Oliver Hazard Perry, brother of Matthew Perry is much more famous in the U.S., therefore, Matthew wanted to do something standing out. I saw the statue of Matthew Perry in Shiba Koen park but it looked like Oliver for me….as it’s from Rhode Island, I was thinking that the sculptor might curve Oliver. In Yokosuka, locals explained if all buttons on the Naval uniform the picture of Matthew Perry can be seen, it was photoshopped. In The real photo, the one button was lost. Thank you very much for the video! I’m looking forward to watch the next one!
🙇お詫びと訂正🙇 16:54 テロップに「防風」とあるのは「防腐」の誤りです。ulojjyu様、ご指摘ありがとうございました。
マンスプ気持ち悪い
アメリカの戦略のブレなさは流石というか恐ろしさまでありますね。他にも本当に目から鱗が落ちまくった回でした。
もちろん捕鯨基地を獲得する狙いもありました。当時の鯨の世界的漁場は小笠原です。島に日本人は住んでませんが欧米人が定住し捕鯨船に物資を売る商売などをしていました。
ペリーはアメリカ人入植者のセーボレーを自治政府の長官に任命して小笠原をアメリカ軍政下に置きます。こうした動きを知らなかった(島の存在すら忘れられていた)幕府は後年この事実を知って慌てて開拓団を送って小笠原の領有を主張。
明治になって正式に日本領として認められ、先に入植していた欧米人は「欧米系先住民」として日本に帰化していきます。セーボレー家は瀬堀家として今も小笠原にお住まいです。
セボリーさん達がくる約百年前に幕府が大調査団派遣して2ヶ月滞在して各地を調査して
『ここ日本の領土です』てデカい立て看板たてたあとに、
それからはコンスタントに日本人が所有権主張したり、渡航準備してたけど、幕府に渡航禁止にされたり、重罪に問われてる人もそこそこいます。なので忘れられたと言うより、日本国内で揉めてる間にトンビに油揚さらわれた感じ?
またセボリーさん達が来る約50年前にも幕府が役人に再調査命じて、調査船出発したけど途中で遭難してたり、セボリーさん達来てすぐの頃も日本人が渡航計画企んで捕まってたりしたから、忘れてた訳では無く、日本で小笠原諸島についてあーだこーだ言ってたり揉めてる間に横から勝手に外国人が移住してやべぇってなった感じ?? ですかね?
百田尚樹著の日本国紀にも捕鯨船の補給地の目的と書いてありました。話が繋がって面白いです!
教科書で見たシリーズ、大好きです。
この時代の話、大好きです。日本、よく踏ん張ったな、とも思います。
色々な切り口でのお話を、期待しています。
教科書で見たシリーズ、黒船来航の絵、とても興味深いです。波瀾万丈の人生も知る事が出来て、当時の時代背景を思い浮かべながら、拝見しました。毎週、楽しみにしています♪
次回続き楽しみにしています💓ウリタニさんもワダさんぽくなってきて笑ってしまいます😂🎉
非常に面白く聞いていられて飽きない。むしろ短い。こういう歴史の勉強をしたかったです。
教科書で読んだ、幕末の開国に至る過程が楽しく理解出来ました。日本史の資料集で見た絵がドイツ人ハイネの作品だったとは。次回も楽しみにしています。
ワーグナーは王様がパトロンで、ワーグナー専用の劇場まで作ってもらったという印象が強かったので、若い頃は革命側に肩入れしていたってのは意外でした。
私もなんとなくルートはウリタニさん同様のイメージでいましたが、まさかそんなに遠回りして来ていたとは…!
ペリー提督(とその他の皆さん)お疲れさまです😧
「どう見てるお前?」w 久々に五郎さんのツッコミ炸裂でw
マンハッタンの鳥瞰図、秀逸ですね!!♡。
この人の天職ですね。
今回は、ハイネの登場以前の周りの状況解説が飛び抜けて面白かったです。あのワーグナーが若き日に、民衆を立ち上がれ!と革命運動に参加していたとは、後のバイエルン王ルートビッヒ2世との蜜月からは正反対な思想行動で、ビビりました!
黒船来航の話題もまるで歴史番組のようで、日本へのルートが東海岸から出港し喜望峰を周りマラッカ海峡を経て、マカオ広州香港という長航路だったことは、初めて知りました。ハイネが描いた各地の風景が、当時は唯一各地を見られるスケッチであり、現在の写真の役割を果たしていたんでしょう。南蛮船の時代から船体が黒いのは、防虫防風防水のためのピッチという塗料のためだというのも初耳でした。ペリー来航が2回あり、常に将軍との対面を引き延ばすため病気を理由にしていたら、本当に将軍が亡くなってしまった、業を煮やしたペリー側が威嚇のため江戸湾内の測量を始めた、2回目の来航は予定よりかなり早かった等は、最近の時代劇(”大奥”でもえがかれていたかな?!うろ覚えです)ではよく描かれているので知っていました。来週の本編ハイネも楽しみです。
>日本へのルートが……という長航路だったこと
20世紀初頭の、ロマノフ王朝ロシアとの日露戦争で、東郷平八郎率いる日本艦隊がバルチック艦隊を日本海海戦で撃破したのは、われわれ日本人がとても好む勝ちいくさ譚です。
あのバルチック艦隊が日本海へ到達したルートもやはり、バルト海-アフリカ西岸ー喜望峰ーインド-インドネシアー日本海という長航路だったんです。
合衆国の西海岸には大きな船舶が停泊できる港が当時未だ無かった(五郎さんの説明どおり)のと似た理由で、バルト海に面したロシア軍港から東向きに太平洋まで出るルートが、(不凍港がないせいで)日露戦争当時まだ開発されてなかったのがその理由です。
日本史だけを眺めているとなんとなく誤解/誤認識しやすい史実ですよね。
楽しかったです!そしてコメント欄も勉強になるチャンネルだなぁ😂
私も捕鯨船の補給基地が欲しかったから開国を迫ったと習った上にテストでも出ました。
ペリー来航の目的は捕鯨活動のためだと思っておりました。
清は欧州が複数。日本に米国が来たと思っておりました。
測量の件は今も昔も変わらないなと。勉強になりました。
音楽家「私にも左だった時期がありますたorz
毎回楽しくかつ興味深く勉強させていただいております。
ありがとうございます。
歴史的背景はもとより、その背後にある事情まで
示唆する素晴らしい講義。
美術選択だけではなく書道・音楽選択の連中にも
視聴必須とすべき動画と思いました。
この絵がある横浜開港資料館の「たまくすの木」は上陸の図右手にある木と言われてます。
たまくすの木はペリー上陸の風景を見てきたのかと思うと感慨深いです。
今日はほとんど歴史の話ですが、ものすごくためになりました
続きが気になります
江戸時代からマスコミ対策してる。参考になります。今のニュースもマスコミ対策しているとして、ニュースを見る週間をしていきたい。
面白かったです。自分は日本史好きだと思っていましたが、ペリーが太平洋では無く喜望峰周りでやってきていたとは知りませんでした。
1年後の再訪をと言って太平洋を往復するのは大変だなあと思っていたぐらいです。
確かに日本が米国の第一目標ではなく中国が第一だったというのもうなずけます。
日本と結んだ条約は不平等条約トは言われますが力の関係を考えれば仕方がないものでもあり
また米国と最初に条約を結んだ事で西欧諸国がそれにならわざるを得なかったことで、西欧諸国ならもっと不平等な条約を結ばされていたと聞きました。うろ覚えですが、奴隷制度だったような。
それと沖縄と小笠原侵攻がこの時代からあったと言う話をされていましたが、そういう戦略的思考は受け継がれるモノであり、例えば現代中国共産党の対アメリカ戦略、防衛思想の一つ
経済協力を謳った一帯一路というスローガンで語られますが、これの防衛戦略には旧日本帝国の対米国防衛戦略である大東亜共栄圏構想の焼き直しだとも指摘されています。
日本史と世界史の関係については、日本の歴史学者磯田道史先生の話がとても面白いです。
ウリタニさんの着眼点に最初に驚きました。自分は日本史の幕末明治時代が一番好きで、色んな本とか読んで、確か何かの本に、ペリーが日本に
来た真の目的は対中国と書いてあった事を思い出しました。でも、画家ハイネとワーグナーの関わり(ワーグナーの曲好きなんです)や、幕末の
日本史やら、日本史苦手な五郎さんの話がほんとに詳しくて、話もわかりやすくて面白かったです。続きが楽しみです。
実はお久しぶりです。ウリタニさん元気なようでよかった😄
五郎さんも暑さにめげずお元気そうで何よりです👍🆗🤗
教科書に載っていた黒船の歴史画は幾つになっても脳裏に刻まれています。やはり興味ある事の記憶ってすごい。
五郎さんが外輪船について説明されてる時には子どもの頃読んだマーク・トウェイン「トムソーヤの冒険」の挿絵が鮮やかによみがえりましたよ。ミシシッピ川を航行する船の姿が。
勉強不足過ぎてハイネどころかこの絵も見た覚えがなくて😅開国の理由くらい解ってないとダメですね💦
でも、ワーグナーが時々こちらのチャンネルにも出てくるし、何故アメリカから日本へ(何故かすんごい渡航をして😳)いらしたのか等よーくわかりました💡黒船のくだりとかも💕
あと、何気に琉球の絵とかも貴重ですよね〜(🐯年六十歳プププ)
次回も楽しみにしております😊
御年数えで60歳。なるほどね。
オトナの教養って、すごいなあ。教科書・資料集読み漁るのが趣味だった学生時代だったけど、喜望峰回ってきてたとか(ハワイ・小笠原経由だと思ってた。小笠原はニアミスかな?)知りませんでした。ニホンジン名物、持ち帰らせて検討させて頂きます・引き延ばしが当時からあったとか(でも、元寇の時はしてないてことは、江戸人が発明したのかな)は書いてたけど、誰があの絵を描いたのかなんて、思いもしなかった。(何だったら、写真だと思っていた)。
勉強になります。続きが楽しみです。
小笠原にもよっています。他の方もその事にコメントしています。
吾郎さんの語り口、面白い。そしてテロップもジワッと面白い…
次回お話に出るでしょうがその不意打ちの2回目までの半年で作ったのがお台場なんですよね
明治期に来日したエドワード・モースも最初は天然の岩礁だと思ったら人工物だと知って、その仕事の早さと正確さに驚いた旨を日記に残しています
面白い。なんか日本史がからむと楽しさが増すなぁ。次回もすごく楽しみ。
あぁ、、面白過ぎる次回が楽しみ過ぎる。
今回の動画でペリー来航の理由を知って、太平洋戦争後、石原莞爾が戦犯としての尋問に対し、幕末期に遡って論を張ろうとしていたという逸話に合点がいきました。
五郎さんの話では名前が出なかったペリーと最初に交渉をした与力:中島三郎助は幕末に詳しい方なら有名です。オランダ語の通詞:堀達之助とともに黒船に近寄り交渉を行った際、与力では相手にされないため副奉行を名乗ったのは有名です。ペリーとの交渉の後に幕府に蒸気船を含む艦隊の設置を幕府に進言し、長崎海軍伝習所の一期生になって、後に幕府の洋式軍艦製造で活躍します。戊辰戦争では幕府側として海軍副総裁・榎本武揚らと行動をともにし、開陽丸の機関長をしています。五稜郭降伏2日前に長男の恒太郎と次男の英次郎及び浦賀組同心の柴田伸助と共に戦死、その付近は中島町となっています。
やっぱ日本史に関係あるものだと、より身近に感じられて面白いですね!
日本の画家ももっとやってほしいです!棟方志功とか!!
良い勉強になりました!
16:54 の「防風」は「防腐」とは違いますか?
因みに米艦隊が来航することはオランダ経由で幕府首脳は知ってたらしいですよ
ただオランダから入手した情報で言われていた時期よりかなり遅かったので、「なんだ来ないんじゃーん」と安心してた所に現れたという事ではあったらしいです
長崎に出島を残したのは情報ルートとしての意味合いがあった、と言う話を聞いたことがあります。
@@太田光児誰が考えても分かります。そのつもりでいたのは地理的な配置を見てもその通りだったのでしょうね。
米国内の南北戦争の影響でアジア進出が予定より遅れたのでは?
@@einheldenleben
南北戦争は黒船より後ですね
しばらく視聴していなかったけど、今回中々面白かったわw
一枚の絵にも、ドラマチックな人生がかくれていますね。
ウリタニさん、どうみたら外輪がうしろに見えたんだろうw
ワーグナーの「ワルキューレの騎行」は実体験からの 曲なんですねっ!
フランシスFコッポラ監督も それを知っていて あのシーンに使ったのかな?
勉強になります。
相変わらず五郎さんの博識はすごいな。ペリー来航前後の事情をこんなに詳しく知ったことはない。まさかバクーニンまで出てくるとは思わなかった。ひょっとしてハイネ氏もあの有名な詩人と関係あるんでないの?w
日米修好通商条約を調べるとホント今と同じアメリカと日本の関係なんだなと思わされますね、つまり中韓ほか諸外国と組むくらいならウチの首輪付けといたほうが
得だし譲歩しますよという関係。一般に不平等と言われるこの条約のおかげで日本はアヘンから守られ短期間で近代化に成功したわけで、まぁここら辺は次回やるかもしれないです楽しみにしております。
幕末ファンの私は鼻息荒くなりながら見ました笑笑
日本人も外国人も優秀で波乱万丈。キャラが濃い…!
『ペリー来航』の絵、日本の陸側からのアングルで描かれているのが面白い!黒船と日本人が同時に見れるから、何の絵なのか分かりやすいです。
Oliver Hazard Perry, brother of Matthew Perry is much more famous in the U.S., therefore, Matthew wanted to do something standing out.
I saw the statue of Matthew Perry in Shiba Koen park but it looked like Oliver for me….as it’s from Rhode Island, I was thinking that the sculptor might curve Oliver.
In Yokosuka, locals explained if all buttons on the Naval uniform the picture of Matthew Perry can be seen, it was photoshopped. In The real photo, the one button was lost.
Thank you very much for the video! I’m looking forward to watch the next one!
すでに写真のある時代なんですけど、
カラーでわかりやすい、
記録としての絵画はまだまだ
需要があったのですね。
キヨッソーネよりも前ですから、
当たり前といえばそうなんですけどね。
でも、動画まであと50年切っているんですよね。
カラー写真に至っては、
もう10年すればでてくるし。
既に写真があると言っても
あの構図であの瞬間を切り取れる性能のカメラとレンズは当時は未だ無かったでしょう。
当時のカメラでは露光には時間がかかりすぎるるし
例え閃光を焚いたとしても撮影範囲が広過ぎて効果は殆どありません。
少し後の江戸末期の写真を見ても露光時間が長すぎて
建物は写っていても人物は動くので全く写ってないという写真がありますからね。
@@jiroizumi3870 おっしゃる通りですね!
生活の一部として最初に写ったのは
靴磨き職人とその客ですし、
人物写すときはあの面倒臭い支えがいるし。
ただ、幕末を動画で見たかったですよ。
ワーグナーが出たと言うことは、ルードウィッヒ狂王の若き日と晩年の絵も出ますね❤️楽しみにしております❤
面白かったです。愛を語らない方のハイネなんですね~
ハイネ違い✨
視点の明確化。
山田先生のお話し分かりやすい!
最近、山田五郎さんの「オトナの教養講座」を見始めました。造詣の深さに驚き、チャンネル登録しました(^O^)
条約調印の時日本側は英語が出来ないのでオランダ語通訳を介して話をするが訳し間違いが多くて警護の真田藩の佐久間象山が怒っていたのをペリーが見て只者ではない奴がいると日記に書き記していたそうです、
ちなみに帰る時食料として米や鶏を船まで担いで運んだのは江戸相撲の力士で肥った気持ち悪い連中だと見下していたのに米俵を四つ五つ一度に担いでビックリしたそうです、その後力自慢の船員と相撲をとって四、五人相手に大関ひとりで投げ伏したり足蹴にして強さを誇示したそうです、
当時の庄屋さんの日記に書かれていました。
幕末、特に佐久間象山に関して、松代、地元で話を聞き、信大の教授からも論文を頂いて調べてましたが、松代藩が海防掛となったため、警備に当たってたので、交渉の場に行くほどではなかったと思われます。
ペリー提督が、象山の前を通り過ぎる時、象山に会釈をしたと本人が、正妻であったお順さんに手紙を書いてるという史実は御座います。彼は、身長が175センチ(あくまでも伝)あり、目がギョロッとしていて、地元でのあだ名がテデッポウ(フクロウ)だったので、ちょっと強面だったからかも知れません。
象山が怒っていたのは、植民地化されないためにも、大砲を沢山鋳造して、台場を作り、こちらも攻撃できるぞ!と言う事を見せた方が良いと提案したにも関わらず、相手を刺激するとの理由から却下された事が1番大きかったかと思います。ただし、横浜の地中から見つかって、象山が頭に来て埋めたと言う伝説は、大砲の年代が合わず、違うと見られていると聞きました。
米俵一俵は当時一人で持ち運ぶことが当たり前でした。当然女性でも❗
@@gonippon 佐久間象山など、幕末の英傑・俊英の話としてしばしば登場し、恐らく誇張か嘘であろうトピックスの数々に、それを聞く/読むわれわれを辟易させる処の代表的な人物です。
そんな人物に対して、正確な情報を有難うございます。
これで佐久間象山にも少しは興味が抱けるようになります。
すごい、日本歴史の勉強になりました。
ペリー艦隊が日本に来る情報はオランダ商館を通じて逐次報告を受けていたようですね。艦隊の規模やスケジュールなどかなり細かいところまで江戸幕府は把握していたそうですが江戸の一般の民衆には極秘にしていたのでパニックになったようですね。
り
興味深く視聴しました。
交易を迫ったアメリカ側は捕鯨船の水や食料の調達も理由にしていたため、それならば領事館は伊豆の下田がよかろうということになったと記憶しています。
ペリー艦隊はわたしたちが小中学校で習ったよりも友好的ではありませんでしたね。
タウンゼント・ハリスも日本では清廉潔白な人というイメージですが、実際はそこまで清廉でもなかったですしね。
日本と海外での金と銀の交換比率の差を利用して、日本の金貨(小判)を転売して金儲けに走った転売ヤーです。
この時露からも圧がかかっていた状態で米と不平等でも手を結ぶと露からの圧も減るという…一枚の絵から知れる頭脳戦、すごいな汗
お台場は大砲台があったが挑発に乗らなかったので大砲は使われなかったみたいですね
調べると分かるものなんですね!
五郎さんの資料、蔵書ってどのくらいなるのか?実に興味深いです。
すでに書かれているように、幕府は高級料亭に本膳料理を作らせてペリー一行を接待したのですが、ペリーたちはあんまり気に入らなかったそうです。
事実、テレビで当時の料理を再現してスタジオで芸能人の方々が食べてみていましたが、調味料が発達しておらず、味が薄くて物足らなく感じていました。
一方のペリーたちが持って来た、砂糖をふんだんに含んだビスケットや、接待料理として出された鯛のグリル(江戸湾で釣ったもの)は、それこそ、ほっぺたが落ちるほど美味しく感じたのだとか。
ちなみに、余った接待料理の一部を幕府方の役人たちが包んで持ち帰る様子を見て、文化の違いにペリーたちは驚いたといいます。
ポーハタン号といえば、日米修好通商条約(1858年)の調印がそこで行われたり、その条約の批准書を交換するための使節団が1860年にアメリカに派遣されたときに、正使の新見正興らが乗っていった船としてよく知られていると思いますが(このときに勝海舟も咸臨丸でアメリカに行ってますよね!)、ペリー再訪のときにもポーハタン号来ていたのですね…!それは大変恥ずかしながら認識していませんでした…😅
ペリー艦隊の中でも一番新しい艦です
変化の激しかったこの時代、一人の人を追って見るのは本当に面白いですね。
ハイネの見た世界、もっと知りたい、見てみたい!
このハイネ氏、日本側が用意した祝宴の料理について「非常に上品な風味の料理が出た」という感じの内容を
記録に残しているそうです。
その一方で、ペリー含めアメリカ人勢の感想はおおむね「品数が多いだけで量が少なく、貧相で味が薄すぎる」という雰囲気。
なお、当時の日本側の記録では米国人が「甘たるく重い味の物を好み、淡泊な物を嫌う。刺身には手をつけない」とのこと。
文化の違いというか、うん・・・
そらまぁアメリカ🇺🇸は基本肉食🍖でバーベキューの国だからなぁ…😂さすがに現代では彼の地も長年の洗脳()で「和食はヘルシーでいいもんだ🍣」みたいな風になっているけど、基本的に今でもコーラ🥤とハンバーガー🍔と肉🍖大好きなのは変わらんからな。最近は物価が上がってそうでもないらしいですが、もともと食べる量も日本とアメリカでは全然違うと言うのもありますし😂
基本欧米の人は魚は食べないから、最近和食ブームで寿司とか食うようにはなったけど😅
ハイネはさすがにドイツ人でフランスにも留学していて教養があるのか肉とか甘いもんみたいな濃い味だけじゃなくてなかなかグルメ的な感想が出ますな😅
@@snd00261jp
中国で待機中はどんな料理を食べていたか分かりませんが
沖縄でなら豚肉料理をいっぱい食べれたのかな?
甘い料理が好きって事は、糖質を欲していたのかも。
ナマモノ(刺身)を食べないのは船乗りとしてお腹を壊さない常識だったとしても
ナマモノを食べても大丈夫って調理技術は世界一かも。
刺身は分かるけど、生卵は江戸時代でも食べてないのかな…
ヴィルヘルム・ハイネ氏日本料理の美味しさを味わえるって乙ですね✨通ですw
@@snd00261jp 現代のアメリカ人はとっても小食ですよ!
体が超でっかいのに、モーニングもランチもディナーも驚く程少食です。
ただし、毎朝40個ほどドーナツ買ってきて午前中ずっとモグモグしてますw
亜米利加側は、?せめてフライドチキンやチリコンカンはにゃーのきゃあ??と…いう
やっぱり学校で習ったのはおかしかったのね。中国、東南アジアが西洋にやられて植民地化してる最中、残すは日本と半島しか残ってない状況ですもんね。上からはロシアが南下してきてるし対馬をロシアに占領されてるし。絵画と共に歴史の違う視点も教えてくれて本当にこのチャンネルは大好き♥
>中国、東南アジアが西洋にやられて植民地化してる最中、残すは日本と
五郎さんの話を大きく誤解してますね。
中国はこの時点ではアヘン戦争という局地戦で英国に敗れただけで、清王朝は依然として安泰。事実、日本はこの40年後、日清戦争(1894年)へと突き進む。
この依然として安泰で広大な中国の、資源や金や人やを西洋列強は狙っているのであって、日本はその補給地として興味があっただけです。最終的なターゲットでも何でもない。「残すは日本と半島」などは自意識過剰(笑)
「東南アジアが西洋にやられて」というが、英蘭の東インド会社(1600年~)は香辛料などの交易会社であり、この時点では英蘭やの領土領有地などではないです。インドネシアなどのオランダ占有が始まるのは20世紀に入ってから。
翌年横浜に来航した時は、料亭「百川」が本膳料理を500人分も作ったとか。ところがあんまり気に入らなかったらしい。刺身とかあるし。逆にペリーにポーハタン号の晩餐会に招待された時にはスパークリングワインをガンガン飲んで日本人はべろんべろんに酔っぱらっていたとか☺
ペリーさん、牛蒡料理出て「木の根っ子!日本食メシマズ~❗」と、言ったか言わないとか。
着物の懐や袖に料理を入れて持ち帰ろうとする侍が多くて辟易したという話もありますね
@@まうなけあ-e2p 様 料亭百川はカステラも出したらしいですね。ペリーの晩餐会ではケーキが出たらしい。
応接掛の松崎満太郎はペリーに抱きついた挙句キスまでしたみたいですよ☺
かつての日本人は、一番のご馳走にはその場で手を付けず、持ち帰る風習がありましたね。
結婚式の尾頭付き鯛の塩焼きは、食べずに持ち帰る物と聞きました。
東洋の日本と西洋では風習が違いますね。
@@nuruosan4398 様 残った料理は紙に包んでみんな持って帰ったみたいですね。それと料理が口に合わなかったと思われたら気の毒と思った人がいたらしく、手で「お腹がいっぱい」っていうジェスチャーをやっていたとか☺
いつかカミーユ・コローの解説もお願いいたします!
ペリー艦隊の航路と目的はまさに目から鱗で勉強になりました。黒船が南蛮船の事だったのはこの前見たSHOGUNで知ったし、聖徳太子も坂本龍馬もインチキみたいだし、俺らの習った日本史はかなりテキトーだったんだな・・・
歴史的な事実と思われたことが、ある学者が唱えた説が取り上げられただけ、という事はあるそうですね。今主流になっている学説も30年位前に出てきたもので、その先生に教わった弟子が増えると主力になること…という流れはあるようです。教科書に掲載されている説は戦前の学者の説なので、昨今の新説と変わってしまっているのはまぁ当然かと…。歴史の教科書は30年たてばガラッと変わるでしょう。1950年代と80年代の差を思えば2010年の教科書も変わりますよね…
200年以上の間日本と貿易を続けていたオランダを通じて欧州に渡っていた様々な日本の情報(日本の社会システム、風土、産業、軍事あらゆる分野)が彼の地では書籍としてまとめられているなど幕末の段階で西洋側も日本の実情をかなり正確に把握していました。
ペリーも当然それら書物に目を通して日本の情報を頭に入れた上で来日していたのでしょうね。
五郎さんの歴史の話が大好き💕❤です。めっちゃ面白いです!
ほんと教科書でみたわー
沖縄県の西表島の船浮港にも、那覇に到着前のペリー一行が寄港したみたいですね。
このチャンネルでバクーニンさんが出てくるとは。😮
日本にも来てますよね。
ヴィルヘルム・ハイネ、懐かしい…。
日本の諸藩の御用絵師も、軸物や襖、屏風絵だけでなく、地図の仕上げ彩色や「記録絵師」として働いていました。
ハイネと同時代に流行した横浜絵、特に五雲亭貞秀も面白いですが、
徳川幕府のために、ナポレオン3世が日本に派遣した陸軍軍事顧問団のメンバーの1人、ブリュネも取り上げていたたければと思います。
ブリュネは有名な青い瞳のサムライと謂われる人物の一人ですね!
戊辰戦争では国籍離脱して佐幕派に協力したのは有名ですね。
ペリー来航時に日本の占領も視野に入れていた様な話をしていますが、実際には当時の状況を考えれば無理でペリーたちも考えていないと思います。
当時のアメリカの人口は当時の日本の人口の半分を超えた程度でしか無く、そんなに国力のある国ではありませんでした。米墨戦争を終えてカルフォニアなどの西海岸地域を獲得したばかりで海軍力も弱くペリーの率いていた東インド艦隊は艦隊(フリート)でなく戦隊(スコーンドロン)でしかなく、ペリーの階級も一時的に最上級指揮官にする代将(今で言う准将)です。しかも当初ペリーが交渉責任者ではなくジョン・オーリックの予定でしたが広東で更迭ないし辞退による(史料が錯綜してるので)代役として派遣されています(だからミシシッピー号からサスケハナへ上海で旗艦を変えたのはこのためです)交渉者としてはあまり地位の高い人物とは言えませんでした(初代東インド艦隊司令官は地位が低いので日本との交渉をやめてしまった位です、尤も幕府も交渉の場には与力や旗本など低い地位の人物しか応じていません)。ただペリー以前のアメリカから交渉は平和的交渉遵守であり、公使アレクサンダー・エバレットによる東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルの交渉はそのように行われ幕府から交渉の拒絶を受けています。ペリーの砲艦外交はジェームス・グリムの建議の影響を受けた物だと思われます。ただし、ペリー派遣中に後任の大統領のフランクリン・ピアースは日本との交渉を平和的交渉を求めていたのですが、派遣中のペリーに届かなかったようです。
実際に戦闘になったとしても薩英戦争の様になってしまう結果の可能性が高いと思います(薩英戦争はよく教科書では市街地が十分の一が焼かれるなど多大の被害を出し薩摩側の敗北と言われましたが、人的被害は薩摩側の死者5人負傷者14人にたいし英国艦隊は死者20人負傷者43人を出し直接戦闘では英国の被害が多い状況になっています)
ウリタニさん大丈夫!俺も最初外輪が後ろに付いてるように見えてました!😆
たぶん真ん中の煙突と外輪のとこがそれだけで1隻に見えて、右、真ん中、左の3隻あるように見えたんだと思います!
レキシの曲ペリーダンシングの歌詞にある、「たった四はいで眠れぬトゥナイト」ってこういう意味だったんだ!
歴史の教科書ってけっこうテキトー
子供の頃に黒船は木造船で黒い理由を話したら嘘扱いされたよ。
歴史の教科書がってより、先生の知識が足りてない。
歴史の勉強になりました。私はこのチャンネル「山田五郎アート解説チャンネル」だとずっと勘違いしていて、今回、改めてチャンネルタイトルを見たところ「山田五郎オトナの教養講座」。「なるほど!」と再認識いたしました。
ワーグナーといえばドイツのロマンティック街道を旅行した時に中二病感満載のリンダーホフ城(まさに「推しろ」)が強烈に印象的だったんですが五郎さんはお城やその装飾にも詳しいんでしょうか?いつか解説をお願いしたいです!
うちの祖母がむかーしペリーは上喜撰四杯で夜も寝られずを二杯でも寝れなくなるって話をしていたのを思い出しました。あの人本読むの大好きだったのでどこかで知っていたのかも、と思いました。
鬼籍に入ってしまいましたが、せやろ、やっぱりそうやんという声が聞こえて来そうです😂
19:08 外輪がホバーボートの後ろについてる
ホバーのように見えるから後ろに見えるってのわかるよウリタニさん!!w
五郎さんすぐ怒らずもっと寄り添ってあげてw
ペリー艦隊には多くの帆船が居ましたがその中にはサラトガ、レキシントンもあります。この名前はやがて戦艦に受け継がれ、その戦艦が退役すると次は空母に受け継がれ、その空母サラトガ、レキシントンが太平洋戦争で日本海軍と激戦を繰り広げます。そういう意味でも縁を感じる遠征軍です。
捕鯨の基地と思ってました。
色々本読んだりテレビで見たりしてるのでどこまで習ったかは覚えてないです。。。
今回も情報量が多くて、とても面白かったです。
特にドレスデンで、ハイネとワーグナーとバクーニンが交錯している下りは、視聴しながら背中がゾクゾクしました。
ワーグナーは、ドレスデン蜂起後、チューリッヒでの亡命生活中、豪商ヴェーゼンドンクの援助を受けますが、その妻マティルデと恋に落ち、彼女の詩を基にした「ヴェーゼンドンク歌曲集」を生み出すとともに、この不倫の恋がきっかけとなり、大作歌劇「トリスタンとイゾルデ」が生まれました。
歌劇「トリスタンとイゾルデ」は西洋音楽史上、古典的機能和声の崩壊の引き金を引いた作品として、特筆されます。
とても興味深いですね✨古典的機能和声の崩壊!?そんなことってあったかしら?意外とあるのかもね。その歌曲の調和は素晴らしいですけどね✨
@@ykohrt880 半音階を多用して、聴いていて、どんな性格・キャラクター付けされた音楽なのか、掴み所がわかりにくい音楽になってます。故に発表当初は、猛烈な反発を受けてます。まあ媚薬が絡んだ、行く先がわからない不倫の恋描いた劇の内容には合っているかもしれません。
@@ykohrt880 トニック、サブドミナント、ドミナント等で表される古典的な和声進行に則っていない為、発表当初は聴衆から反発を受けました。それまでの和声進行の感覚で行けば、歌劇「トリスタン~」冒頭の第1幕への前奏曲の3小節目から、和声的には、解決を求める不安定な状態が続いて、3時間55分かかる歌劇「トリスタン~」の演奏が終わる最後の2小節ぐらいで和声的解決に辿り着きます。
@@鈴木繁夫-j1e 演奏の難易度が高かったのかもしれませんね。
『トリスタンとイゾルデ』でワーグナーが実験的な試みをしていたことまでお詳しいですね。当時としては異世界だったのでしょう✨
@@鈴木繁夫-j1eそう言えば冒頭の不穏な雰囲気は、イゾルデの苦悩が強調されていて、和声的な進行とばかりは言えなかったかもしれないですね。
風雲児たち
面白いけど、未完で終わっちゃったなぁ
ペリー来航の辺りはワクワクした。
約40年かけて、全巻持ってました。坂本龍馬を描きたくて資料を調べたら関ヶ原からになったとか。政治・経済・外交・文化・人物・事件を漫画とギャグで解説。大黒屋光太夫と蘭学事始が感動した。連載誌が変わり、タイトルも替わり、単行本が何巻出たのか不明になった。単行本を透明BOXに入れて物置に置いたら台風で水を被り何冊か捨てた。買い換えようとしたら絶版と返答。病気休載からご逝去され、残念です。名作で手塚賞を受けてたはず。今でもBOOKOFFで横山三国志の周りを探してます。
もうホンッットにそう思います。> 風雲児たち
みなもと太郎氏の大傑作です/でした。急逝されちゃいましたねえ(涙)
ウリタニさんのWでベートーヴェンは日本人のべとヴェが混雑する頭ではよくあるやつ〜
お茶と掛けてるなんて知らなかった。ベリーに関しては教科書とネットの浅い情報だけだったから勉強になります。
歴史の授業で黒船のときに「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず 」と習いました。
競走馬でクロフネっていましたが黒くなくて芦毛でした。アメリカから来たからこの名前なのでしたね。
ウリタニさん、ミッキーが船の上で口笛ふいてるモノクロアニメ見たことないかな?
アメリカのやり方は今と同じですね…
日本史詳しくない人に超お勧めなのは、源太郎「風雲児たち」と「風雲児たち幕末編」。この漫画はほんと素晴らしい。史実を客観的にきちんと押さえ、歴史解釈も理にかなってる。みなもとたろうは京都人で、京都人らしいシニカルな捉え方も良い。「蘭学者の苦難」を描いたパートをみると、江戸幕府は滅ぶべくして滅ぶ定めだってのがよくわかる
ウリタニさんは五郎さんが自分の知らないことを話している時の相槌の打ち方が知的だと思う
かわら版のペリー提督が、書き直したのか手が3本ですね。ソフォニスバの回を思い出しました。
1853年クリミア戦争でイギリス、フランス、ロシアは余裕が無くその隙を狙ったんでしょうか。日本史ビリから6番に共感を覚えてしまいました笑
ハイネは相手国側の視点から描いてあるのが特徴的ですね…なにか理由があるのかな?
ウリタニさん、ワーグナーがわかるだけでもすごい!
でもウェーバーとボケてくれたら満点でした😆
黒船にパニックになったのは当時の政府(徳川)であって、庶民は物珍しさが先にあって黒船見物が流行ったのが実態です。見物客目当ての茶店も出来たそうです。*このあたりの誤解は無い様に補足もお願いします。
わたし、このエピソード好きです💕日本人の好奇心の強さ、恐るべし😁
広州の絵の文字が、今のAIが生成した絵の文字みたいで面白いですね。
追記しますが、浦賀での交渉も山田さんはサラリと「上のやつを呼べ」で流していますが、当時幕府の交渉役だった林復齋、岩瀬忠震はじめギリギリの江戸幕府の対応も私は評価したいと思います。
中国はイギリスによってアヘン漬けにされたけど、日本はアメリカと条約結んだ時にアヘン持ち込み禁止にしてもらったお陰で、イギリスにアヘン漬けにされずに済んだと聞いて背筋が凍った…。当時のイギリス怖すぎる。
このペリー来航の時点から更に60年くらい経って第一次世界大戦が始まりますけど、イギリスって国の外交はホントに嘘とペテンと3枚舌4枚舌とから成っている、と思い知らされます。
昨今話題のイスラエルは、その建国過程(第一次大戦後)がイギリスのせいで汚すぎて、アラビアのロレンス(実在したイギリス人です)が抱いた祖国への深い絶望が、もう痛いほどに判ります。
五郎さんどこでこんな調べれるんや!面白い
シーボルトや洋風画の話を期待してます。伊能忠敬の地図とか、話を拡げすぎになりますかね。
今、板橋区立美術館でやっている催し物と関連が強いと思います。ぜひ、一言をお願い致します。
ゴールドラッシュが始まったばかりでカリフォルニアがメキシコ領だった頃から大して変わってない時代に、
オランダ以上に極東の地政にそこまで精通してた人がアメリカの意思決定部にいたんですねぇ
来週まで待たなくてはならないのですね、、、
最高に興味深い回でした。ペリー来航以前に長崎の出島にはオランダ傭船としてアメリカ・ボストン付近から数回船が出ていました。ペリーはロードアイランド出身、ジョン万次郎はマサチューセッツ州ベッドフォードのホイットニー船長の家にいました。ホイットニー船長はフランクリン・ルーズベルト大統領の祖父と同じ協会に通っていた事もあり噂などは聞いていたと思います。また黒船には日本人の漂流民、鎖国で帰れなかった仙太郎、サム・パッチが乗船し、日本人を威嚇していたと読んだことがあります。鎖国で日本人として帰国すれば処刑されるのを恐れていたそうです。ハイネのニューヨークの地図、横浜の絵と1人の画家を通じて、生まれ故郷と現在住む場所が繋がり興奮が冷めません。次回が楽しみです。
ウリタニさんが外輪船を見て2隻に見えたから水車が後ろにあると見えたのではないでしょうか?
説明がないとわからない現代アート(感動もない)より 今回の神回と言っていい絵画と物語。次回に期待!!