荒っぽい性格の人間になっていたかもしれないですね。
ワカタケルという読みも雄略天皇だというのも、古代の流れから考えると信用できません。
埼玉・群馬の古墳群と千葉(前方後円墳日本最多)の関係が気になります。
古墳は土地開拓事業の土盛り。?最初から墓として作ったのでは無く、その地域の土地開拓の時に集められ、その土盛りを墓として有効活用。年代が新しくなって来るに従い、古墳は小さくなったんじゃ無いですかね。?
うんなわけないぞ😢知識ないと石室つくれんよ。
そのとうりです。
撮影許可出たのか。将軍山の方の内部展示も撮ったの?
次回の動画をお楽しみに。
この古墳の最大の意義は欠史八代説を覆す鉄剣が出土した事であるが埼玉の学芸員はこれを無視する。
崇神天皇の父は開花天皇(9代)であり大彦はその兄である。大彦が存在したとなるとその父 孝元天皇(8代)の存在を否定できなくなる。なので先祖の名前は創作であろうとか、大彦はどこにでもある一般名であると学芸員というか日本の歴史学会は言っている。 仮に大彦が存在してもその父の孝元天皇の存在を証明するものでないという人もいる。
膨大な系譜が残っており物証も出ても欠史八代説を否定しない歴史学会の闇は深いし、もせぎ先生も目をつぶってているのは残念である。
大彦って多氏のことで、大野東人や太安万侶を輩出した、古くから大和朝廷と密接なつながりのある一族ですよ。稲荷山古墳出土鉄剣や多胡碑を作った人々でもあるでしょう。
何の事件❓
金策名鉄剣。時何があったの?
稲荷山古墳から出土した稲荷山鉄剣、金象嵌の細工が施され、当時の技術の高さを感じます。
鉄剣に刻まれた崇神天皇の名があるの見ても、埋葬者は只者じゃないですよね。
大和王権との繋がりを見ても、埋葬者は使主氏の一族の方かな。
PS
博物館内の撮影を許可してくれた埼玉史跡の博物館様、茂木先生、ありがとうございました。
茂木先生の動画を見て、またさきたま古墳群に行ってみたくなりました。
コロナで閑散としていました。ぜひ行ってあげてください!
最高に面白かったです。
先生の影響で私も日本の古代史にハマってしまいました。新潟県に住んでおりますが海沿いに出雲崎という地名があります。
これは!と思い出雲崎の神社を調べますと
やはりありました、大国主ゆかりの神社が。勉強して仮説を立てて調べる。発見のあった時の驚きと喜び!これ以上はない大人の娯楽だと思っております。そちらの博物館も是非訪れてみようと思います。
新潟県も縄文時代の遺跡あります。出雲と繋がりがありますね。
@@asa01053 さん
自分は長岡歴史博物館に良く行きます。
縄文土器大好きです。
古事記日本書紀にも記載があって出土品から銘が出ても実在しない可能性があると言われてしまう四道将軍(よつみちいくさがみ)大彦命。纏向遺跡も相まって実在の可能性はかなり高い、というか祖先をでっち上げるにしても200年程度しか離れていない当時の人が実在したと考えていたわけで、実在しなかったというのは難しいと思うのですがね。古墳時代初期の大和王権の勢力を過小評価しようとしてるのではとどうしても疑ってしまいます。
地元の子にはただの高台がある広場でしたね〜近くまで来た時には丸墓山のてっぺんで三成の観た景色を眺めてみてほし
安閑天皇からホタテ貝式ではなく丸に戻っているのが気になりました。
巷の陰謀論では、明治天皇から丸い韓国式のような古墳になっていると言われていますが、日本の国の形成における陰謀論は大概作られたものではないかと思っています。(麻生さんや安倍さんが売国奴だというのも含め)先生の動画で是非少しずつ論破していただけたら嬉しいです。
ここ、埋葬品の説明に日本語と英語はいいとして、中国語の説明文まであるんですよ。いったい誰に忖度してるのかと、すごくムカついたのを覚えています。
忖度というより、中国語に堪能な方がおられたというだけではないのかな。仕事柄、古代の漢文を普通に読んでるでしょうし。
@@武田信治-k6e 田舎ですよ。中国語に堪能な方がいったい何人いらっしゃるというのでしょう。必要性がどれ程あるのかも甚だ疑問です。靖国神社にオシッコをかけるような人達です。何をされるかわかりません。
埼玉県はもちろんのこととなりの群馬県にはもっと重要な遺跡群があります❣️
また、多胡碑と重要文化財が有ります‼️
もぎ先生は群馬の古墳はさきたまと違って独立国って言っていたような。。。気になりますね😃
ふーむ、当時から多摩川沿いは悪の巣窟だったってことか。伝統だな。
鉄剣に刻まれた名って雄略天皇ってちょっと違う気がします。新羅の王に似た名前いましたよね?
日本に逃げて来てたのでは?
外国人だと都合悪いから
関東王国ですね!ユダヤ民族か。
いわゆる「大彦」(皇太子の意味)は系図上の孝霊天皇朝の大彦(皇太子)
本当の時代は紀元1世紀頃に実在したお方。
古事記は、大彦を神武東征神話ではナガスネ彦として描かれました。
第一次物部侵攻により大和王国(磯城王朝)は
物部の策謀に踊らされた大王家の孝霊天皇や御子の吉備津彦らは大和を喪失。身内の義理や信義をかなぐり捨てた孝霊天皇は出雲王国から吉備地方を奪い取り吉備王国を建てます。
同じく、孝霊天皇ら大和の大王家軍が物部の策謀に踊らされて播磨地方に出征した留守番をしていた大彦(皇太子)は、
物部の大攻勢を一度は退けましたが、
その物部の大軍が再びイワレに出現すると、
内乱状態だった大和王国の豪族たちや大彦ら大王家は
物部の敵では無く、各個別に大和から排除され各地に退去、
頑強に抵抗した物部嫌いの大彦とその御子のヌナカワワケらは近江~伊賀地方に盤拠して信仰する最高神の名を貰いクナト国(中国では「狗奴国」と書かれた)を号して抵抗しますが、
物量に勝る物部の猛攻に抗いきれずにクナト国は瓦解。
軍を二手にわけた大彦自身は北陸方面~東北に
御子のヌナカワワケらは伊賀~東海地方~関東、更に東北地方に。
物部は尚もこの元大和王国勢力を執拗に追撃を行って行きました
二方面に分かれていた元大和王国勢は東北地方で再会、合流すると、
体制を建て直しして強力な日本国(ヒノモトの国)を建国して関東以南の大和王国(数次の王朝変遷あり)と対峙して以来、大和王国の年代の鎌倉時代までの1千数百年間、
日本列島には北の日本国と南の大倭王国が並立/併存しました。
大倭王国側は、全く外国の北の日本国を威令に添わない輩の蝦夷と言って卑下するとともに
恰も大和王国の領土かの如く奥州等と呼んだ。
古事記や日本書紀の8世紀は、北の日本国の最盛期?にあたり、
それゆえに東北地方等の歴史的な事柄がほとんど無い理由にもなります。
戻って、物部の猛攻にクナト国の大彦は女系の本宗(親戚)である出雲王国に救援を求めて自ら出雲王国に出向きましたが、
出雲王国も吉備王国に攻め込まれ、また、物部が来襲すると言う情報等から勢力を分割する余裕は無いと断られました。
この際に、出雲王国の親戚が多く勢力圏である北陸方面に退去する事を勧められました。
また、大彦のクナト国は大和で行われていて物部により停止を余儀なくされた銅鐸祭祀を復活させていましたが、
銅鐸が巨大化して見せる権力の象徴化していました。
退去に当たり、巨大化した銅鐸はどう考えても足手まといに成ることから、
出雲との往来で道すがら度々目にした斎の木に藁蛇神を巻き付け祭祀をする「アラハバキ」祭祀を自分たちのシンボルとして勢力内に広める事にしました。
中部、北陸関東、東北地方のアラハバキ神はこうして伝播したらしい
(1世紀と3世紀の二回に渡り九州の物部王家(徐福の子孫)が
大和に侵攻。
二度目の3世紀後半に吉備、出雲、大和他を攻め滅ぼして大和に一応の統一王朝の物部政権(王朝)を樹立した歴史を
古事記等は、
「神武東征神話」や「出雲の国譲り神話」、「天照大神の岩戸隠れ神話」等で比喩的に表した。
二度にわたる物部の大和侵攻の煽りを受けた大和王国勢力(主に出雲族)ほかが物部勢力に追撃を受けて東に北に退去して
東海地方や関東に盤拠した結果が、各地の出雲系の神社群に
関東の氷川神社群や古墳群
因みに、系図上の神武は、大和王国の初代大王、海(天)村雲大王(徐福の孫)
大和王国の成立は紀元前2世紀後半頃。
この時代の奈良盆地には広大な古大和/奈良湖が湖水を満々と湛えていて盆地平野部は当然ながら湖の下。
神話の神武は紀元前660に奈良盆地で賊を平らげたり、
天皇(大王)に即位したり等は出来ないことは
明らかな自然環境だった。
天孫降臨はアメノムラクモ
勉強になりました!