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摂取不捨の利益を肌身に感じ幸福に包まれている自分を知ること。その時に心に口に念仏がふと出てくる阿弥陀仏の縁に、また感銘を受けてしまうありがたさ。やがて行き着く所はひとつにて、弥陀の誓願に身をまかせるこの身の幸せに揺らぎ無し
心に、口に、身をまかせる等々は、自力の中の自力ですよ、一切世間 難信之法(一切の世間に信じ難い法)と阿弥陀仏教に、
他力であれば、傲慢な心はかけらもないですね。いつも感謝だ。
悟りの境地には至らずとも、周りと助け合い、調和を保って行きたいと思います。
内容は言うに及ばずガクさんの語り口も素晴らしいです🎉
ありがとうございます!
仏法は聴聞に極まる。目的は南無阿弥陀仏のいわれを聴いて成仏すること。疑いあることなし‼️南無阿弥陀仏🙏ありがとうございます。
今までで一番解りやすかった 嬉しいです。
随分前から、拝読しておりますが、難しい部分が多く有ります。今日色々解説して頂きまして、大変、勉強になりました。有難う御座いました。
だいぶ前に歎異抄の本を購入し積ん読になっていました💦解り易く解説して頂き有り難うございました😊
とてもわかりやすかつたです。ありがとうございました。🤗
素晴らしい、ありがとうございます。
親鸞聖人でも法然上人でもどちらの教えでも良いと思います。どうしようもない因縁もありますので自分の身の上を恨むことなく、ただただ感謝して生きる事=人生修行。余裕のある人は少しでも良いので他人に尽くすこと。ではないかと思っています。
ありがとうございます
阿弥陀様が与える他力、それにすがる、と言う事ですね
易行は大歓迎です。阿弥陀さまが救ってくだされば、有り難いことです。
原始仏典による仏の言葉には次のようにあります。『キミは信じて祈って念仏するなどを何故しないのかね』とブッダは非難されました。するとブッダはこう答えました『では聞くが、池に重い石が落ちておりその周りで何某への信仰者が信じて祈って石よ浮かべ浮かべ...と多くの人がそれをすれば石は浮いてきますか?また油をこぼして池が汚れていることに関しその周りで何某への信仰者が信じて祈って油よ沈め沈め池底に...と多くの人がそれをすれば油は池底に沈んでいきますか?』、と。すると他力信仰をするその信者は『否、尊者よ。そのようなことはあり得ません』と答えました。そこでブッダはこういいました『心でもこれと同じです。悪いことをした人に、多くの信者衆が「この悪人が極楽に天界に赴けますように」といくら祈っても上記石と油の譬えのようにその悪人は地獄に落ちることはあっても極楽や天界に赴く道理がないのです』その後、「ははあブッダ様、その通りでございますその通りでございます、悪人を祈りによって信仰によって読経によって救うことはできません。確かにあなた様の教えは見事に説かれました」とブッダを称賛しました。 ~阿含原始経典「西方の人」より~
悪人本人(石、油)に「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」に弥陀の誓願の不思議に助けられると書かれています。本人の思い立つ心がキーポイント。形式だけの念仏や読経で救われることがないのは当然のことでしょう。
@@mmm2915 >「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」困った時に真面目に祈っても、叶わんことはあるでも形式だけの祈りでもで救って欲しいな・・・
@@武井健二-s5m 形式でなく本心で祈る時、その人は既に悪人ではないということでしょう。悪人正機の深い逆説。
全ての人が悪人なのだから誰1人悟りは得れないということになるな
京都の親鸞展に興味本位で行ってきましたが、どんな人かよくわからなかったのでこの動画を見て良かったです
五木寛之先生の歎異抄を読みました
阿弥陀に祈れ、悪人も善人もないと
読まぬと損というよりも、読まぬ方が、世に対し罪悪ではないのか?と思うくらい、親鸞聖人に対しては畏敬の念と、なにやら親近感のようなものを感じずにはいられませぬ。
なるほど!大変よく分かりました!ありがとうございました!
良かった😄
使徒パウロのローマ人への手紙の内容に少し似ているなと、びっくりしました。
内容はいいのですが、表題の「歎異抄読まなきゃ損です」の言葉がひっかかります。歎異抄を読んだ人の言葉ではないと感じてしまいました。
今泉さんは浄土真宗の信徒さんですか?歎異抄を信徒の立場ではなく、深い学びを秘めた書物として読んだ場合、このタイトルで良いような気がします。少なくとも親鸞の教えを肯定的に広めているのですから。
その時、に感じる。
有り難うございました。
感謝の心を忘れない・・・で思う事は、・・・・・・・・・・・・・こういうコーナーでいつも感謝の心が大事と言う事をよく耳にしますが、誰に何に対してなんでしょうか??いつも?????と思います・・・・・・・・・・・・それというのも近所に、少し体の弱い、いい年(60~70歳くらい)の姉弟の二人家族が住んでいます〇〇教の敬虔な信者さんで、〇〇教の教えを守りいつもいろんなことに〇〇様のおかげと言って感謝の気持ちを持つことが大事、と言ってるようですが少し体が弱いせいで、健康な普通の生活が出来てなさそうで食べ物もそんなに手の込んだ料理はしてないみたいで、姉は、いつも弟が腹減らして不味い食い物に不満を言ってるといいます、なので、少し不憫に思いちょうどうちの嫁は料理が得意ですので、度々夕食などのおかずを多めにつくって30mくらい離れた家に持って行ってあげますが、弟は美味しい美味しいと言って喜んで食べるそうですでもいらんこと、とか大きなお世話であってはいけないので事前に「こういうもの作りましたが食べますか」、と打診して連絡して持っていきます、最初は玄関に行きましたが裏口の窓からの方が近いので裏へ回らされて、いつも、裏の窓から手を出して受け取ります、そこで・・・言いたくないのですが、事前に連絡しても一回も取りに来たことは有りません「何時もわざわざ来ていただいて済みません、申し訳ないので取りに行きます」と一回くらい言ってもよさそうなもんだと思っていますその上、何時もおかず渡して、見てると「教祖の〇〇様のおかげです感謝します」といって〇〇教の棚に捧げて拝んでから食べます、こちらには感謝の言葉を聞いたことが有りませんその上、あるとき手作りカレー味コロッケを持って行ってあげました、次の日顔を合わせる時が有って言う事が「弟はカレー味は嫌いなのでつぎは普通の味にしてください」と言うではないか、・・・・・え~・・金もらって商売で出前してるのと違うぞい・・・…バカバカしくなってそれ以来おかずを上げるのを止めました〇〇教を強く信じてると言う人には他にもそういう変な人を複数知っていますそこに居もしない教祖か神か知らんけど、そんなのに感謝するのではなく、目の前にいる、おかずもらった人に言えよと言いたくなりました、古い話ですが自分も小学生の時、学校で給食の時は「お父さんお母さんお百姓さん有難う」と言わされてから食べていました、神様仏様有難うではありませんこんな見当違いの非常識な得手勝手な感謝は止めてほしいところです、神だ仏だと言う前に人間として守るべき、マナー、礼儀、義理があるだろうそれが出来ないで何が信仰だよ、世の中のことをもっとよく学んでからの〇〇教の信仰であるべきだ・・〇〇教祖に感謝してと言う言葉を聞くといつもそう思います
善人なおもです、とは、善人は何かがないと救われないと思っているが、悪人は何も考えずにひたすら祈る所に、況んや悪人をや、と言う事が
極楽 ↔ 天国悪人 ↔ 罪人と読み替えれば、浄土真宗とキリスト教は、1 対 1 の関係になっています。イエスも、罪人に入っていって救っていきました。
Could be the best book written in Japanese...
@@方外迷羊 I am glad to know that someone likes him.
@@方外迷羊 I believe that he had watched through the deep inside of the human mind.
@@方外迷羊 Life is complicated if you really want to live better. Believe in whatever you feel comfortable.
@@方外迷羊 I wish you a happy and content life.
@@方外迷羊 Don't worry ! You have a bright future.
大変分かりやすい解説ですね。ただ、親鸞聖人のみ教えで一番重要な他力の信心と自力の信心を勘違いされていますね。歎異抄の第1章で言われている「往生をばとぐるなりと信じて」の「信じて」は他力の信心です。あなたのおっしゃっているような自力の信心(煩悩具足の凡夫の意業)ではありません。この自力の信心は往生する(絶対の幸福)ためには何の役にも立たない空事と戯言であると親鸞聖人はおっしゃっています。8分50秒あたりで言われている「あなたが他力の信心を心から信じるならば生きてる間に阿弥陀様のご慈悲によって絶対の幸福を与えられるよということです」は大きな間違いです。「あなたが他力の信心を心から信じるならば」これの主語は「あなた」でありますから完全に自力の信心です。我々を絶対の幸福にしてくれる他力の信心の主語は阿弥陀如来です。 お願いですから、親鸞聖人の教えで一番大切な他力の信心と自力の信心をよく理解してから解説を書いていただけると嬉しいです。これは異按心量産動画としか言いようがありません。17万人も見られている力作なのに残念です.
煩悩はコンコンと涌き出る😁
歎異抄の意味教えてください。
原始仏典によれば、このような「他力本願」の教えは84000の経の中で一切説かれていない。あるいは悪人がよいことになることはあり得ない、と説いている。
本心から身の悪を自覚して阿弥陀仏に祈る時に、その人は既に悪人ではないという深い逆説。ものすごく誤解されやすいから蓮如上人が一般には禁書としました。蓮如さん何をするんだと最初は思ったけれど、世間の宗教観を知るほどに蓮如上人のおもんばかりは正しかったと思えます。そして明治になってやっと解禁した清沢満之さんにも深く感謝。
@@mmm2915 仏典(釈迦牟尼仏の経文)ほとんど読んでませんね。>阿弥陀仏に祈る時お釈迦さまは祈らない(阿含経9)「西方の人」(仏典)「阿含経典」増谷訳3巻、「西方の人」。(相応部42、6「西地人」、中阿含17、伽弥尼経)お釈迦さまが合理主義者だという証拠に、「祈ってもムダ」と宣言しています。アシバンダカブッダという村長が、お釈迦さまのところにやってきて、「バラモンはいろいろな祈りを捧げるのに、なぜあなたは祈らないのか」と訊きます。「村の長よ、たとえばここに人があって、大きな岩を深い湖に投じたとする。そこに、大勢の人が集まってきて、<大きな岩よ、あがってこい、浮かんでこい、陸にあがれ>といいながら、その岩のために祈り、それを讃え、合掌して、そのまわりをめぐり歩いたとするならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。その大きな岩は、大勢の人々の祈願により、礼賛により、あるいは合掌し周行したことによって、あがってくるであろうか。浮かんでくるであろうか」「大徳よ、そんなことはありません」「村の長よ、それと同じく、ここに人があって、彼は命を取る者であり・・・間違った考えをもった人間であったとするならば、たとえ大勢の人々が集まって来て、<この人が身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生まれますように>といって、彼のために祈り、彼を礼賛し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、その人は身壊れ、命終わりて後には、やはり六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生まれるであろう」祈りの否定、奇跡の否定。だからタイなど南伝仏教のお寺には、祈りの時間がないそうです(お経は祈りじゃなく修行)。自分を救うには、祈ってもムダで、正しい努力をするしかない。
@@mmm2915 >悪を自覚して阿弥陀仏に祈る時に、その人は既に悪人ではない「悪いことをした人」に、多くの信者衆やその人が「この(私こと)悪人が極楽に天界に赴けますように」と「いくら祈っても」上記石と油の譬えのようにその「悪人は地獄に落ちることはあっても極楽や天界に赴く道理がないのです」あっ大乗仏教は大乗非仏説、すなわち釈迦牟尼仏が説いた教えでは無く根本仏典と内容が矛盾する「新興宗教」です。
@@匿名希望-h5h 悟ってから物言えw
損得の問題ではない、読みたい人が読めば良い、シバや、西田を持ち出さなくても良い。
人間は一つの哲学、宗教、ありがたげな言葉、だけで表し切れるものではない言えることはみんな、今の自分の思いで生きてるし、それしかないと言う事だ
おっかない って言いましたね。北海道の方ですか?
釈尊もそれを正しく引き継がれた日蓮大聖人も法華経いがいは禁じています。親鸞の最後は信者にも見放されただ一人の弟子にも見放され苦しみながら亡くなっています。日蓮大聖人は11歳のころ知人や親せきの熱心な念仏を唱えたものが最後に不幸な臨終であることに不審を抱いて念仏寺に修行を入りましたがそこで見たものは絶望と恐怖でした。念仏は無間地獄だと仰せです。
>親鸞の最後は〜その情報ソースは?八正道の正語ぐらい知っているよね。
創価2世ですけど、他宗の批判ばかりで聞き飽きました。日蓮の教えで貴方は幸福になりましたか?
無間地獄に落ちるから念仏は称えないこういうのを自力心という。
考えの常識が転倒している事の解釈の難しさがある
常識なんかええ加減なところも有るし
親鸞会なの?
残念ですが多分そうだと思いますよ。
😊😊😊
縁無き衆生は渡し難し。
親鸞会さんですか?
絶対の幸福なんて言葉親鸞はいってません 新宗教親鸞会ですか?
はい、親鸞聖人は「絶対の幸福」という言い方は仰っていませんね。浄土真宗はそのような教えも伝承されていません。絶対の幸福に執着しているのは親鸞会だけですね。
蓮如がもっとも恐れた歎異抄
もっとも?論拠は何です?
@@tele1951 自分の教団を大きくするために。
@@釋愚禿圓憲 浄土真宗を広める目的のために、歎異抄を恐れた。。。ごめんなさい、意味分からんのですが。
@@tele1951 浄土真宗広めるじゃなくて自分の教団広めるためにだよ。浄土真宗には蓮如と対立した高田派、佛光寺派等他にあるよ。本願寺派も真宗大谷派も親鸞会も蓮如を美化しすぎ。まあ、この3つのもとは分裂前の蓮如の本願寺派の流れ。
@@釋愚禿圓憲 宗派の話では無いですし、美化何たらの話もしておりませんが。とりあえず貴方が蓮如を嫌いそうだな、という事は伝わります。何故?を聞いているのですが。
他力本願で悪人正機、大乗仏教…
半分間違ってます、要の信心とは私に一切の主語はない、南無阿弥陀仏が信心、聞が信心、私は空っぽ、それと、絶対の幸せ、と感じたのは自力、ただ、が他力
現代の量子力学でわかりかけている 世の中には絶対はない可能性が高くなっている。宗教は絶対に含まれる。仏(神)を根拠に理論(歎異抄)を述べているのは古典理論だね?その前提を除いて読めば 現代人に通じる道徳書と思う。
いるよねwww浄土真宗の動画でいつものお決まりのワンパターンのアンチコメントwww草
そうなんですか?
ゆいえんでなくゆいねんが正確な言い方ではないでしょうか?
これは皆様とても納得できかねることだと思いますが、阿弥陀様自体が架空の存在です。法華経にしても阿弥陀三部経にしても、中国で作られた偽経です。お釈迦様は、これ等を説いておりません。親鸞さんにしても日蓮さんにしても、中国伝来の仏典の多くを文献学もない時代に釈迦の自説と思ってしまうのは、無理もない事だと思います。
なんの書籍を読んでその知識を得られたのですか?
これだけですか?おすすめしただけですか
仏教ではない新興宗教『歎異抄』、読んだら損です。
往生無用
どうしても浄土真宗の「阿弥陀仏」だけが、絶対の幸福を提供してくださるって、ところがう~んと疑問に思う。なぜ、阿弥陀仏のみが悪人も善人も救えるのかがよくわからない。それはあまりにも無慈悲だと思います涙。ほかの神仏も同様に救ってくださることがあるのに、なぜ、阿弥陀仏だけ?自力とか他力とか善人とか悪人とか人種など、吹っ飛ばして救うのが神仏なんではないでしょうか?なので、中年ですが、そこまで歎異抄が読まれているのは、よくわかりません。結局は、自分が信じる神仏に帰依することが肝要で、特に阿弥陀仏にこだわっているところに何か一神教のにおいがするので、嫌悪感を感じます涙 つまりは、一神教は、だいたい宗教戦争を起こし、浄土真宗も本当に仏道?と思います。
阿弥陀様は凡夫の私を必ず救ってくれるのだと信じる事が大事・・・と言われてもねえ、そんな都合のいいこと考えてていいのかねえ救ってくれるとは、具体的にどういう事なんでしょうねえ、何をしても救ってくれるんでしょうか?どんな病気にかかっても、治してくれるのでしょうか、以前3万円入った財布を、置き忘れて、しばらくして気が付いて仏さまに念じながら、そこへ取りに行ったけどもうありませんでした、おかげで給料日まで、おかずを減らして苦しい日々でした、そしてまた、永い事付き合った彼女に、貢いだあげくに振られました・・・この世に、神も仏もないものかと思いましたが・・・そういうのはダメなんですかね、。。どう救ってくれるんでしょうか、はっきりして欲しい、やっぱり、どこかの坊さんの檀家になって会費を払わないとダメなんでしょうかね、
法華折伏破権門理。正直舎方便。知らないのですか?
煩悩が人を悩ますという考え方自体が間違っている。人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?往生するぞとありますが、本当に死後の世界はあるのでしょうか?死後の世界で楽をしようというのもここで言われている煩悩なのではないでしょうか?もっと哲学的に考察していただきたいものです。
@49 lspmlj 分別しないのであれば、煩悩などという概念はなくてもよいのではないでしょうか?煩悩とは、一体何なんでしょうか?
>煩悩が人を悩ますという考え方自体が間違っている。人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私見ですが、>人を悩ますという考え方自体が間違っている・・と・・悩ますと言う事じゃない・・と否定しておきながら>人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?と、悩み、苦しみの存在を肯定してるちょっと、失礼かもしれませんが、何を言いたいのかがよくわかりにくいですがその問題は別にして、整理してみますと>別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?そうですね、いいかもしれませんね、煩悩からくる悩み・・・・生きてる限りそこから離れられないと言う事ですが法華経の教えに、変毒為薬、と言う言葉が有ります、毒変じて薬と為すと言う意味です、同義語で、災い転じて福と為す・・があります煩悩、・・例えば女性に恋焦がれて片思い・・・なかなか言い出せないもし断られたらと思うと、ハラハラ、女性の顔がちらついて夜も眠れない・飯も喉を通らない・・いわゆる、恋の病ある意味これも一種の悩み苦しみですね昔の歌で恋の辛さに「もう恋なんかしたくない」と言うのもあるくらいですでもそれが生きる活力にもなっているんですね、煩悩のままに行動し、痛い目に遭い、苦しむ、そしてそこから反省し二度と繰り返さない、と言う学びの源泉にもなります即ち、煩悩は人が成長するために必要な事でもあります煩悩にまみれて、泣き笑いの人生を味わう、・・・そう前向きに捉えられればと思います
説明 声がなっちゃいない
摂取不捨の利益を肌身に感じ幸福に包まれている自分を知ること。その時に心に口に念仏がふと出てくる阿弥陀仏の縁に、また感銘を受けてしまうありがたさ。やがて行き着く所はひとつにて、弥陀の誓願に身をまかせるこの身の幸せに揺らぎ無し
心に、口に、身をまかせる等々は、自力の中の自力ですよ、一切世間 難信之法(一切の世間に信じ難い法)と阿弥陀仏教に、
他力であれば、傲慢な心はかけらもないですね。いつも感謝だ。
悟りの境地には至らずとも、周りと助け合い、調和を保って行きたいと思います。
内容は言うに及ばずガクさんの語り口も素晴らしいです🎉
ありがとうございます!
仏法は聴聞に極まる。目的は南無阿弥陀仏のいわれを聴いて成仏すること。疑いあることなし‼️南無阿弥陀仏🙏ありがとうございます。
今までで一番解りやすかった 嬉しいです。
随分前から、拝読しておりますが、難しい部分が多く有ります。今日色々解説して頂きまして、大変、勉強になりました。有難う御座いました。
だいぶ前に歎異抄の本を購入し積ん読になっていました💦
解り易く解説して頂き有り難うございました😊
とてもわかりやすかつたです。
ありがとうございました。🤗
素晴らしい、ありがとうございます。
親鸞聖人でも法然上人でもどちらの教えでも良いと思います。どうしようもない因縁もありますので自分の身の上を恨むことなく、ただただ感謝して生きる事=人生修行。余裕のある人は少しでも良いので他人に尽くすこと。ではないかと思っています。
ありがとうございます
阿弥陀様が与える他力、それにすがる、と言う事ですね
易行は大歓迎です。阿弥陀さまが救ってくだされば、有り難いことです。
原始仏典による仏の言葉には次のようにあります。
『キミは信じて祈って念仏するなどを何故しないのかね』とブッダは非難されました。
するとブッダはこう答えました『では聞くが、池に重い石が落ちておりその周りで何某への信仰者が信じて祈って石よ浮かべ浮かべ...と多くの人がそれをすれば石は浮いてきますか?また油をこぼして池が汚れていることに関しその周りで何某への信仰者が信じて祈って油よ沈め沈め池底に...と多くの人がそれをすれば油は池底に沈んでいきますか?』、と。
すると他力信仰をするその信者は『否、尊者よ。そのようなことはあり得ません』と答えました。
そこでブッダはこういいました『心でもこれと同じです。悪いことをした人に、多くの信者衆が「この悪人が極楽に天界に赴けますように」といくら祈っても上記石と油の譬えのようにその悪人は地獄に落ちることはあっても極楽や天界に赴く道理がないのです』
その後、「ははあブッダ様、その通りでございますその通りでございます、悪人を祈りによって信仰によって読経によって救うことはできません。確かにあなた様の教えは見事に説かれました」とブッダを称賛しました。
~阿含原始経典「西方の人」より~
悪人本人(石、油)に「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」に弥陀の誓願の不思議に助けられると書かれています。
本人の思い立つ心がキーポイント。形式だけの念仏や読経で救われることがないのは当然のことでしょう。
@@mmm2915
>「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」
困った時に真面目に祈っても、叶わんことはある
でも形式だけの祈りでもで救って欲しいな・・・
@@武井健二-s5m 形式でなく本心で祈る時、その人は既に悪人ではないということでしょう。悪人正機の深い逆説。
全ての人が悪人なのだから誰1人悟りは得れないということになるな
京都の親鸞展に興味本位で行ってきましたが、どんな人かよくわからなかったのでこの動画を見て良かったです
五木寛之先生の歎異抄を読みました
阿弥陀に祈れ、悪人も善人もないと
読まぬと損というよりも、読まぬ方が、世に対し罪悪ではないのか?と思うくらい、親鸞聖人に対しては畏敬の念と、なにやら親近感のようなものを感じずにはいられませぬ。
なるほど!大変よく分かりました!ありがとうございました!
良かった😄
使徒パウロのローマ人への手紙
の内容に少し似ているなと、びっくりしました。
内容はいいのですが、表題の「歎異抄読まなきゃ損です」の言葉がひっかかります。歎異抄を読んだ人の言葉ではないと感じてしまいました。
今泉さんは浄土真宗の信徒さんですか?
歎異抄を信徒の立場ではなく、深い学びを秘めた書物として読んだ場合、このタイトルで良いような気がします。
少なくとも親鸞の教えを肯定的に広めているのですから。
その時、に感じる。
有り難うございました。
感謝の心を忘れない・・・で思う事は、
・・・・・・・・・・・・・こういうコーナーでいつも
感謝の心が大事と言う事をよく耳にしますが、誰に何に対してなんでしょうか??
いつも?????と思います
・・・・・・・・・・・・それというのも
近所に、少し体の弱い、いい年(60~70歳くらい)の姉弟の二人家族が住んでいます
〇〇教の敬虔な信者さんで、〇〇教の教えを守りいつもいろんなことに
〇〇様のおかげと言って感謝の気持ちを持つことが大事、と言ってるようですが
少し体が弱いせいで、健康な普通の生活が出来てなさそうで
食べ物もそんなに手の込んだ料理はしてないみたいで、姉は、いつも弟が
腹減らして不味い食い物に不満を言ってるといいます、なので、少し不憫に思い
ちょうど
うちの嫁は料理が得意ですので、度々夕食などのおかずを多めにつくって
30mくらい離れた家に持って行ってあげますが、
弟は美味しい美味しいと言って喜んで食べるそうです
でも
いらんこと、とか大きなお世話であってはいけないので事前に
「こういうもの作りましたが食べますか」、と打診して連絡して持っていきます、
最初は玄関に行きましたが
裏口の窓からの方が近いので裏へ回らされて、いつも、裏の窓から手を出して
受け取ります、
そこで・・・言いたくないのですが、事前に連絡しても一回も取りに来たことは有りません
「何時もわざわざ来ていただいて済みません、申し訳ないので取りに行きます」と
一回くらい言ってもよさそうなもんだと思っています
その上、何時もおかず渡して、見てると
「教祖の〇〇様のおかげです感謝します」といって〇〇教の棚に捧げて
拝んでから食べます、こちらには感謝の言葉を聞いたことが有りません
その上、あるとき手作りカレー味コロッケを持って行ってあげました、
次の日顔を合わせる時が有って
言う事が「弟はカレー味は嫌いなのでつぎは普通の味にしてください」
と言うではないか、・・・・・え~・・金もらって商売で出前してるのと違うぞい・・・
…バカバカしくなってそれ以来おかずを上げるのを止めました
〇〇教を強く信じてると言う人には他にもそういう変な人を複数知っています
そこに居もしない教祖か神か知らんけど、そんなのに感謝するのではなく、
目の前にいる、おかずもらった人に言えよと言いたくなりました、
古い話ですが自分も小学生の時、学校で給食の時は「お父さんお母さんお百姓さん有難う」
と言わされてから食べていました、神様仏様有難うではありません
こんな
見当違いの非常識な得手勝手な感謝は止めてほしいところです、
神だ仏だと言う前に人間として守るべき、マナー、礼儀、義理があるだろう
それが出来ないで何が信仰だよ、世の中のことをもっとよく学んでから
の〇〇教の信仰であるべきだ・・〇〇教祖に感謝してと言う言葉を聞くといつもそう思います
善人なおもです、とは、善人は何かがないと救われないと思っているが、悪人は何も考えずにひたすら祈る所に、況んや悪人をや、と言う事が
極楽 ↔ 天国
悪人 ↔ 罪人
と読み替えれば、浄土真宗とキリスト教は、1 対 1 の関係になっています。
イエスも、罪人に入っていって救っていきました。
Could be the best book written in Japanese...
@@方外迷羊 I am glad to know that someone likes him.
@@方外迷羊 I believe that he had watched through the deep inside of the human mind.
@@方外迷羊 Life is complicated if you really want to live better. Believe in whatever you feel comfortable.
@@方外迷羊 I wish you a happy and content life.
@@方外迷羊 Don't worry ! You have a bright future.
大変分かりやすい解説ですね。
ただ、親鸞聖人のみ教えで一番重要な他力の信心と自力の信心を勘違いされていますね。
歎異抄の第1章で言われている「往生をばとぐるなりと信じて」の「信じて」は他力の信心です。あなたのおっしゃっているような自力の信心(煩悩具足の凡夫の意業)ではありません。この自力の信心は往生する(絶対の幸福)ためには何の役にも立たない空事と戯言であると親鸞聖人はおっしゃっています。
8分50秒あたりで言われている「あなたが他力の信心を心から信じるならば生きてる間に阿弥陀様のご慈悲によって絶対の幸福を与えられるよということです」は大きな間違いです。「あなたが他力の信心を心から信じるならば」これの主語は「あなた」でありますから完全に自力の信心です。我々を絶対の幸福にしてくれる他力の信心の主語は阿弥陀如来です。
お願いですから、親鸞聖人の教えで一番大切な他力の信心と自力の信心をよく理解してから解説を書いていただけると嬉しいです。これは異按心量産動画としか言いようがありません。17万人も見られている力作なのに残念です.
煩悩はコンコンと涌き出る😁
歎異抄の意味教えてください。
原始仏典によれば、このような「他力本願」の教えは84000の経の中で一切説かれていない。あるいは悪人がよいことになることはあり得ない、と説いている。
本心から身の悪を自覚して阿弥陀仏に祈る時に、その人は既に悪人ではないという深い逆説。
ものすごく誤解されやすいから蓮如上人が一般には禁書としました。蓮如さん何をするんだと最初は思ったけれど、世間の宗教観を知るほどに蓮如上人のおもんばかりは正しかったと思えます。そして明治になってやっと解禁した清沢満之さんにも深く感謝。
@@mmm2915
仏典(釈迦牟尼仏の経文)ほとんど読んでませんね。
>阿弥陀仏に祈る時
お釈迦さまは祈らない(阿含経9)「西方の人」
(仏典)
「阿含経典」増谷訳3巻、「西方の人」。
(相応部42、6「西地人」、中阿含17、伽弥尼経)
お釈迦さまが合理主義者だという証拠に、
「祈ってもムダ」と宣言しています。
アシバンダカブッダという村長が、
お釈迦さまのところにやってきて、
「バラモンはいろいろな祈りを捧げるのに、
なぜあなたは祈らないのか」と訊きます。
「村の長よ、たとえばここに人があって、大きな岩を深い湖に投じたとする。
そこに、大勢の人が集まってきて、<大きな岩よ、あがってこい、
浮かんでこい、陸にあがれ>といいながら、
その岩のために祈り、それを讃え、合掌して、そのまわりをめぐり歩いたと
するならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。
その大きな岩は、大勢の人々の祈願により、礼賛により、あるいは
合掌し周行したことによって、あがってくるであろうか。
浮かんでくるであろうか」
「大徳よ、そんなことはありません」
「村の長よ、それと同じく、ここに人があって、彼は命を取る者であり・・・
間違った考えをもった人間であったとするならば、
たとえ大勢の人々が集まって来て、
<この人が身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生まれますように>
といって、彼のために祈り、彼を礼賛し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、
その人は身壊れ、命終わりて後には、やはり六道にさまよい堕ち、
悪処・苦界・地獄に生まれるであろう」
祈りの否定、奇跡の否定。
だからタイなど南伝仏教のお寺には、
祈りの時間がないそうです(お経は祈りじゃなく修行)。
自分を救うには、祈ってもムダで、正しい努力をするしかない。
@@mmm2915
>悪を自覚して阿弥陀仏に祈る時に、その人は既に悪人ではない
「悪いことをした人」に、多くの信者衆やその人が「この(私こと)悪人が極楽に天界に赴けますように」と「いくら祈っても」上記石と油の譬えのようにその「悪人は地獄に落ちることはあっても極楽や天界に赴く道理がないのです」
あっ大乗仏教は大乗非仏説、すなわち釈迦牟尼仏が説いた教えでは無く根本仏典と内容が矛盾する「新興宗教」です。
@@匿名希望-h5h 悟ってから物言えw
損得の問題ではない、読みたい人が読めば良い、シバや、西田を持ち出さなくても良い。
人間は一つの哲学、宗教、ありがたげな言葉、だけで表し切れるものではない
言えることはみんな、今の自分の思いで生きてるし、それしかないと言う事だ
おっかない って言いましたね。北海道の方ですか?
釈尊もそれを正しく引き継がれた日蓮大聖人も法華経いがいは禁じています。親鸞の最後は信者にも見放されただ一人の弟子にも見放され苦しみながら亡くなっています。日蓮大聖人は11歳のころ知人や親せきの熱心な念仏を唱えたものが最後に不幸な臨終であることに不審を抱いて念仏寺に修行を入りましたがそこで見たものは絶望と恐怖でした。念仏は無間地獄だと仰せです。
>親鸞の最後は〜
その情報ソースは?
八正道の正語ぐらい知っているよね。
創価2世ですけど、他宗の批判ばかりで聞き飽きました。
日蓮の教えで貴方は幸福になりましたか?
無間地獄に落ちるから念仏は称えない
こういうのを自力心という。
考えの常識が転倒している事の解釈の難しさがある
常識なんかええ加減なところも有るし
親鸞会なの?
残念ですが多分そうだと思いますよ。
😊😊😊
縁無き衆生は渡し難し。
親鸞会さんですか?
絶対の幸福なんて言葉親鸞はいってません 新宗教親鸞会ですか?
はい、親鸞聖人は「絶対の幸福」という言い方は仰っていませんね。浄土真宗はそのような教えも伝承されていません。絶対の幸福に執着しているのは親鸞会だけですね。
蓮如がもっとも恐れた歎異抄
もっとも?論拠は何です?
@@tele1951
自分の教団を大きくするために。
@@釋愚禿圓憲 浄土真宗を広める目的のために、歎異抄を恐れた。。。
ごめんなさい、意味分からんのですが。
@@tele1951
浄土真宗広めるじゃなくて自分の教団広めるためにだよ。浄土真宗には蓮如と対立した高田派、佛光寺派等他にあるよ。
本願寺派も真宗大谷派も親鸞会も蓮如を美化しすぎ。まあ、この3つのもとは分裂前の蓮如の本願寺派の流れ。
@@釋愚禿圓憲 宗派の話では無いですし、美化何たらの話もしておりませんが。とりあえず貴方が蓮如を嫌いそうだな、という事は伝わります。何故?を聞いているのですが。
他力本願で悪人正機、大乗仏教…
半分間違ってます、要の信心とは私に一切の主語はない、南無阿弥陀仏が信心、聞が信心、私は空っぽ、それと、絶対の幸せ、と感じたのは自力、ただ、が他力
現代の量子力学でわかりかけている 世の中には絶対はない可能性が高くなっている。宗教は絶対に含まれる。仏(神)を根拠に理論(歎異抄)を述べているのは古典理論だね?その前提を除いて読めば 現代人に通じる道徳書と思う。
いるよねwww
浄土真宗の動画でいつもの
お決まりのワンパターンの
アンチコメントwww草
そうなんですか?
ゆいえんでなくゆいねんが正確な言い方ではないでしょうか?
これは皆様とても納得できかねることだと思いますが、阿弥陀様自体が架空の存在です。法華経にしても阿弥陀三部経にしても、中国で作られた偽経です。お釈迦様は、これ等を説いておりません。親鸞さんにしても日蓮さんにしても、中国伝来の仏典の多くを文献学もない時代に釈迦の自説と思ってしまうのは、無理もない事だと思います。
なんの書籍を読んでその知識を得られたのですか?
これだけですか?
おすすめしただけですか
仏教ではない新興宗教『歎異抄』、読んだら損です。
往生無用
どうしても浄土真宗の「阿弥陀仏」だけが、絶対の幸福を提供してくださるって、ところがう~んと疑問に思う。なぜ、阿弥陀仏のみが悪人も善人も救えるのかがよくわからない。それはあまりにも無慈悲だと思います涙。ほかの神仏も同様に救ってくださることがあるのに、なぜ、阿弥陀仏だけ?自力とか他力とか善人とか悪人とか人種など、吹っ飛ばして救うのが神仏なんではないでしょうか?なので、中年ですが、そこまで歎異抄が読まれているのは、よくわかりません。結局は、自分が信じる神仏に帰依することが肝要で、特に阿弥陀仏にこだわっているところに何か一神教のにおいがするので、嫌悪感を感じます涙 つまりは、一神教は、だいたい宗教戦争を起こし、浄土真宗も本当に仏道?と思います。
阿弥陀様は凡夫の私を必ず救ってくれるのだと信じる事が大事・・・
と言われてもねえ、そんな都合のいいこと考えてていいのかねえ
救ってくれるとは、具体的にどういう事なんでしょうねえ、
何をしても救ってくれるんでしょうか?
どんな病気にかかっても、治してくれるのでしょうか、
以前
3万円入った財布を、置き忘れて、しばらくして気が付いて
仏さまに念じながら、そこへ取りに行ったけど
もうありませんでした、おかげで給料日まで、おかずを減らして苦しい日々でした、
そしてまた、
永い事付き合った彼女に、貢いだあげくに振られました・・・
この世に、神も仏もないものかと思いましたが・・・
そういうのはダメなんですかね、。。どう救ってくれるんでしょうか、
はっきりして欲しい、
やっぱり、どこかの坊さんの檀家になって会費を払わないとダメなんでしょうかね、
法華折伏破権門理。正直舎方便。知らないのですか?
煩悩が人を悩ますという考え方自体が間違っている。人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?往生するぞとありますが、本当に死後の世界はあるのでしょうか?死後の世界で楽をしようというのもここで言われている煩悩なのではないでしょうか?もっと哲学的に考察していただきたいものです。
@49 lspmlj 分別しないのであれば、煩悩などという概念はなくてもよいのではないでしょうか?煩悩とは、一体何なんでしょうか?
>煩悩が人を悩ますという考え方自体が間違っている。人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私見ですが、
>人を悩ますという考え方自体が間違っている・・
と・・悩ますと言う事じゃない・・と否定しておきながら
>人というのは別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?
と、悩み、苦しみの存在を肯定してる
ちょっと、失礼かもしれませんが、何を言いたいのかがよくわかりにくいですが
その問題は別にして、整理してみますと
>別に悩み、苦しんでもいいのではないでしょうか?
そうですね、
いいかもしれませんね、
煩悩からくる悩み・・・・生きてる限りそこから離れられないと言う事ですが
法華経の教えに、変毒為薬、と言う言葉が有ります、毒変じて薬と為す
と言う意味です、同義語で、災い転じて福と為す・・があります
煩悩、・・例えば女性に恋焦がれて片思い・・・なかなか言い出せない
もし断られたらと思うと、ハラハラ、
女性の顔がちらついて夜も眠れない・飯も喉を通らない・・
いわゆる、恋の病
ある意味これも一種の悩み苦しみですね
昔の歌で恋の辛さに「もう恋なんかしたくない」と言うのもあるくらいです
でも
それが生きる活力にもなっているんですね、
煩悩のままに行動し、痛い目に遭い、苦しむ、そしてそこから
反省し二度と繰り返さない、と言う学びの源泉にもなります
即ち、煩悩は人が成長するために必要な事でもあります
煩悩にまみれて、泣き笑いの人生を味わう、・・・そう前向きに捉えられればと思います
説明 声がなっちゃいない