【2万vs4千】圧倒的戦力差を覆した謀略の天才 毛利元就の一戦|厳島の戦い
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- Опубликовано: 26 окт 2023
- 厳島の戦いについて解説します。
■参考資料
厳島の戦い
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%...
「厳島の戦い(1555年)」まさに下剋上!元就躍進の一歩は見事な奇襲戦だった
sengoku-his.com/87#:~:text=%E...
日本の海賊【村上水軍】の歴史やライバルに迫る! 関連観光スポットも紹介
thegate12.com/jp/article/494#...
日本三大奇襲
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%...
毛利元就
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%...
陶晴賢
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%...
✅BGM
夜路:oto-no-sono.com
かつては「西国無双の侍大将」と謳われ、吉田郡山城の戦いでは毛利元就の窮地を救った名将・陶隆房(晴賢)だったけど、「昨日の友は今日の敵」だったんだね。戦国の世って儚いよね。
元就の人生を調べると幼年~青年期までが本当に激動。毛利家が滅びてもおかしくないほど苦難の連続。
厳島の戦いをできるまで勢力を拡大させて、そのうえ大勝して中国地方の広域を支配するまで至るなんて凄まじすぎる
井上一党に吉田城を追い出されて「乞食若様」と呼ばれた幼少期、不憫に思った継母の杉大方が血の繋がりもないのに引き取ってくれた事をいつまでも恩義に思った。
高松市民の趣味釣り人ですが、瀬戸内海と言えども暴風雨時は凄いですよ。
リクエストに応えていただきましてありがとうございました。
とても面白かったです👍
食料もロクにない厳島に大軍が上陸して船を失ったら戦わずして兵は無力化されてしまう。
実際のところ船を焼き払うだけで勝利確定ですね。
南方の島々に展開した日本軍も戦死者の大半が餓死。
ジャワに上陸した部隊だけは着陣早々農業を始めたおかげで生き残ることができた。
大寧寺の変では元就も陶晴賢サイドに協力してクーデターを後押ししてたと聞いた覚えがあります、しかしその後色々あって軋轢が生じた……と記憶してますが
陶晴賢と毛利元就は立場が違いましはよね。陶は内衆であり大内の直臣
毛利は傘下国衆なので大寧寺の変には直接関係ない立場。あれは大内家内のクーデターですから。中国地方で面白いのは大勢力大権威である大内義興がいつの間にかそっくりそのまま毛利元就に代わってしまうとこ
二人の覇者には似た印象を受けますね。
現在の研究では、毛利元就の軍は地御前からではなく、草津から厳島に渡ったという説があるようです。
なんでも、地御前から渡ると、いくら嵐の夜とは言え、先頭の船の焚くかがり火が陶軍の陣地から見えてしまう可能性が高い事と、元就軍が厳島に渡ったとされる日時の潮の流れを、当時の記録などから再現したところ、草津から包ヶ浦の方角に向かって潮が流れていたため、かなり早く厳島に渡ることが可能だったことが判明したからだそうです。
( 陶軍が陣を敷いた位置から草津方向を見ると、草津方向は島の陰になっていて見えないのだそう )
更に、包ヶ浦から博打尾越えのルートの道案内役として、元就が懇意にしていた厳島神社の神官・棚守房顕
( たなもり ふさあき ) の存在が、見え隠れしているのだとか。
鮮やかな奇襲戦で領地拡大と言うのがクローズアップされているが、収めた大内領には収入源がほぼなく、それを補填するために大友や尼子と戦っている。尼子晴久が病に倒れなければ次は毛利の方がやられてたかも。
👍👍👍
この後の元就の中国地方の覇者を決定させた第二次月山富田城の戦いの解説も期待します。元就の謀略によって尼子晴久が新宮党を粛清してしまうあたりから既に毛利・尼子の対決が始まっているものと思われます。孫の輝元の初陣でもありますね。
新宮党粛清は尼子氏の自発的な粛清ですぜ
奇襲と、言うより、陶晴賢が大軍の身動きに取りにくい、宮島に誘き寄せられて、そこで討ち取られた、
『陶晴賢抹殺作戦』
その筋書きを思い付いき実行した毛利元就はすごすぎる。
厳島神領衆が宮島奪回を主張したのかも…彼らは安芸における大内方の有力勢力なので離反されると困る
どちらが勝つという保証のない戦いなので大変興味深かったです。
どうも陶方の水軍勢力の切り崩しは進んでいたようで陶方とどのくらい戦力差があったのか…
毛利は幕末にも活躍があり、元就の神格化が進んでしまった感があるためあることないことすべて元就の謀略にされてしまったいるなと
一国人衆から1代で当時最大規模の大大名である大内(陶)と尼子倒して中国地方最大の勢力にまでなってるので間違いなく傑物なんですけどね🎉
@@user-vj7vd4pz9p 元就が傑物なのはそう
1代で小さな国衆から西国覇者はほんと化け物
吉備真備「動員させなければ絶対的権力者にも楽に勝てるぞ」
そもそも謀ってのは外に漏らさないのが鉄則なので
一次資料に残ってる方が稀なんだけどな
あと村上水軍が毛利についた理由として
陶晴賢が村上水軍の権益を犯したのも原因とされてますね
15:03助命なんてのは嘘で実は用が済んだ後で斬殺してそう。
大河ドラマの毛利元就を見よう。
謀が多きが勝ち、少なきは負ける。
「戦国の世に生きる漢の在りようだ」
桂元澄の偽の内通は父の桂広澄のことがあるから信じちゃうよなぁ。
ブレーブで見るわ
戦死者や捕虜の数から実際は1万以下
てか山だらけの土地で2万も展開できんって
毛利元就の戦いで一番有名なのはこの厳島だが、次に有名なのは何だろうか?
吉田郡山城の戦いとか?
毛利元就の初陣である
有田中井手の戦い(有田合戦とも。別名『西の桶狭間』)
か、既に出ている
吉田郡山籠城戦
でしょうね。
大内の負け戦につきあわされた第一次月山富田城の戦い、尼子家を大名として滅ぼした第二次月山富田城の戦いあたりかな。特に第一次の時なんかは退却する際に尼子からの追撃を食らい、元就自身も何度か討たれそうになるほど酷い負け戦。
有田合戦、銀山城合戦、吉田郡山城籠城戦、第二次月山富田城
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